「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年5/8分:高世仁の巻)

原発とジャングル2 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 拙記事「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年5/7分:高世仁の巻) - bogus-simotukareのブログで取り上げた高世記事https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/05/06/233000の続きです。

 ブラジル・アマゾナス州南部のジャングルの民、ピダハン。近代文明のもとに暮らす我々と異なるのは(ボーガス注:1日に2~3時間しか働かないという)労働観だけではなかった。人間関係はどうなっているのか。
 渡辺京二さん*1の「原発とジャングル」で解説、引用されたダニエル・L・レヴェレットの『ピダハン』(みすず書房)から紹介する。
 《結婚以前には、男女は気の赴くままに自由に交わる。同棲すれば結婚したものとみなされるが、既婚者同士が好き合えば(われわれの社会で不倫と呼ばれるケース)、ジャングルへはいって数日間出てこなければよい。戻って来てその二人が同棲すれば離婚が成立して新夫婦が誕生したものと認知される。棄てられた夫、あるいは妻は悲しんだり相手を探したりすることはあっても、騒ぎ(スキャンダル)にまでなることはない。しかも満月の夜の歌と踊りの際は、既婚者であろうと未婚者であろうと自由に交合する。まれには暴力沙汰も起こるが、「暴力が黙認されることはない」。

 「へえ?」ですね。まあ、それが事実とすれば、「ある意味」面白いとは思いますが、それだけですね。現実問題として日本も含め、多くの社会はそういう価値観で動いてないわけです。
 労働観については、まあ、「ピダハンを模範とする必要はない」「1日2~3時間ではないにせよ、過労死が蔓延する日本より労働時間の短い国はたくさんある」とはいえ、「ピダハンのように労働時間が短いのは良いですね」といえるかもしれない。
 「多夫多妻制(?)」「フリーセックス(?)」なんて「短い労働時間」と違って「すばらしいですね」と皆が言える代物じゃないわけです(まあ社会としてならともかく、夫婦が私的な形としてならそういうこと(お互い浮気自由)も一応は可能でしょうが)。
 じゃあ高世は「ウチのかみさんも飽きたから若いお姉ちゃんとセックスをしよう、かみさんが文句言うなら離婚してもいい。子どもも成人したから子どもをどちらが引き取るかという問題もないし」という人生が今後お望みなのか。
 まあ、奥さんも見ているブログでそんなこと書けないでしょうが、俺が高世の奥さんなら「あんた、こんなこと書くなんて、そんなに若い女の子とセックスがしたいの?(苦笑)」と突っ込みますよ。
 つうか「高世は子どもも成人したから浮気して離婚しても子どもをどちらが引き取るかという問題はない」と書いていて気づいたんですが、ピダハンはどうなのか。離婚したときに産まれた子どもが未成年の場合はどういう扱いをされるのか。女性が引き取ることになるのか。だとしたら男は身勝手もいいところでしょう。
 まあ小生は別にフェミニストでもないのですが、そういう点に全く配慮がないらしい高世と渡辺は、フェミニストに「女性への配慮がなさ過ぎませんか?」と突っ込まれても文句は言えないでしょう。

アメリカ先住民の部族は伝統的に平等社会であるが、ピダハンもそうで集落に指導者はいない。集団の結束力は固いのに、公的な強制力は存在しない。》
 要するに、エヴェレットの経験したジャングルの生活は、《権力と支配が存在せぬ平等社会であり、生きるための労働が最小限ですむ、というより労働と嬉戯がかっきりと区別されていない、成員の親和と幸福感がみなぎる社会だった。つまり、文明的装備が最小であるような一種のユートピアだった。》(P17)
 渡辺さんは、ここから、なぜ神話的伝承に、《人類の最古の状態を楽園として描き、以降の経過を堕落・劣化とみなすタイプが多いのか》の謎が解ける気がするという。
 《人類の原始には一種の楽園状態があったとする認識(それは原始共産社会というエンゲルスによる史的唯物論的措定にも反映しているのだが)は、狩猟採集時代の生存の安楽さ、平等性、被抑圧性のおぼろな記憶が、農耕開始後も長く保持されて来たことに由来すると考えておそらく誤りはあるまい。》

 どうなんですかね。そんなご大層な話ではなく、単に「昔は良かった」というノスタルジー、ファンタジーじゃないか。
 つまりは「落語や時代劇、時代小説(黒澤明映画『赤ひげ』など)の人情長屋の世界(江戸時代)」「映画にもなったマンガ『三丁目の夕日』の世界(昭和30年代)」が美しく描かれるのと同じじゃないか。
 まあ、「時代劇や三丁目の夕日」の世界が全て「きれい事か」というと見れば分かる通り、そうでもないのですが、とはいえ、貧困や人間関係の悩みなどが描かれても『つらくても苦しくても生きていこう、頑張ればそれなりの幸せがあるはずだ』という描かれ方で終わるのがほとんどで、全くのバッドエンドで終わることはまずありません。

 では、戦後最大の思想家に「原発がいやならジャングルへ戻れ」と言われて、我々は本当に戻れるだろうか。戻れないはずである。

 『せめて「戦後最大の思想家」にカギ括弧をつけろよ』、ですね。高世が吉本隆明*2をそう評価する(のか?)のは奴の勝手ですが、俺はそうは思わないですから。
 つうかhttps://takase.hatenablog.jp/entry/2019/05/06/233000を読み返すか、「吉本をそう呼ぶ人が居る」つう予備知識がないとこんなこと書かれても分からないですから素直に「吉本隆明」と書いてほしいですね。
 それはともかく、別にこんなややこしい考察(?)をしなくても「ジャングルに限らず」昔には戻れません。戻れないからこそ「昔が美化されることがある」わけです。戻れないのだからいくらでも美化し放題です。
 そして当たり前ですが「昔に戻ることが幸せとも限らない」。
 まあ、「今が不幸で、将来的にも幸せになれるか疑問だと思うならば」つい人間というものはたとえば「高度成長時代やバブル時代は景気が良くて良かった」「昔はトランプや安倍のようなクズが政権トップになることはなかった」などと過去を美化するもんですが、過去もそんなに立派なもんじゃない。
 どっちにしろそんなこと言ったってどうにもならない。結局の所「過去から存在するもので評価に値するものは残した上で更に改善を図る。評価に値しない物はなくしたり是正したりする」「その場合、海外の事例も参考にする(ピタバンは参考にならないと思いますが)」つう形でリニューアルする以外にはできることもないわけです。

*1:著書『逝きし世の面影』(2005年、平凡社ライブラリー)、『神風連とその時代』(2006年、洋泉社MC新書)、『なぜいま人類史か』(2007年、洋泉社MC新書)、『北一輝』(2007年、ちくま学芸文庫)、『日本近世の起源』(2008年、洋泉社MC新書)、『私のロシア文学』(2011年、文春学藝ライブラリー)、『維新の夢』(2011年、ちくま学芸文庫)、『神風連とその時代』(2011年、洋泉社新書y)、『ドストエフスキイの政治思想』(2012年、洋泉社新書y)、『私の世界文学案内』(2012年、ちくま学芸文庫)、『近代の呪い』(2013年、平凡社新書)、『無名の人生』(2014年、文春新書)、『幻影の明治:名もなき人びとの肖像』(2018年、平凡社ライブラリー)など

*2:著書『老いの超え方』(朝日文庫)、『改訂新版 共同幻想論』、『改訂新版 心的現象論序説』、『定本 言語にとって美とはなにか』(以上、角川ソフィア文庫)、『言葉からの触手』(河出文庫)、『西行論』、『写生の物語』、『書物の解体学』、『高村光太郎』、『追悼私記 完全版』、『マス・イメージ論』、『マチウ書試論・転向論』(以上、講談社文芸文庫)、『今に生きる親鸞』(講談社プラスアルファ新書)、『最後の親鸞』、『カール・マルクス』(以上、光文社文庫)、『詩の力』(新潮文庫)、『超恋愛論』(だいわ文庫)、『源氏物語論』、『初期歌謡論』、『思想のアンソロジー』、『悲劇の解読』、『宮沢賢治』、『柳田国男論・丸山真男論』(以上、ちくま学芸文庫)、『宮沢賢治の世界』(筑摩選書)、『島尾敏雄』(筑摩叢書)、『父の像』、『夏目漱石を読む』(以上、ちくま文庫)、『世界認識の方法』(中公文庫)、『背景の記憶』(平凡社ライブラリー)、『甦るヴェイユ』(洋泉社MC新書)など