「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう(2019年2/10分:三浦小太郎の巻)

月刊北國アクタス掲載の寺越友枝さんインタビュー | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

 月刊北國アクタスという雑誌(北國新聞社発行)の2019年2月号に、寺越友枝さん(北朝鮮に拉致*1された寺越武志さんの母上)のインタビュー記事が掲載されています。

 北国アクタス2月号ですが

アクタス2月号
ワイド特集『昭和平成 岸壁の母
■志賀沖で息子不明 後に北朝鮮で生存確認:寺越友枝さん ロングインタビュー
■遠ざかる戦後(3)「旧富来町出身 流行歌「岸壁の母」のモデル:端野いせさん」

だそうです。
 ちなみに端野さんや「岸壁の母」についてはウィキペディアの記述を紹介しておきます。

岸壁の母ウィキペディア参照)
 第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。その一人である端野いせをモデルとして歌謡曲や映画のタイトルともなった。
■モデル・端野いせ
 歌謡曲、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせ(1899年9月15日 ~1981年7月1日)である。
 明治32年(1899年)9月15日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に夫・端野清松、娘とともに居住していたが、昭和5年(1930年)頃、夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年(1931年)に上京する。新二は、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り関東軍石頭(せきとう)予備士官学校に入学、同年、ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。
 終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。
 しかしながら、帰還を待たれていた子・新二(1926年~)は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後、平成12年(2000年)8月のことであった。平成12年(2000年)8月に慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海市で生存していたことを確認。京都新聞が新二の生存を報道。中国政府発行、端野新二名義の身分証明書を確認。だが、その人物が本当に新二であるかについてはいまだに疑問がある。
 旧満州(現中国東北部)の関東軍陸軍石頭予備士官学校の第13期生で構成される「石頭五・四会」会長・斉藤寅雄は「あのひどい戦いで生きているはずがない」と証言し、同会の公式見解では新二は1945年8月13日に戦死したとされている。
 なお上海市で発見された新二によれば、ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけたという。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。 新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。
■流行歌
 昭和29年(1954年)9月、テイチクレコードから発売された菊池章子のレコード「岸壁の母」が大流行(100万枚以上)した。
 その後、昭和47年(1972年)に二葉百合子浪曲調で吹き込んだ。LPレコード、シングル、テープを合わせて、250万枚の大ヒットとなり、昭和51年(1976年)には中村玉緒主演で映画化された。さらに、昭和52年(1977年)に市原悦子主演でドラマ化(TBS「花王 愛の劇場」)された。

 そこから、武志さんが2002年10月3日、日本に「一時帰国」した時のことを語っている部分を引用させていただきます。なお、この2日後の10月5日*2に、拉致被害者5名が日本に帰国しました。

 小泉訪朝が9月17日です。なお、ウィキペディア『北朝鮮による日本人拉致問題』

 5人の拉致被害生存者については、一時帰国を条件に2002年10月15日に帰国が実現した。

と書いています。
 他にもググれば

赤旗拉致生存者5人が一時帰国/24年ぶりに家族と再会
 北朝鮮による日本人拉致事件で、生存者五人が十五日午後、政府のチャーター機羽田空港に到着、二十四年ぶりに祖国の地を踏み、家族との再会を果たしました。
 帰国したのは、地村保志さん(47)=福井県小浜市=▽浜本富貴恵さん(47)=同=▽蓮池薫さん(45)=新潟県柏崎市=▽奥土祐木子さん(46)=同=▽曽我ひとみさん(43)=新潟県真野町(佐渡島)=。いずれも一九七八年に拉致されました。
 五人は家族らが出迎える中、チャーター機のタラップを降り、肉親と再会。涙を見せて抱擁を繰り返し、笑顔や手を振って二十四年ぶりの再会を喜び合いました。
 空港内で約三十分、五人は家族と水入らずの時間を過ごした後、バスで都内のホテルに向かい、午後六時半すぎ、記者会見に臨みました。
(中略)
 滞在予定は十日間程度で調整中。
(中略)
■横田、曽我さん家族、平壌で見送りに
 北朝鮮に拉致された五人が一時帰国するチャーター機に搭乗した斎木昭隆*3外務省アジア大洋州局参事官は十五日午後、都内のホテルで記者会見し、五人が平壌順安国際空港を出発する際、死亡が伝えられた横田めぐみさんの娘とされる少女と、一時帰国した曽我ひとみさんの夫と二人の娘が、見送りのため同空港に来ていたことを明らかにしました。

赤旗拉致被害者・家族ら記者会見/再会「いい顔していた」「お帰り」無言の抱擁/「笑い声に励まされた」「肉親のきずな感じた」
 「とても会いたかった」「この瞬間は一生忘れられない」。
 十五日、北朝鮮から二十四年ぶりに帰国した五人と家族は、再会の感動や喜びを同日夕の記者会見で語りました。
(中略)
■横田さんの娘、鑑定でほぼ確認
 北朝鮮から一時帰国した五人の被害者のうち、曽我ひとみさん(43)以外にも、横田めぐみさん=失跡当時(13)=と、娘とされる少女との面識がある人がいることが十五日、外務省の斎木昭隆アジア大洋州局参事官の話で分かりました。同参事官は、この少女がDNA鑑定の結果、「横田さんとの親子関係がほぼ確かめられた」ことも明らかにしました。

10年目の告白 ~蓮池薫さん “拉致”解決への思い~ - NHK クローズアップ現代+
 2002年10月15日。
 24年ぶりに祖国の土を踏んだ蓮池さん。
 しかし、それは2週間ほど滞在したあと、北朝鮮に戻ることが条件でした。
 子どもを北朝鮮に残したままの帰国でした。

10月15日 拉致被害者5人が帰国 家族と涙の再会 :日本経済新聞
 2002年10月15日、北朝鮮に拉致された日本人被害者の曽我ひとみさんや浜本富貴恵さんら5人が帰国した。羽田空港に到着したチャーター機から降り立った5人は、待ち受けた家族と涙を流して抱き合った。同年9月に訪朝した小泉純一郎*4首相が金正日キム・ジョンイル)総書記との日朝首脳会談日朝平壌宣言に署名。金正日氏は拉致の事実を認め、24年ぶりの帰国が実現した。

【拉致被害者帰国15年】帰国の被害者5人、着実な社会復帰の歩み…胸には「強い願い」(1/3ページ) - 産経ニュース
 平成14年10月15日、祖国の地を踏んだ5人の拉致被害者

なんて記事がヒットしますので拉致被害者の帰国の日は「この2日後の10月5日」ではなく「(この12日後の?)10月15日」です。三浦も何でこんなつまらないことで間違いますかね?。アクタスの記事が間違えてるのか?
 なお、寺越さんの帰国時期が正しいかどうかは、ググったけれどよく分かりませんでした。

「武志が北朝鮮に戻る時、心の中は武志を引き留めたい思いでいっぱいやった。でも、それが無理やということもわかっとった。もし私が武志を日本*5に戻さなかったら(拉致被害者の)5人は帰ってこれんかもしれんし、北朝鮮にいる武志の家族がどうなるかもわからんからね。」

 「拉致被害者5人が一時帰国を条件に帰れるかもしれん」つう情報が流れてる中、武志さんが一時帰国すれば「ああ、これはちゃんと武志さんを北朝鮮に戻すかどうか試してるんやろうなあ。ここで反故にしたら5人は帰ってこんのやろうな」つうことはバカでない限り分かる話です。でお母さんは

 もし私が武志を北朝鮮に戻さなかったら(拉致被害者の)5人は帰ってこれんかもしれんし、北朝鮮にいる武志の家族がどうなるかもわからんからね

と冷静だったと言うことですね。横田奥さんとは偉い違いです。
 つうか俺は今でも「5人の一時帰国を反故にしたこと」は

 もし私らが5人を北朝鮮に戻さなかったら、北朝鮮にいる5人の家族がどうなるかもわからんからね

となんで蓮池透氏とか拉致被害者家族が思わなかったのかなあと不思議ですけどね。家族会を離れた今でも彼は「悩んだけど一時帰国を反故にしたのは仕方なかったと思う」つう趣旨のことを言ってますからね。
 一方で、福田官房長官(当時)なんかは反故にしたときに「5人の家族がどうなるか」を恐れていたわけです。だから「戻すべきだ」と彼は言ったし、俺も『そうすべきだった、リスクを冒すべきではなかった』と今でも思います。まあ、結果オーライではありますけどね。結果オーライだからそういうことをあまり言う気はないけれども正直な話、今でもそう思います。

「昔は家族会の活動に加わっとったけど、武志が一時帰国した時『お母さん、家族会に入って僕のことを拉致と言えば、家族の縁が切れて逢えなくなりますよ』と言ったんや。」
「そもそも武志は北朝鮮に来た経緯について、最初から話そうとはせんかった。(1987年、北朝鮮を訪問した友枝さんが武志と再会した時も)再会してしばらく後に、平壌のホテルで武志と一緒の布団で横になって『お前、つらいことあるんやろ。全部、話せいや。』と聞いてんけど、武志は何も言わんかった。」
「私にも言えないことがあるんやな、つらいんやろうなと思って、頭や手足をさすってやりながら、泣くことしかできんかった。」
「それから何度聞いても、武志は『北朝鮮の漁船に助けられた。俺は眠っとって、ようわからん』と言うんや。武志が拉致じゃないという以上、私が拉致問題にかかわることはできん。武志には『お母さんはもう何も聞かんぞ』とだけ言って、もう聞くことはやめたわ。」(日朝間で揺れた母子の55年 寺越友枝さん ロングインタビュー より)

 まあこういうことは言わないで「墓場まで持って行った方がいい」気もしますけどねえ。
 いずれにせよ武志さんについて救う会や、三浦の様に「拉致」云々言っても、お母さんが危惧する様に「仮に拉致だとしても武志がそんな主張をを希望してない以上言えない」「武志やその家族に迷惑がかかるだけと違うか」つう話ですよね。
 で俺的に「すごく不思議で仕方がない」のは「横田の奥さんと息子どもの態度」ですね。
 あの国に「孫とひ孫(横田奥さん)」「姪と大姪(おおめい)(息子ども)」がいるのになんで北朝鮮に悪口雑言出来るのか。肉親に危害が加わる恐怖とかないのか。そんなこと出来ないと北朝鮮をなめてるのか、はたまた「危害を加えられてもかまわない」と思ってるのか。およそ理解に苦しみます。
 なお、三浦がどういう考えでこの記事を紹介したのかは分かりません。奴は特にコメントしてませんので。

参考
寺越友枝さん「息子を守るためにオルガン、サバ缶も北朝鮮へ…」 | 女性自身

「今までどんだけ日用品やらお金やら、武志に運んだかわからんわ。テーブル、オルガン、じゅうたん、布団、ビデオデッキ、食料、衣類。なんでも、私が運んだがよ。今回も、中学3年生になる武志の孫が、私が持っていったサバ缶をうまそうに食べとった。サバをちょこっとだけ大事そうに食べては、ご飯を、わぁーっと、かき込むんや。それでサバ缶にふたをして、『学校から帰ったら食べるから、食べないで』と。あの姿を見たら、せつのうてな。これが最後の訪朝やと思うとったけど、また行かんとおられんわいね」
 寺越友枝さん(87)は今年*64月、北朝鮮に住む長男の武志さん(68)を訪ねたときの心情をそう語る。実に66回目の訪朝だった。
 武志さんは今から55年前*7、13歳*8のとき、石川県能登半島沖の海で行方不明になり、23年後*9北朝鮮で生存が確認された。以来、友枝さんは武志さんに会うために北朝鮮に通い続けてきたが、この5年間、体調を崩し訪朝がかなわなかった。回復した今回が最後のチャンスと考えて訪朝に踏み切ったのだ。
(中略)
 現在、北朝鮮平壌で暮らす武志さん。’63年5月11日、叔父の寺越昭二さん、外雄さんと高浜港(石川県)から小型漁船に乗って漁に出たきり行方不明になった。中学に上がったばかりだった。
(中略)
 警察や村の人々による捜索が続いたが見つからず、捜索はわずか1週間で打ち切りに。遺体も揚がらないまま葬儀が行われた。
 武志さんが失踪して23年目の’88年1月*10。友枝さんの母心を激しく揺さぶる事件が起こる。
「武志の23回忌が終わったころ。いつまでも『武志、武志』言うていたらいかん。区切りをつけようと思うて、失踪後、海に浮かんでいた学生服を’87年の12月に処分した。その1カ月後やった。武志と一緒に行方不明になった叔父から寺越家の次女の元に、『北朝鮮で生きとる』という手紙が届いた。次女から、『武志は生きとったぞ』という電話を受けたあとのことは、気が動転してよう覚えとらん。あわてて実家の母に電話をしたら、『頭がおかしゅうなったか。明日行くからしっかりせい!』と言われたことだけは覚えとる」
 武志さんらが北朝鮮で生きていたことは日本で大きく報じられた。
「なんとか訪朝させてくれ、と代議士の先生にお願いして、その年の8月、夫と私が行けることになった。」
(中略)
「『武志! 堪忍してくれ! お母ちゃんが漁に行けと言うたばっかりに……』。
 謝っても謝り切れなんだ。なんで北朝鮮に来たんか。なんで今まで連絡できんかったんか。聞きたいことは山ほどあった。けど、いつもそばには監視員が付いとるから親子水入らずで話すこともできん。叔父が、『漂流しとったら北朝鮮の船に助けられた』と説明してくれたが、信じられん。何度も、武志に『本当か?』と聞いたけど、『信じてください』と言うばかりや。そのあとの訪朝でも何度も尋ねたが、『お母さん、お墓で話しましょう』と。息子の武志がそう言うんやから、母として信じようと決めたんや」
 武志さんは、金英浩(キム・ヨンホ)という名で朝鮮人として暮らし、北朝鮮人の妻をもらい、子どもを3人もうけていた。
 一度会えば、二度、三度会いたい。友枝さんは、掃除のパートで渡航費を稼ぎ、空白の23年を埋めるように訪朝を重ねた。
「武志に再会してからは、どぶの中に手を突っ込んでも金もうけせないかんと思うた。万景峰号が就航しとったときは、片道5万円で乗せてもろうたけど、就航がなくなってからは飛行機や。武志家族への土産代や、渡す金も入れたら、一回の渡航で60万〜70万円は必要や。武志から、『これを買いたいからお金を送ってください』ちゅう手紙も届く。そのたびに5万円は送らんならん。そやさかい私は、北朝鮮には66回も行っとるが、普通の旅行はしたことないがよ」
 友枝さんが必死になってお金や物資を運ぶのには、こんな親心があった。
「武志らの生活をちょっとでもラクにしてやりたいんや。北朝鮮では日本製が重宝されるさかい、人にやっても喜ばれる。売ってもお金になる。この間も、日本製のカフスボタンを持って行ったら、武志の嫁は、孫の担任にプレゼントしとった。そしたら孫の勉強をよう見てくれるんやて。孫にパソコンも買うてやった。パソコンがあったら、つらい肉体労働をせんでも、事務仕事がもらえるんや」
 何度訪朝して息子に会えても、そのつど、別れはやってくる。
「数回目の訪朝のことや。帰る前日に武志と一緒の部屋で眠とったら、私のすぐ横に武志が来るがよ。私は、『武志、どうした。おまえ胸が苦しいがやろ? お母さんに本当のこと言え。なんで北朝鮮に来たがや』と聞いた。武志はつらそうに黙っとる。だから今度は、布団に手を入れて武志の胸や手をさすってやった。明日、この子を置いて帰らないかんと思うたら、涙が出てな……。こんなに子離れができんのは、私くらいか思うて、帰りの船で一緒になった在日朝鮮人の男性に聞いたら、『僕も夕べ、母と一緒の布団で眠りました』と言うんや。『苦労させた、かわいそうなことした』言うて、お母ちゃんに足やら腹やら、ずっとさすられとったって。それを聞いて、私も普通の母親なんや、と思うたわ」
 経済制裁の影響か、この5年で、北朝鮮の状況は変化していた。
「もともと貧しい国やったが、今まで嫁と子どもにもあった配給の米が、この前行ったら武志にしか配られんようになっとった。1カ月10キロや。それを、武志夫婦や子ども、孫8人で分けおうて食べとった。水も貴重やさかい、米をとぐのも2回まで。そのとぎ汁も捨てずに皿を洗うんや。今、平壌で電動自転車がはやっとるいうから買うてやったけど、大きな荷物を持ってる人を見たら運んでやるんやて。そしたら、きゅうりの1本でも鶏肉の1枚でも、もらえるやろ。そんな様子を見とったら、『これが最後の訪朝や』とは言い出せなんだ」
 友枝さんの援助のおかげもあって、武志さん家族の暮らしは、北朝鮮のなかでは豊かなほうだ。それでも息子に対する心配は募る。
北朝鮮では70歳まで生きりゃええほうや。あの子はもう68歳。糖尿病で痩せて、若いころはハリがあった足も細うなった。今、武志の生きがいは子どもと孫。自分が生きとるうちに、子や孫にお金も残してやりたいやろう」
 友枝さんは武志さんを守るために、命ある限り訪朝を続けるつもりだ。

*1:と決めつけるのはもちろん適切ではありません。

*2:後で指摘しますが帰国時期は「10月15日」が正しいです。

*3:外務省アジア大洋州局長、駐インド大使、外務事務次官など歴任

*4:宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相を経て首相

*5:本文のままですが前後の文脈から考えて「北朝鮮」の誤記でしょう。以下「北朝鮮」に修正します。

*6:ウィキペディアによれば「1931年生まれ」だそうです。「今年で87歳」なので今年というのは「昨年2018年」ですね。

*7:「2018年から55年前」なので1963年です。

*8:1963年時点で13歳なので1950年生まれになります。

*9:1963年(失踪時)の23年後なので1986年ですが「1988年に生存が確認」と書かれてるので「25年後」の誤記でしょう。id:Bill_McCrearyさん風に言えば、あまりに初歩的なところから粗雑すぎる(記事の事実関係と見出し編) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)ですね。

*10:1963年に失踪したわけですから「25年後」が正しいです。