「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう(2019年3/2分:三浦小太郎の巻)(追記あり)

書評 「もう一人の昭和維新 歌人将軍 斉藤瀏」伊藤悠可著 啓文社書房 | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 斎藤瀏とは「226事件」か「短歌の世界」に詳しい人でない限り、あまり知らない人物と思います。彼が何者かは三浦の記事にも書いてありますがウィキペディア『斉藤瀏』や『栗原安秀(斎藤と親交があった)』を見てみましょう。

■斎藤瀏(さいとう・りゅう:1879年4月16日~1953年7月5日、ウィキペディア参照)
・長野県北安曇郡七貴村(現・安曇野市)生まれ。
・旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を経て1901年に陸軍士官学校(12期)を卒業し歩兵少尉に任官。同期に杉山元*1、小磯國昭*2、香椎浩平*3がいる。
1903年に中尉に昇進し、1904年に日露戦争に従軍。この時短歌の道を志して、歌人佐佐木信綱に手紙を送り、教えを請うた。
1906年、大尉に昇進。
・1909年陸軍大学校(21期)を卒業。同期に寺内寿一*4、中村孝太郎*5、香椎浩平がいる。佐々木が主宰する竹柏会の歌誌『心の花』で佐々木に師事。
・1914年に少佐に昇進し、教育総監部参謀として上原勇作*6教育総監のもとで働く。1918年、大佐に昇進。
・1927年陸軍少将に昇進。歩兵第11旅団長として1928年山東出兵に参加、済南事件で国民革命軍(蒋介石軍)と交戦した罪で待命となる。
・1930年予備役となる。
・1936年、二・二六事件で反乱軍を援助したとして禁固5年の刑となり、入獄。官位勲功を剥奪される。収監された陸軍衛戍刑務所では家族ぐるみで親交があった226事件の陸軍青年将校の一人・栗原安秀(後に銃殺刑)と共に刑に服した。
・1938年に出獄した後は、軍国主義・右翼イデオローグとして活躍する一方で、歌人として雑誌『短歌人』を創刊、主宰した。
・1942年に発表された愛国百人一首の選定委員の一人として名を連ねている。同年、大日本言論報国会理事。
・1945年、北安曇郡池田町に疎開
・戦後、公職追放の該当者となる。戦後は歌集と共に二・二六事件の回想録『二・二六』(1951年、改造社)などを発表した。
・1953年、長女・斎藤史*7歌人)の家(長野市)で死去。
■没後
・1987年、NHKに保存されていた二・二六事件の電話傍受の録音盤の中にある栗原安秀が首相官邸からかけた通話の一つが事件終結直前の2月29日未明に斎藤へかけたものであることが匂坂春平(さきさか・しゅんぺい:226事件軍事法廷の首席検察官)が残した裁判資料から判明した。
 この通話では、「あのね、もしかするとね、今払暁ね、攻撃してくるかも知れませんよ」と軍による討伐が迫ることを告げる栗原に対して、斎藤は「内閣は真崎(甚三郎)*8じゃなきゃどうしてもいかんのかい?」と栗原に問い、「大活動起こそうと思ってね」「西園寺(公望)*9の所へ飛んでいくことになったんだ。何とかまだやるけどね」と政治工作に奔走している旨告げている。それに対して栗原は「間に合わんでしょうね。ではまあ、お達者で。これで最後でございます」という別れの言葉を残して電話を切っている。
・なお、斎藤は戦後に著した回想録『二・二六』のなかで、事件の間、何者かに自宅電話を傍受されているのではないかという疑念と共に、軍の諜報機関などによると思われる、要領を得ない謀略めいた電話が度々かかってきたことを記している。後者の疑念も匂坂が残した資料及び「傍受に当たった当時の関係者の証言」により事実であることが判明した。また「青年将校シンパ」「皇道派」「危険人物」とみなされていた斎藤への電話傍受は226事件発生前から軍の諜報機関によって始められていたこと、事件後の斎藤自身が傍受を警戒してかほとんど自分からは栗原らへ電話をかけていなかったことも分かった。

■栗原安秀(明治41年(1908年)11月17日 ~ 昭和11年(1936年)7月12日、ウィキペディア参照)から、斎藤関連記述
 1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した青年将校の一人(後に銃殺刑)。磯部浅一(後に銃殺刑)に並ぶ過激派として知られる。最終階級は陸軍歩兵中尉。
 二・二六事件において処分された斎藤瀏とその娘で歌人斎藤史(1909年(明治42年)2月14日~ 2002年(平成14年)5月26日)とは家族ぐるみの付き合いをしていた。大きくなっても、斎藤史からは「クリコ(クリ公?)」と呼ばれていたという。一方、栗原も斎藤史を改まった席では「史さん」と呼んでいたが、そうでない席では「フミ公」と呼んでいたという。
 226事件後は、西田はつ(右翼活動家・西田税の妻)や斎藤瀏と頻繁に電話で連絡を取っている。その多くは戒厳司令部により盗聴、録音されていた。
 死刑判決直後には看守を通じて同じ刑務所にいた斎藤瀏にメモを送った。そこには、「おわかれです。おじさん最後のお礼を申します。史さん、おばさんによろしく クリコ」と書かれていたという。

 ウィキペディアの記述だけでも斎藤が「226事件実行犯のシンパ」という相当の右翼であることが分かりますがこんな斎藤を

・栗原安秀は特に交流が深く、物心両面の支援を惜しみませんでした。
・2.26事件が勃発した時、それまでは青年将校に共感するような言辞を語りつつも、現実に蜂起が起きれば自らの責任を逃れようとした幹部軍人と異なり、青年将校たちの意図を生かしつつ、事態を収拾するために最も積極的に動いたのも斎藤でした。

として美化しちまうんだから三浦も相当の極右です。

 「物心両面の支援」といえば聞こえはいいですが要するに栗原の右翼活動への金銭支援です。
 小生の持っている、須崎慎一*10226事件』(2003年、吉川弘文館)p69には斎藤が、石原広一郎(石原産業社長)という人物を栗原に紹介し、石原から栗原に対し、活動資金として1万円が提供されたという話が出てきます。もちろん当時の1万円ですからかなりの額でしょう。
 昭和11(1936)年の3万円は今: 蹴球本日誌では

 大日本蹴球協会はベルリン・オリンピック参加にあたって、3万円を目途に寄付を募り、機関誌『蹴球』4巻3号 1936年7月 p.16-18に寄付者と金額を掲載しています。寄付金額トップ3は
1. 田辺治太郎 3,000円
2. 新田純興 2,150円
3. 竹内悌三 1,000円
です。当時会長だった深尾隆太郎ですら200円です。
 ところで当時の3万円は現在ではどのくらいの価値があるのでしょうか。
 日銀HPの「昭和9年<1934>~11年<1936>平均=1」とする消費者物価指数は、平成22(2010)年で1767.3になっています。ちょうど昭和11(1936)年ころが1なので、当時の1円は現在の1767.3円ということで計算しやすいです。
 30,000 X 1767.3 = 53,019,000円
 となって、現在では約5,300万円ということになります。個人では、
田辺治太郎 5,301,900円
新田純興 3,799,695円
竹内悌三 1,767,300円
深尾隆太郎 353,460円   
ということになります。

と書かれています。この記述を信用するならば石原が栗原に提供した1万円は、10,000円×1767.3=17,673,000円となります(平成22年と今では物価上昇率にもちろん若干の違いはあるでしょうが、それは無視します。なおここに名前が出てくる田辺ら日本サッカー草創期のサッカー界幹部についてはあとでウィキペディアの記述を紹介します)。一介の青年将校に1700万円もの活動資金が提供されたのだからずいぶんな肩入れです。今の日本だって一企業の社長が1700万円ものカネを「政治家への献金」であれ「NPOや文化学術活動への寄付」であれ、提供すれば「かなりの肩入れ」と評価されるでしょう。
 しかも石原の場合は栗原への支援と別に自らも「明倫会」という右翼結社を結成し、その代表ですから、彼が右翼活動に投資した金も半端ではないでしょう。おそらく石原は「青年自由党党首を務め、また右翼映画『プライド』を政策した東日本ハウス社長(当時)の中村功」、「アパ賞を田母神に与えたアパホテル創業者の元谷外志雄」、「右翼番組を放送しているDHCの吉田嘉明会長」のような右翼財界人だったのでしょう。
 ちなみに、石原は明倫会という右翼結社の代表であり、一方、斎藤はその明倫会の幹部でした。
 なお、石原の創業した、石原産業は「四日市ぜんそく訴訟の被告企業の一つ」で2012年には「フェロシルト不法投棄問題」が発覚してるのでそれでご存じの方も居るかもしれません。
 ちなみに、この「石原による栗原への活動資金提供」はウィキペディア「石原広一郎」にも記載されています。あとでウィキペディア「石原広一郎」を紹介しておきます。
 「事態収拾」といえば聞こえはいいですが要するに「青年将校の政治的願望(真崎の首相就任など)をできる限り叶えた上で、出来れば暗殺(斎藤実*11内大臣高橋是清*12蔵相、渡辺錠太郎*13陸軍教育総監)については無罪放免、それが無理でもできる限り寛大な刑罰にしよう(最悪でも死刑は回避しよう)」つう「青年将校シンパ」が斎藤ですから共犯も同然です。
 さすが、三浦もつくる会理事という極右だけのことはあります。例のNさんはこうした三浦の「斎藤評価に賛同するのか」聞きたいところです。つうか三浦は明らかに「斎藤だけではなく」栗原ら226事件青年将校に共感してるんじゃないか?。Nさんも栗原ら226事件青年将校に共感してるんじゃないか?。
 これで書評「日本赤軍とは何だったのか」和光晴生著 彩流社 | 三浦小太郎BLOG Blue Moonにおいて日本赤軍のテロを批判するのだから三浦もいい度胸です。
 「日本赤軍のテロは汚いテロ、226事件の暗殺はきれいなテロ」「岡本公三には共感しないが栗原安秀には共感する」「斎藤内大臣や高橋蔵相が殺されたのは仕方がなかった」とでも三浦は言うのか。呆れて二の句が継げません。
 なお、「青年将校に共感するような言辞を語りつつも、現実に蜂起が起きれば自らの責任を逃れようとした幹部軍人」つうのは有名どころでは、真崎甚三郎、荒木貞夫*14山下奉文*15といったところでしょうか。ただし、彼ら皇道派は皆「226事件」を契機に左遷され、東条英機*16武藤章*17ら統制派が陸軍の実権を握ることになります。まあ、東条や武藤について言えば「実権を握った」がゆえに戦後、戦犯として訴追され死刑判決が下ったわけですが。
 まさに「人間万事塞翁が馬」「一寸先は闇」ですね。「皇道派」を追放して我が世の春を謳歌した東条や武藤には皮肉にも戦後「絞首刑」の運命が待っていました。

【参考】

■石原広一郎(1890年1月26日 - 1970年4月16日:ウィキペディア参照)
 石原産業社長。1916年にマレー半島渡航し鉄鉱山の発見・開発に成功。東南アジア各地や日本国内での鉱山開発や、海運業へ事業を拡大した。1931年の満州事変勃発後、南進論提唱の好機が到来したとして政治活動を展開。戦後、A級戦犯容疑で巣鴨に拘禁されるも不起訴となり釈放された。
■鉄鉱山開発
 1919(大正8)年、バトゥパハのスリメダンで鉄鉱脈を発見。石原は事業化のため日本に帰国して、川崎造船所の松方幸次郎*18社長に保証人となってもらうことで、台湾銀行から融資を受けられることになった。1920(大正9)年9月、大阪市合資会社南洋鉱業公司を設立し、スリメダン鉄鉱山の開発に着手。八幡製鉄所に鉄鉱石を納入、会社は急成長した。
 その後、鉱石の自家輸送のため船舶を所有して海運業に進出。石原産業海運を中核に石原コンツェルンを形成。更に錫鉱業に参入し、1935年以降はアルミニウムの原料となるボーキサイトを発見・開発し日本に供給した。
■南進論
 ジョホールでは石原の鉱山がゴムに次ぐ税収源となったこともあり、スルタンの厚遇を受けたが、英国の規制の制約があり、またスマトラやボルネオ、ジャワ、セレベスなど蘭印の開発ではオランダと対立、南方での鉱山開発には植民地宗主国の法規制に左右されるという不安定さが伴っていた。
 1931年9月満州事変が起こると、インドシナの開発には軍部の力が必要だと考えていた石原は、「南進論」を主張して「アジア人のアジア」を実現する絶好の機会が来たとして、日本に帰国。
 徳川義親*19とともに大川周明らの右翼結社・神武会を支援。その後、大川とは袂を分かち、自ら右翼結社・明倫会を設立し、会社経営の傍ら、右翼活動を行った。また、明倫会幹部の陸軍退役少将・斎藤瀏を介して226事件首謀者の1人である栗原安秀陸軍中尉を資金面で援助した。
 1936年6月13日に226事件への幇助容疑で逮捕されるも、1937年1月18日に無罪となった。
 戦後は、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘留されるが、起訴されることなく1948年に釈放された。1949年に公職追放処分を解除され、石原産業社長に復帰した。戦後の石原は、戦前に自らが行った右翼政治活動を「自然の法則に反した政治運動であった」と反省。戦争で亡くなった人々の冥福を祈り、日本各地を歩きまわったという。

■田辺治太郎 (たなべ ちたろう:1908年3月18日~ 1972年10月16日)
 田辺製薬(現・田辺三菱製薬)社長、会長。元サッカー選手、サッカー指導者。
 第13代田辺五兵衛の長男として生まれる。田辺家は延宝6年(1678年)創業の薬業の老舗。初代の田辺五兵衛以来、当主は「五兵衛」を名乗る事が通例であった。
 桃山中学校時代にサッカーを始める。大阪商科大学(現大阪市立大学)に進学後もプレーを続ける傍ら、桃山中学の後輩の指導を務めた。大学在学中に全国中学校選手権大会(現全国高等学校サッカー選手権大会)の運営に携わると共に、関西蹴球協会の設立にも尽力した。
 1930年(昭和9年)に田辺五兵衛商店に入社し1933年(昭和8年)に同取締役に就任するが、その後もサッカーと携わり続け、社内にサッカー同好会を設立。同年の第10回極東大会選手団役員、1936年(昭和11年ベルリンオリンピック選手団派遣の募金集めの際には多額の援助を行うと共に、随行員として日本代表に帯同した。
 1941年(昭和16年)13代田辺五兵衛死去により、14代五兵衛を襲名し33歳で社長に就任。太平洋戦争最中の1943年(昭和18年)会社名を田辺製薬と改称。1946年(昭和21年)日本蹴球協会(現日本サッカー協会)副会長に就任し、サッカー界の復興にも取り組むと共に、宮田孝治、種田顕二、加藤信幸、賀川太郎*20鴇田正憲*21ら日本代表クラスの選手を次々に補強し、田辺製薬サッカー部の本格的な強化に取り組んだ。自らが監督を務めた田辺製薬サッカー部は、1948年(昭和23年)から始まった全日本実業団サッカー選手権大会の第3回大会から6連覇。6年間で94戦93勝(うち1勝は抽選による勝利)という圧倒的強さで全国リーグ創設前の実業団サッカー界に君臨した(ただし現在の田辺三菱製薬サッカー部はそれほど強くなく、Jリーグにも参加していない。ウィキペディアによれば、大阪府社会人サッカーリーグ3部に所属)。
 その一方でこの6年間において天皇杯全日本サッカー選手権大会への出場を辞退し続けた。その理由は「伝統ある天皇杯に勝つ事で、会社の宣伝にサッカー部を利用していると取られる事を田辺が嫌ったから」とされている。
 1959年(昭和34年)田辺製薬会長となり、社長職を譲ると日本蹴球協会でも顧問となり第一線からは退いたが、学生時代から収集した国内外の様々な資料を基に、協会の機関誌で長期間連載を行った。また1970年には社団法人神戸フットボールクラブ副会長を務める等、終生サッカー界の発展に携わった。
 1972年10月16日に死去。64歳没。
 2005年に第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。

■新田純興(1897年1月14日~1984年8月1日、ウィキペディア参照)
 元サッカー選手、サッカー指導者。
 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)でサッカーを始め、東京高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、第一高等学校、東京帝国大学でプレーを続けた。東大時代には大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)創設やア式蹴球全國優勝競技會(第1回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の開催に尽力した。
 卒業後に三菱鉱業(現三菱マテリアル)に入社。佐渡鉱山に赴任した為にJFAの活動からは離れるが、1935年に東京に戻るとJFA理事に就任。ベルリンオリンピックへの選手派遣費募金活動に尽力した。この際に田辺治太郎と共に多額の寄付を行った。
 太平洋戦争が始まると三菱鉱業から鉱山統制会に入り、統制会本部資材部長の要職に就いた。1945年8月15日の終戦により統制会が解散すると、自宅が空襲により被害を受けた事もあって東京を去り茨城県古河市に移り住んだ。1949年から1954年まで茨城県立古河第一高等学校の講師を務め、同校サッカー部を創設し指導した。
 1962年からはJFA常務理事に就任。1964年の東京オリンピックの準備委員長を務めた。また1974年にはJFA50周年記念事業の『日本サッカーのあゆみ』出版の際には6人の編集委員の中で中心的役割を果たした。
 1984年8月1日、埼玉県大宮市(現さいたま市)で死去。2006年に生前の功績が認められ、第2回日本サッカー殿堂入りを果たした。

竹内悌三(1908年11月6日 - 1946年4月12日、ウィキペディア参照)
 元サッカー選手。東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)在学中よりサッカーを始め、浦和高等学校を経て、1928年に東京帝国大学に入学してア式蹴球部に入部した。在学中の1930年に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦で日本代表として初出場した。
 大学卒業後は東京火災保険会社に入社。1936年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出され、主将としてスウェーデン代表戦など2試合に出場した。
 1944年、第二次世界大戦に伴って兵役に就き、終戦後はシベリア抑留となり、1946年4月、同地のアムール州第20収容所で死去した。
 2006年に生前の功績が認められ、第2回日本サッカー殿堂入りを果たした。

1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三|賀川サッカーライブラリー
 今回は、1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックの、あの対スウェーデン逆転劇チームのキャプテン、名DFの竹内悌三さん。
 竹内悌三さんは、この日本代表のキャプテンであり、学生選抜の中で、ただ一人の社会人、26歳の会社員であった。名門の東京府立五中(現・都立小石川高)、旧制浦和高(現・埼玉大)から東京帝大(現・東京大)でプレーした。
 ポジションはFB(フルバック)、今でいうDF(ディフェンダー)。浦和高ではCH(センターハーフ)。そのころは2FBシステムで、CHは守備だけでなく攻撃にもかかわる、いわば攻守の要だった。
 30年の第9回極東大会で初めてJFAが選抜チームによる日本代表を編成したとき、竹内さんはFBでプレーし、それ以来、このポジションに定着した。6年後のベルリンでは大会間際に3FBシステムを取ることになって、従来のやり方を変更したが、CFBの種田孝一や右の堀江忠男、左の竹内悌三たち3選手の理解が早く、新しいやり方は効果を表し、これが対スウェーデン戦の勝利の一つの原因といわれた。
“理詰めで、それでいて、剛も備えた名FB”とは、この人をよく知る東大の先輩、竹腰重丸さん*22の言葉。
 人柄といい、プレーヤーの実績といい、サッカー界にとっても大切な人――竹内さんはベルリンのあとも後輩を指導し、レフェリーを務めていたが、陸軍に召集され、終戦後、シベリアに抑留されて46年4月に病死された。

東京新聞:竹内悌三賞 佳作に国立の尾崎君 サッカー大好き、母子家庭児童支える:東京(TOKYO Web)
 照明デザイナー石井幹子さん(80)が母子家庭の小学生を対象に創設したサッカーの作文コンテスト「竹内悌三賞」の授賞式が二十二日、文京区の日本サッカー協会ビルで開かれた。優秀賞に愛知県豊田市の玉木花恵来(かえら)さん(10)=市立野見小四年=の「楽しくてむずかしいサッカー」が、佳作には国立市の尾崎太一君(9つ)=市立国立第一小三年=の「ぼくのほこりに思うお母さん」が選ばれた。 (加藤行平)
 賞の名称となった竹内悌三さんは石井さんの父。一九三六年のベルリン五輪サッカー日本代表の主将を務め、初戦で優勝候補とされたスウェーデンを3-2で破る快挙を収め、「ベルリンの奇跡」と称された。竹内さんは四四年に応召され、旧満州中国東北部)に出征。戦後シベリアに抑留され、四六年に三十七歳で病死した。
 このため母子家庭で育った石井さんは同じ境遇の子供たちに、「サッカーをあきらめてほしくない」と、父の名を冠して奨学金を贈る賞を創設した。
 玉木さんはサッカーJリーグ、名古屋グランパスのファン。受賞作では、地元のサッカーチームに入り、母由紀恵さん(43)からアドバイスを受けながら練習に取り組む日常を書いた。尾崎君は作品に「うまくできなくてくやしいときはいつもサッカーの話を聞いてくれた」などと母由紀さん(42)への思いをつづった。
 二人には日本サッカー協会川淵三郎*23相談役から賞状などが贈られ、尾崎君は「うまくなれるよういっぱい練習したい」と喜んでいた。
 川淵さんは「作文から二人はお母さんが大好きなことがうかがえた」と語り、石井さんは「これからもサッカーを愛する少年少女を応援したい」と話した。 

深尾隆太郎(1877年(明治10年)1月9日~1948年(昭和23年)4月17日、ウィキペディア参照)
・1899年に大阪商船(現・商船三井)に入社し、1920年に専務、1923年に副社長に就任。その後も、日清汽船社長、朝鮮郵船取締役、南洋拓殖社長、東洋電化工業会長、阪堺電鉄(現・大阪市交通局)相談役を歴任。
 第2代日本サッカー協会会長を務め、2005年に第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。

*1:陸軍教育総監、林、第一次近衛内閣陸軍大臣、北支那方面軍司令官、参謀総長など歴任。戦後自決。

*2:陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督、首相を歴任。戦後、戦犯として終身刑判決。服役中に病死し、後に靖国に合祀。

*3:226事件(1936年)当時の戒厳司令官として知られる。叛乱を穏便に収める目的で陸軍大臣告示が出されると、この中の「真意」という文言が「行動」に差し替えられる事件が起こったが、これは青年将校に同情的であった香椎の指示によるものであったことが明らかになっている。その後も警備命令を発して叛乱部隊を形式的に軍の統帥下に編入させたり、戒厳司令官に任ぜられた後も、28日まで昭和天皇から維新の詔を引き出そうと試みるなど、ぎりぎりまで武力鎮圧をためらっていた。そのため、昭和天皇の不信を買い、1936年4月に待命処分となり、7月に予備役に編入される。香椎自身は待命中に憲兵と法務官による取調を受け、予備役編入後も軍法会議への出頭を命ぜられた。香椎によれば、自らの行為はすべて、青年将校を自主的に投降させ、無血で解決するための計略に過ぎず、反乱幇助ではないという。香椎に疑惑を持つ法務官の追及にもかかわらず、香椎の言い訳を否定する証拠がなかったため、結局起訴されずに終わっている。

*4:台湾軍司令官、広田内閣陸軍大臣、陸軍教育総監、北支那方面軍司令官、南方軍総司令官など歴任

*5:林内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官など歴任

*6:第二次西園寺内閣陸軍大臣、陸軍教育総監参謀総長を歴任

*7:1993年、女性歌人としては初めて日本芸術院会員となる。1994年、『秋天瑠璃』により第5回斎藤茂吉短歌文学賞、第9回詩歌文学館賞を受賞。1997年、宮中歌会始召人を務める。 天皇に「お父上は斎藤瀏さんでしたね」と語りかけられたという。1997年10月『斎藤史全歌集』により第20回現代短歌大賞を受賞。11月勲三等瑞宝章を受章。

*8:226事件青年将校が首相にしようとしていた人物。台湾軍司令官、参謀次長、陸軍教育総監など歴任。

*9:第二次伊藤、第二次松方内閣外相(文相兼務)、第三次伊藤内閣文相を経て首相。元老の一人。

*10:2003年当時、神戸大学教授(現在は退職し、神戸大学名誉教授)。著書『二・二六事件』(1998年、岩波ブックレット)、『日本ファシズムとその時代 :天皇制・軍部・戦争・民衆』(1998年、大月書店)、『二・二六事件』(2003年、吉川弘文館)など

*11:第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任

*12:日銀総裁、第一次山本、原、田中義一、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相、首相を歴任

*13:台湾軍司令官、陸軍教育総監を歴任

*14:犬養内閣陸軍大臣、第一次近衛、平沼内閣文部大臣など歴任。戦後、戦犯として終身刑判決となるが後に仮釈放。

*15:226事件当時、陸軍省軍事調査部長だったが青年将校シンパと見なされ事件後、左遷される。その後は北支那方面軍参謀長、第25軍(マレーシア)司令官、第一方面軍(満州)司令官、第14方面軍(フィリピン)司令官など歴任。戦後、戦犯として死刑判決

*16:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、戦犯として死刑判決。後に靖国に合祀

*17:支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長、近衛師団長、第14方面軍(フィリピン)参謀長などを歴任。戦後、戦犯として死刑判決。後に靖国に合祀

*18:一般にはいわゆる「松方コレクション」で知られる人物。

*19:尾張徳川家第19代当主(侯爵、貴族院議員)。徳川美術館、徳川生物学研究所、徳川林政史研究所を設立するなど学究肌の人物として知られた。226事件については石原広一郎との親密な関係から取り調べを受けたが起訴はされなかった。戦後、日本社会党の結成を支援し、社会党顧問に就任(徳川は片山哲など後に民社党となる右派社会党幹部と交遊があった)。しかし、1946年に公職追放。追放解除後、1956年に名古屋市長選挙に立候補したが落選。

*20:2006年に第2回日本サッカー殿堂入り。2010年に第7回日本サッカー殿堂入りしたスポーツライター賀川浩の兄。

*21:2006年に第2回日本サッカー殿堂入り

*22:日本代表監督、日本サッカー協会理事を歴任。2005年に第2回日本サッカー殿堂入り

*23:Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長など歴任。2008年に日本サッカー殿堂入りしている。