新刊紹介:「歴史評論」2月号(追記・修正あり)

★特集『歴史における強制移住・「難民」』
・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のある内容のみオレ流に紹介しておきます。
■古代のエミシ移配政策と出雲国の移配エミシ(武廣亮平)
(内容紹介)
 ウィキペディアの紹介で代替。

■移配(ウィキペ参照)
 8世紀から9世紀にかけて、当時の朝廷が現在の東北地方に居住していた蝦夷を内地(関東以西の本州・四国・九州)に強制移住させた政策のこと。郷土史家・菊池山哉の造語。
 7世紀中期以後、ヤマト王権による蝦夷の従属化が進められたが、律令制が確立していくにつれて、唐を「隣国」、新羅渤海を「蕃国」、そして蝦夷を「化外の民」として隼人とともに「夷狄」として、天皇の統治下にある日本内地の王民と峻別する一種の中華思想的な「小帝国」が成立することになる。
 これによって蝦夷は「化外」の民として「化内」の民である王民からは蔑視・排除される存在とされた。ただし、その一方で陸奥国越後国(後に北部が分離して出羽国)は、この政策の維持のために常に不安定な状況に置かれることになり、事あるごとに対蝦夷政策は揺れることになった。
 だが、朝廷は「化外」の民との対立の際には蝦夷征伐というかたちで軍事力を行使して、その勢力圏を北へと広げることになる。その結果、多くの蝦夷(居留民及び捕虜)をその支配地に抱え込むことになった。これを俘囚と呼ぶ。彼らは律令政府に従っていたものの、外側の夷俘と呼ばれる従来通りのまま未だに排除された状況にある蝦夷と通じる可能性も存在した。そこで神亀2年(725年)に朝廷はこうした俘囚のうち、130名を伊予国に、578名を筑紫(九州)に、15名を和泉監に移すこととした(『続日本紀神亀2年閏正月己丑条)のである。これが最初の移配に関する記録である。これは続いて天平10年(738年)にも115名が駿河国を経由して摂津国に送られたことが駿河国の正税帳によって確認できる。
 ところで、宝亀5年(774年)にいわゆる「三十八年戦争」が始まった頃から、急激に俘囚の移配が増加する。しかも、中には夷俘に分類されていた者までが移配され、その移配先も関東地方など全国各地に広がっていくことになる。その原因としては諸説あるものの、坂上田村麻呂らの活躍によって蝦夷の主だった抵抗勢力が打倒されたために大量の服属民が生み出されたためにその急激な増加によって現地における支配・統治に不安がもたれたからとする説、教化のために支給された俘囚料が地元の陸奥・出羽ではまかないきれなくなったからとする説、この戦いを通じて国内の安定のために奥羽全域の平定を目指す方向に路線転換をしたために王民化を促進するためとする説、逆に奥羽全域の平定後も従来通りの「小帝国」を維持するために内地に「化外」の居住区を人為的に作るためとする説などがあるが、結論は出ていない。
 俘囚・夷俘は移配先に馴染めずにたびたび地域との衝突や反乱を起こしたために、弘仁2年(811年)に陸奥国より俘囚を現地に止めて支配を行う旨の奏請が行われて受理されて以後、大規模な移配は行われなくなり、代わって既に移配された俘囚・夷俘を小規模集団単位で二次移配する事例が増加する。やがて、寛平9年(897年)には移配した蝦夷を奥羽へ送還する政策を打ち出した。これにより全国へ移配されていた蝦夷のほとんどは奥羽へ還住することとなった。


朝鮮人強制移住:ロシア極東から中央アジアへ(半谷史郎*1
(内容紹介)
 ウィキペディアの紹介などで代替。

■スラブ研究45号『ロシア極東の朝鮮人ソビエト民族政策と強制移住』(岡奈津子)
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/45/oka/oka.html

■高麗人(ウィキペ参照)
 旧ソ連諸国の国籍を持つ朝鮮民族のこと。
■極東ロシアとシベリア移住
 19世紀の李氏朝鮮は、国政が混乱して少数の両班達が大部分の土地を独占するようになった。現在の高麗人の祖先達は、中国(吉林省延辺朝鮮族自治州など)の朝鮮族と同様に、生活苦から故郷を離れ、李氏朝鮮北部からロシアを目指したが、清の領地がそれを阻む形となった。それでも、朝鮮人移民第1期となった761家族5,310人は、当時清の領土だった沿海州に移住したが、同地は1860年の北京条約*2によってロシアに割譲されることとなった。
 朝鮮半島北部はもともと農業に厳しい気候であった上、ひとたび飢饉が起こると農村は疲弊し、厳しい生活から逃れるために、窮乏農民が沿海州へと流入したと考えられている。
 その後も、多くの農民達がシベリアに移住するようになり、19世紀末にはその数が急増し、1869年には朝鮮人沿海州における人口の20%を占めるようになった。シベリア鉄道が完成するより前に、極東ロシアにおける朝鮮人の人口はロシア人より多くなり、地方官吏達は彼らに帰化を推奨した。1897年のロシア帝国の人口調査によれば、ロシア全体で朝鮮語を話す人口が26,005人(男性:16,225、女性:9,780)という結果が出ており、この頃には多くの都市に高麗人村や高麗人農場ができるようになった。
 20世紀初頭に、ロシアは日本と朝鮮半島における権益を巡って対立するようになり、日露戦争が勃発し、戦争は日本の勝利に終わった。1907年に、ロシアでは朝鮮人を排斥する法律が制定され、朝鮮人の農場主は土地を没収され、朝鮮人労動者達は職を失うこととなった。同時に、ロシアは朝鮮独立運動の為のシェルターとなり、朝鮮人民族主義者や共産主義者はシベリアや沿海州満州に亡命した。シベリアは在ソ連朝鮮人の日本に対抗する為の独立軍養成の基盤になった。1919年に、ウラジオストクの新韓村(高麗人街)に集まった朝鮮のリーダーたちが三・一運動を支援した。この村は、軍隊の物資補給を含めた民族主義者達の足場となったが、1920年4月4日には日本軍の総攻撃によって、100人以上が死亡した。
 ウラジオストクに移住した朝鮮人達は、キリスト教を受け入れるなど積極的にロシア文化に順応するようになった。何よりも、日本の影に怯えることなく働くことが出来るということが、移住の最大の理由だった。
 1922年に、ロシアで共産主義を掲げるソビエト連邦が成立すると、日本は共産主義革命の波及を恐れて朝鮮半島北部で国境を接するソ連と激しく対立するようになった。一方で、ソ連国内における高麗人の人口は、1923年に106,817 人にまで増加し、翌1924年からソ連政府によって国内の高麗人の人口を抑制する為の対策が取られるようになったこともあって、1931年に嘗ては比較的出入りの緩やかであった朝鮮と沿海州の国境は閉鎖されることとなった。
強制移住
 日本軍によるシベリア出兵以来、日ソ両国は互いを仮想敵国とみなしていたが、満州事変以降、ソ連の指導者スターリンは、沿海州に居住する高麗人住民が日本のためにスパイ活動を行なっていると考えるようになった。秘密警察NKVD*3長官エジョフ*4の報告によると1937年10月25日までに沿海州に居住していた36,442家族171,781人の高麗人が、対日協力の疑いで中央アジアに集団追放されたと記録されている。
 強制移住先の中央アジアの乾燥地帯は、農耕には不向きな土地で、ソ連政府によって保障されていた筈の資金援助は受けることができなかった。その上、移住者のほとんどが稲作農家や漁師だったこともあって、乾燥地帯への適応に困難を伴うこととなり、1938年までに少なくとも4万人の高麗人が死亡している。
 戦後も、軍事的な要地である沿海州に高麗人が戻って来ることによって、不安定要素が生ずることを望まないソ連当局の意向によって、高麗人のほとんどは沿海州朝鮮半島に帰還する権利を認められず、その後も多くの高麗人がそのまま中央アジアに住み続けた。スターリンの死後、法的には移動の自由が認められたが、一般のソ連人と同様、実際に移動の許可を得るにまでに多大な労力を要し、また、高麗人の現地への定着が進んでいたため、沿海州朝鮮半島に帰還する者はほとんどなかった。また、グラスノスチが始まるまでは、強制移住に対して批判的な発言をすることは許されなかった。
 なお、彼等の話す朝鮮語は、ロシア語の影響を極めて強く受けた高麗語と呼ばれるものであり、本国の朝鮮語との乖離は特に日常の話し言葉において甚大である。韓国、北朝鮮、中国吉林省延辺朝鮮族自治州で話される朝鮮語はどれもほとんど問題なく互いの意思疎通が出来るが、高麗語の場合は、意思疎通は無理ではないにしろ、かなりの困難を伴うとされる。なお、サハリン州樺太)にも、ロシア本土とは別にコリアンが居住している。19世紀後半〜20世紀初頭にかけてロシア本土へ移住した者達とは異なり、サハリン州樺太)における朝鮮人は、主に1930年代〜40年代にかけて主に慶尚道全羅道から移住した者達と戦後に北朝鮮から労働者として渡っていった者達である。前者は、第二次世界大戦期の労動力不足を補う為に、サハリン南部(南樺太)へ出稼ぎや徴用によって移住していた。
■高麗人の著名人
・金ギョン天(1888〜1942年)
 朝鮮の独立運動家。スターリンの粛清で獄死したとされる。スターリン死後、1959年、名誉回復。彼については反共主義から韓国では長い間忘れ去られた存在だったが、1990年、韓国とソ連の国交回復以降、状況が変化する。その翌年にソ連が崩壊して、韓国と中央アジアの高麗人との交流が活発になり、高麗人の独立運動家が韓国で注目されるようになった。1998年、韓国政府は金ギョン天に建国勲章を追叙した。
・南日(1913年〜1976年)
 北朝鮮の政治家。第二次世界大戦後に朝鮮半島北部に帰国。朝鮮人民軍総参謀長、外相、副首相を歴任。
・ネリー・キム(1957年〜)
 ソ連の女子体操選手。1976年モントリオール五輪金メダル(団体総合、跳馬、ゆか)、1980年モスクワ五輪金メダル(団体総合、ゆか)。
デニス・テン(1993年〜2018年)
 カザフスタンの男子フィギュアスケート選手。2014年ソチオリンピック銅メダリスト。2018年に強盗によって不慮の死を遂げている。

http://www.ide.go.jp/Japanese/Researchers/Interview/oka_natsuko.html
ジェトロ『岡奈津子研究員インタビュー』
インタビュアー
 カザフスタンに関心を持たれたきっかけは? なぜアジ研に入られたのですか?
岡氏
 大学ではロシア語を勉強していまして、就職活動をしたのが修士課程2年目の1993年でした。ちょうどその年にアジ研でロシア語ができる人を募集していると知り、応募したところ採用され、たいへんラッキーでした。私は学生時代、「日韓学生会議」というサークルに所属していた関係で韓国に興味があったのですが、たまたま同じ大学の先生がカザフスタンで発行されていた『レーニンの旗』(現『高麗日報*5』)を購読していて、それを日本語に翻訳する企画に誘われたのです。『レーニンの旗』はソ連朝鮮人を対象とした朝鮮語新聞なのですが、ペレストロイカの時期にロシア語のページができたため、私はその部分の担当として参加し、翻訳作業を通して彼らの現状を知ることができました。ソ連朝鮮人の大多数は、朝鮮半島北部からロシア極東に移り住んだのち、1937年、スターリン時代にカザフスタンウズベキスタンなど中央アジア強制移住させられた人々とその子孫です。私はソ連朝鮮人というテーマに出会うことで中央アジアに関心を持つようになりました。

http://blogs.yahoo.co.jp/mig_21fishhead/23259891.html
コリョサラム ー祖国なき中央アジアの人々ー
 中央アジアに多数の朝鮮人強制移住させられてきたことは、既に何度か触れてきました。
 彼らは、第二次世界大戦前後に日本軍のスパイ容疑などで、朝鮮半島やロシア沿海州から連れてこられた人々です。
 その数は、20万人とも30万人とも言われていますが、正確な数は誰にも分からないそうです。
 シベリアに抑留された日本人数は、一般に約60万人と呼ばれていますから、かなりの数です。
 現在は、40万人ほどが主にウズベキスタンカザフスタンキルギスで生活しています。
 さて、強制移住の理由である日本軍のスパイ容疑ですが、根拠のない濡れ衣でした。
 では、何故強引に彼らを中央アジアに連れてきたのか?
 答えは、簡単です。
 当時のソビエト政府が喉から手が出るほど欲しかった労働力確保のためでした。
 ドイツとの戦争で2000万人と空前の人的損害を出したソビエトでは、多数の働き手を失いました。
 そのため、荒廃した国土の立て直しのために、戦死したソビエト人の代わりとなる補充労働力が必要だったのです。(日本人のシベリア抑留も同様の理由です。)
 中央アジアキルギスの北隣の国、カザフスタンの旧首都アルマティで、そんな朝鮮人の末裔にあったことがあります。
(中略)
 興味深かったのは、彼が、自分のことを『コリョサラム』と呼んだことです。
 『朝鮮人』を意味するロシア語の『カリースキー』、英語の『コリアン』じゃないのか?と聞くと、心なしか誇らしげに、『ノー ノー アイム コリョサラム!』と言いました。
 この時は、彼の言うことがさっぱり分かりませんでした。
 そして、日本に帰国し、文献を読んで『コリョサラム』の意味を知ったのでした。
 『コリョサラム』とは、『高麗人』の意味なのだそうです。
 彼らが、自らを『朝鮮人』でなく『高麗人』と呼ぶことは、その苦難の歴史と運命を考えればよく分かります。
 強制移住中央アジアに来た朝鮮人(後の『コリョサラム』)は、とんでもない苦難を押し付けられます。
 何日も家畜が乗る様な貨車に押し込められた挙句、石ころや草原だけの荒野に着のみ着のまま放り出されました。
 そして、農耕器具さえもろくに渡されないまま、『来年までに〇〇を〇〇トン収穫せよ!』なんてムチャなことをソビエト政府にいきなり言われたのです。
 収穫目標に達しなければ、努力が足らんと言うことで、重い刑罰や処刑が待っていました。
(中略)
 真面目さと努力ぶりでソビエト人を驚かせたシベリア抑留の日本人と合わせ、『東の連中(日本人と朝鮮人)は奇跡を起こす。』とまで言われました。
 この記憶は、今も中央アジアに生きています。
 この地域では、『日本人と朝鮮人の作るものにヘンなものはない。』と言う人は多いです。
 人気の日本製電化製品や車を買うお金がない人は、その代わりとして韓国製品を購入する人が少なくありません。
 かつての親分筋であるロシア製品の購入優先順位は、笑ってしまうぐらい低いです。
(中略)
 こんな感じで、優秀な人々と言うことで、中央アジアに定着した『コリョサラム』。
 しかし、彼らには、帰るべき祖国、約束の大地はありません。
(中略)
 ソビエトが崩壊し、移動制限が解除されたから、自由に行き来できるし、帰国できるんじゃないの?
あるいは、そう思われるかもしれません。
 しかし、北朝鮮は、あの有様ですし、韓国とは、経済格差がありすぎます。
 一方、朝鮮半島だけでなく、当時朝鮮人が数多く住んでいたロシアの沿海州から来た人もいます。
 これらの人々も状況はあまり変わりません。
 最近のロシアは好景気で沿海州でも物価がスゴイ勢いで上がっており、経済格差が生まれつつあります。
 それに、同じロシア圏とは言え、慣れない沿海州に今更帰っても、新たに生活を始めるのは楽ではありません。
 結局、好む好まざるに関わらず、生活の基盤が出来た中央アジアに住み続ける人が多いのです。
 今年、ウクライナで元日本兵*6が見つかり、60年ぶりの里帰りを果たした方がいました。
 この方も、結局生活基盤が出来たウクライナに帰りました。
ウクライナなんて帰らずに日本にいりゃいいのに』と言う人がいましたが、『コリョサラム』が生活基盤が出来上がった中央アジアに住まざるを得ない理由と同じでしょう*7
 さて、永住の地に選んだ中央アジアでも、早々簡単には行きません。
 『ここは、俺たち中央アジア人の土地だ。朝鮮人がエラそうにするな!』
 現地の人々とケンカになると、こんな心ない言葉を投げかけられることもあるそうです。
 韓国人でもなく、北朝鮮人でもない。
 朝鮮人でもないし、中央アジア人ですらない『コリョサラム』。
 母なる祖国を持たず、苦労して生活基盤を作った地でもヨソ者であることを意識せざるを得ない人々。
 それだけに、彼らは、国でなく、民族に誇りを持って自らを『コリョサラム』と呼ぶのかもしれません。
 彼らの前途は、必ずしも希望に溢れてはいません。まだまだ苦難は続きます。
 それでも、独自の誇りを持ちながら、これからもユーラシアの大地にたくましく生きていくのでしょう。

【参考:上野石之助氏】

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/04/h0417-3.html
厚生労働省ウクライナ残留邦人の一時帰国について(平成18年4月17日)
 ウクライナ残留邦人が下記のとおり一時帰国することとなりましたのでお知らせします。
1.一時帰国者
 上野 石之助(ウワノ イシノスケ)(大正11年生)
 (介護人として息子が同行)
2.期間
 平成18年4月19日(水)から4月28日(金)まで
3.滞在先
 岩手県の親族宅
4.一時帰国までの経緯
 同人は、終戦樺太に在住し、昭和33年以降消息不明となっており、平成12年4月に戦時死亡宣告が確定しました。
 同人は、現在ウクライナに居住しており、平成17年10月に現地の知人より親族調査の要請があり、本人の申立に基づき調査を行ったところ、同年12月岩手県在住の親族により身元確認が得られました。
 今般、同人より、親族訪問等のための一時帰国を希望されたことから、今回の帰国となりました。
5.報道関係者へのお願い
 上野石之助氏及び親族より、静かに帰国したく、また、取材は固くお断りするとの強い申出がありましたので、取材等は御遠慮いただきますようお願いします。
 ※日程等については、本人の健康状態等により一部変更する場合があります。

http://www.japanese-page.kiev.ua/jpn/news-from-ukraine_moto-heishi.htm
■元兵士ウクライナで生存、岩手出身、63年ぶり帰郷へ
 第二次大戦後に樺太(サハリン)に残ったまま行方不明になり、戦時死亡宣告を受けた岩手県洋野町出身の元日本陸軍兵士が、ウクライナで生活していることが17日までに、厚生労働省などの調査で確認された。19日に現地の家族とともに一時帰国し、20日に盛岡市で63年ぶりに家族との再会を果たす。
 県地域福祉課によると、生存が分かったのは上野石之助さん(83)。1943年に出身地の洋野町(旧大野村)を離れて樺太の陸軍歩兵隊に入隊。終戦後は現地で結婚し製材業などに従事していたが、58年ごろ消息不明となった。
 未帰還が続いた人に適用される「戦時死亡宣告」が2000年4月に確定したが、上野さんは65年ごろに妻の実家でウクライナの首都キエフの西方にあるジトーミル市に移住したという。
 ウクライナ国籍を取得し、「イシノスキー」の名で生活。息子と娘2人がおり、現在は妻と2人暮らし。日本語はほとんど話せないが、筆記では自分の名前が書ける。
 昨年10月に知人を通して県に生存情報の連絡があり、ウクライナの大使館員が面会した。12月には親族が上野さんの写真などを見て本人と確認した。大使館員には「両親のお墓参りをしたい」と話したという。
 厚労省などは確定した戦時死亡宣告を取り消す作業に着手し、戸籍の回復手続きを進める。
◎半世紀超え「生きて会えるとは…」/親族や住民、感激の表情
 「長かった。まさか生きて会えるとは」。
 元日本陸軍兵士、上野石之助さん(83)の出身地、岩手県洋野町の旧大野村明戸地区では17日、弟や妹ら親族と住民が生存情報と帰国の知らせに感激の表情を見せた。
 石之助さんの弟の自営業左舘丑太郎さん(81)は「故郷を離れて半世紀以上が経過し、兄の生死を気に掛けていた母も他界した。あまりにも長かった」と語った。
 4人きょうだいの2番目で、物静かな人だったという。左舘さんは「なぜ今まで分からなかったのか」と戸惑いも見せつつ、「死んだと思った兄が生きていてくれた。うれしい」と言葉を詰まらせた。
 妹の農業上野タケさん(70)も「生きていると聞いたときはびっくりした」と振り返る。「お互い年を取った。何を話したらいいものかと思うが、楽しみ」と63年ぶりの再会に思いをはせた。
 地区は石之助さんの帰国を歓迎し、23日に公民館で祝賀会を開く予定。石之助さんの実家近くの農業菖蒲沢フミさん(71)は「60年間大変な苦労があったと思う。まずは元気で帰ってきてほしい」と話す。行政区長の圃田勉さん(75)は「お赤飯を炊いて出迎えたい」と張り切った。

http://ameblo.jp/thomas-penfield/entry-10088675998.html
ウクライナの上野石之助さん。
 第2次世界大戦後にサハリンで行方不明となり、ウクライナで生存が確認された元日本兵の上野石之助さん(85)が、63年ぶりに洋野町(旧大野村)に一時帰郷してから、20日で丸2年たった。
 6月に、甥の上野幸夫さん(61)夫妻ら親族が、石之助さんが住むジトーミル市を訪れる予定だそうだ。弟の左舘丑太郎さん(83)=同町=は同行できないが、異国で過酷な人生を歩んだ兄への思いを強くしている
(中略)
 一時帰郷した際、石之助さんは日本語がほとんど話せなかったが、日本で買った本で勉強し、電話で日常生活を伝えるには不自由しないほど思い出したようだという。
 2年前の再会では丑太郎さんは消息を絶ってからのことは尋ねなかったし、石之助さんも話さなかった。ただ、ウクライナでは40年ほど暮らし、ボイラー関係の仕事をしていたことを教えてくれた。
 「ひどい凍傷にかかったようで、指先はかなり荒れていた。旧ソ連時代には、想像を絶する苦労があったはずだ」と気遣う。
 長男のアナトリーさん(39)によると、石之助さんは日本人であることを誇りにしていたが、生存を名乗り出ることは、どうしてもできずにいたという。 


■ドイツにおける難民の流入と統合:その歴史と現在(川喜田敦子*8
(内容紹介)
 メルケルが難民受入に比較的積極的な背景の一つとしていわゆる「ドイツ人追放」があげられている(詳しくはたとえば、ウィキペディア『ドイツ人追放』参照)。
 旧ソ連、東欧から追放された大量のドイツ人(難民)を受け入れる経験*9を有したことが、後の難民受入に役立った*10
 なお、「追放」は許される行為ではないだろうが「ナチ侵略時代にナチが大量のドイツ人を移住させた点*11」を無視すべきでないと筆者は指摘する。
 追放はある意味「満州国崩壊時の日本人襲撃」のような性格があった。「日本の侵略」を無視して、「襲撃だけピックアップして一方的に中国側を非難することができない」のと同じ事である。
(なお、ドイツ人追放を理由に居直るのがネオナチ、通州事件などの襲撃を理由に居直るのが産経などの日本ウヨである)。

参考

http://www.asahi.com/articles/ASJD06K8VJD0UHBI00R.html
朝日新聞メルケル氏「難民受け入れ正しい」 新年あいさつで訴え』
 ドイツのメルケル首相は12月31日、新年を迎えるにあたって国民向けにメッセージを出し「最大の試練は疑いなく、イスラム過激派によるテロだ」と語った。年末に起きたベルリンでのテロ事件や、昨夏のバイエルン州での難民申請者らによる襲撃事件について触れ、「我が国に助けを求めにきた人々によってテロがなされるのは、とりわけつらいことだ」と述べた。
 一方で、難民受け入れ政策について、「シリアのアレッポの破壊された光景を目にするにつけ、保護を必要とする人々を助け、統合していくことがいかに重要で正しいのかということを再度申し上げたいと思う」とも語り、政策を変更するつもりがないことを強調した。

http://www.sankei.com/world/news/161229/wor1612290043-n1.html
■産経【独トラック突入】「治安」重視へ高まる圧力 反難民党「寛容に責任」、与党内に危機感
 ベルリンのトラック突入テロを受け、難民受け入れで寛容姿勢を示してきたドイツのメルケル首相に方針修正を求める圧力が高まっている。来年秋に総選挙を控え、「反難民」を掲げる右派政党は首相批判で勢いづいており、連立政権は危機感を強めているためだ。
 「メルケル氏がもたらした死者」。
 右派「ドイツのための選択肢」(AfD)の幹部らは19日のテロ後、責任は政権の難民政策にあると激しい批判を展開。テロ後の複数の世論調査で、同党の支持率は今年最高の15・5%を記録するなど上昇傾向を見せる。
 アムリ容疑者は難民としてドイツ入国後、テロなどを起こす恐れのある「危険人物」に指定される一方、難民申請却下後も強制送還されず、野放し状態だった。このため、再発防止の議論では難民対応にも焦点があたる。
 メルケル氏の保守系与党の一角をなすキリスト教社会同盟メルケル氏が拒む難民受け入れ数の上限導入を改めて要求。難民申請を却下された者の収容を進めるよう訴える。ゼーホーファー党首は「治安と移民政策で未解決の問題に答えねばらない」と強調した。
 世論調査では、治安が総選挙の重要争点との回答が76%。難民への寛容策に理解を示してきた連立相手の中道左派社会民主党でも難民対応の厳格化を訴える声が上がる。

http://www.diplo.jp/articles04/0404-5.html
ル・モンド・ディプロマティーク2004年4月号『ドイツは戦争の苦難を語り得るか』
 ドイツの民間人が体験した国外追放、強制移住、強制収容の苦難、特に第2次世界大戦の終了間際の体験について語ることができるのか。「死刑執行者」が「犠牲者」でもあるという事態は成り立つのか。まだ癒えない傷を再び開こうとすべきなのか。終戦から60年たった今、ポーランドチェコスロヴァキアから追放されたドイツ人を記念するセンターの建設計画によって、こうした論争が再燃している。
(中略)
 計画が固まって、それに関する議論が始まった途端、ポーランドチェコなどで反発が強まった。
(中略)
 1991年には、ハヴェル大統領がチェコスロヴァキア*12国民を代表して、国外追放の際にドイツ人の虐殺が実行されたことを謝罪し、旧ズデーテン住民が失った財産の返還を請求するための便宜として、チェコスロヴァキア国籍を付与することさえ提案した(8)。今となっては、この和解案ははるか遠くのことのように思えてしまう。現在チェコ政府には、1945年のベネシュ*13大統領令を撤廃するつもりはない。ナチス政権への協力者として一括して糾弾されたドイツ人300万人の財産没収と国外追放に法的根拠を与えたのが、この大統領令だった。調査によると、世論も同じく撤廃に反対している。
 この状況に鑑みれば、ベルリンに反国外追放センターを建設するという案が、大学研究者ハンス・ヘニングとエヴァ・ハーンの主導する抗議運動を呼び起こしたこともうなずける。2人はチェコポーランド、ドイツの政治家や知識人から多くの署名を集めた。

第二次世界大戦後におけるドイツ人追放(ウィキペ参照)
 第二次世界大戦末期およびその後に、ナチス・ドイツの領土(戦後ポーランドに割譲された領土)および占領地に以前から居住もしくは移住したドイツ人が、ソビエト連邦および東欧・中欧の反枢軸国政府によって国外追放された一連の出来事を指す。


パレスチナにおける「ユダヤ人国家」の諸問題 (藤田進*14
 いわゆる三重外交(ユダヤ人相手のバルフォア宣言、アラブ相手のフサイン=マクマホン協定、フランス相手のサイクス・ピコ協定)でパレスチナ問題をややこしくした英国(第二次大戦前まで)や、第二次大戦後に「米国内ユダヤロビーの働きかけ」もあってイスラエルを支援し、そのパレスチナ差別政策を擁護している米国が批判されています。正直、「細部はともかく」大枠では「イスラエル問題での欧米って本当に酷いよな(特に米国)」「イスラエルの外道、非道を黙認して、たとえば、よくもまあ中国のチベット支配が批判出来るもんざますわねえ、まあ、最近はカネ目当てに中国にもへいこらしだしてチベット無視してるようざーますけど。欧米の人道主義なんて所詮そんなもんざます(毒)」という「ある程度なら俺も知ってる」つう内容です。
 まあ、藤田氏も言っていますが基本「和平するしかない」でしょうが、問題は今のイスラエル・ネタニヤフ政権が極右の上、米国大統領がこれまたイスラエルロビーと疑われるトランプになってしまったことです。まあヒラリーでもどれほど期待できるか疑問符がつきますがトランプは最悪でしょう。

参考
【藤田氏の見解】
都政を革新する会・連続学習講座『アメリカは中東で何を行ってきたのか:9・11事件の背景にあるもの』(藤田進)
http://members.jcom.home.ne.jp/tokakushin/saisin112/fujita11201.html
日刊ベリタパレスチナ報道は真実を伝えているか:藤田進氏講演録』
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200309161932132
■ブッシュ・ドクトリンと中東和平の挫折(東京外国語大学教授・藤田進)
http://www.kokuminrengo.net/old/2003/200310-hjt.htm
図書新聞『「オスロ合意」下の占領・圧殺に抵抗するパレスチナ民衆:イスラエルによるガザ攻撃正当化のうそとその背景を明らかにする』(藤田進)
http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=2908&syosekino=1443

パレスチナ問題の近況】

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-30/2016123004_01_1.html
赤旗イスラエルの入植を批判、米国務長官が演説、パレスチナとの「2国家共存」を強調』
 ケリー米国務長官は28日、ワシントンで演説し、イスラエルパレスチナの「2国家共存」が「公正で永続する和平達成の唯一の方法だ」と強調しました。「イスラエルのネタニヤフ首相は公には2国家共存の解決を支持しているが、現在の同国の連立政権は正反対の方向、(パレスチナ国家を認めない)一つの国家へと導いている」と述べ、異例の強さで入植地建設を批判しました。
(中略)
 入植活動停止を求める国連安保理決議(23日)に米国が棄権したことをイスラエルが批判していることに対しては、「イスラエルを孤立させているのは安保理決議ではない。和平をつぶす危険のある入植地建設の政策だ」と指摘しました。

 基本、イスラエルよりの米国(オバマ政権)ですが、ネタニヤフが無茶苦茶なのでさすがに批判したという話です。ヒラリー*15当選ならこの方向だったでしょうが、トランプ当選では今後が危惧されます。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-18/2016121806_01_1.html
赤旗『米トランプ次期政権、イスラエル大使に強硬派、入植拡大支持の弁護士、「エルサレムに大使館を」』
 トランプ次期米大統領の政権移行チームは15日、次期駐イスラエル大使に、弁護士のデービッド・フリードマン氏(57)を指名すると発表しました。パレスチナ和平などをめぐり強硬派として知られる人物。米国内の穏健・リベラルなユダヤ系団体や、アラブ諸国などから強い反発が予想されます。
 トランプ氏は発表にあたり、「長年の私の友人であり、信頼できるアドバイザーだ」とフリードマン氏を紹介。同氏はトランプ氏の事業をめぐり、弁護士としてコンサルタントを務めていたと伝えられており、トランプ氏の仲間内の人事です。
 フリードマン氏は声明で、米イスラエルの2国間関係強化や和平などでの仕事を「イスラエルの永遠の首都であるエルサレムの米国大使館で行うことを楽しみにしている」と断言しました。
 エルサレムの帰属については、イスラエルパレスチナ双方とも首都(パレスチナは東エルサレム)と主張しており、和平解決の枠組みのなかで決着がついていない問題。米国を含め各国とも大使館はテルアビブに置いています。トランプ氏は大統領選挙中、エルサレムを首都とみなし大使館の移転を公言しており、今後、国際的な波紋をよぶのは必至です。
 フリードマン氏はまた、歴代米国政権が異議を唱えてきたパレスチナ自治区ヨルダン川西岸へのイスラエルによるユダヤ人入植地拡大を支持し、西岸地域の併合まで主張。イスラエルパレスチナの「2国家共存」にも反対してきました。
 フリードマン氏の指名にイスラエルのホトベリ外務副大臣は声明で「イスラエルにとって良いニュース」と歓迎しています。
 一方、(ボーガス注:和平を主張しネタニヤフを批判する穏健・リベラル派の)米国のユダヤ系団体「Jストリート」は今回の発表について「この指名は無謀であり、米国の(中東)地域における評判と世界中での信頼を危険にさらす」と批判しています。
 パレスチナの和平交渉担当者のアリカット氏は、米大使館のエルサレムへの移転は「和平プロセスを崩壊させる」と警鐘を鳴らしました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170114/k10010839851000.html
NHKパレスチナ議長 米大使館のエルサレム移転に警告』
 アメリカのトランプ次期大統領が、国際社会が首都だと認めていないエルサレムアメリカのイスラエル大使館を移転するとしていることについて、パレスチナ暫定自治政府アッバス議長は、実行された場合、イスラエルの承認取り消しも検討すると警告しました。
 エルサレムユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地があり、イスラエル政府は首都だと主張していますが、アメリカを含む各国政府は、パレスチナ側との交渉が決着していないとしてエルサレムを首都とは認めず大使館を置いていません。
 しかし、アメリカのトランプ次期大統領は、選挙戦で同盟国イスラエルをより強く擁護する姿勢を打ち出し、現在テルアビブに置いているアメリカ大使館をエルサレムに移転させると公約しています。
 これについて、パレスチナ暫定自治政府アッバス議長は14日付けのフランスの新聞フィガロのインタビューで、「大使館の移転が実行された場合、アラブ諸国と対抗策について話し合うことになる。イスラエルの承認取り消しも選択肢の一つだ」と述べ、1993年の暫定自治合意に基づくイスラエルの承認の取り消しも検討すると警告しました。
 2年以上も途絶えている中東和平交渉をめぐっては、15日にフランスのパリで交渉の再開を促すための国際会議が開かれる予定で、トランプ氏の就任を目前に控え、この問題についても議論が交わされる見通しです。

http://www.asahi.com/articles/ASK1G55L0K1GUHBI00J.html
朝日新聞パレスチナ議長、ローマ法王と会談 トランプ氏を警戒』
 パレスチナ自治政府アッバス議長は14日、バチカンローマ・カトリック教会のフランシスコ法王と約20分間会談した。世界各地のテロ・過激主義と闘う重要性や、イスラエルとの和平プロセスなどについて話し合った。パレスチナ通信が伝えた。
 会談後、在バチカンパレスチナ大使館の開設式典に出席したアッバス氏は記者団に、米国のトランプ次期政権下で懸念されている米大使館のテルアビブからエルサレムへの移転について、「和平プロセスの妨げになる」と改めて反対を表明した。法王にも同様の意見を伝えた模様だ。

 こういう事を言うとid:Mukkeとかチベット盲従分子は大激怒でしょうけど、こういう時に「ある程度頼りになりそうな宗教家」がローマ法王の訳です。だからアッバス議長も会談する。一方、糞の役にも立たないのがダライラマです。まあダライもこういう事で動く気はかけらもないでしょうけど。

http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000092093.html
テレビ朝日『ロシア仲介でネタニヤフ首相とアッバス議長が会談へ』
 ロシア政府は、イスラエルのネタニヤフ首相とパレスチナ自治政府アッバス議長がモスクワで会談を開く方針だと明らかにました。
 ロシアのラブロフ*16外相は13日、PLOパレスチナ解放機構)のエレカト事務局長と会談し、ネタニヤフ首相とアッバス議長の会談をモスクワで開催する準備が整ったと述べました。タス通信によりますと、エレカト事務局長も「両者がモスクワで会談することが確認できた」とコメントしています。ネタニヤフ首相とアッバス議長の正式な会談は2010年以降、行われておらず、中東地域での主導権を握りたいロシアのプーチン*17大統領が仲介役を買って出ています。


華族の軍人的役割から見る皇室の藩屏(刑部芳則*18
(内容紹介)
 華族(公家や武家出身の華族)については「当主戦死による家名断絶*19を恐れたこと」「公家華族が軍事を賤業と見なす傾向があったこと」「皇族軍人と違い華族軍人優遇策がなかったこと」から「華族出身軍人」の数は少なく、また華族出身軍人が当主(長男)ではなく「厄介」と表現される「次男以下」が多いことが指摘される。
 軍人華族山県有朋*20公爵、桂太郎*21公爵、山本権兵衛*22伯爵、寺内正毅*23伯爵、田中義一*24男爵、斎藤実*25子爵、鈴木貫太郎*26男爵など「華族出身の軍人」ではなく「エリート軍人が爵位をもらうケース(いわゆる新華族(勲功華族)の一種。軍人出身華族)」がほとんどだった。
 華族出身軍人の多くが軍キャリアにおいて「軍人出身華族」に劣ることは華族出身者が軍を目指さないことを助長した。
 多くの華族は軍人としてではなく

有馬頼寧(伯爵)
 旧久留米藩主有馬家の当主。斎藤内閣農林政務次官大政翼賛会事務局長など歴任。戦後は日本中央競馬会理事長を務めた。G1レース「有馬記念」の「有馬」とは彼の名前をとったもの。
・岡部長景(子爵)
 和泉岸和田藩藩主だった岡部長職*27の子。元宮内省官僚(内大臣秘書官長、宮内省式部次長など歴任)。東条*28内閣で文相。
木戸幸一(侯爵)
 木戸孝允の孫。元農商務省(後に商工省)官僚(農商務省工務局工務課長、会計課長、産業合理局部長、商工省臨時産業合理局第一部長兼第二部長など歴任)。近衛内閣文相、厚生相、平沼*29内閣内務相、内大臣を歴任。

のように、他の分野(軍人以外の官僚など)において「皇室の藩屏として」活動した。

参考

華族(ウィキペ参照)
・公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族(諸侯華族)、伊藤博文*30山県有朋(どちらも公爵)などのように国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族、と区別することがある。
■最初の叙爵基準
・公爵
 公家からは五摂家近衛家九条家二条家一条家鷹司家)、武家からは徳川家宗家が公爵となった。
 「国家に偉功ある者」として公家からは三条家(三条実美*31の功)、岩倉家(岩倉具視*32の功)、武家からは島津家宗家(薩摩藩主・島津忠義の功)、玉里島津家(薩摩国父・島津久光の功)、毛利家(長州藩主・毛利敬親の功)が公爵に叙せられた。
・侯爵
 公家からは清華家(久我家、三条家、西園寺家、徳大寺家、花山院家、大炊御門家、菊亭家、広幡家、醍醐家)、武家からは徳川御三家尾張徳川家紀伊徳川家、水戸徳川家)と15万石以上の大名家が侯爵となった。また琉球国王だった尚氏も侯爵となっている。
 「国家に勲功ある者」として、木戸家(木戸孝允*33の功)、大久保家(大久保利通*34の功)が侯爵となった。また公家の中山家は「勲功により特に」侯爵が授けられたが、中山家は中山忠能明治天皇の外祖父だったことが考慮されたものとみられる。
・伯爵
 公家からは大臣家(嵯峨家、三条西家、中院家)、堂上家武家からは徳川御三卿(田安家、一橋家、清水家)と5万石以上の大名家が伯爵相当となった。
 対馬藩は5万石を下回っていたが、藩主・宗家は朝鮮外交の実務担当者として10万石の格式が江戸時代を通じて認められていたことが考慮されて伯爵となった。
 平戸藩主・松浦家は本来は算入されないはずの分家の所領まで計算に繰り入れた上で伯爵となったが、これは中山忠能正室が松浦家の出身であることから明治天皇外戚に当たることが考慮されたものとみられる。西本願寺東本願寺世襲門跡家だった両大谷家も伯爵となった。
 「国家に勲功ある者」として、伊藤博文黒田清隆*35井上馨*36西郷従道*37山県有朋大山巌*38などの維新の元勲も伯爵に叙された。
・子爵
 武家からは5万石未満の大名家が子爵相当となった。
・男爵
 菊池武臣、五条頼定、名和長恭、南部行義、新田俊純などが南朝の功臣(菊池武時、五条頼元、名和長年、南部政長、新田義貞など)の子孫であることを理由に新たに華族に列せられ、男爵を与えられた。
■軍人華族
陸軍士官学校には明治10年代、華族子弟のための特別な予科が設けられた。しかし希望者が少ない上、虚弱体質などで適性割合が低く、じきに廃止された。有名な華族出身軍人としては、陸軍では前田利為*39(侯爵)や町尻量基*40(子爵)、海軍では醍醐忠重*41(侯爵)や小笠原長生*42(子爵)らがいる。

*1:著書『中央アジア朝鮮人』(岡奈津子との共著、2006年、東洋書店ユーラシア・ブックレット

*2:アロー戦争後に天津条約が結ばれ英仏軍が引き上げたが、この条約の結果では英仏は満足していなかった。また清の朝廷内部では条約に対する非難が高まり、清は条約に定められた1年以内の批准を拒んだ。このため英仏軍は再び天津に上陸。結局、ロシアの仲介で清と英仏連合軍との交渉が行われ、清とイギリス、清とフランスとの間に新たに北京条約が結ばれた。また仲介したことを口実に清とロシアとの間でも新たに北京条約が結ばれた。なお国境について20世紀に入ってから、曖昧な部分を巡って中ソ間に軍事紛争(張鼓峰事件、珍宝島事件)が勃発している。最終的に国境は、中国とロシアによる中露国境協定(2004年)で確定された。

*3:KGBの前身

*4:ヤゴーダ(大粛清で処刑)の後任としてNKVD長官に就任。しかし自らもヤゴーダ同様粛清された(エジョフの後任はベリヤ)。

*5:カザフスタンアルマトイ市で発刊されている、在ソ連高麗人たちのハングルによる新聞。1938年5月、ソ連共産党機関紙「レーニンの旗」として創刊。1991年5月からは題号を「高麗日報」と改称し、現在まで発行されている(ウィキペ「高麗日報」参照)。

*6:上野石之助(うわの・いしのすけ:1922年10月〜)は、元日本国籍ウクライナ人。ウクライナでは「イシノスキー」の名で生活している。上野は岩手県九戸郡大野村(現在の洋野町)出身の元日本陸軍兵士。1943年に召集され、サハリン南部(南樺太)で終戦を迎えた。終戦後もそのままサハリン(樺太)に残留、現地で結婚していたが1958年を最後に連絡が途絶え、2000年に盛岡家庭裁判所で戦時死亡宣告が確定していた。1958年以降の経緯については本人が明かしていないため不明。以来、現在もウクライナで暮らしている。2006年4月19日に63年ぶりに来日。ちなみに、上野は長いウクライナでの生活の中で日本語をほとんど忘れてしまったという。好きな歌はウクライナ国歌であるという。洋野町内には実の弟と妹とその家族が暮らしている(ウィキペディア「上野石之助」参照)。

*7:在日朝鮮・韓国人が日本に住み続けたり、黒人がアフリカに帰らず米国に住み続けたり、寺越武志氏が平壌に住み続けるのも似たような話でしょう。

*8:著書『ドイツの歴史教育』(2005年、白水社

*9:好きで受け入れたと言うよりは同胞である以上受け入れざるをえなかったわけだが

*10:もちろん筆者も言うように追放ドイツ人と今の「ドイツの難民(イスラム出身が多い)」とには違いもある。違いとして1)同胞であるかないか、2)(1)と関連するが)文化の違い(キリスト教イスラム、など)などである。もちろん現在の方が難民受入への反発は強いと見られる。

*11:ただし追放されたドイツ人にはナチ以前からの自然定住もあった。その点は満州移民との違いではある。

*12:ハベル時代は「チェコスロバキア」だが現在は「チェコ」と「スロバキア」の二国になっている。

*13:首相、外相、大統領を歴任。チェコスロバキア共産党およびソ連の圧力によって、1948年6月7日に大統領を辞職。同年9月、死去。

*14:著書『蘇るパレスチナ:語りはじめた難民たちの証言』(1989年、東京大学出版会

*15:オバマ政権国務長官

*16:外務次官、国連大使を経て外相

*17:エリツィン政権大統領府第一副長官、連邦保安庁長官、第一副首相、首相を経て大統領

*18:著書『洋服・散髪・脱刀:服制の明治維新』(2010年、講談社選書メチエ)、『明治国家の服制と華族』(2012年、吉川弘文館)、『京都に残った公家たち:華族の近代』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、 『三条実美』(2016年、吉川弘文館)、『帝国日本の大礼服』(2016年、法政大学出版局

*19:もちろん跡継ぎがいれば問題はないですが(後で紹介する前田利為の場合は、長男が後を継いだ)。

*20:第1次伊藤、黒田内閣内務相、第2次伊藤内閣司法相、首相、枢密院議長、陸軍参謀総長など要職を歴任。元老の一人。

*21:台湾総督、第3次伊藤、第1次大隈、第2次山県、第4次伊藤内閣陸軍大臣、首相を歴任

*22:第2次山県、第4次伊藤、第1次桂内閣海軍大臣、首相を歴任

*23:第1次桂、第1次西園寺、第2次桂内閣陸軍大臣朝鮮総督、首相を歴任

*24:原、第2次山本内閣陸軍大臣、首相を歴任

*25:第1次西園寺、第2次桂、第2次西園寺、第3次桂、第1次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任。内大臣在任中に226事件で暗殺される。

*26:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長、首相を歴任

*27:第2次桂内閣で司法相。

*28:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、近衛内閣陸軍相を経て首相。戦後、A級戦犯として死刑判決。

*29:検事総長大審院長、第二次山本内閣司法相、枢密院議長などを経て首相。戦後、A級戦犯として終身刑

*30:首相、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監など要職を歴任。元老の一人。韓国の民族活動家・安重根によって暗殺される。

*31:右大臣、太政大臣内大臣を歴任

*32:右大臣、外務卿を歴任

*33:参議、内務卿、文部卿を歴任

*34:参議、大蔵卿、内務卿を歴任

*35:第1次伊藤内閣農商務相、第2次伊藤内閣逓信相、首相、枢密院議長など歴任。元老の一人。

*36:第1次伊藤内閣外相、黒田内閣農商務相、第2次伊藤内閣内務相、第3次伊藤内閣蔵相を歴任。元老の一人。

*37:西郷隆盛(参議、陸軍大将、近衛都督)の弟。第1次伊藤、黒田、第1次山県内閣海軍相、第1次山県内閣内務相を歴任。元老の一人。

*38:第1次伊藤、黒田、第1次山県、第2次伊藤、第2次松方内閣陸軍相、陸軍参謀総長内大臣を歴任。元老の一人。

*39:加賀藩主前田本家第16代当主。 ボルネオ守備軍司令官在任中の1942年に戦死。

*40:伯爵・壬生基修の4男。のちに子爵・町尻量弘の養嗣子となる。陸軍省軍務局長、北支那方面軍参謀副長、第2軍参謀長、第6師団長、印度支那駐屯軍司令官など歴任。

*41:醍醐侯爵家の嫡子として生まれる。父・醍醐忠敬は1899年に家督相続に絡む怨恨によって甥(忠敬の兄・忠告の子)の格太郎に射殺された。この事件が大スキャンダルに発展してしまい、これが原因で醍醐家は没落、忠重は一条家に引き取られて養育された。第六艦隊司令長官としてインドネシア終戦を迎えるが、ポンティアナック事件(日本軍による虐殺事件)の責任者として死刑判決。

*42:肥前唐津藩主、江戸幕府老中の小笠原長行の長男として生まれる。日露戦争後、東郷平八郎に傾倒し、持ち前の文才で「東郷元帥詳伝」を著し、その神格化につとめた。海軍部内では、「東郷さんの番頭」、「太鼓持ちの小笠原」などと蔑称されていたと伝わっている。