・先日、ブラックホールの撮影に成功したことに触れた。
・いまや科学の最新成果をもとに、さわやかに生きるためのコスモロジーを創ることができる、というより創るべき時代になっていると思う。
・人はコスモロジーなしには生きられない。理論化、体系化されていなくても、みなそれぞれのコスモロジーにもとづいて感じ、考え、行動しているはずだ。
かつて、人類のコスモロジーはほとんど宗教だった。
コスモロジーとは狭義では「宇宙科学」、広義では「人生観(人生哲学)」「世界観」といった意味で使われます。高世の場合は広義ですね。
でいつもながら高世もあほな男です。狭義ならともかく「広義のコスモロジー」と宇宙科学とどう関係するのか。
「人間、いかに生きるべきか(人生哲学)」なんてのは宇宙科学とは全く関係ないですよね。というか「人文科学(例:国学、儒学やカント、ヘーゲル、マルクス主義哲学などの哲学)」ならともかく「人生哲学」と「理系関係の科学」は関係ないでしょう。
「宇宙はどう生まれたのか」「天動説と地動説とどっちが正しいのか(過去においてはキリスト教は天動説を支持)」「聖書の天地創造説と進化論、どっちが正しいのか」などは事実の問題に過ぎず、価値観の問題に答えを出してくれるわけではない。
事実認識は価値観にある程度は影響はするでしょうけど、それにしたって「人生哲学と宇宙科学は関係ない」でしょう。
イヤー、やっぱり高世は「こういう馬鹿なことを言う」点が「高世、手前みたいな馬鹿は黙ってろ」と突っ込みやすくていいですね(苦笑)
高世の周囲(家族や友人、知人)も良くこのバカ男と付き合えるもんだとある意味「感心」します。
近代の合理主義=無神論が登場すると、宗教的コスモロジーが否定される。この世には神も仏もなく、自分がすべて。だから、自分の幸せ、利益、楽しさだけを追求すればよい。
しかし、近代のこのコスモロジーには救いがない。生き方は、ニヒリズムとエゴイズムにならざるを得ない。
イヤー、だって「近代合理主義的に考えれば」神様の実在なんか証明できてませんからね(まあ、いないんでしょうけど)。そして「神がいない」と考えることは高世が言うような利己主義と直結してるわけでもない。
なぜなら「神はいない」というのは「事実認識の問題」であって「価値観の問題ではない」からです。
例えば「人は死ねばゴミになる」「あの世などない」といった伊藤栄樹・元検事総長は「高世の言うような利己主義者」なのか。違うわけです。「神がいようが、いまいが社会のために役に立ちたい」つう考えの訳です。
むしろ「神様の実在」なんか考えたら「なぜ神様はヒトラーやポルポトのような人間の蛮行(ホロコーストなど)を許したのか。そんなものが神と言えるのか」とか悩まざるを得なくなる。
結局、そういう悩みへの答えはおそらく「そういうことは考えないことにしよう」か「我々にはうかがい知れない、深い神の考えがあるのです」とかいう「何だかなあ」な話にしかならない。
人間も含めて、すべてが(ボーガス注:神の創造物ではなく)物質の寄せ集めだとすれば、善悪の根源も失われる。「なぜ人を殺してはいけないか?」という疑問にさえ答えることができない。
「神様の実在を否定したら殺人否定の根拠が失われる」そうです。「アホか」ですね。
「反社会的、反倫理的だから」「私自身も、私にとって大事な人(家族、友人など)も、私は殺されたくないから」「人命は尊いから」「殺人OKでは、人間の信頼関係が崩壊し、社会が運営できないから」、いくらでも答えはあるでしょうよ。
そして歴史的には「十字軍」「キリスト教過激主義者による妊娠中絶医師の暗殺」などでわかるように「神の意志を口実とした殺人」もあったわけです。高世が言うほど宗教は素晴らしくも何ともない。
そこで利用できるのが、最新の宇宙認識だ。それをもとに、とてもさわやかに生きることができるコスモロジーを形成することが可能である。そのことを私の師、岡野守也*1先生から教わって深く納得したので、おさらいもかねて書いてみようと思う。
高世が誤読してるのでない限り、岡野某ってよほど馬鹿なこと言ってるんだろうなと思います。つうか俺なんか高世みたいなクズに「師匠」とか呼ばれたら「黙れ、カス。誰が手前の師匠だ。ふざけんな、カス」ですけど。