今日の産経ニュース(6/7分)(追記・修正あり)

■連合「股裂き」の参院選…傘下産別で立憲民主派と国民民主派に真っ二つ
https://www.sankei.com/politics/news/180607/plt1806070031-n1.html
 とはいえ連合執行部が後押しする国民民主の支持率は立憲民主どころか、公明や共産を下回り、また連合でも執行部(旧民社・同盟系)程には反共でない傘下労組は公然と立憲民主を支援しています。結局のところ執行部も掌返しで立憲民主にすり寄るか、国民民主とともに政治的に沈没するか、どっちかしかないでしょう。個人的には沈没し、跡形もなく消え去ってほしいもんです。


■希望代表 麻生太郎財務相に「一刻も早くご焼香に出向くべきだ」
https://www.sankei.com/politics/news/180607/plt1806070028-n1.html
 まあ当然の話ですね。行っても遺族に拒否されるかもしれませんが、玉木に言われるまでもなく安倍共々出向くのが当然でしょう。


社会学者の日高六郎さん*1死去
https://www.sankei.com/west/news/180607/wst1806070048-n1.html
 まだ存命だったという事に失礼ながら少し驚きました。既に故人と思っていました。
 彼(1917年生まれ)と近い年齢で、同様の市民運動に参加していた鶴見俊輔*2(1922年生まれ)などは既に故人ですからね。


■【森友文書改竄】麻生太郎*3に注文「命がけで財務省建て直せ」 公明党北側一雄*4副代表
https://www.sankei.com/politics/news/180607/plt1806070010-n1.html
 やれやれですね。麻生に財務省立て直しなんてもんができるとは北側氏とて思ってないでしょうに。


■【加計学園問題】「加計孝太郎理事長はふさわしいことをやって」自民・石破茂元幹事長が説明要求
https://www.sankei.com/politics/news/180607/plt1806070009-n1.html
■自民・山崎*5元副総裁「麻生財務相政治責任を果たせ」
https://www.sankei.com/politics/news/180607/plt1806070038-n1.html
 こういう発言をするのが自民党内において石破*6や山崎氏など少数派というのは実に深刻な話です。


■【アジア風雲録】岡山・美作市が公共施設にホー・チ・ミン像 在日ベトナム人*7ら反発、撤去求める
https://www.sankei.com/west/news/180607/wst1806070003-n1.html
 産経らしい反共記事と言うべきでしょうか?

 ベトナムとの交流を推進している岡山県美作(みまさか)市が昨年、同国政府から「建国の父」とされるホー・チ・ミン*8主席(1890〜1969)の銅像を寄贈され公共の文化施設に設置したところ、日本在住のベトナム人団体が「残虐な独裁者だ」として反発し、撤去を求めるなどの騒ぎに発展している。インドシナベトナム戦争を戦い抜き、独自の社会主義建設を指導したホー・チ・ミンは同国で敬愛される一方、戦争で海外に脱出した難民らには根強い反感も。少子高齢化に悩む市はベトナム人技能実習生や観光客増加に期待し、像を「日越友好の証」とするが、自治体レベルでの国際交流の難しさが浮き彫りになっている。(吉村剛史)
 美作市には現在、交流によってベトナム人90人以上が在住。こうした実績をもとに昨年10月、同国政府から「友好の証」としてホー・チ・ミン銅像が日本では初めて同市に寄贈された。
 像は金色の座像で、台座を含めた高さ約190センチ、幅約90センチ、奥行き約120センチ。市立の施設である作東文化芸術センターの屋内に設置され、市によると、昨年11月21日の贈呈式には ベトナムのダオ・ヴィエト・チュン主席官房長官やヴ・トアン・ハイ在大阪ベトナム総領事ら37人が出席。チュン長官は「像は美作市への特別なプレゼント」と、日越友好への寄与に期待を寄せたという。
 ホー・チ・ミンはフランスの植民地時代からベトナム革命を指導した「建国の父」とされ、第二次大戦後はベトナム民主共和国初代国家主席に。インドシナ戦争で独立を勝ち取り、その後、南北が対立したベトナム戦争では米国が支援する南ベトナム軍と戦い、最終的に勝利に導いたことで知られる。
 しかし、戦争で家族を失い、ボートピープルなどとして国外に逃れた難民らの間では「政敵の粛清、民衆への迫害を行った」などとして批判も根強い。
 同国はこれまでもフランスやロシア、シンガポールなど交流のある国にホー・チ・ミン像を寄贈しているが、海外でも元難民らは像に批判的だという。
 こうした事情もあり、美作市での像の設置も当初から疑問視する声が上がっていた。一部市議らは昨年、「外国の一政治家の像を公的な場所に設置することは、他国との交流事業に支障をきたすのではないか」として、設置に反対する申し入れ書を市民ら約2千人の署名を添えて萩原誠司*9市長に提出した。
 これに対し、市は「(ホー・チ・ミンが同国で芸術家としても評価されていることを踏まえ)作詞など文学的にも秀でた芸術家の像として受け取る」「観光客増加やベトナムからの視察などが見込まれ、(像の設置で)国内外へ向けPRを強化する」として理解を求めた。
 しかし、今年4月には元難民を含む在日ベトナム人らでつくる「日本在住ベトナム人協会」(東京)も「公共の文化空間は、一般市民らに認められる普遍的価値を有する芸術作品のみの設置がふさわしい」として、萩原誠司市長に像の撤去を求める請願書を提出した。
 請願書ではホー・チ・ミンについて、同市が郷土出身だとする剣豪、宮本武蔵を引き合いに「(ボーガス注:剣聖として高い精神的境地にあったとされる)武蔵とはかけ離れた独裁者」とし、暴力と残虐な手段でベトナム共産主義政権を作ったと批判。「数え切れないボートピープル発生の惨状は、日本でも多く批判的に報道されてきた」「今日の日本とベトナムの協力関係の進展はホー・チ・ミンとは無関係」だとして撤去を求めている。
 こうした騒動に外務省は「外交上贈答する記念品などの詳細については個別のケースによる」(儀典官室)としながらも、美作市のような事例は「聞いたことがない」(南東アジア第一課)としている。
■「ベトナム頼み」の美作市の事情
 ホー・チ・ミンの誕生日とされる今年5月19日には、像のある同センターで在大阪ベトナム総領事館主催による生誕記念式典が開かれた。
 式典ではベトナム国歌の斉唱に続き、ヴ在大阪ベトナム総領事が「(この式典は)主席の思想と(主席が)人類発展に貢献したことへの感謝だけでなく、(今年の)日越国交樹立45周年記念活動の意味もある」とあいさつ。
 萩原市長も出席し、「(主席は)世界で敬愛を集めるすばらしい英傑*10。(像の設置が)友好関係の発展につながると確信している」と述べ、ベトナムからの観光客増加に期待を寄せ、ヴ総領事らとともにホー・チ・ミン像に香を手向け、合掌した。
 人口約2万8千人の美作市少子高齢化労働人口の減少を受け、近年は外国人技能実習生を積極的に受け入れている。中でも企業に勤勉さが評価されるベトナム人の受け入れを積極的に進め、同国との交流推進にも力を入れてきた。
 平成27年には、同国の国立ダナン大学と人材交流促進などに関する相互協力協定を自治体で初めて締結。日本への定住や観光の促進など日越交流事業を展開してきた。
(中略)
 ホー・チ・ミン像の寄贈・設置にはこうした背景があり、市民からは「美作の現状は高齢化と人口減少に直面してゆく日本の縮図。生き残るには外国人の労働力に依存せざるをえない。市の苦しい立場もよくわかる」との声も。
 萩原市長は像の問題が起きる中、今年3月に市長選で再選を果たしている。
 萩原市長は「内戦により悲惨な思いをされ、ご苦労されたことはよく分かり、(ボーガス注:銅像に反対するベトナム人への)同情の気持ちはある」とした上で、「昨年は天皇、皇后両陛下が初めてベトナムを訪問され、友好親善を深められた。(像が)両国の友好の証となって(難民たちの)傷が癒え、乗り越えられていくことを願う」と像の設置に理解を求めていく方針だが、意見の対立は容易に解消されそうになく、騒動は海外の労働力が頼みの綱の地方都市の苦悩を浮き彫りにした格好だ。

・なお、萩原・美作市長は自民党系で左派ではありません。
 しかも萩原氏はあの悪名高い右翼結社『日本李登輝友の会』(http://www.ritouki.jp/index.php/about/board/)理事です。失礼ながらよくもあんなウヨ団体の理事ができるもんです。そしてそんなウヨ団体理事とホーチミン銅像とよく両立できるもんです。
 なお、現役政治家では萩原氏以外にも

http://www.ritouki.jp/index.php/about/board/
・宮元陸(石川県加賀市長)
・吉田信解(埼玉県本庄市長)

なんて名前が「李登輝友の会」理事として出てきます。
 なお、そんな「李登輝友の会理事」吉田氏でも

http://chosonsinbo.com/jp/2017/09/0907hj/
 本庄市主催で行われた追悼式(長峰墓地)では、吉田信解市長が慰霊のことばを述べた。
 吉田市長は「東日本大震災以降、昨年4月には熊本地震が発生し、九州地方に甚大な被害をもたらしたが、天災を引き金にした人災はなんとしても避けねばならない」としながら「過去の悲惨な事件を教訓に、人と人とが信頼し合う安全安心な地域社会を築いていくことをこの場において誓う」と語った。

という程度の常識はあることは彼の名誉のために指摘しておきます。

http://chosonsinbo.com/jp/2017/09/0907hj/
上里町が主催する追悼式は、安盛寺境内にある慰霊碑の前で行われた。参列した関根孝道町長は、慰霊の辞で「毎年追悼式が行われるこの日は、不幸で悲劇的な出来事を再び繰り返さないよう心に期する日としている。本町でも、流言飛語が飛び交い騒乱した一部の住民によって、避難してきた在日朝鮮人の方々の尊い命を奪うという悲惨な事件が発生した。犠牲となった方々に哀悼の意を表し、あらためてご冥福をお祈りしたい」と述べた。
熊谷市に位置するメモリアル彩雲で行われた追悼式は、熊谷市主催のもと行われた。式では、富岡清市長が「私たちは暗い過去への厳粛な反省のうえにたち、再びこのような惨禍が起こることのないよう、また尊い命を奪われた犠牲者の方々、最愛の肉親を奪われた同胞の方々の悲痛な思いを決して風化させてはならないと決意をあらたにする」と追悼のことばを述べた。

 という上里町長や熊谷市長に比べれば表現が弱いとは思いますが。
 それはともかくまあ日本においては興味深いことに「同じ共産党指導者でありながら」スターリンソ連共産党書記長や毛沢東中国共産党主席、金日成朝鮮労働党主席ならともかくホーチミンを激しく敵視する右派は少ないようです。その一例が萩原氏の訳です。
 小生が思うに

・日本の隣国でないのでどうしても注目度が低くなる
・シベリア抑留(旧ソ連)、日本人拉致(北朝鮮)のような日本人が被害になった事件がない
スターリン毛沢東金日成程の個人崇拝が、ホーチミンについては生前ない
・(反対派に対する弾圧がないとはおそらくいえないでしょうが)、スターリン粛清(旧ソ連)、文革(中国)ほど有名ではない(おそらくそこまで大規模ではない)

といったところでしょうか。
・まさにid:Bill_McCrearyさんが言う『経済のほうが政治よりよっぽど現実(実状)に正直だ』(https://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/f76f097cb53a0a225779c516a58ad7fe)の一例でしょう。
 こう言っては失礼ですがベトナムレベルですら「ベトナム人観光客」などを狙って「この熱いエール」です。「ベトナム以上の経済大国」中国相手に地方都市が熱いエールを送るのはまさに当然です。

参考
美作市ベトナム

http://www.city.mimasaka.lg.jp/soshiki/kikaku/eigyo/1479781338101.html
美作市ベトナムとの交流』
 美作市では、少子高齢化等の影響により人口の減少が著しい中、外国人の人口は年々増加傾向にあり、その中でもベトナム人の人口が増加している状況です。
 この状況に鑑み、美作市では、在市ベトナム人が安心して暮らせるまちづくりの構築や文化・教育・観光等において交流を図ることにより、更なるベトナム人の定住化や観光客の増加を目的に、ベトナム交流事業を推進しています。
ホーチミン主席像贈呈式を開催
 11月21日(火曜日)、美作市江見の作東文化芸術センターで、ホーチミン主席像の贈呈式が行われました。
 ホーチミン主席像は、ベトナム社会主義共和国美作市の友好の証として、ベトナム政府から無償で寄贈されました。主席像の寄贈は日本国内では初めてで、フランス、ドイツ、シンガポールオーストリア*11などに次いで18ヶ国目の寄贈となりました。
 式には、ベトナム国のダオ・ヴィエト・チュン主席官房長官や在大阪ベトナム社会主義共和国総領事館のヴー・トゥオン・ハイ総領事など37名が参加されました。チュン主席官房長官は、「ホーチミン主席像は美作市への特別なプレゼントです。ベトナムと日本、美作市との友好関係に寄与することを願います。」とあいさつをされました。
 この度の寄贈により、観光客の増加やベトナム国からの視察などが見込まれるため、国内外へ向けてのPRを強化して参ります。

http://www.sanyonews.jp/article/566795/1/?rct=sakusyu
山陽新聞サッカーベトナム代表が美作合宿 8月に女子チーム、ベルと試合も』
 美作市は20日、サッカーのベトナム女子代表チームが8月1〜11日の11日間、美作ラグビーサッカー場(同市入田)で合宿すると発表した。期間中にはサッカー女子・なでしこリーグ2部の岡山湯郷ベルとの練習試合も行う。

ホーチミン銅像非難派の言い分その1】
 まあ、反共反ベトナム連中のホーチミンへの悪口は酷すぎる気がしますが、とはいえ評価は別れる人物ではあるでしょう。また、一般的にいって「市長など地元に貢献した地元選出の政治家*12」ならともかくそれ以外の政治家(特にこのケースのような外国の政治家)の銅像が公共の場にふさわしいかは微妙だとは思います。もちろんベトナム美作市双方にとって「社交辞令に過ぎない」ことはわかりますが。

http://ichiban.militaryblog.jp/e899375.html
 私達は、ベトナムの歴史において、はるかに敬愛に値する適切な人物がいることを美作市の皆様にご理解を頂きたいと思います。それは、ベトナムの独立と維持の戦いの中で、13世紀にモンゴルの侵攻を3度破ったチャン・フン・ダオ*13、そして、15世紀に明の支配の駆逐に活躍したグエン・トライ*14のような方々です。彼等は、真にベトナム人が尊敬する人物です。
 一方、ソ連で教育を受けたコミンテルンの幹部であるホーチミンは、ベトナム共産党を創設し、ベトナム人スターリン主義独裁政権支配下に置くためベトナムに戻りました。1950年代に北ベトナムで行われたホーチミン主導のいわゆる「土地改革」において、何千人もの人々が「土地所有者」であるとの理由で虐殺されました。
 1960年代と1970年代には、ホーチミンベトナム共産党の首脳は、10年間に及ぶベトナム戦争の間にベトナム共和国 (南ベトナム) への侵略*15を開始し、国を荒廃させ、何百万人もの犠牲者を出しました。
 日本人は、過去70年のベトナム共産党政権による政敵の暗殺、人権侵害、反政府派の虐待と投獄を許さないことを私たちは知っています。
 今日に残る恐ろしい記憶は、ベトナムの人々にこれらすべての残虐行為を招いたホーチミンに責任があるのです。
(中略)
 独裁と腐敗した共産主義政権の象徴である人物を讃えるよりも、ベトナム史上で敬愛される人物の展示こそが美作博物館の来訪者にふさわしいものと私達は確信しております。

https://watching-vn.blogspot.com/2018/01/blog-post_28.html
 当市出身の剣豪・宮本武蔵は、武術のみならず、著書『五輪書』にみられるオリンピックに通じる精神性の高さで後世の私たちに大きな影響を与えています。偉人・宮本武蔵像の建立であれば十分、納得できますし、皆が誇りを持って喜んで見学に訪れるでしょう。
 しかし、ベトナム人ホー・チ・ミンをよく知る私たち在日ベトナム人は、彼の像の建立によって美作市民の皆様に多くの誤解を与え、長年築いてこられた貴市の文化的遺産の価値を劣化させてしまうと確信しています。
 ホー・チ・ミンの実像は宮本武蔵とは全くかけ離れた独裁者です。彼は、抗仏時代において民族主義的政党の要人多数を粛清・暗殺し、1950年代、農地改革時代には2万人を惨殺、20万人を迫害しました。1968年のテト攻撃*16においては罪なき国民6000人以上を殺し、生き埋めにしたなど暴力と残虐な手段でベトナム共産主義政権を作りました。その後の数え切れないボートピープル発生の惨状は、日本でも多く批判的に報道されてきたと思います。
 私たちは、その原因を作った*17ホー・チ・ミンの非道を日本の皆様、そして美作市の皆様に忘れていただきたくありません。今日の日本とベトナムの協力関係の進展は、ホー・チ・ミンとは無関係です。日本のどこかの地に中国の毛沢東*18の像を建立する発想と似ていないでしょうか。

https://watching-vn.blogspot.com/2018/04/blog-post_12.html
美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議
 美作市民の間では展示の中止を求める署名運動が行われ、およそ2,000名分*19の署名が市に提出され、市議会でも複数の市議が展示に反対したと聞きおよびます。
(中略)
 この署名運動の中で、世界各地のベトナム系市民からは以下のような声が多数寄せられています。
「なぜあのような残虐な独裁者が日本で崇拝されるのか?。日本は民主主義国家ではなかったのか?」
ホーチミンは美術館ではなく、ハーグで戦犯裁判にかけられるべき人物です」
 そして2018年4月6日、日本在住ベトナム人協会の有志、およびドイツ、カナダ在住ベトナム難民協会の代表者が、世界のベトナム系市民を代表し、抗議のため美作市を訪問しました。私、森泉も代表団に同行し、抗議に参加させて頂きました。
 その後、代表団は美作市役所を訪れて萩原市長と約1時間会談を行い、ホーチミン空間の撤去を求める請願書を約8,000名分の署名と共に正式に提出しました。
 代表団から請願を受けた萩原市長の返答を要約すると以下の内容になります。
・「ホーチミン空間」の設置はあくまでベトナムと日本の友好の為のものであり、撤去する考えはない
ホーチミン像は美作市以外にも、フランスやオーストリアにも設置されている
ユネスコホーチミン主席を顕彰する決議を発表している
ベトナム難民の苦難は理解するが、過去の遺恨を乗り越え未来志向になるべき
 この中でオーストリア・ウィーンのホーチミン像については、萩原市長の認識に誤解があったので、代表団から指摘がありました。確かに2017年、ウィーン市においてホーチミン像の設置計画が持ち上がりましたが、この計画はドイツやアメリカ在住のベトナム難民コミュニティー、およびオーストリアドイツ国内の人権団体からの強い反対を受けてウィーン市も方針を改め、像の設置計画は昨年2月に中止となっています。
 また過去の遺恨を乗り越えるよう促した件では、萩原市長は「日本も第2次大戦においてアメリカによる空襲や原爆投下など悲惨な経験をしたが、戦後日本人はルーズベルト*20(ボーガス注:大統領)を恨むことなく未来のために行動した」と、戦後の日本を引き合いに出し、過去に拘る事は未来のためにならないとし、代表団に対して考えを改めるよう求めました。
 目の前でそれを聞いていた私や、他の代表団のメンバーは、率直に言って萩原市長のこの発言に憤りを覚えました。萩原市長は今回のベトナム人による抗議・請願を、「ベトナム・日本の友好を阻害するもの」と捉えておられるようです。

ホーチミン銅像非難派の言い分その2】
 ホーチミン銅像に悪口するメンツはもちろん「天皇夫妻のベトナム訪問」「ベトナム国家主席の訪日」にも否定的ですので参考として紹介しておきます。とはいえこうした「反ベトナム、反ホーチミン」のメンツは日本においては反共ウヨですら少ないのですが。

https://watching-vn.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
チャン・ダイ・クアン国家主席来日抗議デモ
 ベトナムチャン・ダイ・クアン国家主席が5月29日から6月2日まで日本を訪問しています。これに合わせ、日本在住のベトナム難民とその家族、ベトナム革新党(ベトタン)、および青年民主化運動グループ日本在住愛国ベトナム人共同体などが、5月30日に東京赤坂の迎賓館前で抗議デモを行いました。
 私もベトナム民主化ベトナム国民の幸福、日越の真の友好を願う一人の日本人として、このデモに参加させて頂きました。
 クアン国家主席は半世紀に渡ってベトナム国民を弾圧し続けているベトナム共産党の現最高権力者であり、現在も続く残忍な人権蹂躙の最高責任者でもあります。
(中略)
 今回、日本政府はチャン・ダイ・クアン国家主席国賓として迎えており、そのために我々は日本の警察から、大きな声を上げてはいけない、垂れ幕を掲げてはいけない、旗を振ってはいけない等、到底民主主義国家におけるデモとは思えないような制限を受けました。
 日本政府は独裁国家の独裁者を国賓として守り、民主国家で民主化を求める市民の声を抑えつけたのです。ベトナム政府の非道は昔からの事ですが、日本政府までもがベトナムを経済的に利用するために、その非道を間接的に擁護してしまっている事は、日本国民として非常に悲しいですし、憤りを覚えます。

【日本でのホーチミンイメージ】
 スターリン毛沢東に比べると割と好意的かとは思います。いくつか紹介してみましょう。

ホーチミンウィキペディア参照)
 ホーは労働党主席、首相に就任し、党と国家の最高指導者としてベトナム民主共和国を統治した。しかし、日常的な党務は第一書記のチュオン・チン*21に委ね、フランスとのインドシナ戦争終結後の1955年9月には首相職をファム・ヴァン・ドン*22に譲った。
 チュオン・チンが急進的に行った土地改革が失敗し、1956年に党第一書記を解任されると、ホーは第一書記を兼任したが、1957年にはレ・ズアン*23を第一書記代理として再び党務を委ねた。だが、ベトナムの統一方法をめぐって、ジュネーヴ協定の完全実施という平和的な方法をとろうとするホーと、武力による統一をめざすズアンは対立し、ズアンが党指導部を掌握すると、ホーの影響力は外交の面に限定されていった。ホーは国家主席兼党主席として国政の重要問題について最終的な決裁を下す立場にあったが、集団指導の原則に従って党政治局の決定を裁可するだけで、党内人事・国内問題などの決定には実質的にはほとんど関与せず、ズアン指導部の決定を容認していた。
 国内の統治を党と政府に委ねたホーは、国家主席としてソ連中華人民共和国などの友好国との交渉や、交戦国のフランスや、フランスを支援していたアメリカなどとの駆け引きといった外交問題を担当し、集会やラジオ演説で国民を励ます役割を果たすことに専念した。
■死後
 ホーの遺書には、遺骸を火葬して北部、中部、南部に分骨して埋葬することが記されていた。しかし、ベトナム労働党政治局はこの部分を削除して遺書を公開した。
 ホーは、個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んでいなかったが、その意向は無視された。党政治局の決定により、遺骸はレーニンにならって、永久保存(エンバーミング)され、南北統一後、ハノイ市に建設されたホー・チ・ミン廟に安置された。
 政治思想や手法には賛否両論あるが、特筆すべきは、ソ連スターリン、中国の毛沢東北朝鮮金日成など、革命によって権力を握った共産党指導者が独裁的になって反対派を粛清する例が多いのに対し、ホーの指導下において、政策議事は徹底的な討議を前提とした非公開の全会一致制とされ、自らが個人崇拝の対象になることを嫌っていたことである。またホーは自伝の類を残さずに死んだため、後継指導者層の間で「ホーが何も語らずに逝ったのに、我々が何を言えるだろう」として自己の業績についてあまり語らないという伝統が生まれた。
 晩年はベトナム国民から「ホーおじさん」と呼ばれ親しまれた。一方、南ベトナムからの難民が大多数を占めるベトナムアメリカ人などからは、「ベトナムを武力によって共産化した首謀者」として憎悪の対象と見られている。例えば現ベトナム政府の要人が訪米する際には「ホー・チ・ミンは殺人者」などというプラカードを掲げられたりする。死後40年以上経過するが、ホーの評価は二極に分裂してまだ定まっていないのが現状である。
■エピソード
 1960年のテト(旧正月)の際にホーは、人々のありのままの生活を見たいとのことで、「ハノイで一番貧しい家庭を訪問したい」と言った。ホーが案内された母子家庭は、テトにも拘らず、母親があくせくと働いており、亡父の仏壇の供え物もない状態だった。ホーが驚いて理由を尋ねると母親は、食べ物がないので、テトでも働かなければならないと言った。ホーは母親を抱きしめて一緒に泣き、近所の人に彼女を助けてあげてほしい旨を伝え、仕事や子どもの就学のサポートをしたという。その他にも「人民の生活を知るために市場を見たい」といって、ばれないように、護衛とともに変装して市場にいき、衣服や食品の値段を確認して回ったとの話もあるという。

http://viettan.sakura.ne.jp/?p=227
■読売新聞記事『「ホーおじさん」の遺言』ハノイ支局長 吉田健一
 「党員は団結を守り、勤勉、正直、模範的な無私の精神を示さねばならない」
 「米国に打ち勝ったら、以前の10倍も美しい祖国を建設しようではないか」
 「人民の時間とお金を無駄遣いしないよう、盛大な葬式は不要」
 「火葬後の遺灰は北部、中部、南部の丘陵に埋め、石碑や銅像は建てないように。訪れる人が休める建物をつくり、記念の植樹ができるようにしてほしい」
 国民への奉仕と団結の大切さを党員に説き、自らの神格化を拒む。人民服にサンダル履きという質素な暮らしを好み、清廉で知られた人らしい遺志である。


天皇夫婦とベトナム

https://www.sankei.com/life/news/171223/lif1712230013-n1.html
■産経【天皇陛下84歳】ベトナムご訪問 元残留日本兵家族に「深く感慨」
 天皇陛下は2月末から3月初旬、皇后さまとともに初めて訪れたベトナムについて「両国間の緊密な関係に深く思いを致しました」と回想された。
 天皇、皇后両陛下は訪問先のハノイ*24で、先の大戦終結後もベトナムに残り、フランスとの第1次インドシナ戦争で指導にあたるなどした元残留日本兵家族とご面会。元日本兵ベトナム独立後に日本への帰国を余儀なくされたため、別離を強いられた家族に対し、陛下は現地で「いろいろなご苦労もあったでしょう」とねぎらわれた。
 両陛下のご面会が契機となる形で、10月には元日本兵の子供たちの来日も実現。陛下は、これらの家族と、元日本兵が帰国後に築いた家族との間で交流が続いているケースがあると聞き、会見では「深く感慨を覚えました」と述べられた。
 また、同国のフエ*25で、ベトナム独立運動の先駆者として、日本で近代化を学ぶことを同国の青年に勧めたファン・ボイ・チャウの記念館を訪れたこともご回想。「日本とベトナムとの様々な交流の歴史に触れることとなりました」とし、両国の今後の友好関係の進展を願われた。

https://www.sankei.com/life/news/180530/lif1805300047-n1.html
■産経『ベトナム国賓招き宮中晩餐会 陛下のお言葉全文』
 この度、ベトナム社会主義共和国主席チャン・ダイ・クアン*26閣下が、令夫人と共に、国賓として我が国を御訪問になりましたことに対し、心から歓迎の意を表します。ここに、今夕を共に過ごしますことを、誠に喜ばしく思います。
 昨年春、皇后と共に、国賓として初めて貴国を訪問いたしました。国家主席閣下及び令夫人から大変心のこもったおもてなしを頂き、また、広く貴国民から温かい歓迎を受けたことが、今も思い起こされます。ここに改めて感謝の意を表します。
 貴国では首都ハノイと古都フエを訪れ、日越両国の古くからの交流の歩みに触れることができました。八世紀に貴国から我が国に伝えられた楽舞は、今も我が国の雅楽の中で林邑(りんゆう)楽として残されていますが、フエにおいて、その楽舞を源流とするニャーニャック*27を阮(グエン)朝時代の王宮で鑑賞しました。また、二十世紀初頭に「東遊(ドンズー)運動」を興し、多くの貴国青年を日本留学に導いたファン・ボイ・チャウ氏の記念館を訪問し、その足跡をたどることができました。それに先立ちハノイにおいては、残留日本兵の人たちが戦後何年かにわたり、生活を共にしたベトナム人家族の人々に会い、現在に至るまで続いている日本との交流について聞く機会もありました。この残留日本兵の人たちは、第二次世界大戦後もベトナムに残って、貴国のフランスからの独立戦争を共に戦い、その後もベトナム人家族との生活を続けましたが、ある時期に当時の事情からその家族を残して日本へ帰国せざるを得なくなった人たちでした。
 貴国を訪問した際、日本での留学の経験を経て貴国で活躍するベトナムの人々、我が国から派遣され貴国で活動する青年海外協力隊員や貴国での経済活動に携わる日本企業などの関係者とも会いました。それぞれの立場で取り組んでいる日々の活動を聞いて、このような人々がこれから長きにわたり日越両国の架け橋となっていくのであろうと、うれしく思いました。
 貴国は、過去の幾多の困難を乗り越え、国づくりに取り組み、目覚ましい発展を遂げてきています。本年は、一九七三年に貴国と我が国との外交関係が樹立されてから四十五年の節目の年を迎え、両国では多くの記念の行事が実施されると聞いております。この四十五年間、日越両国は年を追って関係を深めてきましたが、特に近年、関係はますます緊密となっています。我が国には現在約二十六万人のベトナムの人々が留学生、技能実習生などとして滞在しています。その中には看護師、介護福祉士として活躍し、我が国の高齢社会を支えている人々もいます。同時に貴国で活動する日本人や日本企業の数も年々増えています。そして、両国民の関心の高まりから、お互いの国を往来する訪問者の数は、昨年、双方合わせて百万人を超え、その中には我が国から修学旅行として貴国を訪問する高校生もいます。このように様々な交流が深まっていることを心から喜ばしく思います。
 我が国は今、緑が鮮やかな季節を迎えております。この良き時の閣下及び令夫人の我が国御訪問が実り多いものとなり、両国間の相互理解と友好協力関係が今後更に増進しますことを心から願っております。
 ここに杯を挙げて、国家主席閣下及び令夫人の御健勝とベトナム国民の幸せを祈ります。

【訪日するベトナム人観光客】

https://mainichi.jp/articles/20180609/ddm/008/070/062000c
毎日新聞『爆買いベトナム人、急増間近=ベトナム簿記普及推進協議会理事長・大武健一郎』
 ベトナムへの飛行機の中で、日本旅行帰りのベトナム人ツアーコンダクターと一緒になった。大学を卒業して10年近くベトナムの旅行代理店で働いてきたが、「最近急にベトナム人家族の日本旅行が増えてきた」という。特に桜と紅葉のシーズンが人気だが、ベトナム人は観光そっちのけで土産の爆買いに忙しく飛び回る。電器店やドラッグストア、100円ショップを巡り、24時間営業のドン・キホーテなどに午後11時ごろから午前2時ごろまで買い物に行く。「それに付き合わされるので、ほとんど寝る暇もない。疲れた」と言って飛行機の中で熟睡していた。

https://www.sankeibiz.jp/macro/news/180608/mca1806080739009-n1.htm
フジサンケイビジネスアイ『千葉県の森田健作知事、11月にシンガポールベトナムトップセールス
 千葉県の森田健作知事は7日の会見で、11月にシンガポールベトナムトップセールスを行うと発表した。知事の海外トップセールスは今年2月のタイ以来で、7回目。これまでは台湾、タイ、マレーシアで行ってきたが、シンガポールベトナムは初めて。シンガポールは県産農産物の輸出拡大、ベトナムでは県への観光客誘致や経済分野での交流促進につなげる狙いだ。
(中略)
 県によると、平成29年の本県からシンガポールへの農林水産物や加工品の輸出額は計1億5500万円で、ベトナムから本県への訪日客の宿泊人数は3万2710人。いずれも近年増加傾向にあるという。

https://www.j-cast.com/kaisha/2018/05/19329050.html?p=all
■外国人観光客数、過去最多の勢い 意外に急増中のアノ国、その理由は?
 日本を訪れる外国人観光客が年々増えており、過去最高を更新する勢いであることが日本政府観光局(JNTO)の調査でわかった。
 2017年4月の訪日外国人は約290万人で、ひと月の人数としては過去最高に達した。また、1月〜4月の累計も約1052万人となり、これまでで最も早いペースで1000万人を超えた。その中で、意外な国からの観光客が急増している。その理由とは。
(中略)
 訪日客数の伸び率でみると、意外な国が今年の上位に顔を出した。それは、ロシア。前年比37.3%も増えた。2位はベトナムの29.2%増だ。ちなみに3位は、伸び率上位の常連・中国(29.2%増)だった。
 J‐CASTニュース会社ウォッチ編集部では、JNTOインバウンド戦略部の調査担当者に理由を聞いた。
 まず、突然1位に浮上したロシアは、調査担当者によると、「2017年1月に日本へのビザ(査証)の発給要件が大幅に緩和されたことが大きいです。商用のためなどに来日する人へのマルチビザの範囲を拡大し、有効期間を3年から5年に伸ばしました。また、ビザの手続きの際の面倒な身元保証もなくしました。大幅に日本に来やすくなったのです」と説明する。
 これは、その2週間前の16年12月中旬にプーチン大統領が来日。安倍首相との首脳会談で、日ロ関係が改善した成果だ。さすが即断即決のプーチン大統領、やることが早い。モスクワ‐成田や、極東(ウラジオスク、ユジノサハリンスク)‐新千歳の直行便が増えた。
 ロシア人観光客の大半はまだ日常品の買い物が目的だが、意外なことに北海道へのスキツアー客が増えている。
 2位のベトナムは、「春には桜観光の花見に、冬には北海道の流氷を求めてくる人が増えました。ともに暑い自分の国には見られないものです」(JNTOの調査担当者)という。
 2017年、ハノイで開かれた「世界旅行博覧会」では、JNTOが桜観光を目玉にした「日本の春」をアピール。また、ベトナム人の有名ブロガーを網走・知床の流氷砕氷観光船に招待し、流氷の魅力をSNSで発信してもらった。
 このため、18年1〜3月は北海道の流氷見物、4月には全国各地の桜の名所に花見に行くベトナム人が増えた。
 調査担当者は「中国や韓国には桜の仲間の花がありますが、熱帯のベトナムにはなく、桜が珍しいようです。団体客が多かった中国人が、最近、個人旅行に変わってきましたが、いまベトナム人が団体客の中心です。ホーチミン‐福島のチャーター便が、ひと月で7便も飛んでいます」と語る。
 3位は、個人旅行が増えた中国。一時の団体客の「爆買い」が減り、代わりに旅行者個人がSNSから情報を集めるようになった。そこで、JNTOでは昨年から、中国のインフルエンサー(影響力のある人)のブロガーたちを招待。十和田湖の雪景色、弘前城の雪灯まつり、津軽鉄道のストーブ列車、昇竜道(中部北陸地域)の観光名所などの魅力を、SNS(Weibo)を通じて生発信してもらった。

*1:著書『戦後思想を考える』(1980年、岩波新書)、『私の平和論』(1995年、岩波新書)、『戦争のなかで考えたこと:ある家族の物語』(2005年、筑摩書房)、『私の憲法体験』(2010年、筑摩書房)など

*2:著書『柳宗悦』(1994年、平凡社ライブラリー)、『老いの生きかた』(1997年、ちくま文庫)、『限界芸術論』(1999年、ちくま学芸文庫)、『戦時期日本の精神史:1931〜1945年』、『戦後日本の大衆文化史:1945〜1980年』(2001年、岩波現代文庫)、『教育再定義への試み』、『竹内好』(2010年、岩波現代文庫)、『埴谷雄高』(2016年、講談社文芸文庫)など

*3:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相。現在、第二〜四次安倍内閣副総理・財務相

*4:公明党政調会長、幹事長、小泉内閣国交相などを経て公明党副代表

*5:宇野内閣防衛庁長官、宮澤内閣建設相、自民党国対委員長(河野総裁時代)、政調会長(橋本総裁時代)、幹事長、副総裁(小泉総裁時代)を歴任

*6:小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第2次安倍総裁時代)、第3次安倍内閣地方創生担当相など歴任

*7:もちろん反発するベトナム人は反共反ホーチミンであって、全てベトナム人がそういうわけではありませんが。

*8:ベトナム民主共和国首相、国家主席ベトナム労働党主席

*9:岡山市長、自民党衆院議員を経て美作市

*10:「英雄で傑物」、つまり「偉人、立志伝中の人物」という意味。

*11:「フランス=ベトナム宗主国にしてホーチミンの留学先」「ロシア=旧ソ連時代の付き合い」でしょうがドイツ、シンガポールオーストリアは何でしょうか?

*12:これだって政治的に銅像を設置していいか微妙なケースはあるでしょうが

*13:陳朝ベトナムの武将

*14:阮朝ベトナムの武将

*15:内戦であること、米国が北ベトナムを軍事攻撃していることを考えれば侵略呼ばわりは不適切でしょう。

*16:一般には「テト攻勢」と呼ばれる。旧正月であるテトの期間は、南北ベトナム軍双方が暗黙のうちに休戦期間とする慣例があった。しかし1968年は、北ベトナムと解放戦線側は南ベトナム全土での大規模なゲリラ攻撃を企画し、1月30日未明、一斉に蜂起した。北ベトナム軍総司令官のヴォー・グエン・ザップテト攻勢には反対の立場であったが、他の北ベトナム軍幹部らや南ベトナム解放民族戦線に押し切られる形で、作戦を実行する事となった。軍事的には、北ベトナム軍および解放戦線側は損害の大きさの割に成果が少なく、ザップが危惧し反対したように攻撃は失敗に終わったとされる。しかし、ベトナム戦争終結は間近であると知らされていたアメリカ国民にとって、一時的にせよ南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)のアメリカ大使館が占拠された事態は衝撃をもって受け止められた。アメリカ本土のベトナム反戦運動は非常に高まった。これにより、アメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソンは、次期アメリカ合衆国大統領選挙への出馬を自ら取り止めた。当初は攻勢へ反対意思を示していたザップも、結果として政治的成功である事を認めたと言われる。このような理由から、政治的にはテト攻勢が成功を収めたとされる。以後、アメリカは脱ベトナム政策の「名誉ある撤退」という方便を模索するようになった(ウィキペディアテト攻勢」参照)。

*17:ホーが存命だった1968年以前のことはともかく「ボートピープル」など死後のことは彼の責任とはいえないでしょう。

*18:中国共産党主席

*19:産経によれば美作市の人口が2万8千程度ですので2千人とは「少ないとはいえないが、大多数は(積極的に賛成してるかどうかはともかく)反対してない」わけです。やはり「深刻な過疎」の問題が大きいため「ベトナムへの期待」があるのでしょう。

*20:ただし原爆製造命令を出したのはルーズベルトでも、投下の時には既に死去しており、直接の責任者はルーズベルト死去で副大統領から昇格したトルーマン大統領です。まあトルーマンを副大統領にしたのはルーズベルトですし、ルーズベルトが存命でも彼は原爆投下したでしょうが。

*21:党第一書記、書記長、国会議長など歴任

*22:1955〜1987年まで首相

*23:党第一書記、書記長など歴任

*24:ベトナムの首都

*25:トゥアティエン=フエ省省都

*26:公安次官、公安大臣などを経て国家主席。2018年9月21日、国家主席に在任中のまま病死。享年61歳。後任の国家主席グエン・フー・チョン氏(ベトナム共産党書記長兼務)

*27:ユネスコ無形文化遺産