新刊紹介:「歴史評論」7月号

★特集『日中戦争を考える:80年目の今日』
・ちなみに80年前の1937年には「盧溝橋事件(7月7日)」「日独伊三国防共協定締結(11月6日)」「南京事件南京虐殺)(12月)」などがありました。
・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。それなりに紹介できそうな内容のみオレ流に紹介しておきます。
日中戦争史研究の現在と日中関係(久保亨*1
(内容紹介)
 まあ総論的内容ですね。
 最近の日中戦争史研究の成果としては
1)久保氏がコミットした『日中戦争の国際共同研究1〜5』(2006〜2014年、慶應義塾大学出版会、http://www.keio-up.co.jp/np/search_result.do?ser_id=40参照)
 久保氏自身は久保『戦時中国の工業発展』(『日中戦争の国際共同研究5』(2014年、慶應義塾大学出版会)収録)という論文を執筆しています。
2)第一次安倍内閣での日中歴史共同研究をもとにした北岡伸一*2、歩平編『「日中歴史共同研究」報告書 第2巻 近現代史篇』(2014年、勉誠出版
3)『「日中歴史共同研究」報告書第2巻 近現代史篇』について論じた笠原十九司*3編『戦争を知らない国民のための日中歴史認識 『日中歴史共同研究』を読む』(2011年*4勉誠出版
が上げられています。
 久保氏の興味関心のある分野が「共同研究」、特に「国際的共同研究」だということがわかります。いや一個人の研究がどうでもいいわけでは無論ないですが。
 なお、久保氏も含め多くの論者が指摘していますが、安倍ですら、第一次安倍内閣では2)のような研究を実施せざるを得なかったし、この研究を尊重する立場に立てば、南京事件否定論への好意的態度などの極右的方向性は出てこない。
 2)はもちろん政府研究なので一定の限界はありますがさすがに日本の侵略の不当性は認めてるわけです。安倍は第一次安倍内閣でやったことを平然と無視してるわけで、まあ今さらながらデタラメな男です(なお、ここでは日中歴史共同研究について触れましたが「日本の侵略の不当性はさすがに認めている」が「安倍がその後報告書の存在を無視してる」というのはこれまた第一次安倍政権で実施された日韓歴史共同研究も同じ話です)。
・久保氏が「極右・安倍政権の支持率が未だに高止まりし、本屋に反中国本が平積みされ、テレビでも反中国言説が珍しくないという現在」、日中友好の基礎としての「あの戦争への反省がいっそう深く求められる」としている点には全く同感ですが、「道は遠い」という絶望感というか空しさというかそういうのがありますね。安倍が真珠湾訪問したことについて中国側では「真珠湾しか訪問しないのか」「あの戦争の最大の被害国は中国ではないのか」などという疑義や反発*5があったようですが日本人一般にはそう言う意識が弱いわけです。
 久保氏も含め多くの識者が指摘していますが、日本人における「中国に対する加害意識」「中国に敗戦したという意識(むしろ米国に対する敗戦意識が強い)」の弱さが問題の訳です。
 そこには「中国、台湾が賠償請求しなかった*6」と言う要素もあるでしょう。あくまでも政治的配慮で要求しなかったわけですが。
 そうした意識が弱いからこそ張作霖暗殺コミンテルン陰謀論南京事件否定論などと言う与太が未だにある。
 とはいえ久保氏が危惧する「尖閣での軍事衝突」はさすがにないだろうと思います(俺の願望込みですが)。
 さすがに中国とガチンコで戦闘するのはあまりにも安倍にとってもリスキー過ぎる。
 一方で中国側も党・政府中央はそこまで無謀ではないでしょう。環球時報辺りの勇ましい主張を本気にしたら大間違いでしょう(もちろんああいう主張には非常に問題がありますが)。尖閣に「石油や天然ガスがある」というのは可能性の問題にすぎません。その程度の可能性で「日中経済交流を犠牲にしかねない」戦争など到底できはしないでしょう。
 二階*7自民党幹事長が財界首脳とともに訪中するのも、多くの日本企業が中国進出するのも「日本にとっての中国の重要性」を示しています。いや何も中国市場が重要なのは日本だけでなくほとんど全ての国がそうですが。だからこそ多くの国がAIIBや一帯一路構想に参加する。中国は今や戦前とは違い、世界の大国になりました。日本が戦前のように中国を格下扱いする思い上がった態度で扱えるような状況では全くないわけです。


日中戦争下の「傀儡政権*8」史(小笠原強*9
(内容紹介)
 筆者は「傀儡政権」研究について「政治的にデリケートな問題だと言うこと」もあってか、蒋介石国民党や毛沢東共産党の研究に比べて手薄であり、また「傀儡政権」の研究ももっぱらメジャーな存在である「溥儀*10満州国*11研究」「汪兆銘*12中華民国南京国民政府*13(以下、南京国民政府)研究」に集中しており、「最終的に汪兆銘の南京国民政府に吸収されたこと」もあって「殷汝耕*14の冀東防共自治政府*15(1935〜1938年)」「梁鴻志*16中華民国維新政府*17(1937年〜1940年)」「王克敏*18中華民国臨時政府*19(1937年〜1940年)」の研究が不十分であることが指摘される。
 最近の傀儡政権研究として以下の著作が紹介されている(おおむね発行年順に紹介)。
1)劉傑*20『漢奸裁判:対日協力者を襲った運命』(2000年、中公新書)
2)森久雄『徳王*21の研究』(2000年、創土社)、『日本陸軍と内蒙工作:関東軍はなぜ独走したか』(2009年、講談社選書メチエ)
3)柴田哲雄『協力・抵抗・沈黙:汪精衛南京政府イデオロギーに対する比較史的アプローチ』(2009年、成文堂)
4)土屋光芳『「汪兆銘政権」論』(2011年、人間の科学新社)
5)堀井弘一郎*22汪兆銘政権と新国民運動』(2011年、創土社
6)広中一成*23『ニセチャイナ:中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』(2013年、社会評論社)、『通州事件日中戦争泥沼化への道』(2016年、星海社新書)
7)小笠原強『日中戦争期における汪精衛政権の政策展開と実態:水利政策の展開を中心に』(2014年、専修大学出版局
 また筆者は紹介していないが、
8)楊海英『日本陸軍とモンゴル:興安軍官学校の知られざる戦い』(2015年、中公新書)
9)久保論文が紹介する『日中戦争の国際共同研究1〜5』(2006〜2014年、慶應義塾大学出版会)に収録された
解学詩『「満州国」の政権体制と基層社会組織』 、盧明輝『日本軍の内モンゴル占領と「蒙古聯合自治政府」の本質』(『日中戦争の国際共同研究1』(2006年、慶應義塾大学出版会)収録)
なども傀儡政権研究の例としてあげることができよう。
 なお、筆者は「傀儡政権」という呼び方について「政権について最初からネガティブなイメージを与える用語はいかがなものか」「多くの傀儡政権幹部は少なくとも主観的には自主性を目指していた」という認識から「占領地政権」あるいは「対日協力政権」という呼称がより適切だろうとしている。

参考
■産経【世界史の遺風】(62)汪兆銘 「漢奸*24」と断罪された「愛国者」(東大名誉教授・本村凌二*25
http://www.sankei.com/life/news/130613/lif1306130034-n1.html
 まあ主観的には汪は愛国者でありたいとは願ったのでしょう。
A)蒋介石(1975年死去)、毛沢東(1976年死去)、トウ小平(1997年死去)ら戦争の直接当事者の多くが亡くなった
B)文革終了後の改革開放*26や1990年代の台湾の民主化
C)ソ連東欧民主化で冷戦が終了したこと(1989年)もあって中台関係が進展した
などの影響で1990年代以降から状況は徐々に変わり、最近では中国、台湾においてもそうした汪認識が広まりつつあるようです(是非はともかく歴史研究にはそうした政治状況が影響することがあります)。小笠原強氏、広中一成氏なども指摘していますが、無論「あいつは傀儡だ」で切って捨てていいとは俺も思いません。歴史とはそう言う単純な勧善懲悪じゃない。
 善意でも駄目な結果にもなれば、悪意でもいい結果にもなる。
 これは中国での傀儡政権(汪兆銘)に限らないでしょう。おそらく日本統治下韓国でのいわゆる親日派もそうだし、ソ連健在時の東欧指導者もそうだし、「プンツォク・ワンギェル(プンワン)*27やウランフ*28といった少数民族中国共産党幹部」なんかもそうでしょう。彼らの多くは恐らく単純な「日本の手先」「ソ連の手先」「中国の手先」ではない。プンワンやウランフを「中国の手先」で斬って捨ててはいけない*29程度には汪兆銘愛国者でしょう。
 そしてチベット解放なんかも「チベット民族運動への漢民族の無理解」というマイナス要素もあれば、「近代化」というプラス要素もある。明治維新なんかも「民主主義の不十分さ」というマイナス要素もあれば、「近代化」というプラス要素もある。
 別に「プラス要素(近代化)があれば」日本の傀儡政権づくりを認めていいとは全く思いませんがそう言う事実は認識しておくべきでしょう。
 とはいえ「汪の政治力の無さ」と「汪に対し自主性などほとんど認める気のない日本政府の無理解」により「主観はともかく」彼は客観的には「漢奸」にしかなれませんでした。「あいつは傀儡だ」で斬って捨ててはいけませんが「善意の人だから」で「客観的には傀儡にすぎなかったこと」はチャラにはなりません。ましてやそれを「傀儡国家を作った側の日本人」が「あいつは傀儡じゃない。俺たちは悪くない」「とにかく近代化に貢献したんだからいいことだ」などと産経などウヨ連中のように「自己免罪のためにやる」など「恥知らず」「歴史修正主義」「デマゴギー」以外の何物でもありません。
 それについては例えば

汪兆銘 理想と現実1
 汪兆銘(汪精衛)は、日中戦争開戦当時、国民政府内で蒋介石に次ぐNo2でした。しかしのち、蒋介石と訣別して、最終的には日本の傀儡政権の長を務めるに至ります。
 汪兆銘は、中国では、「漢奸」、すなわち民族の裏切り者としての評価を受けています。しかしその一方、汪が、少なくとも主観的には、「善意で中国民衆のために行動していた」という側面も否定できません。
 善意の政治家であったはずの汪兆銘が、なぜ日本の傀儡政権である「南京国民政府」の長となり、中国側から「漢奸」の謗りを受けるに至ったのか。本コンテンツでは、この経緯を追ってみることにします。

を参照下さい。
 そうした事実を無視する産経のような物言いは極めて問題でしょう。
 であるからこそ

汪兆銘 理想と現実2
 交渉は難航し、12月25日には、途方に暮れた汪は、ついに「交渉打ち切り」すら申出するに至ります。

ということで「交渉当初は汪の要望にできる限り対応するかのような、調子のいいことを言いながら、交渉が進むにつれ前言撤回し出す」日本側の無法に呆れた汪は一時は日本との提携をあきらめることすら考え出します(結局は提携しますが)。
 また日本側の要求があまりにも酷いが故に

汪兆銘 理想と現実2
 高は、ついに汪グループからの離脱を決意します。そして、あまりに過酷な日本側の条件を、国民党系新聞『大公報』に持ち込み、世界に暴露してしまったのです。

ということで汪の側近だった高宗武、陶希聖*30は汪グループから離脱したあげく、汪批判を始めてしまいます。
 高、陶の離反は汪にとって、蒋介石の放った工作員による曽仲鳴暗殺に次ぐ大ダメージとなります。
 その結果、汪の腹心・周佛海*31

汪兆銘 理想と現実2
 高、陶の二匹のクズはいつか必ず殺してやる。

と日記に書き残すほど憤激*32しますが、南京国民政府誕生前からこれでは失敗(日本の傀儡政権化)は運命だったと言ってもいいかもしれません。
 また、ウィキペ「汪兆銘」によれば

汪は晩年には家族に対して、「日本人に本当の友人はいない」と嘆いていたとも伝えられる。

という悲惨な事になるわけです。
 

東洋経済オンライン『「弱い人に愛着?」一風変わった中国研究家』
http://toyokeizai.net/articles/-/17249

インタビュアー
 日中戦争史などを専門とする研究者になった経緯を教えてください。
広中一成氏(以下、広中氏)
(前略)
 修士論文がなかなか書けなくて修士課程に4年もいました。
 親日傀儡政権、特に冀東防共自治政府をテーマに定めたのはその頃です。
(中略)
 いやらしい話ですけれど、人がやらないことをやらなくては研究者として評価されません。満州国はすでに多くの研究者が取り組んでいます。でも、冀東はほとんど誰もやっていない。指導者だった殷汝耕は(ボーガス注:日本では一般人には)ほとんど知られていないでしょう。
インタビュアー
 中国における親日傀儡政権の失敗原因は何だったと思いますか?
広中氏
 複数の政権がありますから、さまざま原因があります。あえてひとつ言えば、日本のエリートが結集して作り上げた満州国の成功例を、各地で踏襲してしまったところが大きな要因でしょう。あまりに広い範囲を統治しようとしたため、日本人も現地の人も力のある人材を集めきれなかったのです。
 また、日本人の中国人に対する不信感や差別感も問題でした。政権を樹立して現地の人材を登用した後も、信用せずに日本人の顧問を送り込んでがんじがらめに支配しようとした。人心掌握ができず、統治能力に欠けていたのも当然です。


ものろぎや・そりてえる
■書評:堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動──動員される民衆』(創土社、2011年)
http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-6199.html

・日本側の工作に応じて重慶蒋介石から分離した汪兆銘グループが、北京の中華民国臨時政府(首班は王克敏)及び上海の中華民国維新政府(首班は梁鴻志)と合流する形で1940年3月末、南京に成立したいわゆる汪兆銘政権については、共産党・国民党の双方から「傀儡政権」と規定されているため研究蓄積が少ない。この政権が日本の大陸侵略に利用されたのはもちろん確かであるが、他方で汪兆銘たち自身の少なくとも主観的意図としては日本側と交渉しながら限定的条件の中でも中国側の利益を図ろうとした側面も看過できない。「傀儡」とレッテル貼りして一定の枠組みの中に歴史理解を狭めてしまうとこうした両義性が見落とされかねないという問題意識から、本書では「対日協力」政権という呼称が用いられる。
(中略)
・1943年以降、汪兆銘政権の政治力をいかに強化するかという問題意識→そもそも「親日」政権ということで一般の評判が悪く、民心掌握ができていない→対民衆工作が課題となった。
(中略)
・(前略)民衆動員運動として新国民運動。
(中略)
・新国民運動は、積極的な理念を展開するものではなく、三民主義を継承。また、蒋介石の新生活運動を踏襲。華北にも進出したが、新民会(新国民運動促進委員会)との整合性がとれず頓挫。
・近代国民国家にふさわしい「礼儀正しく文明的」な国民性を形成しようという志向性を持っていた点で、蒋介石政権の新生活運動と汪兆銘政権の新国民運動には共通点があったという指摘は、近代中国史における国民国家形成という長期的課題を念頭に置いて考えると興味深い。
汪兆銘の死後(1944年11月)、新国民運動は消滅。


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■楊海英『日本陸軍とモンゴル』(中公新書) 5点
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52126302.html

 副題は「興安軍官学校の知られざる戦い」。けれども、「モンゴル独立を目指したジョンジョールジャブの生涯」といった副題のほうが内容を表しているといえるでしょう。
 満州国の成立を機に、内蒙古のモンゴル人たちは日本の支援によって中国からの独立を夢見ますが、日本にとってモンゴル人は日本の勢力拡大のため協力すべき存在にすぎませんでした。
 そんなモンゴル人の日本への期待と幻滅、そして中華人民共和国の成立によってさらに民族の誇りを奪われてしまったモンゴル人の悲劇を描いた本です。
(中略)
 1932年に満州国が建国されると、モンゴル人たちは自分たちも独立へと燃え上がりますが、日本が認めようとしたのはあくまでも自治でした。また、すでに外蒙古には社会主義国モンゴル人民共和国が成立しており、日本のモンゴル人への肩入れは、モンゴルの「赤化」防止のためでもありました。
 そうした中で1934年にモンゴル人を軍人として教育するためにつくられたのが興安軍官学校です。
 興安軍官学校は、独立を夢見るモンゴル人たちの期待を集めますが、1936年に興安北省省長でモンゴル人の有力者だった凌陞(りょうしょう)が関東軍憲兵隊によってソ連と通じた罪で処刑され、ノモンハン事件が起こると、モンゴル人の心は日本から離れていきます。
(中略)
 モンゴル人たちの民族自決の夢は日本の勢力範囲内での「自治」という形に矮小化され、ジョンジョールジャブの不満は終戦直前に爆発します。
 ソ連の侵攻を知ったジョンジョールジャブは、8月11日に日系将校を殺して、日本軍を裏切ります。モンゴル人の想いを裏切り続けてきた日本軍を最後に裏切ったのです。


■視角を転換し、問題を発見する:石島紀之*33著『中国民衆にとっての日中戦争*34の中国での出版に寄せて(李秉奎)
(内容紹介)
 中国における日中戦争研究は「政治経済史」の視点に比べ、「民衆史」に対する視点が未だ弱く、その点、「民衆史」に着目した石島著書には大きな意義があると論じています。


参考
弁護士会の読書『中国民衆にとっての日中戦争
http://www.fben.jp/bookcolumn/2014/11/post_4153.html

 この本は、日本軍が中国で何をしたかについて、現地の中国民衆の声を拾い集め、その置かれた状況を明らかにした貴重な本です。
 当時の中国では、とくに農村部では、ほとんどの民衆が文字を読めず、記録することができなかった。民衆は、自分の生活にしか関心がなく、どこの国と戦っているのか知らない民衆も多かった。
 日本軍は抗日根拠地を飢餓状態にして壊滅するため、根拠地の食糧を焼却し、あるいは略奪した。日本軍は「放火隊」を組織して、家屋や食料を焼き払った。
 民衆にとって、食糧問題こそ、戦時生活のもっとも重要なカギだった。
 多くの中国農民は日本軍が来るまで、それほど恐怖心をもっていなかった。ところが、日本軍の残酷さは、民衆の思いもよらないものだった。この日本の残酷さは、民衆に二通りの反応をもたらした。
 その一は、怒りと憎しみである。
 その二は、恐怖と混乱である。
 このように、日本軍の侵略に直面した民衆の反応は複雑だった。
 民衆を八路軍(共産党の軍隊)に動員するのは容易なことではなかった。民衆には「まともな人間は兵隊にならない」という伝統的観念が存在していたし、日本軍との苛烈な戦いに対する恐怖心もあった。
(中略)
 民衆のなかには恐日病・悲観・失望の心理がひろがり、掃蕩は八路軍の日本軍への攻撃のせいであると考え、怒りを八路軍共産党に向ける者もいた。したがって、日本軍の残虐行為が民衆(農民)のナショナリズムの形成と直接結びついていたわけでもなかった。
 なるほど、そういうことだったのですね。しかし、結局のところ、このような困難を次第に克服し、中国の民衆と結びついて、共産党軍(紅軍)は、日本軍を圧倒していったわけです。
 日本軍が中国で何をしたのか、それはどんな問題を引きおこしたのかがよく分析されている本です。

【参考:盧溝橋事件80年】
■人民日報『王毅*35部長「日本は理性的に中国を見て、受け入れるべき」』
http://j.people.com.cn/n3/2017/0308/c94474-9187446.html

 中日関係の発展に関する問題について記者から受けた質問に対し、王部長は、「今年は中日国交正常化45周年にあたる年となるが、同時に『盧溝橋事変(盧溝橋事件)』の80周年の年でもある。このふたつの記念日は、一つは平和と友好、一つは戦争と対抗という全く異なる二つの道を代表している。80年前、日本は中国に対し全面的な侵略をおこない、中国及びアジア諸国の人々に深刻な災いをもたらし、最終的に日本自身もまた敗戦の憂き目にあった。そして(ボーガス注:日中国交を正常化した)45年前、日本の指導者*36は歴史を反省し、近隣諸国との関係を改善し、自身の急速な発展を実現した。数十年後の今日、われわれは日本国内には依然としてこの二つの道の間で揺れ動き、さらには歴史を逆転させようとすら試みる人々がいることを見てとれる。我々は平和を愛する日本の人々が、この重要な年にあたり、しっかりと日本の向かっていく方向の舵取りをしてほしいと願っている」とした。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-07-07/2017070703_02_0.html
赤旗『盧溝橋事件80年と安倍政治、日中全面戦争の泥沼なぜ陥ったか』
 7月7日は盧溝橋事件から80年です。この事件が発端となり、日本は中国全土での日中全面戦争につきすすみます。
(中略)
 事件そのものは偶発的に発生したものでした。局地的な事件として現地軍の間で停戦協定が成立し決着しました。
 ところが、陸軍は約10万人の大兵力を北京など華北に派遣すると決定。近衛文麿内閣も「武力抗日疑いの余地なし」の声明をだしこれを承認し華北派兵を閣議決定しました。
 この背景には、前年の二・二六事件で軍部強権体制の実権を握った陸軍参謀本部内で、武藤章*37A級戦犯東京裁判で死刑)らが「華北分離工作」の懸案を一気に解決できるという、一見勇ましい「中国一撃論」を主張して勢力をのばし、旧「満州」(中国東北部)重視の不拡大論を抑えたことがありました。
 「華北分離」とは国民党政府の支配から華北5省*38を分離するのが目的でした。
 日本軍は7月末までに北京を占領。これに対し中国側は華北が「第2の満州」になると懸念し、日本の侵略にたいする危機感を強めます。


朝日新聞『抗日戦争の期間、8年から14年に変更 中国の狙いは?』
http://digital.asahi.com/articles/ASK6F575LK6FUHBI01J.html
 朝日がこんな産経レベルの反中国駄記事を書くとは唖然です。
 正直、「15年戦争論」は台湾はどうか知りませんが日本ではむしろ定着した見方です。
 「15年戦争」でググれば

・江口圭一*39十五年戦争の開幕』(1988年、小学館)、『新版・十五年戦争小史』(1991年、青木書店)、『十五年戦争研究史論』(2001年、校倉書房
大杉一雄*40『日中十五年戦争史:なぜ戦争は長期化したか』(1996年、中公新書)
・岡部牧夫*41十五年戦争史論』(1999年、青木書店)
小田部雄次*42『徳川義親*43十五年戦争』(1988年、青木書店)
藤原彰*44昭和天皇十五年戦争』(2003年、青木書店)
・安川寿之輔*45十五年戦争と教育』(1986年、新日本出版社

などがヒットします。日本で「15年戦争」が一般化してる以上、中国にそれが受け入れられても何ら不思議ではない(ただ中国では14年数ヶ月と言う事で15年ではなく14年と呼ぶようですが)。
 また、中国の「14年戦争論」については「第二次国共合作(1937年)成立前の国民党の対日戦争を評価し中台関係改善につなげる(8年戦争論では正直、国共合作成立前の国民党の対日戦争に対する好意的評価は難しいでしょう*46)」など様々な理解、評価が可能だと思いますがなぜ

 共産党は49年の建国後、公式の党史でも「8年」とする立場をとり、有名な革命歌でもそう歌ってきた。日本との全面対立は国民党と共産党が確執の末に連携し、日本にあたるようになった37年以降と考えられてきたためだ。
 解釈変更のきっかけは2015年7月、党政治局の学習会で習氏が「柳条湖事件から14年間の歴史を一貫したものとして学ばなければならない」と発言したことだ。研究者の間には抗日戦争を「14年」とする意見があったが、習氏の一言で突然「公認」された形だ。
 党指導部の大号令の前に異論はかき消されている。
中国社会科学院近代史研究所の元所長で「8年」説を貫く張海鵬氏は1月末、「『14年』は学界の共通認識ではない。このテーマを論じるのがタブーになることを懸念する」と訴える評論をネットで公表したが、すぐに削除された*47
 別の研究者は「今の指導部に異論は唱えられない。教育現場で客観的な歴史の背景を教えるのも難しくなるだろう*48」と危惧した。

「31年前後から盧溝橋事件までの旧日本軍による『被害』を今後一層強調する可能性もあり、中国が歴史問題で日本を責める新たなカードを増やそうとしている*49」(川島真*50東京大学大学院教授)と警戒する見方

だのという「否定的な見方しかしない」のか理解不能です。

 背景には5年に一度の党大会を控え、共産党の権威を高めようとする習近平(シーチンピン)指導部の意図があるとみられる。

 言ってる意味がさっぱりわかりません。何故14年戦争論だと共産党の権威が高まると思うのか?。
 むしろ「国共合作前の国民党の抗日戦争を評価する=14年戦争論」ということで相対的には共産党の権威は落ちるのではないのか(ただし、その結果「台湾国民党」との融和関係が進めば、もちろん中国共産党にとってデメリットとは言えません)。いやそもそも「14年戦争論共産党の権威が高まる」のならば何故毛沢東時代や、トウ小平時代は「8年戦争論だった」のか。朝日の主張はまったく筋が通りません。
 今や朝日も「産経と同レベルの反中国バカウヨ」が記事を書く嘆かわしい時代になったようです。


歴史科学協議会第創立50周年記念シンポジウムの開催について
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/50th_sinpo20170708.html

日  時:2017年7月8日(土) 13時〜   
会  場:明治大学リバティタワー1階1011教室(東京都千代田区神田駿河台1−1)
【テーマ】天皇制・君主制をめぐる現代歴史学の諸課題 
 歴史科学協議会は、1967年に全国各地の自主的な歴史研究諸団体が結集して結成されました。
 創立50周年を迎えるこの記念すべき節目に、3人のご報告者を招き、それぞれの時代や地域における天皇制・君主制をめぐる歴史学的諸課題を論じていただくことにしました。
 皆さんと今後の歴史研究を展望する機会となれば幸いです。
  【報告者】
   仁藤敦史氏*51「古代王権論の成果と課題―女帝・譲位・太上天皇の成立―」 
   渡辺節夫氏*52「ヨーロッパ中世の王位継承:選挙制と世襲制―フランスを中心として―」
   安田常雄氏「「天皇退位問題」と象徴天皇制

 まあ聞きに行く熱意まではないですが、いずれ歴史評論に紙上収録されると思うのでそれは読みたいと思います。

*1:著書『戦間期中国「自立への模索」:関税通貨政策と経済発展』(1999年、東京大学出版会)、『戦間期中国の綿業と企業経営』(2005年、汲古書院)、『社会主義への挑戦:1945〜1971』(2011年、岩波新書)、『戦時期中国の経済発展と社会変容』(編著、2014年、慶應義塾大学出版会)など

*2:日中歴史共同研究委員会」日本側座長(第一次安倍内閣)、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」委員、JICA理事長(第二次安倍内閣以降)などを務め安倍に近い立場。東大名誉教授。著書『清沢洌』(1987年、中公新書)、『後藤新平』(1988年、中公新書)、『国際化時代の政治指導』(1990年、中公叢書)、『日米関係のリアリズム』(1991年、中公叢書)、『国連の政治力学』(2007年、中公新書)など

*3:著書『南京事件』(1997年、岩波新書)、『南京難民区の百日:虐殺を見た外国人』(2005年、岩波現代文庫)、『南京事件論争史』 (2007年、平凡社新書)、『「百人斬り競争」と南京事件』(2008年、大月書店)、『日本軍の治安戦:日中戦争の実相』(2010年、岩波書店)、『海軍の日中戦争:アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(2015年、平凡社)など

*4:2014年に刊行された本より刊行年次が早いのは、報告書が市販されたのが2014年であっても報告書が(市販はされなくても)発表されたのは2010年だからです。

*5:これについては、たとえば人民日報『安倍首相の真珠湾訪問に各国の学者から疑問の声』(http://j.people.com.cn/n3/2016/1226/c94474-9159311.html)、『安倍首相の真珠湾「慰霊の旅」に批判の声』(http://j.people.com.cn/n3/2016/1228/c94474-9160335.html)、浅井基文ブログ『安倍首相の真珠湾訪問(中国側見方)』(http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2016/867.html)参照

*6:もちろんODAの問題はありますが少なくともODAは建前では戦後賠償ではありません。

*7:小渕、森内閣運輸相、小泉、福田、麻生内閣経産相自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)などを経て自民党幹事長

*8:なお、ここでは「日中戦争での中国大陸の傀儡政権」が取り上げられていますが歴史的には「日本のした戦争」に限定しても、他にも「東南アジアの傀儡政権(大東亜会議に出席したフィリピンのホセ・ラウレル大統領、ミャンマービルマ)のバー・モウ首相)」があります。そういう研究もまた重要なわけです(日本のした戦争に限定しなければ、「フランスのヴィシー政権」など、もちろんもっとたくさんあります)。

*9:著書『日中戦争期における汪精衛政権の政策展開と実態:水利政策の展開を中心に』(2014年、専修大学出版局

*10:清朝最後の皇帝。1934年に日本に担ぎ出されて満州国皇帝に就任。戦後、戦犯として下獄するが、1959年に模範囚として釈放。1964年に満洲族と漢族の融和を目指す周恩来の計らいで、満洲族代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出。1967年にがんで死去。

*11:現在の東北三省(遼寧省吉林省黒竜江省)、内モンゴル自治区の一部に当たる地域を統治。

*12:1940年に南京国政府主席に就任。1944年に病死。

*13:現在の江蘇省浙江省安徽省湖北省広東省江西省に当たる地域を統治。

*14:1935年8月、奉天特務機関長・土肥原賢二(戦後、A級戦犯として処刑)に誘われる形で、冀東防共自治政府政務長官に就任するが、1937年7月に発生した「通州事件」を理由に引責辞任。1942年、殷は汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加する形で政界に復帰。治理運河工程局局長など治水関係の役職を歴任した。しかし、殷は権限の小ささに不満を抱き、1944年6月に治水関係の職務を辞した。1945年12月、漢奸として逮捕され、1947年11月8日、最高法院で死刑が確定。12月1日、南京の刑場で銃殺された。通州事件については例えば『「通州事件」への視点』(http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html)参照

*15:現在の河北省に当たる地域を統治。1938年に中華民国臨時政府に吸収された。

*16:1937年に中華民国維新政府行政院長(首相)に就任。汪兆銘の南京国民政府参加後は監察院長、立法院長(国会議長)を歴任。1945年10月、漢奸として逮捕され、1946年6月、死刑が確定。11月9日に銃殺された。

*17:現在の江蘇省浙江省安徽省に当たる地域を統治。汪兆銘の南京国民政府に吸収された後は南京国民政府華北政務委員会に改称。

*18:1937年に中華民国臨時政府行政委員長に就任。汪兆銘の南京国民政府参加後は華北政務委員会委員長、物資調査委員会委員長など歴任。1945年12月に漢奸として逮捕され獄死。

*19:現在の河北省、山東省、河南省山西省にあたる地域を統治。

*20:著書『日中戦争下の外交』(1995年、吉川弘文館)、『中国人の歴史観』(1999年、文春新書)、『中国の強国構想:日清戦争後から現代まで』(2013年、筑摩選書)など

*21:1937年に蒙古聯盟自治政府主席に就任。1949年に外モンゴルに亡命するが、中華人民共和国(中国)やソ連との対立を恐れる外モンゴル政府によって漢奸として中国に送還された。1966年に病死。

*22:著書『「満州」から集団連行された鉄道技術者たち』(2015年、創土社)など

*23:著書『語り継ぐ戦争:中国・シベリア・南方・本土「東三河8人の証言」』(2014年、えにし書房)など

*24:漢民族の裏切り者、売国奴」の意味。

*25:著書『ローマ人に学ぶ』(2012年、集英社新書)、『古代ローマとの対話』(2012年、岩波現代文庫)、『愛欲のローマ史』(2014年、講談社学術文庫)、『ローマ帝国人物列伝』(2016年、祥伝社新書)など

*26:改革開放それ自体は民主化ではないですが改革開放によって毛沢東的な締め付けはなくなります。

*27:チベット人の党幹部。チベット解放に協力。文革で打倒されるが、後に復権全国人民代表大会全人代)常務委員、中央民族委員会副主任などを歴任

*28:モンゴル人の党幹部。内モンゴル自治区党委員会書記。文革で打倒されるが、後に復権。国家副主席、全国人民代表大会全人代)副委員長などを歴任

*29:なお、さすがにペマ・ギャルポも楊海英もそのような切り捨てはしていないようです。

*30:ウィキペディアに寄れば高はこれを機に政治から足を洗い、一方、陶は国民党中央宣伝部副部長、総統府国策顧問などを歴任、蒋介石の腹心として活躍することになる。

*31:汪政権において行政院副院長(副首相)、財政部長(財務相)、中央儲備銀行(中央銀行)総裁、上海市長など歴任

*32:とはいえ、高は1994年、陶は1988年まで生き、一方、周は戦後、漢奸として逮捕され1948年に獄死します。

*33:著書『中国抗日戦争史』(1984年、青木書店)、『雲南と近代中国』(2004年、青木書店)、『国際関係のなかの日中戦争』(編著、2011年、慶應義塾大学出版会)など

*34:2014年、研文選書

*35:駐日大使、中国共産党中央台湾工作弁公室主任(国務院台湾事務弁公室主任兼務)などを経て外相

*36:田中角栄首相、大平正芳外相のこと

*37:盧溝橋事件当時、参謀本部作戦課長。その後、陸軍省軍務局長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任。

*38:河北省・察哈爾(チャハル)省(現在の内モンゴル自治区)・綏遠省(現在の内モンゴル自治区)・山西省山東省のこと。

*39:著書『日中アヘン戦争』(1988年、岩波新書)、『盧溝橋事件』(1988年、岩波ブックレット)、『1941年12月8日:アジア太平洋戦争はなぜ起こったか』(1991年、岩波ジュニア新書)、『日本の侵略と日本人の戦争観』(1995年、岩波ブックレット)など

*40:著書『日中戦争への道』(2007年、講談社学術文庫) 、『日米開戦への道(上)(下)』(2008年、講談社学術文庫

*41:著書『満州国』(2007年、講談社学術文庫)など

*42:著書『華族』(2006年、中公新書)、『皇族』(2009年、中公新書)、『昭和天皇と弟宮』(2011年、角川選書)、『昭和天皇実録評解:裕仁はいかにして昭和天皇になったか』(2015年、敬文舎)など

*43:尾張徳川家第19代当主

*44:著書『南京大虐殺』(1985年、岩波ブックレット)、『南京の日本軍:南京大虐殺とその背景』(1997年、大月書店)、『餓死(うえじに)した英霊たち』(2001年、青木書店)など

*45:著書『福沢諭吉のアジア認識』(2000年、高文研)、『福沢諭吉戦争論天皇制論』(2006年、高文研)、『福沢諭吉の教育論と女性論』(2013年、高文研)など

*46:もし14年戦争説が私見のように「国民党の戦争指導をある程度評価する(共産党ばかりを高評価しない)」という方向性であれば朝日の指摘と異なりむしろ「歴史研究の多様性」に繋がる可能性もあるでしょう。

*47:まあこの辺り微妙ですね。もちろん「14年説」であれ「8年説」であれ特定の説を政治力で押しつけるのは適切ではない。ただし一方で政治家として習氏も「8年説を採るか14年説を採るか」意見表明はせざるを得ないでしょう。そして別に14年説それ自体は明白に間違っているわけでもない。まあ価値観が大きく作用する問題ですから。

*48:15年戦争程度でそこまでいうか?」ですね。

*49:そもそも8年説に立ったところで「満州事変以降盧溝橋事件以前の中国の戦争被害」を中国の政府や学者などが全く無視するわけもない。川島氏は言ってることが全く意味不明です。もしかしてアンチ中国で偏見まみれなのか。

*50:著書『中国近代外交の形成』(2004年、名古屋大学出版会)、『21世紀の「中華」:習近平中国と東アジア』(2016年、中央公論新社)、『中国のフロンティア』(2017年、岩波新書)など

*51:著書『女帝の世紀:皇位継承と政争』(2006年、角川選書)、『卑弥呼と台与:倭国の女王たち』(2009年、山川出版社日本史リブレット 人)など

*52:著書『フランスの中世社会:王と貴族たちの軌跡』(2006年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など