新刊紹介:「歴史評論」7月号

★特集『平泉と北東北・北海道、東アジア世界』
・なお、詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。
奥州藤原氏時代の北奥への交通路(羽柴直人)
■東北の経塚と厚真町常滑壺(八重樫忠郎*1
■平泉政権下の北方交易システムと北海道在地社会の変容(鈴木琢也)
■清衡のグローバル・スタンダードと仏教的・商業的人脈(入間田宣夫*2
■未完の北方王国:「日本国」と平泉政権(斉藤利男*3
■世界史の中の平泉(妹尾達彦*4
(内容紹介)
 うまい要約ができなかったのでググって見つけた記事をいくつか参考に紹介しておきます。

http://www.iwanichi.co.jp/ichinoseki/12018.html
■岩手日日新聞『「平泉、掘り下げたい」 町職員八重樫さん』
 平泉町総務企画課長補佐の八重樫忠郎さん(54)が、東北大大学院文学研究科歴史科学専攻で博士(文学)の学位を取得した。社会人研究者を対象にその研究活動を支援するため在職のまま博士(文学)の学位を取得できる社会人特別選抜(社会人研究者コース)で博士課程に編入学し、3年間で学業を修めた。28日には青木幸保町長らに学位取得を報告し、さらなる研鑚(けんさん)と職務への邁進(まいしん)を誓った。学位論文は「中世平泉の生活文化に関する考古学的研究」。
 八重樫さんは駒澤大文学部歴史学科を卒業後、文化財の専門職として町に採用され、世界遺産中尊寺毛越寺などの発掘に携わるとともに、長年にわたって平泉の世界遺産登録の実務を担ってきた。
 まちづくりを担当する総務企画課の職務の傍ら、2013年4月に東北大大学院文学研究科歴史科学専攻の博士課程に編入学。博士課程後期3年間の課程でまとめた博士論文が審査で合格し、今月25日に同大の里見進総長から直接学位記が授与された。

http://www.tomamin.co.jp/2011t/t11030301.html
■苫小牧民報『常滑産のつぼが厚真町から出土、12世紀に交易か』
 常滑焼が平泉(岩手県)で大量に見つかっていることから、奥州藤原氏が北海道に交易ルートを持っていた可能性もある。平泉研究が専門の斉藤利男弘前大学教授(中世文献史)は「和人が12世紀の平泉時代に北海道で活動していたことは、文献研究から可能性は言われていたが、今まで物が出てこなかった。それが今回厚真町から出たということに驚いている。北海道の歴史のターニングポイントになり得る資料」と話している。

http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/touhokukou6/2-0018300.html
北海道新聞『平泉支えた北方交易』
 1個の壺(つぼ)が、北海道と東北の歴史を塗り替えるかもしれない。
 胆振管内厚真町。この夏、小高い丘や雑木林を熱心に探索する研究者がいた。岩手県平泉町職員の八重樫忠郎(ただお)さん(51)だ。昨年、平安時代奥州藤原氏が築いた「中尊寺金色堂」などが世界文化遺産に登録された同町で長年、発掘や研究に携わってきた。
 探し求めるのは平泉と北海道のつながりを示す遺跡。
「平泉の繁栄は東北の金だけではなく、北方との交易が支えていた。歴史を解き明かす鍵が、きっと厚真から出てくる」
 きっかけは数年前。研究者仲間から聞いた「厚真という町に変わった壺がある」という一言だった。壺は半世紀以上前の1959年、厚真の工事現場で出土した破片から復元された。各地で出土される須恵器と鑑定され、町の公共施設にひっそり展示されていた。
 その画像データを、ひと目見た八重樫さんは驚いた。平泉で多数出土する常滑(とこなめ)焼によく似ていたからだ。
 現在の愛知県常滑市を産地とする常滑焼の出土例は従来、青森県が北限。
 「北海道にあるわけない」。
 周りは懐疑的だったが、八重樫さんは2年前、厚真を訪れ、それが常滑焼と確信した。その後、常滑市の専門家も「可能性は極めて高い」と鑑定。12世紀半ばから後半の作品とされた。
 平安時代常滑焼の最大の消費地は平泉だった。壺は、当時の権力者たちが手にする高級品。八重樫さんは「厚真に常滑焼が渡ったのは平泉ルート以外考えられない」と話す。
 さらに、とりわけ関係者が注目するのは、その壺の使途だ。形状や出土場所から、仏教の経典を入れ土に埋める「経塚(きょうづか)」に使われた可能性があるという。東北史に詳しい弘前大の斉藤利男教授(62)は「本州から渡った仏教を信仰する和人が集団で厚真に居住し、アイヌ民族と交易していたのでは」と推測する。
 従来の説では和人が道内に集団移住し交易拠点を築いたのは14世紀以降が有力。壺は、その時期をさかのぼらせるだけでなく、「北海道や平泉の新たな地域像を浮かび上がらせる大きな手がかり」と斉藤教授は期待する。
 経塚の遺跡を確認するため、八重樫さんは東北大や複数の専門家と協力。来年にも厚真町内で発掘調査を計画している。
 道内の研究者も動きだした。アイヌ民族の交易に詳しい旭川市博物科学館主幹の瀬川拓郎さん*5(54)は「黄金国家だった平泉に、北海道の金が渡った可能性もある」という。函館高専の関係者と連携し、現在、道内と東北で採取された砂金の成分を分析中だ。平泉の遺構に残る金製品の調査も検討しており、11月に現地を訪れる。
 世界遺産登録で脚光を浴びる平泉。ただ、その地から津軽海峡を越えて、ダイナミックな交易が行われていた歴史は「まだ多くの人に知られていない」と、八重樫さんは言う。
 厚真町で遺跡発掘に携わる学芸員の乾(いぬい)哲也さん(39)は、自らも予想しなかった壺のルーツに、思いを新たにしている。
「平泉とのつながりを過去の歴史にとどめず、地域への誇りや愛着、そして新たな交流へと結びつけていきたい」
 津軽海峡が「しょっぱい川」と呼ばれるほど、古くから身近な関係だった北海道と東北。だが、その交流の歴史は近年、顧みられることが少なかった。日本中世史に詳しい入間田(いるまだ)宣夫・東北芸術工科大(山形市)教授によると、背景には中央目線が生み出してきた「壁」があるようだ。

■<入間田宣夫・東北芸術工科大教授>地域目線で歴史再考
 明治以降、東京中心の社会の中で、北海道と東北のつながりは見えづらくさせられてきました。行政的な区割りで、北海道と東北を、東京からそれぞれ見下ろす形でとらえるようになり、分断した地域像がつくりあげられてきたのです。
 津軽海峡が絶対的な壁になり、歴史学の分野でも北海道と東北を一体でとらえる見方は希薄でした。両地域とも後進地の代表のように言われ、互いに手を取り合うこともほとんどありませんでした。
 しかし、土器などの出土物から、北海道南部と東北北部は、縄文時代から共通の文化圏だったことが分かってきた。津軽海峡は壁ではなく、両地域をつなぐ回廊だったのです。
 国民国家の物語では、中央の政権による征服の後に東北や北海道が経済発展したかのように語られてきましたが、実は逆です。
 源頼朝奥州藤原氏を滅ぼしたのは、北方との交易などをもとに形成された強力な経済発展やパワーを、放っておくのがもったいなかったというのが真実です。現に平泉の街づくりや文化は、その後の鎌倉幕府などに大きな影響を与えています。
 日本だけでなく20世紀は世界中で、中央から見下ろす形の歴史学が一般的でした。しかし、国家や首都中心の視点では分からないことがあまりにも多く、各国で見直しが始まっています。
 例えばフランスならパリではなくブルターニュ地方に目線を置くとか、米国なら白人中心ではない視点で歴史を見つめ直す動きなどです。
 北海道と東北でも、歴史学者らが中心となり1986年に函館で開いたシンポジウムを皮切りに、両地域を一体でとらえ、北から日本史全体を見直す動きが始まりました。
 胆振管内厚真町で50年以上前に発掘された壺(つぼ)が、平泉を経由した常滑(とこなめ)焼だとみられることが分かったのも、京都や鎌倉、東京を中心とした従来の日本史を書き換える流れの中で見つかったといえます。
 日本とロシアの国境も人為的に引かれましたが、昔そこに住んでいたアイヌ民族は国境など無関係に自由に行き来していました。近代国家がつくった線引きにとらわれず、地方からの目線で歴史を再構成していけば、新たな地域像が見えてくるはずです。

http://1000ya.isis.ne.jp/1419.html
■書評:入間田宣夫編『平泉・衣川と京・福原』(2007年、高志書院)(松岡正剛
 衣河館に、やがて義経が寄寓することになったわけである。なんとなくやってきたわけではない。たんに逃げてきただけでもない。義経を招いた以上は、秀衡は義経を首班とする奥州政権を構想したはずだ。本書の編者でもある入間田宣夫は、そこには「奥州に幕府を樹立する」という構想があったのではないかと書いている。
 が、義経を招いたのち、秀衡はまもなく亡くなった。あとを継いだ4代泰衡は平泉館の当主となったけれど、頼朝からのプレッシャーに堪えられずに衣河館の義経を襲い、これをことごとく焼き払った。あとは「兵どもが夢の跡」となる。
(中略)
 新たな仮説を出したのが保立道久*6(東大史料編纂所教授)だった。本書では『義経・基成と衣川』という論考になっている。仮説の概要はいっとき話題になった『義経の登場』(NHKブックス)であらかた書かれているが、本稿ではそのあとの推理にまで及んでいた。
 保立は「平安時代は京都王朝を中心とした時代ではなくて、むしろ地方の時代だった」と捉えてきた研究者である。鎌倉幕府はその地方の勃興を確立に向かわせないための権力だったとも捉えている。
 その視点からみると、衣川遺跡群とは鎌倉幕府によって押し潰された地域だということになる。
 このことは逆に、それだけ京都と奥州平泉は隔絶してはいなかった、つながっていた、だからこそ平泉は地方権力として押し潰されるべき内実に富んでいた、ということにもなっていく。

*1:著書『北のつわものの都・平泉』(2015年、新泉社)

*2:著書『都市平泉の遺産』(2003年、山川出版社日本史リブレット)、『平泉藤原氏と南奥武士団の成立』(2007年、歴史春秋社)、『平泉の政治と仏教』(2013年、高志書院)、『藤原清衡:平泉に浄土を創った男の世界戦略』(2014年、ホーム社)、『藤原秀衡義経を大将軍として国務せしむべし』(2016年、ミネルヴァ日本評伝選

*3:著書『平泉:よみがえる中世都市』(1992年、岩波新書)、『奥州藤原三代:北方の覇者から平泉幕府構想へ』(2011年、山川出版社日本史リブレット人)、『平泉・北方王国の夢』(2014年、講談社選書メチエ

*4:著書『長安の都市計画』(2001年、講談社選書メチエ

*5:著書『アイヌの歴史:海と宝のノマド』(2007年、講談社選書メチエ)、『アイヌの世界』(2011年、講談社選書メチエ)、『アイヌ学入門』(2015年、講談社現代新書)、『アイヌと縄文:もうひとつの日本の歴史』(2016年、ちくま新書)など

*6:著書『平安王朝』(1996年、岩波新書)、『平安時代』(1999年、岩波ジュニア新書)、『義経の登場』(2004年、NHKブックス)、『かぐや姫と王権神話:『竹取物語』・天皇・火山神話』(2010年、洋泉社歴史新書y)、『歴史のなかの大地動乱:奈良・平安の地震天皇』(2012年、岩波新書)、『物語の中世:神話・説話・民話の歴史学』(2013年、講談社学術文庫)など