少なくとも生かしておいた方が「真相解明」に役立つ可能性はあるでしょうよ

■「ブラック企業では労組なんかつくっても無意味だ、労組結成を評価する赤旗はバカだ」という変人(追記あり
http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20180129/5640176721
ほかの拙記事で過去に批判した御仁を今日も「言葉の力」でどこまで真相解明できるか: 白頭の革命精神な日記について批判してみましょう。
 まあタイトルで言いたいことはすべてですが。殺しても何のメリットもないでしょう。

「言葉の力」を過信している

 何もオウムに限らず、ホロコーストであれ、文革であれ、なんであれ、真相究明に「言葉以外に何があるんだ」つう話です。
 何も「当事者にインタビューすること」だけが「言葉の力」じゃない。当時の文書資料を分析することだって何だって「言葉の力」です。特に江川氏のようなジャーナリストにとって「言葉の力」以外に何があるのか。大体「そんなこと」を言ったらこの御仁が「ブログ書いてること」だって「無意味、無価値」ということになりかねないでしょうに。
 まあ人間には色々限界はあるでしょうが、それでも「言葉の力」しか頼るものはない。
 まあ「プロ野球選手のバッティング」「伝統芸能の技術」など「言葉では説明しがたい」もんはあるでしょうが、そういうもんと一緒にしていい話なのか。かつそういうもんだって「言語化できれば」大変いい訳です。

「これが分かれば真相解明と言える」というゴールラインを設定すべき

 そんなゴールラインオウム事件で「何のために設定すべき」なのか。訳がわかりません。
 「真相究明を理由に死刑に反対してる奴がいるけど、僕は死刑をしてほしいんだ」てことですか?。
 そもそも極論すれば「どんな問題であっても100%の真相解明ができたなどとは誰も断言できません」。だからゴールラインなんか原則的には設定できない(自分の能力ではこれ以上追及できないからここで打ち止めつう事はありうるでしょうが、それ個人個人で「打ち止めにする場所」も違うでしょうし)。まあ「国としての調査」なら「調査費用などのハードルで打ち止め」つうことはありうるでしょうが、基本「可能な限り限界を目指して調べていく」つう話でしょう。
 だからこそ、例えば「歴史資料が保存される」。
 歴史資料が保存されることによって、「いつでも事後のチェックができる」。もちろん「事後チェックしても結論変わらないこと」はありますが。