新刊紹介:「歴史評論」12月号(その3:古賀精里の思想世界とロシア認識)

http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20181120/5210278609の続き。
■風聞と紛争:古賀精里の思想世界とロシア認識(清水光明)
(内容紹介)
 江戸時代の儒学者・古賀精里(1750〜1817年)のロシア認識の変化が取り上げられている。
1)1791年時点
 儒学者・中井竹山(大坂の学問所・懐徳堂の四代目学主)から「ロシアの李氏朝鮮侵攻の噂」についてどう思うか聞かれた精里は「ロシアは遅れた国でありそのようなことはありえない」と回答している。ただしこの時点での精里のロシア認識は彼がロシアについて詳しい知識を持っていたわけではなく「江戸時代の一般的なロシア認識」であった。その後、『海国兵談』『三国通覧図説』などでロシアの脅威を訴える林子平が「流言を流し世を惑わした」という理由で処罰されることによって「ロシア脅威論はただの風説に過ぎない」という精里の認識は強化された。
2)1792年時点
 ラクスマンが通商を求めて日本に来航したことから「朝鮮侵攻は風説に過ぎなかったが、ロシアの脅威はあながち事実無根ではないのではないか」と考えが修正される。しかしこの時点ではラクスマン来航が武力行使などを伴わなかったこともありロシア認識はそれほど厳しいものではない。
3)1806年時点
 いわゆるフヴォストフ事件の発生により、ロシアに対する見方は厳しくなる。日本政府に対し「海防に力を入れる」などの政策変更が必要ではないかと考えるに至る。

参考
【幕末期のロシア】

■文化露寇(ウィキペディア参照)
 文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシアから日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名「文化露寇」は日本の元号「文化」に由来し、ロシア側からは事件をおこした人名「フヴォストフ」からフヴォストフ事件とも呼ばれる。
■概要
 ロシアは1792年、アダム・ラクスマン根室に派遣し、日本との通商を要求したが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず、通商要求に対しては長崎への廻航を指示、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)を交付した。
 文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り、また、日本への報復を計画し、樺太択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、文化3年(1806年)には樺太松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行を司令官に、津軽藩南部藩庄内藩久保田藩秋田藩)から約3,000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。しかし、これらレザノフの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。
■影響
 この事件は1811年のゴローニン事件の原因となった。さらに、この事件は平田篤胤国学を志すきっかけとなったともいわれている。

■ゴローニン事件(ウィキペディア参照)
 1811年(文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが、国後島松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドと、彼に拿捕され、カムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。ゴローニンが帰国後に執筆した『日本幽囚記』(邦訳、岩波文庫)により広く知られる。
■事件解決
 嘉兵衛はゴローニンが捕縛されたのは、フヴォストフ事件が原因で、日本政府へ事件の謝罪文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した。
 幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフボォストフ事件について謝罪すればゴローニンを釈放することとした。これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴローニンに翻訳させ、ロシア船の来航に備えた。この幕府の事件解決方針は、まさに嘉兵衛の予想と合致するものだった。
 1813年(文化10年)5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号で国後島に向かった。しかしながらリコルドが日本側に提出した謝罪文は、リコルドが嘉兵衛を拿捕した当人であったという理由から幕府が採用するところとならず、リコルドは他のロシア政府高官による公式の釈明書を提出するよう求められた。
 日本側の要求を承諾したリコルドは、6月24日、釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発。一方、8月13日にゴローニンらは牢から出され、引渡地である箱館へ移送された。
 リコルドはオホーツクに入港すると、イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を入手。9月16日夜に箱館に到着した。9月18日朝、嘉兵衛がディアナ号を訪問、リコルドはオホーツク長官の釈明書を手渡した。
 松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、9月26日にゴローニンらを解放したが、通商開始については拒絶した。

 まあ「話が完全に脱線しますが」、「北朝鮮拉致」とは「時代状況が全然違うから単純比較できない」とはいえ「日本許せねえ、ゴローニンを軍事力で取り戻す(ロシア)」「ロシア許せねえ、高田屋を(以下略)(江戸幕府)」とかならないわけです。
 結局、こういうのは交渉で取り戻すのが一番現実的なわけです。


【古賀家三代&幕末の佐賀藩

https://shutsumondou.sagafan.jp/e18952.html
■出門堂『枝吉神陽*1が会った人々1 古賀侗庵』
 枝吉神陽は幕末佐賀藩勤王運動の首魁です。神陽と出会った当時の名士たちは、現在かならずしも著名ではありません。しかし、顕彰されるに足りない人物たちかといえば、まったくそうではありません。
 まずは、枝吉神陽天保15年9月10日に昌平坂学問書書生寮に入寮したころ以降の交友の痕跡を小社刊『枝吉神陽先生遺稿』(龍造寺八幡宮楠神社編)を参考に追ってみます。
 まず、第1番目は、古賀侗庵です。
 「丁未九日」という神陽の詩の注に、「甲辰重陽。陪侗庵先生。牟田口先生。于桜田藩邸。」とあります。甲辰つまり天保15年(1884)の重陽(9月9日)に古賀侗庵にしたがって桜田藩邸を訪れているということです。神陽23歳、古賀侗庵はこのとき57歳です。
 『佐賀県歴史人名事典』(洋学堂書店、1993復刻)によると、
「名は莘、通称は小太郎、侗菴と号す。古賀精里の第三子なり。天明八年を以て生る。寛政年間父精里選ばれて幕府に仕ふるや、之に従って江戸に赴く。刻苦勉励学大に揚る。文化六年擢んでられて儒官となり、父子駢番同じく学政を董す。世以て異数となす。弘化四年病を以て終る。享年六十。」
とあります。古賀精里ですら現在知る人が少ないのは残念です。さらに知られていない侗庵は、さまざまな面で父精里を遥かに凌ぐ江戸時代を代表する知識人で、幕末維新を考える上で、もっと注目される必要がある人物だと思います。ペリーが来航する半世紀も前に幕府の中枢で開国論をとなえたことも、この父子の注目すべき点です。詳しくは、この春小社より刊行予定の肥前佐賀文庫003をお待ちください。

https://shutsumondou.sagafan.jp/e27908.html
■出門堂『新刊のお知らせです』
肥前佐賀文庫003『早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵』がまもなく発刊となります。
・古賀精里は佐賀藩弘道館の初代校長となり、のちに昌平坂学問所(昌平黌)という幕府の学校の教授となる異例の経歴を辿りました。
 息子の侗庵は父精里と共に佐賀から江戸に移り、同じく昌平黌の教授となりました。
 親子二代で昌平黌の先生という例はほかにはなかったようです。
 現在の学校の教科書にはページの隅に「(注)」でしか取り上げられていない精里・侗庵親子ですが、彼らが幕府の中枢にありながら、ペリーが浦賀にやって来る半世紀も前に進歩的で綿密な外交論を唱えていたことが本書には紹介されています。彼らの先進的な考え方が幕末の日本にどれだけ大きな影響をあたえたか、再認識されるべきだと思います。

https://shutsumondou.sagafan.jp/e35729.html
■出門堂『古賀精里・侗庵が佐賀新聞有明抄に』
 (ボーガス注:2008年)7月28日の佐賀新聞有明抄」で梅澤秀夫著『早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵』(出門堂)が取り上げられました。
 ことし第一陣となる北方領土墓参団から話が起こされています。そして、

 江戸時代、この北方領土へのロシアの脅威にどう対処するかを幕府に進言したのが、佐賀出身の朱子学者古賀精里・侗庵親子だった。清泉女子大学教授梅澤秀夫さんが書いた「早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵」(出門堂)を読むと、二人の先見性がよく分かる。

と紹介されています。また、

 十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、ロシアはシベリアを征服し、カムチャッカ半島から千島列島へ南下。レザノフが長崎に来て開港を迫った。精里はロシアの要求に対する想定問答集を作っている。それは和親と威嚇を両にらみした、知略に富んだものだった。
 何が何でも外国人を実力排斥しようとする感情論が高まる中、冷静で合理的なものの見方をした古賀親子の存在をあらためて見直したい。

と述べられています。
 なぜいま、古賀精里・侗庵父子について出版すべきなのか、という小社の企図の一端を代弁していただいたようにさえ思えました。

https://shutsumondou.sagafan.jp/e40774.html
■出門堂『第一級の知識人 古賀精里・侗庵』
 (ボーガス注:2008年)8月23日付の佐賀新聞紙上で、小社の新刊『早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵』(梅澤秀夫著)が紹介されました。
 記事には次のようにあります。

 高校の歴史教科書にもほとんど出ることがない二人だが、著者の梅澤教授は「歴史をきちんと理解するためには、昔の人の精神世界に踏み込んだ思想史の分野を知ることが必要」と、執筆の動機をあとがきで述べている。偉業を後世に語り継ぐ役割だけでなく、日本人の思想を理解するうえで重要な一冊となっている。

 戦前までは、江戸時代屈指の知識人として著名であった古賀精里・侗庵父子ですが、この半世紀ほどの間に教科書に載っても小さく扱われる程度となり、その名を知る人もすっかり減ってしまったようです。半世紀という時間にどのような変化が起こっているのでしょう。
 古賀精里・侗庵は、二代にわたり江戸の昌平坂学問所で教授を務めた佐賀藩出身の儒学者です。ペリー来航以降、日本における海外への意識が高まったことは知られていますが、その半世紀も前に日本にとって外交や海防がいかに重要であるかということを説いています。すでにこのころ対ロシア政策などを具体的に論じています。
 「半世紀」とは、私たちを取り巻く環境を大きく変えうる歳月かもしれません。それでも彼らの考えたことを現在こうして知ることができるのは、先人たちがそれを語り継ぎ、遺してきたことの証しでもあります。
 この『早すぎた幕府御儒者の外交論 古賀精里・侗庵』をはじめとして、肥前佐賀文庫では長期のビジョンで読者の方々に問題提起ができればと希っております。

http://www.shutsumondou.jp/ijin/ijin11.html
■出門堂『偉人図書館第11回:幕末維新から現代へ』
■列伝・日本近代史:伊達宗城*2から岸信介*3まで
著者: 楠精一郎*4
出版社:朝日選書(朝日新聞社
出版年月日:2000年刊
 第4回でもふれた古賀どう庵は、幕府の学者として名高い佐賀藩出身の古賀精里の三男です。鍋島直正*5の教育係で直正の改革の指導者であった古賀穀堂の弟でもあります。佐賀藩の海外への意識の背景には古賀父子の影響があったことはもっと注目されるべきでしょう。
 本書は、

 アヘン戦争の直前、まだ東アジアの国際環境の変化が一般に感知されない時期に著わされた『海防臆測』(一八三八・九年)がそれである。……海軍を創設して実地に訓練し、あわせて貿易の利益を「富国の資」にあてるためである。海軍の重要性は当時海防論者の共通認識となっていたが、彼はこれを大胆にも海外への進出に結び付けたのである。どう庵はまた、打払令が西洋に侵略の口実を与えることを恐れてその撤廃を説き、さらにオランダの情報を補正するため長崎貿易に西洋主要国を追加することも提唱した。……

と、どう庵の積極的開国論を解説したあと、

 海外進出論はどう庵の独創ではない。海外渡航の禁に抵触するため、公には発言できず、今日残されている論策も少ないが、本多利明や佐藤信淵など、先行者がいないわけではない。ただ、彼の海外進出論は、本多や佐藤のようなユートピア的な願望ではなく、極めて実際的な政策として考えられた点に特色があった。

と、評価しています。そして、『海防臆測』には「西洋諸国の侵略に直面した国々の運命に関心」が集められていることを指摘しています。おそらく、ここには近代日本を呪縛する西欧列強からの侵略への恐怖が確実に芽生えはじめていたように思えます。
 本書にはどう庵の長男・古賀謹一郎*6も登場します。1853年、ロシアのプチャーチンが日本との国交を求めて長崎沖に現われたとき、幕府が交渉に派遣した応接使の一人が謹一郎でした。

 古賀はどう庵の長男で、オランダ語も学んでおり、対外策諮問に対しては、日本側から外国へ使節を派遣し、いずれは渡海による交易をはじめるべきであると上書していた。

と父の考えを実践するような謹一郎の働きが述べられています。

http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/09.html
国立公文書館『海防臆測』
 異国船の来航とアへン戦争の衝撃は、攘夷の風潮を促し、海防強化の緊急性を認識させると同時に、さまざまな知識人にそれぞれの対応策を考案させました。
 幕府の従来の外交方針に疑問を抱いたのは、蘭学者や攘夷思想家たちばかりではありません。「寛政の三博士*7」の一人古賀精里(こがせいり)の三男で幕府の儒者を務めた古賀侗庵(こがどうあん 名は莘(いく)。1788-1847)もまた、渡辺崋山*8とや高野長英らとの交際を通じて知見を深め、独自の開国論を展開しています。
 『海防臆測』で侗庵は、国土が狭いイギリスが、海軍力によって世界の強国になりアジアの大国清を蹂躙した事実に注目し、イギリスを範とし清国を反面教師にせよと論じています。またキリスト教を恐れるあまり鎖国政策を続けるのは時代遅れで、日本はむしろ海軍力を強化して積極的に海外に乗り出し、貿易で国を富ますべきであるとも述べています。天保9年(1838)成立。全2冊。

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/164905
佐賀新聞『好生館シンポ・磯田氏講演「教育史上の事件だった」』
 「第2回鍋島直正公記念好生館シンポジウム」が12月2日、佐賀市ホテルニューオータニ佐賀で開かれた。第1部では、国際日本文化研究センター磯田道史*9准教授が「幕末維新と佐賀藩」と題し講演。
■磯田
 古賀精里ら古賀家三代の成果は大きい。蘭学を開くきっかけをつくった(ボーガス注:精里の子)穀堂。(ボーガス注:穀堂の)弟のどう庵は日本外交の政策を立案し、どう庵の子謹一郎はロシアと外交をやっていた。実は江戸幕府がある程度現実的な外交ができたのは、古賀家のせいだとされている。
 古賀どう庵の門下から出た佐野常民*10、僕は大好き。佐賀藩はアームストロング砲を造ったけれども、同時に赤十字もつくった。そこに歴史の救いと人間の二面性を感じる。日本を植民地化されないためにアームストロング砲が佐賀で造られたが、戦いの悲惨さについてアームストロング砲を造った常民本人が考えていたことに、僕は感心している。

 佐賀新聞なので「佐賀万歳」なのは割り引くべきでしょうが、まあ「薩長土肥」ですからねえ。明治維新において佐賀も重要な存在です。我々どうしても「長州の木戸孝允」「薩摩の大久保、西郷」に目が向きますけど。

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/163037
佐賀新聞『さが維新前夜(51)インタビュー 転換点への視座(3)』立命館大助教・奈良勝司
■奈良
 佐賀藩の藩政改革を提言した古賀穀堂の弟で、父精里、息子茶渓*11とともに幕府の昌平坂学問所の儒官を務めた古賀どう庵を研究している。
 どう庵は昌平坂学問所の最高幹部の一人として19世紀前半、強い影響力を持った。彼の主張の特徴は国家間の優劣を否定したこと。多くの儒者は日本優越主義だったが、彼は違った。西洋を認め、中国の自国中心主義を批判しつつ、日本も対等だと考えた。
 昌平坂学問所でどう庵らの教えを受けた幕府官僚を「積極開国派」と呼んでいる。彼らは攘夷派が反対した通商条約の締結に積極的だった。強大な軍事力を持っていても、発動するには条約違反という最低限の大義が必要なことを理解し、国際政治は暴力と契約の両輪で成り立つと考えた。唐津藩主名代を務め、幕閣にあった小笠原長行*12(ながみち)が生麦事件の賠償金を独断で支払ったのも、「約束を守らないと世界の信用を失う」という同様の思想に基づく。
■記者
 儒学は保守的で、前近代的だというイメージを抱く現代人は多い。
■奈良
 儒学には2本の柱がある。一つは主従関係や道徳を重視する「忠」や「孝」。もう一つは極めて合理主義的な側面で、森羅万象を理(ことわり)で筋道を立てて説明していく。西洋科学が伝わる以前には科学の役割も果たしていた。この儒学を進化させたのが古賀家3代であり、当時を代表する蔵書家だったどう庵は膨大な情報に基づいて情勢判断や世界観を更新していった。
■記者
 江戸時代の日本を「自己完結の世界」と表現している。
■奈良
 江戸時代の日本は、明治時代と同じような「国」だったとイメージされている。だが、近世は国というより一つの「世界」だった。外国の知識はあったが、その存在を考えずに暮らしていけた。他者(他国)を認識して初めて、自己(自国)とは何かが問われる。
 だから日本という国が、外国といかに付き合うかという発想自体がなかった。ペリー来航などによって初めて国としての振る舞いが求められ、これまでの「世界」を守るか、「国」をつくるかの選択を迫られた。
■記者
 倒幕派の研究が中心になっている幕末政治史の中で、徳川政権に注目した。
■奈良
 徳川政権の研究には「鏡」としての意味がある。維新政権そのものを対象にするだけでは大きな構造は見えてこない。自己完結の世界を国家に変えようとしたどう庵らの提案を拒絶した点から、逆に維新政権の特徴が明らかになる。
■記者
 結果的に(ボーガス注:幕府の)積極開国派は(ボーガス注:薩長に)敗れ、国家間の約束である「契約」という車輪を欠いたまま明治を迎えた。その後の対外関係にどんな影響を与えたのか。
■奈良
 契約が信じられないまま開国すると、軍備強化でしか安心を取り戻せなくなる。維新政権をつくった人々の危機感は急速な近代化の原動力にもなったが、「やらなきゃやられる」という感覚が他国より強くなってしまった。
 自己完結の世界を清算することができず、外国を潜在的な仮想敵国として見る傾向が強くなった。その影響は第2次世界大戦にも及んだ。暴力という不安定な車輪を回転させ続けなければならない不安を抱え、東アジア全体を巻き込んだ対外膨張主義に発展した。
 どう庵は世界の全てを差配することはできないという、諦念とも呼べる意識を内在させていた。だが、今の日本人には、日本列島が「世界」だという感覚がまだ残っている。自国を特別視しなくてもアイデンティティーや自尊心は保てるということを、私たちはどう庵から学ぶべきだ。
■奈良勝次(なら・かつじ)
 1977年生まれ。立命館大文学部卒、同大大学院博士課程後期課程単位取得退学。2015年から現職。明治維新史、19世紀東アジア史が専門で、主に幕末期の徳川政権の政治過程を研究する。著書に『明治維新と世界認識体系:幕末の徳川政権 信義と征夷のあいだ』*13など。京都市在住。

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/131056
佐賀新聞『さが維新前夜(39) 生麦事件小笠原長行
 文久2年(1862)年8月、江戸を出発した薩摩藩島津久光の一行は、生麦村(現在の横浜市鶴見区)に差し掛かったところで、馬に乗った英国人4人と行き会う。
 道幅は狭く、馬は行列の中に入り込んでしまう。英国人は乗馬や観光を楽しんでいただけとされるが、藩士から見れば、主君に近づいてくる不審者に映ったのだろう。数人が抜刀し、4人のうち1人を斬殺した。ほかの英国人は命からがら、米国領事館があった本覚寺などに逃げ込んだ。
 「生麦事件」と呼ばれるこの惨事は外交問題に発展する。英国は翌年2月、横浜に入港した英仏蘭米の4カ国艦隊で圧力をかけながら、謝罪と賠償金10万ポンドの支払いを幕府に要求した。
 このとき、攘夷を主張する朝廷から支払いを拒否するように求められ、対応に苦慮した幕府が京から呼び寄せたのが、老中格小笠原長行(ながみち)だった。
 長行は、安政5(1858)年から3年間、唐津藩主名代を務めた後、江戸に参府した。生麦事件が起きる1カ月前に要職の奏者番に任命された後、数カ月の間に若年寄老中格と出世し、外交責任者である外国御用掛(ごようがかり)も任されていた。
 長行を交えて始まった評議では意見が対立した。
 「英国の要求は理も言葉も正しく、これに応じなければならない」
 「賠償金の請求は侮辱であり、断じて支払うべきではない。戦争あるのみ」
 賠償金を支払う意見が次第に大勢を占め、文久3年(1863)年4月には、同意する旨を英国側にいったんは伝えた。しかし、支払いに反対する将軍後見職一橋慶喜が京から江戸に戻ることが決まると、再び紛糾する。拒否すべきという声が続出し、期限前日の5月2日に支払いを中止せざるを得なくなった。
 話し合いでの解決を断念した長行は、独断で賠償金を支払う決意を固める。
 「この場にいたって約束を反故にするならば、不信不義、これより甚(はなは)だしきはない」
 長行は船で横浜に向かい、5月9日に10万ポンド全額を英国公使館に運ばせた。
 この決断には、幕府が朝廷に対し、強硬的な攘夷実行を期限を切って約束していたことも大きく影響していた。
 久光が京を離れている間に、通商条約を破棄する「破約攘夷」に藩論を転換した長州藩が巻き返し、朝廷は幕府に攘夷実行を要求した。3月に上京した将軍徳川家茂(いえもち)は、5月10日を実行の期限とすることを約束させられた。長行は英国との戦闘を避けるため、期限までの解決にこだわった。
 長行は、幕府の中で積極的な開国論に立つ官僚グループの指導的立場にあった。生麦事件の賠償金支払いを主導した長行らは、現実の対外関係や列国の軍事力を無視した攘夷論に反発する。長州系の攘夷派が牛耳る京の勢力図を塗り替えようと、率兵上京まで計画した。
 千数百人の軍勢を乗せた船は5月下旬、横浜を出発。大阪に上陸して京に向かったが、制止する幕府の使者が相次いだため、手前の淀で足止めされた。結局、長行が大阪に引き返し、計画は不発に終わった。
 計画中止を求める家茂の親書が届いたことで、長行は入京断念を決意した。配下の官僚たちは激高して計画を強行しようとしたが、長行は「涙をのんで思いとどまらざるを得なかった」(田辺太一著『幕末外交談』*14)という。
 長行が主導した率兵上京計画について、立命館大学文学部の奈良勝司助教(40)=明治維新史=はこう指摘する。
「攘夷を断念するように将軍や幕閣を説得することが目的だったが、攘夷派との武力衝突の覚悟も持っていた。クーデターとも呼べるものだったが、土壇場で将軍との君臣関係に重きを置いた」
 長行は職を免じられたが、賠償金支払いを決めた決断力と、将軍への忠節を貫いた姿勢が周囲の評価を高め、後に再び政治の舞台に登場することになる。
■古賀どう庵の薫陶
 小笠原長行とともに生麦事件の解決に尽力し、その後の率兵上京を計画した官僚グループ。彼らに多大な影響を与えたのは、幕府の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」で教えた古賀どう庵だった。
 どう庵は、佐賀藩の教育改革を献策して鍋島直正の教育係を務めた古賀穀堂の弟で、「寛政の三博士」と呼ばれた父親の精里と同様に昌平黌の儒官になった。
 開国や西洋の科学技術の導入を説いた『海防臆測(おくそく)』を著したどう庵の薫陶を受けた昌平黌の者たちは、幕府の対外関係部局で重要な地位を占めた。
 開国し、条約など国家間の約束事に基づいて対等な関係を築こうという彼らの思想について、立命館大の奈良勝司助教は「規範性と柔軟性を両立させた革新的な対外姿勢だった」と評価する。

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/206801
佐賀新聞明治維新唐津藩(1)佐幕派か否か:長国、起死回生の一手』(黒田裕一・唐津市教育委員会唐津市明治維新150年事業推進室推進係長)
 今でも唐津では「唐津藩佐幕派だから、明治維新とは関係なかろうもん」という声をよく聞きます。ところが真実は違いました。
 小笠原長行が幕府の老中を勤めていたため、当初唐津藩は徳川方と考えられていました。慶応4(1868)年2月、薩摩藩による唐津城攻めの噂や太政官(だじょうかん)から世子長行の切腹唐津での謹慎を要求された藩主小笠原長国は京都に上洛。謹慎する中、「朝敵御免」や「謹慎御赦免」の嘆願書を出していましたが、謹慎させるべき長行が、3月に密かに江戸から逃亡。ますます唐津藩の立場が悪くなる中、長国は起死回生の一手を打ちます。それが「御軍艦御必要之儀」として、唐津藩所持の石炭「500万斤(約3000トン)」の新政府への献上でした。
 これは戦費に乏しい新政府にとって、物資、兵員輸送を行う上でも、軍艦(蒸気船)の燃料となる石炭の献上は非常に有り難い話でした。これにより長国および唐津藩は勤王の志に二心はない、という評価をもらい、唐津藩の立場の好転に成功します。
 以後、唐津藩戊辰戦争において石炭の供出や兵庫港敦賀港などへの石炭の運搬や軍艦への配分など、後方支援を担当し活躍しました。また、長国に対して7月には新政府より、それまでの「佐渡守」から格上の「中務大輔」の官位も賜与されました。

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/244683
佐賀新聞明治維新唐津藩(4)志士・小笠原長行』(黒田裕一・唐津市教育委員会唐津市明治維新150年事業推進室推進係長)
小笠原長行。幕府最後の老中の一人として、第2次長州征伐で幕府軍の指揮を執るなど終末期の幕府を支え、北海道まで旧幕府軍と行動するなど、維新とは対極的な存在と考えられがちですが、明治期になると、日本を守った志士の一人として評価されました。
・それは長行が老中格・老中時代、「外国御用取扱」を兼任し、諸外国との外交を一手に担い、特にイギリスとの武力衝突の可能性すらあった生麦事件を解決に導いた事などが評価されたためです。明治42年に刊行された『国事鞅掌(おうしょう)報効志士人名録』には「もっぱら外交の難局に処し、よく危機を凌(しの)ぎ邦家の安泰を保ちたる功歴あり」とされています。
 長行も、諸外国の外圧から日本を守った志士の一人でした。

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/193955
佐賀新聞薩長土肥以外の視点を 郷土史見直す契機に』
 江戸時代の佐賀藩はそのまま今の佐賀県ではない。唐津市周辺は、幕府を支える譜代大名が代々統治してきた。維新150年を祝賀ムードで迎える薩長土肥とは相いれない歴史を宿している。
 その象徴的な存在が幕末に老中を務め、徳川家に忠義を尽くした小笠原長行(ながみち)。第2次長州征討で指揮を執り、賊軍となった旧幕府軍と共に蝦夷地に渡った。同行した唐津藩士24人は土方歳三率いる新撰組に入り、箱館戦争で絶命した者も。佐賀とは対照的な“敗者の維新史”が語り継がれている。
 今回、この図式だけではない見方も語られるようになった。長行の存在によって窮地に立たされた唐津藩。最後の藩主小笠原長国は、養子である長行との父子関係を絶ち、新政府に石炭3千トンを献上して藩の立場を好転させた。

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/weather_vane/article/464202/
西日本新聞『定番ドラマもいいが…』文化部次長 古賀英毅
 大河ドラマ「西郷(せご)どん」が大詰めを迎えている。力を合わせて徳川幕府を倒して新政府を樹立した面々は、国を閉ざしていた朝鮮王朝への対応*15で真っ二つに割れる。(ボーガス注:岩倉、木戸、大久保ら征韓論反対派に敗北して下野し)「敗者」となった西郷はやがて西南戦争への道*16をたどる。
 さまざまな対立関係が描かれているが、幕府側も含め、ほとんどの登場人物に共通するのは「攘夷思想」だろう。「攘」とは払い除く、「夷」とは野蛮人の意味だ。
 この場合の「夷」は欧米諸国を指す。攘夷思想を持つ人の多くは尊皇思想も併せ持ち、日本を「神州」「皇国」と呼んだ。彼らは西洋の技術力に恐怖を覚えながらも相手を格下と見なしていたようだ。
 こうした発想は、(ボーガス注:朝鮮を侵略した)豊臣秀吉の時代にも似た考えがあったといい、立命館大助教の奈良勝司さんによると、明治政府樹立後も「攘夷思想」は大半の人々に残り続けたという。
 (ボーガス注:薩長の大久保、西郷ら)外国を内心では見下しながら交易を進めようとする人たちを、奈良さんは「攘夷開国派」と呼ぶ。それは、その後の征韓論や近代のアジア進出につながりもする。
 だが、幕末期、違った考えで諸国との関係を築こうとした人々もいた。幕府の学校「昌平黌(しょうへいこう)」で佐賀出身の儒者・古賀どう庵(1788〜1847)に学んだ旗本らだ。
 儒者が持ち上げがちな中国を絶対視しない。日本を「皇国」などと呼ぶことは、中国こそが世界の中心であり他に優越していると考える中華思想と同じだと批判する。西洋諸国を「夷」とはせず個別の国名で表記して、国家は対等という世界観を示す。
 膨大な読書量を誇ったどう庵が朱子学の合理主義から導き出した結論という。
 教え子たちは外国との約束である条約を守り、政府としての信義を貫いた対等外交を目指す。それを妨げるのなら天皇や将軍も不要という考えにたどり着いた人もいた。
 しかし、1865(慶応元)年、政争に敗れて彼らの主張は後退する。天皇の権威を一つ上に置く将軍徳川慶喜も(ボーガス注:京都守護職会津藩松平容保も根本では彼らの対極にいた。薩摩も長州も同じ。以後は(ボーガス注:攘夷という)同じような対外感覚を持つ勢力間での権力の奪い合いにすぎない。
 奈良さんは著書「明治維新をとらえ直す*17」で、そう説く。
 執筆動機の一つは「近世以来の独善的・傲慢な世界観を清算し切らないまま日本が近代に突入したことを示したかった」からだそうだ。
 (ボーガス注:大河ドラマ竜馬がゆく』(1968年)、『勝海舟』(1974年)、『花神』(1977年、司馬遼太郎原作、大村益次郎が主人公)、『翔ぶが如く』(1990年、司馬遼太郎原作、大久保、西郷が主人公)、『新選組!』(2004年)、『篤姫』(2008年)、『龍馬伝』(2010年)、『八重の桜』(2013年)、『花燃ゆ』(2015年)、『西郷どん』(2018年)など)多くの幕末・維新のドラマが作られてきたが、どう庵やその教え子が中心となった物語はあっただろうか。定番もいいが、慶応元年がハイライトの話も見てみたい。

https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/ffe37a8bed5a2e3e5e3402f955b1ee29
■物語なき歴史研究は最悪な物語の台頭を許す
 『現代思想』6月臨時増刊号「明治維新の光と影」所収の論文、奈良勝司氏「明治維新論の再構築に向けて」も紹介したい。じつに興味深い内容であった。
 奈良氏の主張の骨子は以下のようなものだ。
 戦後歴史学を担った講座派マルクス主義による明治維新物語にせよ、高度経済成長を背景に影響力を持った近代化論にせよ、冷戦の終結バブル崩壊後、共に時を同じくして無力化してしまった。その後は、時期と分野が細分化された過程実証主義の歴史研究が跋扈するようになった。しかし、物語不在な歴史研究は、最悪な物語にも劣る。明治維新論は、講座派理論や近代化論に代わる、新しい物語を再構築せねばならないのだ、と。
 全く同感である。歴史研究が今のように重箱の隅をつつくだけの過程実証主義に終始しているから、最悪な物語である日本会議史観(=長州史観)の跳梁跋扈を許してしまっているのだと、私は思う。
 奈良勝司氏の著作『明治維新と世界認識体系:幕末の徳川政権 信義と征夷のあいだ』(有志舎)は名著である。
(中略)
 丸山真男は、朱子学を、封建体制を支える教学であったと規定した。丸山によれば、封建イデオロギー朱子学は時代に適合しなくなり、国学の台頭の前に敗れ去った。日本思想史における丸山の圧倒的な権威ゆえか、朱子学=封建思想という評価が定着してしまった。私もそれを信じてきた。
 それに対して奈良氏は、昌平黌で正統朱子学を身につけた徳川政権のエリート官僚の思想の中に、「近代性」の芽を見い出している。朱子学主導の近代化の可能性もあったのだ。本書を読めば、昌平黌的な朱子学主導の近代化であれば、少なくとも国学主導の明治維新などよりは、よほど良好な結果を日本にもたらしたはずと思われる。
 明治維新で権力を握った(ボーガス注:木戸孝允*18大久保利通*19西郷隆盛*20薩長の)尊攘派が持っていたのは、奈良氏の言葉によれば「攘夷型の世界認識体系」である。それは根拠のない自尊意識と他者性の欠如をもって特徴とし、自国を「神州」、外国を「夷狄」と認識する。彼らは、国家間の条約の拘束力を基本的に信頼していないので、絶えざる恐怖にさいなまれ、恐怖心の裏返しとして、ひたすら暴力による膨張志向に陥ってしまう。彼らが攘夷を捨てて開国派になったように見えたのは(ボーガス注:欧米という)当面勝てない相手には屈従したのみで、(ボーガス注:根拠のない優越心によって他者に対応するという)芯は変わっていなかった。その屈辱感からか、(ボーガス注:朝鮮など)弱いと見た相手に猛然と襲いかかるようになり、攘夷思想が対アジア侵略思想に転化されていった。かくして、(ボーガス注:1945年の敗戦という)破滅に至るまでチキンゲームを繰り返すに至った。
 本書によれば、昌平黌に君臨した古賀どう庵とその門下生たちは、西洋を「夷狄」と認めず、アジアを侵略対象とも見ず、自国を「神州」ではなく「本邦」と呼んできた。彼らは、国家間の条約の拘束力を評価しているので、軍備の充実は前提としつつも、条約を遵守し、対等な国家間関係を構築できると考えていた。昌平黌出身の徳川政権のエリート官僚たちが持っていたのは「条約遵守型の世界認識体系」だったのだ。

 まあ、このブログ記事の「主要な主張内容」には「物語なんてもんが歴史研究に必要なのか?」「いずれにせよそんなことは日本における歴史修正主義の問題とは全く関係あるまい(そもそも1945年の終戦直後から南京事件否定論などの歴史修正主義は存在した)」という意味で、全く賛同できないのですが、奈良著書の紹介として「どこまで信用できるか?」つう問題はありますが一応紹介しておきます(ググっても奈良著書の書評が他に見つからなかったので)。
 このブログ主の奈良本要約「幕府イデオローグだった古賀どう庵とその門下生たちの対中国、朝鮮認識は大久保、西郷らほど侵略的ではなく、薩長が勝利しなければより平和的な対中国、朝鮮外交があり得た」が正しい*21として奈良著書の「幕府や薩長の政治の方向性」「古賀どう庵とその門下生の社会認識」に対する評価がどこまで正しいかは無知なのでなんともいえません。個人的には「薩長が勝利せず、幕府中心の政権によっても」、明治以降の日本近代化における「西欧のアジア侵略(アメリカのフィリピン、英国のインド、フランスのベトナム、オランダのインドネシア支配など)をまねた」アジア(中国、朝鮮など)の侵略という方向性は残念ながら変わらなかったように思います。
 ただし「薩長が敗北し幕府中心の政権であれば」国家神道が誕生することはなく、それについては「日本にとって良いことだったのではないか」という気はします。そういうと明治維新万歳ウヨなんかは怒り出すのでしょうが。
 もちろん薩長だけではなく「幕府の側も改革に乗り出しており」、倒幕がなくても、幕府中心の政権が続いても何らかの近代化はされたであろうという意味では、奈良氏らが言うように「古賀どう庵のような存在」はもっと注目されてしかるべきだと思います。本当に「いつまでも薩長万歳やめてくれ(大河ドラマ)」(友蔵心の俳句)ですね。
 幕府に問題ないとはいいませんが「幕府が無能で薩長だけが有能」みたいな描き方本当にやめてほしい。それ歴史学じゃなくてただのプロパガンダでしょう。「蒋介石は無能、中国共産党有能。新中国建国は歴史の進歩」みたいな描き方と何も違わない。蒋介石に問題がないとは言いませんが、今時中国共産党ですらそういう単純な立場じゃないでしょう。
 それはともかく「大河ドラマ翔ぶが如く西郷どん)とか、佐藤栄作の明治100年、安倍晋三の明治150年とか薩長万歳にはすげえ違和感を感じる、西郷、大久保とかあいつらの対外侵略路線のせいで1945年の敗戦と違うんかい!。日中、日韓関係が今もギクシャクしてるのと違うのかい!。1945年から70年もたってそういったことが払拭できないワシら日本人もいい加減アホだから、すべて薩長が悪い、西郷や大久保が悪いとまではいわんけど」つう奈良氏らの「明治維新万歳」に対する違和感、批判的感覚*22には俺もすごく「がってんがってん(NHKためしてガッテン』風に)」ですね。まあ「前も別記事で似たようなことを書きましたが」、正直「近代化」という意味での明治維新を「それなりには評価」しますが「アジア侵略」「アイヌの同化」「民主主義の欠如(自由民権運動弾圧など)」「国家神道」など考えると「佐藤栄作明治100年、安倍晋三明治150年」のように、とても手放しで明治維新万々歳する気にはなりません。

https://www.sankei.com/region/news/170309/rgn1703090016-n1.html
■産経(佐賀版?)【維新伝心150年】肥前佐賀藩 鍋島直正(上) 近代日本のひな型は佐賀に
 近代国家・日本のひな型は、佐賀にあった。幕末の日本で、近代化にもっとも成功したのは(ボーガス注:薩長ではなく?)肥前佐賀藩だった。10代藩主の鍋島直正(1815〜1871)は、「富国強兵」「殖産興業」だけでなく、さきの大戦後の農地改革を先取りするかのような政策まで実行した。この開明的な名君を育てたのは、儒学者古賀穀堂(こくどう)(1778〜1836)だった。
 文化5(1808)年、1隻の帆船が、佐賀藩の運命を大きく変えた。「フェートン号事件」だ。
 イギリス軍艦フェートン号はオランダ船を偽装し、長崎にやってきた。
 当時オランダは、フランス皇帝ナポレオンの統治下にあり、英国侵攻の拠点となっていた。英蘭両国はいわば戦争状態にあった。
 フェートン号の乗組員は、オランダ商館員をだまして人質に取ると、日本側に薪や食料を要求した。
 長崎港の警備は佐賀藩福岡藩が交代で担当することになっていた。この年は佐賀藩が担当だった。
 だが、経費節約のため、大半の兵を引いており、英国側の要求を呑むしかなかった。大失態だった。
 幕府の出先機関である長崎奉行松平康英切腹、9代目佐賀藩主、鍋島斉直(なりなお)(1780〜1839)も謹慎処分を受ける。
 事件後、猛省する藩士がいた。藩校「弘道館」の教授、古賀穀堂だった。
 自分がこれまで学び、教えてきた学問は、異国に対し全くの無力だった。列強の現実的な脅威に、「人の道」を説く儒学では、対抗できなかった。
儒学だけでなく、西洋の学問を導入しなければならない。西洋は文物、政治制度、経済などあらゆる分野で先行している」
 文化6(1809)年、穀堂は、こう書いた提言書「学政管見」を提出した。

https://asiabaku9.exblog.jp/5795921/
■小野寺龍太*23『古賀謹一郎』
昌平坂学問所に祖父の代から三代に渡って仕えた名門儒者にして、洋学者です。
嘉永初年に吉田松陰曰く「古賀謹堂は、佐久間修*24と並ぶ洋学の知識を持っている」と友人の手紙に書いているように、蕃社の獄以降黒船の来航以前の、洋学が見向きもされない時代に父の古賀侗庵と共に学問所の儒者ながら、来るべき開国を睨んで海外情報を集め、いつしか佐久間と日本を代表する洋学者になっていた、という人。
・しかし彼は単に洋学が好きなのではなく、日本の将来を考えて洋学を学んでいた。
 ロシア船が蝦夷を伺い、アメリカのビットルが国書をもって国交を迫るなどがあり、「そう遠くないうちに日本は開国をすることになる」ことを予想し、そのとき異国の知識や情報がないという事態は避けなければならないというのが彼を洋学に駆り立てたきっかけだった。
・こうして準備していた古賀さんは、ペリーが最初にやってきて、その直後の意見書で、開国をして交易をおこなうべし、ときっぱり言い切っている。(ボーガス注:後に開国派となるが)同じ時期に、「黒船を打ち払うよう、即在に決議すべし」という意見書を書いていた永井さん*25や岩瀬さん*26たちのことを考えると、その先見性がよくわかる(笑)。
 この時期の意見書に古賀と同じスタンスの意見を述べたなかに勝麟太郎*27がいるが、あまり他人を褒めない彼も古賀については「自分と志を同じくする」として、非常に評価している。
 しかしこの意見書も当初はあまり注目もされず、古賀謹一郎の仕事は、ペリーの持ってきた国書(漢文)の翻訳作業だったり、浦賀、下田へ出張の際も、儒者ゆえにその知識をあまり発揮はできなかった。
・古賀謹一郎は処分覚悟で数度にわたって、「洋学所の設立の必要性」「条約を締結する際は相手国に使節を送る」など、富国強兵策や近代外交につながる大胆な開国論文を柳営に提出しつづけた。
 時間はかかったが、(ボーガス注:老中)阿部正弘がすべてに目を通した結果、古賀謹一郎は阿部から「再度、思う存分意見を述べよ」という直々の要請で、長文の意見書の提出し、日の目をみるにいたったのだ。
(のちに「阿部伊勢守だけがわかってくれたのだ」としみじみとよき上司にめぐり合えた幸せを述べている)
・その後は洋学所設立計画のスタッフ(大久保忠寛*28、岩瀬修理*29勝麟太郎*30など)の強い要請で、洋学所こと蕃所調所の頭取となり、国際性豊かな近代人の育成を目指して斬新な学風の学校をつくりました。
 しかし文久になって突如その職を解かれ、その後は不遇の晩年を過ごすこととなった。不遇というのは、新政府に請われても出仕を拒んだことも大きいが、それが彼の意地でした。古賀が柳営に提出した多くの事を実行した明治新政府ではあったのですが、彼は徳川にこそ、実行してほしかったのかもしれません。
・不勉強ゆえ、つい最近までどんな人物か知らなかったのですが、この本のおかげでようやくなるほど・・・・と思いました。
・以前紹介した『徳川後期の学問と政治*31』にもまた古賀家三代について、貴重な謹一郎の日記からの引用も多数あり、いろいろと詳しく載っておりますので、こちらもあわせて参考にどうぞ。

https://www.tkfd.or.jp/research/political-review/a01015
■【書評】「徳川後期の学問と政治:昌平坂学問所儒者と幕末外交変容」眞壁仁著
評者:五百旗頭薫 (東京大学社会科学研究所准教授)
■本書の概要
 本書は徳川後期の昌平坂学問所の知的営為と外交参与を、特に古賀家三代(精里(1750−1817年)、侗庵(1788−1847年)、謹堂(1816−1884年))の足跡を中心に論じたものである。
(中略)
 18世紀末から19世紀初頭には、ロシアからの通商要求が強まった。ラクスマン・レザノフがあいついで来航し、1806年には日本側の対応に不満を持ったフヴォストフによる樺太・エトロフ・利尻島等での襲撃事件すら起きた。ここでも学問所儒者は大きな役割を果たした。精里等は「礼」にかなった形でロシアの要求を謝絶しようとし、ロシア側の贈物を受け取るか否か、あるいはいかなる形式でいかなる内容の返簡を与えるかについての緻密な政策立案を行った。こうした作業の中で、1805年にレザノフに御教諭御書付が申し渡された。幕府はここで初めて鎖国を「祖法」として文書化し、同時にそれを国外に対して説明したのである。元来明文化されていなかった鎖国がいつ幕府において自覚化されたか、という近世史の重要問題への一つの答えが、ここに開陳されている(155-176頁)。
 次に、開国に向けた外交変容にも大きな役割を果たした。
 博覧強記の朱子学は、侗庵の代に大きく発展した。その学問姿勢は、朱子学への教条的な信奉には満足し得ないものであった。朱熹の「佞臣たるよりむしろ争臣たらんと欲す」という侗庵は、同時代に至る様々な学説を渉猟しながら、朱熹の基本的な「旨」は体しつつも個々の誤りは正すという姿勢をとった。その知的誠実さが、外交論にも反映される。
 すなわち、侗庵、そして謹堂の外交論の基調となったのが、「変通」論であった。幕府草創期の精神たる「祖宗之心志」を体しつつ、これを護るためにも「祖宗之心志」の再解釈や一部訂正により現実的な政策を構想していくという姿勢である。学問所の朱子学は、<政治的正統性>を担うよりも、既存の体制の<正統性>を前提とした上で個々の政治判断の<正当性>を問う知的枠組みとして機能したというのが著者の主張である。複数の選択肢を提起した上で、それぞれの利害を冷静に把握する、より害の少ない選択肢を実施するための具体的な方法も構想する、という思考様式である。
 そして、博覧強記の学風がこのような外交参与を可能にした。万巻の読書と漂流民からの詳細な聞き取りにより、海外情勢について当時としては卓絶した知識を享受したのが侗庵・謹堂であった。
 西洋諸国の度重なる通商要求の中で、1844年にはオランダ国王より開国を勧告する書簡が提示された。侗庵は幕閣に採用はされなかったものの返簡案を作成し、そこでは一時的とはいえ通商を認めるに至った。拒絶を貫いた場合のリスクを冷静に考慮したものであった。同時に、通商を行うことで海外の状況・技術も把握することができ、日本側がより有利な地歩を占めることができる、という趣旨であり、情報の重要性を強く認識した侗庵ならではの政策転換であった。
 1853年7月のペリー来航を受けて、次代の謹堂はついに恒久的な通商容認論を提示した。これは、通商が当事者双方に利益を与える可能性を侗庵よりも認めていたからでもあるが、やはり様々な選択肢を吟味した上での冷静な判断であった。通商の実施方法についても慎重かつ具体的な考慮をめぐらせており、海外に出張する出交易によって国内経済の混乱を最小限にするというアイディアを提示した。そして出交易に加えて領事や留学生を派遣することで知識・技術を収集することも提案した。謹堂の政策論は当時としては具体性において抜きん出ており、政治に大きなインパクトを与えた。
 例えば彼の議論は、通商に反対する勢力からも評価された。8月より海防参与として政策形成に大きな影響力を持っていた徳川斉昭*32は、使節派遣による情報収集を提案するとともに、通商を実質的に回避する手段として出交易の構想を一時採用したのである。
 謹堂の構想がもっとも活かされたのは、やはり通商容認の方向においてであった。幕府が通商を容認するに際しては、目付系海防掛が積極論を打ち出したことが重要な契機であったことが知られている。その判断を準備したのが謹堂の提案であったという著者の推論は、かなりの説得力がある(386−407、471−485頁)。目付には学問所出身者が多かった。また、直轄領収入を中心とした既得権維持に傾きやすい勘定系と異なり、目付はより原理的な思考に親和的であった。著者は、幕府外交のヒーロー*33とされていた勘定系の川路聖謨*34の限界や失態を、謹堂の日記等の資料を用いながら生き生きと描き出している(459−471頁)。ともあれ著者は、通商積極論の起源がどこにあるか、という近代外交史の重要な論点にも一つの答えを提示したのである。
 しかし古賀家が日本外交から姿を消す時が近づきつつあった。1855年以降、西洋との交渉で漢文を正文として用いなくなったことは、儒者が活躍する余地を決定的に狭めた。そして、68年初の王政復古により謹堂の公的生活は完全に終わりを告げたのである。
■本書の評価
 旧幕府・幕臣を再評価するのは歴史研究の一つの潮流ではあった。しかし学問所については、幕府の正統性を擁護した古色蒼然たる集団という印象がなお強かった。それだけに、この幕府の知的中枢から開国に耐え得る外交文化が発酵したという著者の主張は、鮮烈な印象を与える。
 かかる外交参与を支えた博覧強記の学問を評価するには、古賀三代が自らのテキストに何を記したかを追うだけでは足りない。何を読み、何に言及したかという、著者が言うところの「視圏」の広さを他の思想家との比較の下で問わなければならない。著者は古賀家三代の膨大な蔵書群をはじめとする資料調査を徹底的に行うことでこの課題に答えた。三代にわたる時代の学問上・政治外交上の主要な論点についての先行研究にも網羅的なレビューを行っており、読む者を圧倒する。古賀家の学風が著者に憑依したかのようである。
 評者が今、思い起こすのは森鴎外著の『渋江抽斎』である。二つの本は似ている。古賀家も渋江も、飽くなき研鑽を続けた学者であった。その学問に著者が強く惹かれたという点も似ている。しかしながら二つの相違点がある。まず『渋江抽斎』にあっては、渋江は不本意にも政治に関与することとなり、これに妨げられて自らの学問を完成させることができなかった。その意味で政治と学問との間にはゼロサムの関係があった。それに対して古賀家三代は自らの知的地平の拡大が、幕府日本の政治的想像力の拡大に寄与したのであって、緊張をはらみつつも学問と政治の幸福な結びつきがあった。もう一つの違いは、森は渋江の学風に強く引かれながら、自らは(ボーガス注:陸軍軍医という公的立場から)同様の学問生活*35を歩むことができなかった。眞壁にはその自由と意思と資質がある。眞壁仁、40に足らずして碩学である。
 著者があとがきで述べるように、書誌調査の果実を思想研究として収穫することはまだ十分になされてはいない。とはいえ、著者が本格的なテキスト間の比較や解釈を展開した場合、本書が製本可能な厚さに止まるかは疑問である。著者は一冊の本としては十分過ぎる作業を行い、止んだ。止んだのは、外交に関心のある読者(上に注記した頁からご覧頂くのも方便かと思われる)と思想史研究者の双方が関心を持って手に取れる、好個の地点においてである。

 五百旗頭薫氏*36(東大教授、日本近代政治史)の父「五百旗頭真*37神戸大学名誉教授、日本近代政治史)」、祖父「五百旗頭眞治郎*38(1919〜1958年、神戸大学名誉教授、経済思想史)」が学者であり、つまり「五百旗頭家三代」が学者であることを考えると「時代背景が違うとはいえ」、三代学者の古賀家(祖父・精里、父・侗庵、子・謹堂)について 「そういった観点の言及」を書評依頼者はしてほしかったのかもしれませんが見事に無視されていますね。
 そもそも薫氏は幕末外交史の研究者ではありませんからねえ。書評依頼者の思惑にどう見ても「五百旗頭家三代」的な要素はあるかと思います。

■眞壁仁『徳川後期の学問と政治:昌平坂学問所儒者と幕末外交変容』のアマゾンレビュー
■大寺萌音
 江戸幕府の政治思想のバックボーンとなったのは儒学だが、それを教授していた昌平坂学問所の教授者たちは、旧弊な考え方で、およそ「開明」的でないと思っている人が多いのではないだろうか?
 本書は、寛政の三博士の一人・古賀精里、その子・とう庵(とうは、人偏に同)、孫にあたる謹堂という古賀家三代を中心にの江戸後期の学問所の儒学者たちの政治思想、特に外交面における政治思想をその著作や幕府への上申書などを読み解き、儒者たちを「旧弊」でくくってしまうことは誤りであることを明らかにしている。
 特に謹堂が、蘭学者の協力を仰ぐだけでなく、中国経由(漢文)で入ってくる世界の地理学などの書物を読むことによって、優れた蘭学者たちと同じぐらい世界の事情に通じており、また外国との交渉にも直接立ち会いながら、当時としては極めて「開明的」な外交政策を立案していることが、かなり詳細に論じられている。
 残っていないものあれば、活字化されていない文書も多かったため、著者の労苦はかなりのものであったことも想像に難くなくい。
 ただ、アマチュアの江戸ファンである私が抱いた疑問点を以下に書いておく。
 著者は、古賀謹堂(謹一郎)の公明正大を尊ぶ政治志向や当時の世界情勢に見合った開国政策などを高く評価している。たしかに、本書を読む限り、それは十分に説得力を持っている。
 しかし、483ページで言及されているように、謹堂が将来的にロシアを「見切」ることを上申していたことは本当に公明正大と言えるのだろうか?。ここで言及された文章が書かれた時より後のことになるが、極めて不平等な部分が多かった安政五カ国条約において、日本に対し多少なりとも道義的・紳士的だったのはロシアだけである。アメリカ・イギリス・フランス・オランダと結んだ条約に関しては、裁判権最恵国待遇においても片務的で日本に極めて不利な条約となっているが、この部分だけとはいえロシアだけが双務的な条約を結んでいる。しかも和親条約では最恵国待遇は片務的だったのに、通商条約では双務的に改正しているのである(不思議なことに、322ページで安政五カ国条約の不平等性に言及されているが、この点には全く触れられておらず、五カ国ともすべての面で片務的と思える記述となっている)。この上申の時点では通商条約が結ばれていないとはいえ、謹堂もロシアとの交渉に関与している以上、ロシアの日本に対する態度や考え方などは、判断できたはずである。
 あくまで個人的な意見だが、(ボーガス注:目付系の)謹堂が勘定奉行系の人々、特に川路聖謨(引用文を見る限り、(ボーガス注:反感を持たれる)発端は川路に原因があったとしても、謹堂の方にも個人的な反感があったように思える)と政策面で対立していただけに、川路を高く評価していたロシア(提督のプチャーチンや秘書官ゴンチャロフの評価*39はよく知られている)に対して、どこか良い感情を持っていなかったように思えて仕方がない。それがロシアを「見切」ることに繋がっていったのではないだろうか? 
 また、謹堂が影響力を及ぼした目付系の人々の多くが元昌平坂学問所教授やその関係者であったこと、謹堂自身の出自と川路の出自の差、さらには川路が学問吟味に落第していることに対する評価、そして学問所と縁の深い林家出身の鳥居耀蔵*40蛮社の獄の首謀者であり、川路が蛮社の獄で弾圧された人々*41と近かったことを併せて考えると、謹堂の川路に対する批判や評価も、完全に「公明正大」であったと言い切れるのだろうか?
 以上のような点は疑問として残るが、本書が江戸幕末の外交史の見直しを迫る力作であることは理解できる。

 小野寺本や眞壁本における古賀家認識は、「古賀家の外交認識と明治新政府の外交認識はあまり変わらない」というもののようで「古賀家の外交認識は明治新政府よりもずっと平和的であった」とする奈良氏とは違うようですが、そのあたりやはり気にはなります。
 とはいえ、素人なので、小野寺本、眞壁本、奈良本を読み比べるほどの熱意はさすがにないですが。

*1:江戸時代後期の幕末に活躍した佐賀藩国学者。藩校弘道館の教諭。外務卿、枢密院副議長、第一次松方内閣内務大臣を務めた副島種臣実弟

*2:伊予宇和島藩8代藩主。明治新政府で一時民部卿兼大蔵卿を務めた。

*3:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工大臣を歴任。戦後、自民党幹事長、石橋内閣外相を経て首相

*4:著書『昭和の代議士』(2005年、文春新書)、『大政翼賛会に抗した40人:自民党源流の代議士たち』(2006年、朝日選書)、『児島惟謙:大津事件と明治ナショナリズム』(2011年、中公新書)など

*5:第10代佐賀藩主。いわゆる「佐賀の七賢人(直正の他は江藤新平(参議、司法卿。後に佐賀の乱をおこし刑死)、大木喬任民部卿、司法卿、文部卿、枢密院議長、第一次松方内閣文相など歴任)、大隈重信(参議、大蔵卿、第一次伊藤、黒田、第二次松方内閣外相、首相など歴任。早稲田大学創設者)、佐野常民(大蔵卿、第一次松方内閣農商務相、日本赤十字社初代社長など歴任)、島義勇北海道開拓使主席判官、秋田県令(現在の秋田県知事)など歴任。後に佐賀の乱をおこし刑死))、副島種臣(外務卿、枢密院副議長、第一次松方内閣内務相など歴任)」の一人。

*6:蕃書調所頭取(校長)、製鉄所奉行など歴任

*7:江戸時代の寛政期に昌平黌の教官を務めた朱子学者3人の事である。古賀精里の他は尾藤二洲、柴野栗山。なお、古賀精里の代わりに岡田寒泉を加えることもある。

*8:三河国田原藩家老。「蛮社の獄」で弾圧を受け、のちに自決。

*9:著書『武士の家計簿:「加賀藩御算用者」の幕末維新』(2003年、新潮新書)、『殿様の通信簿』(2008年、新潮文庫)、『近世大名家臣団の社会構造』(2013年、文春学藝ライブラリー)、『龍馬史』(2013年、文春文庫)、 『天災から日本史を読みなおす』(2014年、中公新書)、『江戸の家計簿』(2017年、宝島社新書)、『徳川がつくった先進国日本』(2017年、文春文庫)、『素顔の西郷隆盛』(2018年、新潮新書)、『日本史の探偵手帳』(2019年刊行予定、文春文庫)など

*10:いわゆる「佐賀の七賢人」の一人。大蔵卿、第一次松方内閣農商務相、日本赤十字社初代社長など歴任

*11:古賀謹一郎の別名。

*12:若年寄、老中、外国事務総裁など要職を歴任

*13:2010年、有志舎

*14:平凡社東洋文庫

*15:いわゆる征韓論論争ですね。

*16:まあ率直にいって「征韓論前はともかく」征韓論以降の西郷など我々後世の人間にとっては「韓国侵略だの内乱起こして戦死だの西郷ってアホと違うか?」「ああいうのを持ち上げるのって日韓友好上、いかがなもんよ?」でしかないでしょう。そういうことを鹿児島で言うと「西郷先生を馬鹿にするな!」といわれて恐ろしいことになりそうですが。以前、拙記事『新刊紹介:「歴史評論」8月号』(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20100715/1276252007)、『田村貞雄氏の毛利敏彦「明治六年政変説」批判の紹介』(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20100719/1279506791)で取り上げましたが、鹿児島には「西郷が好きすぎて」、『西郷先生は征韓論なんか主張してない!』つう人が中にはいますからねえ。もちろん「征韓論否定論」は明らかなデマですが。

*17:2018年、有志舎

*18:文部卿、内務卿、参議など歴任

*19:大蔵卿、内務卿、参議を歴任。紀尾井坂の変で暗殺される。

*20:参議、近衛都督、陸軍大将を歴任。西南戦争で戦死。

*21:西日本新聞コラムや佐賀新聞の奈良氏インタビューを読む限り概ね正しいようですが。

*22:まあ奈良氏はそういう感覚なんだろうと思います。

*23:著書『古賀謹一郎』(2006年、ミネルヴァ日本評伝選)、『栗本鋤雲』(2010年、ミネルヴァ日本評伝選)、『岩瀬忠震』(2018年、ミネルヴァ日本評伝選)など

*24:佐久間象山のこと

*25:外国奉行軍艦奉行大目付若年寄を歴任した永井尚志のこと

*26:外国奉行を務めた岩瀬忠震のこと

*27:軍艦奉行、陸軍総裁(江戸幕府)、参議兼海軍卿明治新政府)を歴任した勝海舟のこと

*28:外国奉行大目付江戸幕府)、東京府知事明治新政府)など歴任

*29:岩瀬忠震のこと

*30:勝海舟のこと

*31:眞壁仁、2007年、名古屋大学出版会

*32:当時、前・水戸藩

*33:ヒーローなんですかね?。無知なのでよく知りませんが。

*34:勘定奉行外国奉行など歴任。慶応4年(1868年)、割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。享年68歳。小説家の山田風太郎はその著書『人間臨終図巻』において「彼(注:川路)は要職を歴任したとはいうものの、別に閣老に列したわけでもなく、かつ生涯柔軟諧謔の性格を失わなかったのに、みごとに幕府と武士道に殉じたのである。徳川武士の最後の花ともいうべき凄絶な死に方であった。」と評している(ウィキペディア川路聖謨」参照)。

*35:学問と言うよりは文学でしょうが。

*36:著書『大隈重信政党政治』(2003年、東京大学出版会)、『条約改正史』(2010年、有斐閣)など

*37:著書『日米戦争と戦後日本』(2005年、講談社学術文庫)、『占領期:首相たちの新日本』(2007年、講談社学術文庫)など

*38:著書『キリスト教所有権思想の研究』(2003年、南窓社)

*39:ウィキペディア川路聖謨』曰く『プチャーチンは帰国後に「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書いている。』、『プチャーチン随行していたイワン・ゴンチャロフは次のように書いている。「川路を私達はみな気に入っていた。川路は非常に聡明であった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼と、練達を顕していた」』

*40:南町奉行勘定奉行を歴任。しかし、老中・水野忠邦の失脚に伴い失脚

*41:川路も渡辺崋山高野長英を中心メンバーとする尚歯会の一員だった言われる