新刊紹介:「前衛」6月号(その3):映画「大統領の陰謀」

■文化の話題
【映画:権力に屈しないメディアを支えた女性の決断:映画『ペンタゴン・ペーパーズ:最高機密文書』】(伴毅)
(内容)
http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20180517/5421309876に書き切れなかったので続きです。「大統領の陰謀」について触れておきます。
 しかしニクソンって米国リベラル層(民主党支持層)には「ウォーターゲートの黒幕」「ペンタゴンペーパーを封じ込めようとした悪人」扱いなんですかね。間違いではないものの、「米中国交正常化」などの功績もあるわけで、ニクソン*1も晩節を汚してネガティブイメージが定着してしまったというところでしょうか。

参考
大統領の陰謀

Amazonレビュー
■名著である原作を先に読んでから観た方がいい映画
 この映画に関しては多くの方が知っている通り、二人の新聞記者が大統領の政治的謀略に迫り、追い詰めるというジャーナリズムの極点を極めた名著*2が原作にありますが、出来ればそちらを先に読んでからこの映画版を観ることをお勧めしておきます。というのも登場人物も沢山で話の筋も錯綜していて原作に忠実に映画化していたら軽く3時間は超えるであろう複雑なストーリーなので。私の勝手な憶測ですが、映画化が決まってスタッフで打ち合わせをした時にこのままだと映画にするのが困難なので娯楽化するのにどうするかかなり悩んだのではないかと察します。そこで脚本を才人ウィリアム・ゴールドマン*3に依頼し、何とか通常の時間枠の映画にまとめたのではと思いましたがどうでしょうか。斯様にかなり無理して作られた節のある映画なので面白いことは面白いのですが、全体的には原作の筋をなぞることに腐心しすぎで映画にしかできない要素に若干欠けるきらいのある映画になってしまい、ラストの方も駆け足ぎみで何とかうまくまとめた感じで、個人的には原作の方が面白かったです。
 私的には「12人の怒れる男」で異才を放っていたジャック・ウォーデンがいい演技してるなとか些末な感想とこの歴史的ジャーナリズムのノンフィクションを映画にしたことは偉いと思う、というぐらいしかあまり高い評価をしにくい映画でしたが、皆さんはどうでしょうか。悪い作品ではないと思いますが。
■予備知識と英語力が必要な名作
 AFI all time best 100に選ばれ、アカデミー賞4部門受賞の傑作。ロバート・レッドフォードダスティン・ホフマンの競演も素晴らしい。
 が、残念ながら私には分からないことが多すぎた。
 一般的な日本人の英語力と、ウォーターゲート事件に対する知識ではこの映画は理解できないのでは?というのが私の感想です。
 二人の新聞記者が、当時の大統領の陰謀を暴く取材過程がこの映画の見せ所なのですが、行き詰まる緊迫感は伝わってくるものの内容がさっぱり分からない。
 ひとつは、人物名の多さ。黒幕のトップ、ニクソンは知っているだろうが事件の中ではキーパーソンが数名出てくる。が、そのほとんどが“名前だけ”なのでぜんぜん印象に残らない。いまの映画であれば、顔つきの人物相関図が出てくるところだろう。
 もう一つは、取材最中のやりとり・駆け引き。主人公の二人はカマを掛けたり、相手が答えやすいように誘導したりしながら真実を突き止めていく。
 しかし、このやりとりが分かりにくかった。おそらく元となっている脚本はすばらしいものであろうことは分かる。ただ、英語力なのかアメリカ文化への理解なのか分からないが、私にはキワドイ会話による駆け引きが全く理解できなかった。
 主人公たちが、”確証が取れた!”と喜ぶシーンでも”なんであれで確証が取れたことになるの?”と不思議でたまらない。
 おそらく、映画の見所は俳優の熱演と素晴らしい脚本なのだと思う。
 だから映像に頼ったサスペンスの演出や派手な出来事が無く、淡々と取材過程のみを描いている作品にもかかわらず、これだけの評価を得ているのだと思う。
 後者を十分理解する能力がなかった私には(そして一般的な日本人もそうだと思うが)ちょっと致命的な作品ではあった。
■現職大統領の大スキャンダルをすっぱ抜いた二人
 本作はアカデミー賞において、助演男優賞、脚色賞、美術賞、録音賞の4部門を受賞している。それも納得の名作である。
 日本語吹替も収録されており、こちらの面々も、映画の登場人物に匹敵するほど豪華。主演の二人は野沢那智*4(カール・バーンスタイン記者役のダスティン・ホフマン)と広川太一郎*5ボブ・ウッドワード記者役のロバート・レッドフォード)。その他、雨森雅司*6(ローゼンフェルド社会部長役のジャック・ウォーデン)、緑川稔(シモンズ編集局長役のマーティン・バルサム)、小林清志*7(ブラッドリー編集主幹役のジェイソン・ロバーズ)、寺島幹夫ディープスロート役のハル・ホルブルック)、小川真司*8(ヒュー・スローン役のスティーヴン・コリンズ)。素晴らしいキャスティングである。是非日本語吹替でもお楽しみあれ。
■広川、野沢の奇跡の吹き替え収録
 購入するまで気づかなかったのだが、この商品には、レッドフォード(ボブ・ウッドワード記者)=広川太一郎、ホフマン(カール・バーンスタイン記者)=野沢那智という、今となっては夢のような吹き替え音声が収録されている。
 もはや2度と耳にすることの出来ない、永久保存版の音声である。
 自分がこの作品をテレビで(もちろん地上波)見た時も、当然この吹き替えバージョンであった。

ウォーターゲート事件(ウィキペ参照)
 事件は、1972年の大統領選挙戦のさなかの6月17日に野党・民主党の本部があるウォーターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、何者かが盗聴器を仕掛けようと侵入し警備員に発見されて警察に逮捕されたことから始まった。
 やがて犯人グループがニクソン大統領再選委員会の関係者であることが判明。当初、ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「侵入事件と政権とは無関係」との立場を取ったが、ワシントン・ポストなどの取材から次第に政権内部がこの盗聴に深く関与していることが露見する。
 さらに事件発覚後に捜査妨害ともみ消しにホワイトハウスが直接関わり、しかも大統領執務室での会話を録音したテープが存在することが上院調査特別委員会でわかった。このテープ提出の拒絶や、事件を調査するために設けられた特別検察官を解任する(そのため司法長官と次官が抗議辞任)など、明らかな司法妨害が政権よりなされた。
 こうした不正なニクソン政権の動きに世論が猛反発し、やがて議会の大統領弾劾の動きに抗しきれなくなってアメリカ史上初めて大統領が任期中に辞任に追い込まれ、2年2ヶ月に及んだ政治の混乱が終息した。
■事件の発覚
 1972年6月17日午前2時、ワシントンD.C.にあるウォーターゲート・ビルで働く警備員フランク・ウィルズが、建物の最下部階段の吹き抜けと駐車場の間のドア上に奇妙なテープが貼られているのに気付いた。彼は、「どこかの事務所に荷物を搬送した者がテープを剥がし忘れたもの」と考え、何気なくテープをはぎ取ったのだが、10分後に念のため点検に戻ってみると、またテープが貼り直されていた。このことを不審に思い、彼がワシントン市警に通報したところから事件は始まる。
 ワシントン市警のパトカーが到着後、私服警官3人が同ビルの6階を借り切っていた民主党全国委員会本部オフィスの廊下に通じるガラスドアの錠が開いていることを確認して、ピストルを持って中に入り、内部に侵入していた5人の男を不法侵入の罪で、現行犯逮捕した。
 逮捕時はエドワード・マーチンと名乗っていた男が本名ジェームズ・W・マッコード・ジュニアでこの時ニクソン大統領再選委員会の警備主任であることが、翌日までに判明した。彼はまたCIAの元工作員でもあった。そして彼らが投宿していたウォーターゲートホテルの室内から大金(100ドル紙幣53枚)が見つかり、その出処に疑惑が広がった。
 現行犯逮捕された5人のうち、3人はキューバ人で1961年のピッグス湾事件(第1次キューバ危機)の退役軍人、1人は亡命キューバ人を訓練するCIA工作員、そして5人目はニクソン大統領再選委員会のメンバーだった。
 さらに警察が押収した犯人の手帳の中にチャールズ・コルソンの名前があり、彼はこの時にホワイトハウス顧問であった。また手帳にはさらにエヴェレット・ハワード・ハントの名前が書きこまれていて、自宅の電話番号が記され、しかも「HOUSE・WH」と記されていた。ハントは、元FBI、CIA職員で、その後ホワイトハウスの非常勤顧問を務めてこの年の3月に辞職したが、4月から勤めていた広告会社のオフィスはホワイトハウスのすぐ向い側のビルにあった。侵入犯がニクソン大統領側近と関係があるのではないかとの疑念が生まれた。
 しかし、事件発覚後の1972年6月19日にニクソン大統領の報道担当官ロナルド・ジーグラー*9は、三流のコソ泥とコメントして、ホワイトハウスとは無関係であるとして一蹴した。
 この「三流のコソ泥」とは、この侵入事件の犯人グループの行動を的確に表現したものと一方では皮肉られている。この程度の作業で5人も侵入する必要がなかったこと、侵入時に手帳を所持して結果ホワイトハウスとの結びつきが露見したこと、しかも大統領再選委員会の現職の人間を入れたことなど、「これはプロのする仕事ではない。ヘマなやり方だ」という専門家の声が事件直後の新聞に掲載された。このうかつすぎる行動が逆に上層部の知らないところで現場の人間が軽はずみにやった犯行というイメージとなり、ニクソン政権には直接関係がないことと理解する向きが多く、1972年11月の大統領選挙にはほとんど影響がなく、民主党のマクガバン候補を破ってニクソンが再選された。
■大陪審
 6月30日、ワシントン連邦地方裁判所で大陪審が始まった。5人の被告は侵入したことは認めたが、誰に頼まれたのか、金銭はどこからもらったのかなどの背後関係については一切口を閉ざしていた。ところが5人の弁護を引き受けた若い弁護士が「私はハント氏ともう1人の人物から弁護を依頼されている」と証言して、大陪審からその「もう1人」とは誰かと追及されて、「弁護人と依頼人との特別な関係だから言えない」と答えた。この件について7月11日の第2回の大陪審でも追及された弁護士は黙秘権を行使、第3回の大陪審まで14時間も押し問答が続き、しびれを切らした裁判長が法廷侮辱罪で処罰すると宣言する結果となった。ほぼ同時進行で捜査当局は、侵入犯のバーナード・バーカーの事務所の通話記録からワシントンのある電話番号に犯行当日12回も通話していることを発見し、この電話番号が大統領再選委員会財政顧問ジョージ・ゴードン・リディであることを突き止めた。バーカーは自供し、弁護士も「もう1人の人物」がリディであることを認めたためリディは逮捕され、ハントも大陪審に出頭して彼も逮捕された。こうして5人の背後にいたのがリディ大統領再選委員会財政顧問とハント元ホワイトハウス顧問であったことが明らかになり、この7人の被告たちは後に「ウォーターゲート・セブン」と呼ばれることとなった。
ワシントン・ポストと「ディープ・スロート
 ワシントン・ポストは、事件が発生した6月17日朝からボブ・ウッドワード*10記者とカール・バーンスタイン記者とが共に独自の調査を始め、事件に関する様々な事実を紙面に発表した。内容の多くは、FBI及び他の政府調査官には既知のものではあったが、ウォーターゲート事件に対する世間の注目を集めることとなり、ニクソン大統領やその側近を窮地に立たせる結果となった。
 最初に1972年6月20日付け紙面で侵入犯の内、2人の手帳からチャールズ・コルソン(ホワイトハウス顧問)の名前が見つかり、他にハワード・ハント(元ホワイトハウス非常勤顧問)の名前と自宅の電話番号、そして「House.WH」と書き込まれていた、とスクープした。そして8月1日の紙面で侵入犯の1人バーナード・バーカーのフロリダの銀行口座にニクソン再選委員会中西部地区責任者ケネス・ダルバーグの預金小切手から25,000ドルが振り込まれていた、と報じた。この頃から2人はウォーターゲート事件を専門的に担当することとなった。そして「ニクソン再選委の秘密選挙資金が30万ドルに上る」(9月17日)、「ミッチェル前司法長官は司法長官在職中から秘密資金を管理していた」(9月29日)、「ウォーターゲート事件共和党の選挙妨害の1つに過ぎず、秘密資金は35〜70万ドルにのぼる」、「大統領補佐官民主党妨害工作に関与、FBI捜査で明らかに」(10月10日)、「秘密資金の支出を管理するメンバーにハルデマン補佐官が」(10月25日)などスクープを出し、ホワイトハウスとの関係は悪化の一途を辿った。しかし既に指摘したように、事件発生から半年間は大方の見方としてコソ泥の真似を政府高官がするはずはない、下っ端がとんでもないことをしたが、中枢部には関係ないことである、という意見が強く、11月の大統領選挙にはさして影響はなく、ニクソン圧勝に終わった。総じてメディアはウォーターゲート事件には無関心であり、この時期に記事にしたのはほとんどワシントン・ポストのみであった。世間の耳目が集まるようになったのは、「ニクソン政権中枢が事件の実行と発覚後のもみ消しに関与した」という内容の実行犯の一人マッコードの爆弾発言が出た1973年3月以降のことである。
 この一連のスクープ記事は、ある内部情報に詳しい者からの示唆に基づくものであった。ウッドワードによって「ディープ・スロート」と名づけられた内部情報提供者の素性は、ウォーターゲート事件におけるミステリーとされていた。
■捜査妨害・もみ消し
 事件が起こった17日の2日後の6月19日夕方、大統領再選委員会委員長ジョン・N・ミッチェル(前司法長官)、副委員長ジェブ・スチュアート・マグルーダー、同じ再選委員会メンバーのフレデリック・C・ラルー、ロバート・マーディアン、そして大統領法律顧問ジョン・ディーンの5人が集まり、事件の後始末をどうするかで協議した。この事件を、逮捕されたハントやリディが彼らの一存でやったことにしようという話で終わったが、懸念は20万ドルの資金の出所を知られたらということであった。この会合が事件もみ消し工作の最初であった。またマグルーダーは事件が公になった17日に再選委員会事務局から2冊のファイルを2人の事務局員にいったん自宅に持って帰らせて、週明けのこの日に受け取りすぐに裁断機で処分した。このファイルは盗聴作戦の計画に関する克明なメモで、ウォーターゲート事件の重要な証拠物件であった。
 事件から6日後の6月23日、ジョン・アーリックマン*11内政担当大統領補佐官とハリー・ロビンス・ハルデマン大統領首席補佐官は、ホワイトハウスの事務室にリチャード・ヘルムズCIA長官とバーノン・A・ウォーターズ副長官の2人を呼んだ。ハルデマンは「グレイFBI長官代行(フーバー長官死後正式な長官が選任されていなかった)の所に行って、君の方からこれで十分でないのか。これ以上の捜査は得策でない。これ以上の捜査をしてくれるな、と言ってほしい」と要請した。
 6月26日、大統領法律顧問ディーンから電話で呼び出しを受けてウォーターズ副長官が行くと、「CIAから彼らの保釈金、刑務所に行くことになれば刑期中の給料を払ってやるわけにはいくまいか」との打診を受ける。ウォーターズは「CIAはこの件に関係していない。保釈金や給料を払えば今のスキャンダルは10倍も大きくなる。CIAの信用が全く失われてしまう」と突っぱねた。ディーンの狙いはCIAの秘密活動を妨げるのでFBIの捜査を打ち切る、そしてCIAの仕事だったと言ってしまえば「国家の安全」を理由に事件の追及をうやむやにできるという一石二鳥であったが、FBIもCIAも従わなかった。
 この翌年・1973年に、上院特別調査委員会でこの1972年6月23日の動きについて大統領法律顧問ディーン、首席補佐官ハルデマン、大統領補佐官アーリックマンとも厳しい追及を受けることとなった。その後大統領執務室の全ての会話が秘密裏に録音されていることが発覚してから、この時の会話を録音したテープの提出をめぐって大統領側と議会・司法の間で攻防が展開されることになる。
 事件発覚後のもみ消し工作は6日後からホワイトハウスが動きだしていたが、盗聴のために民主党本部に侵入する工作についてジョン・N・ミッチェル元司法長官、ハルデマン首席補佐官、チャールズ・W・コルソン特別補佐官およびアーリックマン特別補佐官が事前にどれほど深く関与したかはいまだ論争の対象である。
■補佐官の辞任、そして特別検察官の指名へ
 1973年1月8日に、侵入犯被告7人(ウォーターゲート・セブン)は大陪審にかけられて、マッコードとリディ以外の全員が有罪を認めた。しかしこの盗聴事件の背後関係については一切口をつぐんだままであった。そしてマッコードは次第にCIAの単独工作ということで自分を主犯格にして幕を引く動きであることを察知して、侵入だけを認め、素直に刑に服し(懲役20〜30年の見通しであった)、やがて恩赦を待つ、その間の家族の面倒は見るとの約束に懐疑的になっていった。そして3月19日についに行動を起こして、裁判長に手紙を送る。それは「罪を認めてその他は一切しゃべるなという政治的圧力を受けている」「公判でいくつかの偽証があった」「他にも関係者はいるが公判では一切明らかにされていない」「ウォーターゲートはCIAの作戦の一環ではない」など自分の胸中を初めて吐露したものであった。
 これに対して裁判長は、3月23日の判決の際に冒頭でマッコードの手紙を読み、リディには懲役20年の実刑判決、他の侵入犯被告に対して懲役35年の仮判決を言い渡すと同時にグループが事件の調査に協力的であるなら3ヶ月後に減刑するとも述べた。一方、自ら大統領再選委員会との関係と偽証を認めたマッコードに対しては、判決が延期された。マッコードは3月24日に上院特別調査委員会に証人として立ち、「盗聴計画は大統領再選委員会委員長ジョン・N・ミッチェル(前司法長官)、副委員長ジェブ・スチュアート・マグルーダー、大統領法律顧問ディーンが事前に承認を与えた」という爆弾発言をおこなった。
 1973年3月までホワイトハウスの事件に対する対応は「一切関係はない」であった。この時まで裁判所であっても上院特別調査委員会であっても行政特権を理由にスタッフの証言を拒否してきた。しかし、マッコードの手紙と上院での爆弾証言を契機に国民や議会からも批判が高まり、3月30日に大統領は捜査に協力するように命じた。4月17日には記者団に「その調査で新たな進展があり、事件捜査には全面的に協力して、いかなるもみ消し工作も強く非難する」と語った。この発表は裏返せば1973年3月21日まで事件の詳細は知らず、ホワイトハウスは無関係と言ってきたが、内部調査で新しい事実が分かった、ということである。しかし真実は違うことを米国民は1年後に知ることになる。
 ディーンはマッコード発言から4週間後の4月19日に「私を身代わりにしようとする動きがある」と言明してホワイトハウス内部が大混乱となる。あわせて20日ニューヨーク・タイムズが「盗聴計画の共同謀議は大統領再選委員会委員長ミッチェル(前司法長官)、副委員長マグルーダー、大統領法律顧問ディーンによって1972年1月から3月の間に3回行われた」とスクープして、さらに21日には「ディーンが犯人らに口止め料を払った」と報じた。実はこの報道の数日前の4月16日に、ディーンは大統領からもみ消し工作を認めた辞表の署名を求められて拒否していた。
・1973年4月30日にニクソンは、彼がもっとも頼りにしているハルデマンとアーリックマン両補佐官の辞任を余儀なくされた。また5月18日に、リチャードソン*12司法長官は特別検察官にアーチボルド・コックスを指名。コックスがリベラルなハーバード大学の教授であったこと、ジョン・F・ケネディ政権下で訟務長官を務めた過去があることから、ニクソンは彼を恐れた。
■上院ウォーターゲート特別委員会
 上院ウォーターゲート特別委員会が設けられたのは1973年2月7日である。全米が注目する中で委員会の公聴会が、ニクソン大統領がコックス特別検察官を指名する前日(5月17日)より始まった。公聴会はこれ以降8月まで合計37日間開催され、毎回のテレビ中継で、ニクソン政権の内情が白日の下に晒された。6月25日にはジョン・ディーン元大統領法律顧問が証言して、事件のもみ消しを図ったのはハルデマンとアーリックマンの両補佐官であり、大統領はもみ消しを最初から知っていたことを明らかにした。
■録音テープの存在
 そして7月13日での特別委員会に出席したアレクサンダー・バターフィールド大統領副補佐官が、ホワイトハウスの録音システムが大統領執務室中の全会話を自動的に記録しており、その録音テープが存在すると発言して、それまでのニクソン大統領及びディーン元大統領法律顧問の発言が真実を話しているかどうか証明することができる重要な証拠の存在が明らかになった。
 コックス特別検察官と上院特別委員会は、直ちにホワイトハウスに対しテープの提出を命じた。この録音テープの存在が公開されると、それまでの発言との食い違いが発覚し自身に不利になることを恐れてニクソン大統領は提出を拒否した。そしてこの問題は司法の場に持ち込まれて、8月29日にワシントン地裁がテープの提出を認め、さらに10月12日に連邦控訴裁判所も地裁の決定を支持した。
 以後ウォーターゲート事件はこの録音テープの提出を要求する側とそれを拒否する側との攻防が中心となり、やがて秋に入って大きな転機が訪れる。
 苦境に立ったニクソンは妥協案としてジョン・C・ステニス上院議員(上院軍事委員長で民主党だが保守派でニクソンの政治的盟友でもある)にテープを精査して報告する旨の案を出したが、コックスはこの妥協案を拒否した。
■土曜日の夜の虐殺
 1973年10月20日の土曜日、ニクソンはテープ提出要求を大統領特権で拒絶し、提出命令を無効にするようリチャードソン司法長官経由でコックスに命じた。コックス特別検察官はこれを拒否して記者会見を行い、あくまで録音テープの提出を要求した。ニクソンは次にコックスを解任することを画策、この土曜日の夜にリチャードソン司法長官に対して解任を命令したが、リチャードソンはこの命令を受け入れることを拒否し抗議辞任。ニクソンは次にウィリアム・D・ラッケルズハウス司法副長官に対しても同じ命令を行ったが、ラッケルズハウス副長官もこれを拒否して抗議辞任した。結局、司法省No.3のロバート・H・ボーク訟務長官が大統領命令に背くことができずコックスを解任した。
 特別検察官を力で押さえつけたと同時に、閣僚でもあった司法長官と次官を抗議辞任に追いやったことで、ニクソン非難の嵐が全米に吹き荒れることとなった。この時期から議会で大統領弾劾の動きが始まることとなる。
 そして、この一連の流れからテープには、ニクソンにとってウォーターゲート事件関係で相当都合が悪い会話があり、大統領が事件に深く関わっていた事実を示すものがあるに違いないという確信を多くの国民に植え付けることになった。
 1973年11月17日、フロリダ州オークランドで、ニクソンは400人の記者の前で自らの行為に対する弁明を行った。「私はペテン師ではない(I am not a crook.)」という有名なセリフは、この時の弁明で生まれたものである。
 特別検察官の後任には、レオン・ジャウォスキーが選ばれた。しかし、強引な特別検察官解任で国民の反発を買ったあげく、10月10日にメリーランド州知事時代の収賄及び脱税疑惑が発覚したスピロ・アグニュー*13副大統領が辞任する事態まで生じて、ニクソン大統領への支持は急速に落ち込み、自身の政治的基盤を崩壊させることにもつながっていった。
■録音テープ提出
 ニクソンはテープの公開を拒絶し続けることは不可能と判断して、ホワイトハウスが編集したテープの筆記録を提出することで連邦地裁と合意した。だが、公表された筆記録には削除箇所が多数存在し、ニクソンの支持層の中心だった保守層からもニクソン支持を大きく低下させる結果になった。
 やがて世論の総攻撃を受けて10月31日に録音テープの一部を連邦地裁に提出した。しかし11月26日にその中の1本に18分30秒の消去された部分があることも判明し世論の疑惑を引き起こしたが、ホワイトハウスは、ニクソンの秘書だったローズ・メアリー・ウッズが電話応答の際に誤って録音機につけたペダルを踏んでテープを消去したと説明した。だが、ウッズが電話に出ながらペダルを踏むには、体操選手のように手足を伸ばさなければならないなど相当無理な姿勢であり、その様子を再現した写真もセンセーショナルに取り上げられてしまった。後に鑑定したところ、この消去は複数回にわたり念入りに行われたことであることが判明し、なおかつ違法行為として訴追対象になるほど大幅であることも判明した。
 1974年4月4日に委員会が提出を求めていた録音テープの提出をニクソンが拒み、4月30日に42本のテープを編集した書き起こし1200ページに及ぶ資料を代わりに提出した。
 録音テープ提出の問題は結局最高裁判所まで争われ、1974年7月24日、テープに対するニクソンの大統領特権の申し立ては無効とし、さらにコックスの後任の特別検察官レオン・ジャウォスキーにテープを引き渡すように命じる判決が全員一致で決定する(ウィリアム・レンキスト長官は辞退)。この命令に従い、ニクソンは7月30日に問題のテープを含めて64巻のテープを引き渡すこととなる。それはニクソンにとって政治生命の致命傷となるものであった。
■大統領弾劾発議
 ニクソン大統領の弾劾の動きが野党の民主党はともかく、与党共和党から出たのは、1973年5月6日にボブ・ドール*14共和党全国委員長が「大統領が知っていたか、介入の証拠があれば大統領弾劾も避けられない」と語ってからである。マッコード発言から1ヶ月半後、ハルデマン、アーリックマン両補佐官を辞めさせてから1週間近く経てからであった。
 しかし大統領弾劾と言っても、それ以前はアメリカの歴史でも100年前に1例(アンドリュー・ジョンソン*15大統領)あるだけで、弾劾に値する行動の証明が難しく、弾劾を主張する議員ですら、実際に弾劾できるという確信は誰も持っていなかったといわれる。1973年1月にはベトナム和平の達成で、大統領支持率は68%を記録していた(ワシントンポストの2人の記者の取材活動を、両者の著書を元に描いた映画『大統領の陰謀』は、まだ事件が注目されず全米でニクソン批判世論が沸騰する前の時点で物語は終わっている。どこからも相手にされない孤独な闘いをして、取材から帰って大統領の疑惑関与を確信した記者が原稿をタイプライターで打っているバックにテレビの画面で再選されたニクソンの大統領就任宣誓が写っていた。この時期がニクソンの絶頂期であった)。
 しかし事態が大きく変わり、ターニングポイントとなったのは、「土曜日の夜の虐殺」からで、これが民主主義国のトップが行うことが法的、道徳的に許される行動なのかという疑問を多くの人が抱いたからである。虐殺という言葉が使われたこと自体、異常なことであった。これを受けて10月23日に下院に大統領弾劾決議案が提出されて、30日に下院司法委員会の予備審査にかけられることとなった。ニクソンの支持率はコックスを解任した10月末の時点で30%以下に落ち込んでいた。そして翌年8月に辞任するまで支持率が回復することはなかった。
 しかもウォーターゲート事件とはまた違うところでアグニュー副大統領の別の不正行為(メリーランド州知事時代の収賄と脱税の疑い)が発覚し、引責辞任に追い込まれたこと(後任副大統領は共和党下院院内総務だったフォード)で史上最悪の汚職政権、と言われるまでになった。しかしこの1973年11月の時点では大統領弾劾による解任に賛成は37%で反対は55%という世論調査の数字であり、いかに支持できぬとしても大統領を任期途中で弾劾し解任することの抵抗は大きかったのである。
 その一方で1974年3月1日、大統領の7人の元側近(ハルデマン元補佐官、アーリックマン元補佐官、チャールズ・コルソン元補佐官、元大統領再選委員会委員長ジョン・N・ミッチェル(元司法長官)ら)がウォーターゲート事件の捜査妨害で起訴された。
 こうした中で4月に入ってニクソンの過去における脱税疑惑が明らかになり、1974年5月の世論調査で弾劾に賛成48%、反対37%でこの時に初めて弾劾賛成が多数派となった。この賛否が逆転した原因は、このニクソンの脱税疑惑と録音テープの速記録の公表で大統領が普段の会話で汚い言葉を使っていることと策謀をめぐらしている様子がまざまざと示されて国民がショックを受けて、ニクソン自身の道徳性の欠如を決定的に印象付けたことであった。ニクソン大統領はますます窮地に追いやられていった。
 下院司法委員会は1974年7月27日に評決を行い、27票対11票で大統領に対する第1の弾劾(司法妨害)を勧告することが可決され、さらにその後7月29日には28票対10票で第2の弾劾(権力の乱用)の勧告が、また7月30日には21対17で第3の弾劾(議会に対する侮辱)の勧告までもが可決されてしまう。
 この司法委員会の大統領弾劾の評決で全米が注目していた最中の7月24日、連邦最高裁判所ニクソン大統領に対して録音した64本のテープを連邦地裁判事に提出するように判決を出して、すでに20本が速記録の形で提出されており、残りのテープも8月5日に提出された。
 そして民主党本部侵入事件の実行犯逮捕から6日後の1972年6月23日に行われた、ホワイトハウスの大統領執務室での会話を録音したテープが公開された。その中で、ニクソンとハルデマン補佐官が、国家安全保障に関する問題とすることにより事件捜査を阻止する計画を謀議していたことが明らかにされた。それによると、1972年6月23日に大統領はハルデマンから報告を受けてFBIの捜査を遅らせるようにCIAに依頼し、この侵入事件を国家の安全保障に関する問題にすり替えて捜査を阻むように指示していた。その時点からすでにもみ消しの動きを大統領自身が決めていて、以降のディーン大統領法律顧問の動きは最初から大統領の承認を受けたものであったことが裏付けられた。この録音テープは決定的証拠(smoking gun)と呼ばれた。
 大統領弾劾の動きをもう誰も止められなかった。すでに下院司法委員会の勧告が可決されており、この後は下院本会議での弾劾裁判の発議が議決されれば、上院での弾劾裁判が始まる。この当時上院の共和党は少数派で(下院も少数派であった)、上院でのニクソンへの支持は少ないうえに録音テープの公開で、もはや本気でニクソンを支持する共和党議員は、いなかった。しかも下院司法委員会でニクソンを支持して弾劾決議に反対票を投じた共和党下院議員10人が、このテープの公開の後に、態度を変更すると声明を出した。
■大統領辞任
 弾劾の決議に賛成する議員が多数を占めると予想され、しかも録音テープの公開で、それまでのニクソン自身の説明が嘘であることが明白になった8月7日、ホワイトハウスをバリー・ゴールドウォーター*16共和党上院議員ら3名の共和党議員が訪ねた。大統領にもはや形勢を挽回することは不可能と伝えるためであった。そしてニクソン大統領は、自らの意思で辞任することを決定した。
 1974年8月8日夜、ホワイトハウスの大統領執務室から国民へのテレビ演説で、ニクソンは翌8月9日正午に辞任することを発表した。
 その直後、副大統領のジェラルド・R・フォードが昇格して大統領宣誓を行い、「国家的悪夢は終わった。アメリカ合衆国憲法は機能した」と演説し、事件の終焉を告げた。そして9月8日「ニクソン大統領が行った可能性のある犯罪について、無条件の大統領特別恩赦を、裁判に先行して行う」という声明を発表した。これにより、ニクソンは以後一切の捜査や裁判を免れたが、恩赦を受けることは事実上、有罪を認めることを意味していた。
■その後
 事件発生から33年後の2005年5月31日、当時FBI副長官であったマーク・フェルトが『ディープ・スロート』であったことを公表し、『ワシントン・ポスト』及びウッドワード記者も、彼がディープ・スロートであったことを認めた。

大統領の陰謀(ウィキペ参照)
・1976年制作のアメリカ合衆国の映画。ウォーターゲート事件を調査したワシントン・ポストの二人のジャーナリストの手記を元にしたドラマ。
・第49回アカデミー賞では助演男優賞(ベン・ブラッドリー編集主幹を演じたジェイソン・ロバーズ)、脚色賞、録音賞、美術賞を受賞。
■ストーリー
 1972年6月17日、首都ワシントンD.C.ウォーターゲートビルで働く警備員のフランク・ウィルズ(演:本人)が建物のドアに奇妙なテープが貼られていることに気付き、ワシントンD.C.首都警察に通報。民主党全国委員会本部オフィスに侵入していた5人組の男は不法侵入の罪で逮捕された。
 入社してまだ日が浅いワシントン・ポスト紙の社会部記者ボブ・ウッドワード(演:ロバート・レッドフォード*17)は、社会部長のハワード・ローゼンフェルド(演:ジャック・ウォーデン)から、民主党本部における不法侵入事件の法廷取材を命じられる。窃盗目的で押し入ったと思われていた容疑者たちの所持金が多額であった事と、所持品の中に無線機や35ミリカメラ等不可思議な物が含まれていたためである。予審が行われている裁判所に赴いたウッドワードは、共和党系の弁護士が傍聴に来ていることに不自然さを覚える。さらに容疑者のうちの1人、ジェームズ・W・マッコード・ジュニアが、CIAの警備官だったことを告白したとき、ウッドワードはこの事件が単なる物盗りの侵入事件ではないことを直感し、踏み込んだ取材を開始する。
 一方、先輩記者カール・バーンスタイン(演:ダスティン・ホフマン*18)もこの不法侵入事件に興味を抱いていた。彼はウッドワードの書いた原稿を焦点が甘いと指摘し、推敲してみせる。ウッドワードは反発しつつもバーンスタインの手腕を認めざるをえなかった。2人の熱意を感じたローゼンフェルドは、ベテランの政治部記者に任せるべきだと主張する編集局長のハワード・シモンズ(演:マーティン・バルサム*19)を説得し、2人を担当記者にする。
 当初は政府機関の厚い壁に阻まれ五里霧中の状態であったが、社会部長ローゼンフェルド、編集局長シモンズ、編集主幹ベン・ブラッドリー(演:ジェイソン・ロバーズ*20)ら社の幹部の叱咤を受けながら取材を進めていく内に、僅かながら現れ始めた情報提供者や以前からのウッドワードのニュースソースである謎の人物ディープ・スロート(演:ハル・ホルブルック)からの助言・示唆により、現大統領リチャード・M・ニクソン再選委員会の選挙資金の流れの不自然さに行き着く。それによって侵入事件の全貌が次第に明らかになってきた。
 事実関係の調査を済ませた記者たちは事件を記事にする。情報提供者たちの証言の裏が取れない内は断固として掲載を認めなかったブラッドリーもついに掲載を許可。記事が掲載されると、主幹のブラッドリーとワシントン・ポスト紙はニクソン政権から名指しで非難を浴びる。さらには情報提供者にも証言を翻され、2人の記者は窮地に立たされてしまう。世間・一般市民の事件への反応も薄い。そんな中ブラッドリーは編集会議で、あくまでも2人の記者を後押しするよう、幹部たちに厳命する。
 ウッドワードはディープ・スロートからCIA、FBIなど諜報・捜査機関がニクソン政権に牛耳られようとしており、2人の記者のみならずワシントン・ポストの幹部も視察下にあると警告を受ける。深夜、自宅に来て状況を伝える2人に対しブラッドリー主幹は、合衆国憲法修正第一条で保証されている“報道の自由”を、そして“この国の未来”を守る為あくまで戦う事を告げ、そして二度とヘマをするなとハッパをかける。
 1973年1月20日、再選を果たし、就任式で宣誓するニクソン大統領のテレビ中継が流れる中、ウッドワードとバーンスタイン両記者の打つタイプライターの音がワシントン・ポストの編集局に響く。

http://23oclock.blog.jp/archives/52027646.html
■映画『大統領の陰謀』(1976・アメリカ) | R.レッドフォードのコメンタリが秀逸。(DVD)
 ロバート・レッドフォードの一人語りコメンタリが熱い。
 本編より興奮した。
 なんでも彼は、ニクソン大統領が辞任に追い込まれるはるか前から、この事件を暴き出した二人の記者、ウッドワードとバーンスタインに映画化を打診していたそうだ。
 時期で言えば(ボーガス注:レッドフォードが出演した)「追憶*21」「スティング*22」の頃だ。
 初めのうち二人はまったく興味を示さなかったというから面白い。
 ちなみに事件発覚からニクソン辞任までは約二年かかっている。
(中略)
■あらすじ(ネタバレあり)
 1972年、ニクソン政権当時、野党である共和党本部に盗聴器を仕掛けようとした5人が捕まった。
この5人はそろって大金を所持していた上、官選ではなく個人の弁護士がついたことなどから、ワシントン・ポストの新米記者ボブ・ウッドワード(ロバート・レッドフォード)は、背後関係を洗い始める。
 犯人の一人が所持していた住所録にコルソンとハントという男の名が記載されていた。
 コルソンはニクソン大統領の特別顧問、もう一人の男ハントはCIAに長い間在籍し、古くはアイゼンハワーの選挙に関係し(中略)ていたという。
(中略)
 ウッドワードは侵入事件の犯人とホワイトハウス・CIAの繋がりに関する記事を書いた。
 草稿に目を通したカール・バーンスタイン(ダスティン・ホフマン)は勝手に記事を校正し始める。
 ウッドワードは怒ったが、たしかにバーンスタインが手を入れた文章のほうが分かりやすいし読ませる。
 二人はこの事件に、コンビを組んであたることになる。
(中略)
 ウッドワードは謎の事件関係者“ディープスロート"という人物から、「金の流れを追え」とのアドバイスを受ける。
 ちなみにこの人物は2005年に自ら正体を明かした。
 当時のFBI副長官マーク・フェルトその人だった。
(中略)
 ここでライバル紙ニューヨークタイムズがスクープ。
 民主党本部侵入事件の3ヶ月前、ニクソン再選委員会から犯人側に小切手が振り込まれていたことを突きとめたのだ。
 バーンスタインは、小切手を押収した検事局に行き、資料を借りることに成功。
 小切手を振りだした人物は、ニクソン再選委員会の選挙対策主任だった。
 彼は、小切手を犯人にではなく、本部の財務委員長スタンズに渡したという。
 バーンスタインたちはようやく金の流れを左右できる人物までたどり着いたのだ。
 彼らは、ワシントン・ポスト社に勤務する、ある女性に協力を要請する。
 その女性の元カレが再選委員会に勤めていることを思い出したのだ。
 元カレからなんとかして名簿をもらってきてくれないかと頼むバーンスタインとウッドワード。
 いやがる彼女に頭を下げるが、どうしてもうんと言ってくれない。それは当然だろう。
 なおも食い下がるバーンスタイン。しかしウッドワードはあきらめる。
 翌日、ウッドワードのデスクに無言で名簿を置いていく彼女。かっこいい!
 その名簿を手に、これはと思う人物を訪ねまわる二人。
 ほとんどの人が口を閉ざす中、わずかながらも糸口をほのめかしてくれる人もいた。
 中でも財務委員長スタンズの前任者であるスローンという人物は有望に思えた。
 党内の腐敗に耐えかねて辞めたという噂があったからだ。
 二人は喜び勇んで会いに行く。
 が、スローンは簡単には口を開いてくれない。
 それでも調査は僅かずつ進展していく。
 ついに買収資金の管理者が5人いるというところまで突きとめる。
 その中には元司法長官もいた。
 ここでバーンスタインにリークが入る。
 リプレーという司法長官補からだった。
 1971年、軍隊時代の戦友セグレティから、「ニクソンの下で民主党妨害に」誘われたというのだ。
 彼らは、セグレティの旅行記録も入手する。
  セグレティはウォーターゲート事件の一年前から、民主党大統領候補予選会にくっついて、ずっとアメリカ中を回っていた。
 バーンスタインは彼にインタビューを申し込む。
 セグレティのやり口はこうだった。
 対立候補が使っている便せんを盗みだす。
 その便せんを使い、相手が不利になるような文章をねつ造する。
 それを流布させ、評判を落とし、選挙を有利に運ぶ───。
 セグレティは、大統領秘書チェーピン、大統領報道官ジーグラーと大学の同窓だった。
 3人は、選挙戦で様々な策を弄して相手をつぶすという行為を、大学時代から行なっており、それをラット・ファッキング(ネズミ殺し)と呼んでいたという。
 セグレティはバーンスタインに向かってうそぶく。
「では聞くよ。軍隊を出たばかりで、4年も世間を離れ、法律の使い道もない。突然、友人の電話で『大統領のために働け』と言われたら?」
(中略)
 バーンスタインたちはこの後、じっさいに誹謗中傷する文章を書いた人物を突きとめ、しっかり言質も取る。
(中略)
 映画は、ニクソンが聖書に手を置き、宣誓をしているテレビ映像に見向きもせず、ひたすらタイプライターを撃ち続ける(あえてこの漢字)ウッドワードとバーンスタインの姿で終わる。

*1:アイゼンハワー政権副大統領を経て大統領

*2:大統領の陰謀ニクソンを追いつめた300日』(バーンスタインとの共著、2005年、文春文庫)のこと。

*3:1969年の『明日に向って撃て!』と1976年の『大統領の陰謀』でアカデミー脚本賞を受賞。著書『プリンセス・ブライド』(1986年、ハヤカワ文庫FT)、『ブラザーズ』(1990年、ハヤカワ文庫NV)、『殺しの接吻』(2004年、ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、『マラソン・マン』(2005年、ハヤカワ文庫NV)。

*4:海外映画の吹き替えではアラン・ドロンアル・パチーノクリント・イーストウッドジュリアーノ・ジェンマダスティン・ホフマンブルース・ウィリスなどを担当。

*5:海外映画の吹き替えではトニー・カーティスロジャー・ムーアなどを担当。

*6:元祖天才バカボン』での「バカボンのパパ」役が代表作。大変な酒豪として知られており、その事が53歳という若さでの死去(肝硬変)の原因になった。

*7:海外映画の吹き替えではジェームズ・コバーンリー・マーヴィントミー・リー・ジョーンズなどを担当。

*8:海外映画の吹き替えではマイケル・ダグラスダスティン・ホフマンロバート・デ・ニーロティモシー・ダルトンサム・ニールマイケル・ケインなどを担当。

*9:ニクソン政権で報道担当官、大統領補佐官

*10:著書『大統領の陰謀ニクソンを追いつめた300日』(バーンスタインとの共著、2005年、文春文庫)、『ディープ・スロート:大統領を葬った男』(2005年、文藝春秋)など

*11:ニクソン政権で大統領法律顧問や内政担当補佐官を歴任

*12:ニクソン政権保健教育福祉長官、国防長官、司法長官、フォード政権商務長官を歴任

*13:メリーランド州知事、ニクソン政権副大統領を歴任

*14:1996年の共和党大統領候補。現職のクリントン大統領(民主党)に敗れている。

*15:リンカーン政権副大統領。リンカーンの暗殺で大統領に昇格。

*16:1964年大統領選挙の共和党候補。現職のジョンソン大統領(民主党)に敗れている。

*17:1980年に初めて監督した映画『普通の人々』でアカデミー監督賞を受賞。

*18:クレイマー、クレイマー』(1979年)と『レインマン』(1988年)で2度アカデミー主演男優賞を受賞

*19:1965年の『裏街・太陽の天使』でアカデミー助演男優賞を受賞

*20:大統領の陰謀』(1976年:ベン・ブラッドリー編集主幹役)、『ジュリア』(1977年:ダシール・ハメット役)でアカデミー助演男優賞を受賞。

*21:1973年公開のアメリカ映画。

*22:1973年公開のアメリカ映画。アメリカン・ニューシネマの代表作『明日に向って撃て!』(1969年公開)で共演したポール・ニューマンロバート・レッドフォードが再共演を果たし大ヒットした。第46回アカデミー賞作品賞受賞作品。