今日の産経ニュース(1/3分)

■【平成30年史 第1部皇室(2)】「私の中国訪問は良かったのか」 国際親善に触れ合いと葛藤 
http://www.sankei.com/life/news/170103/lif1701030008-n1.html

 天皇陛下が即位されてから間もない平成元年10月16日、平成初の国賓としてジンバブエムガベ大統領が来日した。
 「私が作ります」。
 宮内庁の儀典担当OBは、陛下が宮中晩餐会で述べる挨拶の文面を、陛下が自ら書く意向を示されたことを覚えている。
 昭和の時代は、外務省が原案を書き、宮内庁が修正していた。

 さすがに最初から現天皇が原案を書いてるのではなく
1)天皇が「こういう感じで作ってくれ」と簡単な下書きを作り
2)それをもとに外務省、宮内庁合作でより詳細な原案を作る
3)その原案に天皇が朱書きを入れる
4)その朱書きを元に完成原稿
つう事なんだとは思います。いずれにせよ、天皇の「挨拶原稿」に対するイニシアチブは昭和時代よりは強いのでしょう。俺にとっては意外です。
 なぜなら「昭和天皇」は元国家元首(戦前までは最高権力者)であり、いわゆる沖縄メッセージやid:Bill_McCrearyさんの記事『昭和天皇というのも、時代錯誤な人だ』(http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/de78e71009695eb9f42ca0ed66f14575)が紹介する佐藤*1首相への要請、田中*2内閣時代の増原*3防衛庁長官問題などを考えると「外交には積極的に関与したい」と原稿作りに相当深くコミットするのかと思ってましたので。
 それはともかく、これ、「相手は政府首脳」なので、下手をすると「天皇の政治不介入」に抵触する恐れがあります。まあそれをいったらそもそも「皇室外交」自体にその危険性があるのですが。

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 今まで産経ってこういう設定はなかったんですけどね。勘弁してほしいですね。「月額100円」とはいえ、金払ってまで産経記事を読みたくないのでこれ以上の記事内容は分かりません。「私の中国訪問は良かったのか」の意味が残念ながらわかりませんが、読むとしたら「図書館で紙媒体で読むこと」にします。その場合、後で追記する予定です。


■【平成30年史 第1部皇室(3)】悲しみ誰にでも…物語に思い重ねられ 批判報道、倒れられた皇后さま
http://www.sankei.com/life/news/161231/lif1612310029-n1.html

 この時期に、批判報道が相次いだのは「週刊誌の部数競争が無関係だったと思えない」と、日本テレビのアナウンサーとして皇室番組*4を長年担当した久能靖氏*5(80)は話す。

 ぶっちゃけあれは批判ではなく誹謗ですけどね。
 「部数競争」てのも変な話です。というのも誹謗の方向は全て「現天皇昭和天皇の築いた伝統を破壊している」という右翼的方向だったからです。
 この誹謗合戦に参加した雑誌も「週刊文春」「週刊新潮」「月刊宝島30(現在は廃刊)」とほとんど右翼雑誌*6です(とはいえ全ての右翼雑誌が参戦したわけではなく確か正論や諸君は参戦してなかったかと思いますが)。
 たとえば右翼雑誌ではない週刊朝日は参戦してない。
 渡辺治氏は著書『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成:天皇ナショナリズムの模索と隘路』(2001年、桜井書店)においてこの騒動を「明仁天皇の中国訪問など、昭和天皇とは異なる間違った行為、左傾化と右翼が否定的に評価する行為」に対する右翼の反発が爆発した物であり「従来の天皇批判(昭和天皇批判がメイン)が戦争責任問題など左派の批判だったのに対し、右派から『新天皇左傾化している』という批判が出た点が天皇批判として新しいものだった」「この騒動で美智子皇后が強く批判されたのは『天皇左傾化は彼女の影響』と『そもそも平民の彼女と天皇との結婚を愉快に思わない右翼勢力が曲解したから』」と評価しています。
 その意味ではこの騒動は

http://www.sankei.com/life/news/170101/lif1701010035-n2.html
 「そういうものではない」。赤坂御用地で皇太子時代から両陛下に仕えてきた側近が、公務について述べた意見は、宮内庁の本庁に拒否された。
 崩御間もない元年5月、両陛下の初めての地方訪問となる徳島訪問でのことだった。陛下は「行幸*7(=地方訪問)ではセダンがよい」との意向を伝えられた。
「沿道の人々と同じ目線でなければならない」
 しかし、宮内庁昭和天皇が車高の高い御料車を使ってきたことを理由に、申し出を拒否した。さらに食事も「簡素に現地のものを」という両陛下の意向に反し、本庁は大膳とよばれる宮内庁の調理担当者を徳島に同行させる昭和の方式を求めてきた。
 「相当ぶつかった。昭和天皇に仕えた元侍従が叙勲を受ける際に、『新天皇からは受けない』と辞退したことがあった。それほどまでの空気だった」
 元侍従の一人は、当時を振り返る。
 「そういう昭和のやり方を、両陛下は少しずつ変えていかれた。それには10年はかかった」

という話と完全に繋がっています。

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 「月額100円」とはいえ、金払ってまで産経記事を読みたくないのでこれ以上の記事内容は分かりません。読むとしたら「図書館で紙媒体で読むこと」にします。その場合、後で追記する予定です。

参考

■皇后美智子(ウィキペ参照)
・皇太子妃は皇族か五摂家*8(伯爵以上)といった特定の華族から選ばれるのが習わし*9とされており、平民から妃を迎える、ということが考えられなかった時代であり、1958年(昭和33年)の正田美智子嬢入内と、それに伴って巻き起こったミッチー・ブームは、皇太子(現天皇)の母・香淳皇后*10や、常磐*11会長の松平信子秩父宮妃勢津子*12高松宮妃喜久子*13など皇族・旧華族らに強く反対された。特に、秩父宮妃勢津子の実母で常磐会会長でもある松平信子は当時、宮内庁内で絶大な発言権と政治力を有しており、その権勢は時の皇后をも凌ぐといわれ、宮内庁から「昭和の女帝」「昭和の妖怪」と恐れられていた。『入江相政日記』によると、松平信子が中心となって御婚儀反対を叫び、愛国団体をも動かした。」とあり、美智子の正家である正田家自体に圧力をかけていた。更には、美智子が2人目の子を流産した際には、「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」などと罵詈雑言を浴びせていたという。
 また、入内に際し香淳皇后との間にも軋轢があった。皇室会議で正式に皇太子妃となった美智子が、書道、和歌、英語、フランス語、礼儀作法、宮中祭祀、宮中慣習、宮内庁制度などの皇室の知識や儀式、プロトコル(外交儀礼)やマナーなどを二か月半ほどの特訓で習得する所謂「お妃教育」の教室となる場所で一悶着があった。皇居内の東御苑にある呉竹寮(現在では一般に公開されている)を天皇が許可したため、美智子の教室として使用するはずであったが、皇后が反対したという。元来、呉竹寮は四内親王(照宮成子内親王*14・孝宮和子内親王*15・順宮厚子内親王*16・清宮貴子内親王*17)が学齢前から住居として使い、傅育官(ふいくかん)によって育てられた場所であり、皇后にとっても思い出深い場所であった。『入江相政日記』には「呉竹寮を使ふことを昨日お上はいいとおっしゃったのに、皇后さまはいけないとおっしゃった由。まだモヤモヤがあるらしい。」(33年2月9日)と記されている。
 民間での祝福ムードとは対照的に、美智子妃が平民であることから、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる。美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従入江相政に対し「(香淳皇后は)平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという。
 一方、元内親王昭和天皇香淳皇后の第一皇女)であり、美智子妃の義理の姉にあたる東久邇成子より自宅のホームパーティーに招かれるなど、好意的な旧皇族も存在した。
・1993年の『宝島30』8月号には「皇室の危機:『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による天皇・皇后非難記事が掲載された。その中で大内は、今上天皇夫妻を昭和天皇に比して華美で西洋風な生活を送り、神道よりもキリスト教に親和性が高く(元々美智子皇后がミッション系の聖心女子大学の出でもあることから)、国民の望む皇室の主としてふさわしくないという批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも皇后に対するバッシング記事が掲載された。皇后への、守旧派の反感が背景とみられる。このため皇后は精神的な苦痛から失声症となった。これに対し、宝島社および文藝春秋の関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起きた。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している。

 よくわからないですが皇太子妃・雅子氏の鬱病とやらにもこの種の話があるんでしょうか?
 一方で秋篠宮妃・紀子氏は見るからに元気そうで特に問題もないようですが。

*1:吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相などを経て首相

*2:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相などを経て首相

*3:佐藤、田中内閣で防衛庁長官

*4:皇室日記のこと

*5:著書『浅間山荘事件の真実』(2002年、河出文庫)、『「よど号」事件122時間の真実』(2002年、河出書房新社)、『高円宮殿下』(2003年、河出書房新社)、『知られざる皇室:伝統行事から宮内庁の仕事まで』(2010年、河出書房新社)など

*6:ただし何故か右翼雑誌とは言い難いサンデー毎日も参戦しています。誹謗の方向はもちろん右翼方向です。

*7:天皇の地方訪問を行幸天皇以外の皇族(皇后、皇太子など)の地方訪問を行啓といい、天皇と皇族が一緒にする地方訪問を行幸啓という

*8:近衛家九条家二条家一条家鷹司家

*9:昭憲皇太后明治天皇の后)は五摂家一条家出身、貞明皇后大正天皇の后)は五摂家九条家出身、香淳皇后は皇族・久邇宮出身。

*10:久邇宮邦彦王の長女(皇族出身)

*11:学習院女子中・高等科卒業者の同窓会

*12:彼女の父親・松平恆雄(駐米大使、宮内大臣など歴任)自体は松平家当主ではなく華族の位をもたなかったが、松平家本家(会津藩主・松平容保の末裔)は子爵。なお、父親が華族の縁戚とは言え華族の位を持たないので結婚前にはく付けとして、松平保男子爵(父・恆雄の実弟)の養女になっている

*13:公爵・徳川慶久(最後の将軍・徳川慶喜の七男)の次女

*14:昭和天皇香淳皇后の第一皇女。東久邇宮稔彦王終戦直後、首相)の妻。

*15:昭和天皇香淳皇后の第三皇女。元華族鷹司平通と結婚し、鷹司和子。

*16:昭和天皇香淳皇后の第四皇女。元華族池田隆政と結婚し池田厚子

*17:昭和天皇香淳皇后の第五皇女。薩摩・島津家の末裔である島津久永と結婚し島津貴子