今日の産経ニュース(4/28〜30分)(追記・修正あり)

■【編集者のおすすめ】『誰も書かなかった 日韓併合の真実』豊田隆雄著 日本の統治、何が目的だったのか
https://www.sankei.com/life/news/180428/lif1804280017-n1.html
 日韓併合韓国併合)については

・海野福寿『韓国併合』(1995年、岩波新書) 、『韓国併合史の研究』(2000年、岩波書店)、『伊藤博文韓国併合』(2004年、青木書店)
・小川原宏幸『伊藤博文*1韓国併合構想と朝鮮社会』(2010年、岩波書店
・片野次雄*2日韓併合李朝滅亡・抵抗の記憶と光復 1910〜2010』(2010年、彩流社
・森山茂徳『日韓併合』(1994年、吉川弘文館
山辺健太郎日韓併合小史』(1966年、岩波新書)
・吉岡吉典*3『「韓国併合」100年と日本』(2009年、新日本出版社

など、「日韓併合韓国併合)」でググるといろいろ本が見つかるわけで「誰も書かなかった」という誇大妄想タイトルからして読む気なくしますがそれはさておき。何が目的って当然ながら「植民地から利益を得ることが目的」に決まってるわけです。慈善事業をしているわけではない。
 他の国の植民地統治(米国のフィリピン統治、英国のインド統治、フランスのインドシナ統治、オランダのインドネシア統治など)と全く目的は変わりません。
 まあ、その中で近代化はされたかもしれませんが、それは欧米の植民地も同じでしょうし、「だから日本に感謝しろ」と産経らウヨが言うならそれこそ「ダライ・ラマチベットを近代化した中国政府に感謝しましょう」つう話になるわけです。 


■【正論5月号】“父*4の敵*5”を崇拝する男 習近平*6は第2の毛沢東になるのか 静岡大学教授 楊海英*7
https://www.sankei.com/premium/news/180429/prm1804290003-n1.html
 別に崇拝はしてないでしょう。

 毛沢東ら南国からの紅軍を地元陝西省北部の共産党員たちは歓迎しなかった。
「地元の英雄を殺(ボーガス注:して英雄支持者を屈服)さ(ボーガス注:せ)ない限り、人心は得られない」と判断した毛沢東はその有力者の一人、劉志丹を暗殺した。
 そのため習仲勲と高崗らは屈服せざるを得なかった。

 暗殺云々への批判コメントは後ですることにして、まず「習仲勲と高崗」について簡単に説明しておきます。
 習仲勲(習主席のお父さん。反党小説『劉志丹』事件での失脚当時、副首相。後に全人代常務副委員長)と高崗は当時の劉の部下です。

■高崗(ウィキペ参照)
 国共内戦が始まると、中国東北部満州)で活動し、党中央東北局第一書記、東北人民政府主席、東北軍区司令員(司令官)兼政治委員を務め、東北の党・政・軍を一手に掌握した。1948年には中華人民共和国の建国に先駆けて、「ソ連・東北人民政府貿易協定」を結ぶなど、独自の地方運営を行い、スターリン*8率いるソ連との関係を深めた。
 1949年10月1日に中華人民共和国が建国されると、高崗は中央人民政府副主席に任命された。さらに東北行政委員会主席を兼任し、引き続き東北地方を掌握した。
 1951年10月、中央人民政府人民革命軍事委員会副主席を兼任。翌年、これまで活動の拠点としていた東北から北京に移り、11月15日、新設された中央人民政府国家計画委員会の主席に就任、ソ連方式の経済建設の陣頭指揮をとることとなった。
 1953年1月より、高崗率いる国家計画委員会の主導で第一次五カ年計画が発動された。ソ連との結びつきの強い高崗が中心となって、ソ連社会主義をモデルに中華人民共和国の国家建設が進められた。
 しかし、早くもこの年、後の反ソ連につながる権力闘争が始まった。すなわち、高崗が党のナンバー2である劉少奇*9国家主席周恩来政務院総理(首相)の指導に反対し、自らそれに取って代わろうとして、この年の6月から12月にかけて様々な陰謀を仕掛けたというのである。1954年2月、第7期4中全会が開かれた。この会議は毛沢東の提案によって劉少奇が主宰することになった。そして高崗と「高の側近・饒漱石」は、この会議において朱徳人民解放軍総司令、周恩来首相、トウ小平*10副首相、陳雲*11副首相らによって「反党分裂活動を起こした」と厳しく批判され、失脚に追い込まれた。いわゆる「高崗・饒漱石事件」である。1953年3月にはスターリンが死去しており、さらにスターリンと緊密だった高崗が失脚すると、毛沢東の経済政策は脱ソ連化が進んでいった。
 高崗は第7期4中全会の最中に自殺未遂を起こし一命を取り留めたが、結局1954年8月17日に服毒自殺した。そして翌年3月31日、党全国代表者会議においてトウ小平主導の下に「高崗・饒漱石反党連盟に関する決議」が採択され、高崗は東北を「独立王国たらしめようとした」と批判されて党籍を剥奪された。

ということで高は後に毛沢東党主席、劉少奇国家主席周恩来首相ら主流派と対立して失脚します。まあ、この高の失脚事件、今ひとつよく解らない事件のようです。下手に手をつけると毛沢東だけでなく劉少奇周恩来トウ小平という「中国共産党革命第一世代オールスターズ」の批判になりかねませんので「文革*12以上にデリケートでアンタッチャブル」であり、中国において資料も全然出てこないし、あまり研究などされてないようです。で、中国でそれでは日本や欧米はもっと研究しようがないでしょう。
 それはともかく、次にウィキペ『習仲勲』を紹介すると共に、習主席のお父さん・習仲勲が失脚させられた『反党小説「劉志丹」事件』についてウィキペの記述を簡単に紹介しておきます。

習仲勲(1913〜2002年:ウィキペ参照)
 1928年中国共産党入党。日中戦争期間中は陝西省甘粛省など西北地区で革命根拠地を作り、陝甘辺ソビエト政府主席を務めるなど、長期にわたり西北地区の党、政、軍の工作の中心人物となった。
 1949年10月の中華人民共和国成立後は、1952年に党中央宣伝部長に任命。1953年9月18日、政務院秘書長に任命され、1954年9月27日に国務院に改組されると、引き続き国務院秘書長を務めた。1959年4月28日には国務院副総理兼秘書長に昇格。その間、1945年の第7回党大会で党中央委員候補、1956年9月の第8回党大会で党中央委員となる。
文化大革命
 しかし、1962年9月の第8期10中全会で反党小説『劉志丹』事件が持ち上がり、半年後に反党集団として党内外の全職務を解任された。
■復活後
 1978年4月には広東省党委員会第二書記として復活し、同年12月には第一書記に昇格。翌1979年12月には広東省長を兼任。1980年には広州軍区第一政務委員となり、広東省の党、政、軍の中心人物となった。広東省に近い香港への密出国者が後を絶たないことに衝撃を受け、広東省の経済発展を進め党中央工作会議で税制面で経済特区構想を提起した。広東省深圳市は1980年5月に正式に経済特区として承認された。
 1988年4月8日、第7期全人代常務委員会副委員長に就任(1993年退任)。2002年5月24日、北京で病死、享年88歳。

反党小説『劉志丹』事件(ウィキペ参照)
 1936年に戦死した劉志丹を題材に書かれた小説『劉志丹』が反党文書だとされた事件。
 劉志丹は1920年代から活躍した軍人で、長征の先頭に立ち高崗らと共に陝西省北部の陝北ソビエトの確立に尽力した。その功績をたたえ彼の故郷である陝西省保安県は後に志丹県と名を変えている。
 1954年、中央宣伝部の指示で、彼を題材にした小説『劉志丹』が弟劉景范の妻で、自身も陝北で活動していた李建彤によって執筆が始められ、1959年までに初稿を書き終えた。その後、1936年当時に陝北ソビエト政府主席であった国務院副総理習仲勲の助言を得て、1962年までに完成した。だが既に失脚していた高崗や1930年代に共産党極左偏向路線を主導した王明*13に関わる内容であったことから、陝北地域の党責任者だった賈拓夫は中央宣伝部の審査を仰ぎ、周揚副部長は問題なく出版は可能と結論。出版にこぎつけた。
 ところが光明日報、工人日報*14、中国青年報*15などに連載されると閻紅彦(雲南省党委員会第一書記)が、内容は党中央の評価が必要だと発表に反対し、その報告を受けた康生*16によって「政治問題であり、処理を求める」と楊尚昆*17に命じた。
 8月、第8期中央委員会第10回全体会議予備会議で小説『劉志丹』は高崗の名誉を回復し、党を攻撃する文書と指摘、9月24日に開催された第8期十中全会で毛沢東は「小説を書いて反党反人民をするとは、これは一大発明だ」と批判した。これを口実に習仲勲、賈拓夫、劉景范らが反党集団と認定され、習仲勲は党内外の職務からすべて解任された上に下放され、賈拓夫は北京鉄鋼公司の副経理に降格された。
 1978年の第11期3中全会以降冤罪事件の再評価が始まり、翌1979年には「小説劉志丹の名誉回復に関する報告」で「すばらしい革命文化作品であり、高崗の再評価問題など存在しない」と評価され、10月には再出版された。しかし、一部古参同志が事実と異なると指摘したため、1986年に習仲勲が調査した結果、「党の歴史的人物の描写は歪曲してはならない」と決定され、胡耀邦*18党総書記の指示で再度発禁となった。その後、小説に描かれた関係者がほとんど逝去した2009年に至って江西教育出版社から再刊された。
■参考文献
・石川禎浩*19「小説『劉志丹』事件の歴史的背景」、石川禎浩編『中国社会主義文化の研究』(京都大学人文科学研究所、2010年5月)収録。

【参考:石川氏の著書紹介】

http://www.fben.jp/bookcolumn/2017/04/post_5007.html
■赤い星は如何にして昇ったか
 毛沢東がまだ有名ではなかったころ、日本をふくむ国際社会が毛沢東をどう見ていたのかを知ることのできる本です。
 日本の外務省が1937年8月の官報の付録に載せた毛沢東の顔写真は、今から見ると、どう考えてもまったくの別人。
(中略)
 それほど、この1937年の時点では毛沢東は知られていなかったのです。
 その毛沢東を世界に紹介したのが、アメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーによる、『中国の赤い星』*20でした。1937年秋にイギリスで、1938年初めにアメリカで刊行され、ベストセラーになりました。
(中略) 
 毛沢東肖像画が、本物の写真をもとにして描かれたのは1934年が初めて。これは、1927年3月に武漢で撮影された国民党幹部の集合写真の一人としてうつっている写真をもとにしている。国共合作時代、毛沢東共産党員でありながら国民党員であり、国民党の中央委員として活動していたというわけです。
(中略) 
 戦前の日本では、この『赤い星』は一般に刊行されることはなかった。要するに、日本は敵がどういう人物であり、集団であるかを知らないまま戦争していたことになる。これは、ひどいですよね。「敵」を知らないで戦争に勝てるはずはありませんから・・・。
 エドガー・スノーの『赤い星』と毛沢東の初期の活動状況、それについての日本の認識について知ることのできる興味深い本です。

 どうもこの小説、別に高をほめたりはしてなかったようですが「高の件で問題になるとまずいから」ということで上にお伺いを立てていったんは「オーケー」がでたわけです。しかしそれが毛沢東らによってひっくり返され「高を褒め称える反革命小説」呼ばわりで習主席のお父さんが失脚ですから全く無茶苦茶です。
 しかし「文革終了後も一時発禁」てのもよくわかりませんが、2009年以降は再刊されたそうです。
 話が脱線しましたが、それはともかく楊の文章はのっけから「おいおい」ですね。「血に飢えた殺人鬼じゃあるまい*21」し、普通に考えて「地元の英雄(この場合、劉志丹)を懐柔して俺を支持させよう」ならまだしもいきなりぶっ殺そう*22とか普通考えないでしょう。大体毛沢東がそういう考えなら

 チベットを解放した中国人民解放軍を地元チベット人は必ずしも歓迎しなかった。
「地元(チベット)の英雄を殺(ボーガス注:して英雄支持者を屈服)さ(ボーガス注:せ)ない限り、人心は得られない」と判断した毛沢東チベットの最高指導者、ダライ・ラマ14世を暗殺した。
 そのためパンチェン・ラマ10世とプンツォク・ワンギャルらは屈服せざるを得なかった。

となってダライラマ14世はチベット解放(1949年)の直後に毛沢東に暗殺されて「ダライラマ15世(中国政府公認)がとっくの昔に誕生してる*23」「当然1959年のダライ14世亡命劇や1989年のノーベル平和賞受賞なんかなかった」でしょうし、それ考えても劉志丹暗殺・毛沢東黒幕説なんて「パンチェン・ラマ10世急死・中国謀殺説」同様の明らかなガセでしょうが、それはさておき。
 劉志丹についてウィキペディア反党小説「劉志丹」事件』は

 劉志丹は1920年代から活躍した軍人で、長征の先頭に立ち高崗らと共に陝西省北部の陝北ソビエトの確立に尽力した。1936年2月21日、毛沢東の「北上抗日」という指示で東征を行い、山西省に入ったところで同地を支配していた国民党の閻錫山*24軍に敗北し、4月14日に退却の途中に射殺されている。

と書いています。まあ「誰が」という主語は書いていませんが前後の文脈から見て「国民党の閻錫山軍が」でしょう。それとも楊は「どさくさに紛れて味方に暗殺された*25、その黒幕は毛沢東だった」とでもいう気でしょうか?。
 それとも楊の主張はもっとすさまじい陰謀論で「国民党の閻錫山に、劉志丹を攻撃させたのは実は毛沢東だ。だから閻錫山軍が劉志丹を殺害した場合でも殺害の黒幕は毛沢東だ」とでもいうのか?。
 あるいは「山西省に進撃させたこと自体が無茶で、閻錫山によって暗殺させること*26が目的だった」とでも?*27
 いずれにせよ、ならば是非その証拠を見せてほしいもんです。たぶんないでしょうが。
 ウィキペディアを見るだけでばれるレベルの嘘をついて毛沢東を誹謗中傷とは、もはや楊は

「『日本解放第二期工作要綱』という怪文書を元に中国の『最終目標は天皇の処刑』(飛鳥新社)というデマ本を出したペマ・ギャルポ並みに完全に一線を越えてしまった」
「もはや学者の名に値しない男」
「楊が勤務する静岡大学にとってもはや汚点。とっとと拓殖大や麗澤大といったウヨ大学に移籍してほしい」
内モンゴル民族の面汚し」

といっていいでしょう。
 楊のやってること「劉志丹暗殺・毛沢東黒幕説」は

浅沼稲次郎*28社会党委員長暗殺の黒幕を根拠レスで自民党呼ばわりして、岸信介*29首相(当時)を非難する
ケネディ米国大統領暗殺の黒幕を根拠レスでKGB呼ばわりして旧ソ連を非難する
・朴チョンヒ韓国大統領暗殺の黒幕を根拠レスで、朴の死後、実権を握った全斗煥だと決めつける

ようなもんです。
 まあ、以前から「産経紙面で五島列島が危ない、中国が狙ってると平然とデマを飛ばす」など「完全に一線を越えていた」とは思いますが、また「一線を越えてしまった」わけです。
 常人にはまねのできない行為です。まあ、まねしたいとも思いませんが。ちなみに我らがid:Mukke先生はこう言うのでも「楊海英先生はあの岩波書店から『墓標なき草原』という本を出し、司馬遼太郎賞を取った偉大な学者(静岡大教授)だ!。素人のボーガスは非難するな」とか言うんでしょうか?。まあ、あの人の過去のI濱Y子(早稲田大学教授)擁護ってそのレベルの詭弁ですけど。あるいはid:Mukke先生自ら「劉志丹暗殺・毛沢東黒幕説」の証拠が提出できるのならそれでも結構です。その場合は俺もここでの文章は訂正しましょう(俺がググった限りではそんなものは見つからなかったし、多分そんな証拠はないでしょうが)。
 しかし「たとえどんな悪人でもデマで批判したらいけない」とよく言いますが、この楊の毛沢東誹謗なんかそのいい例*30ですよねえ。
 司馬遼太郎*31賞選考委員会もまったくとんでもない人間に司馬賞を与えてしまったもんです。今からでも賞を剥奪したらいかがでしょうか?
 しかし「これ以降も酷い文続出」ですが、これを掲載する産経は完全に気が違ってますね。
 つうか最近の日本ウヨの毛沢東誹謗ぶりは度を超してますよねえ。
過去にも
■誰かの妄想・はてなブログ版『新潮と池田信夫が絶賛ステマ中の遠藤誉『毛沢東 日本軍と共謀した男』に関する件』
http://scopedog.hatenablog.com/entry/20151120/1447952850
■Apes! Not Monkeys! はてな別館「毛沢東は日本軍と共謀 阿片で巨利!」?
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20170811/p1
ですからねえ。
 繰り返しますが「大躍進、反右派闘争、文革とかで十分、毛批判可能だろ?。何でデマ(あるいは『真偽不明の怪しい話』)持ち出すの?」ですね。

 習仲勲毛沢東が発動した文化大革命中にその故郷の陝西省に連行され、長期間にわたって暴力を受け、身をもって共産主義体制の非人道的な実態を経験した。

 それ習仲勲だけじゃなくて例えばトウ小平なんかもそうですけど。正直、トウ、習に限らず文革復権した人間はほとんど迫害受けてた人間でしょうよ。

 北京はまた、「世界に革命思想を輸出」して、各国の内政に干渉、混乱させた。一例を挙げると、カンボジアポルポト*32派による大量虐殺が発生したのは、まさに毛沢東の暴力革命が導入された結果である。

 一例も何も俺の知る限りポル・ポト派以外に「中国国外での文革的愚行」なんてないですが。楊はポルポト派以外に何かあげられるんでしょうか。たぶんあげられないでしょうが。徹頭徹尾この男はでたらめですね。「本当に大学教授なのか」と疑いたくなるレベルです。

 習近平は、毛沢東文化大革命で失脚した習仲勲の息子である。しかし、毛沢東を師として仰ぎ、その政治手法もあらゆる面で毛沢東を模倣していると言われている。これも無理はない。1962年に父親の習仲勲が打倒された時、近平は9歳だった。高級幹部の「赤い太子」から一転して白眼視される「反革命分子の犬っこ」に転落した。やがて1969年春にはその実家の陝西省北部に下放されていくが、その時は16歳だった。彼は結局、小学校5年間の教育しか受けていなかったので、体系的な人文社会科学的な知識にほとんど接してこなかった。この時代に育った中国人の頭の中に叩き込まれたのは「毛語録」だけであって、文学や科学の知識は極端に少ない。習近平が口を開けば「毛語録」を引用するのも決して奇怪なことではない。彼の頭の中にはそれしかないからだ。

 まあさすがに楊も習主席(あるいは文革期に青春を過ごした文革世代)がそこまでバカだと本気で思ってるわけではないでしょう。
 よくもまあ学者(静岡大教授)の肩書きを持つ男がここまででたらめな与太を書き飛ばせるもんです。
 「俺は産経には与太を書くけど、学術雑誌にはまともな文書いてるから。俺が本気出せば司馬賞とれるんだから」とでも思ってるのでしょうが、そういう書き分けをすること自体、学者にあるまじき所業です。本当、お前は静岡大教授辞めて、とっとと右翼活動家に転身しろよ、それが嫌ならこういうバカな右翼活動は辞めろといいたいですね。

 毛沢東自身は銃を手にして前線に立たなかったものの、「人民解放軍は毛主席が創成し、林彪元帥が指揮してきた」という功績が認められていた。林彪を筆頭に、「10大元帥」がその家臣団を形成して支配を支えた。

 実際がどうだったかはともかく「人民解放軍の歴史において最も重要視されてる英雄」は林彪ではなく朱徳だと思いますが。
 なお、ウィキペ「中華人民共和国元帥」によれば、10大元帥とは

朱徳
 人民解放軍総司令、全人代全国人民代表大会)常務委員長、国家主席など歴任。
彭徳懐
 国防相。廬山会議で大躍進を批判したことで毛沢東の怒りを買い失脚。
林彪
 国防相、党副主席など歴任。林彪事件で失脚。
・劉伯承
 党中央軍事委員会副主席、全人代常務副委員長など歴任。過去の戦闘中に片目を失明したため、普段は眼鏡をかけており、「独眼竜将軍」の異名があった。
・賀龍
 副首相、党中央軍事委員会副主席など歴任。文化大革命中に批判され、糖尿病を患ったにもかかわらず、刑務所では適切な投薬を受けなかったため、獄死した。文革終了後の、1982年、名誉回復。
・陳毅
 上海市長・党委員会書記、外相、党中央軍事委員会副主席など歴任。
・羅栄桓
 人民解放軍総政治部主任、全人代常務副委員長など歴任。
・徐向前
 党中央軍事委員会副主席、国防相全人代常務副委員長など歴任。
・聶栄臻
 党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席など歴任。
葉剣英
 広州市*33長、全国政治協商会議副主席、党中央軍事委員会副主席、党副主席、全人代常務委員長など歴任。

だそうです。

 彼がいずれ死去し、あるいは暗殺されたり、クーデターが勃発したりしたら、日本と国際社会はポスト習の中国をどのように扱うか。これは時間の問題であるが、いずれ確実に現実となる。

 本気で「習主席暗殺だのクーデターだのが起こる」とは楊も思ってないでしょう。こういう与太が良くも書けるもんです。


■【花田紀凱の週刊誌ウオッチング〈666〉】不発の文春砲、らしくない新潮
https://www.sankei.com/premium/news/180429/prm1804290013-n1.html
 安倍万歳の花田にとっては文春の「林*34文科相の公務中のセクシーヨガ(事実上の風俗店?)通い&公用車私的使用問題」も、新潮の「セクハラ福田次官批判」も評価しないという結論が「最初から決まってる」つうだけのくだらない話です。
 まあこれが民主党政権下なら、花田が記事を礼賛していたことは間違いないでしょう。


安倍晋三首相の中東歴訪、「非キリスト教、非欧米」強みに重層的な関係強化狙う
https://www.sankei.com/politics/news/180429/plt1804290018-n1.html
 「イスラエルべったりのトランプ」に対して「べったりの安倍」では「非キリスト教、非欧米」の強みなんかないでしょう。
 日本にある強みは「経済大国としてのマネーの力」しかないでしょう。
 これが安倍以外の総理ならトランプからもう少し距離をとり「非キリスト教、非欧米」の強みとやらもあったかもしれませんが。

 首相は、トランプ米大統領イスラエルの首都をエルサレムと認定した後、この地域を訪問する最初の主要国の首脳となる。

 おいおいですね。なんで「この地域を訪問する最初の主要国の首脳」となってしまうのか、わかってないんでしょうか?。下手にイスラエル訪問して、下手なことを言うと「バツバツ政府高官のホニャララ氏がエルサレムが首都であることを認めてくれた」とイスラエルに宣伝されかねないからでしょうに。だからこそ他国はイスラエル訪問に慎重なんでしょうに。安倍だとマジで失言して「イスラエルにそうした宣伝をされかねない」から全く困ったもんです。


■自民・国場幸之助*35副幹事長が路上トラブルで骨折 深夜の那覇、酒に酔ってもみ合いに
https://www.sankei.com/affairs/news/180429/afr1804290008-n1.html
 お互い被害届を出さないと言うことは「政治テロなどではなくただの酔っ払いのケンカ」「一般人ならともかく、国会議員が酔っ払ってケンカなど恥ずかしくて被害届なんか出せない(そもそも一般人側も怪我をしてる)」つうことでしょう。全く恥ずかしい話です。


国場幸之助衆院議員、自民沖縄県連が厳重注意へ 酔って路上でトラブル…骨折
https://www.sankei.com/politics/news/180430/plt1804300011-n1.html
 「議員辞職させろ」とまで過酷なことは言いませんが、いっそ県連会長をクビにしたらどうかと思いますね。県連会長がこれではあまりにも恥ずかしいのではないか。


昭和殉難者法務死の英霊を追悼 高野山奥の院
https://www.sankei.com/west/news/180430/wst1804300014-n1.html
 勘弁してほしいですね。どう言い訳しようとも戦前美化の愚行でしかありません。


■【歴史インサイド】信長は「本能寺の変」なくても失脚していた…三重大教授が新たな視点で真相に迫る
https://www.sankei.com/west/news/180430/wst1804300006-n1.html
1)信長は部下に対しては、パワハラ上司も同然であり、光秀造反の前には家臣の佐久間信盛林秀貞が些細な落ち度を理由に「高野山への追放」などの過酷な処分を受けている
2)光秀が造反したのは「次にやられるのは俺では」という恐怖感から「やられる前にやる」と考えたから
3)光秀が造反しなくても徳川家康羽柴秀吉柴田勝家滝川一益丹羽長秀など有力武将は大なり小なりそうした恐怖を信長に感じており、いずれ誰かが信長を暗殺した
との見立てですがどんなもんなんですかね。まあ、信長という人が「部下(この場合、光秀)の心情把握」という能力どころか意思すらなかったであろうことが光秀の造反を生み彼の命取りになったことは間違いないでしょうが。


■【昭和天皇の87年】枢密院議長が首相に横やり 「これでは国体護持が保証できない」
https://www.sankei.com/premium/news/180429/prm1804290008-n1.html
■【昭和天皇の87年】首相が変心! 外相は天を仰いだ 「もはや陛下しかいない…」
https://www.sankei.com/premium/news/180429/prm1804290008-n1.html
 まあ鈴木*36首相の態度は、変心と言えば変心ですが産経記事を読むだけで「好きで変心したと言うより、東郷*37外相など一部を除き周囲がほとんど受諾消極論なので」鈴木としても自分の政治力だけではとても消極派を抑えきれないとみて、再照会論(建前では受諾拒否ではない)に逃げたというところでしょう。
 まず、当初「ポツダム宣言受け入れやむなし」とし、政府内部の議論を「受け入れやむなし」の方向に結論づけたはずの枢密院議長・平沼騏一郎*38元首相が「バーンズ*39回答では国体護持ができない」として最初に変心します。
 そして安倍源基*40内務相、松阪広政*41法相も平沼同様「受け入れ消極論に変心」します。阿南*42陸軍大臣はもちろん最初から消極論です。


■【昭和天皇の87年】首相を改心させた「陛下の思召」 風は終戦派に吹き始めた
https://www.sankei.com/premium/news/180505/prm1805050010-n1.html
 別に改心はしてないでしょうね。鈴木首相はポツダム宣言受諾したいが反対派をうまく抑え込む手立てがないと思った、てだけの話ですから。木戸*43内大臣から「天皇の全面的支持」を伝えられ「何とか抑え込める」と自信を持っただけでしょう。
 いずれにせよ受諾反対派も賛成派も「国体護持ができるかどうか」という目的それ自体には違いはありません。


■【昭和天皇の87年】運命の閣議 埋まらぬ賛否の溝 「再び御聖断を仰ぐしかない」
https://www.sankei.com/premium/news/180506/prm1805060011-n1.html

東郷茂徳外相
「(連合国の回答は)全体として上々ではないが、わがほうの目的は達せられるので、受諾しても差し支えないと思う」
松阪広政司法相
「日本の統治権はすでに決まっている。遺憾ながらこの回答文は承認しがたい」
桜井兵五郎国務相
「希望を付けて総理に一任する。戦争継続はできない。無理にやればドイツ以上に悲惨なことになる」
広瀬豊作蔵相
「外相の意見に同意する。ソ連参戦によって生産力は全く停頓する。今日屈して他日伸びるべきだ」
石黒忠篤*44(ただあつ)農商相
「この際受諾するを可とする」
安井藤治*45(とうじ)国務相
「この案には不満もあるが、国務と統帥とが一体となりうるならば受諾するがよい」
小日山直登*46運輸相
「不満であり残念ではあるが、大御心(おおみごころ)や国内状況を観察すれば、受諾する以外に方法はない」
安倍源基内相
「この回答文では国体の護持に保証はできない。一億玉砕、死中に活を求むる以外に方法はない。さらに交渉するか、戦うかは総理に一任する」
下村宏*47国務相
「先方と交渉できるとも思えるが、万一、交渉が決裂して戦争となり焦土となっては、すべてが終りである。大御心も拝した。受諾のほかはなかろう」
左近司政三*48国務相
「これ以上の交戦は民族の破滅。国体の護持はできない。忍ぶべきである」
阿南惟幾(これちか)陸相
「回答文には不安がある。疑問点があれば堂々と再交渉すべきだ。どうして意気地なく屈するのか、その理由が分からない」

 松坂司法相、安倍内務相、阿南陸軍相など受諾反対派もいますが、和平仲介を期待していたソ連の参戦により「ポツダム宣言受諾やむなし(消極的賛成)」の方向に傾いてることが解ります。
 ただし反対派の中に陸軍があるため、鈴木は自分の一存ではなく「天皇の聖断」で決着することを目指すわけです。


■【昭和天皇の87年】「万民の生命を助けたい」…天皇は何度も手袋で眼鏡をぬぐった
https://www.sankei.com/premium/news/180520/prm1805200003-n1.html
 まあぶっちゃけこんなきれい事ではないですね。「万民の生命を助けたい」ならもっと早く降伏すべきだった。そうすれば沖縄戦や原爆投下の悲劇はなかった。
 しかし「ソ連を仲介とした和平工作」に期待を掛けていたが故に「ソ連参戦」でその期待が崩壊するまでは降伏しなかったわけです。そして和平での重要事項はもちろん国体護持(天皇制維持)。
 しかも「可能ならば」天皇制維持にとどまらず、昭和天皇が戦犯として裁かれることも退位することもなく、戦前同様「最高権力者として実権を握り続けること」でした。
 さすがに戦後「主権者ではなく象徴」になりますが「戦犯裁判も退位も逃れる」つう野望は実現します。
 しかしこんなきれい事のでまかせを書いてるという昭和天皇実録もとんでもないデマ本ですね。

 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。

 これが昭和天皇にとって一番大事なことであったわけです。「国体護持で不安があるが、天皇制廃止ともいってないし、戦後交渉で解決しよう。戦争を継続しても立場が悪くなるだけだ」、そういう話です。本音では国民の命のことなんか全く考えてない。


■【昭和天皇の87年】近衛師団長を惨殺! クーデター部隊が皇居に侵入した
https://www.sankei.com/premium/news/180526/prm1805260005-n1.html

「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」

 上にも書きましたがこんなきれい事は全くの大嘘です。


■【産経抄】4月28日
https://www.sankei.com/column/news/180428/clm1804280002-n1.html
 産経がここで主張してる内容がいかにでまかせであるかについては、朝鮮・韓国史研究者である外村大氏*49の論文
在日コリアンと強制連行:1959年発表の「外務省資料」をめぐる議論に関連して
http://www.sumquick.com/tonomura/note/100419.html
をご覧ください。
 詳しくは外村論文を参照頂ければ幸いですが、極めて単純に結論だけ言えば、
1)「戦時中に徴用労務者として来た者は245人にすぎない」というのはそれ自体はおそらく正しい
2)ただし、他にも徴用労務者とは労働力確保の法的形式が違うが、内容的に徴用労務者と同一視すべき労務者「募集労務者」「官斡旋労務者」が存在する。
「募集労務者」「官斡旋労務者」も含めていわゆる「朝鮮人強制連行」を考えるべきである
つう話です。
 なお、この外村論文は最近発表されたものではなく、サイトにアップされた日付は「2010年4月19日」となっています。
 また外村氏によれば「1959年発表の外務省発表資料」に対する反論という意味もあったのが「朝鮮人強制連行研究の草分け」である朴慶植氏の著書『朝鮮人強制連行の記録』(1965年、未来社)であり朴氏だけでなく多くの研究者が「1959年発表の外務省発表資料」に対する反論という意味も込めて研究を進めてきたわけです。そういう意味では朴慶植朝鮮人強制連行の記録』(1965年、未来社)以降の研究によって否定されたデマ言説を産経は持ち出してるわけです。
 つまりは産経は故意にデマを垂れ流してるわけです。
 南京事件否定論慰安婦否定論では飽き足りず、強制連行否定論までやり出したのだからいい度胸です。例の「軍艦島端島炭鉱)」世界遺産登録の時に韓国から強制連行問題で批判されたことが今回の「逆ギレ&デマ公言」の直接的動機でしょうか?
 道義的是非以前にこんなバカなことをやって韓国政府が黙ってるわけもないでしょう。産経は故意に日韓関係を破壊したいのかと聞きたくなります(まあくだらない「戦前日本は間違ってない」というゆがんだプライドからバカなこと抜かしてるだけでしょうが)。
 こうした歴史修正主義は安倍政権の弊害の一つと言っていいでしょう。
 なお、他にもいくつか付け加えておきます。

 平成22年3月10日の衆院外務委員会で高市*50が「現在も有効か」と問うた際には、民主党政権岡田克也*51外相はあやふやに答えた。
「急に聞かれても私、把握していないので分かりません」。

 質問者の高市の質問動機は要するに産経的・歴史修正主義でしょう。これに対し、さすがに高市に同調はしなかったものの、毅然と対決できずに「よくわからない」と逃げてしまったのが当時の岡田外相です。民主党内にも松原仁*52などの極右を抱えてるからでしょうが、全く困ったもんです(とはいえこの時点では当時の自民党総裁が谷垣氏*53だったこともあり、産経は今回程にはこの件で騒いではいなかったわけです。谷垣氏はこうした質問を容認する程度には「ウヨに甘い」とはいえ、極右・安倍と違い、こうした質問を大々的に宣伝して韓国の反感を買う程のバカでもありません)。
 今、岡田氏が政治的主導権を立民の枝野氏*54に奪われてしまったのもこうした「逃げの姿勢」が一因かもしれません。彼は枝野氏が立民を結成したとき「立民に入らず、しかし希望にも協力せず、自分で新党もつくらず」単独立候補(無所属)で模様眺めしてしまいました。

在日韓国・朝鮮人は強制連行された人々の子孫だとの神話は、もう通用しない。

 別に「神話」ではないですね。
 正確には「強制連行された人間の子孫もいればそうでない人間の子孫もいる」つう話です。そしてその強制連行は「正確な数を出すことはもはや困難」ですが外村氏も指摘するように「募集労務者」「官斡旋労務者」も含めれば「245人」なんて少ない数でないことだけは確かです。
 ちなみに、よほど不勉強な人か、デマ屋でもない限り、今時「在日韓国・朝鮮人は全員強制連行された人々の子孫」なんて主張する人はいません。
 なお、外村氏も指摘していますが「強制連行でなければ問題ない、来日は自由意志だ」つう単純な話ではないですし、「来日が自由意志なら在日朝鮮・韓国人に対し、人権保障しなくていい」つう話でもありません。
 まず「来日したこと」について言えば、強制連行でなくても「日本の植民地支配下では貧乏で食えないから来日しました(昔のベトナムボートピープルや今の北朝鮮脱北者、あるいは日本で言えば失敗に終わったと言っていい満州移民やドミニカ移民みたいなケース)」とか「(中国政府の迫害でチベットから政治亡命したというペマ・ギャルポのように)日本官憲が迫害を加えるので、命からがら逃げ出してきました」*55つう場合、「貧乏で食えなくても、迫害されて命の危険があっても来日するな」とか「来日事情が何でアレ自由意志できたんだから日本の責任じゃない」とはとてもいえないでしょう。
 その理屈だと「満州移民やドミニカ移民」「ベトナムボートピープルや今の北朝鮮脱北者」「ペマ・ギャルポの亡命」も「過去の日本政府もベトナム北朝鮮も中国も悪くない」ことになりますが、まあ産経もそこまで言う度胸はないでしょう。いや「日本は常に無実」という産経だと、満州移民やドミニカ移民の場合は「日本は悪くない」「移民は自由意志で満州やドミニカに行った」とか言い出すのかな?
 次に「人権保障」についてですが英国やフランスなど「旧宗主国」が植民地出身者にたいし「通常の外国人よりも手厚い人権保障してること」は珍しくありません。日本も可能な限り、英国やフランス同様の人権保障を在日朝鮮・韓国人に行ってしかるべきでしょう。


■【主張】財務省とセクハラ 調査結果は不十分である
https://www.sankei.com/column/news/180430/clm1804300001-n1.html
 財務省批判は結構ですが、それが麻生批判や安倍批判につながらないあたりが産経らしい。
 特に「はめられた」云々などという麻生*56発言はセカンドレイプにして陰謀論という最低最悪の代物でこれだけでも財務相辞任に十分値する暴言と言っていいでしょう。


■【正論5月号】シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦*57
https://www.sankei.com/premium/news/180428/prm1804280002-n1.html
 戦争成果がろくになかったので無名な戦争、それがシベリア出兵ですね。
 「台湾領有(日清戦争)」「南樺太領有(日露戦争)」のように戦争成果があると語り継がれて有名になります。
 それはともかく、井上の主張は「大東亜戦争はアジア解放の正義の戦争」並の与太ですね。もちろんシベリア出兵の戦争目的は「レーニン政権転覆」&「日清戦争で台湾を、日露戦争南樺太をぶんどったように、可能ならシベリアの一部を日本領としてロシアからぶんどる」です。そういう意味では戦争目的は結局失敗に終わったわけです。最初の「近代日本が何の成果も得られずに挫折した戦争」といえるのではないか。

ポーランドには、“苦しい時に本当の友人がわかる”という諺があります。まさにこれはポーランドと日本の関係を表しています」
 平成30年1月30日、都内ホテルのレセプション。私が日本による“シベリアのポーランド孤児救出”の話を持ち出すと、ポーランド共和国外務副大臣ヤン・ジェジチャク氏は真剣な表情でこう応えた。
(中略)
 明石大佐は、ポーランド武装蜂起を支援し、武器購入のための資金をポーランドへ提供し続け、日露戦争の勝利と同時にポーランドの独立を助けた*58のである。
 駐日ポーランド大使館のウルシュラ・オスミツカ一等書記官はこう語る。
「当時のポーランド人は、日本はポーランドの味方だと感じていましたし、ユゼフ・ピウスツキ*59などは日本と一緒に戦いたいと考えていました。そして日露戦争中、ポーランド人は皆日本を応援していました。そして小さな日本が大きなロシアに勝ったことで、ポーランド人にとって日本はヒーローになったんです。それは後に日露戦争で活躍した日本軍人51人にポーランド政府から勲章が贈られていることがその証左です」

 仮にも一国の外務副大臣や駐日大使館一等書記官が、「シベリア出兵でポーランド孤児救出した日本万歳」「日露戦争の勝利はポーランド人に希望を与えた」だのネトウヨ井上の与太なんぞによく付き合うよな、おいおい(苦笑)と思います。
 大体ポーランドを侵略したナチスドイツと同盟国だったのが日本ですが。
 まあ、結局、ダライ一味なんかと同じですよね。日本ウヨにこびることが金になる、利益になると思うからこういう恥ずかしいことがやれるだけの訳です。「ポーランドって何?。そんなに経済がやばいのか」感がありますが。
 まあ、実際ポーランド孤児救出はされたようですし、「動機が何でアレ」結果が良ければいいとはいえるでしょうが、それは少なくとも「建前(チェコ軍捕虜救出)」においても「本音(レーニン政権転覆やシベリア利権の獲得)」においても戦争目的ではありません。
 戦争目的に支障が生じないと判断された限りにおいて、「日本軍のイメージアップのためにされた副次的行為」にすぎません。

参考

■シベリア出兵(ウィキペ参照)
 1918年から1922年までの間に、連合国(日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争。
 ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国講和条約(ブレスト=リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。このため、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争を開始し、ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。
 すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。
 連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は3万7千の大軍を送り込んだ大日本帝国軍であった。
 1918年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の大きな目的の一つを失った。また、1919年秋には連合国が後押しをしていた反革命派のアレクサンドル・コルチャーク政権が赤軍との戦闘において敗北が決定的となり、ついに1920年に崩壊。結局1920年には米英仏などの軍は相次いで撤兵したが、日本軍は単独で駐留を続行した。
 日本陸軍は当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという方針を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍のパルチザンと戦闘を繰り返しながら、北樺太沿海州満州を鉄道沿いに侵攻。シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。各国よりも数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。
■日本の撤兵
 日本では、寺内*60内閣のときにロシア革命への干渉戦争として始められたシベリア出兵であったが、1921年ワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。会議のなかで、全権であった加藤友三郎*61海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。こののち内閣総理大臣となった加藤友三郎は1922年6月23日の閣議で、この年の10月末日までの沿海州からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。日ソ基本条約を締結し、撤退する1925年(当時は加藤高明内閣)まで駐留した北樺太を除き、ソ連(ロシア)からの撤兵は予定通り進められた。
 加藤高明*62は後に日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評価している。

■尼港事件(ウィキペ参照)
 ロシア内戦中の1920年大正9年)3月から5月にかけてニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれる。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。
■トリャピーツィンの処刑
 ソ連側は、当初、現地司令官トリャピーツィンの言い分をそのままに、赤軍の正義と日本軍の裏切りを言い立てていたが、労働者が大半である数千人の市民の虐殺と街の破壊を、全て日本軍の責任にできるわけもなく、危機感を持ったハバロフスクソビエト代表団は、6月の終わりに反トリャピーツィングループと接触した。
 ついに7月3日の夜、トリャピーツィンが逮捕され、9日、裁判が行われ、トリャピーツィンは銃殺となった。
北樺太進駐
 日本政府は6月28日に北樺太の保障占領を決定し、7月3日の官報で以下の告示を行った。
「今年の3月12日から5月末まで、ニコライエフスクにおいて、日本軍、領事館員および在留民およそ700名、老幼男女の別なく虐殺されたが、しかし現在、シベリアには交渉すべき政府がない。将来、正当な政府が樹立され、事件の満足な解決が得られるまで、サハリン州内の必要と認められる地点を占領するつもり*63である」
 「必要と認められる地点」とは、北樺太であり、宣言と同時にサガレン州派遣軍が編成され、8月上旬アレクサンドロフスクに上陸し、駐屯した。
北樺太からの軍撤退
 1925年、加藤高明内閣は日ソ基本条約を締結し、ソビエト・ロシアと国交を回復し、保障占領していた北樺太を返還した。しかしその交渉の過程で、尼港事件は政治的に棚上げされ、北樺太のオハ油田*64を中心とする石油長期利権(1925年12月から45カ年予定)がソ連から日本に与えられることとと引きかえに、賠償は求めないことになった。
 1925年12月には救恤金の再給付を求める請願書が遺族等によって提出されたことなどから、日本政府は、「本来はソビエトの責任で日本政府が賠償を肩代わりする理由はない」としながらも、救恤金という形で、遺族を慰撫した。
■日本での反響
■政治的な反響
 尼港事件に関して、日本国内で大々的に報道されるようになったのは、6月、救援隊が現地入りし、凄惨な全容が明らかになってからである。
 すぐに議会で取り上げられ、野党憲政会(党首・加藤高明)の激しい政府批判がはじまった。この年5月の衆議院選挙で、与党立憲政友会は圧勝していたが、野党側の言い分では、「与党は尼港事件を隠して解散、総選挙に踏み切った」というのである。原首相が「惨劇が起こったのは不可抗力だった」と言ったとの報道があり、「責任逃れではないのか」と追及された。「治安維持に十分な兵力を置いていないにもかかわらず、居留民の引揚げを考慮しなかったのは不注意だ」というところから、ついには、「チェコ軍団の救援目的は達したにもかかわらず、なんのために兵を残したのか。過激派の勢力をそぐこともできなければ、日本人居留民の生命財産を守ることもできなかったではないか」と、シベリア出兵そのものへの批判になった。
 田中義一陸軍大臣に対しても責任問題が追及されると、田中は尼港事件について陸軍に過失はないと答えたため激しく糾弾され、1920年8月には進退伺を行うこととなった。その後、田中は狭心症に倒れ1921年6月に陸軍大臣の職を辞した。一方、シベリア出兵は北樺太駐留(日ソ基本条約が締結される1925年まで駐留)を除き、撤退の方向にむかうこととなった。
■社会的な反響
 井竿富雄・山口県立大学教授によれば、政治の場で出てきた不可抗力論は、社会的には「政府の見殺し」として否定的に受けとめられた、という。
 尼港事件で殺害された三宅駸吾海軍少佐の兄である三宅驥一(東京帝国大学助教授)は、「この大事件は政党政派を超越した世界的な人道問題ではないか。私は、ルシタニア号の沈没とベルギーの中立侵害で、留学して世話になったドイツが嫌いになった。今回の尼港事件は、ルシタニア号事件以上の大問題だ。これに対して冷淡な日本の政府と国民とは、人道に対して無感覚になっている人種だと笑われても仕方があるまい。弟だからいうのではない。救援の方法はあったのに、政府が怠って、いまになって不可抗力とは何事だ」と憤慨して同情を集めた。
■慰霊碑・納骨堂の建立
・北海道小樽市手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また熊本県天草市五和町手野、茨城県水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある。
・全員が犠牲となった第14師団尼港守備隊の出身地、茨城県水戸堀原(練兵場のあった場所)に尼港殉難者記念碑が建っている。戦前は、毎年かかさず慰霊祭が行われていたが、戦後は行われなくなり、記念碑が建っている場所も堀原運動公園の向かいにある小さな公園の奥であるので、碑のいわれを知る市民どころか、そもそも碑がある事すら知らない市民も増えているといわれる。

 尼港事件について「それを口実に北樺太を占領したあげく、返還の代償としてサハ油田利権を獲得する」つう日本政府の動きが興味深いですね。まあ尼港事件遺族は「ロシアと取引するのか!」などと拉致被害者家族会が日朝交渉に反対するようなこと言ってたんでしょうか?

■イワノフカ事件(ウィキペ参照)
 1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、抗日パルチザンに対する掃討作戦の過程でアムール州ブラゴベシチェンスク郊外のイワノフカ村において多数の民間人を殺害した事件。日本軍は、1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含む、257人を銃などで殺害、36人を小屋に閉じ込め焼き殺したという。
 1994年、シベリア抑留者の慰霊碑を建てようと現地を訪れた全国抑留者補償協議会(全抑協)の斎藤六郎*65会長はイワノフカ村のウス村長にこう問われたという。
「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」。
 翌年、日露共同の慰霊碑ができた。それ以来、ロシアのイワノフカ村では毎年、犠牲者の追悼式典が行われている。
 一方、日本では多くの人、特に若い人はこの事件の存在さえ知らないと現地紙は報道している。

https://mainichi.jp/articles/20180327/ddn/012/040/019000c
毎日新聞『平和をたずねて・軍国写影 反復された戦争/64 日本兵、住民300人虐殺の衝撃=広岩近広』
 シベリア出兵中の日本軍による「イワノフカ村焼き打ち事件」(1919年3月)は、住民虐殺だった。村には四角すい体の追悼碑が、2基建っている。金色の星のレリーフがついた碑には<257人のイワノフカ住民が射殺された>とある。赤色の炎を造形した碑は<この地において日本人たちは36人のイワノフカ住民たちを、生きながら焼殺した>と刻まれている。

 まあ産経が故意に無視する日本の愚行ですね。そのうち産経や国基研あたりが「反日国家ロシアの捏造。軍紀正しい日本軍はそんなことしない」「毎日新聞反日報道を許さない」と「南京事件否定論」同様の「イワノフカ村事件否定論」でも始めるんでしょうか。そして「通州事件ガー」のように「尼港事件がー」といいだすんでしょうか。
 後でも毎日記事をいくつか紹介します。

https://mainichi.jp/articles/20180403/ddn/012/040/050000c
毎日新聞『平和をたずねて・軍国写影 反復された戦争/65 日露の誓い「懺悔の碑」に=広岩近広』
 ロシア極東アムール州のイワノフカ村に、日露共同追悼碑「懺悔(ざんげ)の碑」が建立されたのは1995年7月のことだった。全国抑留者補償協議会(全抑協)の斎藤六郎会長とイワノフカ村のウス村長が、4年間にわたって話し合った末に、平和を祈念する追悼碑の建立に結びついた。広い公園の中央にシンボル的な存在として建つ「懺悔の碑」は、高さ8メートルの白いタイルの塔柱である。
 追悼碑の除幕式は、約1500人のイワノフカ村民をはじめ、近隣の村からも大勢が参加して盛大に行われた。日本からは斎藤会長ら約40人が参列した。僧侶として開眼供養と法要を務めた岐阜県・勝善寺の住職、横山周導さん(93)はこう振り返る。
 「私たち日本人は、シベリア出兵において、イワノフカ村の幼児から老人まで、非戦闘員を虐殺した過去の非を反省し、ロシアの人々は、日本人を抑留して戦後復興に酷使したことで、多くの日本人を死に至らしめたことを反省する。そうして共に、この事実が戦争に起因したことを心に刻み、再び戦争の惨禍を起こさないと日露共同追悼碑に誓うことに決めたのです」
 全抑協の斎藤会長は体調を崩していたが、車椅子で在席し、こう述べる。
 「私たちは戦争の遺産を取り除き、両国民の信頼のもとに講和条約を締結し、21世紀に向けて永き平和を祈念するものであります。ここに、犠牲になられたイワノフカ村民の方々に、心から謝罪し、ご冥福をお祈りするしだいであります」
 そしてウス村長は、「今は、日本に対する恨みはありません」と明言した。
 この5カ月後、斎藤会長が急逝する。このため翌年の墓参はできなかったが、翌々年の97年から、横山さんと斎藤会長の妻次子さんが中心になってシベリア墓参ツアーを組んだ。
 横山さんらの一行はイワノフカ村をあげての歓迎を受けた。州都ブラゴベシチェンスクの駅に列車が着くと、アムール州平和基金事務所のバシリー議長らが赤と白のカーネーションを手にして、寝台車の前までやって来た。
 ウス村長はマイカーで、村役場まで先導してくれた。役場の前には大勢の職員が、まるい花模様の大きなパンと塩を手にして待っていた。最高の礼で迎えてくれたのだった。
 「前回とちがい、日本兵に虐殺された事実を示す2基の追悼碑には、案内されませんでした。ウス村長の配慮があったのだと思います。親善と友好と平和を真剣に考えておられるのだと察せられました」。
 そう振り返る横山さんは、斎藤会長の遺志を継いで墓参を続けてきた。2007年からNPO法人「ロシアとの友好・親善をすすめる会」を設立して、墓参ツアーを推進している。
 この夏、(ボーガス注:1918年の)シベリア出兵から100周年を迎える。横山さんは「イワノフカ事件100年の追悼法要を故斎藤会長の遺志として成し遂げたい」と結んだ。

https://mainichi.jp/articles/20180417/ddn/012/040/062000c
毎日新聞『軍国写影 反復された戦争/66 300人が眠る「ユフタの墓」=広岩近広』
 日本が戦争を繰り返していた当時、戦没した兵士の墓地が各地に造られた。大分市志手5の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)には、シベリア出兵の戦死者が多く眠っている。案内板の<墓碑例祭日>に<シベリア事変田中大隊戦没者碑 二月二十六日>とあり、その墓石は約300基にのぼる。
 田中大隊は陸軍第12師団(小倉)に所属した歩兵第72連隊第3大隊(大分)のことで、田中勝輔少佐が率いた。1918(大正7)年8月、ウラジオストクに上陸してから、砲兵などの配備を受けて「田中支隊」を編成する。アムール州抗日パルチザンの討伐作戦に当たったが、19年2月、逆襲されて全滅した。
 墓地の坂道を上ると、田中少佐の墓があり、下方に兵士たちの墓が見えた。同じ間隔で縦横に並び、墓碑の側面に<大正八年二月二十六日於露国黒龍州ユフタ戦死>と刻まれていた。ユフタは、アムール州都ブラゴベシチェンスク北方の村である。
 大分市に「ユフタの墓」を訪ねたのは、「イワノフカ村焼き打ち事件」の報告書(アジア歴史資料センター所蔵)に、こう書かれていたからだ。
 <過激派のために、田中大隊全滅の悲惨事を見たる九州男児の憤激よりして、この大活劇を演じたるとして見れば、焼いた方にも無理はなさそうである>
 いかにも日本側の報告書らしいが、田中大隊(支隊)の全滅が「イワノフカ村焼き打ち事件」を引き起こしたとみられる。
 では「ユフタの戦い」の実相は、どうだったのか。
 「陣中日誌」などによると−−敵情視察に出向いた小隊(44人)が苦戦しているとの伝令を受け、田中少佐は150人を率いて救援に向かう。しかし地の利がある抗日パルチザンは、挟み撃ちをかけてきた。
 重囲に陥った「田中大隊」は全滅し、後続の砲兵中隊や歩兵小隊も奇襲攻撃に遭い、107人が戦死した。野砲2門が奪われている。これが「ユフタの戦い」だった。
 遺体処理にあたった第12師団歩兵第14連隊(小倉)の松尾勝造上等兵は、著書「シベリア出征日記」*66(風媒社)に書きこんだ。
 <嬲(なぶ)り殺しをされている一人の身体に、剣で突いたり切ったりした傷が十二、三はある。頭を西瓜(すいか)割りの如(ごと)く割っているその兵士の姿を見て驚いた。皆白襦袢(じゅばん)一枚に裸身にされている。耳、鼻を殺(そ)いでいる(略)その悲惨、二(ふ)た目と見られたものではなかった>
 この1カ月後、陸軍は復讐(ふくしゅう)戦に出る。原暉之著「シベリア出兵」(筑摩書房)は、こう記した。
 <戦友の無惨な戦死があい次いでいる様をまのあたりにした兵士たちは、異常なまでに敵愾(てきがい)心を掻(か)き立てられ、捨て鉢の報復集団になっていった。(略)かくて「村落焼棄」を実施して構わぬとの方針が打ち出された>
 兵士たちの敵愾心は、集落の焼き打ち事件にショートし、住民虐殺を引き起こすのだった。

https://mainichi.jp/articles/20180424/ddn/012/040/051000c
毎日新聞『平和をたずねて、軍国写影 反復された戦争/67 報復焼き打ち 無法の連鎖=広岩近広』
 シベリアに出兵した田中大隊(陸軍歩兵第72連隊第3大隊、田中勝輔少佐)が、全滅した事実は、政府と軍部に強い衝撃を与えた。
(中略)
 これだけの犠牲者を出したことで、ロシア革命に乗じた干渉戦争の是非が問われたのはいうまでもない。しかし、出兵方針は変わらず、首相の原敬*67は日記に書いている。
 <田中*68陸相より西伯利地方に於(おい)ては、従来の如く過激派に反対する方針を取るべしと提議し、閣議之に決す。目下に於ては外(ほか)に取るべき手段なし>(1919年2月26日)
 かくして現地の陸軍は、焼き打ちの無差別攻撃を始める。第12師団歩兵第14連隊(小倉)の松尾勝造上等兵の「シベリア出征日記」*69(風媒社)から引きたい。
 <三月三日 夜不寝番に立ちながらバーロフカ村を見たところ、村一杯火災である。大方味方が仇討(あだう)ちにこの村を焼いているということが分かった。その火災明りのため、この村の家までが赤く照された>
 <三月四日 この村は四十軒位はあるが一人としていない。調べた結果この村より敵が出たとのことに、兵隊がそれ焼いてしまへと見るゝうちに全部に火を放った。その焼けること、木造のこととて見るゝうちに炎は天を焦(こが)し、煙は天を黒く漲(みなぎ)った。零下四十度の寒気ではあったが、村の全焼のため熱くて堪(たま)らぬ。皆村外れに離れて万歳を叫んだ。各将校はこの様を見て、「あらゝこんな大げさなことをやってはいけなかったのに、家を焼くことは厳禁されていたのだが」と今さら困った模様だったが、兵は平気なものだ><そのドウゝと燃える様昨日の怨みを晴すに適当だった>
 直木賞作家、高橋治氏は著書「派兵 第三部」(朝日新聞社)に書いている。
 <それでいながら、皇軍の恥辱にも通ずることであるらしいのは、彼等の顔色から想像出来た。
 「ソンミですよ、ソンミ。南京大虐殺ほど大規模でなかったようだが、ま、ソンミそのものといえるでしょうな」
 そう語ってくれたのは、谷五郎氏であった(第十二師団歩兵第十四連隊)>
 「ソンミ」とは、ベトナム戦争で米軍がソンミ村の住民504人を虐殺した事件(1968年)である。元日本兵の谷五郎氏が、当時を顧みてソンミ虐殺事件を引き合いに出すほどだから、シベリアの日本軍による「村落焼棄」も残虐を極めた。10カ村以上を焼き打ちし、最たる加害が「イワノフカ村事件」だった。
 高橋氏はこう記した。
 <(ボーガス注:南京事件など)帝国陸軍を極彩色で彩った“残虐”“無法”“略奪”などの特色がこの戦争から発生して来た>(次回は5月8日に掲載)

・なお、この毎日記事については

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20180430/p1
■Apes! Not Monkeys! はてな別館『「ソンミですよ、ソンミ」』
 毎日新聞の連載「平和をたずねて」の4月24日(火)朝刊掲載分「反復された戦争(67) 報復焼き打ち 無法の連鎖」にて、以前に当ブログでとりあげたことのある『シベリア出征日記』が引用されています。私が紹介したのは1919年2月13日の日記でしたが、記事では3月3日、4日の日記が紹介されています。
 作家高橋治*70の『派兵 第三部』(朝日新聞社、1976年)から、第12師団歩兵第14連隊の元兵士の証言を含む一節が引用されています。

 「(ボーガス注:シベリア出兵での日本軍のイワノフカ村虐殺事件は、ベトナム戦争での米軍の)ソンミ(ボーガス注:虐殺事件のようなもの)ですよ、ソンミ。南京大虐殺ほど大規模でなかったようだが、ま、ソンミそのものといえるでしょうな」

を紹介しておきます。
ウィキペディア「シベリア出兵」にも一部指摘がありますが、小生が以前読んだ本『初期シベリア出兵の研究』(井竿富雄、2003年、九州大学出版会)も
1)現地軍がイケイケどんどんで、当初方針を無視してどんどん奥地に侵攻していく。それを中央政府も結局容認
2)そして占領地にコルチャーク政権など、傀儡政権ぶったてる(日中戦争、太平洋戦争でも満州国汪兆銘政権などをぶったてて傀儡政権による大東亜会議まで開催)
3)建前(チェコ軍捕虜救出)は「日本の利権獲得と関係ない」が実際はどうみても利権目当て(太平洋戦争では「アジアの解放」)
4)簡単に勝てると相手(この場合、ソ連軍)をなめてたが、結局勝てなかった(さすがに太平洋戦争では英米をそこまでなめてませんが、日中戦争においては明らかに蒋介石をなめていました)
5)尼港事件(ニコラエフスク事件)の扱われ方(日本軍が「自分のやってることを棚に上げて」、相手を「非道の輩」とネガキャンしまくる)が通州事件*71の扱いに似てる
6)パルチザン相手に無茶苦茶な討伐(民間人まで虐殺したイワノフカ村事件など)をしてかえって相手の反感を助長する(日中戦争だといわゆる三光作戦
という点が「後の日中戦争、太平洋戦争によく似てると思う」と書いていたかと思います。
 まあ、そういう意味ではシベリア出兵から後世の我々がいろいろ学べる点もあるのではないか。
 なお、「シベリア出兵」でググったところ、『初期シベリア出兵の研究』(井竿富雄、2003年、九州大学出版会)の他にも

・麻田雅文*72『シベリア出兵:近代日本の忘れられた七年戦争』(2016年、中公新書)
・原暉之『シベリア出兵』(1989年、筑摩書房
細谷千博『シベリア出兵の史的研究』(2005年、岩波現代文庫)

といった本があるようです。

*1:首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監など歴任。元老の一人。

*2:著書『李朝滅亡』(1997年、新潮文庫)、『戦乱三国のコリア史:高句麗百済新羅の英雄たち』、『善隣友好のコリア史:朝鮮通信使と吉宗の時代』(2007年、彩流社)、『世宗大王のコリア史:ハングル創製と李朝文化』(2012年、彩流社)、『蒙古襲来のコリア史:高麗王国の悲哀と三別抄の抗戦』、『李舜臣のコリア史:秀吉の朝鮮出兵の全貌』(2013年、彩流社)など

*3:1928〜2009年。島根県八束郡鹿島町(現・松江市)出身。1959年に赤旗編集局入りし政治部長などを歴任。1986年の参院選比例区から出馬し初当選、以後3期18年参議院議員を務めた後、2004年に引退を表明。2009年3月1日、心筋梗塞により韓国・ソウル市内にて客死。ソウルで行われた三・一独立運動90周年記念のシンポジウムで講演を行った後、夕食会で倒れた。著書『歴史に学ぶもの逆らうもの:侵略戦争と戦後政治』(1988年、新日本新書)、『侵略の歴史と日本政治の戦後』(1993年、新日本出版社)、『日本の侵略と膨張』(1996年、新日本出版社)、『日清戦争から盧溝橋事件』(1998年、新日本出版社)、『史実が示す日本の侵略と「歴史教科書」』(2002年、新日本出版社)、『総点検 日本の戦争はなんだったか』(2007年、新日本出版社)、『ILOの創設と日本の労働行政』(2009年、大月書店)、『日韓基本条約が置き去りにしたもの:植民地責任と真の友好』(2014年、大月書店)など(ウィキペ『吉岡吉典』参照)

*4:習仲勲のこと

*5:毛沢東のこと

*6:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*7:著書『草原と馬とモンゴル人』(2001年、NHKブックス)、『モンゴル草原の文人たち:手写本が語る民族誌』(2005年、平凡社)、『チンギス・ハーン祭祀』(2005年、風響社)『墓標なき草原(上)(下):内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(2009年、岩波書店)、『続・墓標なき草原:内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(2011年、岩波書店)、『中国とモンゴルのはざまで:ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(2013年、岩波現代全書)、『植民地としてのモンゴル:中国の官制ナショナリズムと革命思想』(2013年、勉誠出版)、『ジェノサイドと文化大革命内モンゴルの民族問題』(2014年、勉誠出版)、『モンゴルとイスラーム的中国』(2014年、文春学藝ライブラリー)、『チベットに舞う日本刀:モンゴル騎兵の現代史』(2014年、文藝春秋)、『狂暴国家中国の正体』(2014年、扶桑社新書)、『日本陸軍とモンゴル:興安軍官学校の知られざる戦い』(2015年、中公新書)、『モンゴル人の民族自決と「対日協力」:いまなお続く中国文化大革命』(2016年、集広舎)、『「中国」という神話:習近平「偉大なる中華民族」のウソ』(2018年、文春新書)など

*8:ソ連共産党書記長

*9:全人代常務委員長、国家主席など歴任

*10:副首相、党副主席、人民解放軍総参謀長などを経て国家中央軍事委員会主席、党中央軍事委員会主席

*11:党副主席、副首相など歴任

*12:文革の場合、毛沢東劉少奇周恩来トウ小平のうち、やる気満々なのは毛沢東だけで、劉少奇トウ小平に至っては失脚させられますからね。

*13:党総書記

*14:中国のナショナルセンター・中国総工会の機関紙

*15:中国共産主義青年団共青団)の機関紙

*16:文革の中心人物の一人。文革中の1975年に死去(死去当時、党中央政治局常務委員、全人代常務副委員長)。文革終了後の1980年に、林彪江青反革命集団の一員として党から除名された。

*17:文革で失脚するが後に復権党中央軍事委員会第一副主席、国家主席など歴任

*18:党中央組織部長、党中央宣伝部長などを経て党総書記

*19:京都大学教授。著書『中国共産党成立史』(2001年、岩波書店)、『革命とナショナリズム(シリーズ中国近現代史3、1925-1945)』(2010年、岩波新書)、『赤い星は如何にして昇ったか:知られざる毛沢東の初期イメージ』(2016年、臨川書店)など

*20:現在、邦訳はちくま学芸文庫

*21:とはいえ毛沢東文革も相当無茶ですからねえ。楊としては「毛沢東文革での無茶さ」と「日本ウヨの毛沢東への激しい憎悪」から「劉志丹暗殺・毛沢東黒幕説」という与太でもウヨに信用してもらえると思ってるのでしょう。

*22:劉志丹が公然と毛に刃向かってきたのでぶっ殺しました、つうならともかく楊の文は明らかにそうじゃないですからねえ。

*23:「それ(解放直後のダライ謀殺)やってたら今チベット問題なんてとっくの昔に解決(?)してるよね。毛も後腐れなくダライ14世を解放直後に(以下自主規制)」とか冗談でも俺が言ったらid:Mukkeさん、id:noharra先生、I濱女史、阿部治平とかマジギレするんでしょうねえ。まあマジレスすると、「病死に見せかける」など、どんなに偽装行為をしたところで、むしろそんな暗殺をしたら、かえって収拾がつかなくなると思いますが。

*24:山西都督、山西省政府主席を歴任。国共内戦では蒋介石と共に台湾に逃亡。

*25:ちなみに旧日本陸軍だと「上官のいじめが酷い」のでマジでそういうこと(いじめ被害者である部下によるどさくさ紛れの上官殺し)があったなんて話を聞いたことがありますがどんなもんなんですかね。ああそれとオリバー・ストーンの「プラトーン」ではそういう「米兵による仲間殺し」がありましたね(ウィキペ「プラトーン」にも大まかな内容は書いてあります。)

*26:まあ仮に進撃が無茶だとしてもそれだけでは当然ながら「暗殺目的」なんて認定できません。

*27:まあ、ウィキペの記述「閻錫山軍と戦って敗北し戦死」と楊の発言「毛沢東の暗殺」を矛盾なく理解するにはこうした俺のような理解「閻錫山軍の犯行に見せかけてどさくさまぎれに殺害」、「閻錫山軍は毛沢東の手先」「山西省に進撃させたこと自体が無茶で、実は閻錫山を利用した暗殺目的」のどれかしかあり得ないでしょうね(何つうか俺も無理にこんな解釈をするなんて「楊に対する善意(?)」にあふれてる気がします)。もちろん一番可能性が高いのは「楊のデマ」でしょうが。

*28:社会党書記長を経て委員長

*29:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相。戦後、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*30:つうか「反右派闘争」「大躍進」「文革」という「毛が実際にやったこと」だけでも十分、毛批判可能でしょうに「劉志丹暗殺」とか毛がやってもいないことをでっちあげるとか「楊よ、お前どんだけ毛沢東嫌い&デマ野郎よ?」ですよねえ。

*31:著書『宮本武蔵』(朝日文庫)、『新選組血風録』(角川文庫)、『項羽と劉邦』、『関ヶ原』、『豊臣家の人々』(新潮文庫)、『空海の風景』(中公文庫)、『最後の将軍・徳川慶喜』、『人斬り以蔵』、『義経』、『龍馬がゆく』(文春文庫)など

*32:カンボジア首相、カンボジア共産党書記長

*33:広東省省都

*34:福田内閣防衛相、麻生内閣経済財政担当相、第二次、第三次安倍内閣農水相を経て第四次安倍内閣文科省

*35:祖父は国場組創業者の国場幸太郎。沖縄県議を経て衆院議員。

*36:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長などを経て首相

*37:東条、鈴木内閣で外相。戦後、東京裁判で禁固20年の判決を受け、服役中の1950年に病死。1978年、死刑となったA級戦犯東条英機元首相など)や、裁判中、病死したA級戦犯松岡洋右元外相など)、服役中、病死したA級戦犯小磯国昭元首相など)と共に「昭和殉難者」として靖国神社に合祀。

*38:検事総長大審院長、第二次山本内閣司法相、第二次近衛内閣内務相、首相、枢密院議長など歴任。戦後、東京裁判終身刑の判決を受け、服役中の1952年に病死。1978年、他の、死刑となったA級戦犯東条英機元首相など)や、裁判中、病死したA級戦犯松岡洋右元外相など)、服役中、病死したA級戦犯小磯国昭元首相など)と共に「昭和殉難者」として靖国神社に合祀。

*39:トルーマン政権国務長官

*40:警視総監、鈴木内閣内務相など歴任

*41:検事総長、小磯、鈴木内閣司法相を歴任。

*42:鈴木内閣で陸軍大臣

*43:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣など歴任。戦後、A級戦犯として終身刑判決を受けるが1955年に仮釈放。

*44:元農林次官。第2次近衛内閣農林相、鈴木内閣農商相を歴任

*45:第2師団長、第6軍司令官など歴任

*46:満洲鉄道総裁、鈴木、東久邇宮内閣運輸相など歴任

*47:朝日新聞専務、副社長、鈴木内閣内閣情報局総裁など歴任

*48:第3次近衛内閣商工相、鈴木内閣国務相(無任所)を歴任

*49:著書『朝鮮人強制連行』(2012年、岩波新書)など

*50:第一次安倍内閣沖縄・北方等担当相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣総務相など歴任

*51:鳩山、菅内閣外相、民主党幹事長(菅代表時代)、野田内閣副総理・行革相、民主党代表代行(海江田代表時代)などを経て民主党代表

*52:野田内閣で国家公安委員長

*53:小泉内閣国家公安委員長財務相自民党政調会長(福田総裁時代)、福田内閣国交相、第二次安倍内閣法相、自民党幹事長(第二次安倍総裁時代)など歴任

*54:鳩山内閣行政刷新担当相、菅内閣官房長官、野田内閣経産相民主党幹事長(海江田、岡田代表時代)、民進党代表代行(前原代表時代)などを経て立憲民主党代表

*55:ただし個々の在日がそれらのケースに該当するかどうか、それとも『完全な自由意志(?)かどうか』は今更確認しようがおそらくないでしょう。

*56:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相。現在、第二〜四次安倍内閣副総理・財務相

*57:著書『本当は戦争で感謝された日本:アジアだけが知る歴史の真実』(2018年、PHP文庫)など

*58:いわゆる明石工作は「日露戦争勝利やポーランドの独立」という意味では成果に乏しいと言うのが通説のようです(ウィキペ「明石元二郎」参照)。

*59:後に首相(国防相兼務)

*60:第一次桂、第一次西園寺、第二次桂内閣陸軍大臣朝鮮総督などを経て首相

*61:第二次大隈、寺内、原、高橋内閣海軍大臣を経て首相

*62:第四次伊藤、第一次西園寺、第三次桂、第二次大隈内閣外相などを経て首相

*63:占領中にオハ油田開発している以上、どう見ても本心ではありませんが。

*64:北樺太オホーツク海側で最初に開発された油田である。日本が保障占領中(1920〜1925年)に石油生産を開始し、日ソ基本条約締結(1925年)で施政権がソビエト連邦に返還された後も日本が採掘権を維持した。しかしソ連側が人員や物資の出入りを制限するなどの操業妨害をしばしば行ったことから、日本にとっての経済価値はあまり大きくなかったといわれる。1941年に日ソ中立条約締結の条件としてソ連に返還された。現在では採掘量が減少し、生産はほとんど行われていない。事実上廃鉱と言えるが、これに対し、埋蔵量が減少したのではなく、老朽化した施設を更新する事によって生産量を回復させることができるとの説もある。しかし実際には、より生産性の高いサハリンプロジェクトの進行によって、このような意見は顧みられていない(ウィキペ「サハ油田」参照)。

*65:斎藤氏については白井久弥『ドキュメントシベリア抑留:斎藤六郎の軌跡』(1995年、岩波書店)など参照

*66:著書と言っても松尾氏が風媒社から刊行したわけではなく、松尾日記を発掘した高橋治氏が風媒社から刊行したのですが。

*67:第四次伊藤内閣逓信相、第一次西園寺、第二次西園寺、第一次山本内閣内務相などを経て首相

*68:原、第二次山本内閣陸軍大臣や首相を務めた田中義一のこと。

*69:これについてはApes! Not Monkeys! はてな別館『『シベリア出征日記』』(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070106/p1)参照

*70:1977年、シベリア出兵を描いた『派兵』全4部(1973〜1977年、朝日新聞社)により泉鏡花記念金沢市文学賞受賞。1982年、小津安二郎監督の生涯を描いた『絢爛たる影絵:小津安二郎』(1982年、文藝春秋→後に1985年、文春文庫、2010年、岩波現代文庫)で直木賞候補。1983年、釣師の世界を描いた、『秘伝』(1984年、講談社→1987年、講談社文庫)で第90回直木賞受賞。著書『蕪村春秋』(2001年、朝日文庫)、『純情無頼:小説阪東妻三郎』(2005年、文春文庫)など(ウィキペ「高橋治」参照)。

*71:通州事件については■「通州事件」:直接の引き金(http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu2.html)、■「通州事件」への視点(http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html)参照

*72:著書『中東鉄道経営史:ロシアと「満洲」・1896-1935』(2012年、名古屋大学出版会)、『満蒙:日露中の「最前線」』(2014年、講談社選書メチエ)、『日露近代史』(2018年、講談社現代新書)など