今日の中国ニュース(2019年3月24日分)

「習近平思想(習近平新時代中国特色社会主義思想)」について|コラム|21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ
 「浅井先生の興味関心」と「俺の興味関心」は明らかにずれていますがコメントしてみます。

 私もかねてより、中国歴代最高指導者の中で、習近平*1毛沢東*2、鄧小平*3に続くもっとも傑出した指導者であると認識しています。

 これは習主席をあまりにも褒めすぎではないかと思います。しかし、俺も「周囲のブレーンの支えがあるとは言え」、そして政治状況が違うので「毛沢東劉少奇*4周恩来*5トウ小平江沢民*6胡錦濤*7」といった過去の中国首脳と単純比較できないとはいえ「AIIB」「一帯一路」というビッグプロジェクトを考案し、実行に移している習主席は「極めて有能な政治家」だと思います。「習仲勲*8」という大物政治家を父に持つ「二世政治家」とはいえ、「福州市党委員会書記、浙江省党委員会書記」といった地方回り経験もあります。我が国の安倍*9(岸*10元首相の孫、安倍*11元外相の息子)だの麻生*12(吉田*13元首相の孫)だのとは格が違います。
 「やはり習仲勲という人間は有能な政治家、相当の人物だったのだろう、それに比べて安倍だの麻生だのの父親は(以下略)」と思いますね。

 (ボーガス注:胡耀邦訪日時(1983年11月)に胡耀邦*14が国会演説を行うことが中国側の強い希望でしたが、中国共産党総書記の肩書きで訪日した胡耀邦が国会演説を行うことに対しては自民党の台湾ロビーを中心にして抵抗が多く、一時はその実現が危ぶまれました。私は(ボーガス注:当時外務省中国課長として)安倍晋太郎外相(当時)に結構可愛がられていました(?)ので直訴し、彼が私のいる前で台湾ロビーの当時の重鎮である藤尾正行*15に電話をかけ、国会演説に反対しないように説得し、胡耀邦の国会演説が実現したのでした。

 「へえ」ですね。もちろん浅井氏の働きかけだけでなく「自民党内の親中国派議員の働きかけ」などいろいろあったとは思いますが。

 党創設時代の中国共産党員は、李大釗、陳独秀、あるいは毛沢東周恩来にせよ、全員が中華民族文明伝統の薫陶を深く受けており、強烈な愛国の心情を有していた。彼らが西側に(ボーガス注:マルクス主義という)真理を探し求めたのも救国救民のためであり、彼らが愛国主義から共産主義の道に進み、中国共産党を創立してからも、依然として偉大な愛国主義者であった。このような愛国の心情は、中国共産党員の中ではすでに動かすべからざる偉大な伝統となっている。

 浅井氏が紹介するこの文は、「中国共産党中央宣伝部副部長、中央党校副校長を歴任した中国共産党幹部・鄭必堅」が中国共産党機関紙・人民日報のコラムに執筆した文だそうですが「おやおや?」ですね。李大釗*16毛沢東*17周恩来*18が評価されるのは何ら意外ではありません。
 しかしここで陳独秀中国共産党総書記)の名前が出てくるのは意外です。
 なぜなら、ウィキペディア陳独秀」によれば、陳は「晩年、トロツキー*19主義者としてスターリン*20批判を始めた」がために、党を除名された人物だからです(陳は1942年死去ですので当然ながら、彼のスターリン批判当時、スターリンは健在です)。最近は中国共産党での彼の扱いも「党除名以前限定」かもしれませんが、「以前よりは好意的な扱い」に変わってきているんでしょうか?。残念ながらこの点について浅井先生のコメントはありません。

 協商民主は中国社会主義民主政治における独特の、独自の、ユニークな民主形態

 いわゆる「政治協商会議(協商民主)」が民主主義的観点からどの程度評価できるのかは素人の俺には分かりません。ただ浅井先生も指摘されていますが、中国側が「一党独裁で何が悪い」とまでは言わず「我々も民主主義については一定の配慮をしている、それが例えば政治協商会議だ」と主張している点には注目したいと思います。


欧州で広がる「中国カード」の危うさ (写真=共同) :日本経済新聞

 欧州では警戒感を強める独仏が中国と距離を置き始めた。にもかかわらず、なぜイタリアや中・東欧諸国は引き続き対中関係を太くしようと試みるのか。

 この日経記事が言うほど「仏独が距離をおいてる」かは疑問です(例えば現在、訪欧中の習*21主席の訪問国の一つはフランスです)。がそれはさておき。
 接近理由は実に簡単で「中国との貿易などの経済的利益」ですね。
パキスタン、中国から21億ドルの財政支援 25日までに (写真=ロイター) :日本経済新聞
カンボジア初の高速道路着工 中国が全面支援、強まる影響力 :日本経済新聞
などでもわかるように中国はなかなか気前がいいわけですから。

 中国とのパイプ作りに奔走したイタリアのディマイオ副首相は極左政党「五つ星運動」の党首。貧困撲滅のため、欧州エリートに反旗を翻した政治家というのが売りだ。

 「はあ?」ですね。「五つ星運動って極左だったの?」ですね。現政権には「右派政党・同盟(日本で言えば自民?)」はサルビーニ党首が「副首相兼内務相」の重要ポストで参加し、一方、「中道左派政党・イタリア民主党(日本で言えば社民?)」が野党なので俺の理解では「五つ星=右派(日本で言えば維新?)」なんですが。日経の五つ星「極左」評価の理由は何なのか。いやそもそも極左がイタリアの政権に参加なんかできるのか。
 まさかとは思いますが「貧困撲滅のため、(ボーガス注:英独仏などの)欧州エリートに反旗を翻した政治家=極左」なのか。まさかとは思いますが「米国のサンダース上院議員」なんかも日経的には極左なのか?

 目先の最大の関心は5月の欧州議会選。外資を呼び込み、雇用を増やしたと有権者に訴えたい。その舞台装置として「一帯一路」を利用する。
 中国でなくてはならなかった。独仏からカネをもらえば「欧州エリートに身売りした」とみなされ、選挙にマイナス。反イスラム感情のなかで中東は考えられず、仮想敵ロシアはリスクが高すぎた。

 いやそれ以前に中国ほど気前のいい国が他にないんだと思いますが。「他にも大金出してくれる国があるけど一番中国が条件がいいから」ではなく「そもそも中国以外にそんな国がない」。

 欧州には中国どころか北朝鮮とも脈々とパイプをつなぐスウェーデンのような中立国もある。

 まあ2000年代以降は「パイプが太いかどうかはともかく」と

[外交] 欧州、北朝鮮との国交ラッシュ : 東亜日報
・欧州諸国が最近、急ピッチで朝鮮人民民主主義共和国(北朝鮮)と国交を結んでいる。オランダ(1月15日)、ベルギー(1月23日)、カナダ(2月6日)に次いで7日にスペインが北朝鮮との国交を樹立した。
平壌に大使館を設置する国はドイツと英国である。ドイツは1月24日、閣議北朝鮮と国交樹立を決定しており、英国は昨年末、北朝鮮との国交を樹立した。
・オランダとベルギー。この2ヵ国は、北朝鮮との国交樹立を巡って交渉を行う段階から、自国の在韓大使が北朝鮮大使を兼ねるといった条件付きを掲げた。こうした国交樹立方式は韓国と北朝鮮が対峙していた冷戦時代には考えられないことだった。
▼中国北京の常駐大使が北朝鮮大使を兼ねる国
 イタリア、スペイン、カナダの3国で、1973年に北朝鮮と国交樹立したデンマークがこのような方式を取っている。
 昨年1月、先進7ヵ国(G7)のうち、北朝鮮との国交樹立の際、この方式を採択したのはイタリアが初めて。
 北朝鮮に対する交渉や北朝鮮訪問などの外交上での公式業務は北京駐在イタリア大使館が担うことになる。しかし、イタリア企業が北朝鮮の進出に向けた経済協力分野などの実務に関する部分は在韓イタリア大使館が相当たる部分を担うとの見通し。
 今月6、7日に北朝鮮と引き続き国交を樹立したカナダとスペインもイタリアと同一の形をもって在中大使館と在韓大使館が業務を分担すると見込まれている。

北朝鮮観光25年を振り返る : ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌
2000年
1月 北朝鮮,イタリアと国交樹立(1/4)
5月 北朝鮮,オーストラリアが国交回復(5/8)
7月 北朝鮮,フィリピンと国交樹立
  北朝鮮,カナダと国交樹立(7/27)
2001年
1月 北朝鮮,オランダと国交樹立(1/15)
   北朝鮮,ベルギーと国交樹立(1/23)
2月 北朝鮮,スペインと国交樹立(2/7)
3月 北朝鮮,ドイツと国交樹立(3/1)
   北朝鮮,ルクセンブルグと国交樹立(3/6)
   北朝鮮,ギリシャと国交樹立(3/9)
   北朝鮮,ブラジルと国交樹立(3/10)
   北朝鮮,ニュージーランドと国交樹立(3/26)
4月 北朝鮮,クエートと国交樹立(4/4)
5月 北朝鮮,バーレーンと国交樹立(5/23)
6月 北朝鮮,トルコと国交樹立(6/27)
2002年
11月 北朝鮮,ティモールが国交樹立(11/5)
2003年
12月 北朝鮮,アイルランドと国交樹立(12/10)

ということでほとんどの欧州の国が北朝鮮とパイプ(国交)はあるんですが。ちなみにウィキペディア朝鮮民主主義人民共和国の国際関係」によれば

・イタリアはG7で初めて北朝鮮と国交を結ぶことで北朝鮮との関係樹立に関してアメリカの意向を気にしていたG7各国、欧州各国が国交樹立に動き出し、北朝鮮がヨーロッパで足場を築くのを助けた

だそうです。

 複雑な政治力学が中国に入り込む隙を与えているのである。

 日経の中国敵視は完全に異常ですね。経済的利益を目的に中国と付き合うことの何が「隙を与えている」なのか。

【追記】

北朝鮮に息子を留学させる英国議員の目論見 | 鉄火のマキ@London イギリス教育事情一番乗り
 英国労働党でEU議員を勤めたグリン・フォード氏*22は差別やファシズムに取り組み「生き残りに苦悶する北朝鮮」 を執筆した東アジア問題の専門家。東大で教鞭を取ったりトリビューン紙やジャパンタイムズにも寄稿する社会派の父を持つ18歳のアレックス君が西側からは史上初、ピョンヤン金正日大学に留学したというニュースです。
 北朝鮮と国交を持つ英国。西ロンドンの住宅街にひっそりある大使館の子弟達がどういう教育を受けているのが不思議でならなかったのですが、欧州の中立国のインターナショナルスクールが受け入れていたのですね。アレックス君はベルギーのインターナショナル・スクール北朝鮮幹部の子女たちと生活を共にし、夏休みに北朝鮮を訪れるほど仲良くなったのだとか。
 とは言え、親しくなったところで「金日成主体思想」に帰依する幹部育成のエリート教育が行われている大学で普通のイギリス人学生が入り込むなんてあり得ないことです。父親の強力なコネの下、このアレックス君もある意味エリート教育を受けてきた訳で、進学先のブリストル大学で今後は見識を広げていかれることを期待したいです。
 「経済成長の潜在力の高い北朝鮮と対話し信頼関係を構築していこう」と西側諸国へ直接投資を呼びかける父親の目論見のようなものが息子にどう引き継がれていくのか、イギリス政府が彼のような貴重なコネクションを持つ人材をどう外交政策の中に生かしていくのか興味がつきません。

 2015年の記事なので少し古いのですがなかなか面白いニュースだと思うので紹介しておきます。

*1:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*2:中国共産党主席

*3:中国共産党副主席、副首相、人民解放軍総参謀長などを経て党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*4:全人代委員長、国家主席など歴任

*5:首相

*6:電子工業大臣、上海市長・党委員会書記などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*7:中国共産主義青年団中央書記処第一書記、貴州省党委員会書記、チベット自治区党委員会書記などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*8:副首相、全人代副委員長など歴任

*9:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相

*10:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任

*11:三木内閣農林相、福田内閣官房長官自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、幹事長(竹下総裁時代)など歴任

*12:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)を経て首相。現在、第二~第四次安倍内閣副総理・財務相

*13:東久邇宮、幣原内閣外相を経て首相

*14:党中央組織部長、党中央宣伝部長などを経て党総書記。一時は「天が落ちてきても胡耀邦(党総書記)と趙紫陽(首相)が支えてくれる」とトウ小平党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席)が語るほどの信任を受けていた。しかし、1985年5月10日、香港の雑誌『百姓』のインタビューで、軍事委員会主席には用が無いと発言したためトウの不興を買い、後に総書記を解任される一因となった。胡の政治改革は、保守派の巻き返しにあい、1986年9月の第13期6中全会で棚上げされた。逆に同会議において保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は保守派の批判の矢面にさらされた。ついに1987年1月16日の政治局拡大会議で胡は総書記を解任され、趙紫陽首相が後任の総書記につくことが決まった。

*15:鈴木内閣労働相、自民党政調会長(中曽根総裁時代)、中曽根内閣文相など歴任

*16:1888-1927年。中国共産党創設メンバーの一人。1927年に国民党政権の蒋介石によって「ソ連と通謀している」として死刑にされた。1983年に李大釗烈士陵園が設置された。また、李大釗の長男・李葆華(1909-2005年)は後に、安徽省党委員会書記(1962-1971年)、中国人民銀行行長(1978-1982年)などを歴任した。

*17:党主席

*18:首相

*19:ソ連防相、外相など歴任。スターリンによって国外追放されるが、国外からスターリン批判を続けたため、スターリンの放った刺客によって暗殺された。

*20:ソ連共産党書記長

*21:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*22:著書『北朝鮮 ゆるやかな変革』(2008年、第一法規