新刊紹介:「歴史評論」6月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。まあ正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『第52回大会報告特集 歴史における危機と復興の諸相Ⅲ』
■米軍基地下の京都:占領から日米安保体制へ(大内照雄*1
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。以下は長いですが「俺が下手くそな文章を書くより、以下の文章をほぼ全文引用した方が、大内氏の考えが伝わる」と思い、長文引用です。これは「京都歴史教育者協議会(京都歴教協)主催の講演」で、この「歴史評論に掲載された講演(歴史科学協議会(歴科協)主催の講演)」とは違うのですが、もちろん講演者は同一人物で、「講演テーマも同じ(1945~1958年まで存在した京都の米軍基地)」ですので内容的にはかなりかぶります。
 「京都歴史教育者協議会(京都歴教協)ブログ」さんには御礼申し上げます。

4月例会 - kyotorekkyo ページ!
 (ボーガス注:2018年)4月例会では、昨年7月に『米軍基地下の京都1945年~1958年』(文理閣刊)を出版された大内照雄さんにご講演をお願いしました。
以下、ご講演の要旨です。ぜひ著作を読んでいただきたいと思います。
① Xバンドレーダー
  京都府の最北端経ヶ岬京丹後市)に建設された米軍Xバンドレーダー基地の運用が、2014年12月に開始されました。この基地建設に対しては、反対運動が取り組まれ、「京都で、関西で最初の米軍基地を許すな」というスローガンが掲げられることがありました。
  けれども、京都、あるいは関西に米軍基地が置かれるのはこれが「最初」ではありません。1945年日本の敗戦後、連合国軍による占領が始まると、日本各地に米軍をはじめとする外国軍の基地が建設されました。
② ここにも米軍住宅
  米軍の京都進駐は、1945年9月25日~29日の5日間に、7000名~8000名の米兵がやってきたことに始まります。ただちに米軍による建物の接収が始まり、府庁文書によれば186カ所の建物が接収されました。また1949年に進駐軍が発行した『CITY MAP OF KYOTO』(歴彩館所蔵)という地図には、京都市を中心とした62カ所の米軍基地や施設が赤色で表示されています(右図)。このクローバーハウスの近くでいえば、旧下村邸もそうです(烏丸丸太町、1932年当時の大丸社長であった下村正太郎氏の自宅として建てられた洋風建築)。それにこの同志社大学今出川キャンパス内の図書館がある場所には、明治初期から1972年まで華族会館という建物があって、そこも米軍に接収されました(米軍の家族用アパートとして改装された)。
四条烏丸に司令部
  そして京都には、連合国軍最高司令部(東京)のもと、第六軍司令部(主として西日本及び朝鮮占領を担当)が1945年9月25日に置かれました(翌年1月からは第一軍団司令部となる)。場所は四条烏丸の大建ビル(右写真、いまはCOCON KARASUMA)。1938年に丸紅商店京都支店として建てられ、地下1階地上7階の当時としては巨大な建築物であった。接収中は屋上に星条旗がかかげられ、五条坂近辺からも見えたといいます。
④ 工事は府、費用は政府
 こうして「基地の街」となっていく京都の姿を見ていきましょう。
  米軍による接収は、企業や国・府・市の所有するものだけではありませんでした。米軍高級将校の家族用住宅として、個人の住宅が対象になりました。特に岡崎*2周辺にある財界人の別邸や大邸宅がねらわれ、畳を板張りに、天井や壁にペンキが塗られ、洋風に改装された。またガス給湯・暖房施設、洋式水洗トイレ、シャワーの設置なども行われました。これらの工事は府が担当し、費用は政府が出しました。その他、下鴨、北白川、今熊野、山科安朱なども個人住宅の接収が多かった地域です。
京都御苑はダメ
  一方で、政府や京都府が何としても占領から守ろうとした場所があました。府庁文書によれば、京都御苑修学院離宮天皇陵や石清水八幡宮など48カ所を立ち入り禁止にしました*3。それでも京都御苑は、(ボーガス注:敷地が広いために)たびたび接収の候補地になっていました。進駐直後には飛行場としての接収が持ち上がり、実際に着陸テストも行われたようですが、樹木が多く飛行場には向かなかったらしく、代わりに二条城の東側堀川沿いが接収されました。
 ところが1946年7月になると、第一軍団司令部は米軍住宅として京都御苑約9万坪の接収を通告してきたのです(御苑の半分の面積)。(ボーガス注:ほとんど反対しなかった)個人住宅の接収とは対照的に、政府や府は全力をあげて(ボーガス注:皇室を守れとばかりに)御苑の接収に抵抗します。
⑥ 身代わりは植物園
  そこで代替地としてあがったのが京都植物園*4です。植物園は1924年に開園し、総面積27万㎡(約8万2000坪、御苑より少し小さいくらい)。樹木の7割が伐採され、108棟の下士官用住宅が建設されました。戦争孤児たち*5が京都駅周辺にあふれていた頃、御苑の身代わりになった植物園にはちょっとしたアメリカンタウンが出現していたのです(その後1957年12月に府に全面返還された)。
⑦ 米軍による事件・事故が続出
  京都が「基地の街」となると、米軍による事件・事故が続出します。
 米軍による被害を府庁文書「進駐軍事故見舞金支払行為負担書」で調べると、223件の事件・事故*6が記録されています。このうち最も多いのが交通事故で172件(うち57件が死亡事故)。ついで進駐軍の活動にともなう被害が30件。兵士による犯罪が21件で、うち3件が殺人事件です。殺人事件の一つは、1945年12月11の夕刻伏見区で23歳の青年が米兵2名に襲われ殺害された事件で、当時日本には進駐軍兵士を逮捕し裁く権利がなく、被害者家族は泣き寝入りするしかなかったのです。
⑧ 密約文書
  1953年9月29日になってようやく日米行政協定第17条が改訂され、公務中などを除いて日本側に裁判権が移されたのですが、問題はこの改訂の裏で密約文書が交わされていて*7、第一次裁判権の不行使を求めるアメリカ側の要求を受け入れてしまっているのです。その結果、1954年12月から55年11月までの日本側に裁判権のある米兵犯罪に対する日本の裁判権放棄率は、95.2%という驚くべき数字を示しています。
⑨ 「慰安」施設の設置
  「基地の街」化は、「慰安」施設の設置という問題も伴いました。
  早くも1945年8月18日、内務省は「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」という通達を発し、各地に進駐軍「慰安」施設の設置を指示したのです。
  これを受けて京都府は、キャバレー6カ所、酒場4カ所を設置し、府下の「貸座敷」を「慰安所」に指定しました。このような「慰安」施設の経営は民間業者が行ったが、施設の設置やその監督などにあたったのは府であり、これを担当したのは警察部であった。「慰安」施設のための物資を調達したのも府であった。
  こうして1945年10月20日現在、京都市内で「芸妓250名、娼妓1100名、ダンサー400名」が「慰安婦」として動員されました。日本軍「慰安」制度が引き継がれた側面もあるものの、米軍の性暴力から日本の婦女子を守るためにとして、占領軍「慰安」施設は正当化されていきます。
⑩ 性病拡大
  ところが、こうした「慰安」施設によって米兵の間に性病が拡大し、大きな問題になっていきます。対処に迫られたGHQは、46年3月に入ると、罹病率の高い「慰安」施設には米兵の出入りを禁止するオフ・リミットを実施したのです。
  つまり米軍の進駐のために多くの女性たちを「慰安婦」として動員していった日本政府や京都府は、オフ・リミットという米軍の性対策の転換の中で、一転して彼女たちを切り捨てていったのです。この結果、「パンパン」や「闇の女」、「夜の女」などと呼ばれ、基地の周辺や繁華街などで米兵を相手に売春をする街娼が急増することになるのです。
 さらに、街娼の女性たちへは、検診のために「狩り込み」と呼ばれた強制的な身柄の拘束も行われたのです。検診の結果、治療となるとその費用は自己負担とされ、強制入院は彼女たちの生活をいっそう困窮におとしいれ、より深く米兵相手の売春に縛り付けられていったのです。
朝鮮戦争を支えた京都の米軍基地
  1950年6月25日朝鮮民主主義人民共和国人民軍が38度線をこえ南進を開始しました。朝鮮戦争です。アメリカは強大な軍事力をもって介入します。地上軍の派兵だけでも、開戦から数ヶ月後には36万人へと膨れあがりました。この介入は「国連軍」を名乗って行われましたが、国連憲章に定められた手続きを経たものではなく、実態は米韓を中心とする多国籍軍に他なりませんでした。
  朝鮮戦争が勃発すると、各地に駐留していた在日米軍は次々と朝鮮半島に派兵されていきました。出撃港までの輸送には、主に国鉄が使われました。京都に駐留していた第25師団も、梅小路駅から連日輸送されました。大建ビルに置かれていた第一軍団司令部も、アメリカ本国で再編成された後に釜山へと移され、参戦していきました。
兵站(へいたん)基地となった京都の米軍基地
  京都にあった米軍基地は朝鮮への出撃拠点としてばかりではなく、後方支援地としての役割も果たしていきます。
  朝鮮戦争には、京都南部・精華町の祝園(ほうその)弾薬庫と舞鶴の弾薬庫から、銃弾や弾薬が補給されたのです。これらの弾薬庫は、旧日本軍軍事施設が進駐軍に引き継がれたものでした。
⑭ キャンプ・フィッシャーとホテル・ラクヨウ
  激戦をたたかう米軍兵士を休養させるための施設が必要だと、京都では伏見の旧日本陸軍歩兵第九連隊跡に置かれていたキャンプ・フィッシャーと京都駅前のホテル・ラクヨウ(現在の関西電力京都ビル)がその休養施設とされました。米軍公式のR・R(リターンズ・レクレーション)センターです。
  そうすると、その地域ではどんなことがおこったでしょうか。昨日まで最前線で戦争をしていた兵士が突然街にやってくるのです。タクシー強盗や女性への暴力など兵士による犯罪が頻発し、大きな社会問題になります。
 キャンプ・フィッシャーの置かれた藤ノ森周辺は「昭和27年から翌28年にかけての伏見藤ノ森かいわいはポン引きとパンパンの街といってよいほどで」「伏見署が扱った米兵の暴行事件が同管内で発生する暴力事件の大半を占める有様だった」とも報じられています(『都新聞』1955年5月20日)。
再軍備と日本軍の復活
  1957年、日本政府は、陸軍と海兵隊の米軍地上部隊を58年中に日本「本土」から撤退させるという共同声明を発表しました。米地上軍は58年2月までに撤退し、「本土」には空軍と海軍、陸軍の後方支援部隊と海兵隊の航空部隊の一部が残されました。しかし、それは自衛隊の増強と引き換えであり、多くの米軍基地は自衛隊へと引き継がれていきました。また、アメリカ軍政下の沖縄では、50年代を通して、米軍基地は1.7倍に拡張されたのです。
⑰ 中学校のグランドに武装米兵が侵入
 近鉄京都線大久保駅の西側に広がる自衛隊大久保駐屯地には、朝鮮戦争の休戦直後に第三海兵師団の部隊が移駐し、軍拘置所や飛行機滑走路が建設されていきました。この大久保キャンプ周辺の地域も、米兵の引き起こす犯罪など多くの基地被害に苦しめられることになりました。大久保キャンプに三方を囲まれた久世中学校(現在の西宇治中学校)は、さまざまな被害に苦しめられました。
 そしてとんでもない事件がおこったのです。1953年8月31日カービン銃で武装した海兵隊四個小隊の120名が久世中学校東側の垣根を越えて侵入し、一時間半にわたって校庭で訓練を行うという信じられない事件です。幸いにも、夏休み期間中であったため、生徒は登校していなかった*8ものの、宿直の教諭は問題がこじれるのを恐れ、教頭に電話で報告することしかできなかったといいます。
 また騒音による被害も深刻で、授業もまともにできないような状態だったといいます。米軍ヘリコプターの発着地点が教室からわずか80メートルしか離れておらず、20分間隔で飛来するたびに教室の窓ガラスがびりびりふるえ、先生の声がかき消されたのです。
 そして1954年2月20日夕刻、大久保駅近くの雑木林で10歳の女の子が大久保キャンプに所属する20歳の米兵に強姦されるという事件がありました。このほかにも米兵による性犯罪はあとをたたなかったのです。
《参加者の感想》
◆「京都は空襲はなかった」→嘘*9。馬町や西陣等、やられてます(アメリカが文化財を考慮して避けたなんてどこから来た噂?)
「京都が比較的穏やかに米軍を受け入れたのは、米軍が紳士的だったから」→そういう人もいたかもしれないが、沖縄に匹敵するくらい酷い事件や暴行が数えきれないほどあり、多くの人が泣き寝入りした実態あり。
 だから、「京丹後にXバンドレーダーが配備されるまで基地とは無縁だった京都」→大嘘。
  歴彩館や国会図書館の資料を駆使した力作の大内照雄さんの『米軍基地下の京都 1945〜1958』(文理閣 2017)ぜひ、読んで欲しい。
《大内さんのコメント》
 1945年から京都も連合国軍-京都の場合は米軍-の占領下に置かれることになります。京都には西日本の司令部が駐留し、多くの米軍基地・施設が置かれました。京都府立植物園(米軍家族住宅として)、左京区の岡崎一帯(兵舎や軍病院として)、二条城東側の駐車場(飛行場として)など、今日、観光客でにぎわう場所も米軍に接収されていきました。また、今回、例会が行われた同志社大学内のクローバー・ハウスにあった華族会館もそのひとつでした。
 米軍の駐留は、家屋の接収、米軍の引き起こす事件や事故、「慰安婦」としての下層女性の動員など、京都に暮らす人々に大きな影響を与えます。1950年に朝鮮戦争がはじまると、京都の米軍基地も出撃・後方支援の役割を果たし、基地の置かれた地域は戦争と直結することとなります。
 朝鮮戦争を接着剤にして、米軍基地は1952年の日本の独立後も日米安保体制の下で置かれ続けます。1945年から58年の13年間、京都に米軍基地の置かれた時代は、決して過去のことではないと考えています。しかし、京都にあった米軍基地は、沖縄へ移設されていき、また自衛隊へと置きかえられていきました。このような中で、京都に暮らす多くの人々には、日米安保体制は目に見えないものとなりました。
 日米安保体制の矛盾が押し付けられた沖縄や京丹後市での米軍Xバンドレーダー基地建設など、現在とつながるものとして1945年から58年の13年間の京都の戦後史を見ていきたい-今回の報告の問題意識はここにありました。
 しかし、報告者の力量不足のため、この問題意識が上手に提起することができたのか甚だ心もとないものとなり、ご迷惑をおかけしてしまったかもしれません。他方で、当時を知る方や平和・人権の立場から京都の戦後史を研究されている方にお教えいただく機会ともなり、報告者にとってはとても意味のある時間となりました。
 (ボーガス注:2018年)8月の歴教協会・京都大会では、少しでもお役にたてることができる報告*10ができればと考えています。

 1958年まで京都に米軍基地があり、米兵犯罪被害もあった、その結果、米軍基地撤退運動が京都に起こり、ついに米軍基地は京都から撤退した(ただしその結果、京都の米軍が沖縄に駐留することになった)という大内氏の研究は高世仁らの「沖縄米軍基地・本土引き受け論」がいかに馬鹿げてるかを余すところなく示している、と俺は思います。いったん本土から撤退させたもんをなぜ再度引き受けなければならないのか(もちろん大内本の問題意識の一つは高世のような「本土引き受け論」への批判でしょう)。
 「沖縄でいらないもんは本土でもいらない」わけです。しかし高世ら「沖縄米軍基地・本土引き受け論」主張者に「大内著書についてどう思いますか?」と聞いたらなんと答えるんですかね。なお、いうまでもありませんが本土の基地被害は京都だけではありません。
 なお、「沖縄と京都」で比較的共産党が強いことは有名ですが、「1940~1950年代の京都の基地問題」が共産党の支持拡大において仮に影響したとするならば、「沖縄との興味深い共通点」といえるでしょう。


【参考:京都のXバンドレーダー基地について】
米軍「Xバンドレーダー」配備問題/強力電波 漁業に心配/井上議員ら京都・京丹後調査 3自治体と懇談
米軍レーダーに懸念/井上議員が質問主意書
京都・米軍Xバンドレーダー計画/日本防衛とは無縁 安保問うたたかい
米軍レーダー/京都配備強いるな/井上議員 アセスなし批判
基地着工ありえない/米軍レーダー 井上氏が中止要求/参院外交防衛委
「米軍レーダー」撤回を/倉林氏主張 京都に配備計画
社会リポート/不安押しのけ 米軍基地/レーダー建設 反対広がる/京都・京丹後
丹後に米軍基地いりません/京都府民大集会 1400人超/倉林氏あいさつ/京丹後市
米軍Xバンドレーダー/未明の搬入、市民抗議/基地建設の中止を訴え/京都
京都・丹後半島 膨らむ「ミサイル防衛」基地/住民「ここが最も危険」
住民生活に影響深刻/穀田議員 地上イージス撤回を
米軍レーダー撤去せよ/井上氏 住民の安全守られず
Xバンドレーダー停波の情報/防衛省が自治体に“口止め”/井上・倉林氏の主意書への答弁

米軍、また通告なし工事 京都・京丹後市が防衛相に抗議 : 京都新聞
 米軍経ケ岬通信所(京都府京丹後市)が原則平日に行うとしていた工事を事前通告なしで再び休日に実施したとして、京丹後市は25日、小野寺五典防衛相に文書で抗議し、再発防止を申し入れた。

在日米軍「Y」ナンバーが事故 日本当局照会も米軍無回答 : 京都新聞
 近畿で唯一の米軍基地でミサイル防衛用のXバンドレーダーが運用されている米軍経ケ岬通信所(京都府京丹後市)について、京丹後市で昨夏、同通信所の米軍関係者が乗っていたとみられる車両が物損事故を起こし、近畿中部防衛局が在日米陸軍に照会したにもかかわらず、半年以上たっても回答がないことが13日、分かった。
 京都府の西脇隆俊*11知事が府議会代表質問で明らかにした。
 事故は昨年7月27日に京丹後市菅で発生した。米軍関係者が使う「Y」ナンバーの車両が道路脇の電柱に衝突したとの目撃情報が市を通じて防衛局に寄せられたという。防衛局は、京都府に事故情報を報告するとともに、在日米陸軍に事実関係を問い合わせたというが、「まだ回答はない。米軍の調査がどのように進んでいるのかについては言えない」(総務課)としている。
 西脇知事は「(米軍や近畿中部防衛局からの)情報提供がいまだになく誠に遺憾。適切に情報提供するよう引き続き防衛省を通じ米軍に働き掛けている」と答えた。
 米軍基地開設で京都では、2016年12月10日に京丹後市大宮町で米男性軍属の乗用車と市民の乗用車が衝突し計4人が負傷するなど、米軍関連の人身事故も発生。地元京丹後市は再三、交通安全対策を要請してきた。また昨年5月、京都府伊根町で起きた交通事故で、ドクターヘリを運航するため宮津与謝消防組合消防本部が米軍経ケ岬通信所(京丹後市)にXバンドレーダーの電波の停止を要請したにもかかわらず、同通信所が停波しなかったため、負傷者の搬送が17分間遅れた。Xバンドレーダーはレーダー照射で強力な電磁波が発生し、飛行に支障の恐れがあるため、同通信所の日本海側上空に半径・高度6キロの半円柱状の飛行制限区域が設定されている。

米軍関係者交通事故、1年以上公表なし 京丹後・米軍レーダー基地/昨年7月電柱破損は「米軍に照会中」のまま – 京都民報Web
 防衛省が「速やかに公表する」としていた、京丹後市の米軍レーダー基地に所属する米軍関係者による交通事故について、昨年2月4日から1年以上にわたり米側から確認が取れず、公表されない事態が続いています。
 こうしたもと、昨年7月27日に同市峰山町菅で発生した米軍関係者による電柱の破損事故について、約7カ月が経過した現在も公表されていません。同省は、「米側に照会中」であるが回答がないため、自治体などへの情報提供を行っていないとしています。
 この事態に対し、基地周辺の住民でつくる「米軍基地建設を憂う宇川有志の会」は7日、同基地前で「司令官殿 事故の情報を開示されたし! 約束ですよ!」と英語と日本語で書かれたプラカードを掲げて抗議しました。
 日本共産党の田中邦生市議団長は、「米軍の態度は見過ごせない重大な事態だ。また、公表されていない事故が他にも起きていないかも不明だ。米軍による約束違反が相次いでおり、基地配備の前提とされる『住民の安全安心の確保』は明らかに守られていない。安全保障に対する立場を超えて、『安全・安心の確保』が担保されない基地は撤去すべきの声を上げていきたい」と話しています。


【参考:高世の本土引き受け論について】
 小生の高世批判記事
 「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(1/19分:高世仁の巻)&北朝鮮最新ニュースその他色々(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ
 「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2/22分:高世仁の巻)&北朝鮮最新ニュースその他色々(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ
 「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(9/29分:高世仁の巻)&北朝鮮最新ニュースその他色々(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ
 「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(12/11分:高世仁の巻)&北朝鮮最新ニュースその他色々(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ

 小生が批判した高世の記事
 米軍基地を「引き取る」 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 米軍基地を「引き取る」2 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 米軍基地を「引き取る」3 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 共産の変心で「普天間」意見書見送りに - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 沖縄だけでなく本土でも住民投票を - 高世仁の「諸悪莫作」日記


【参考:ウォーナー伝説について】

http://www.asahi-net.or.jp/~fq3k-hsmt/trend117.htm
 戦争中、米国は貴重な文化財を守るために京都を爆撃目標から外した。こんな話を私は、小学生の頃に母親から聞かされて知った。平凡な主婦が子供に言い聞かせるくらいだから、相当広まった話だったのだろう。これが根拠のない神話であることを明らかにしたのが、吉田守男著「京都に原爆を投下せよ」(角川書店・一三〇〇円)である。
 米国が日本における貴重な文化財のリストを作成していたのは事実だが、それは文化財を保護するためのものではなく、日本のような侵略国が略奪した文化財を弁済させるために作られたものだった。
 しかも京都が爆撃されなかったのは原爆投下地の候補に挙げられていたからであり、原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、爆撃を禁止されていたのである。最後まで爆撃されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。
 膨大な資料を駆使した論証の過程も、また結論も、実に明快である。


■中東における占領と復興:イスラエル建国とイラク、そして日本(田浪亜央江*12
(内容紹介)
 内容が多岐に亘っていて、無能な俺には紹介しづらいのですが、俺的に興味深い点としてはアミーン・フサイニーの紹介がありますね。

■アミーン・フサイニー(1895~1974年:ウィキペディア参照)
エルサレムの有力な名家・フサイニー家の出身。サイクス・ピコ協定により中東が英仏の委任統治下に置かれると、フサイニーは「英国委任統治パレスチナ政府」のアラブ人顧問官の職に就く。
・1936年にヤッファのユダヤ人虐殺を煽動し、更に「パレスチナ・アラブの大蜂起」を3年間にわたり指導。このため、英当局によりベイルートへと追放され、そこからイラクへ移る。1941年にイラクでラシード・アリー・ガイラーニーによる親ナチス・ドイツの反英クーデターが起きるとラシード・アリーを支持・援助するが、イギリス軍が政権打倒のために軍事介入(アングロ・イラク戦争)したことで身の危険を感じイランに亡命。しかし、イランにも英ソ両軍が侵攻したことから、同国の日本大使館に逃げ込んで変装してイタリアに亡命した。
 最終的にフサイニーは、ナチス政権下のドイツへ渡り、11月29日にはヒトラーとも会見してヨーロッパからユダヤ人を「殲滅」するよう要求した。ヒトラーからは、中東・北アフリカにおけるユダヤ人一掃とアラブ民族主義勢力に対する支援の確約を得た。
 また、ベルリンからパレスチナに向けての反ユダヤ主義宣伝放送を続け、アドルフ・アイヒマン*13親衛隊中佐やアロイス・ブルンナー*14親衛隊大尉とともにアウシュヴィッツ強制収容所の視察も行った。またボスニアムスリムで編成された第13SS武装山岳師団の設立に関与。このSS山岳師団は、バルカン半島におけるユダヤ人狩りを行っている。戦争末期にユダヤ人移送中止の動きがあるとフサイニーはこれに反対し、ユダヤ人移送を強硬に主張し続けた。
 1945年、対独協力者として独国内でフサイニーはイギリス軍に捕らえられたが、翌年脱獄、カイロに赴く。1948年の第一次中東戦争アラブ諸国が敗北した後、ガザに設置された「全パレスチナ政府」の大統領となったが、四ヶ月で崩壊。1959年以降はベイルートに隠棲した。
 イスラエルからは、「ホロコーストはフサイニーがヒトラーを唆した」あるいは「フサイニーはヒトラーの共犯者」という主張が行われることがある。

 当初、英国のバックで政治活動を始めながらも、英国に失望、ヒトラー・ドイツに接近した彼の生き様は「目的のためなら手段は問わない」というマキャベリズムそのものです。だからといって「イスラエルパレスチナ統治の無法」が許されるわけでは全くないですが。
 ただし「ヒトラーと野合して恥じない彼のような無茶苦茶な存在(日本ウヨに媚びるペマ・ギャルポのような存在)」が「ただでさえ厄介なパレスチナ問題」をさらに「ぐちゃぐちゃにしたような気」がします。
 それにしても、「日本右翼以外がチベット亡命政府に冷たいんだからダライ・ラマ猊下が日本ウヨと野合して何が悪い(俺の要約)」と居直ったMukkeに「フサイニーをどう思うか」と聞いたらなんと答えるんですかね。さすがに「英米パレスチナ人に冷たいからヒトラーとフサイニーが野合しても仕方がない。悪いのは全てイスラエルびいきの英米だ」とはいわないのでしょうが。まあ「ヒトラーとの野合」よりはさすがにマシですが、俺は「チベットと日本ウヨの野合」についてチベットを許す気は全くありません。
 大体そういうことをすれば「後で紹介するネタニヤフ発言(パレスチナの野郎のせいでホロコーストが起こった)」のようなネガキャン発言(日本ウヨと野合するチベットなんか嘘つきのデマ野郎だ、奴らの中国批判は皆デマだ)が中国側から出かねないことは簡単に予想できる話です。
 その場合「日本ウヨとの野合」をまさか正当化できないので「確かに日本ウヨとの野合は不道徳だ、しかし」という「イエス、バット」の反論をせざるを得ない。
 まともなチベット支持者なら「野合、マジやめてほしいわあ」と思うでしょうが「野合して何が悪い」と例のMukkeさんは居直っちまうのだから呆れます。

参考

イスラエル首相がホロコーストは「パレスチナ人のせい」 ドイツ首相は「いや我々の責任」と - BBCニュース
 ネタニヤフ首相は20日エルサレムの世界シオニスト機構で、ナチス・ドイツヒットラー総統はユダヤ人を欧州から追放しようとしていただけで、民族虐殺をヒットラーに提唱したのは当時のエルサレムイスラム教宗教指導者ハジ・アミン・アル・フセイニ師だったと発言。「ドイツがユダヤ人を追放すればみんな(パレスチナに)来てしまう」と進言されヒットラーが「ではどうすれば?」と尋ねたところフセイニ師が「焼けばいい」と答えたのが、ホロコーストのきっかけとなったと首相は話していた。
 ネタニヤフ氏の発言については、イスラエル国内でも歴史家や政治家の多くが非難した。
 エルサレムにあるヤド・バシェム(ホロコースト記念館)の歴史専門家、ディナ・ポラト教授は地元紙に対して、「ユダヤ人を殺したり焼いてしまうべきだという発想をヒットラーに与えたのがフセイニ師だったとは言えない」と指摘した。
 野党労働党ヘルツォーク*15党首はフェイスブックで、首相発言は「ホロコーストとナチズムを矮小化し(略)わが民族を襲った悲惨な災いへのヒットラーの役割を矮小化するものだ」と非難した。
 パレスチナ解放機構PLO)のエレカト事務総長は、「イスラエル政府の指導者が、隣人をあまりに憎むあまり、ユダヤ人600万人を殺した史上最大の極悪人さえ免罪してもかまわないという。歴史の上で悲しい日だ」と声明を発表した。
■ハジ・アミン・アル・フセイニ師とは?
 1974年に死亡したフセイニ師は、パレスチナ民族主義の指導者として、1920年代から1930年代にかけて英国委任統治領だったパレスチナで、ユダヤ人や英当局に対する武力闘争を主導した。
 1937年に亡命したが、パレスチナ地域をユダヤ人国家とアラブ人国家に分断しようとする英国の計画に反対し続け、第2次世界大戦ではナチス・ドイツを支持した。
 1941年11月にベルリンでヒットラー総統と会談。当時のドイツ報道によると、アラブ人国家樹立の支援表明をヒットラーに求めたという。
 戦争犯罪の罪で追及されたが、ニュルンベルク裁判には出廷しなかった。
イスラエルの国内報道は
 エルサレム・ポスト紙は、ホロコースト博物館の主任歴史主任が首相発言を「厳しく批判」と報道。記事でポラト教授は、発言を撤回すべきと呼びかけている。
 イェディオト・アハロノ紙はネタニヤフ氏の発言が「大いに非難」されていると報道。ヒットラーは確かにフセイニと会談したが、そのとき「最終的解決」はすでに始まっていたという複数の歴史家の指摘を引用している。

 まあ確かに「イスラエル右翼、ユダヤ右翼としてパレスチナを誹謗するため」とはいえヒトラーを免罪するとはネタニヤフも呆れたクズです。


■戦国京都都市論:首都の社会変動と戦乱(仁木宏*16
(内容紹介)
 内容が多岐に亘っていて、無能な俺には紹介しづらいのですが、俺的に興味深い点としては「室町時代には京都が政治、経済の中心だったのが秀吉政権になり、大阪城が築かれ、大阪が政治、経済の中心となり、徳川政権では政治の中心が江戸、経済の中心が大阪になった」という点ですね。
 そのように大阪が経済の中心となる理由としては
1)海外交易や「海路を使った日本各地との交易」が重要となり、「港に近い大阪」の方が「内陸部の京都」よりも経済的に便利
2)一時、足利将軍家、執権・細川氏に対し、下克上を起こし、京都を支配し、後に織田信長とも京都支配を争った三好氏(三好長慶やいわゆる三好三人衆)はもともと摂津守護代であり大阪を基盤としたこと(つまり織田政権時代から大阪が重要になりつつあった)
があげられています。


■二度の開封陥落と中心性の移動:中国都城史の転換点としての靖康の変(久保田和男*17
(内容紹介)
 内容が多岐に亘っていて、無能な俺には紹介しづらいのですが、俺的に興味深い点としては、「金による北宋の首都・開封陥落(いわゆる靖康の変)」「モンゴルによる金の首都・開封の陥落」によって開封が政治、経済の中心ではなくなったという点ですね。
 北宋時代には政治、経済の中心だった開封は、金時代には首都ではあっても経済の中心ではなく、モンゴルによって首都の地位からも転落し、中国の一地方都市となるわけです。

参考

開封ウィキペディア参照)
 金が開封を占領すると、首都の座を失うとともに南北分断によって大運河も荒廃し、3重の城壁のうち外の2つは放棄される。モンゴル帝国により攻められて領土の大半を奪われた金は、燕京(現在の北京)から開封に遷都して抵抗を続けたが、程なく滅ぼされた。元では首都は現在の北京に置かれ、開封はあくまで河南の中心地に留まった。また元が中国を統一すると、杭州*18と北京を結ぶ形で大運河が再建されたが、開封は新たな大運河から外れた。
 その後、明、清、中華民国河南省省都とされたが、中華人民共和国が誕生すると1954年に省都の地位を鄭州に奪われた。現在の開封は観光地として栄えている。


三十年戦争帝国都市アウグスブルク:二宗派共存都市の危機と復興(高津秀之)
(内容紹介)
 30年戦争当時、多くのドイツ都市は「カトリック支配」「プロテスタント支配」だったがアウグスブルクは「カトリックプロテスタントの勢力」が拮抗していたため、「二宗派が共存する都市」となった。当初はカトリックプロテスタントにとって不満が残る結果だったが、次第に「二宗派共存」が既成事実化するに従い、それは「政治的にやむなく選択されたもの」という理解よりは「お互い共存していけるならそれでいいのではないか」という肯定的な評価が成立するようになった。
 そこには当初はアウグスブルクにおいて少数派だったカトリックが「二宗派共存」によって「他地域からアウグスブルク流入すること」によって増加*19し「カトリックを敵視しては都市運営が出来ない」という経済的観点があった(経済がイデオロギーを超越(?)するのは「反中国右翼・安倍」の一帯一路参加など現代でも珍しいことではありません)。


■歴史の眼『空襲被災者の戦後』(山辺昌彦*20
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

空襲被害 初の全国組織/日本政府に援護法求める
空襲被害者の救済を/“差別なき補償へ、党派超え力尽くす” 小池氏あいさつ/集会開く
主張/戦後70年と大空襲/被害解決へ国は責任を果たせ
空襲と戦争の悲惨さ語り継ぐ/大阪・京橋 終戦前日に600人犠牲/被災者追悼式典 遺族ら240人参列
空襲被害救済/民間人 なぜ放置/「もう待てぬ」 空襲連が国会内集会
悲劇は繰り返さない/東京大空襲73年 法要・集い/市田副委員長来賓あいさつ
主張/空襲被害者の救済/政府は責任を認め解決を急げ
空襲被害 救済法早く/働きかけ・運動さらに/連絡協総会
被害者救済法制定を/衆院第2議員会館 全国空襲連がつどい
東京大空襲追悼/庶民の力で戦争二度と/海老名さんら 時忘れじの集い15周年/小池・市田・吉良氏が出席
主張/空襲被害者の救済/政府は積年の苦しみに応えよ
東京大空襲74年 追悼集会に120人 台東区/吉良参院議員が出席しあいさつ


■書評:柴田哲雄*21『フクシマ・抵抗者たちの近現代史:平田良衛・岩本忠夫・半谷清寿・鈴木安蔵』(2018年、彩流社)(評者:河西英通*22
(内容紹介)
 以前、柴田本について書いた拙記事を改めて紹介することで代替。

今日の中国関係ニュースほか(10/23分)(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ
『フクシマ・抵抗者たちの近現代史』の著者「柴田氏」が「産経記事の柴田氏か」「同姓同名の別人なのか」気になるところです。「柴田哲雄」という名前はそれほど一般的名前ではなく「同姓同名の別人の可能性が高いとは思えない」一方で、産経に寄稿する人間が「鈴木安蔵を抵抗者として評価する」あるいは

https://dokushojin.com/article.html?i=3555
・(ボーガス注:柴田氏は福島事故の対応について)日本政府や東京電力に対して怒りを覚える。
・半谷について、氏は次のように述べる。半谷は水力発電の時代に、電力が専ら首都圏に送られていたのを批判して、電力の「地産地消」を唱えた。仮に原発時代の到来まで存命であったならば、依然として電力が立地地域を素通りして首都圏に送られているのみならず、放射能汚染のリスクさえもが立地地域に押し付けられているのに異を唱えて、改めて電力の「地産地消」を唱えるのではないかと。

として「政府や東電の原発政策に批判的」とは信じがたいので【追記:コメ欄*23で同一人物だとご指摘いただきました】。
 そして仮に『フクシマ・抵抗者たちの近現代史』の著者が「産経記事の柴田氏」だとして産経がこの本のことを知った上で寄稿依頼したのか気になるところです。
 産経のことだから知らない可能性大だと思いますが。まあ、仮に『フクシマ・抵抗者たちの近現代史』の著者が「産経記事の柴田氏」だとしたら、彼は産経のような極右ではないでしょう。
 とはいえ産経のような極右でない御仁が産経の寄稿依頼を引き受ける理由が今ひとつわかりませんが。

【参考:平田良衛・岩本忠夫・半谷清寿・鈴木安蔵について】
 柴田本で名前が挙がってるメンツ「平田良衛・岩本忠夫・半谷清寿・鈴木安蔵」のうち、鈴木安蔵以外はあまり有名でないと思います。まあ鈴木安蔵も存命時に比べれば知名度は落ちていると思いますが。

■平田良衛(1901〜1976年:コトバンク参照)
 戦後、日本共産党福島県委員会初代委員長、小高町*24議会副議長などを歴任。

■岩本忠夫(1928〜2011年:ウィキペディア参照)
 双葉地方原発反対同盟(以下、反対同盟)の結成に参加し、1971年4月に福島県議会議員に初当選。福島第一原子力発電所の作業員の被曝や放射性廃液漏れなどの問題を厳しく追及した。
 しかし、原発交付金で地元が潤う中、1975年、1979年、1983年の県議選で落選。1982年に反対同盟を辞め、1984年には社会党を離党した。1985年、不正支出問題で当時の田中清太郎・双葉町長が辞任すると、町長選挙の候補者に推され、保守系の票も集めて当選。その後、5期20年(1985〜2005年)、町長を務め、電源三法交付金東京電力の寄付を財源に大型公共事業をすすめた。

 岩本氏ご本人には言い分もあるでしょうが、「現実への対応」を口実に現実追認に堕する典型的パターンかと思います。なお、彼の最晩年に皮肉にも福島原発事故が起こりますが、彼の事故後の発言はないようで、彼の最晩年の考えはよくわからないようです。

http://odaka-kanko.jp/c-ijin/
■半谷清寿
・実業家。安政5(1858)年〜昭和7(1932)年。
・明治18(1885)年には、福島県会議員となり、翌明治19(1886)年、小高に相馬織物会社を設立し、小高羽二重を初めました。
・その後、明治37(1904)年相馬精錬株式会社を設立、続けて明治39(1906)年「東北機業」を設立、大正2(1904)年には小高銀砂工場創設と、清寿の業績は多方面でありましたが、何と言っても相馬羽二重業は代表的業績であると言えます。
 また清寿は、明治45(1912)年から3期12年にわたり、衆議院議員を務めあげ、政治家としても活躍しました。

鈴木安蔵(1904〜1983年:ウィキペディア参照)
静岡大学名誉教授。憲法学者憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)結成に参加し、初代代表委員に就任、護憲運動にも関わった。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-27/2005072712faq_0.html
赤旗『現憲法の“手本”となった民間の「憲法草案要綱」とは?』
〈問い〉 
 改憲派が「押しつけ憲法の克服」を改憲理由に掲げるなかで、現憲法の“手本”になった日本の民間の憲法案が存在するという金子勝氏の一文(6月22日付文化面)を興味深く読みました。「憲法研究会」と「憲法草案要綱」についてくわしく知りたいのですが。(東京・一読者)
〈答え〉
 「憲法研究会」は、終戦直後の1945年10月末に高野岩三郎(元東大教授・後に初代NHK会長)が鈴木安蔵憲法学者・後に静岡大学教授)に提起し、11月5日、杉森孝次郎(元早大教授)、森戸辰男(元東大助教授・後に片山*25・芦田*26内閣の文部大臣)、室伏高信(評論家・元朝日新聞記者)、岩淵達雄(政治評論家・元読売新聞政治記者)らが集まり発足させた民間の憲法制定研究団体です。
 同研究会が同年12月26日、発表した「憲法草案要綱」には、「日本国の統治権は、日本国民より発する」「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」など、現行憲法と少なくない部分で通ずるものがあり、軍に関する規定も設けていませんでした。
 当時、日本政府は明治憲法を表現を変えるだけで引き継ごうとしていたなかで、GHQが最も注目したのが憲法研究会案でした。
 この案が新聞に発表された3日後の12月31日には参謀二部(G2)所属の翻訳通訳部の手で早くも翻訳がつくられ、翌年1月11日付でラウエル中佐が詳細な「所見」を起草、これにホイットニー民政局長も署名しています。「所見」は各条文を分析したあと、「この憲法草案中に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と高く評価し、加えるべき条項として憲法最高法規性、人身の自由規定、なかでも被告人の人権保障などをあげていました。
 こうした憲法研究会の役割については、『憲法制定前後』(鈴木安蔵著、青木書店)、『新憲法の誕生』(古関彰一*27著、中公叢書)などに詳述されていますが、古関氏はこの中で「憲法研究会案とは、自由民権期の憲法思想が、半世紀にわたる弾圧と苦闘のあとでこの二人(高野、鈴木)の歴史の継承者を通じて復権を果たしたことを意味する」と書いています。

http://kenriken.jp.net/about/representative/
■『憲法理論研究会の創始者鈴木安蔵氏の人と学問』金子勝*28立正大学法学部教授)
(前略)
 鈴木憲法学の成立の意義は、第1に、日本における「マルクス主義憲法学」の分野が開拓されたという点にある。このことは、日本憲法学のなかに、初めて、民衆の立場に立った憲法学が生まれたことを意味する。憲法現象の生成、変化、発展、死滅の運動法則を解明できる憲法学が成立したことをも意味する。第2に、日本における「憲法の歴史的研究」の分野が開拓されたことである。このことは、日本憲法学が、歴史学から独立性を確保し、憲法規範と憲法理論の発展法則を明らかにできる憲法学になったことを意味する。第3に、日本における「憲法学批判」の分野が開拓されたことである。このことは、日本憲法学が、現実の憲法体制と憲法政治の本質を解明し、それを貫く発展法則を明らかにできる憲法学となったことを意味する。
 こうして、日本の憲法学は、解釈術学から脱却して、研究対象である憲法現象の全体像とそれを貫く発展法則を明らかにできる社会科学としての資格を確保するに至った。従って、鈴木によって、日本における「社会科学としての憲法学」が創始された。
《編集部注》
 筆者の金子勝氏は、愛知大学教授時代の鈴木安蔵の門下生である。なお、鈴木は、日本憲法の制定についての研究は、自由民権運動の本格的な再検討が必要であるとの考えから、高知に赴き(1936年5月29日〜6月2日)、自由民権運動期の私擬憲法を発掘し、自由民権運動の研究にも取り組む。鈴木は1939年、土佐の植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」の発掘とその分析を憲法史の本で公表している。
 戦後すぐ、鈴木は、高野岩三郎や森戸辰男、室伏高信らと7人で民間の「憲法研究会」を創設(1945年11月5日)。鈴木が起草した「憲法草案要綱」(同年12月26日発表)は、植木枝盛自由民権運動の私擬憲法も参考にしていた。「憲法草案要綱」はGHQに届けられ、日本国憲法の起草過程に重要なヒントを与えることになった。特に象徴天皇制というアイデアは、植木が「皇帝」の権限に対して「立法院」の同意を随所にセットして、実質権限を議会に委ねようとした、さまざまな憲法的工夫と響き合う。家永三郎*29は、『植木枝盛選集』(岩波文庫)の解説で、日本国憲法の原案となったマッカーサー草案の作成にあたり、占領軍は、戦前におけるほとんど唯一の植木枝盛研究者だった鈴木安蔵が起草した「憲法草案要綱」を参考にしたことを指摘して、「日本国憲法植木枝盛草案の酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有する」(322頁)と書いている。日本国憲法には、鈴木安蔵を通じて、自由民権運動と植木の憲法構想が息づいている。
 その後、鈴木は1952年に静岡大学教授となり、愛知大学教授、さらに立正大学教授に就任する。憲法理論研究会の代表を19年間務め、1983年8月7日、79歳で死去した。

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2012/1105.html
憲法理論研究会と鈴木安蔵のこと(水島朝穂*30
 戦争が終わるとすぐに、鈴木は、高野岩三郎や森戸辰男、室伏高信らと「憲法研究会」を創設する。鈴木が起草した「憲法草案要綱」(第3案まで)は1945年12月27日に発表された。連合国軍総司令部(GHQ)民生局のラウエル中佐は、この憲法研究会案に注目。綿密な検討を加えた後、これを二つのセクションで翻訳し、「この憲法草案中に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」という所見を付けた覚書を提出した(高柳賢三他編『日本国憲法制定の過程I』〔有斐閣、1972年〕26-39)。ここで詳しくは立ち入らないが、日本国憲法制定過程におけるGHQ案の起草に際して、鈴木の憲法研究会案が参考にされたことは確実と言われるようになった(高柳賢三他編『日本国憲法制定の過程Ⅱ解説』18-21頁)。


■書評:中澤克昭*31『肉食の社会史』(2018年、山川出版社)(評者:森田喜久男*32
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

肉食の社会史 中澤克昭著 「禁欲」が「禁忌」となる道すじ :日本経済新聞
 日本人が獣の肉を食べ始めたのは明治時代になってからで、それまでは仏教の影響で人々は肉食を避けてきた。
 日本中世史研究に携わる著者によると、そんなイメージは時代や地域、人々の階層差を無視した、かなり乱暴な説である。
 平安時代までの天皇は野で狩った鹿やイノシシの肉を正月の膳で食べるのが習わしだったし、摂関家のような高位の貴族はタカ狩りで得たキジの肉を焼き物や吸い物にして味わっていた。武士が腕を磨いた技芸には狩猟が欠かせず、イヌを食べることも珍しくなかった*33。著者は当時の史料を子細に検討し、様々な身分集団に多様な肉食の習慣があったことを示していく。
 確かに時代の大きな流れは肉食を忌避するほうへ向かった。元来は天災をもたらす神の怒りを静めるために肉を食べる欲望を抑える「禁欲」だったものが、次第に神道の「けがれ」観の肥大や殺生を戒める仏教の教えを背景とする「禁忌」へと変わり、人々を拘束する力も強くなっていく。
 とはいえ、中世に軍神として全国に祭られた諏訪社には鹿肉の供え物が欠かせず、「薬食い」と称して肉を食べる習慣も根強くあった。日本人は動物を食べることに葛藤を覚えながらも、決してその習慣を手放すことはなかったことが分かる。

 話が脱線しますが、この「明治以前の肉食の話(建前では肉食が忌避されたが、『明治以降ほどおおっぴらではない』とはいえ、実際にはその後も肉食が続いた)」て俺的には「Mukkeが根拠レスで中国の嫌がらせだと抜かした中国ウイグル自治区のビール祭り」の話を連想させますね(今日もMukkeさんに突っ込んでみる(ウイグルのビール祭り)(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ参照)。
 まあ「肉も酒もおいしい」ですし、なんでタブーかと言ったら「宗教的理由(仏教やイスラム教)」にしか過ぎませんからね。
 不信心な人間なら「まあ、たまには肉食ったり、酒飲んでもええやないか」となるのはある意味当然です。

【参考:前近代日本の肉食禁止】

江戸の肉食禁止令 ~いろんな抜け穴がありました~ – さくらささくら
 肉食が禁止された理由についてですが、仏教の「殺生戒」と神道の「穢れ」が合わさった日本独自の理由でした。つまり「獣の肉を食べると身が穢れる」という思想が存在していたのです。この思想は仏教伝来とともに徐々に広がっていき、西暦675年に桓武天皇が初の肉食禁止令を発して以降、何度も肉食禁止令や殺生禁止令は発令されてきました。
 そのなかで最も力を入れて実施されたのが元禄期に発された徳川綱吉の「生類憐みの令」でした。
 綱吉の死後、「老人・捨て子など弱者の保護」の部分を残して「動物の殺生」の禁令は破棄されますが「殺生・肉食は悪いこと」という考えは庶民に根付きました。法律はないものの、何となく動物のお肉を食べるのは気が引けます。しかし、みんな本当は動物のお肉が食べたいのです。そこでいろいろな抜け穴を見つけたり、何とか見逃してもらえるように工夫をしました。
■桜肉、紅葉、牡丹 ~符丁による誤魔化し~
 食事について話題にする際「猪を食べた」とか「馬肉が美味しかった」と直接表現するのはやっぱり後ろめたさがあったそうです。そこで登場したのが「符丁」、いわゆる隠語です。
 例えば猪肉は「牡丹」、鹿肉は「紅葉」と呼ばれました。それぞれ「色や盛り付けた時の形が牡丹のようだから」、「花札の『鹿に紅葉』」を由来とします。猪肉はあるいは「山鯨」とも呼ばれました。当時クジラは哺乳類ではなく魚類と考えられており、猪ではなく魚を食べているんだと誤魔化したのです。また、馬肉は「桜肉」と呼ばれます。
■ももんじ屋 ~薬と称して食べる~
 当時、獣肉は単なる「食べ物」としての役割以外にも「薬」としても役割も担っていました。薬といっても病気を治す治療薬ではなく、滋養を付ける栄養サプリメントのほうが近いでしょう。「食べ物」としての獣肉は忌避されていましたが、「薬」としての獣肉は身を汚すものではなくむしろ体に益するものと考えられていました。よって「薬」としてなら獣肉を食べても良かったのです。
 そこで登場したのが「ももんじ屋」です。「ももんじ」とは漢字で書くと「百獣」つまりありとあらゆる動物の肉を扱ったお店でした。もともとは漢方屋でしたがお肉屋に転業したのが始まりで、鹿や猪などの肉を調理して客に振る舞っていました。当然食事ではなく「癇癪を直し肌膚を補い五臓を益す」薬としてです。調理方法はシンプルに獣肉を味噌とネギで味付けし、鍋にしていました。扱っていたのは鹿、猪、鼬、狐、狸、熊など近くで捕獲された農業害獣たちでした。
 このももんじ屋、かなり流行っていたようで庶民だけではなく侍、それも「高家近侍の士」つまり有名なお家に仕えているお侍さまの中にも通っている人がいたそうです。国学者の小山田与清は肉食反対派だったようで「江戸の家屋に不浄が充満している」「祝融も怒っているだろう」とかなり憤っていたという記録が残っています。ちなみに祝融は火の神様、婉曲的表現で江戸でしばしば大火事が起こるのは肉食のせいで火の神様が怒っているからだと嘆いているのです。
■鳥なら大丈夫 ~故に兎も大丈夫~
 肉食禁止令ですが全ての動物を食べてはいけないとしたわけではありません。ここで禁止されていたのは「四足の獣」でした。つまり、二足歩行である鳥はその範囲外だったのです。
 当時一般的に食べられていた鳥はガン、カモ、ハト、キジや白鳥、カラス、キツツキなど野生の鳥たちでした。野鳥の中でも「キジ・ガン・ツル」は「鳥の御三家」と呼ばれるほど珍重されていたそうです。
 今では鳥肉と言えばニワトリですが、江戸時代当初はあまり一般的ではありませんでした。庭でニワトリを飼っていた家もあったそうですが「朝を伝える家禽」としての扱いで食肉用ではありませんでした。しかし南蛮料理が伝わってくると次第に鶏卵や鶏肉を食べることも増えてきたそうです。これは野鳥を乱獲しすぎて数が減ってしまったことも原因の一端を担っているようです。
 変わった「鳥」と言えばウサギもよく食べられていました。ウサギは鳥ではないとツッコミが入るかもしれませんが、当時の人々はウサギを食べるために「ウサギは鳥である」と強弁したのです。
 そのために工夫は惜しみません。まず人々はウサギを「匹」ではなく「羽」で数えました。そして捕まえる際は獣のように鉄砲で撃つのではなく、鳥のように網で捕まえるようにしました。ウサギを鳥と見なしてもらうためです。さらにはとがめられた際の言い訳も用意していました。「ウサギ=ウ+サギ=鵜+鷺」なので鳥である、ウサギは後ろ脚2本で「跳ねるように飛ぶ」ので鳥である、といった具合です。苦しい言い訳ですが最早執念のようなものも感じます。役人もこれを信じたわけではないでしょうが、結局のところウサギを食べることは許してくれたみたいです。
彦根藩の赤斑牛 ~この牛だけは食べても良い~
 肉食禁止の御触れを出していた徳川家ですが、なんと彦根藩の井伊家から献上された牛肉「赤斑牛」をしばしば食べていたそうです。当時肉食の中でも荷役や農耕に使う牛や馬は特に殺すことがタブー視されていました。これは自分たちの出した御触れに違反しているんじゃないの?というツッコミが入るのを予期してか「井伊家の献上する『赤斑牛』だけは食べても身が穢れないので大丈夫」というかなり都合のいい言い訳を用意して牛の肉を食べていたのです。
 調理方法は味噌漬けや干し肉にして食べていたそうな。冷蔵庫なんてないこの時代、とにかく長持ちさせておいしく食べたい場合にはこれらの方法が一般的だったようです。長期保存可能になった味噌漬け肉は徳川家に献上されるだけでなく、各地の大名家にも贈り物として渡されていました。
■魚中心の日本料理
 ご存じのとおり日本は島国です。この点はその時代の支配者階級が肉食禁止令を発布できたことと大いに関係があります。たとえば「生類憐みの令」も反発がなかったわけではありませんが、もしこれが日本ではなく、海に面していない内陸国で発布されていたら反発はこんなものではないでしょう。そのような国では「肉を食うな」というのは「たんぱく質を取るな」ということに等しいからです。逆に言えば豊富な漁業資源が存在したからこそ、「生類憐みの令」などの肉食禁止令は一応の建前を成すことができたのです。
 そしてその影響は現在も続いており、実際和食は「魚料理」が多く「肉料理」は比較的少なめです。ぱっと思い浮かぶ肉を使った和食(例えば肉じゃがや親子丼、しゃぶしゃぶなど)たちも明治以降に誕生したものがほとんどです。多くの顰蹙を買った生類憐みの令ですが、ある意味では和食の特徴を形成した一つの要因と言えなくもありません。
■犬食文化の消滅
 一度は下火になった「獣肉喰い」ですが、明治に入り洋食や西洋的な思想が入ってくると「肉食は悪いこと」という風潮は徐々になくなっていきます。そして牛肉や豚肉、鶏肉を食べることが浸透していき、和食にもお肉を使った料理が現れていきます。しかし一見すると完全復活したように見える「肉食」ですが、一つだけ完全になくなってしまったものがあります。それは「犬食文化」です。犬食文化とは文字通り「犬を食べる」文化で中国や韓国など東アジアに見られる独自の文化です。
 江戸時代以前は日本も中国や韓国と同じように犬を食べていたのですが生類憐みの令以降ぱたりとなくなってしまったのです。生類憐みの令で特に犬は保護されていたため犬食文化が後退するとともに、その間に犬が愛玩動物として扱われるように変化したことが大きな理由と考えられます。生類憐みの令が死後すぐに撤回されてしまった綱吉ですが、目的の一つである「犬を保護する」という部分はちゃっかりと達成したと言えます。

【参考:諏訪神社と鹿肉】

肉食が禁じられていても、これさえあれば大丈夫【鹿食免】 - ヘソで茶をわかす
 諏訪神社は全国のいたるところにありますが、どうしてこんな田舎の神様が全国的に信仰の対象になったのでしょうか。
 その有力な理由の一つに鹿食免というものがあります。
 諏訪神社はなんでも分社が5,073社もあるそうです。これはお稲荷様で有名な稲荷系の神社32,000社、宇佐神社をはじめとする応神天皇をお祀りする八幡系25,000社、伊勢神宮など天照大神を祀る神明社系18,000社、菅原道真を祀る天神・天満系10544社、宗像三神を祀る宗像・厳島系8,500社、素戔嗚を祀る津島・八坂系5,651社に次ぐ数です。上位の神社が皇室に連なるものなど古くから朝廷によって重要視されてきた神社であることを考えると、ローカルな神様を祀る神社でこの数は驚異的かもしれません。
 かつては満州や台湾・朝鮮などにも分社があったほどで、今でも沖縄を除くすべての県に諏訪神社があります。
 一般的には全国的に諏訪信仰が広がったのは鎌倉時代のことだと言われています。以前の記事でも書きましたが、霧ヶ峰の御射山で奉納された武術の競技で際立って鮮やかな諏訪武士の技に感じ入った諸将が、「これこそは諏訪明神のご加護によるものであろう、それにあやかりたい。」と、御分神を領国に勧請したのが全国に諏訪神社の多い理由の一つだとされています。
 ですが、あえて地元で言われている別の理由を紹介します。
 「諏訪の勘文」というものがあります。それは「慈悲と殺生は両立する」という教えであり、これを狩猟・肉食の免罪符「鹿食免(かじきめん)」として発行してきました。
 仏教が伝来すると殺生は罪悪であるとして、狩猟や肉食が禁忌となりました。しかし、これらを禁じられては長く厳しい諏訪の冬を乗り越えることができません。そこで、考え出されたのがこの神符「鹿食免」だと言われています。
 これを神社から授かったものは生きるために狩猟をし、鹿肉を食べることが許されました。そのため諏訪の人々は厳寒の冬であっても自然からの恵み享受し、生活することができたのです。

■諏訪の勘文
 業盡有情(ごうじんのうじょう)
 雖放不生(はなつといえどもいきず)
 故宿人身(ゆえにじんしんにやどりて)
 同証仏果(おなじくぶっかをしょうせよ)
■意味
 前世の因縁で宿業の尽きた生物は
 放ってやっても長くは生きられない定めにある
 従って、人間の身に入って死んでこそ
 人と同化して成仏することができる

 「動物らが成仏できるように、あえて私ら人間が喰ってやろう。私らの血肉となって人と同化することによって、あいつらも成仏できるんだ。だから、肉食はむしろ善行なんだ。」と、言っているわけです。
 まぁ、ご都合主義と言えばそうかもしれませんが、合理的ではあるが神仏を蔑ろにはしない、信仰と現実の生活とを絶妙のバランスで守った名文だと私は思います。
 ちなみに肉食が一般となった現在では、この札は食の安全を守る札ということになっています。話のタネにもなりますので、諏訪にお越しの際はお土産にどうぞ。
■全国の武士たちの反応
 「そんなナイスなものがあるのかい!? だったらウチにも諏訪神社つくちゃうよ。」とは言っていないでしょうけど、鹿食免自体は武士たちにもありがたいものだったそうです。と言うのも武士たちは、たしなみとして鷹狩などの狩猟を行いますし、生き死ににかかわる仕事をしているだけに信仰心の篤い者が多かったためです。
 そして、所領に諏訪神社を建てて神事として鷹狩を行う武将が現れるなど、全国に諏訪神社が広がっていきました。
と、諏訪では言われていますが、チョッと事実なのかどうか自信はないです。
■合理性と寛容さ
 よその国では、よその宗教では、こういうのはきっと許されないんだろう*34と思います。厳格さを求められ、寒かろうがなんだろうが肉食は禁止され、きっと諏訪や東北なんかは発展できなかったのではないかと思います。しかし、日本人は信仰は信仰として尊びながらも、実生活に合わせていく合理性と、それを認める寛容さをもって現代まで生きてきたのだと思います。日本人は無宗教だとか信仰心がないとか言われるのはそのせいかもしれません。

信州ジビエの魅力 | 信州ジビエ
 全国に分布する諏訪神社の総本社である諏訪大社には、狩りをするものは猟師や武士、時代の将軍までが唱えた「諏訪の勘文」というものがあります。それは「慈悲と殺生は両立する」というお諏訪さまの説であり、この説を狩猟の免罪符「鹿食免(かじきめん)」として発行してきました。
 日本に仏教が伝来し、殺生は罪悪として狩猟を忌み嫌う時代にも、この神符「鹿食免」を諏訪大社から授かったものは生きるために狩猟をし、「鹿食箸」を使って鹿肉を食べることが許されました。そのため諏訪地域の人々は自然からの恵みを授かり、長い冬を乗り越えてきました。

山の食文化 日本流ジビエ | nippon.com
 伝統的な日本の料理といえば、米を中心とする穀物、野菜、豆腐、あるいは魚からなる料理がイメージされよう。
 一方、肉食といえば、むしろ近代以降の外国の食文化というイメージが強い。しかし日本においても肉が全く食されてこなかった訳ではない。古来より狩猟・採集が盛んで、農耕が始まった後も、獣肉食の習慣は続いた。確かに仏教伝来により、肉食が禁忌されるようになったものの、途絶えることはなかった。幕府により獣肉食が禁止された江戸時代においても、冬季には農業が困難となる山間部の寒冷地などでは、貴重なタンパク源として「獣肉」「山肉」といった山の幸が消費されてきた。
 そしてこれらの獲物を捕獲する狩猟文化が古来より受け継がれてきた。主な獲物としては、近代以前はほぼ全国的に生息していたと見られる鹿や、猪、ウサギ、狸、雉など。北海道から本州にかけては熊も獲物とされてきた。
 とはいうものの、こうした狩猟文化や山肉食と、殺生を嫌う仏教とは折り合いが悪い。この点で興味深いのは、狩猟と関わりの深い諏訪大社(長野県)である。諏訪大社では、古くから「鹿食免(かじきめん)」と「鹿食箸(かじきばし)」を授けている。お札を授かり、「諏訪の勘文」を唱え、この箸を使うと、鹿を食べることが許されたという。「鹿食免」には「慈悲と殺生は両立する」という教えが記されており、生きるための狩猟が宗教的に正統化されたのであった。そのため、諏訪大社は各地の猟師や武士らの信仰を集めたという。
 徳川幕府が倒れ、明治時代に入ると、肉食は文明開化の象徴となった。都会では、牛・豚といった家畜肉に加え、猪鍋など、山の食文化を伝える店が登場し、市民の間で愛されていく。
 また山間部の温泉旅館などでは、今日でも地元の猟師が獲った「山の肉」を、猪鍋(しし鍋、ぼたん鍋)、鹿鍋(紅葉鍋)、焼き肉に料理し、名物としている。そして都市民も、旅という非日常空間の中で、山の食文化を体験することができる。
■日本流ジビエの再生
 現在、日本では山間部のみならず、都市部においても「害獣」の被害に悩まされている。鹿や猪が群れをなして収穫前の農作物を食べ尽くし、森林の生態系そのものにも深刻な影響を与えている。鹿は、高地でしか見ることのできないニッコウキスゲを食べ尽くし、保護のための柵が必要となっている。また熊がハイキングやキノコ狩りを楽しむ人々を襲い、町に出没することも珍しくなくなった。外国文化が香る港町・神戸でさえ、猪が住宅地や大学をうろついているという。
 近年、日本では年間40万頭あまりの鹿が捕獲されている。害獣による農林漁業の年間被害額は、200億円を超え、高齢者の間では営農を断念する要因となっている。どうやら1989年から2011年の間に、猪は倍増、鹿は数倍に増加したと推測される。世界的には絶滅危惧種ツキノワグマでさえ、日本では、増加傾向にあるという。
 こうしたなかで、近年、各自治体では、ジビエの振興に力を入れている。それは「害獣」の駆除対策だけでなく、日本独自の食文化の見直しや、新たな販路の確立等を通じた地域振興をも目標としている。北海道産のエゾジカに始まり、近年では本州各地でも他の獣肉のブランド化と高品質化が試みられている。
 長野県では「信州ジビエ」として独自の認証評価を設定し、解体から、保存、流通まで、より高いレベルの食材の提供を目指している。
 ここ最近、鍋や焼き肉といった日本の伝統的山肉食の人気が復活してきたことに加え、鹿肉バーガー等、新しい商品が登場している。そしてフランス料理店では、ジビエが秋冬の人気メニューとなっており、日本の野山で捕獲された鹿や、その他の鳥獣を使った料理が新しい味覚を提供している。

諏訪大社で鹿食免を頂いてきました | ヤマガカシ
 諏訪大社は全国に約25,000ある諏訪神社の総本社だそうです。僕の家の近くにも諏訪神社があります。
 「鹿食免」ですが、殺生が罪悪とされた時代に免罪符のような形で諏訪大社から授かったようです。生きる為に鹿獲っていいよというお赦しです。
■鹿食免の中身
 こちらが中身です。お札が「鹿食免」、お箸が「鹿食箸」。諏訪の人達は、この鹿食免で生きる為に狩猟をし、鹿食箸で獣肉を食べることを許されたと。
 生きる為の狩猟、僕がやる趣味の狩猟。
 同じ狩猟という行為ですけど、何だか重みが違いますね。一つの命を獲って食べるということに、変わりはないのですが。
 生きる為に獲物を獲るということは、今の日本ではなかなか考えられないですし(獣害と戦ってる人達はまた違うのでしょうけど)。
 共通するのは狩猟免許やら狩猟税やらでお上に許可貰ってるいることでしょうか。
 当時の人達にとっての、「鹿食免」の有難みを僕は知ることが出来ないでしょうが、当前のように食べ物のある、豊かな時代に生まれたことを感謝する気持ちになりました。
 こちらの「鹿食免」は諏訪大社の上社本宮にて初穂料1000円で授けていただけます。

*1:著書『米軍基地下の京都:1945年~1958年』(2017年、文理閣

*2:もちろん愛知県岡崎市ではなく、京都市左京区岡崎のこと。現在、京都市美術館京都国立近代美術館京都府立図書館、京都市動物園などがある。

*3:京都御苑は「京都御所の庭園」、修学院離宮は「もともとは後水尾上皇離宮(別邸)」、石清水八幡宮は「清和天皇が創建したとされ皇室にとって重要な神社」と、ここで名前が出てくる物は全て皇室関係です。ここでは1)日本保守派にとって皇室が重要であること、2)昭和天皇を免罪し政治利用しようとした米国も「結局反対運動もあって諦めた」とはいえ皇室関係の土地の接収にあまりためらいがないことがわかります。

*4:日本で最初の公立植物園として、1924年大正13年)1月1日に開園した。1946年(昭和21年)から12年間は連合国軍に接収され閉園を余儀なくされたが、1961年(昭和36年)4月に再開した(ウィキペディア京都府立植物園』参照)。

*5:戦争孤児についてはググると、石井光太『浮浪児1945:戦争が生んだ子供たち』(2017年、新潮文庫)、本庄豊『戦争孤児』(2016年、新日本出版社)といった本がヒットします。

*6:大内氏歴史評論2019年6月号に収録された講演で指摘していますが「暗数の存在(つまり『米軍占領下であるため、占領軍(米軍)兵士への処罰があまり期待できない』ということでの泣き寝入り)」に注意する必要があります(特に性犯罪はそうでしょう。大内氏も指摘していますが「性犯罪ゼロ」というのは明らかに不自然です)。実際の米兵犯罪はこれより多いと見なすべきです。

*7:密約問題については、例えば、布施祐仁『日米密約 裁かれない米兵犯罪』(2010年、岩波書店)、吉田敏浩『密約:日米地位協定と米兵犯罪』(2010年、毎日新聞社)という著書があります。ウィキペディアには「在日米軍裁判権放棄密約事件」という項目があります。ネット記事としては例えば、赤旗米軍犯罪 起訴率18.7%/全国38.5%の半分 背景に裁判権密約や、いつも拙記事にコメントして頂いているBill_McCrearyさんの記事日本っていったいどういう植民地なんだかと思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)米兵を起訴するのは、法相が指揮をすることらしい(それじゃ、検察だって、起訴なんかしたいわけがない) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)などがあります。

*8:「幸いにも」というよりは「夏休みだから侵入した」のでしょうが無茶苦茶な話です。

*9:この嘘については例えば、吉田守男『京都に原爆を投下せよ:ウォーナー伝説の真実』(1995年、角川書店)、『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(2002年、朝日文庫)、『原爆は京都に落ちるはずだった』(2017年、パンダ・パブリッシング)参照

*10:この歴史評論2019年6月号に掲載された報告のことです。

*11:復興庁事務次官などを経て京都府知事

*12:著書『「不在者」たちのイスラエル:占領文化とパレスチナ』(2008年、インパクト出版会

*13:1906~1962年。戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報機関モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪などを問われて裁判にかけられ、同年12月に死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された(ウィキペディア「アドルフ・アイヒマン」参照)。

*14:1912年生まれ。アドルフ・アイヒマンの部下としてユダヤ人移送に関与。戦後、シリアに亡命。これを知った西ドイツ政府はシリア政府に対してブルンナーの身柄引き渡しを求めたが、シリアは「記載の住所にブルンナーという人物は見当たらない」と回答し、これらの要求を却下した。そればかりかシリアは極秘裏にブルンナーをユダヤ人問題の専門家としてシリアの諜報機関に顧問として招き入れたといわれる。ナチス親衛隊員だったブルンナーは、未熟なシリアの諜報機関に独裁体制を支える方法を徹底的に教え込んだという。しかしブルンナーも安泰ではなかった。ブルンナーには、1961年と1980年の二度にわたって開けると爆発する爆弾の入った手紙が届けられた。ブルンナーは最初の手紙の開封で片目を、二度目の手紙の開封で指を失っている。民間人の犯行にしては巧妙すぎ、イスラエル諜報機関による犯行ではないかといわれている。1995年にはドイツ政府がブルンナーに33万3,000ドルという巨額の懸賞金を掛けたが、それでもブルンナーは捕まらなかった。業を煮やしたフランスは1999年と2001年の二度にわたり欠席裁判のままブルンナーに終身刑判決を下したが、ブルンナー本人がその場にいない以上意味はなかった。シリアは依然ブルンナーが国内にいることを公式には認めておらず、ブルンナーが今でも生存しているのかどうかは不明であった。2014年12月2日になって、ドイツ情報機関が、逃亡先であるシリアのダマスカスで4年前に死亡していたとみていることが分かった。2017年1月11日にはAFP通信がブルンナーが2001年にダマスカスのアパートの地下室に監禁された状態で死亡していたと伝えた。その記事によると晩年の待遇は非常に劣悪であり、食事は粗末なレーションと卵もしくはジャガイモ1つが支給されるだけであり、入浴も制限されていたという。なお、1985年に西ドイツの雑誌が彼の取材に成功している。そこでブルンナーは「ユダヤ人はすべて殺すべきである。後悔などしていない。機会があれば私は再びユダヤ人を殺すだろう。」と語ったという(ウィキペディア「アロイス・ブルンナー」参照)。

*15:ヘルツォーク元大統領の息子

*16:著書『戦国時代、村と町のかたち』(2004年、山川出版社日本史リブレット)、『京都の都市共同体と権力』(2010年、思文閣)など

*17:著書『宋代開封の研究』(2007年、汲古叢書)

*18:浙江省省都

*19:話が脱線しますが、「漢民族流入(その是非は論じません)」によってもはやチベットも仮に独立するにしてももはや「漢民族は出て行け」が出来ない状態になっているとみるべきでしょう。

*20:著書『東京大空襲:未公開写真は語る』(2012年、新潮社)

*21:著書『協力・抵抗・沈黙:汪精衛南京政府イデオロギーに対する比較史的アプローチ 』(2009年、成文堂)、『中国民主化民族運動の現在:海外諸団体の動向』(2011年、集広舎)、『習近平の政治思想形成』(2016年、彩流社)など

*22:著書『東北』(2001年、中公新書)、『続・東北』(2007年、中公新書)、『せめぎあう地域と軍隊:「末端」「周縁」軍都・高田の模索』(2010年、岩波書店)、『「東北」を読む』(2011年、無明舎出版)、『「社共合同」の時代:戦後革命運動史再考』(2019年、同時代社)など

*23:今日の中国関係ニュースほか(10/23分)(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログのコメント欄です。

*24:現在は市町村合併南相馬市

*25:社会党書記長、委員長、首相、民社党顧問など歴任

*26:幣原内閣厚生相、片山内閣副総理・外相などを経て首相

*27:著書『「平和国家」日本の再検討』(2013年、岩波現代文庫)、『平和憲法の深層』(2015年、ちくま新書)、『日本国憲法の誕生(増補改訂版)』(2017年、岩波現代文庫)など

*28:著書『日本国憲法の原理と「国家改造構想」』(1994年、勁草書房)、『憲法の論理と安保の論理』(2013年、勁草書房)など

*29:著書『戦争責任』、『太平洋戦争』(以上、2002年、岩波現代文庫)、『一歴史学者の歩み』(2003年、岩波現代文庫)など

*30:著書『現代軍事法制の研究』(1995年、日本評論社)、『武力なき平和:日本国憲法の構想力』(1997年、岩波書店)、『この国は「国連の戦争」に参加するのか:新ガイドライン・周辺事態法批判』(1999年、高文研)、『戦争とたたかう:憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』(2013年、岩波現代文庫)、『はじめての憲法教室:立憲主義の基本から考える』(2013年、集英社新書)、『ライブ講義 徹底分析! 集団的自衛権』(2015年、岩波書店)、『平和の憲法政策論』(2017年、日本評論社)など

*31:著書『中世の武力と城郭』(1999年、吉川弘文館)、『真田氏三代と信濃・大坂の合戦』(2016年、吉川弘文館

*32:著書『日本古代の王権と山野河海』(2009年、吉川弘文館)、『古代王権と出雲』(2014年、同成社)など

*33:嫌韓国ウヨ野中には「犬肉食」で韓国に悪口する馬鹿がいますが、日本人だって犬を食っていたわけです(まあ、過去はともかく肉食として現在の日本で犬肉食はメジャーではありませんが)。

*34:イヤー「酒飲んでるイスラムの存在」を考えるに多分日本と変わらないでしょう。