★特集『明治維新研究のいま』
・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生なりに紹介できる内容のみ紹介します。
【まずはじめに】
明治維新といった場合「いつを指すのか」というのは一つの重要な問題です(今月号の筆者たちはそのあたりあまりこだわっていませんが)。
ウィキペ「明治維新」などによればまずスタート時期は「最も遅い定義」だと「明治新政府誕生(1868年、明治元年)から」、最も早い定義だと「ペリー来航(1853年)から」になります。
終わりの時期ですが
これは
・明治4年(1871年)の廃藩置県
・明治10年(1877年)の西南戦争終結(士族反乱の終了)
明治10年までには「明治4年(1871年)の廃藩置県」、「明治5年(1872年)の学制、国立銀行条例」「明治6年(1873年)の地租改正、徴兵令」などとある程度、近代的政策が実行に移されます。
なお、明治10年前後には木戸孝允(参議、明治10年死去、病死)、西郷隆盛(参議、陸軍大将、近衛都督。明治10年死去、西南戦争での敗死)、大久保利通(参議、内務卿。明治11年死去、いわゆる紀尾井坂の変での暗殺)と明治維新の中心人物がかなり死んでいます。
・明治18年(1885年)の内閣制度誕生(初代首相は伊藤博文*1)
・明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布
・明治23年(1890年)の帝国議会開設
などといった説があります。
■明治維新論の現状と課題(奈良勝司*2)
(内容紹介)
戦後のGHQ改革が講座派的な日本社会認識から「財閥解体」「農地解放」「天皇の象徴化」など諸改革を進めたこともあり
・井上清*3『明治維新』(2003年、岩波現代文庫)
・遠山茂樹『明治維新と天皇』(1991年、岩波セミナーブックス)、『明治維新』(2000年、岩波現代文庫)
など、いわゆる講座派理論が明治維新研究では大きな影響力を持ったが、ソ連の崩壊もあって、講座派理論は昔ほどの力を持たず、一方でそれにかわる「大理論」も生まれていないという話です。
なお、こうした学問研究とは別の形で
・佐藤栄作*4の明治100年記念式典(1968年)(安倍は明治150年記念式典をやる気のようですが)
・司馬遼太郎の明治もの『竜馬がゆく』、『翔ぶが如く*5』、『坂の上の雲』(文春文庫)など
・NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』(1968年)、『翔ぶが如く』(1990年)、『龍馬伝』(2010年)、『西郷どん』(2018年放送予定)
などの形で英雄的明治維新観が一方では大衆に広く流布するわけです。
■明治維新史と天皇制研究(吉岡拓*6)
(内容紹介)
ホブスボーム『創られた伝統』(1992年、紀伊國屋書店)、アンダーソン『想像の共同体(増補)』(1997年、NTT出版)の影響を受けた研究として、
・羽賀祥二『明治維新と宗教』(1994年、筑摩書房)、『史蹟論:19世紀日本の地域社会と歴史意識』(1998年、名古屋大学出版会)
・高木博志『近代天皇制の文化史的研究:天皇就任儀礼・年中行事・文化財』(1997年、校倉書房)、『近代天皇制と古都』(2006年、岩波書店)、『陵墓と文化財の近代』(2010年、山川出版社日本史リブレット)
が紹介されています。
羽賀、高木研究からわかることは
1)明治新政府は自己の正当化イデオロギーとして天皇制を採用した
2)しかし天皇制はそのままでは正当化イデオロギーとしては使えず様々な「伝統の創出」を必要とした(その中には神武天皇陵のような明らかな捏造すらあった)
3)日本における天皇制への肯定的評価はそうした「伝統の創出」が関わっており自然に生まれたわけではないということでしょう。
その意味では天皇制万歳ウヨが「旧ソ連のレーニン顕彰」「中国の毛沢東顕彰」「北朝鮮の金日成顕彰」などを批判するのは滑稽でしかありません。
参考
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20080104/p1
■高木博志『近代天皇制の文化史的研究』より「初詣の成立」
今回取り上げる「初詣の成立」を含めた本書におけるいくつかの考察に共通するテーマは「京都の天皇から日本の天皇への移行」である。
近代の日本において急速に整備された官僚制がその権威の拠り所としたのは天皇であるが、その天皇の権威もまた、地域によって差のある不均質なものであった。特に京都には朝廷の領地が集中していたこともあり、「近世中期以降の民衆にとって、ある意味では民俗的信仰の対象であった」(飛鳥井雅道*7)という状態が続いていたのである。それを東京遷都によって断ち切るとともに、全国民に共有される天皇像を創り上げること。これが明治初期から中期にかけての重要な課題であった。
その具体的な手段として創り出されたのが「伝統」である。天皇を中心として体系付けられた「伝統」の中に民衆を取り込んでいくことで、自身が「伝統」を介して皇室の歴史と繋がっているという意識を民衆に与え、民衆を「歴史を共有する集団=国民」として育てていくために、明治初期には様々な「伝統」が生み出された。「初詣」という伝統もそのひとつとして位置付けられるのである。
それでは以下、「初詣の成立」の論旨を私なりに再構成してみよう。
まずは明治維新よりも前の元日の過ごし方を見ていこう。大正六年一月十五日付の『京都日出新聞』には「維新前の京都の正月」と題した、以下のような記事が書かれている。「町屋では元日は戸を閉ぢて一日寝込むので、これを寝正月といつた。恵方棚を作り、にらみ鯛を竈の上に懸ける。鯛は夷の持物で赤は陽を表するからである。正月の活動は二日から始る。書初、謡初、廻札、商始、初乗初皆二日からである。(中略)恵方参りも賑つたが、殊に鞍馬の初寅詣は景気があった。寅の日は本尊出現の日とも、毘沙門天の縁日とも云つている」
元日はどこにも出かけず、家の中で歳徳神を迎えること。それと、近世の初詣と言うべき恵方参りが三が日とは関係なく、十二支に基づいて毎年違う日に行われていたこと。この2点は注目に値するだろう。
それに対して、江戸では屋内で歳徳神を迎える「年徳棚」の存在と共に、元日に「恵方参詣」が行われていたことが天保九年(1838)に刊行された『東都歳時記』に記されている。農村部でも三が日は家の中で休息する地方、元日から年男が神社に参詣する地方など多様な習慣が存在していたことが報告されており、近世の正月の過ごし方は千差万別であったと言える。
(中略)
では、初詣という習慣はどのような過程を経て社会に定着したのか。1929年に刊行された矢部善三『年中事物考』には以下のように書かれている。「既にして、元日早旦に、先づ上は宮中に於せられて御神事あり、その大御手振りのまにまに、全国の神社に於いて神事あり、国民の習礼として元旦の神拝がなければならぬ処である。(中略)此の風習は、やはり宮中に於る四方拝に起源を発して居るものらしく」
矢部が言うには、宮中において行われていた四方拝という儀式を国民が真似て作られるのが初詣である、ということだ。この単純な図式をそのまま受け入れることは出来ないが、初詣の成立において官公庁の果たした役割は注目される。
(中略)
以上のような過程を経て元日に特別な意味が付与されるようになったわけだが、それに伴って明治二十七年以降は恵方を知らせる記述が毎年元旦の新聞に登場するようになる。このことから、元日の恵方参りが一般化したことを知ることが出来る。
(中略)
大正期に入ると「初詣」という言葉が定着するが、それに代わって「恵方参り」という概念が後退していく。
(中略)
長くなったのでまとめよう。
近世以前において正月、特に元日の過ごし方は千差万別であったが、一般的には家の中で歳徳神を迎える傾向が強かったと考えられる。それが、元日に行われる官公庁への拝賀と学校の元始祭を通して宮中行事と結びつき、元日のもつ特別な意味が社会に浸透していく。こうして国家的祭祀としての初詣が成立したのである。
さらに初詣はその成立過程において「物見遊山」的な性格を強めていく。その背景には鉄道会社その他による商業的な狙いがあったと考えられるが、その話*8については別の機会に譲ることにしよう。
http://miuras-tiger.la.coocan.jp/sub2-35.html
■書評:高木博志『近代天皇制と古都 』三浦佑之*9
巨大な鳥居をくぐり、長い砂利道を進んだ先に、威圧的な拝殿がそびえている。畝傍山を背にして建つ橿原神宮を訪れ、明治二十三年に創始されたという案内板を見ると、事情を知らない者はびっくりするはずだ。
太古以来の悠久さを誇るかのように、初代神武天皇を祭る橿原神宮は存在し、その北にはうっそうと茂る樹木に包まれて神武陵がある。この陵墓も、近代天皇制が確立する過程で発見と修築が行われた。その事業を「文久の修陵」という。
近代日本国家は、西欧近代を規範としながら、その中核に天皇制を据えた。それは、古代から連綿と続く「日本」という幻想を作り上げるために必要な制度だった。
本書は、近代国家が「万世一系」の天皇像と悠久の「日本」を作り上げるために、どのようにして新たな天皇制を創出したのかを論じている。そして著者がとり上げるのは、奈良や京都という古都イメージの創出と、霊の留まる聖地としての天皇陵の整備である。
古都奈良では、橿原神宮と神武陵がとり上げられる。その広大な神苑の整備事業は、皇紀二五五〇(明治二十三)年から二六〇〇(昭和十五)年にわたり、官民挙げて推進したが、著者はそれを、時間軸に沿って丁寧に検証する。
古都京都に関しては、京都御苑の整備事業と、平安神宮の創建が論じられる。中世・近世には、わりと自由に出入りできる空間であった禁裏御所が、優美な国風文化に特化された京都イメージの象徴としてどのように形成されたかが記される。
その中で、平等院鳳凰堂や安土桃山文化が見いだされてゆくという論述には、大いに納得させられた。
また最後の第三部では、宮内庁が管理する天皇陵が、近代天皇制を揺るぎないものにするのに、いかに大きな役割を果たしたかが詳述される。
近代天皇制とは何かを考えたい人にとって、本書は貴重な一冊である。
http://tsysoba.txt-nifty.com/booklog/2007/03/70000_d93b.html
■近代天皇制と古都
「神武陵」を中心とした「畝傍山」「橿原神宮」を合わせた地域が明治以降整備されていく過程や、「正倉院」と天皇陵を通じて日本の歴史・文化史に関する様々な概念や時代評価が文化財に投影してされていく過程を論じたり、京都御苑とその周辺の空間が近世と明治以降でどう変化したのか(これは結構、劇的に変わっていて面白い)、文化史における歴史区分(「国風文化」や「安土桃山文化」などなど)やその人気の浮き沈みが京都のイメージをどう規定し変化させていったのかを分析したり、陵墓を通じて、日本の文化財がどう二つの系統に分裂していったのか(今も文化財保護行政の対象となる一般の文化財と、皇室財産系の文化財の分裂は続いている)を論じたりする。
平安神宮くらい露骨に新しいと、こりゃ明治からこっちだよなあ、とすぐ分かるのだけれど、本書を読んでいると、古いと思い込んでいた意外なものが明治以降に整備されていたりするので侮れない。今、京都や奈良を代表するような建築や文化財が、近世のまったくマイナーだった状態から「代表」するくらいに出世していった過程や、その動きを支えた学者たちの動きを解き明かしていくあたりは、なかなかスリリングだったりも。
戦前の天皇制なんてもう現代的な問題にならない、と思っている人もいるかもしれないが、明治やら戦前やらは(古代や中世の顔をして)どっこい今も生きていたりするのだなあ。仁徳天皇陵を世界遺産に、という著者の問い(というか、呼びかけか)から浮かび上がってくる「日本の文化」の姿は、ただ「美しい」というのとは、ちょっと違うものだったりする。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2010/03/post_168.html
■陵墓と文化財の近代』高木博志(山川出版社)
2008年、歴代の皇室関係の墓所である陵墓への立ち入り調査がおこなわれた。明治維新以来の画期であった。いっぽう、陵墓指定がされていないが、継体天皇陵であることが確実視されている今城塚古墳の調査が、1997年以降おこなわれている。幕末から明治期にかけて近代の祖先観から「捏造」された「万世一系の陵墓体系」は、世界遺産への登録というグローバル化もあって見直しを迫られている。
すでに「歴史化」し治定(陵墓決定)困難な巨大古墳群を陵墓として、文化財として扱わない方針に疑問を感じてきた著者、高木博志は、本書で「近代の天皇制形成とともに、皇室財産に乏しかった皇室への宝物や文化財や陵墓などの「秘匿された財」の集積過程、来世観の希薄な非宗教の国家神道の問題から説き起こして、近代日本の陵墓と文化財の特質を広い視野から考えてゆきたい」という。
「万世一系」の考えは、「十七世紀の儒学において、一〇〇代を超える天皇が一筋につながるイメージができて、それが十八世紀の本居宣長の「古代」の発見につながって」いった。それが、「一八六七(慶応三)年十二月の王政復古の大号令以降、「神武創業」が公論となり、奈良や大阪そして鹿児島などの古代の陵墓群が公に天皇家の「祖先」となる、あらたな近代天皇制の系譜論が生じ」、「公論においても宮中の祖先祭祀において、神代の祖先に続いて神武天皇以来の天皇が「皇祖皇宗」になった。そして立憲制の形成過程において、天皇の人格をも含み込んだ「万世一系ノ天皇」という大日本帝国憲法の規定につながる用例があらわれる」ことになった。
「万世一系」に基づく古代史観について、専門家は早くからその矛盾を指摘してきた。たとえば直木孝次郎*10は、「実際は四〜六世紀のあいだ、王朝交代というか、政権交代というか、権力の中心が何度か移っているので、前政権の王の墓をつぎの政権が大切に保存・維持したとは思われない」と述べている。古代律令制形成期に記紀神話を具現化するためにつくられた古代の陵墓が、近代天皇制で復活し、いままで「凍結」されてきたことに疑問をもたないほうがどうかしている。本書では、さらに陵墓の問題を、「広く文化財をめぐる歴史認識」の問題としてとらえる。
中世・近世から明治維新、第一次世界大戦への歴史認識の変遷は、つぎのように説明されている。祖先祭祀においては、平安京の仏教的な世界観が江戸後期まで引き継がれ、仏式でおこなわれ、「在位の天皇とその父や祖父の法要といった、一対一の関係であったのが、近代では「皇祖皇宗」というマス(集団)としての天皇たちを、在位の天皇一人が神式で引き受けることになった」。陵墓の景観も変わった。「近世の仁徳天皇陵や崇神天皇陵のような桜の名所ではなく荘厳常緑の憤丘が近代の陵墓景観としてふさわしいとされ」、「鳥居と灯籠、参道、前方後円墳、二重濠、といった景観が近代のあらまほしき姿」となった。そして、「一九二〇年代以降になると、公園とは峻別された内苑を有する神社が荘厳な常緑の植生のもと、国民道徳の対象でありながら、宗教性をおびつつ国民崇敬の対象となって」、「全国の村々の神社の景観も画一的なものに」なった。
「荘厳な国家神道の神社景観の成立である」。
また、「陵墓の「万世一系」を支えるものとして、記紀の無批判な考証、「口碑流伝」の採集といった十九世紀以来の学知が一九四五(昭和二十)年まで社会に通底していた」。
著者は、最後に「二十一世紀の陵墓問題」という見出しを掲げ、つぎのように問題の本質をとらえ、見直しを主張している。
「陵墓は、近代天皇制によりつくりだされる。さまざまな物語や信仰のもとにあった近世までの王墓群は、明治維新をへて選択され、「万世一系」の系譜神話のなかの画一化した語りと価値のもとに「陵墓」として囲い込まれてゆく。しかし文献と「口碑流伝」をもって考証する方法論で治定された「十九世紀の陵墓体系」は、当時の学知の水準で決められた。しかも陵墓のみならず、古墳をはじめとする史跡などの文化財をめぐる国民の学知においても、その方法論は広く社会に通底した。その後、大正期以降に登場した考古学・津田史学などの近代学知が示す古代像との乖離が生じるが、「十九世紀の陵墓体系」は「凍結」されたまま記紀批判を棚上げし今日にいたったというのが、現代の陵墓問題の本質と考えられる」。
「少なくとも六世紀初めの継体朝以前の「陵墓」となった巨大古墳群については、本来、歴史化した文化遺産であることを確認して、宮内庁が天皇家の祖先の墓としてのみ管理することなく、「万世一系」のイデオロギーから自由になり、文化財保護法のなかで「保存」「公開」「文化的活用」のありようを考えてはどうだろうか。「十九世紀の陵墓体系」は「二十一世紀の学知」のなかでみなおすべきであろう」。
古代史にロマンを求め、関心をもつことは悪いことではない。しかし、本書から明らかなように、断片的にしか事実がわからない古代史は、政治的に悪用される危険性がある。あるいは、観光資源として史実とは無縁に利用されることがある。根拠がなくても一度「治定」されると、100%それを覆す資料などの証拠が出てくることはまずないので、やっかいである。著者が、「広く文化財をめぐる歴史認識」の問題として議論したいというのも、もっともなことだ。
■明治維新政治史研究の現在(宮間純一*11)
(内容紹介)
筆者の興味関心からいくつかの最近の研究を紹介している。
1)国際的視野からの明治維新研究
従来の維新研究は「国際的視野が十分ではなかった」とした上で、そうした問題点を克服しようとしている著書として
・奈良勝司『明治維新と世界認識体系:幕末の徳川政権・信義と征夷のあいだ』(2010年、有志舎)
・鵜飼政志『明治維新の国際舞台』(2014年、有志舎)
を紹介している。
2)反薩長の研究
従来、研究が手薄だった「反薩長の研究」として工藤威『奥羽列藩同盟の基礎的研究』(2002年、岩田書院)を紹介している。
3)薩長の研究
最近は薩長の研究が逆に手薄になっているというが筆者は
・佐々木克*12『幕末政治と薩摩藩』(2004年、吉川弘文館)
・町田明広*13『幕末文久期の国家政略と薩摩藩:島津久光*14と皇政回復』(2010年、岩田書院)
を紹介し、まだ未開拓な部分はあるのではないかとしている。
■幕末期対外関係史研究の現在(後藤敦史*15)
(内容紹介)
最近の研究として
【プロイセン】
・福岡万里子『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』(2013年、東京大学出版会)
【オランダ】
・松方冬子『オランダ風説書と近世日本』(2007年、東京大学出版会)、『オランダ風説書:「鎖国」日本に語られた「世界」』(2010年、中公新書)
・西澤美穂子『和親条約と日蘭関係』(2013年、吉川弘文館)
・小暮実徳『幕末期のオランダ対日外交政策:「国家的名声と実益」への挑戦』(2015年、彩流社)
が紹介されている。
参考
http://asiabaku9.exblog.jp/18810391/
■福岡万里子著『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』
プロイセン条約交渉といえば、なんといっても(ボーガス注:外国奉行)堀織部正自刃問題です。
今回の本でも、とくに相手国のほうから新しい史料はないのですが、やはりプロイセン外交の本としては、堀の一件は避けて通れなかったようで、既存の幕末史研究の成果から堀織部正が自刃にいたる原因をさぐっておりました。
自刃の原因は本人が遺書を残さなかったため、その真相は永遠に不明です。
(中略)
きっかけはプロイセンとの交渉(ハンザ諸都市をどうするか問題)で、老中首座安藤対馬守との(連日の)口論です。これは上記のどの証言からでも伺えますネ!
で、原因の説ですが。
簡単に分けると説には二系統あって①何らかの事で老中首座安藤対馬守を諫める&抗議の自刃説、そして②さまざまな件で安藤に対して責任とりました自刃説です。
遺書を書かなかったせいか、偽遺書が出回り、その内容に安藤対馬守を諫めたとあったため①が主流で、②は明治期に田辺太一が談話で語られていますがインパクトは薄い(笑)。
今回の本では偽遺書は絡んでいませんが①の説のほうだといえそうです。
https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/150707/i001.html
■聞き手
プロイセンは安政の五カ国*16条約の国々より遅れてやってきたわけですね。
■保谷*17
そうですね。ここで重要なのは、当時のドイツは分裂国家で約30の国に分かれていて、プロイセンはその中の有力な国の一つでした。そのプロイセンが他のハンザ都市と関税同盟といった国々の委任を受けて「他の国々とも条約を結んでよ」といってやって来るんです。幕府としてはプロイセン一国と条約を結ぶかどうかという議論をしていたつもりが、いつの間にか多くの国々と結ばないといけないという話になってしまうんですね。そのため交渉に当たっていた外国奉行の堀利熙(ほり・としひろ)が老中の安藤信正(あんどう・のぶまさ)から詰められて切腹したと伝えられています。結果的に条約はプロイセン一国のみと締結し、他の国々とは結ばないということになるのですが、アメリカやロシアとはまた違う形での外交が展開されたことは注目されます。さらに条約交渉でいえば、通訳に当たったヒュースケン(米国公使館書記官)はここで活躍したために攘夷派に恨まれて襲撃され、殺害されてしまいます。つまり、条約締結の陰には関係者が二人も亡くなっているわけですね。
■聞き手
外交交渉で命を落とす・・・壮絶ですね。
■明治維新期のジェンダー研究の課題(松崎瑠美)
最近の研究として
【総論的内容】
・関口すみ子*18『御一新とジェンダー:荻生徂徠から教育勅語まで』(2005年、東京大学出版会)
・長野ひろ子*19『明治維新とジェンダー:変革期のジェンダー再構築と女性たち』(2016年、明石書店)
【幕末期の大奥】
・畑尚子『江戸奥女中物語』(2001年、講談社現代新書)、『幕末の大奥:天璋院と薩摩藩』(2007年、岩波新書)、『徳川政権下の大奥と奥女中』(2009年、岩波書店)
・山本博文*20『徳川将軍家の結婚』(2005年、文春新書)
・寺尾美保『天璋院篤姫*21』(2007年、高城書房)
・辻ミチ子『女たちの幕末京都』(2003年、中公新書)、『和宮*22』(2008年、ミネルヴァ日本評伝選)
【華族(旧大名家)の女性】
・森岡清美『華族社会の「家」戦略』(2002年、吉川弘文館)
・小田部雄次*23『華族家の女性たち』(2007年、小学館)
【士族の女性】
・久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松*24:日本初の女子留学生』(1988年、中公文庫)
・早田リツ子『工女への旅:富岡製糸場から近江絹糸へ』(1997年、かもがわ出版)
・高橋裕子*25『津田梅子*26の社会史』(2002年、玉川大学出版部)
・亀田帛子*27『津田梅子』、『津田梅子とアナ・C・ハーツホン』(2005年、双文社出版)
・生田澄江『舞踏への勧誘:日本最初の女子留学生永井繁子の生涯』(2003年、文芸社)、『瓜生繁子*28:もう一人の女子留学生』(2009年、文藝春秋企画出版部)
が紹介されている。
【追記】
ちなみに松崎論文は日本最初の女子留学生として、大山捨松、津田梅子、永井繁子を紹介していますが
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/4093
5人の少女たちを年齢順に紹介します。津田梅子(6歳)、永井繁子(10歳)、山川捨松(11歳)、吉益亮子(14歳)、上田悌子(16歳)の5人です。年齢がかなり若いのに驚きますね。
しかし、この5人のうち上田悌子は体調不良、吉益亮子は眼病を患ったことが原因で、1872年(明治5年)に日本に帰国してしまいます。一説にはホームシックが原因ともいわれています。
ということですね。上田、吉益はほかの三人と違い帰国後、あまり活躍することもなく、特に吉益に至っては30歳の若さで死去してることもあり、ほとんど知られていませんが。
■歴史のひろば『「資本論」は「後進国」変革の指針となりうるか?』(小谷汪之*29)
(内容紹介)
正確には『資本論は結局未完に終わった』『2巻、3巻はマルクス死後、遺稿を元にエンゲルスがまとめたもの』なので、『資本論1巻だけでマルクスを論じられるか疑問→1巻は「後進国」変革の指針となりうるか、疑問』という話です。
特に小谷氏はマルクスが「ナロードニキを評価していたこと」に着目し「英国型資本主義を世界に普遍的なものと見なした資本論第1巻と立場が変わっている」とみています。
『資本論2巻』以降が出なかったことについて、小谷氏は「マルクスがナロードニキへの分析を資本論2巻以降に生かそうとしたことが大きかったのではないか」と見ている。
■歴史の眼『吉見裁判最高裁決定をめぐる現状と支援運動』(高田雅士)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
■吉見裁判不当判決の背後にあるもの−反知性主義という危うさ
http://sengonet.jp/2017/06/18/
■追想「平田哲男さん*30の思い出」(宮地正人*31)
(内容紹介)
小生的に平田氏というと『大学自治の危機:神戸大学レッド・パージ事件の解明』(1993年、白石書店)、『レッド・パージの史的究明』(2002年、新日本出版社)の著者ですね。白石書店本は読んだことはありませんが、新日本出版社本は読んだことがあります。
正直、「レッドパージ」でググっても平田氏の著書以外では
・三宅明正『レッド・パージとは何か:日本占領の影』(1994年、大月書店)
・明神勲『戦後史の汚点・レッド・パージ:GHQの指示という「神話」を検証する』(2013年、大月書店)
ぐらいしかヒットしません。こうした状況においては平田『レッド・パージの史的究明』の価値は今も重要といえるかと思います。
*1:首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監など要職を歴任。元老の一人。
*2:著書『明治維新と世界認識体系:幕末の徳川政権・信義と征夷のあいだ』(2010年、有志舎)
*3:著書『日本帝国主義の形成』(2001年、岩波モダンクラシックス)、『自由民権』(2002年、岩波現代文庫)、『日本の軍国主義』、『天皇の戦争責任』(2004年、岩波現代文庫)など
*4:吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相などを経て首相
*5:ちなみに小説の『翔ぶが如く』は「征韓論論争以降の話」しか扱っていない上に、サブ主人公が大久保の側近・川路利良(大警視)で、大河ドラマとはかなり内容が違います。
*6:著書『十九世紀民衆の歴史意識・由緒と天皇』(2011年、校倉書房)
*7:著書『鹿鳴館』(1992年、岩波ブックレット)、『坂本龍馬』、『明治大帝』(2002年、講談社学術文庫)など
*8:これについては例えば『初詣の慣習は鉄道会社の集客競争がきっかけで広まった』(http://news.mynavi.jp/series/trivia/286/)参照
*9:直木賞作家・三浦しをんの父親。千葉大学名誉教授。著書『古事記のひみつ:歴史書の成立』(2007年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『日本霊異記の世界:説話の森を歩く』(2010年、角川選書)、『古事記を読みなおす』(2010年、ちくま新書)、『古事記を旅する』(2011年、文春文庫)、『風土記の世界』(2016年、岩波新書)など
*10:著書『日本神話と古代国家』(1990年、講談社学術文庫)、『万葉集と古代史』(2000年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など
*11:著書『国葬の成立:明治国家と「功臣」の死』(2015年、勉誠出版)、『戊辰内乱期の社会:佐幕と勤王のあいだ』(2016年、思文閣出版)
*12:著書『大久保利通と明治維新』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『岩倉具視』(2006年、吉川弘文館)、『大久保利通』(2009年、山川出版社日本史リブレット 人) など
*13:著書『島津久光=幕末政治の焦点』(2009年、講談社選書メチエ) 、『攘夷の幕末史』(2010年、講談社現代新書)
*14:薩摩藩主・島津忠義の父(薩摩藩の事実上の最高権力者)。
*15:著書『開国期徳川幕府の政治と外交』(2014年、有志舎)、『忘れられた黒船:アメリカ北太平洋戦略と日本開国』(2017年、講談社選書メチエ)
*17:著書『幕末日本と対外戦争の危機:下関戦争の舞台裏』(2010年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など
*18:著書『大江戸の姫さま』(2005年、角川選書)、『国民道徳とジェンダー:福沢諭吉・井上哲次郎・和辻哲郎』(2007年、東京大学出版会)、『管野スガ再考:婦人矯風会から大逆事件へ』(2014年、白澤社)、『良妻賢母主義から外れた人々:湘煙・らいてう・漱石』(2014年、みすず書房)
*19:著書『日本近世ジェンダー論:「家」経営体・身分・国家』(2003年、吉川弘文館)、『日本近代国家の成立とジェンダー』(編著、2003年、柏書房)、『ジェンダー史を学ぶ』(2006年、吉川弘文館)、『歴史教育とジェンダー:教科書からサブカルチャーまで』(編著、2011年、青弓社ライブラリー)、『歴史を読み替える ジェンダーから見た日本史』(編著、2015年、大月書店)など
*21:薩摩藩主・島津斉彬の養女。江戸幕府第13代将軍徳川家定の妻
*22:仁孝天皇の娘。孝明天皇の妹。明治天皇は甥にあたる。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の妻
*23:著書『華族:近代日本貴族の虚像と実像』(2006年、中公新書)、『李方子』(2007年、ミネルヴァ日本評伝選)、『皇族に嫁いだ女性たち』(2009年、角川選書)、『昭憲皇太后・貞明皇后』(2010年、ミネルヴァ日本評伝選)など
*24:東京帝国大学総長、九州帝国大学総長を歴任した山川健次郎の妹。第1次伊藤、黒田、第1次山県、第2次伊藤、第2次松方内閣陸軍大臣を務めた元老・大山巌の妻。
*28:旧姓・永井。三井物産社長を務めた益田孝の妹。佐世保鎮守府長官、横須賀鎮守府長官などを歴任した海軍大将・瓜生外吉の妻
*29:著書『マルクスとアジア:アジア的生産様式論争批判』(1979年、青木書店)、『インドの中世社会:村・カースト・領主』(1989年、岩波書店)、『不可触民とカースト制度の歴史』(1996年、明石書店)、『インド社会・文化史論』(2010年、明石書店)、『「大東亜戦争」期 出版異聞:「印度資源論」の謎を追って』(2013年、岩波書店)など
*30:著書『現代日本の形成』(1983年、校倉書房)、『現代史における国家』(1984年、白石書店)、『大学自治の危機:神戸大学レッド・パージ事件の解明』(1993年、白石書店)、『レッド・パージの史的究明』(2002年、新日本出版社)、『近代天皇制権力の創出』(2014年、大月書店)など
*31:著書『歴史のなかの「夜明け前」:平田国学の幕末維新』(2015年、吉川弘文館)、『歴史のなかの新選組』(2017年、岩波現代文庫)など