新刊紹介:「歴史評論」10月号(その1):特集『本当の意味での歴史遺産の活用とは(その1)』

・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。
【まず総論】
 「本当の意味での」という言葉が何を意味するかというとこういうことです。
赤旗
■山本担当相「がんは学芸員」発言 誤解の余地のない暴言、小池氏、辞任を要求
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-18/2017041801_04_1.html
■山本地方創生担当相 辞任せよ、田村氏 「学芸員発言」で迫る、衆院特別委
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-22/2017042202_04_1.html
■保護してこそ観光資源、学芸員発言 山本大臣は辞任を、衆院委で宮本岳志
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-27/2017042702_02_1.html
■2017とくほう・特報『山本創生相の学芸員敵視発言に見る、稼げ稼げ 地方と文化に迫る、安倍「地方創生」「観光立国」の正体』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-05-06/2017050603_01_1.html
■山本地方創生相への問責決議案、田村議員の賛成討論、参院本会議
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-06-15/2017061504_02_1.html
 山本大臣(当時)の暴言は論外ですが「では本当の意味での歴史遺産の活用は何なのか」をこの特集号で論じよう、つう話です。
 なお、小生個人は「観光マインド」を全否定はしません。ただし博物館の本来の意義は観光ではないし、観光を強調すると「本来の目的」である教育がゆがむ恐れがある。そのあたり、山本氏は無理解、無神経でしょう。
【総論終わり】


■歴史遺産と地域連携:飯田・下伊那での実践から(吉田伸之*1
(内容紹介)
 吉田氏が館長を一時期務めた飯田市歴史研究所*2の取組が紹介されていますが詳細は省略します。

参考

http://rilc.forest.gifu-u.ac.jp/iidasirekishi2.html
飯田市歴史研究所の取り組み
■「飯田市歴史研究所年報」年1回発行 現在13巻まで刊行
 第1巻の巻頭に、同所長である吉田伸之氏の論文が掲載されており、自治体史を編纂する意味とポイントが書かれています。
 その意味とは、
・市域を生きる未来の市民のために、かつてこの市域を生きた人々が残したかけがえのない歴史資料を少しでも多く収集・記録し、情報を集め、保存・公開の処置を講 ずる。
・市域の過去を振り返り、人々のかつての暮らし・営みや、過去からの贈り物である様々な歴史遺産を科学的に研究し、過去の事実を可能な限り精緻に解明し、これを 平易に叙述する。
・市域にとって、現在の到達点や課題・問題点を考え、その歴史的な意味合いを、専門研究者、市民、市当局が共同で考究する。
 以下は略させていただきますが、飯田市歴史研究所が取り組む道筋が示されています。また飯田市域にとどまらず、市町村を横断する地域史を研究する連合体を構築する必要性が説かれています。
 一例で言えば、第1巻の論文「地域史をひらく」森武麿氏*3の論文に、この地域の歴史的特色としての、満蒙移民開拓、これは飯田市のみならず、この下伊那地方の全域の問題と言える。これを語り継ぐことは、この地域の使命なであるが、これもただこの地域にのみスポットを当てていても、全体像が見えてこないもので、 戦前−戦中−戦後の時代の流れと、その時々の地方・国家・世界の視点をもってみていくべきものであると書かれています。

http://rilc.forest.gifu-u.ac.jp/iidasirekishi.html
飯田市歴史研究所と刊行物
 写真をみていただけば分かりますように、通常の市史編さん以外にも、これだけの刊行物を出しています。飯田市には歴史編纂に関して、たいていの市町村が「教育委員会」のもとで行っているのに対して、「飯田市歴史研究所」という機関を設けて、刊行物を出版しています。しかも毎年「飯田市歴史研究所年報」という形で年間の成果を毎年刊行しています。この活動は、地方史を自治体が取り組むという点においては、きわめて稀有な事ではないかと思います。
 飯田市では5年を一区切りとした“飯田市歴史研究所中期計画”を策定しており、現在は第3期目の途中となっています。 計画・実績報告等は飯田市歴史研究所のHP(https://www.city.iida.lg.jp/soshiki/39/)で見ることができます。
(中略)
 これらを実現するための「協働」ということに関しては、飯田市歴史研究所市民研究員(過程)を募集しており、書類審査の上若干名を2年間、必要とあらば年間10万円の調査研究費を支給して研究に従事してもらい、終了後は歴史研究所の共同研究への参加、または基礎研究計画を提出して研究に従事することができます。郷土史に興味を持つ方々は何処でも多いと思いますが、その方々を一定の水準にまで指導していく事業を継続的に行っています。
 地方公共団体の財政の厳しい折、ある意味何の生産性もないこの分野に予算を配分しているという事は、飯田市の英断であると思います。


■平泉・世界文化遺産の現場にて(入間田宣夫*4
(内容紹介)
 一関市博物館*5館長で平泉の世界文化遺産登録申請にも関わった入間田氏により、いわゆる「拡大登録(拡張登録)」の問題を中心に世界遺産登録後の状況が論じられています。
 当初の申請が「イコモス(国際記念物遺跡会議)から除外すべきと勧告されたので再申請する際に除外」「あえて除外せず再申請したが結局登録から外された」が、敗者復活戦として再度申請して登録内容に入れてもらおうというのが「拡大登録」という話です。

参考

https://mainichi.jp/articles/20170628/ddl/k03/040/019000c
毎日新聞世界文化遺産拡張登録へ、骨寺村荘園の調査総括 一関市が報告書 /岩手』
 世界文化遺産「平泉」(平泉町)の関連資産として拡張登録を目指す一関市厳美町本寺地区の骨寺村(ほねでらむら)荘園遺跡について、一関市博物館は、2008年度からの調査内容をまとめた総括報告書を刊行した。拡張登録に向けた推薦書作成は今年度から本格化。入間田宣夫館長は「自信をもってアピールできる成果を盛り込んだ」と強調した。

 入間田氏は「骨寺村荘園」拡張登録を「一関市博物館長」として目指す立場ですが、後で紹介するように

登録の可能性が高い「柳之御所」だけ先に申請すべきではないか

という意見が台頭し、入間田氏も苦しい立場です。

http://editorial.x-winz.net/ed-71692
■【岩手日報】 「平泉」拡張登録 浄土の全体像伝えたい(2017年8月14日)
 2011年6月、東日本大震災被災地に希望の光となった「平泉の文化遺産世界遺産登録。それはまた、登録過程で「浄土」のコンセプトと関連が薄いとされ、除外された5資産の拡張登録に向けたスタートでもあった。
 除外資産は、平泉町柳之御所遺跡と達谷窟(たっこくのいわや)、奥州市白鳥舘遺跡長者ケ原廃寺跡、一関市の骨寺村荘園遺跡。県と関係市町は13〜17年度の5カ年計画で、集中的に調査研究を進めてきた。
 その総括が今月、都内で開かれた国際会議「世界のなかの平泉」。骨寺は「奥州藤原氏の仏教的理想・仏国土(浄土)を表す村落」、白鳥舘は「仏教的理想空間を維持・荘厳するために不可欠な物品を生産・加工した工房跡」などと、幅広い知見に基づく研究成果が発表された。
 もとより、12世紀平泉に突如として「浄土世界」が出現したわけではない。そこには、戦乱が相次いだ悲劇的前史を踏まえ、平和を希求した藤原氏の営為があった。浄土世界を支えた産業拠点、浄土信仰を基調とした村落づくりなどの広がりもあった。
 こうした「平泉」の多様性をトータルに世界に発信してこそ、登録済みの寺院や庭園の輝きも増す。5年間の蓄積を生かし、拡張登録に向けた「顕著な普遍的価値(OUV)」の証明、推薦書案作成に全力を挙げてほしい。
 気になるのが、国際会議後に開かれた拡張登録検討委員と海外専門家の意見交換会(非公開)の議論だ。県側が示した四つの案のうち、「仏国土(浄土)を表す建築・庭園およびそれらの考古学的遺跡群とともに、一体的に造営された政庁(居館)の考古学的遺跡」を構成資産とする案が適切とされた。
 この案なら、奥州藤原氏の政庁「平泉館(ひらいずみのたち)」と推定される柳之御所は構成資産に入るだろう。だが、それ以外の資産はどうなるのか。
 県と関係市町は本年度末、文化庁に推薦書案を提出する予定。議論では、短期間で価値を証明する可能性の高さを重視した。
 その観点からは適切としても、この案で、浄土世界平泉の全体像を伝えることができるだろうか。他の3案にはより包括的な視点が提示されている。なお熟議が必要だ。
 本年度末に推薦書案提出というタイムスケジュールにこだわらず、少々時間がかかるにせよ調査研究成果を生かす道もあるのではないか。

https://www.iwate-np.co.jp/article/2018/6/29/17357
岩手日報『遺産拡張見通せず 平泉世界遺産登録、29日で7年』
 「平泉の文化遺産」の世界遺産登録から29日で7年。県と一関、奥州、平泉の3市町は2月、拡張登録を目指す5資産を絞り込まず、一括で登録を目指す方針を固め、文化庁への推薦書素案提出を見送った。構成資産が平泉町内だけとなり2市1町の連携に亀裂が入る事態は防げたが、拡張登録の時期は見通せなくなった。住民からは取り組みの長期化を懸念する声も聞かれ、登録に向けたモチベーションを保つ意味でも、登録の在り方に関する住民の合意形成が求められる。
 文化遺産登録を目指し、活動を続けて約15年。奥州市前沢の白鳥舘遺跡がある地域の行政区長、佐々木初郎さん(69)は、登録当初の盛り上がりが薄れてきたと感じ「(拡張登録に向けた)見通しが見えれば違うと思うが、期待は低くなってきた」とこぼす。
 一方、一関市厳美町の骨寺村荘園遺跡は、地元の本寺地区地域づくり推進協議会(佐々木勝志会長)や同市のいわいの里ガイドの会(斉藤三郎会長)が、同遺跡の価値の普及や景観保全に尽力している。斉藤会長(75)は「発掘調査などを待つしかないが、登録のいかんを問わず、地域と共に農村景観の素晴らしさを伝え続けることに変わりはない」と先を見据える。
 拡張登録に向け、登録を目指す資産の絞り込みが表面化したのは17年8月。海外の専門家らが同年度末の推薦書案提出を前提に「短期間で価値証明の可能性が高い」として、奥州藤原氏が政治を行った拠点「平泉館(ひらいずみのたち)」と推定される平泉町柳之御所遺跡のみを加える拡張案を適切とした。
 しかし県と3市町は2月、従来通り5資産で拡張登録を目指す方針を確認し、同素案の提出を見送った。発掘調査などを続けているが、いつまで調査研究を続けるかや同素案の提出時期はまとまっていない。


■博物館・資料館とボランティア:地域の歴史的・文化的資源と博物館・資料館を繋ぐ(谷口栄*6
(内容紹介)
 筆者が学芸員として勤務していた「葛飾区郷土と天文の博物館*7」の考古学ボランティア「葛飾考古学クラブ」の取組が紹介されていますが詳細は省略します。


学芸員の情報発信:神話を活かしたまちづくりへの参加(森田喜久夫*8
(内容紹介)
 筆者が島根県学芸員島根県教育庁文化財課古代文化センター*9専門研究員兼島根県立古代出雲歴史博物館*10専門学芸員)時代に「協力」を要請されて関わった「シャーネ・エレーテ今市*11の活動」などが紹介されています。筆者は「町おこしという観点(商店街などの立場)」と「研究者としての観点(筆者の立場)」は容易に両立しないが、両立に向け努力したことはいい経験となった、歴史学が「単なる歴史マニアの趣味」と見なされることなく、市民の支援、協力を得るためにもこうした外部からの協力要請には「本務(筆者の場合、博物館運営)を犠牲にしない」という条件付きであるにせよ、できる限り積極的に協力すべきとしています。

参考

https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_00325/
■脱「シャッター通り商店街」。再生をかけた神話によるまちづくりとは(福島朋子)
 全国の市町村では、ゆるキャラなどで町おこしが図られているが、全国でもめずらしく「神話」を活かしたまちづくりが行われている場所がある。それが、出雲市中心市街地となる「今市町」だ。
 古事記出雲風土記に描かれる出雲神話は、この出雲を舞台にさまざまな物語が伝承されている。これを活用し、まちの活性化を図ろうとしているのがNPO団体「シャーネ・エレーテ今市」なのだ。
 「シャーネ・エレーテ」はフランス語からとったのかと思わせるネーミングだが、実はこれ、この地方の方言で「性根を入れて(しゃーねえれて)」のこと。本気の気概を表現した名前だ。
 今回は、このシャーネ・エレーテ今市にうかがって、神話を活かしたまちづくりの様子を聞いてみた。
 「もともと今市町は出雲市中心市街で商店街なども山陰の中でもNO1を誇っていました」とは、自身もこの地のメイン商店街で呉服店を経営するNPO法人シャーネ・エレーテ今市理事長の石橋正吉氏だ。
 同法人事務局長の持田和枝氏も賑わいのある商店街の様子を次のように振り返る。「土曜市などが有名でしたが、市の日になれば、商店街のアーケードは肩をぶつけあいながらでないと通れないほどの賑わいを見せていたほどです」
 しかし1980年代に入ると、郊外に大型店ができたことなどから徐々に商店街離れが進んだという。メイン商店街の「サンロード」を歩いてみたが、シャッターのおりた店が多く、人通りはほとんどない状況。居酒屋などが多く夜になれば営業をする店も増えてくるのだろうが、昼間の商店街はまさに閑散とした状況だ。
「既に郊外に1つ大型ショッピングセンターがありますが、またもう1つ別の有名ショッピングセンターが近くに出店をするそうです。人口の少ない土地で潰し合いのようなことをしています。サンロードは今市でも一番賑やかな商店街でしたが、昔からある店は後継者がいないことからどんどんと店じまいし、居酒屋など飲み屋になっています。夜の店をやっているのは外部から店に通う人々でこの土地に住んでいるわけではありません。もはや240メートルもあるアーケードの中で小学生が1人もいなくなってしまいました。最後の小学生がウチの孫だったのですが、昨年中学生になってしまいました」(石橋氏)
 かつて、山陰でもナンバーワンの賑わいを誇った商店街も、郊外に人口が移るドーナツ化現象が進み、いまでは地元に残っているのは高齢者ばかりという状況。なんとかかつての活気を取り戻せないものかと新しいまちづくりを目指したのがシャーネ・エレーテの始まりだった。
 性根を入れてまちづくりに挑むには、どうするべきか? 同法人が目をつけたのが「出雲の神話」という他県にはない宝だったと同法人副理事長の武田睦弘氏は説明する。
出雲神話は、古事記の神話でも1/3を占めます。また風土記にいたっては、現在5ヵ所*12で現存していますが全巻揃っているのは出雲風土記のみです。これはまさに出雲の宝といえます。ですが、いまはこうした神話などを地元の人々も知りません。戦後は教科書に載ることもなく、忘れさられてしまったのです」
「そこで、地域の方々に神話に関心をもっていただき、観光客への語り部になっていただきたいと考えたのです」(持田氏)
 シャーネ・エレーテでは、まず手始めに出雲市駅から新市庁舎に伸びる「くにびき中央通り」が拡幅整備され観光客の集客に対応できる街並みが整ったことから、この通りに出雲神話を題材にしたブロンズ像を設置。全21体を予定し、現在「スサノオのオロチ退治」「兎を助けるオオナムチ」「ネズミに助けられるオオナムチ」「スセリを背負ったオオナムチ」「黍の穂から跳ぶスクナビコナ」の5体が建てられている。スセリを背負ったオオナムチ像では、二人の愛にあやかって「縁結び」にとこの像に触れにくるカップルもいるそうだ。
 このほかにも、同法人では、出雲神話の描かれた行灯(あんどん)の作成を地元の小学校などに要請し、夏の出雲市キャンドルナイトにあわせ「出雲神灯路」をつくり、地元や観光客へ出雲神話をアピール。さらには「スサノオの誕生」から「国譲り」までの出雲神話のガイドブックや出雲神話のかるたなどを作成し、地元の子どもたちへの啓発活動を行っている。
「戦後、神話は荒唐無稽の産物とされ、単なる空想物語として扱われてきました。ですが、考古学的な発見が進んだこともあり、最近では神話と事実が符号する事例も多くあります。例えば、出雲大社に祀られている『大国主命(おおくにぬしのみこと、もとはオオナムチ)』は、現在の新潟県糸魚川市近辺を統治していた『奴奈川姫(ぬながわひめ)』と結婚をする記述があるのですが、出雲大社近くの「命主社」からは、実際に糸魚川翡翠を原料とした勾玉が出土しています。つまり、神話に描かれているような出雲と新潟の交流が実際にあったわけです。こうした歴史的事実も踏まえた神話を、まずは地元の人々がきちんと知る必要があるのです」(武田氏)
 もちろん、神話を活かしたまちづくりといっても、現実問題としての地元の高齢化やドーナツ化現象を止めるのはなかなか難しい。
「数年前に『中央公論』で『壊死する地方都市』というセンセーショナルなタイトルの特集が組まれ売れに売れていましたが、まさにそんな戦慄のシミュレーションが現実化しようとしています。地域の購買力が落ちてくると、商店の後継の若者が家業を捨て会社勤めを選び地元からでていく。そうなると子どもがいない。購買力がさらに落ちる。もうぐるぐると悪循環から抜け出せなくなります」(武田氏)
「すでに、この近辺でもガソリンスタンドがなくなり、ガソリンを買いに何キロも離れた場所に行かなければならない、といったこともおこっています」(石橋氏)
 だからこそ、どこでその流れを変えていけるか、まちの魅力を「神話」の力を借りて再定義しようとしているのだ。
 「まずは、地元の人たちへの神話の認知度というのは確実にあがってきています。断片的にでも出雲神話に興味を持ってもらえるようになってきました。今後は外部の人にいかにアピールしていくか、地元の方々が語り部として力を発揮できる機会をつくれるような施策を考えていきたいと思っています」(持田氏)

http://www.izumo-center.com/bronze/
■ブロンズ像のお話
 2012年は、日本最初の歴史書といわれている「古事記」が編纂されてから、ちょうど千三百年にあたります。これを記念して各地で古事記神話が取り上げられ、まさに神話ブームが到来しました。
 この古事記神話の内容は、その3分の1が出雲神話で構成されているのです。出雲は神話の古里であるといっても過言ではありません。これを「まちおこし」の材料にして、出雲市今市町の活性化を図ろうと、NPO法人「シャーネ・エレーテ今市」を立ち上げました。
 さて、出雲神話と行っても、その内容は周知されていません。そこで物語性のあるブロンズ像を並べることによって来雲された全国の方々に出雲神話を理解していただこうと次のような計画をたてました。
 出雲市駅から北に延びる大通りを「神話通り」という愛称にし出雲市役所(国道9号線)までの間を三区間に分け、出雲神話物語を出雲市駅から順に、時系列にしたがって設置しようと考えました。


■学校資料と歴史学(大平聡*13
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

http://miyagi-shiryounet.org/news189/
■宮城資料ネット『宮城県内での学校資料の保全』(大平聡)
1 活動のきっかけ
 古代史を専攻する私が、学校資料に関心を持つようになったのは、勤務校の「学徒勤労動員」に気付いた2000年のことでした。初めは宮城県公文書館に保存されている公文書に注目したのですが、戦時期の資料は欠落していました。そこで旧制中学校・高等女学校の後進である宮城県内の高等学校の記念誌を手がかりに調査を始めました。多くの学校で、記念誌編さんと同時に資料類を処分していた事実に突き当たりました。一方、学校日誌が残っている高等学校も多く、公文書では知り得ない学校現場や地域の様子を知ることができました。
 2007年頃からは、小学校の資料に関心を持ち始めました。小学校の方が地元密着で、地域に関する情報も得られるのではないかと考えたからです。きっかけは、統廃合で廃校となる小学校で昭和20年の日誌が発見され、空襲警報の詳細な記述が確認されたことを伝える新聞記事からです。その学校の調査を通じて、地域の教育史を研究されている方を紹介していただき、本格的な調査を始めました。日誌や公文書綴りなど、まさに学校は地域の記憶装置であることを実感しました。一方、学校資料を閲覧するためには教育委員会の了解を得ることが必要であることを知り、校長会を通じて周知していただきました。
 当初は研究のために学校日誌の調査から始めましたが、すぐに日誌以外にも膨大な資料が眠っていることを知ることとなりました。学校長にその重要性を伝え、調査の御礼として資料の目録作成、さらにご希望があれば保存用封筒や文書箱への収納といった保全作業を申し出ました。ここで、調査・保全作業を宮城歴史資料保全ネットワークのプロジェクトの一つに位置づけていただき、2010年度からはゼミの学生と「学校資料の調査・保全活動」に取り組むことになりました。
 この頃から小学校の統廃合に関する記事が頻繁に見られるようになりました。記事を見つけると教育委員会を訪問し、廃校となる学校資料の保存をお願いし、それらが大切な地域資料であることを伝えます。さらに廃校となる学校だけではなく、地域内すべての学校について目録の作成と保全作業を行い、地域の近現代教育資料として活用できるようにデータを整えることを提案します。そうして、宮城県内の7市町で作業を実施してきました。
 ところで、学校資料の中には、個人情報にかかわる資料が大量に存在します。それゆえ、調査に際しては慎重に対処することを、学校側に説明しています。目録作製のための撮影は表紙に限定し、年次が表紙に記載されていない場合や、簿冊が合綴されている場合に限り、簿冊を開くこととしています。また作業終了後には、作製した目録とすべての画像データを学校と教育委員会に提出し、とにかく貴重な資料を保存し、廃棄しないでいただきたいこと、その利用方法については、時間をかけて考えていただきたいことを伝えています。「保存即公開」を求めるものではないことを、特に強調してお願いしてきました。
東日本大震災後の活動
気仙沼市での被災状況確認・保全活動
 ガソリンがようやく手に入った4月7日、気仙沼在住の学生に支援物資を届け、合わせて新城小学校に、約束していた目録をお届けすることができました。同校は被災直後、ご遺体の安置所になっていましたが、訪問時には、解除されていました。ここで、気仙沼市内の小学校の被災状況のあらましを教えていただきました。市内では、南気仙沼小学校が大きな被害を受けていましたが、その他の小学校は高台にあったため無事とのことでした。気仙沼市内は、旧本吉町唐桑町を含め、明治以来の学校資料が豊富に保存されている地域です。資料の保全作業の緊急性がないことを確かめ、ひと安心しました。
 5月27日に、気仙沼市立津谷小学校を訪問しました。同校には本吉地区唯一の木造校舎があり、地域歴史資料室が開設されていました。その状況確認に伺ったところ、土壁が部分的に剥落しており、取り壊しの可能性もあるとのことでした。そこから、11年度に調査を予定していた南三陸町に向かいました。小泉地区を通り過ぎた時、気仙沼線の高架の上に家屋が乗っている状況に驚かされました。南三陸町立伊里前小学校には、名足小学校が同居していました。伊里前小学校(歌津地区)はかなりの高台にありますが、一階まで浸水したということで、文書の一部が水をかぶっていました。エタノールでの応急措置を施しました。名足小学校は被害がひどく、何とか持ち出したという資料には、明治の学籍簿など、貴重な資料が多く含まれていました。新聞でも報道されていた、栗原の教員OBチームの方々による洗浄がすでに施されており、安定しているようでしたが、念のため、エタノールの噴射を行いました。ここで、登米市に避難している戸倉小学校が津波被災資料の処置に困っていることを伺い、資料ネット事務局に連絡して、対応していただきました。なお、2013年1月、名足小学校を再訪し、目録の作成を行いましたが、その折、資料に砂が付着していることを確認しましたので、刷毛による砂の除去作業を2月に2回実施しました。
 7月(2011年)にはいって、津谷小学校より、木造校舎の取り壊しの可能性が高くなったという連絡がありました。そこで8月10日、人間文化学科の学生に広く呼びかけ、木造校舎からの資料搬出作業を行いました。本会理事でもある井上研一郎が物品を、大平が文書・書籍類を担当し、一日がかりで鉄筋コンクリート校舎に搬出しました。これらの資料の整理・保全作業は、2012年2月10日、学科学生の協力を得て、それぞれノートパソコンを持参し、目録を作りながら保存箱に収納するという作業を行いました。なお、この木造校舎は、山形大学の永井康雄先生がその後診断を行われ、補修によって継続使用可能との報告書を気仙沼市に提出して下さいました。木造校舎は、現在も使われています。
登米市登米町・山元町での被災状況確認・保全活動
 2012年2月、涌谷町で行っていた町内の学校資料所在調査が一段落したので、登米町の教育資料館(旧登米小学校木造校舎)の見学に行きました。やはり、かなり痛んでおり、西半分の見学ができない状態でした。収納が必要と判断し、教育委員会の許可を得て保全作業と目録の作成を行いました。作業中、山元町から、坂元中学校で発見された戦時中の教育資料について意見を求められ、3月6日に訪問しました。坂元中学校は被災していませんでしたが、同町では複数の小学校が被災しており、そのうちの一校、中浜小学校で校歌の額の処置に困っているというので訪問し、預かりました。この額は、資料ネットに運び、洗浄していただいて返却しました。
気仙沼小学校での活動
 2012年7月2日、気仙沼市教育研究会歴史部会研修会(会場松岩小学校)で、学校資料の地域史資料としての重要性を講演しました。その折、かねてから気になっていた気仙沼小学校の資料保管庫を見せていただいたところ、膨大な資料が保管されていることを知り、目録の作成を申し出、2013年1月17・18日に作業を行いました。
 明治20年代からの日誌、学籍簿のほか、種々の日誌類を含め、初めて見る資料が少なくなく、その質・量に圧倒されましたが、多くの資料にカビが発生していることにも驚かされました。そこで、2月15日、資料ネット事務局の天野真志さん*14にご指導いただき、カビ対策の措置を行いました。
■女川町・石巻市での所在確認調査
 2012年11月には、女川町で小・中学校の再編が決定したとの報道があり、それぞれの学校にどのような資料があるのかを把握するための目録作成を教育委員会に提案し、了解を得て実施、目録をお届けいたしました。また、2013年1月には、宮城学院女子大学がボランティア提携している石巻市立大原小学校を訪問し、所蔵資料の目録作成を行いました。同校には、津波で被災し、統合された谷川小学校の資料が保管されていました。賞状類は資料ネットに運び、処置していただき、返却しました。写真は、山元町で知り合った写真修復ボランティア団体に処置をお願いすることができました。
 以上が、震災に関連しての私のゼミの活動です。私たちは、被災の中心地にはいって資料をレスキューするというより、統廃合で失われる危険性の高い資料の保全に重点を置いて活動してきました。それを私たちの「役割分担」と考えて活動してきました。これまでに作業を行わせていただいた学校は、震災前も含め40を超え、50に迫ろうとしていますが、まだまだ県内のごく一部で実施したに過ぎません。廃校になる学校に明治以来の資料が良好に残されていることに出会うと、学校は無くなっても、学校が存在したこと、学校を軸に営まれてきたその地域の社会生活の確かな痕跡が保存されていくであろうことに、救われる思いがしています。これからは、地域に残された貴重な近現代資料としての学校資料を使って、地域の歴史、学区の歴史を叙述することが大きな仕事となってくると考えています。

http://ishinomaki.kahoku.co.jp/archives/2010/05/k/100522k-rekisi.html
三陸河北新報『小学校は歴史資料宝庫、宮城学院女子大の大平教授、気仙沼の10校調査、戦時中の学籍簿や学校日誌』
 宮城学院女子大学芸学部人間文化学科の大平聡教授(55)が、昨年7月から気仙沼市内の小学校で学籍簿や学校日誌などの古い史料の調査に当たっている。13、14の両日は同市月立小(山本正美校長、児童29人)で学校史料の整理と調査をした。大平教授は「気仙沼地方の小学校は歴史資料の宝庫」「学校生活だけでなく当時の住民生活もうかがい知ることができる貴重な史料を、長く後世に残すための手伝いをしたい」と、調査を希望する学校を募っている。
 大平教授は2003年7月の宮城県北部地震で被害を受けた文化財の救済活動を目的に設立された「宮城歴史資料保全ネットワーク」の理事を務め、明治以降の学校史料研究に力を入れている。
 大平教授が気仙沼市の小学校を調査することになったのは、大島小で奉安殿図面などの古い史料が多数見つかったことを報じた河北新報の記事(昨年3月9日付)がきっかけ。昨年7月に大島小を訪問して、奉安殿をはじめさまざまな史料を調査。その後、気仙沼市内の元学校長から「地元の小学校には戦時中の史料がたくさん残っている」との情報を得て、気仙沼へ頻繁に通うようになった。今回の月立小でこれまで訪問した学校は10校を数える。
 今年3月、宮城学院の前身である宮城女学校と大島小の奉安殿についてまとめた「紀元二千六百年と二校の奉安殿」の冊子を発刊した。奉安殿は、学校に下賜された天皇、皇后両陛下の“ご真影”や教育勅語を納める建物で、終戦後、GHQの命により解体された。
 奉安殿については大島小のほか、津谷小、馬籠小の学校日誌の調査も通して、戦後、どのように処理されたのかまで調べた。各校での保管状況について「史料の内容だけでなく、保存状態の良さにも驚かされた」という。
 月立小には、宮城学院女子大で大平教授の歴史ゼミを履修する3、4年生の学生4人と来校。大平教授が研究のメーンテーマとする戦時中(主に1939〜46年)に関する史料は、その映像をデジタルカメラで撮影したほか、他の史料は学校で保管しやすいようにパソコンで目録を作った。紙の史料を傷めないように中性紙の封筒に入れ替える作業もした。
 これまでの小学校史料の調査で、戦時中の小学校(当時は尋常小学校国民学校だった)は青年団や婦人部、地域の寄り合いなどの会場にも使われ、公民館的役割も担っていたことを新たに認識した。
 さらに学校は出征兵士を見送ったり、遺骨で帰ってきた兵士を出迎えたりする場でもあった。大島では、その場所が旅客船の発着場である浦の浜港で、見送りや出迎えの際には小学生も参列していたことを学校日誌から知った。大平教授は「その現実に大きなショックを受けた」と語る。
 気仙沼地方の学校に古い史料が多く残されている理由として、大平教授は「戦時中、都市部のような空襲被害がほとんど無かったことに加え、昔からものを大事に保管するという地域性もあったのではないだろうか」と推察する。
 「気仙沼地方の小学校などからの依頼があれば、教育史料の調査や分類作業をお手伝いしたい」。
 大平教授は今後も気仙沼との縁を大切にする考えだ。

https://web.mgu.ac.jp/essay/53.html
■「歴史学」という学問(大平聡)から一部引用
 私が現在取り組んでいることは、小学校に保存されている資料の調査と分析である。ゼミの学生と、デジカメ・三脚を担いで、宮城県内の小学校を訪問して資料の調査を行っている。初めは、アジア・太平洋戦争期に、戦争がどのように小学校に入りこんできたかを調べたいと思ったのだが、調べ始めてみると、小学校には明治以来の貴重な資料が残されていること、また、学校日誌からは学校の中のことだけでなく、地域の様子が見えてくることがわかった。地域の諸団体の会合が学校で行われていたことが記録されているのだ。小学校は、公民館の役割を果たしていた。
 その小学校の資料が危機的状況に置かれている。自治体の広域合併の結果、小規模校の統廃合が進む。東日本大震災がそれに拍車をかけている。小学校の資料が貴重な地域の記憶遺産であることを訴え、その保存を進めなければならない。震災と津波で地域の資料のほとんどが失われても、小学校の資料が残されている地域がある。小学校の資料をもとに地域の近現代史を叙述することが課題に加わった。歴史学からの地域復興にゼミの学生と取り組んでいきたい。

http://www.mutusinpou.co.jp/news/2018/09/52664.html
陸奥新報『小学校の歴史資料を整理/鯵ケ沢』
 鯵ケ沢町教育委員会弘前大学教育学部の協力を得て、同町の西海小学校(森山智明校長)に保管され、7年近く未整理のままとなっていた統合前の学校の資料整理を行った。明治期から西海、赤石、南金沢の3小学校が統合し新・西海小誕生に至るまでの資料の中には、100年近く前の学級写真や児童・生徒に関するものが多数。作業を指揮した高瀬雅弘教授(教育社会学)は「統廃合時に損なわれてもおかしくない資料がほぼ完全に残っており、奇跡的」と評した。
 同町では2011年の学区再編で7小学校を統廃合し、現在の舞戸、西海2小学校が誕生した。各小学校には資料室を設けて旧小学校の資料を保存することとし、舞戸小では既に整理、仮収納まで終了した。一方、西海小では資料搬入まで終えたものの、諸事情から未整理のまま約7年が経過していた。

http://www.wakayamashimpo.co.jp/2016/08/20160823_62910.html
■わかやま新報『学校に眠る郷土の宝物 風土記の丘が調査』
 学校に眠る地域の資料を見直そうと、県立紀伊風土記の丘(和歌山市岩橋)が県内の小中高校の調査を進めている。歴史の古い学校の多くに備えられている「郷土資料室」などから、地域の人々の生活や歴史を知る貴重な発見が相次いでおり、これまでの調査結果の一部を、9月4日までの企画展「学校にあるたからもの」で紹介。同館学芸員は「かつて学校が、地域の歴史を伝える博物館のような役割を果たしていた。資料をリスト化し、郷土資料として活用できるよう体制づくりをしていきたい」と話している。
 地域住民が持ち寄った文化財を展示、保管する郷土資料室が設けられている学校でも、校内で資料の引き継ぎがされなかったり、再整備によって資料が捨てられたり、放置されたりして、最近はその存在すら忘れられつつあるという。
 調査のきっかけになったのは、平成23年に起きた紀伊半島大水害。新宮市内の廃校となった小学校に保管されていた農具など、地域の暮らしを語る上で大事な資料が浸水被害を受け、捨てられてしまったことだった。
 地域の歴史史料が失われぬよう、所在を明らかにして情報を共有しようと、昨年春に県内の全小中高校にアンケートを送付。学芸員が30校以上を訪問し、調査を進めてきた。
 調査は毎回が驚きの連続といい、藤森寛志学芸員は「地域色が濃く、日常を伝える資料ばかりで、学校だからこそ残ったものもある。時間がかかるかもしれないが、丁寧にリスト化したい」と話す。
 今回の展示では調査した学校のうち17校の資料を展示。太地町立太地小学校のクジラのひげや、御坊市立名田小学校の道成寺縁記の絵巻物など、それぞれの学校がある地域の特徴を色濃く反映した展示物が多い。
 中でも貴重な発見となったのが、海南市立黒江小学校で見つかった紀伊徳川家15代当主・徳川頼倫(よりみち)が東京に創立した私設図書館「南葵文庫(なんきぶんこ)」の蔵書印が押された巻物41点。江戸幕府により編さんされた「寛永諸家系図伝」の写しで、真田家や織田家などの大名と旗本以上の系譜が記されている。
 また、同小のアルバムからは、当時の教員が、昭和21年の昭和南地震の被災状況を写真とともに詳細に記した貴重な記録も見つかった。
 県立橋本高校からは、県指定遺跡・陵山(みささぎやま)古墳の出土資料が、明治36年の発掘調査以来、100年以上の時を経て発見された。調査した瀬谷今日子学芸員は「長い間所在が不明だったので、箱の中に見つけた瞬間は、思わず体が震えました」と振り返る。
 藤森学芸員は「郷土資料はいわゆる『未指定文化財』。災害時にレスキューの対象から抜け落ちてしまう恐れがある考古学や民俗学上の貴重な資料を、いかに残していくか。重要な資料が地域にあることを認識してもらいたい」と話す。
 今後は学校以外に公民館なども調査対象にしていきたいという。瀬谷学芸員は「考古資料や民俗資料は古い生活の跡で、実はとても身近なもの。手に取ることができるので、博物館などの展示資料とは違った役割が果たせるはず。活用についても、学校の先生方と一緒に考えていけたら」と話している。

https://www.sankei.com/region/news/160817/rgn1608170034-n1.html
■産経『紀伊半島豪雨での流失教訓に 企画展「学校にあるたからもの」』
 古墳時代の須恵器や壺、江戸時代の鯨の巻物、昭和の炭火アイロン。
 学校の「郷土資料室」で保管されてきた文化財を展示する夏期企画展「学校にあるたからもの」が県立紀伊風土記の丘(和歌山市)で開かれている。学校の文化財が水没した紀伊半島豪雨を教訓に、地域で忘れられつつある郷土資料室に着目。保護を目的とした調査を通し、身近な学校から発見された貴重な品々を展示している。担当者は「目録化して教材として学校で役立てられるよう、サポートしていきたい」と意気込んでいる。
 郷土資料室は、100年以上の歴史のある学校に多く備えられている。博物館がなかった時代に、地域の人から寄贈された農具などの民俗文化財や古文書、考古資料などを収蔵。現在も授業で教材として活用している学校もあれば、存在を忘れられたり物置と化していたりするケースもあるという。
 今回の企画は、平成23年9月の紀伊半島豪雨がきっかけだった。県内各地に甚大な被害をもたらした災害は学校も例外なく襲い、新宮市内の廃校になった小学校に保管されていた鍬や鋤などの民具が水没。地域の営みを伝える文化財は、いつのまにか、がれきと一緒に廃棄された。
 紀伊風土記の丘ではこの反省から、各地の学校が保管する郷土資料の調査を決定。昨年度から県内の各学校にアンケートを配布し、回答のあった30校以上を学芸員がまわって調査を進めてきた。
 橋本市古佐田にある県立橋本高校の社会科準備室の片隅に置かれていた段ボール2箱の中からは、明治36年に発掘された県指定史跡「陵山(みささぎやま)古墳」から出土した土器などを発見。明治の調査後、100年あまり行方不明となっていた出土品だった。
 「中をのぞき込んで、身が震えた」。
 調査に当たった瀬谷今日子学芸員はこう振り返る。
「昔は生徒たちも協力して発掘調査をしていたため、学校に残されていたのだろう。地域との関係を知る上でも重要な資料になる」
 また、海南市の市立黒江小学校の図書準備室の引き出しからは巻物41点を発見。戦国武将の織田家や真田家の家系図などが記されており、紀州徳川家の「南葵(なんき)文庫」の朱印が押されていた。「なぜここにあったのかはわからないが、博物館に所蔵されるような貴重なもの」とは藤森寛志学芸員。学校行事などを記したアルバムには、昭和21年の「昭和南地震」の翌日に学校の様子を教員が撮影した写真や、被災状況を細かに書き残した貴重な記録もあった。
 「災害などで失われてしまうものは文化財指定のないものが多いが、その中にも貴重なものがたくさんある」と藤森学芸員。「展示を通して郷土資料室の役割を知り、地域性を伝える大切な資料であることに気づいてもらえたら」と話している

https://news.nifty.com/article/economy/economyall/12207-160476/
和歌山県の文化を学ぶ!「学校にあるたからもの2」
 和歌山県紀伊風土記の丘では9月2日(日)まで夏期企画展「学校にあるたからもの2」が開催中だ。
 和歌山県下の学校施設の近辺には遺跡や古墳が多くあり、学校の建設地が実は遺跡であったという学校施設がある。また、地域の人々から持ち寄られた資料が置かれた「郷土資料室」と呼ばれる部屋を設けている学校も少なからず存在している。
 郷土資料室には、近隣の遺跡で発掘された土器などの埋蔵文化財や地域の人々が使用してきた農具や生活雑器などの民俗文化財、加えて古い教科書や地域の歴史を記した古文書などが収蔵され、展示されている。
 同企画展では、平成28年に開催した「学校にあるたからもの」に引き続き、学校施設が所蔵する資料を取り扱い、学校所在資料と学校教科書とのつながりについて紹介。
 展示を通じて、学校所在資料が教材として活用されてきたこと、そして、それらが貴重な資料であり、守っていかなければならないものであることを来場者に伝える内容となっている。

http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20160808150280001.html
朝日新聞『小学校に眠る文化財』(渡辺延志*15
 何げない道具もここまで数がそろえば壮観だ。横浜市歴史博物館(市営地下鉄・センター北)で開催中の企画展「よみがえる学校の文化財」で一番大きなスペースが割かれているのは千歯こき。大正時代ぐらいまで使われたという脱穀のための農具だが、実に44個がずらりと並べられている。
 「市内の小学校にあった物で、会期中にさらに3個追加する予定です」と学芸員の羽毛田智幸さん。
 子供たちが博物館に親しむきっかけをつくろうと市歴博は「博物館デビュー支援事業」を始め4年目を迎えた。小学校にある歴史資料室の整理はその中心プロジェクト。眠ったままの身近な〈文化財〉を再生し、活用しようとの狙いだ。
 調べたところ、341校ある市立小学校のうち80校に歴史資料室があった。しかし、何があるかも分からず、危険だとして部屋にかぎをかけたままという学校が多いことも判明した。
 学芸員を派遣し市歴博は資料の整理の仕方を指導。これまでに21校で整理が終了した。そうした活動の中間報告として企画されたのが今回の展示だ。
 「それにしても驚きました。整理を終えた21校のうち19校に千歯こきがありました。かつての横浜がどのような土地であったかを示しているはずです。見方さえつかめば、とても分かりやすい歴史の教材です。社会科の授業などにも活用しやすいはずです」と羽毛田さんは語る。
 千歯こきは、歯の部分は鉄で土台は木。実に素朴な構造の道具だが、米用と麦用では微妙に歯の間隔が違い、木の部分には製造の場所や年などが書き込まれていることが多いという。
 ほこりをかぶった収蔵品を拭いたり、洗ったりしてきれいにして写真を撮影。大きさを計測し、記されている文字情報を確認し、資料番号をつけ整理カードにまとめてきた。21校で計6千点を整理したという。
 死蔵品を〈文化財〉に変身させる作業でもあるが、学校には実に多様な品々が眠っていた。千歯こきのような農具や生活道具などの民俗資料が最も多く、古いミシンやアイロン、まきでわかす風呂、しょうゆや豆腐を作る道具といったものもあった。
 学校そのものにかかわる資料も調査した。泉区の中和田小では、保管されていた教科書の中から墨塗りの教科書が1冊見つかった。敗戦間もなく、教科書の軍国主義の色彩強い部分を塗りつぶしたことは知られているが、実物を目にすることはまずないだろう。日米戦争が始まった翌42年発行の3年生の音楽教科書で、「戦友」「忠霊塔」「大東亜」など20曲が掲載され、そのうち「橘中佐*16」「白衣の勤め」「特別攻撃隊」の文部省唱歌3曲が黒く消されていた。墨塗りはたどたどしく上手とはいえない。先生の指示で子どもが塗ったのだろうか。
 写真も調べた。中でも航空写真は「とても貴重な1点もの」と羽毛田さんは指摘する。今ではドローンで簡単にできる空撮だが、かつては学校の記念事業ぐらいしか自分の住む街を空から撮影する機会はなかった。地図や現在の写真と比べると地域社会の変容ぶりがよく分かる。
 展示されている中には古文書もある。念仏講の道具といったものもある。行き場を失った地域の共有財産が学校に持ち込まれたのだろう。小学校が〈地域の記憶の保管庫〉の役割を担っていることを物語る。
 9月4日までの開催で月曜休館。夏休みでもあり多くの人に見てもらいたいと無料。「とりわけ学校の先生に関心を持ってもらいたいですね。学校の統廃合などを契機に資料が失われるのを防ぐには、身近に接する先生たちに理解してもらうことが何より必要です」と羽毛田さんは語った。

http://www.hakubutu.jp/13515
■小学校に眠っていた文化財にスポットをあてる企画展、横浜市歴史博物館
 自分の通った小学校に、農具や土器・石器などを集めた小規模な資料室があったという記憶を持つ人もいることだろう。これらの資料室は、先生や保護者の努力で「ミニ博物館」的に機能しているものもあれば、時の流れと共に「古い物が詰まったなんだかわからない倉庫」になってしまっているものもある。
 横浜市歴史博物館横浜市都筑区)では、これらの資料室の整理と展示のリニューアルをサポートする「博物館デビュー支援事業」を2013(平成25)年より手がけている。
 この事業の成果を元にした、企画展「よみがえる学校の文化財」展が、2016年7月23日〜9月4日の会期で開催中だ。観覧は無料(常設展示は有料)。
 学校の資料室をリニューアルし、そこに眠る文化財にスポットをあてている。また、リニューアルのbefore/afterをVRバーチャルリアリティ)で見せる試みも。
 学校の資料室なのだから、ありきたりの農具や古道具しかないように思うかも知れないが、博物館でも所蔵していないような農具や資料が保管されていることもあるという。実際に、学校所蔵品の中から、横浜市内最古の万石(米を選別する農具)が見つかったケースもある。
 また、農具そのものは特に珍しいものではなくとも、小学校のあるその地域が、50年前あるいは100年前にどのような農具で何を作っていたのかがわかる。
 同館は、3年間でおよそ20カ所の学校内歴史資料室を訪れ、6000点を超える資料を整理したという。これは小さな博物館レベルに相当する資料点数だという。これら収蔵されている農具・生活道具などを民俗資料的な視点から考察し、同時に、横浜の地域や歴史の特色を描き出していく。
 小学校は、その土地の歴史と密接に結びついている。そこにある資料室というのは、これがうまく機能すれば、その地域の歴史や民俗について博物館のサテライト的な役割をも担うのではなかろうか。
 そんな小さな資料室の可能性を感じさせる企画展だ。

https://mainichi.jp/articles/20170828/k00/00m/040/139000c
毎日新聞『学校資料、「宝の山」消失危機 専門家が研究会』
 全国各地の学校が所蔵する昔の教科書や土器などの考古資料、地域住民が寄贈した農具などが、統廃合や災害を機に廃棄、散逸の危機に直面している。こうした学校資料には文化財的価値を有したものや地域史を語る上で重要な“お宝”が含まれている。今春、関西を中心に活動する考古学や教育史、博物館学などの専門家が初めて分野の枠を超えて研究会を結成。保存・活用の対策に乗り出した。【林由紀子】
 「学校資料研究会」で、メンバーは博物館学芸員や大学教授、図書館職員など16人。佛教大大学院生の一色範子さん(35)が代表となって呼び掛け、4月末に発足した。月1回、非公開の勉強会を開催。2年後の刊行を目標に、専門知識のない教員でも学校資料を授業で活用することを目指したハンドブックの作製などに取り組む。
 専門家の間で学校資料への注目度が高まったのは、2011年の東日本大震災紀伊半島豪雨災害で貴重な資料が大量に流失、廃棄されたことがきっかけ。少子化の影響で毎年約500の公立学校が閉校する中、多くの資料が統合先や博物館に引き継がれず処分されているという。
 しかし、和歌山県紀伊風土記の丘(和歌山市)が昨年実施した調査では、江戸時代に写された真田家や織田家家系図が小学校から見つかった他、現在はワシントン条約で商業取引が禁止されているオランウータンの剥製を所蔵する学校も。昔の教員が採集・作製したホルマリン漬けや標本には、今は見ることができなくなった魚や昆虫も保存されていた。
 空き教室に資料を展示し、授業で活用している学校もあるが、時間の経過や教員の異動で「開かずの部屋」となっている学校も多い。専門知識のない教員には資料の価値が理解されにくく、統廃合や耐震工事が処分の契機になりやすいという。
 研究会幹事で京都文化博物館の村野正景学芸員は「学校資料はそこで学んだ人々の生きた証しであり、地域そのものの記憶をとどめている。学校で使われてこそ意味があり、活用の道案内ができれば」と話す。

https://mainichi.jp/articles/20170829/ddn/013/040/024000c
毎日新聞『学校資料 歴史と思い出の宝を守る 地域や教員、価値の共有から』
 学校所蔵資料の廃棄や散逸が社会問題となる中、「地域のお宝」を守ろうと、各地の博物館を中心に保存・活用に向けた取り組みが広がりつつある。一方、スペースや人手の問題で資料をうまく整理できず、活用どころではないなど現場が置かれた状況とは隔たりがあるのも現実だ。統廃合や自然災害などで貴重な資料が失われる前に、専門家と教員、地域住民らが価値の共有を図るとともに、保存・活用に向けたバックアップの仕組み作りが急がれる。【林由紀子】


文化財保護行政の動向と地域の歴史遺産:文化財保護法の改定問題と文化財活用の方向性(吉田政博)
(内容紹介)
 文化財保護法改正の方向性について論じている。観光マインドの意義は否定しないが、それによる教育内容のゆがみを警戒していると言った内容。

参考

https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement2/20180122siseihousin.html
■第百九十六回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説
(観光立国)
 明治時代に建設された重要文化財の一つである旧奈良監獄は、三年後にホテルへと生まれ変わります。我が国には、十分活用されていない観光資源が数多く存在します。文化財保護法を改正し、日本が誇る全国各地の文化財の活用を促進します。自然に恵まれた国立公園についても、美しい環境を守りつつ、民間投資を呼び込み、観光資源として活かします。多くの人に接していただき、大切さを理解してもらうことで、しっかりと後世に引き渡してまいります。

 文化財保護法改正の背景として吉田論文で安倍演説が取り上げられていたので紹介します。
 なお、吉田氏は「旧奈良監獄のホテル活用」について「計画段階に過ぎず評価が難しい」「現実化した段階で改めて評価する必要がある」として全否定はしません。
 ただし、「まだ実際に稼働しない時点で安易に好意的評価すべきではないだろう」ともしています。
 安倍演説の言う「旧奈良監獄」については以下の記事を紹介します。

https://www.nikkei.com/article/DGXLASJB26H5Z_W7A520C1000000/
■日経『旧奈良監獄がホテルに 清水建設「観光への貢献うれしい」』
 法務省が26日、旧奈良監獄(奈良市)の運営権の優先交渉権者を8社のコンソーシアム(共同事業体)に選んだと発表したのを受け、コンソーシアムの中心企業である清水建設の担当者は「成長産業の観光に貢献できるのはうれしい」と話した。旧奈良監獄は明治時代に造られた五大監獄*17の一つで赤レンガの名建築で知られる。2020年をメドに重要文化財を生かしたホテルに生まれ変わる。
 優先交渉権者は「チサン」ブランドなどのホテルを運営するソラーレホテルズアンドリゾーツ(東京・港)を代表企業とするコンソーシアム。清水建設近畿日本ツーリスト、デザイン会社のセイタロウデザイン(東京・品川)などで構成する。8月に実施契約を結ぶ。
 清水建設の担当者は「美しいレンガ建築が残ったのは奇跡」とした上で「貴重な文化財の保存と活用のバランスを意識した工事になる。当社は大阪の中央公会堂などレンガ建築改修の実績があるので経験を生かして取り組みたい」としている。
 旧奈良監獄は奈良少年刑務所として運用してきたが、耐震性の問題などから、3月末に閉鎖された。
 コンソーシアムが提案しているのが体験型複合施設だ。旧奈良監獄を耐震補強しつつ、必要最小限の改修を施す。重要文化財のため、文化庁の許可を得て、独房などを客室に改装。敷地内に別にホテル棟を新設し、客室は約290室確保する。
 10万6千平方メートルの敷地内にはレストラン、カフェバー、イベント空間、コミュニティーセンターを配置。天然温泉の温浴設備も設けるという。総事業費は150億円強の見通しだ。
 法務省の要請に応えて「建築行刑史料館」も設置する。旧奈良監獄が担ってきた役割や行刑・矯正の歴史を展示で分かりやすく伝える。史料館はホテルに先行して19年10月に開館する予定だ。
 法務省は公共インフラの所有権を国に残しつつ運営権を民間に売却するコンセッション方式で、活用を模索。博物館、史料館、ホテルなどへの転用を探っていた。
 奈良を訪れる観光客は奈良公園内にある東大寺興福寺に集中する一方で、奈良県庁の北約1.5キロにある旧監獄周辺を訪れる人は少ない。ホテルなどが少ない奈良県は宿泊需要も低迷し、16年の宿泊者数は244万人と全国で2番目に少ない。大阪府の7.8%、京都府の13.5%にすぎない。
 関西観光は大阪、京都を中心に動くケースが多いだけに、奈良に魅力あるホテルができれば宿泊需要も掘り起こせる。国が民間のノウハウを利用し、文化財の保存と活用を目指す新たな試みで、奈良や関西観光の活性化につながりそうだ。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25062630V21C17A2LKA000/
■日経『旧奈良監獄の周辺整備 県市と法務省協定、観光ルート構築』
 奈良県と市と法務省は25日、奈良市の旧奈良監獄の周辺整備に関する包括連携協定を結んだ。明治時代の五大監獄だった旧奈良監獄は建物を保存しつつホテルとして活用し、2020年開業を目指すことが既に決まっている。観光ルートを整備し低迷する滞在型観光を活性化するのが狙い。
 3者が合意したのは旧奈良監獄とその西側の奈良電力鴻ノ池パーク(奈良市鴻ノ池運動公園)の周辺整備。具体的には(1)西側の観光ルート整備(2)東側の表門に至る狭い道路の改善(3)寺院や史跡など観光資源の再発見――などを進めるという。
 奈良公園では東大寺周辺が人気で南の「ならまち」にも観光客の一部が流れるようになってきた。だが、旧監獄がある北西部の観光は振るわない。16年11月の奈良公園観光地域活性化総合特区の対象拡大で旧監獄周辺も特区に含まれるようになり、県や市は北西部を含めた奈良公園のあり方を検討してきた。
 北西部には陸上競技場や野球場などを備えた奈良電力鴻ノ池パークのほかコスモスが多く植生する般若寺、鎌倉時代ハンセン病患者の保護施設だった北山十八間戸といった埋もれた観光資源が多い。県奈良公園室の担当者は「北側の魅力を発掘し、他のエリアと分離するのではなく一緒に見てもらいたい」と話す。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35229780R10C18A9LKA000/
■日経『旧奈良監獄、11月に公開 上川法相が視察「感慨深い」』
 上川陽子法相は11日、ホテルなどとしての活用が予定されている旧奈良監獄(奈良市)を視察し、「耐震性の検証などを進めている。明治期の監獄が保存活用されるのは感慨深い」と話した。旧奈良監獄は8月に一部施設の解体工事が始まり、11月下旬には一般公開を含むイベントが開催される予定。
 旧奈良監獄は赤レンガの建築で、国の重要文化財法務省によると、改修期間中に工事の様子を一般公開することも検討しているという。法務省が所有し、運営を民間が行うコンセッション方式での活用が決まっており、2021年にホテルや商業施設、史料館からなる複合施設としてのオープンを目指している。

 最後にその他の関連記事を紹介します。

https://www.asahi.com/articles/ASL8B6JHXL8BUUPI004.html
朝日新聞『「文化財、目で見ることがすべてでない」 澤田瞳子さん』から一部引用
澤田
『最近は東京五輪を見据えてか、国も地方も観光資源に活用しようとの声が大きくなっています。博物館なども盛んに人目を引く企画で来館者を増やそうと。関心を高めるのは大事だが、文化的価値を次世代に引き継ぐという文化行政や文化施設のあるべき姿に立ち返るべきだと思います。
 文化財を見せることばかりを強調すると、多くの人が博物館やお寺などを作品を鑑賞する場所とのみ考える。でも公開の機会が増えれば、文化財は劣化や毀損(きそん)の危険にさらされる。長野の善光寺のご本尊は完全な秘仏で、随分長い間、拝んだ人はいない。でもそこに「在る」ことで信仰の対象になっている。自分の目で見ることがすべてではないはずです。』

https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS10H39_Q7A710C1PP8000/
■日経『博物館・美術館を観光資源に 観光庁文化庁と組む』
 観光庁文化庁と手を組んで、博物館や美術館を観光資源に育てる取り組みに力を入れる。訪日客が足を運びやすくするため、夏場の閉館時間を延長するほか、展示物の多言語化を進める。国内ホテルで案内係を務めるコンシェルジュにも魅力を訴え、訪日客の誘致を強化する。
 対象の施設は、東京国立博物館京都国立博物館国立科学博物館国立西洋美術館東京国立近代美術館京都国立近代美術館国立国際美術館。通常は平日の閉館時間を午後5時にしているが、7月から9月は毎週金曜日と土曜日を午後9時まで延長する。観光庁幹部は「時間が延びれば夜でも日本文化に触れやすくなる」という。
 東京国立博物館は訪日客の誘致を見すえ、9月にお月見や野外シネマの独自イベントを開催。展示物については、日本、英語、中国語、韓国語の4カ国語対応を進める。各施設は通信環境の改善にも取り組む。
 観光庁文化庁は6月に帝国ホテルなど国内の有力コンシェルジュ約20人を対象に特別ツアーと意見交換会を実施。訪日客がお勧めの観光地を尋ねた際、国宝や重要文化財も多い国立施設を紹介してもらう。

https://www.sankei.com/life/news/180716/lif1807160022-n1.html
■産経『転機迎える文化財行政 保存と活用…均衡はとれるのか』
 文化財行政は「保存中心」から「活用重視」へ変わるのか。「観光立国」が国策として掲げられる中、今国会で文化財の活用促進をうたった文化財保護法が成立するなど、日本の文化財行政が転機を迎えている。背景を調べた。(磨井慎吾)
■VRで鑑賞
 「VR(仮想現実)を駆使した企画などを通し、日本の文化財の素晴らしさを国内外に伝えてほしい」
 今月2日、東京都内で行われた国立文化財機構(東京・上野)内の新組織「文化財活用センター」の開所式。文化庁宮田亮*18長官は、そう激励した。
 同センターは日本の文化財に親しむ機会を国内外の人々に拡大するため、今年度予算で8億円を計上して開設。国立博物館の職員ら約20人がスタッフとなり、保存上の理由で実物の公開が制限されている文化財の精密レプリカ作製や、VRやAR(拡張現実)などの先端技術を用いた映像コンテンツの制作などに取り組む。
 また、同機構の傘下にある東京、京都、奈良、九州の4国立博物館が収蔵する文化財を各地の美術館、博物館に貸し出す際、同センターが輸送費や保険料などを負担する貸与推進事業も行う予定だ。
 同センターの小林牧(まき)・副センター長は「文化財に関してはもちろん本物を見るのが一番いいが、保護の観点から長時間展示できなかったり、ケース内から出せないものもある。どうすればそうした制約を超えて、文化財の魅力をアピールできるのか。本物を展示する以外の方法をこれから探っていきたい」と抱負を語る。
■「自ら稼ぐ」
 同センターは、昨年12月の文化審議会の答申を受けて設置された。答申は、文化財を核に、社会的・経済的価値を創出する取り組みを行うことで、保存コストを稼ぎ出すという「活用」を提言しているのが大きな特徴だ。
 政府が国策として掲げる「観光立国」の柱のひとつが、文化財の活用でもある。今年1月の安倍晋三首相の施政方針演説でも、「わが国には、十分活用されていない観光資源が数多く存在します。文化財保護法を改正し、日本が誇る全国各地の文化財の活用を促進します」と、観光資源としての利用推進を強調している。
 文化庁文化財部の高橋宏治・伝統文化課長は、こうした政策転換の背景について、「文化財の保存維持にはお金が必要だが、当然ながら予算は有限。ではそのお金をどう捻出するか。ただ文化財を死蔵していたのでは、何も生み出さない。公開活用をして多くの人に来てもらうことで、そのお金を保存修復に充てるなどの好循環を作りだそう、という趣旨だ」と説明する。
 高橋課長は成功例として二条城(京都市中京区)などを例に挙げ、インバウンド(訪日外国人旅行)向けの外国語解説の充実や、史跡などの文化財に関連した歴史的再現食などの体験型コンテンツの充実が重要になると話す。
 文化庁によると、国宝・重要文化財の総数は7月現在で1万3166件で、10年前と比べ約500件増加。修理費には今年度で約375億円を充てているが、全ての文化財について十分に対応できる額ではないという。
 高橋課長は言う。
「保存を決して軽視しているわけではないが、今後予算が大拡充される見込みもない以上、現状のままではジリ貧になる。活用を積極的にやっていかないと、いずれ保存もできない状況になってしまう」
■懸念の声も
 一方、こうした活用重視路線には、歴史学系の28団体が連名で昨年10月に「より慎重な議論を求める声明」を出すなど、懸念の声も上がっている。
 声明をとりまとめたのは、学術関係者らでつくる日本歴史学協会の文化財保護特別委員会。委員長を務める若尾政希*19・一橋大大学院教授は「昨年12月の答申は建造物の専門家の発想が主体となって活用を提言しているが、文化財は多様で、例えば古文書や書籍は建物と違って集客が難しい。稼げる文化財はいいが、そうでないものは扱いがないがしろになってしまうのではないか」と指摘する。
 今国会での改正法案可決に際しては、衆参両院で「保存と活用の均衡がとれたものとなるよう、十分に留意すること」とする付帯決議が採択された。若尾教授は「法改正はなされたが、懸念事項は先送りされた感が強い。付帯決議を踏まえて、これからどう具体的な施策が出てくるのか注視し、必要があれば前向きに提言していきたい」としている。

 上の産経記事で文化庁の高橋課長が「今後の方向性の一つ」とする再現食や「成功例」という二条城についての記事を後で紹介します。
 なお、高橋課長の立場としては「予算増の見込みが乏しいなら収益事業に力を入れざるを得ない」と「言わざるを得ない」でしょうが、それを我々国民の側が容認するかどうかはまた別問題です。
 高橋氏も必ずしも「好きでそうした方針をとってる」わけでもないでしょう。政府の方針が変わり、「一定の文化予算が付けば」無理に収益事業に力を入れる必要はないわけです。
 小生は収益事業を全否定はしません。ただし「博物館の目的」は金儲けではない。
 若尾教授の言う

「稼げる文化財はいいが、そうでないものは扱いがないがしろになってしまうのではないか」

という危惧を感じざるを得ません。

https://www.sankei.com/west/news/170317/wst1703170057-n1.html
■産経『“天下の台所”江戸時代の本膳料理を再現 タイに伊勢エビ…お役人を豪華におもてなし』
 蒸した伊勢エビにタイの塩がま焼き、アワビの膾(なます)、フルーツの盛り合わせ。
 大阪くらしの今昔館(大阪市北区)が2月8日に開いた「『上方の生活文化』を考えるシンポジウム」で披露された料理に、参加者からは「これで1人分とは、ものすごいぜいたく」と感嘆の声が上がった。
 「江戸時代、瀬戸内海や河川を通じて物が集まる大阪は正に日本経済の中心地。観光客も大勢訪れただろう」と語るのは同館の谷直樹*20館長(68)。当時の大阪の食文化を知ってもらおうと料理の再現を計画し、府立中之島図書館にある資料から1813(文化10)年秋に道修町(同市中央区)で長崎奉行所の役人に出された本膳料理の献立表を発見した。
 谷館長によると、江戸と長崎を往復する際に道修町に立ち寄る役人をもてなすために、周辺の町民がお金を出し合っていたという。本膳料理武家に出す当時の最も豪勢な食事で、町民は食べることはなかった。谷館長は「上方の食を江戸のお役人に見せてやろうという町民の心意気だ。現代にも続くおもてなしの心ともいえる」と捉える。
■観光客に提供も
 資料をもとに料理を作ったのは、谷館長から依頼を受けた日本料理「かこみ」(同市北区)の店主、栫山(かこいやま)一希さん(34)だ。見つかった献立表は秋のものだったため、文献をあたって当時の初春の食材を調べ、秋にも出されていたタイや伊勢エビ、ハモなどを使って献立をアレンジした。また、現代の調理器具は使わず、「浜焼」と書かれたメニューは簡単に火をつけられるわらを使うなどできるだけ当時の調理法を再現することにこだわった。
(中略)
 谷館長は「今後、料亭とも連携するなどして、地元の人や観光客にも再現した本膳料理を提供できるような方法も考えていきたい」としている。
本膳料理
 武家儀礼食として室町時代に始まり江戸時代に発達。日本料理の中で最も格の高い形式だったが、次第に簡略化された「会席料理」が台頭し、明治以降に衰退した。1人分の料理をいくつもの膳に載せ、一斉に客の前に並べる。

https://www.sankeibiz.jp/compliance/news/171013/cpd1710132312015-n1.htm
フジサンケイビジネスアイ『壬生藩主・鳥居家の献立再現 江戸の雰囲気で観光客おもてなし 栃木 』(松沢真美)
 江戸時代の壬生藩主、鳥居家の「献立帳」を基に地元産の野菜などを使って当時の料理を再現するプロジェクトがスタートした。「蘭学の街・壬生」をイメージした料理など江戸時代の雰囲気で観光客らをもてなし、町をPRしていく。
 町内の商店主らがまちづくりについて話し合う「壬生まちなか創生ワーキング」(水井正行会長)の提言を受けて、みぶブランド推進協議会(桜井康雄会長)が取り組む。献立帳を参考に料理研究家や地元の飲食店と共同開発する予定で、新たなメニュー作りに取り組む協力店を募集している。
 鳥居家の「御献立帳」には、4代壬生藩主の鳥居忠てるが治めていた文化2(1805)年7月1〜29日のメニューが詳細に記されている。旧家、岡田家が運営する岡田記念館(栃木市嘉右衛門町)に保存されていた。
 7月1日の献立によれば、「朝御膳」は「茄子、きくらげ、春きく、薄葛引、御汁、味噌漬大根、御飯二椀」、「夕御膳」は「丸豆腐、葛溜りすりしょうが、御汁、三年漬大根、御飯二椀」、「御夜食」は「鮎塩振焼、御飯二椀、味噌漬大根」と記されている。
 このほか、特産のかんぴょうを使ったあんかけや炒め物など現在でも一般家庭で食べられているような食材で、ヘルシーなメニューがほとんど。同協議会では「町自慢の食材を用いて、町内外に誇れる鳥居家の料理を作りたい」と話している。
 協力店募集は13日まで。来年2月まで勉強会や試作研究会を実施し、3月には献立を完成させる予定。料理の発表に合わせて、大名弁当付きの町歩きツアーなども計画している。

https://toyokeizai.net/articles/-/224317
東洋経済オンライン『二条城が「半世紀ぶりの集客」に成功したワケ』デービッド・アトキンソン*21
 2012(平成24)年度の二条城の収入は9億200万円にとどまっていました。それが2014(平成26)年度に10億円を突破するやいなやグングンと伸び、2017(平成29)年度は14億4000万円に達すると見込まれています。この数字は、前年度比2億7000円、実に23.6%の増加です。
(中略)
 二条城の観光施設としての魅力アップのために、まず取り組まれたのが、御殿などの整備でした。具体的には、2016(平成28)年10月から翌年3月までの間に、二の丸御殿内85カ所、屋外307カ所に新しい多言語による解説案内板が設置されました。
 また、パンフレットも大幅に刷新されました。それまでも日本語のパンフレットのほか、英語・中国語(簡体字)・韓国語(ハングル文字)の3つの外国語が一冊に書かれたものがありましたが、内容的には決して褒められたものではありませんでした。
 現在、二条城の入城者の6割以上が外国人です。彼らはもちろん日本人に比べて、日本の歴史や文化に関して深い知識を持っているわけではありません。このことを鑑みると、外国語パンフレットの拡充は急務でした。
 そこでまず取り組んだのが、言語別パンフレットの作成です。これまで、外国人向けのパンフレットは一種類で、3つの言語で説明がされていたため、一つの言語で説明されている内容が少なくなってしまっていました。これを改めることにしたのです。
 それに加えて、内容を一新するべく、歴史的背景の説明が充実されました。たとえば、あまり日本の歴史に詳しくない外国人観光客向けに、そもそも「将軍」とは何者なのかといった初歩的な説明を加えました。そのほか(ボーガス注:二条城において将軍・徳川慶喜によって発表された)大政奉還後水尾天皇の(ボーガス注:二条城への)行幸など、二条城とはどういう歴史をたどってきたお城なのか、わかりやすく理解できるようにしたのです。また、お城にある各部屋の説明も、使われ方や壁画の題材の意味などが、より多面的な視野から理解できるように変更されました。
 2016(平成28)年12月1日に作られた日本語版を皮切りに、6種類の外国語版(英、繁*22、簡*23、ハングル、仏*24、西*25)が2017(平成29)年4月1日までに作られました。今年7月1日にはドイツ語も登場する予定なので、外国語版だけで7種類になります。
(中略)
 他にも、訪問者の利便性を高めるための対策も実施されました。二条城の城内はほとんど砂利が敷かれており歩きにくく、また、二の丸御殿には、ベビーカーやキャリーバッグが持ち込めません。そこで、従来からあったコインロッカーに加えて、2018年2月から入り口付近に手荷物預かり所を設置し、サービスを開始しました。ちなみに一個300円です。また、車いすにもやさしく歩きやすくするため、砂利道の改善も計画されています。
 さらに、来城者が来やすいように昨年には開城時間も延長しました。通常は開城が8:45で17:00閉城なのですが、昨年は7〜8月の2カ月は開城を7時に繰り上げ。今年は期間を延長して7月から9月まで開城時間を8時とし、さらに閉城時間を7〜8月は19:00に延長することが決まっています。
 また、「非公開の香雲亭で、綺麗な日本庭園を見ながら食べられる朝ごはん」として話題になった朝食サービスも始めました。これは通年のサービスではなく、去年は7月と8月のみの期間限定でした。京都の夏は、昼間は大変暑いのですが、朝は比較的涼しいという特徴を生かした企画です。
(中略)
 このように二条城では、観光施設としての魅力度アップのためにさまざまな改革を実施してきました。その背景には、このような改革を実施してでも、入城者を増やし、何よりも収入を増やさなくてはいけなかったという事情があります。
 日本にある文化財は、日本人すべての尊い財産であり、次の世代につなげていくべきものです。これら文化財の維持管理には当然ですが、おカネが大変かかります。今、日本は社会保障の負担がどんどん増え、いろいろな分野の予算が削られているという実態があります。文化財の維持管理に充てられる予算も潤沢にあるわけではないのです。
 つまり、維持管理のための費用を、文化財自身が自ら稼ぎ出さなくてはいけない時代を迎えてしまっているのです。
 こういう話をすると、「文化財とはそういう下世話なものではない」「文化財をビジネスに利用しようとするなんてとんでもない」などの反対意見や、批判の声をあげる人が必ず出てきます。実際、委員会でもそういう意見が出ることがありました。
 しかしそういう人は、日本が直面している「予算の逼迫」という厳しい現実が理解できていないのです。過去の余裕があった時代が終わっていることがわからず、非現実的な理想論を振りかざしているだけだと思います。
 文化財の魅力を高めて、増えた収入をその文化財そのものの保存のために利用する。これこそが文化財の魅力をアップさせ、稼げる施設にすることの目的です。

 小生も「文化財の活用で稼ぐこと」を全否定はしません。「稼ぐこと」ができ、「弊害はあまりない」のであれば稼げばよい。アトキンソン氏が紹介する二条城の工夫も大変いいと思う。
 ただし文化財の価値は「稼ぐこと」にはない。それでは「週刊少年ジャンプの方が中公新書より売れてるから価値がある」「AKB48宝塚歌劇団の方が文楽や能狂言より(以下略)」ことになりかねません。橋下の「文楽は稼ぐ努力が足りない」暴言と全く一緒になる。
 すべての文化財において「稼げる」と考えるのは非現実的でしょう。
 たとえば平和資料館や人権博物館のような「必ずしも見て楽しくない日本の戦争加害(例:南京事件慰安婦)や被害(例:東京大空襲)」の展示で稼げるのか。
 一定の税金投入は不可避でしょう。
 「いろいろな分野の予算が削られているという実態」と言いますが一方では例えば、安倍政権における「異常な軍事費の拡大(例:イージス・アショア導入計画)」がある。
 それをアトキンソン氏のように「きれいごと」の一言で片付けられてはたまらない。
 「皇室は何で皇居貸出で稼がないの?。なんで多額の税金が投入されてるの?」「何で自衛隊は稼がないの?。なんで多額の(以下略)(もちろん皮肉で書いてます)」なんていったら多分こういう方は怒り出すでしょうし。
 そもそも

二条城の入城者の6割以上が外国人です(ボーガス注:つまりは日本人は4割以下)

というアトキンソン氏の文章自体が彼の主張の限界を示しています。
 二条城の魅力は現代日本においては結局「外国人にとってのエキゾチックな魅力」という要素が大きい。多くの日本人にとってそれほどの魅力でもない。
 で、ここからはアトキンソン氏とも歴史評論掲載論文とも関係ない話ですが「増加した外国人観光客のかなりの部分」は「中国人観光客」でしょう。もちろん「中国人観光客万々歳」は「二条城観光」「京都観光」限定ではなくほかの観光地とて同じです。
  id:Mukkeさんの名言「ノルウェーに霞を食えとは言えない」が見事に「日本観光業界」には成り立つわけです。「日中友好万々歳」と書いておきましょう(もちろん皮肉、嫌み)。

*1:東京大学名誉教授。著書『近世巨大都市の社会構造』(1991年、東京大学出版会)、『近世都市社会の身分構造』(1998年、東京大学出版会)、『巨大城下町江戸の分節構造』(2000年、山川出版社)、『身分的周縁と社会=文化構造』(2003年、部落問題研究所)、『21世紀の「江戸」』(2004年、山川出版社日本史リブレット)、『成熟する江戸』(2009年、講談社学術文庫)、『伝統都市・江戸』(2012年、東京大学出版会)、『地域史の方法と実践』(2015年、校倉書房)、『都市 江戸に生きる』(2015年、岩波新書)、『山里清内路の社会構造:近世から現代へ』(編著、2018年、山川出版社)など

*2:公式サイトhttps://www.city.iida.lg.jp/soshiki/39/

*3:一橋大学名誉教授。著書『近代農民運動と支配体制:一九二〇年代岐阜県西濃地方の農村をめぐって』(1985年、柏書房)、『戦時日本農村社会の研究』(1999年、東京大学出版会)、『戦間期の日本農村社会:農民運動と産業組合』(2005年、日本経済評論社)など

*4:東北大学名誉教授。2004年〜2006年「平泉の文化遺産世界遺産登録推薦書作成委員会委員。奥州藤原氏を取り上げたNHK大河ドラマ炎立つ』(1993年7月〜1994年3月)歴史監修者。現在、一関市博物館館長。著書『百姓申状と起請文の世界』(1986年、東京大学出版会)、『中世武士団の自己認識』(1998年、三弥井書店)、『都市平泉の遺産』(2003年、山川出版社日本史リブレット)、『北日本中世社会史論』(2005年、吉川弘文館)、『平泉の政治と仏教』(2013年、高志書院)、『藤原清衡:平泉に浄土を創った男の世界戦略』(2014年、ホーム社)、『藤原秀衡義経を大将軍として国務せしむべし』(2016年、ミネルヴァ日本評伝選)など

*5:公式サイトhttps://www.city.ichinoseki.iwate.jp/museum/

*6:葛飾区産業観光部観光課主査学芸員立正大学明治大学國學院大學和洋女子大学兼任講師。著書『東京下町に眠る戦国の城・葛西城』(2009年、新泉社)、『江戸東京の下町と考古学:地域考古学のすすめ』(2016年、雄山閣)、『東京下町の開発と景観 古代編』(2018年、雄山閣

*7:公式サイトhttp://www.museum.city.katsushika.lg.jp/

*8:淑徳大学教授。著書『日本古代の王権と山野河海』(2009年、吉川弘文館)、『古代王権と出雲』(2014年、同成社

*9:公式サイトhttps://www.pref.shimane.lg.jp/bunkazai/kodaisen.html

*10:公式サイトhttps://www.izm.ed.jp/

*11:公式サイトhttp://www.izumo-imaichi.org/

*12:出雲国風土記』、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』のこと

*13:宮城学院女子大学教授。著書『聖徳太子』(2014年、山川出版社日本史リブレット人)

*14:東北大学災害科学国際研究所助教を経て国立歴史民俗博物館歴史研究部特任准教授。著書『記憶が歴史資料になるとき:遠藤家文書と歴史資料保全』(2016年、蕃山房)

*15:朝日新聞に勤務する傍ら、歴史研究に従事。新聞社では、主に学芸畑を歩む。國學院大学非常勤講師。著書『虚妄の三国同盟:発掘・日米開戦前夜外交秘史』(2013年、岩波書店)、『GHQ特命捜査ファイル 軍事機密費』(2018年、岩波書店

*16:橘周太・陸軍少佐(死後、中佐に昇進)のこと。日露戦争における遼陽の戦いで戦死し、以後軍神として尊崇された。

*17:千葉監獄、金沢監獄、奈良監獄、長崎監獄、鹿児島監獄のこと

*18:東京芸術大学名誉教授。元東京芸術大学学長

*19:著書『安藤昌益からみえる日本近世』(2004年、東京大学出版会)、『近世の政治思想論:「太平記評判秘伝理尽鈔」と安藤昌益』(2012年、校倉書房)、『「太平記読み」の時代:近世政治思想史の構想』(2012年、平凡社ライブラリー)など

*20:大阪市立大学名誉教授。著書『中井家大工支配の研究』(1992年、思文閣出版)など

*21:著書『新・観光立国論』(2015年、東洋経済新報社)など

*22:中国語(繁体字)のこと。台湾がターゲットと思われる

*23:中国語(簡体字)のこと。中国がターゲットと思われる。

*24:フランス語のこと

*25:スペイン語のこと