今日の産経ニュース(2019年4月6日分)(追記あり)

大阪ダブル選 追い詰められた自民、劣勢か(1/2ページ) - 産経ニュース

 代表である松井氏の敗北は維新の重大危機に直結するため、維新の創設者である橋下徹前代表が救援に乗り出すか注目された。だが結局、ツイッターなどで援護射撃はしたものの、応援演説に立つことはなかった。

 今回のダブル選挙で維新がダブル敗北することを期待するアンチ維新の「俺の願望込み」ですが、つまりは橋下にとって「見捨てるわけにはいかないが深入りしたくもない」、それが今の維新でしょう。橋下が応援したからと言って勝てるか分からないし、勝ったところで都構想にとってバラ色の未来があるわけでもない。そういうことでしょう。


前日銀副総裁ら「脱デフレへ消費増税凍結を」 都内で反対シンポ - 産経ニュース
 言ってることは間違ってないと思うのですが、「やめたとは言え」安倍政権下の日銀副総裁だった人物が「デフレ脱却してない」というのには「何だかなあ(安倍が散々デフレ脱却を宣伝していたのを事情はともかくあんたは容認しただろ!)」感があります。まあそれだけ「10%増税に恐怖感を感じてる(後世、増税を黙認した不況の戦犯扱いされたくない)」つうことでしょうが。


「ポスト安倍」菅官房長官も有力候補 二階幹事長が明言 - 産経ニュース
 自らがした安倍四選支持発言への不評に耐えかねて「いや俺は総理が四選したいと言って、自民党の議員や党員が皆支持するなら反対する理由はないと言っただけだ。何が何でも四選がいいなんて言ってない」「首相はまだ何も言ってないし四選なんてまだずっと先の話だ」「別に首相の四選でなくてもいいんだ」と火消しを始めた二階氏*1です。
 しかしここで「官房長官は重要閣僚だ。過去にも官房長官経験者からの首相は、吉田*2内閣官房長官だった佐藤首相、池田内閣官房長官だった大平*3首相、鈴木首相、佐藤、田中内閣官房長官だった竹下*4首相、竹下内閣官房長官だった小渕*5首相、鈴木内閣官房長官だった宮沢*6首相、小泉*7内閣官房長官だった福田*8首相、安倍*9首相がいる。だから例えば菅さんがポスト安倍の首相でもいいんだ」と心にもないこと言い出すのが滑稽です。
 二階氏としてはここで「麻生*10副総理・財務相」「石破元幹事長」「石原*11元幹事長」「岸田*12政調会長」「河野*13外相」「野田*14元総務会長」といったマスコミ世論調査で名前が挙がってる人間の名前を下手に出すと「狭量な安倍」が「本当にあいつをポスト安倍にしたいのか」と逆ギレしかねない、と思ったのでしょう。しかし誰の名前も出さないのでは「安倍四選でなくてもいい」といっても今ひとつ説得力がない。そこで「重要閣僚だが名前を出しても安倍が怒りそうにない安全パイ(安倍政権官房長官以外ろくな役職に就いてない無能)」として菅の名前を出したと言うことでしょう。


【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(5)一乗寺下り松 尊氏との和睦 上奏の真意(1/3ページ) - 産経ニュース

 京合戦で敗れた尊氏は、九州まで落ちる。その後、京の奪回を果たして得意のはずの正成の意外な言動を『梅松(ばいしょう)論』は記している。
 〈正成奏聞(そうもん)して曰(いわく)、義貞を誅伐(ちゅうばつ)せられて、尊氏卿(きょう)をめしかへされて、君臣和睦候(そうら)へかし。御使におひては正成仕らんと申上たり〉
 反旗を翻した尊氏を召し返して和睦(わぼく)なさってほしい。正成はその使者となります、と後醍醐天皇に上奏したというのである。和睦のためには、尊氏と不仲の義貞を罰せよというのだから、思い切った進言だ。
 戦勝気分にひたっていた後醍醐天皇の廷臣たちは嘲笑したが、正成は本気だった。九州に落ちる尊氏に付き従う兵たちが予想以上に多かったのを、兵庫の浜で見たからだ。政権が人心を失っていることを、誰よりも正成は感じていた。

 この記録を信用するならば、
1)勝利におごり高ぶることなく、事態を冷静に判断し、尊氏を完全に打倒することは無理と判断し
2)その判断の下に最も現実的な「後醍醐政権の権力基盤強化策=尊氏との和睦&義貞の左遷」を義貞の立場をあえて無視して主張するのだから、楠木正成もなかなかの切れ者、合理主義者です。
 小泉訪朝による拉致被害者帰国を自らの手柄であるかのようにおごり高ぶり、北朝鮮が簡単に打倒できるかのように勘違いし、経済制裁を主張し「日朝交渉の進展」を妨害した家族会と正成は偉い違いです。
 問題は第一にこうした彼の進言を後醍醐や公家らが受け入れなかったことです。まるで「正成の勝利=蓮池薫氏ら帰国」「尊氏=北朝鮮」「後醍醐や公家=家族会や救う会」「正成=田中均氏」を連想させます。
 最大の功労者・正成の進言を「尊氏ごときに屈服できるか」「九州に落ち延びた尊氏など怖くない(彼が落ち延びたのは正成の手柄なのですが)」と思い上がって「馬鹿なことを言うな」と切り捨てた愚かな後醍醐ら同様、家族会は愚かにも「北朝鮮ごときに屈服できるか」「馬鹿なことを言うな」と「拉致被害者帰国の功労者」田中均氏らの交渉論をむしろ否定しました。
 第二にそれでも記録を信用するならば、正成はこうした合理主義を徹底できず、忠義心から後醍醐と縁切りできず、「足利氏に鞍替えするどころか」、敗戦を覚悟で戦い、実際に討ち死にしたわけです。正成を失った南朝はその後は「長いスパンで見れば」足利氏が擁立した北朝に押され、衰退の一途をたどることになります。


【日本人の心 楠木正成を読み解く】第1章 時代を駆け抜けた5年間(7)湊川前夜…今も心揺さぶる「桜井の別れ」(1/3ページ) - 産経ニュース

 桜井の別れを書いているのは『太平記』だけだ。そのため史実でないとする説もある。これについて、直木三十五(さんじゅうご)の弟で歴史家の植村清二*15は著書『楠木正成』でこう断じる。
 〈たとえフィクションであるとしても、遺憾なく正成の当時の心情を写している。そして正成死後の楠木氏の、足利氏に対する久しい抵抗は、この遺訓をそのままに実現した観がある。その点からいえばこの説話は、充分に国民的伝承としての価値がある〉

 「史実かどうか」という話をしているときに「史実でなくても史実として語り継がれたことは重要だ」というのは話が混乱しています。
 まあ確かに日本史に限らず「中国史でアレ西洋史でアレ」『事実でないからくだらない』で片付けていい話ではない。「事実として語り継がれたことが、社会にどのような影響を与えたか」ということももちろん重要です。しかし、一方で「事実か疑わしい話は事実扱いできない」のも事実です。


【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ-近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(1)(1/3ページ) - 産経ニュース

 「天皇人間宣言」の通称でしられる昭和21(1946)年元日に公表された「新日本建設に関する詔書」は、昭和天皇のご意向により五箇条の御誓文が冒頭に掲げられ、日本は敗戦・占領下にあるけれども、誓いを新たにして「このご趣旨にのっとり、新日本を建設すべし」などと述べられています。つまり戦後の日本は五箇条の御誓文を新国是として再出発したといえるのです。

 ウヨの所らしい詭弁です。昭和天皇は「そういうこと(戦前も戦後も国の指導理念は五箇条の御誓文で何ら変化はない)にしたかった」のでしょうが、実際にはそうはなりませんでした。なお、「人間宣言」の時点では日本国憲法は成立していません。この所の指摘からは、昭和天皇国家元首として戦前同様の政治権限を維持する「政治的巻き返し」を狙っていたこと、そのために「戦後も国の指導理念は五箇条の御誓文」とアピールしようとしたこと、しかしそうした企てが日本国憲法の制定(天皇の象徴化、政治権限の剥奪)によって完全に挫折したことがうかがえます。

 大和朝廷を中心とする統一国家の形成以降、隋・唐に学んだ律令体制のもと、名門の貴族や武家が政治・軍事の実務を運用し、そのうえに伝統的な権威をもつ天皇が一貫して全体を統合するという日本的なあり方が続いてきました。

 これまたデマですね。天皇は当初「日本国王」でしたが、次第次第に公家や武家によって実権を奪われていきます。しかし天皇は実権を奪われても「都合のいい神輿」として担がれ続け、公家や武家によって滅ぼされることはありませんでした。
 いずれにせよそれは「天皇が希望した物」ではない。結果的にそうなったにすぎません。
 したがって後醍醐のような「才能と野心にあふれた人間」が天皇になると彼は「天皇独裁」を実行しようとしますが、それは足利尊氏の反抗によって挫折します。


【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ-近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(3)(1/3ページ) - 産経ニュース

 昭和4(1929)年、「張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件」の真相究明における首相、田中義一*16の食言を問責されたことで内閣が総辞職した(※2)結果、国政に混乱を招いてしまったと反省され、ご真意の表明を控えられるようになります。

 こうした昭和天皇の主張「自分は田中を叱責したが辞任してほしいとは思ってなかった」「予想外の辞任に驚いて、その後は意見表明を控えることにした」が「日中戦争や太平洋戦争は自分の意思ではなかった」と強弁するための虚言であることは歴史学の常識です。
 歴史資料上、昭和天皇が田中の首相辞任に驚き、叱責したことを後悔していたなどという記録はどこにもありません。むしろ田中の食言に不信感を感じていた昭和天皇は田中の辞任を歓迎していました。「田中辞任で国政が混乱した」なんて何一つ思ってない。むしろ「辞任してほしいから叱責した」わけです。田中も「天皇は俺の辞任を希望してる」「天皇のご意向に反しないよう今後努力する、今までのディスコミュニケーション(意思疎通の食い違い)はお許し願いたいと言い訳したところで許してくれそうにない」「辞任以外に道がない」と思ったから辞任したわけです。会社で言えば田中は「社長(首相)」とはいえ雇われ社長であり、大株主に当たる天皇の意向を無視なんかできやしません。
 「辞任は予想外」という言い訳は戦後「天皇が戦犯として訴追されるかもしれない」という「田中辞任当時は予想していなかった*17」非常事態が発生して、初めて登場した「虚言」にすぎません。
 田中辞任の後も昭和天皇は「彼の言うような意味では」政治的言動を控えるなどと言うことは何一つしていません。
 彼は「国家元首」「最高指導者」なんだからそんなためらいがあるわけがない。そもそも政治権限を失った戦後ですら、「戦前と戦後の区別がつかず」国家元首気取りで「沖縄メッセージ」のような政治的言動をする彼がそんなためらいがあるわけがない。
 もちろん現代でもそうですが「大抵の上司」は基本的には部下に仕事を任せ、軽挙妄動はしません。昭和天皇もそういう意味では「何もしなくても仕事が回っていく」と思えば基本的には部下に任せる。
 しかし「田中の叱責」や「226事件」といった非常時がわかりやすいですが「部下に任せてられない」「俺が口出ししないとまずい」と思えばためらいなく口を出すわけです。226事件の時は陸軍が「責任問題」を恐れて穏便な措置(青年将校を軽い罰で済ませる)を執ろうとしたので、放置したら天皇の意思に反したとんでもないことになると思って「ふざけるな」「厳罰にしろ」と口出しするわけです。
 そういう場合は昭和天皇は意見表明を控えたりしない。
 日中戦争だって太平洋戦争だって「国家挙げての総力戦」という一大事業です。会社で言えば社運をかけた一大プロジェクトであり、社長(国家元首)の昭和天皇が「良きに計らえ」「後で失敗したらリカバリーすればいい。そのときは上司の俺がフォローするけどそれまでは部下のお前らで自由にやれ」で部下に丸投げできるようなちゃっちい、どうでもいい話じゃありません。実際彼はそんな丸投げはしていません。
 「戦争して勝てるのか」とかいろいろ当然口出しはしている。
 まさか所がそうした事実を知らないとも思えないので昭和天皇を免罪するための故意のデマでしょう。いい加減、「昭和天皇の戦争責任」を認めたらどうなんでしょうか?

 東宮侍従や侍従次長などを歴任した木下道雄氏(1887~1974)が残したノートをもとに編集された「側近日誌」が平成元年春に公開されました。そこに昭和20年8月の終戦当時、日光に疎開されていた皇太子殿下--11歳当時の今上陛下がつづられた「八月十五日 新日本の建設」という題の作文が書き写されています。
 その作文では、前線で戦った人々や銃後を守った人々の辛苦をねぎらうとともに、敗戦の原因について「英米の物量が我が国に比べ物にならない程多く、(中略)科学の力が及ばなかつた」からと冷静に分析されています。

 現天皇が小学生当時、敗戦についてどう考えていたのかつう事はある意味どうでもいいことです。小学生に深い政治、経済、軍事の理解や分析が出来るわけがないし、彼の得ている情報は結局「親である昭和天皇」とおそらく大して変わらないわけです。肉親の愛情もあるし、小学生の彼からは「父親(昭和天皇)が政治家として無能で無責任だったから」という敗戦認識は結局生まれてこない。今の彼が敗戦理由をどう考えてるのかは気になるところですが、彼の立場上、フランクな意見も言えないでしょう。


【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ-近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(5)(1/3ページ) - 産経ニュース

 私は学内生協の書店で偶然これを見つけて立ち読みし、がくぜんとしました。
 たとえ夢物語とはいえ、現行の憲法に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と明記される天皇とご家族を斬殺して嘲笑するような小説が公表される、というのは異常です。もしこれを放置すれば、やがて本当に天皇制度が抹殺されるような事態になるのではないかという危機感に襲われました。
 そこでまもなく「皇室の尊厳をお守りする運動」があることを知り、その署名運動に協力しました。
 気の小さい田舎者の私がそんなことに参加したのは、高校時代の恩師、稲川誠一先生の影響です。
 当時は日本教職員組合日教組)全盛の時代でした。先生は教育正常化のために日教組を脱退し、彼らから猛烈な非難にさらされましたが、堂々と信念を貫かれ、後には日本教師会*18の会長も務めておられます。この稲川先生が「皇室の尊厳をお守りする運動」に奔走され、私にも協力を求められたのです。

 ウヨの所*19らしいですが感覚が完全に狂っていますね。当時の日本において天皇処刑なんぞあるわけもないでしょう。
 絶句するのは所が、中央公論社長宅で発生した「右翼テロ(いわゆる風流夢譚事件)」について一言も述べずに逃げているところです。ウヨとして「社長宅の家政婦を殺害したテロ犯罪者」を非難したくないが、かばうわけにも行かずだんまりと言うことでしょう。所はどこまで卑怯で下劣なのか。所のようなゲスに「皇室への愛」を語られても天皇一家もありがた迷惑でしょう。
 ちなみにウィキペディア稲川誠一」によれば、稲川は「あの平泉澄」の弟子だそうです。


【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ-近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(6)(1/3ページ) - 産経ニュース

〈昭和57年夏、高校教科書検定で文部省が「(中国)華北に侵略」という記述を「進出」に書き換えさせた-などとマスコミ各社が一斉に報道した。誤報だった。しかし、訂正を出したのは本紙だけだった〉

 むしろこうした産経の物言いの方がデマですね。
 確かに「華北」での書き換えはなかった。しかし「中国や東南アジアへの侵略を『進出』と矮小化する書き換え」それ自体はあったわけです。
 そして誤報も故意ではない。今は状況が違いますが、当時の文部省はマスコミが取材してもろくに回答しないわけです。その結果「教科書会社はこう言ってる。文部省からは特に反論はなかった」つう書き方にせざるを得ない。つまりは教科書会社の勘違いだったわけですが。
 日本側に何の非もなければ宮沢官房長官談話だの、いわゆる近隣諸国条項なんか出来るわけもない。
 

 私のところに若い記者が来ました。「文部省による教科書検定の実態を正確に報道したいので詳しく話をしてほしい」と言うので、応じることにしました。取材は3日間にわたり、双方とも録音を取りました。ところが、実際の記事をみると、まるきり違う話になっていたのです。
 即刻、その記者に抗議をしたところ、「デスクに既定方針があって、それにそった記事となってしまい…」。そんな弁解を聞いてあきれかえりました。

 学者でありながらここまで意味不明な文章が書ける所には頭痛がします。
 「まるきり違う話」とは何が違うのか。「双方とも録音した」のにそんなことがあり得るのか。「あきれかえる」のは、所の自由ですが録音までしたのにその弁解を受け入れてそれ以上何もしなかったのか。何が何だかさっぱり分かりません。

 私の在任中から続いていた家永三郎*20先生の教科書裁判(※)には、私も文部省側の証人として出廷しました。
 家永先生は日本思想史の大家であり、非常に純粋な方です。思想的には右でも左でもない自由主義者リベラリスト)を自認されていました。しかし、一連の裁判では、反権力闘争の運動グループから支援を受けて、かなりエキセントリックな主張をかたくなに続けておられました。そんな姿をみて気の毒に感じました。

 何がどうエキセントリックなのか。書けるもんなら具体的に書いてみろ、書けないから書かないんじゃないのか、って話です。全くもって所は失礼です。まあ「反権力闘争の運動グループ*21から支援を受けて」云々て、まるで家永氏が「救う会のいいなりの家族会」であるかのように描き出すあたりも全く失礼ですが。


【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ-近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(7)(1/3ページ) - 産経ニュース

 以前、乃木希典(のぎ・まれすけ)の薫陶が昭和天皇に大きな影響を与えた話をしました。同じことをまもなく譲位される今上陛下について考えますと、穂積重遠先生(※1)をはじめとしてその「帝王教育」に献身された先生を幾人も挙げることができます。その代表が昭和24(1949)年に東宮(皇太子)御教育常時参与に就任した小泉信三先生(※2)です。
 まず小泉先生は、世界史を見渡すと、敗戦国では民心が王室から離れるか、怨嗟(えんさ)の対象となって君主制は終焉するのが通則である-などとしたうえで「ひとり日本は例外をなし、悲(かなし)むべき敗戦にも拘(かかわ)らず、民心は皇室をはなれぬのみか、或(ある)意味に於ては皇室と人民とは却(かえっ)て相近づき相親しむに至ったといふことは、これは殿下に於て特と御考へにならねばならぬことであると存じます」と問題提起しています。
 小泉先生はその“解”として昭和天皇の「御君徳」を挙げます。昭和天皇は平和を愛好し、学問・芸術を尊重し、天皇としての義務に忠実であり、人に対する思いやりが深いということを国民は存じ上げていた--などと説明します

 小泉の主張はデマカセも甚だしいですね。昭和天皇のどこが「国民への思いやりがあった」のか。自らの保身のために降伏を遅らせ、沖縄戦東京大空襲、広島、長崎原爆投下の悲劇を招いたのが昭和天皇です。
 このあたりのこと(昭和天皇が保身のために降伏を遅らせたこと)はすでに

井上清天皇の戦争責任』(2004年、岩波現代文庫)
・纐纈厚『「聖断」虚構と昭和天皇』(2006年、新日本出版社
・東野真『昭和天皇二つの「独白録」』(1998年、NHK出版)
山田朗昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)、『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店
・吉田裕『昭和天皇終戦史』(1992年、岩波新書)

など多くの歴史書が指摘しているところです。「昭和天皇の保身」については、小生がいちいち説明するよりもこれらの本をお読みになった方がよろしいかと思います。
 正直、こういうデマカセをほざく人間には心底怒りを覚えますね。
 確かに「第一次大戦でのドイツやロシア、トルコ」「第二次大戦でのイタリア」などで「戦争の惨禍から王政が崩壊した」のと違い、日本において「敗戦の怨嗟」は昭和天皇には向かわず、もっぱら東条英機ら陸軍に向かいました。しかしそれは「陸軍が悪い、昭和天皇は悪くない」という「情報工作」を「昭和天皇サイドがやり、その情報工作に愚かにも日本人多数がだまされ、丸め込まれた」にすぎません。
 しかし当然ながら全ての人間がこうしたデマカセにだまされたわけではない。
 だからこそ昭和天皇は「沖縄県民の怒り」が怖くて戦後、沖縄に行くことが出来ませんでした。また「自民党出身の本島長崎市長」ですらも「天皇には戦争責任があると思う」と発言したことは有名な話です。
 また、昭和天皇天皇制は生き残った物の、さすがに戦後においては国内外の批判で「天皇主権」が持続できなくなったことを小泉や所、産経が無視するのも無茶苦茶です。戦後の天皇は戦前と違い「大元帥(軍最高司令官)」でも国家元首(行政トップ)でもない。
 とはいえ、こうしたトンデモ教育を子ども時代に小泉から受けたとは言え、「昭和天皇の人徳で天皇制が維持された(小泉)」をそのまんま現天皇が鵜呑みにしたかどうかは疑問符がつくかと思います。彼も「本島長崎市長発言」などで、さすがに「昭和天皇の戦争責任」が国内外で問題にされていることは知っていたでしょう。そしてそうした批判に対し、小泉の主張がまともな反論になってないことは「米長と現天皇との応答を考える」に「賢明そうな現天皇」には本心ではわかってるんじゃないかと思います。とはいえ彼の立場上、彼が「昭和天皇の戦争責任を肯定*22しようが否定*23しようが」、政治的論争に巻き込まれて政治的に大けがすることが分かってるし、それをして「天皇制に怪我を負わせるリスクをおかすこと」をする動機は彼にはないでしょう。結局「ノーコメントでだんまり」になるわけです。


【昭和天皇の87年】「何と神々しい…」 天皇を仰ぎ見た学生は、のちに首相となった - 産経ニュース

 昭和9年11月、群馬県行幸した昭和天皇を仰ぎ見た旧制高崎中学(現群馬県高崎高校)の学生は、同校の機関誌にこう書いた。
 「実に何たる神々しい御姿であらうか、純白な台の上に夕日を浴びて立たせ給ふた 聖上陛下の御英姿、燦然(さんぜん)として夕日に映ゆる 天皇旗実に神々しさの極致であると申上げてよい。現人神の尊厳に自然頭が垂れて感激の涙が浮ぶ」
 「我々は、しみじみと日本人に生れた幸福を味ふことが出来た。そして何となく天地がひろびろして、三山も一層秀麗さを増した様な気がした。空は相変らずすつきりと晴れてゐた」
 あふれんばかりの感激をつづった学生の名は中曽根康弘*24、のちの首相である。 

 当時はそういうこと(天皇崇拝の意思表明)が国民に求められる時代ですからね。中曽根の本心がどうかはわかりませんし、ここから「その後の自民党政治家・中曽根」のルーツ(右翼思想の形成?)を見いだすことも適切ではないでしょう。まあ、そういう文章の執筆を求められる中曽根が当時から「優秀な学生だったこと」だけは確かですが。


【正論5月号】【サヨナラ平成 その光と陰】ポリコレという言葉狩りの時代 評論家 潮匡人(1/2ページ) - 産経ニュース
 ポリティカル・コレクトネスというとなんか難しく聞こえますが言ってることはごく当たり前のことです。

・「南京事件否定論」「ホロコースト否定論」「温暖化CO2原因否定説」など事実に反する嘘は許されない
・「日本共産党は今も暴力革命目指してる」「創価学会は今も国立戒壇目指してる」「前川元文科次官は出会い系バーで少女買春してた」などデマで誹謗中傷することは許されない
・「朝鮮・韓国人は日本から出て行け(在特会)」「障害者に生きる価値などない」「LGBTには生産性がない(自民の杉田水脈)」など差別や犯罪を助長、扇動することは許されない
・「チャンコロ(中国人への蔑称)」「黒んぼ(黒人への蔑称)」「土人(先住民への蔑称)」「特殊部落(被差別部落への蔑称)」「キチガイ精神障害者精神病者への蔑称)」「女だてら、女々しい(女性差別の疑い)」「めくら判、めくらめっぽう(視覚障害者への差別の疑い)」「つんぼ桟敷(聴覚障害者への差別の疑い)」「バカでもちょんでも(知的障害者への差別の疑い)」など差別語(あるいは差別を助長する疑いがある言葉)、あるいは差別ではないが「バカ」「ハゲ」「デブ」「ブス」「クズ」「ゴキブリ野郎」「豚野郎」など、礼儀を失した不適切な言葉は使わない
・「例の風俗営業」を「トルコ起源でもないのに」トルコ風呂というのは明らかにトルコに失礼だ。実際、トルコ政府も抗議してきたので「ソープランド」に改名しました
・「精神分裂症」「痴呆症」という言葉は差別を助長してる疑いがあるので「統合失調症」「認知症」に改名しました
・過疎地のことを「まるで日本のチベット」というのはチベットにも過疎地にも失礼だから使わない

などといった話です(ウィキペディアポリティカル・コレクトネス」参照)。つまり「差別や犯罪を助長しない、他人を傷つけない適切な表現をしましょう」つうだけの当たり前の話です。
 もちろん何が差別語、不適切な言葉に当たるかは時によって争いがあるでしょう。
 例えば「『砂の器』のハンセン病描写」については「差別を助長する」つう批判が患者団体からあったからこそ、あの映画は最後に「ハンセン病は不治の病ではなく、適切な治療で治る病気です」つう趣旨のテロップが出てくるわけです。ただし患者団体から指摘があるまで映画制作サイドはそうした問題に気づいてなかったわけです。トルコ風呂にしてもトルコから抗議が来るまではほとんどの日本人はなんとも思ってなかったわけです。後で紹介する石井議員も少なくとも発言当初は自分の発言を問題だともなんとも思ってなかったでしょう。
 どんな問題でもいわゆる「グレーゾーン」は存在する。むしろ「グレーゾーンが存在しない」物の方が少ない。
 しかしだからといってそれは、総論として「ポリティカル・コレクトネスが間違ってる」つう話ではない。単に「具体的各論」では不適切な場合もあるつうだけの話です(なお産経の場合「問題がある」とする具体的各論も多くの場合、産経の曲解、言いがかりであることがほとんどです)。
 例えば「近代化それ自体」に総論として反対する人はまず居ないし、それが適切でしょう。しかし「ならば近代化のために伝統文化を全て捨て去っていいか」といえばそれは違うわけです。纏足だのチョンマゲだの「弊害の多い伝統文化」「支持者のほとんどない伝統文化」は残さなくていいでしょうが、「津軽三味線のような日本音楽なんか西欧音楽に比べれば価値が低い。なくなってもかまわない」つう話ではない。
 だからといって「伝統文化の保護は大事だ。だから近代化しなくていい」つう話でもない。目指すべきは「適切な近代化」でありポリティカル・コレクトネスも話は全く同じです。
 結局、産経らウヨが「杉田のLGBT差別暴言」のような差別をしたいからこそポリティカル・コレクトネスに「言論の自由ガー」と反発するわけです。
 その一方で「昭和天皇の戦争責任発言(本島元長崎市長)」などには「天皇に無礼だ、撤回しろ」と言い出すのだから全くデタラメです。
 「ポリティカル・コレクトネスに反対、言葉狩りに反対。言論は自由であるべきだ」と産経が言うなら、例えば「天皇一族はろくに働いてないのに贅沢な生活をして税金泥棒だ」といっても産経的にいいのか?。といったら聞くだけ野暮な話です。
 「天皇一家に無礼だ」と言い出すのは目に見えています。

【参考:過疎地=日本のチベット、について】

岩手県ウィキペディア参照)
 1950~1960年代には、山岳地帯のため交通の便が悪いことや、主な産業が富士製鐵*25(現、日本製鉄)の釜石製鐵所位しかなく、所得水準が全国でも低いことから、岩手県庁自ら、「日本のチベット」と自称し、政府の振興策を求めたこともあったという。なおこの呼称は、1955年(昭和30年)1月22日封切のニュース映画『カメラルポ・脚光あびる日本のチベット岩手三陸』において用いられたことから定着したという。

岩手県とはどんなところ?  その1 日本のチベット(岩垂弘*26
・私が盛岡支局に赴任した一九五八年には、この県は「日本のチベット」と呼ばれていた。広大なうえ、山地が多く、開発が著しく遅れた地域だったから、そう言われていたのだろうと思う。 
 私の目に映った岩手県もそうした見方を裏付けるものだった。
・産業別の就業人口構成比は第一次産業(農林漁業)六二・九%、第二次産業(鉱工業)一二・六%、第三次産業(自由サービス業)二四・五%。この就業人口構成から も分かるように、主要生産物は農産物で、いわば“農業県”であった。大企業といえば、釜石製鉄所(釜石市)ぐらいのものだった(その釜鉄も今はない)。
・業が産業の主軸。その農業も、山地が多いので、畑作のウエートが大きい。が、寒冷地とあって、これといった換金作物も育たず、消費地の大都会も遠い。そんな条件だから、県民所得は低かった。つまり、貧しい県であった。
 一九五八年当時の県民一人あたりの所得は六五,四八〇円(県統計課調べ)で、全国平均の七二・五%。当時、取材先で出会った人びとは「わが岩手県は、一人あたりの県民所得では鹿児島県などとともに全国の最下位グループなんですよ」と、自嘲的に話したものだ。  
 とりわけ、「なるほど、日本のチベットといわれるわけだ」と私に思わせたのは、交通網の不備であった。
 なにしろ、交通はバスに頼らざるをえない。鉄道もあるにはあるが、限られた地域を結んでいるだけで、それも山間を通っているため、しばしば土砂崩れで長期にわたって不通となった。そこで、バスでということになるわけだが、当時、盛岡から県南の太平洋沿岸の大船渡市まで七時間もかかった。三陸海岸に近い岩泉町までは六時間。県北の久慈市に行くには、いったん青森県に出て、八戸から八戸線に乗り換えるという遠回りをしなくてはならなかった。まさに行くだけで一日がかりの行程だった。
 当時、県内で最も僻地といわれていたのは岩泉町と、やはり三陸海岸に近い田野畑村だった。なにしろ、岩泉町の面積は東京二十三区の約一・五倍。その岩泉町の中でも安家(あっか)、有芸(うげい)が「僻地中の僻地」といわれていた。
 田野畑村には「思案坂」と「辞職坂」といわれる坂道があった。私が耳にしたところでは、 昔、役人がこの村に赴任しようとして徒歩で役場に向かったが、あまりの遠路と僻地ぶりに、途中で「往こうか往くまいか」と思案し、ついに「やーめた」と引き返してしまった。そうした故事にちなんで名付けられたのだという。
 一九五九年二月四日付の岩手版に「玉沢少年の死がきっかけ 分校をつくろう」という見出しの記事が載った。久慈駐在の三船記者が書いたものだが、小学校からの下校途中、吹雪に閉じこめられて死んだ、県北・九戸郡大野村の開拓地の小学六年生、玉沢清美君(十二歳)の死を機に開拓地に小学校の分校をつくろうという話が進んでいる、という内容だった。玉沢君は小学校まで片道八キロの道を歩いて通っていたのだ。
 この記事を読んでいたら、目に涙がにじんできた。辺地に暮らす人たち、とくに子どもたちの苦労を思うと、胸に迫るものがあったからである。当時の僻地の生活ぶりを物語るエピソードの一つだった。

岩手県とはどんなところ?  その2 民謡にみる哀しさ(岩垂弘)
・整備が遅れた鉄道や道路。乏しい交通機関。寒冷地での畑作農業。少ない近代的な工場。全国でも最下位グループに属する一人あたりの県民所得。県内各地に点在する無医村と日本一の乳幼児死亡率。一九五八年(昭和三十三年)に盛岡に新聞記者として赴任した私の目に映った岩手県は、盛岡市など一部の都市部を除き、とても貧しかった。大学生活を東京でおくった私の目には、首都圏と岩手の落差はあまりにも大きかった。
 盛岡支局在任中、折にふれて私の心をとらえたのは岩手の民謡だった。
 岩手の民謡を聴く機会が何回かあった。盛岡の繁華街の料亭で開かれる宴会に出る機会があったからだ。
 沢内三千石 お米(よね)の出どこ
 桝(ます)ではからねで
 コリャ
 箕(み)ではかる
 盛岡から南西へ約六〇キロ、秋田県境に近い沢内村に伝わる盆踊り唄だ。このあたりは藩政時代、南部藩の隠し田だった。良質な米がとれた。「桝で量らないで箕で量る」ほどの美田だったというわけである。字面を追う限り、喜ばしいことを寿ぐ唄といえる。
 しかし、この唄が醸し出す雰囲気はなんとももの哀しい。というのも、この唄、実は哀歌だからである。芸者さんは「この唄のほんとうの意味はこういうことなのよ」と言って、歌詞を言い換えて唄ってくれた。発音は同じだから、耳で聞いただけでは同じだ。
 沢内三千石 およねの出どこ 
 枡ではからねで
 身ではかる 
 岩手の人たちによれば、沢内は名うての豪雪地帯。そのうえ、岩手県北部の三陸海岸から県内部に向かって初夏に吹く冷たい風、やませの風下にあたる。このため、冷害、凶作に見舞われることがあった。が、年貢米の取り立ては豊凶にかかわりなく厳しかった。困り果てた農民たちは年貢の代わりに、「およね」という娘を藩に差し出した。およねはなかなかの美人で、彼女のおかげで村は救われたという。いわば人身御供の悲しみをうたった唄なのだ。
・私の郷里、信州の代表的民謡といえば木曽節や伊那節である。それらは、朗らかで明るい。沢内甚句や外山節に感ずる哀調はない。
 岩手の民謡の基調は「貧しさ」ではないか。私は当時、そう思ったものだ。

岩手県とはどんなところ?  その3 首相の産地(岩垂弘)
・そうした後進性はどこからきたのだろうか。東京から遠隔の地である東北の一角に位置していたことが開発を遅らせてきたのだろうか、あるいは広大な山地が多く、気候も寒冷で、それがたびたび凶作をもたらすなどして産業の発展を阻んできたからだろうか。もちろん、そうした自然条件が影響していたことは確かだが、私の目には、日本の歴史そのものが、岩手を「後進県」におしとどめてきたように思えてならなかった。
戊辰戦争で「官軍」に刃向かったため、維新後、「朝敵」 「逆賊」の汚名を着せられ、明治政府からことごとに冷遇または軽視された。交通網や産業基盤の整備といった面で著しく遅れてしまったのも当然であった。
 盛岡支局在勤中、私は取材先で親しくなった人々が「なにしろ、わがみちのくは明治の薩長藩閥政府から『白河以北一山百文』とさげすまれてきたんですから。これは、福島県白河関以北、つまり東北は一山百文程度の価値しかない地域だ、という意味なんです」と、憤懣やるかたない口調で語るのを何度も耳にした。
 薩長藩閥政府に対する恨みつらみが、いまなお岩手の人びとの心深く宿っているのを知って驚いたものである。
 だが、「艱難汝を玉とす」という言い伝えがあるように、中央政府から強いられた苦難は傑出した人物を育んだ。「中央」に対する反発心や「中央」には負けまいとする気概と執念が岩手の人びとを鍛えたのである。
 あまり知られていないことだが、岩手県は明治以降、五人の首相を輩出した。まず、爵位をもたない衆院議員から首相となった「平民宰相」の原敬*27。次いで、海軍出身で二・二六事件で犠牲となった斎藤実*28。同じく海軍出身で戦争回避の道をさぐった米内光政*29。陸軍出身で太平洋戦争を起こした東条英機*30。そして、戦後、自民党総裁となった鈴木善幸*31である。東条は東京生まれだが、父親の英教(陸軍中将)が盛岡の出身であったことから、岩手県民は東条も岩手が生んだ宰相に数える。
 歴代首相の出身地をみると、山口県が七人*32でトップ。岩手県はこれに次ぐ。明治政府を牛耳った薩長土肥の四大勢力にも属さず、むしろ「朝敵」とレッテルをはられた岩手が、いわば“首相の産地”であり続けてきたこと自体、極めて異例なことだ。
 首相にはならなかったが、外相や東京市長*33をつとめた著名な政治家・後藤新平*34も岩手出身である。
 首相ばかりでない。陸海軍の幹部も多く輩出した。首相をつとめた斎藤実、米内光政はともに海軍大将だったし、東条英機も陸軍大将だった。そのほか、及川古志郎*35(海軍大将、海軍大臣)、栃内曽次郎*36(海軍大将)、山屋他人*37(海軍大将)、板垣征四郎*38(陸軍大将、陸軍大臣)らを排出している。
 陸海軍の幹部を多く輩出した背景の一つは、やはり岩手県が置かれていた政治的環境だろう。 「朝敵」のレッテルをはられた岩手の出身者が官界で頭角を現すのは極めて困難だった。その点、実力がものをいう陸海軍は、岩手県人にとって、いわば「開かれたコース」だったわけである。沈着にして粘り強い県民性も軍人に向いていたのかもしれない。
 もちろん、政治家と軍人ばかりでない。スケールの大きい国際的人物も育んだ。その代表が、 思想家、教育家で国際連盟事務次長をつとめた新渡戸稲造*39だ。その肖像は、まだ流通中の五千円札でみることができる。

 ウィキペディア岩手県出身の人物一覧」によれば他にも

椎名悦三郎
 戦前、岸信介・東条内閣商工大臣の下で商工次官。戦後、岸の誘いで政界入り。岸内閣官房長官、池田*40内閣通産相、外相、佐藤*41内閣外相、通産相自民党総務会長(佐藤総裁時代)、副総裁(田中*42総裁時代)など歴任
金田一京助
 日本におけるアイヌ語研究の草分け。

が岩手出身だそうです。

映画『大怪獣バラン』を読み解く - 風の向くまま薫るまま
・昭和33年の東宝特撮映画『大怪獣バラン』。
 その生息地は東北、岩手県北上山地の奥深き山中。
・劇中では、この岩手県の山奥を、ご丁寧に「日本のチベット」と称し、その僻地性を強調しています。
・この「日本のチベット」なる呼称は、やはり東北、特に岩手県を指していた表現のようです。
 1950年代には定着していた表現のようです。岩手県は四国ほどの広さを持つとも言われますが、その面積の70~80%は山地が占めており、50年代頃は交通の便が大変悪く、その山間部には、未だ電気も通っていないような村々が点在したことでありましょう。
 その僻地性、山地性がチベットを連想させた、ということでしょうか。

■大怪獣バラン(ウィキペディア参照)
・1958年公開の東宝が制作した怪獣映画。
・1980年代に東宝から発売されたVHSビデオでは、「日本のチベットと呼ばれる場所」という台詞のシーンがカットされている。

社会福祉法人風土記<39>岩手愛児会 中 情短施設つくり健康回復へ - 福祉新聞
・「社会福祉法人という団体も社会福祉ということも、全くといって知らなかった」。
 石川敬治郎医師(1932~2005)は岩手医大から虚弱児施設「みちのく・みどり学園」の第3代園長へ移った当時を遺稿集『どの子もすこやかに』(2008年)でこうふり返っている。
・戦後〝日本のチベット〟と呼ばれた岩手県医学生のころ、『ものいわぬ農民』(岩波新書、1958年)を書いた県国保連の大牟羅良さん(故人)の農村調査に同行している。医局時代は「アッパ(母ちゃん)とも言えぬうちに、紅い唇を閉ざしていく子らをなくそう」(遺稿集)と、かつてお年寄りと赤ちゃんの医療費を無料化(61年)した奥羽山脈のふもと沢内村(当時は深沢晟雄村長、現・西和賀町)で乳児検診を担った。年間の乳児死亡ゼロを達成している(62年)。

■石井一*43ウィキペディア参照)
 2010年2月22日に東京都内で行われた川上義博*44参院議員(鳥取県選挙区)のパーティーで講演し、「少し語弊があるかもしれないが、鳥取県島根県は人が住んでいるのか、牛が多いのか、山やら何かあるが、人口が少ない所で、日本のチベットみたいなものだ」と発言した。この発言に対し、自民党鳥取県連や鳥取県市長会が抗議文を出し、鳥取が選挙区の石破茂*45自民党政調会長(当時)は「両県とチベットにとって極めて侮辱的だ。」と批判した。これに対し石井議員は「チベット鳥取、島根を差別する意図はなかった」として謝罪を拒否した。

かつての「日本のチベット」は今 地域特性の「強み」と「弱み」 | 月刊「事業構想」2016年1月号
・歴史的な経緯もあり、明治以降の県土開発が遅れた岩手県は、かつて“日本のチベット”とも称された。農林水産業で豊富な資源を有し、ものづくり産業で発展を遂げた現在も、数々の課題が山積している。
戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟に加盟し、維新政府から厳しく処罰されたことが明治以降の県土開発に著しい遅れを招いたとされる。その結果、岩手県は“日本のチベット”として自他共に認める存在になったのである。
 しかし、それは同時に、多くの、そして極めて独創的な民間伝承・説話・文学を育むこととなり、「遠野物語」に留まらず、石川啄木宮沢賢治らの個性豊かな文学作品を生み出し、岩手県アイデンティティーを形成することとなった点は見逃せない。
・現在の岩手県は、もはや“日本のチベット”ではない。
・1980年代以降、東北新幹線東北縦貫自動車道の開通などを背景に、安価で広い土地と豊富な水資源を求めて、岩手県の「県南」「盛岡」地域に、自動車関連、半導体関連、弱電産業関連など、県外大企業の工場集積が進んだ(1998年から2007年までの10年間で189社)。2008年の経産省「企業満足度調査」で、「人材斡旋・育成に関する支援」部門で全国第1位、総合で第2位を獲得するなど進出企業からの評価も高い。

 2016年の記事で「昔はそう呼ばれていた」「でも今は明らかに違う」という書きぶりで「少なくとも主観的にはチベット差別でも岩手差別でもない事は明白」とは言え「日本のチベット=岩手」とはなかなかのもんです。もちろん褒めていません。やはり「日本のチベット」はまずいんじゃないか。


【バカでもちょんでも:参考】

■バカチョン(ウィキペディア参照)
 現在では知的障害者などへの差別用語と扱われている。
 2013年8月7日、自民党溝手顕正*46参院幹事長が党の会合で「安倍晋三首相のように非常に勢いのいい首相の下だと、ばかでもチョンでも(当選する)という要素があるのは否定できない」と発言。「候補者にも選挙民にも失礼だ」などの批判をあび、ただちに撤回するという出来事があった。

*1:小渕、森内閣運輸相、小泉、福田、麻生内閣経産相自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)を経て幹事長

*2:戦前、外務次官、駐イタリア大使、駐英大使など歴任。戦後、東久邇、幣原内閣外相を経て首相

*3:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)を経て首相

*4:佐藤、田中内閣官房長官、三木内閣建設相、大平、中曽根内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)を経て首相

*5:竹下内閣官房長官自民党副総裁(河野総裁時代)、橋本内閣外相を経て首相

*6:池田内閣経済企画庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相を経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で蔵相

*7:宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相を経て首相

*8:森、小泉内閣官房長官を経て首相

*9:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相

*10:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)を経て首相。現在、第二~四次安倍内閣副総理・財務相

*11:小泉内閣国交相自民党政調会長(第一次安倍総裁時代)、幹事長(谷垣総裁時代)、第二次安倍内閣環境相、第三次安倍内閣経済財政担当相を歴任

*12:愛一時安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二~三次安倍内閣外相を経て自民党政調会長

*13:第三次安倍内閣国家公安委員長を経て第四次安倍内閣外相

*14:小渕内閣郵政相、福田、麻生内閣消費者問題等担当相、自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)、第四次安倍内閣総務相を歴任

*15:著書『教養としての中国史』(講談社現代新書)、『諸葛孔明』(ちくま文庫)、『楠木正成』、『神武天皇』、『万里の長城』(中公文庫)など

*16:原、第二次山本陸軍大臣を経て首相

*17:そもそも田中辞任当時は日中戦争はまだ全面戦争に突入してませんし、太平洋戦争に至っては開戦していません。

*18:もちろん右翼団体

*19:著書『伊勢神宮』(1993年、講談社学術文庫)、『皇位継承のあり方:“女性・母系天皇”は可能か』(2006年、PHP新書)、『天皇の「まつりごと」:象徴としての祭祀と公務』(2009年、NHK生活人新書)、『象徴天皇「高齢譲位」の真相』(2017年、ベスト新書)など

*20:著書『戦争責任』、『太平洋戦争』(2002年、岩波現代文庫)、『一歴史学者の歩み』(2003年、岩波現代文庫)など

*21:そもそも「家永教科書に対する文部科学省教科書検定は不当だから裁判で撤回を求める」というのは「反権力闘争」とは違いますが。まあ、「非常に定義を広くとれば」、行政訴訟は全て「反権力闘争」になるでしょうが、所はそういうこと言ってるんじゃないでしょうしね。

*22:まあ賢明な彼は「到底全否定できないこと」は分かってるでしょう。

*23:言うまでもありませんが「昭和天皇の戦争責任」を彼が肯定すれば極右の攻撃が避けられませんが、一方で否定すれば「国外(欧米や中韓)の批判」や「国内の昭和天皇批判派の批判」も避けられません。

*24:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官を経て首相

*25:1950年(昭和25年)に、財閥解体により解体された日本製鐵(日鉄)の後継会社の一つとして発足。同じく日鉄の後継会社であった八幡製鐵と1970年(昭和45年)に合併し、新日本製鐵新日鉄)となった。その後、新日鉄は2012年に住友金属と合併し、新日鉄住金が誕生。新日鐵住金は2019年4月に日本製鉄に改称した。

*26:朝日新聞盛岡、浦和、静岡各支局員、東京本社社会部員、北埼玉支局長、浦和支局次長、首都部次長、社会部次長、編集委員などを歴任。著書『核なき世界へ』(2010年、同時代社)、『ジャーナリストの現場』(2011年、同時代社)、『戦争・核に抗った忘れえぬ人たち』(2018年、同時代社)など

*27:第4次伊藤内閣逓信相、第1次、第2次西園寺、第1次山本内閣内務相を経て首相

*28:第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任

*29:林、第1次近衛、平沼、小磯、鈴木、東久邇、幣原内閣海軍大臣、首相を歴任

*30:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後、戦犯として死刑判決。後に昭和殉難者として靖国に合祀。

*31:池田内閣郵政相、官房長官、佐藤内閣厚生相、福田内閣農林相、自民党総務会長(大平総裁時代)などを経て首相

*32:伊藤博文山県有朋桂太郎寺内正毅田中義一岸信介佐藤栄作のこと。文章を書いた時期が「安倍首相就任前」だからか、「選挙区は山口でも東京育ちだから」か安倍は入っていない。

*33:現在の都知事に当たる。

*34:満鉄総裁、第2次、第3次桂内閣逓信相、寺内内閣内務相、外相、第2次山本内閣内務相(帝都復興院総裁兼務)など歴任

*35:第2次、第3次近衛内閣海軍大臣軍令部総長を歴任

*36:海軍次官連合艦隊司令長官など歴任

*37:軍令部次長、連合艦隊司令長官など歴任。「他人」という名前の由来は「一度(形式的に)捨てた子どもを他人に拾ってもらうと丈夫に育つ」という俗信から、父親が「いちいち捨てたり拾ったりは面倒だ。名前を他人にしておけばいいだろう」と名付けたという。

*38:関東軍高級参謀として満州事変を実行。その後も関東軍参謀長、第1次近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍(シンガポール)司令官など要職を歴任。戦後、戦犯として死刑判決。後に昭和殉難者として靖国に合祀。

*39:拓殖大学学監、東京女子大学学長、東京女子経済専門学校(後の新渡戸文化短期大学)校長などを歴任。

*40:大蔵次官から政界入り。吉田内閣蔵相、通産相、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相を経て首相。

*41:運輸次官から政界入り。吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相科学技術庁長官を経て首相

*42:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相

*43:海部内閣国土庁長官、羽田内閣自治相・国家公安委員長を歴任

*44:いわゆる「2005年自民党郵政造反組郵政民営化に反対し反対票または棄権)」の一人。自民党鳥取県連より離党勧告を受けたため2006年に民主党に入党。しかしその後、民主党を離党。現在は自民党二階派に所属している(ただし自民党への復帰は認められていない)。

*45:小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣地方創生担当相など歴任

*46:第1次安倍内閣国家公安委員長