今日の産経ニュース(2019年2月28日分)(追記あり)

【2021年3月1日追記】
 3月1日なので、その日にかかわる櫻井よしこのデタラメ記事をご紹介 - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)で拙記事をご紹介頂きました。ありがとうございます。
さて

日本だって、明治維新などは戦争をしなければ実現できなかったし、またしばらくは西南戦争を頂点かつ最後とする内戦もあったわけです。西郷隆盛なんて幕府からすれば最高レベルに悪質な反逆者だし、明治政府からすれば内戦首謀者というもっとも悪逆な国家反逆者、テロリスト*1であるはず。しかしNHKすらも「大河ドラマ」でとりあげる。なぜ?

という指摘は全くその通りですね。3月1日なので、その日にかかわる櫻井よしこのデタラメ記事をご紹介 - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)で上げられてるのは西郷(明治新政府で参議、陸軍大将、近衛都督)だけですが他に俺が知ってる例を以下に上げておきます。

大老井伊直弼を暗殺した水戸浪士たちは「維新殉難者(つまりは英雄)」の一人として靖国に合祀されています。維新殉難者の存在ほど「靖国戦没者追悼施設」が嘘であることを露呈する事実も無いでしょう。
 「維新殉難者」については吉原康和*2靖国神社と幕末維新の祭神たち:明治国家の「英霊」創出』(2014年、吉川弘文館)という著書があります。
土佐藩重臣吉田東洋を暗殺することで一時、土佐藩の実権を握った「土佐勤王党首領」武市半平太も立派なテロリストです。武市は後に失脚し、東洋暗殺の責任を追及され死刑になりますが、そんな彼も「維新殉難者(つまりは英雄)」の一人として靖国に合祀されています。また明治新政府から正四位が追贈されています。(武市瑞山 - Wikipedia参照)
◆ウヨ連中が英雄視してる吉田松陰安政の大獄で死罪となった理由は、彼が「老中暗殺計画」を自供(ただし「国賊である老中を殺さなければ政治が良くならない」程度の曖昧な物に過ぎず、現実性には乏しかったとされる*3)したからであって彼は立派なテロリストでした。なお、松蔭も「維新殉難者(つまりは英雄)」の一人として靖国に合祀されています。(吉田松陰 - Wikipedia参照)
◆様々な状況証拠から、伊藤博文(首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監などの要職を歴任。元老の一人)は「英国公使館焼き討ち事件 - Wikipedia」や「塙忠宝 - Wikipedia暗殺」に実行犯の一人として関わったとみられています。伊藤も立派なテロリストでした。
◆西郷ら倒幕派が「戦争の口実」を作り出すために、1)いわゆる御用盗(もろにテロ行為です)をやって幕府を挑発していたこと、2)この結果、幕府側がその挑発に乗ってしまい江戸薩摩藩邸の焼討事件 - Wikipediaを起こしてしまったことも有名な話です。
◆「佐賀の乱」を起こして死罪になった江藤新平明治新政府において参議、司法卿)はテロリストですが、「それはそれ」として、江藤は今でも佐賀で「佐賀の七賢人 - Wikipedia」の一人として評価されてると言います。

 ちなみにこの辺りはみなもと太郎のマンガ「風雲児たち・幕末編」がとっつきやすいです。
 なお、西郷について言えば「鹿児島では今も西郷人気が強く、その反動として西郷と対立した大久保利通(参議、大蔵卿、内務卿を歴任。紀尾井坂の変で暗殺される)や川路利良(大警視)の人気が低い(特に「西郷と同格の地位で親友でもあった大久保」と違い、地位的に西郷より格下に辺り、警察トップとして鹿児島に密偵を送り込んだ川路の人気が低い)」と言いますね。

【参考:大久保利通

【「西郷どん」交友録】西郷隆盛と大久保利通、「碑」は同じでも「像」が異なるウラ事情 松平定知(1/2ページ) - 産経ニュース2018.1.13
 県内にはいくつもの西郷隆盛像が存在する。
 西郷の多数の像に比して、大久保のは少ない。というより「一旅人」の私は、大久保の全身像は甲突川に架かる高見橋の東詰にある銅像しか知らない。この像は1979(昭和54)年、大久保没後100年の年に建ったのだが、2人の幼なじみは、年を経て立場が変わった。
 地元には、大久保に対して「最後は、われらの西郷どんを追い詰めた」というイメージが、まだ拭い難くあるという。この像の除幕式の前後1週間、暴漢が壊しに来ることを心配して24時間の警備が付いた。

西郷の墓地で大久保の法要「待った」 反発受け名称変更:朝日新聞デジタル2018年5月5日
 明治維新の立役者である薩摩藩大久保利通の没後140年の法要を、西郷隆盛が眠る鹿児島市の墓地で催そうとした有志のグループが反発を受け、法要の名称などを変更していたことがわかった。西郷と幼なじみだが、西南戦争で西郷を敗死させた大久保への風当たりは今も強い。法要は西南戦争戦没者を政府軍、薩摩軍問わず追悼するものとして、6日に開催される。
 大久保と西郷は同じ鹿児島・加治屋町の出身。徳川幕府を倒し、明治維新を成し遂げた2人だが、新政府の政策をめぐって対立。1877年に薩軍を率いて反乱を起こした西郷を鎮圧した大久保の人気は、西郷に比べるといま一つだ。
 明治維新150周年の今年は、西南戦争の翌年に東京で暗殺された大久保の没後140年にもあたる。
 そこで、西郷らが葬られている同市の南洲墓地に昨年9月、政府軍と薩軍を一緒に弔う慰霊塔を建立した有志の団体「西南之役官軍薩軍恩讐(おんしゅう)を越えての会」が、大久保の命日である今月14日に近い6日に、「大久保利通公没140年法楽」を慰霊塔前で催そうと計画した。
 同会の会長は、NHKの大河ドラマ西郷どん」で時代考証を担当している鹿児島県立図書館の原口泉*4館長が務めている。
 しかし、東京・上野の西郷像の清掃や西郷の研究活動などに取り組む市民グループ敬天愛人フォーラム21」(東京)が、「大久保は西郷を死地に追いやった人物」と反発。南洲墓地での大久保の法要を取りやめるよう求めた。内弘志・代表世話役は「大久保は南洲墓地に葬られているわけでもない。賊軍の汚名を着たまま眠る人々や遺族の思いを考えてほしい」と話す。
 同会事務局を務める鹿児島市大雄山南泉院の宮下亮善住職は「法要は大久保だけのためでなく、官軍側、薩軍側の分け隔てなく平等に供養したいだけ」とするが、反発を受けて、法要の名称を「西南之役官軍薩軍恩讐を越えての法要」に変更。予定していた原口会長の講演のタイトルも「明治維新と大久保甲東」から「大河ドラマの中の西郷と大久保」に変えた。原口会長は「対立を深めるようなことは好ましくないと判断した」と話した。
 南洲墓地での法要には、西郷の子孫らを含めて110人ほどが出席する予定という。

英雄はつらいよ | リコー経済社会研究所 | リコーグループ 企業・IR | リコー2018年10月30日
 NHK大河ドラマ西郷どん」がいよいよ佳境に入ってきた。鳥羽・伏見の戦いを終え、西郷隆盛の最後の戦い「西南の役」へと物語は突入する。
 今年は明治維新から150年に当たる。大河ドラマをはじめ、西郷どんの地元・鹿児島はいろいろな記念イベントを開催中。鹿児島県立図書館でも記念イベントの一つとして、薩摩出身の維新の英傑の人気投票を実施した。投票結果によると、1位はもちろん西郷。しかし、維新の三傑にも挙げられている大久保利通(大久保さぁ)は、意外にも5位と低迷している。
 筆者が30年ほど前に初めて鹿児島市を訪れた時にも感じたことだが、大久保はとにかく鹿児島では不人気だ。当時、西郷の最後の地である激戦地・城山(現城山公園)に西郷像を見に行った際に、てっきり大久保像も一緒に立っているものとばかり思っていた。だが実際は、西郷像から直線で南西に1.2キロメートルほど離れた、市内を流れる甲突川に架かる高見橋の袂(たもと)にひっそりとそれはあった。
 この像は、西郷像に遅れること42年後の1979年に建てられた。地元紙によれば、地元の根強い反対のため、本来完成させるべき没後100年(1978年)に間に合わなかったそうだ。
 今年の夏も鹿児島を訪れたが、市の観光船チケットを巡ってひと騒動あったことを知った。鹿児島市が運航する納涼観光船のチケットには、維新の志士ら(小松帯刀、西郷、島津斉彬篤姫、大久保の5人)をデフォルメしたキャラクターが描かれている。
 ところが、乗船の際に係員がチケットをもぎると、一番右の大久保だけが切り離されてしまうのである。地元紙によれば、乗船客の間でそこまで大久保が嫌われているのかと話題になったという。ここまでくると大久保嫌いを公式に認めていいのでは、とさえ思えてくる。
 私のような県外の者にとって、維新の三傑と称されるこの2人*5は薩摩が誇る英雄だと地元でも慕われているとばかり思っていた。地元の人の心に渦巻く複雑な思いをうかがい知ることはできないが、「故郷と民を愛した西郷どんに対し、故郷に背を向けた大久保さぁ」。
 どうやら、そう捉えられているようにしかみえない。
 今となっては、本人たちの気持ちを知る術はないが、こうした地元の感情を知ったら、当の2人はどう思うのだろうか。少なくとも県外の私から見れば、西郷と大久保の2人は心からの友であったように思う。
 例えば、大久保が紀尾井町(東京)で襲われたときには、西郷からの手紙を上着のポケットに忍ばせていたと聞く。また、2人の袂(たもと)を分かったとされる征韓論でさえ、死を覚悟して外交に赴こうとする西郷を思い、その命を守るために大久保が反対したという見方もある。

西郷さんはなぜ偉い 久保田 正広|【西日本新聞ニュース】久保田正広(論説副委員長)2020/1/18
 鹿児島市で生まれ10歳まで暮らした私にとって、西郷隆盛は文字通り神様だった。
 「尊敬する人は?」と尋ねられた子が「西郷さん」と答えれば、どの大人も笑顔に。そんなご近所さんだった。
 それから40年余。私は4年前から2年間、鹿児島で初めて勤務し、社会の隅々まで神格化された西郷を感じた。教育に限らない。観光や経済、行政から選挙まで西郷の言葉や肖像であふれている。
 そんな鹿児島県の公立中学校社会科教師が昨年、驚くに値する本を出版した。「『西郷隆盛』を子どもにどう教えるか」(高文研)
 筆者の山元研二さんは県内で生まれ育ち、私と同じ50代半ば。幼いころから西郷さんは偉いと教えられ、そう思い込んでいたという。
 出版の意図はこういうことらしい。道徳が教科となり、戦前の修身同様の「偉人」が扱われているが、どんな人物も功罪両面から見る必要がある。特に鹿児島では批判もはばかられる西郷にも、目を背けてはならない面がある-。
 征韓論との関係や、圧政に苦しんだ奄美島民の複雑な視線、西南戦争に巻き込まれ甚大な被害があった九州各地の現実…。学術書ではなく、いま西郷を考える上で必要な視点が平易に過不足なく紹介されている。そんな本だ。
 序文によれば、山元さんが疑問を感じるようになったのは1979年のこと。西郷と並ぶ薩摩の元勲大久保利通銅像がようやく鹿児島市内にできた際のあまりの不人気が不思議だったという。大学で近代史を学び、西郷が大久保を大きく上回る人物とは思えなかったとも。このあたりは私も共感できる。

 小生の住む埼玉だと「荻野吟子 - Wikipedia(日本最初の公的資格を持った女医*6)」「渋沢栄一 - Wikipedia(明治の実業家。今年の大河ドラマ主人公にして、未来の「一万円札肖像画」)」「塙保己一 - Wikipedia(江戸時代の国学者)」が「埼玉三偉人」とされますがそれにしても「鹿児島における西郷」のような神格化はないですね。

大久保利通の生誕190年祭、初の大規模開催…西郷隆盛の人気高い鹿児島 : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン2020/11/08
 明治維新の立役者の一人、大久保利通の生誕190年を祝う記念祭が7日、鹿児島市西千石町の銅像前で行われ、関係者約100人が参加した。西郷隆盛と対立したとされる大久保の顕彰は西郷ほどは進んでおらず、地元で大規模な生誕祭が行われるのは初めて。関係者は念願の開催を喜んだ。
 県内では西郷の人気が高く、対立した大久保の顕彰は進んでいない。
 西南戦争薩軍、官軍を隔てなく慰霊しようと、3年ほど前に志学館大の原口泉教授(日本近世・近代史)ら有志が「西南之役恩讐を越えての会」を設立。同会が主催し、記念祭を開くことにした。
 参加者には、福島県郡山市の関係者の姿もあった。大久保は、廃藩置県に伴って職を失った士族を救済し、新たな産業で近代化を進めようと、同市の安積(あさか)地区で日本三大疎水*7の一つ「安積疎水」の実現に尽力。顕彰会が発足し、「大久保神社」も建立されている。
 式典で顕彰会の鈴木英雄会長は「水で苦労していた我々の地域だが、疎水開拓の大事業を大久保公の鶴の一声で実現してもらった。これからも恩恵を受けながら頑張りたい」とあいさつ。原口教授は「長いこと大久保公を独りぼっちにしてしまった。多くの人が誕生を祝い、一番喜んでいるのは大久保公だと思う」と述べた。

【参考:川路利良

川路利良 - Wikipedia
 内務卿となった大久保利通から厚い信任を受けた。大警視(警察トップ)として薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を「帰郷」の名目で鹿児島県に送り込み、不平士族の離間工作を図ったが、中原らは西郷の私学校生徒に捕らえられた。苛烈な拷問が行われた結果、川路が西郷を暗殺するよう指示したという「自白書*8」がとられ、川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた。
 現在、警視庁警察学校には川路の立像が、警視庁下谷警察署敷地内には川路邸宅跡の石碑が建っている。警察博物館には川路大警視コーナーが設けられ、川路の着用した制服、サーベルが展示されている。
 一方、鹿児島県では「西郷隆盛を暗殺しようとした男」「郷土に刃を向けた男」として長く裏切り者の印象を持たれて評価が低めであったが、鹿児島市皆与志町の生家近くのバス停は川路にちなみ「大警視」と名付けられており、生誕の地には記念碑が、西南戦争で川路が率いた別働第三旅団の激戦地である霧島市(旧横川町)内には銅像が建っている。平成11年(1999年)に当時の鹿児島県警察本部長・小野次郎*9の提唱で鹿児島県警察本部前に銅像が設置されるなど、現在の地元でも人気があまりないながらも、ようやくその功績や人物像が再評価の段階に入りつつあるとされる。

西郷隆盛の敵役、実は「警察の父」 地元の人気は…:朝日新聞デジタル2016年8月2日
 鹿児島で人気の西郷隆盛
 西郷を追い詰めた一人とされるのが、同郷で後に警視庁の初代大警視(現在の警視総監)となる川路利良(1834~79)だ。「日本の警察の父」と呼ばれる一方、鹿児島では「敵役」として人気はいま一つ。そんな川路の姿を探してみた。
 川路は現在の鹿児島市皆与志町の出身。1864年に京都で長州藩会津薩摩藩などが戦った「禁門の変」で活躍し、戊辰戦争にも加わった。維新後は欧州の警察制度を視察し、1874年の警視庁創設に伴って大警視に就任。警察学校の原型となる巡査教習所や警察手帳の制度も採り入れた。そして1877年に西郷らが蜂起した西南戦争で西郷の暗殺を謀ったとされ、地元で激しい憎悪の対象になった。

【今こそ知りたい幕末明治】原口泉(69)近代日本警察の生みの親・川路利良 - 産経ニュース2018.7.27
 「明治六年の政変」により西郷が帰郷すると、鹿児島出身者はぞくぞくと官を辞し、西郷に従うという事態が起きた。
 しかし、川路の態度は冷静だった。西郷への私情と、警察創設という公的使命をはっきりと分けた。警察内部の鹿児島出身者を統率して、帰郷者を最小限度に留めた。「国家行政の活動は、一日として休むわけにはいかない」という川路の強い信念であった。
 明治10(1877)年、西南戦争が起こる。川路は陸軍少将兼大警視として別働第3旅団を率いて抜刀隊を指揮し、西郷軍に大きな打撃を与えた。
 警察制度の確立に尽くした川路だが、郷土の評価は「尊敬」と「憎悪」の両極に分かれる。

【追記終わり】

下村博文氏「選挙戦えないと判断」田畑毅議員辞職 - 産経ニュース
 下村らしいゲスさですね。被害女性に対する謝罪の言葉などは何もないのか。


自民党細田派幹部、首相の総裁連続4選発言「ありがたい」 - 産経ニュース
 正気なのかと唖然ですね。


【産経抄】2月28日 - 産経ニュース

 韓国の文在寅ムン・ジェイン)政権が、「建国の起点」と位置づける「三・一独立運動」の100周年記念日が明日に迫った。日本統治下の朝鮮で1919年3月1日、京城(現ソウル)に集まった人々が独立を宣言し、デモが全土に広がった。

 これについては小生も新刊紹介:「歴史評論」3月号 - bogus-simotukareのブログで簡単に取り上げています。

 日本側は参加者を弾圧し、7500人をこえる死者を出した、と日本の教科書に書いてある。もっとも歴史作家の八幡和郎さん*10によれば、この数字は上海に亡命していた運動家が「真相はわからないが」と断りながら出してきたプロパガンダにすぎない(『捏造(ねつぞう)だらけの韓国史ワニブックス)。

 俺も三・一運動に詳しくないのでなんとも評価できませんが、それにしても酷いですね。「プロ右翼活動家」八幡は韓国史の専門家じゃないでしょうに。
 八幡なんか持ち出してる時点で「たぶん7500人を超える死者てのは事実なんだろうな」と思いますね。大体、産経を信じれば「日本の加害(南京事件慰安婦など)については矮小化したがる日本の教科書検定」を通過したわけですし。
 なお、新刊紹介:「歴史評論」3月号 - bogus-simotukareのブログでも紹介しましたが死者数については

槙村浩と3・1独立万歳運動とは?
 1919年3月1日から「独立万歳」をさけんで朝鮮全土で独立運動をおこしたとき、天皇制の軍隊は、容赦なく銃火をあびせ、8千人近い人を殺し、多くの人びとを投獄しました。

という指摘があります。

 運動をきっかけに日本政府は、ハングルの新聞の発行を認めるなど、統治のソフト化を図った。運動の起爆剤となる独立宣言を書いた李光洙(イ・グァンス)は親日派となり、創氏改名して日本語の小説を発表する*11。果たして、建国の起点としてふさわしい日だろうか*12

 産経は常日頃「日本の韓国統治には問題などなかった」と強弁します。
 しかし、この文章は素直に解釈すれば「統治がハードだったから、ハングルの新聞の発行を認めなかったから、韓国人が反発して三・一運動が起こった(日本側にも大いに非があった)→運動後、ハングルの新聞の発行を認めるなど、統治がソフト化した」としか解釈できません。
 「結局、1945年の日本敗戦まで独立できかったんやないか。統治が多少ソフトになっただけやん、そんな日を記念するとか文在寅はアホと違うか」などと文政権を小馬鹿にしてる気なのでしょう。しかし、その結果、産経は日本の非を事実上認めてしまっています。こういうのを「問うに落ちず、語るに落ちる」といいます。
 しかしその理屈だと「チベット騒乱を記念してるダライ一味」はどうなるんでしょうか。内心では産経は「アホやなあ、あんな騒動起こしたかて死傷者が出てダライがインド亡命に追い込まれただけやのに」とダライ集団を馬鹿にしてるのか。

 韓国国内でも保守派は、韓国が正式に独立した48年を建国の年としている。

 意味不明ですね。建国をいつとみるかと三・一運動をどう評価するかは全く別です。韓国において三・一運動を全く評価しない人間はほとんどいないでしょう。例えば三・一運動参加者で「韓国のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれる柳寛順は

1962年、韓国政府がその功績を認めて建国勲章3等級「独立章」を授与し、独立烈士と呼ばれるようになった(ウィキペディア『柳寛順』参照)。

そうですが1962年と言えば朴チョンヒ軍事独裁政権です。朴の思惑はともかく、「親日派」朴も建前では「三・一運動を評価している」わけです。
 そして文在寅氏が柳寛順をたたえると「反日」と誹謗する産経も、そもそも「柳寛順が韓国において全国的に有名になったのは1962年の朴チョンヒによる叙勲」であることは無視するのだからいい度胸です。ただ将来的には朴チョンヒも産経にとって「所詮、彼の本心は反日であった」つう扱いになるんですかね。

 記念日にあわせた南北行事の共催も実現しなかった。三・一運動は、北朝鮮の抗日革命史とも相いれない*13

 何でそこで北朝鮮云々が飛び出すのか意味不明です。産経は北朝鮮シンパではないでしょうに。
【追記】

3.1独立運動に際して/平壌で報告会と討論会 | 朝鮮新報
・3.1人民蜂起100周年を記念して、「3.1人民蜂起100周年記念平壌市報告会」が1日、平壌の人民文化宮殿で行われた。
最高人民会議常任委員会の金永大副委員長が報告を行った。
 報告者は、3.1人民蜂起は日帝*14に奪われた国と民族の自主権を取り戻すための愛国抗争であったと指摘。「朝鮮民族の自主の精神と不屈の気概、愛国精神を誇示し、日帝の植民地統治に大きな打撃を与え、世界の被圧迫人民たちの民族解放闘争を大きく鼓舞した」と述べた。
 また、「3.1人民蜂起は人民大衆が民族の自主権と国の独立を求める闘争で勝利するためには、卓越したリーダーと革命的党の領導の下、自らの力量を固め、正しい戦略戦術に沿って組織的な闘争を展開するべきであり、武装には武装で立ち向かわなければならないという教訓を残した」と指摘。民族の自主独立を願う朝鮮人民の願いが金日成主席によって実現されたと強調した。
 労働新聞や民主朝鮮などの国内各紙も論評を通して、3.1人民蜂起は日帝に奪われた国を取り戻し、民族の自主権を確立するために皆が立ち上がった反日愛国抗争であったと強調した。
 また、朝鮮の国家切手発行局は3.1人民蜂起100周年を記念し、人民たちの闘いの姿や重要な蜂起地域が記された地図を収めた切手を発行した。

平壌で討論会/3.1人民蜂起100周年に際し | 朝鮮新報
 3.1人民蜂起100周年に際して社会科学部門の討論会が2月28日、平壌の人民文化宮殿で行われた。社会科学院のリ・ヘジョン院長、関連部門の教員、研究者、記者らの参加の下、3.1人民蜂起の歴史的意義と教訓、日本の加害責任を示す5編の論文が発表された。
 金日成綜合大学歴史学部のチェ・スナム学部長は、3.1人民蜂起が朝鮮人民の反日民族解放闘争の歴史において特筆すべき民族的な壮挙であったことを、蜂起の規模と特徴、蜂起で発揮された人民の民族精神、蜂起が反日民族解放闘争に与えた影響などに対する分析を通して解説・論証した。
 1919年3月1日に端を発する3.1人民蜂起は、平壌京城(現在のソウル)、南浦、義州、宣川、元山など主要都市で大衆的な反日蜂起が沸き起こったのを契機とし朝鮮全土はもとより中国東北地方やロシアの沿海地方など朝鮮人の居住する地域に急速に波及した。チェ学部長は3.1人民蜂起は日帝の植民地支配に多大なる打撃を与えたに留まらず、朝鮮人民にとっては民族的覚醒を促し、闘争を通じて単純なデモ行動や分散的で非組織的な闘いでは民族的独立を成し遂げることはできないという貴重な教訓を得たと指摘。過酷な植民地支配に屈せず朝鮮人民が発揮した愛国精神を引き継ぎ、全民族的な運動で自主的な統一祖国を築く闘いに積極的に参加すべきだと強調した。

 「おやおや?」ですね。
 これらの記事を信じるならば、産経の認識とは違い「北朝鮮三・一運動をそれなりに評価してる」つうことでしょうか。
 まあ

平壌で討論会/3.1人民蜂起100周年に際し | 朝鮮新報
 単純なデモ行動や分散的で非組織的な闘い*15では民族的独立を成し遂げることはできないという貴重な教訓を得たと指摘。

3.1独立運動に際して/平壌で報告会と討論会 | 朝鮮新報
最高人民会議常任委員会の金永大副委員長が報告を行った。
「3.1人民蜂起は人民大衆が民族の自主権と国の独立を求める闘争で勝利するためには、卓越したリーダー*16と革命的党*17の領導の下、自らの力量を固め、正しい戦略戦術に沿って組織的な闘争を展開するべきであり、武装には武装で立ち向かわなければならないという教訓*18を残した」と指摘。民族の自主独立を願う朝鮮人民の願いが金日成主席によって実現されたと強調した。

つうあたりは明らかに「三・一運動に対する否定的な評価」ではあるでしょうが。
 とはいえ、「三・一人民蜂起」「日帝の植民地支配に多大なる打撃を与えた」ですから、それなりの評価はしてるわけです。
 なお「北朝鮮から完全に脱線しますが」、「武力には武力」つう考えは「是非はともかく」ある意味自然です。
 例えば新刊紹介:「歴史評論」3月号 - bogus-simotukareのブログでも触れましたが、韓国民族運動には「安重根伊藤博文・前韓国統監暗殺」「尹奉吉白川義則上海派遣軍司令官暗殺」のような「暴力の歴史」もあるわけです。
 あるいはI濱女史、M氏、阿部治平などは認めたがらないわけですが「1959年の騒乱」で挫折したダライ一味は「米中が国交正常化して軍事支援が打ち切られるまでは」CIAの支援で中国相手にゲリラ戦やってたわけです。
 結局ダライがゲリラ戦をやめたのは単に「米国が支援を打ち切り、ゲリラ戦で勝利できる見込みがなくなったから」にすぎないわけです。
 ダライが「子どもの頃からエースで四番(オロナミンCのCM)」のように「子どもの頃から平和主義で非暴力」なんてぶっちゃけ大嘘です。
 まあこういうことをいうとチベット愛好家(M氏、I濱女史、阿部治平など)からは「チベットの悪口を言うな」と言われ、確実に嫌われ、憎まれますが。
 それと「これまた脱線しますが」脚注で「武力には武力があるべき路線」つうのは「全くの嘘ではない」ものの「かなりの程度、政治的思惑の入ったお約束だろう」と書きましたがこういうのは他にもいくらでもあるでしょう。
 例えば今の中国は改革開放して事実上、毛沢東の路線からは離れてるでしょうが、それでも「建国の父・毛沢東の路線を我々は引き継いでる」が「お約束」「建前」のわけです。あるいは聖書の「天地創造」「処女懐胎」「イエスの復活」なんて科学的に見て、明らかに全部嘘です。ただしほとんどのクリスチャンは「それらはすべて真実です」とは今や言わない*19ものの一方で「全部嘘です」とはっきり認めるクリスチャンもたぶんあまりいない。
 でまあ、「学問の世界では」そう言うお約束は「それ、ただのあんたらの建前にすぎんやん。事実と違うフィクションやん」と批判してもいいでしょう。むしろ批判すべきかもしれない。ただし政治の世界はまた話が別です。
 お約束を「ああ、そうなんですか」で流すことでうまく話を回していくつう事はありうる。小泉訪朝での「拉致は末端の犯行です、わしら中央は最近まで知らんかったんです(北朝鮮の主張)」を突っ込まずに「ああ、そうなんですか?」で流したのなんかその一例です。
 たとえばこの三・一事件の件だと

武装には武装で立ち向かわなければならないという教訓を残した

なんつうのは素直に読めば「日帝相手に平和主義なんて三・一運動の指導者は甘いんだよ、武器とって戦う以外に手なんかねえよ」「日帝の連中なんかぶっ殺して何が悪い」「そう言う甘さ、弱点を克服したのが金日成同志のパルチザン闘争です」としか理解できないわけです。

文在寅大統領演説(全文) (3.1独立運動100周年記念式) | ちきゅう座
 朝鮮人の抵抗で死んだ日本人の民間人*20は、一人もいませんでした。

として「三・一運動は平和主義で良かった」つう認識を前面に出してる文在寅大統領演説とは大分違います(なお文在寅大統領演説(全文) (3.1独立運動100周年記念式) | ちきゅう座の筆者が指摘するようにこの演説はなかなか格調高い、感動的な物であり「安倍と文氏」「日本人と韓国民」の「レベルの違い(もちろん前者の方が愚劣)を痛感できる」と思うので一読をお勧めします)。
 そういう北朝鮮側主張「武力には武力」は見ようによっては「現在の核武装の正当化」とも読めなくもない。
 で「黒坂真みたいな人格のゆがんだ反共、反北朝鮮、反文在寅、そして反韓国、戦前日本美化」の「反動極右でサイコパス」は「文は三・一運動は平和的で良かったといってる。しかし北朝鮮三・一運動はぬるかった、武力には武力だと言ってる。またこういう武力第一主義が核武装の原因ではないか。文は北朝鮮を批判すべきだ」あるいは「三・一運動を平和的でよかったと言いながら、一方で安重根尹奉吉といった暗殺者を愛国者扱いしてる*21のは文はおかしい」といいかねませんがそう言う話でもない。
 ここで「平和的な三・一運動はぬるかった、武器とってたたかった金日成同士は偉大だという北朝鮮は間違いだと思います」「『三・一の弱点を克服したのが金日成同士』みたいな、『伊達公子を超えたのが全米、全豪優勝、世界ランク1位の大坂なおみ』みたいな認識には賛同できない」とか文氏が言っても「文は金日成同志を馬鹿にするな」「三・一が伊達で、金同志が大坂なおみで何が悪いんだ」とけんかにしかならないわけです。全然建設的じゃない。そして文氏は「ある程度自由な発言が求められる学者」じゃなくて「様々な配慮をした政治的発言が求められる政治家」の訳です。政治家ってのは「本音をストレートに語ればいい」つう仕事ではない。
 そこは「三・一運動のような平和的運動は我々の誇りだ」と「ダライラマ的、マンデラ的平和アピール」する一方で、北朝鮮については「朝鮮新報(朝鮮総連機関紙)が報じる北朝鮮最高人民会議常任委員会・金永大副委員長の『武力には武力』発言をどう思うか、ですか?。まあ、北朝鮮には北朝鮮の考えがあるでしょうから(支持はしませんが批判はあえてしません)」と流すのが合理的なわけです。
 そういうことが理解できないと家族会みたいに「北朝鮮が憎いから制裁する。バーター取引なんかしない」つう「非合理的な話」になるわけです。
 「北朝鮮の言い分を批判しないで適当に流すなんて小泉は、文は北朝鮮シンパか」とか言い出す馬鹿話になるわけです。まあ、「太陽政策支持」の俺に対する「アンチ北朝鮮」N原さんの非難「ボーガスは北朝鮮に甘い」なんかもろにそれだと思いますが。まあそう言う意味で俺は「価値観が違いすぎる(単純なアンチ北朝鮮がN原さんだが俺はそうではない)」ので「俺の北朝鮮認識」についてN原さんに理解してもらえるとはかけらも思っていません。
 なお、ここで紹介した朝鮮新報記事については新刊紹介:「歴史評論」3月号 - bogus-simotukareのブログでも紹介して、別途コメントしてますので一読頂ければ幸いです。

*1:ただし後に西郷は赦免され正三位を追贈。正三位追贈後に上野に造られた銅像の建設費用として宮内省から500円が下賜されました(西郷隆盛 - Wikipedia西郷隆盛像 - Wikipedia参照)。

*2:東京新聞編集委員。著書『令和の代替り:変わる皇室、変わらぬ伝統』(2020年、山川出版社

*3:とはいえいかに実現可能性が低くても「老中暗殺を公言するような人間」は当時においては当然死刑になります。

*4:鹿児島大学名誉教授。志學館大学教授。著書『西郷隆盛はどう語られてきたか』(2018年、新潮文庫)など(原口泉 - Wikipedia参照)。

*5:あと一人は長州藩木戸孝允

*6:荻野以前にも楠本イネなど女医自体はいるため、こう表現しました

*7:他の二つは那須疎水、琵琶湖疏水

*8:拷問による自白のため、信憑性は怪しいとされる。後に中原も「拷問による虚偽自白」として『川路による西郷暗殺命令』の存在を否定している。

*9:後に途中退官し、衆院議員(自由民主党)、参院議員(みんなの党→結いの党→維新の党→民進党)。結いの党幹事長、維新の党総務会長、政務調査会長民進党副代表等を歴任(小野次郎 (政治家) - Wikipedia参照)

*10:蓮舫二重国籍」のデタラメ』(2016年、飛鳥新社)、『「立憲民主党」「朝日新聞」という名の偽リベラル』、『「反安倍」という病』(以上、2018年、ワニブックス)、『誤解だらけの沖縄と領土問題』(2018年、イースト新書)、『捏造だらけの韓国史』(2019年、ワニブックス)、『「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か』(2019年3月刊行予定、ぱるす出版)などトンデモ右翼著書多数。

*11:別に李光洙だけが運動参加者ではありませんし、彼の晩年の「親日行為」は若き日の行為を否定しません。なお、彼については小生も新刊紹介:「歴史評論」3月号 - bogus-simotukareのブログで簡単に取り上げています。

*12:余計なお世話です。つうか「植民地化後、初めての大規模な独立運動三・一運動)」を建国の起点と認識するのはごくごく自然です。まあ「2月11日に神武即位」なんて明らかな与太(虚構)を「建国の日」とする「東アジアの某島国」よりはマシでしょう。

*13:「相容れない」ことはないでしょう。ただ三・一運動には反共保守も参加してますし、マルクス主義的な運動ではない(また時期的に三・一運動当時は幼児の金日成も参加してない)のでその意味で「三・一運動の弱点を克服したのが金日成主席です(トリが金日成、前座が三・一運動?)」「孫文先生の考え『三民主義』を発展させたのが我々中国共産党です(蒋介石ではない)」的な扱いかもしれません。ただそれは「相容れない」つうことではないでしょう。

*14:大日本帝国または日本帝国主義のこと。

*15:前後の文脈から見て「単純なデモ行動や分散的で非組織的な闘い=三・一運動」でしょう。まあ北朝鮮の主張への賛否はともかく三・一運動は「1959年のチベット騒乱」同様、確かに、かなり「情緒的な運動」で「どうやって独立をするかという具体的なプランなどなく、それほど深い計算もなかった(当然、北朝鮮の言うような分散的、非組織的な面があった)」とは思います。そして三・一運動が弾圧され、独立という意味では挫折したからこそ「独立をどう目指すか」を深く考えるつう面もやはりあったでしょう。

*16:金日成

*17:朝鮮労働党

*18:まあ、「武装には武装」はあくまでも「北朝鮮金日成パルチザン闘争で建国された」とか「米国の核には我が国は核で対抗せざるを得ない、米国が正式に終戦協定を結び、我が国と国交樹立でもしない限り、米国の善意を信用し核廃棄することなど出来ない」とかいった「政治的思惑をバックに持つ主張(ある種のお約束、建前)」と見るべきでしょう。単純に北朝鮮が「武力第一主義」と見るべきではないでしょう。

*19:「すべて真実」と言う連中ももちろん一部にいますが

*20:わざわざ「民間人」といってると言うことは、「警官や軍人」には死者がいたのでしょう。まあそれにしてもおそらくは「警官や軍人に殴られたからやり返す的な物」であり「警官や軍人を自分たちから大量殺害」ではにないでしょうが。

*21:まあ、揚げ足取りすれば確かに「論理矛盾」かもしれませんが、まあ『韓国民の気持ち的にはそうなんだろうな』とよく分かる気がします。「安重根尹奉吉は民族の誇りだ」「三・一運動が平和的だったのは民族の誇りだ」が両立するのもなんとなく分かる気がする(まあテロとはいえ安らのテロは「無差別テロじゃない点(政府高官がターゲット)」は評価できるかと思いますが)。