今日の産経ニュース(2019年4月20日分)

安倍首相「まあるく収めまっせ」 吉本新喜劇サプライズ登場 - 産経ニュース
 安倍に媚びる吉本にも、こんなくだらないことで人気取りをしようとする安倍にも心底呆れます。


酒気帯び容疑で米軍属逮捕 沖縄県警 - 産経ニュース
 今が沖縄補欠選挙中であることを考えれば完全に日本が米軍になめられてるとしか言い様がないでしょう。
 「何をやろうが日本なんか米軍に刃向かえない腰抜けだ。沖縄補欠選挙で自民が負けようが、だから痛くない」「そして、自民党もろくに抗議なんぞしやしない」と。


【昭和天皇の87年】軍務局長を惨殺 「陸軍はバラバラになった」 - 産経ニュース
 統帥権独立(軍の統帥権は内閣ではなく天皇直結)とは「政党の力が軍に及ぶことを恐れる伊藤博文*1山県有朋*2藩閥政治家」が「政党排除」のために構築したものでした。彼らは基本的には「アンチ政党」です(伊藤が立憲政友会総裁になるなど、後に政党との妥協を決意はしますが)。
 当然ながら彼らには「シビリアンコントロール文民統制)」のような考えはありません。むしろ「国会議員という文民」による統制を排除したいが故の統帥権独立です。
 そこには「非政党系の重鎮政治家(いわゆる元老)である自分らが軍をしっかり抑えておくし、自分らがなくなった後も、後継者たちが軍をしっかり抑える」「とにかく政党が軍に介入したら困る*3。世論に安易に迎合する政治家によって、軍や天皇の威信が壊される。政党から距離のある自分たちのような人間が軍を抑えないと国がゆがむ」という判断がありました(まあ、伊藤らがそういう「政党への否定的判断」から政党の影響力排除のために作ったのは統帥権独立だけでなく、「枢密院」「貴族院」「元老」「内大臣」もそうですが)。要するに「愚かな大衆とそんな大衆に選ばれる迎合政治家など信用できない。俺たち、国民に迎合しないエリートが国を守らなくては」つう愚民観も明らかに伊藤らにはあった。
 確かに伊藤や山県存命中には統帥権で生じる問題はほとんどなかったと思います。
 しかし、統帥権独立は「伊藤や山県死去後、元老・西園寺*4などが『明治維新実行者』だった伊藤、山県ほどのカリスマ性を持たず、彼らほどの権力を行使できなかったこと」もあり「満州事変(1931年)」「515事件(1932年)」「永田鉄山陸軍省軍務局長暗殺(1935年)」「226事件(1936年)」などと「統帥権独立を口実にした」軍の暴走を助長し「1945年の敗戦」を招くことになります。
 確かに伊藤らのもくろみのウチ「政党の軍への介入」は見事なまでに阻止できました。しかし「政党政治家がストッパーにならない」その代わりに期待される「軍の暴走ストッパーとしての非政党系の重鎮政治家」が伊藤、山県らの死後は機能しなかったわけです。

 荒木*5は、青年将校らの人心掌握が巧みだった。上官に対する無礼な振る舞いも「元気がいいのう」の一言で許し、過激思想を抱く急進派から絶大な人気を集めた。半面、下克上的な風潮を助長*6したともされる。

 しかし荒木貞夫陸軍大臣時代に高橋*7蔵相の「軍事予算カット」に抵抗できなかったことから、青年将校は荒木に「口先だけ勇ましいのか」などと失望し、その反動で真崎甚三郎*8青年将校の支持を集めるようになります。

 昭和9年(1934年)1月に荒木が陸相を辞任し、前朝鮮軍司令官の林銑十郎*9が後任になると、やがて陸軍内の勢力図は一変する。
 統制派の永田を軍務局長に据えて重用し、皇道派の締め出しにかかった。
 昭和10年7月、林は教育総監を務める皇道派の重鎮、真崎甚三郎の更迭を断行し、皇道派一掃の総仕上げとした。その際、昭和天皇は(ボーガス注:侍従武官長の)本庄*10に言った。
 「この人事が、陸軍の統制に波紋を起こすようなことはないか」
 昭和天皇の懸念は、1カ月後に現実のものとなる。
 昭和10年8月12日は、格別に暑い日だったという。
 午前9時45分、陸軍省内の執務室で東京憲兵隊長と面談していた軍務局長の永田は、無言で入室してきた男の存在に、最初は気付かなかった。殺気を感じて振り向いたとき、男は、すでに軍刀を抜いていた。とっさに立ち上がり、逃げようとした永田の背中に白刃一閃(はくじんいっせん)、軍刀は振り下ろされた。男は、なおも逃げようとする永田の背中に軍刀を突き刺し、側頭部を叩き斬った。制止しようとした東京憲兵隊長も振り払い、左腕に重傷を負わせた。
 男の名は相沢三郎、陸軍歩兵中佐である。
 相沢は、皇道派にシンパシーを抱いていた。敬愛する教育総監の真崎が更迭されたことに憤慨し、統制派の領袖(りょうしゅう)である永田を斬れば、陸軍は「正道」に戻ると信じていた*11。自身の行為が重大犯罪とは思わず、憲兵隊に拘束後、今後どうするつもりかと聞かれて「さあ(台湾の)任地へ行くべきだろう」と答え、正気を疑われている。

 産経が指摘するように荒木の陸軍大臣辞任、林の陸軍大臣就任を契機に「真崎の陸軍教育総監解任」「山岡の陸軍省軍務局長から整備局長への異動(後任の軍務局長が統制派の永田。そして永田自身がさらに皇道派の左遷を実行)」など、皇道派が左遷されるようになったことが青年将校たちの反発を生み、永田暗殺(1935年8月)、226事件(1936年2月)を招くことになります。
 なお、相沢は死刑になりますが、「いくら狂信的なアンチ永田とは言え」彼の非常識な言動「任地へ行くべきだろう」を考えれば「精神異常による心神耗弱」が成立し、無期刑にとどまった可能性は否定できないかと思います。こういう政治的な事件ではどう見ても「判決前から死刑ありき」でしょう。

参考

■相沢三郎(ウィキペディア参照)
 1935年7月15日に真崎甚三郎が教育総監を更迭された。これに不満を持った真崎は自身の更迭の経緯を文書にして皇道派青年将校に配布した。これを読んだ相沢は憤激し、永田鉄山軍務局長が陰謀の首魁であると考え、上京し永田に面会を求め辞任を勧告したが、逆に諭されて勤務地の広島県福山市へ戻った。
 この頃相沢は常軌を逸した振る舞いが目立ったため、定期異動において昭和10年(1935年)8月1日台湾歩兵第1連隊付で台北高等商業学校配属将校となった。
 同年8月12日に千駄ヶ谷西田税*12宅に一泊した後、陸軍省の山岡重厚*13整備局長(中将、皇道派)に異動の挨拶をおこなったその足で永田軍務局長を刺殺した(相沢事件)。犯行後に相沢は、「この後、偕行社で買い物を済ませ、そのまま台湾に赴任するつもりである」と口にしている。
 相沢の事件前後の言動から、彼が精神異常であったとみる者がいる一方で、永田殺害後に山岡中将がハンカチで傷の手当てをして、部下に命じて医務室に案内させたり、医務室への廊下の移動中にも誰ひとり逮捕しようとする者もなく、かえって根本博大佐から握手を受けたりして、維新を成したと称賛を受ける、と思っていたからだ、との主張もある。

■根本博*14ウィキペディア参照)
・1935年(昭和10年)8月12日に起きた相沢事件時には、事情が分からずに、事件を起こした直後に連行される相沢三郎に駆け寄り、握手を交わしたとされ、統制派の将校であるにも関わらず、誤解を受ける行動を起こした事を、後に悔やんでいる。
 なお、根本(当時、大佐)は226事件決起将校らが川島*15陸軍大臣に宛てた「陸軍大臣要望事項」の中で、軍権を私した中心人物として、武藤章*16中佐、片倉衷*17少佐と共に即時罷免を求められている。また226事件当時、決起将校らが2月26日の未明から、陸軍省において根本を暗殺しようと待ち伏せていたが、昨晩から深酒をして寝過ごした為に命拾いしたという。

 永田の死後、統制派の中心となったのは1年後輩の東条英機*18、日米開戦時の首相だ。池田は言う(池田純久著「統制派と皇道派」(雑誌「文芸春秋」昭和31年11月特別号収録))。
 「頭脳の上では東条大将も仲々切れていたが、永田中将のそれには到底及ばない。(中略)永田中将が存命だつたら日本歴史の歯車は逆転していたであろう」

 日中全面戦争、太平洋戦争が回避できたかという意味ではたぶん永田が存命でも状況は変わらないでしょう。東条によって陸軍の路線が永田時代から大きく変わった、そして変わったことによって日中全面戦争、太平洋戦争に突入していったというわけではないからです。
 ただし、首相として太平洋戦争を開戦し、戦後死刑となり靖国に祀られたのは東条でなく永田になったでしょう。東条は「実際に歩んだ人生」よりずっと平凡な人生で終わったでしょう。

*1:参議兼工部卿宮内卿宮内大臣、首相、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監など歴任。元老の一人。

*2:陸軍卿、内務卿、第1次伊藤内閣内務相、首相、第2次伊藤内閣司法相、枢密院議長、陸軍参謀総長など歴任。元老の一人。

*3:明治憲法上は議院内閣制ではないのですが、伊藤らは「議院内閣制度的運用(いわゆる憲政の常道)」を覚悟し、それに備えて「統帥権の独立」など、政党の影響力排除のネタをいろいろ仕込んだという話です。

*4:第二次伊藤、第二次松方内閣外相(文相兼務)、第三次伊藤内閣文相、首相など歴任。元老の一人。

*5:犬養内閣陸軍大臣、第1次近衛、平沼内閣文部大臣など歴任。戦後、戦犯として終身刑判決を受けるが後に仮釈放。

*6:そもそも「下克上」つうなら「石原莞爾板垣征四郎満州事変(陸軍中央の意思を無視して実行)」でわかるように陸軍全体の話であって、荒木ら皇道派だけの問題ではありません。

*7:日銀総裁、第1次山本、原、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相、首相など歴任。226事件で暗殺される。

*8:台湾軍司令官、陸軍教育総監を歴任

*9:朝鮮軍司令官、斎藤、岡田内閣陸軍大臣、首相など歴任

*10:関東軍司令官、侍従武官長、軍事保護院総裁など歴任。戦後、満州事変当時の関東軍司令官であることからGHQに戦犯指定されたことを苦にして自決。

*11:実際には皇道派の立場が更に悪くなった上に、「統制派の領袖」の地位に東条英機が座るだけに終わりますが。

*12:右翼活動家。後に226事件の黒幕として北一輝と共に死刑判決。

*13:犬養内閣において荒木貞夫陸軍大臣に就任すると、皇道派である山岡は1932年(昭和7年)2月、陸軍省軍務局長に抜擢される。その後、荒木が陸軍大臣を辞任し、林銑十郎が後任大臣に就任すると、1934年(昭和9年)3月には統制派・永田鉄山が軍務局長に就任。山岡は整備局長に異動する。相沢事件が発生すると、中央から追われ、第9師団長に就任。二・二六事件後のいわゆる粛軍人事で1937年(昭和12年)3月29日、予備役に編入された。しかし1937年(昭和12年)8月26日に召集を受け第109師団長に就任、華北地方を転戦する。1939年(昭和14年)1月1日に召集解除となるが、太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)4月1日、再度召集を受け善通寺師管区司令部(後に四国軍管区司令部に改称)司令官に就任、終戦を迎えた(ウィキペディア「山岡重厚」参照)。

*14:戦前、北支那方面軍特務部長、南支那方面軍参謀長、第3軍(満州)司令官、駐蒙軍司令官、北支那方面軍司令官など歴任。戦後、台湾(中華民国)総統の蒋介石の依頼を受け、台湾軍の軍事指導をしている(ウィキペディア「根本博」参照)。

*15:朝鮮軍司令官、岡田内閣陸軍大臣など歴任

*16:支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長、近衛師団長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任。戦後、戦犯として死刑判決。後に昭和殉難者として靖国に合祀(ウィキペディア武藤章」参照)。

*17:いわゆる陸軍士官学校事件の黒幕の一人とされる人物。陸軍士官学校事件で免官処分となった磯部浅一の恨みを買い226事件当時、磯部から銃撃され負傷している。関東軍参謀、第15軍(ビルマ)参謀、第33軍(ビルマ)参謀長など歴任(ウィキペディア「片倉衷」参照)。

*18:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相など歴任。戦後、戦犯として死刑判決。後に昭和殉難者として靖国に合祀。