今日の産経ニュースほか(2019年5月11日分)

原武史「平成は天皇制を強固にした」 - 石川智也|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
 「敗戦の君主であるにもかかわらず退位しなかった」「もちろん公式に敗戦について国民にわびることもなかった」という「汚点があった昭和天皇」と違い、前天皇にはそうした汚点がなかったことが「天皇制強化(というか天皇制に好意的な世論の増加*1)」の背景にあることは言うまでもありません。

*2
 現憲法下で、天皇*3は国政に関する権能を有しません。にもかかわらず、2016年のあの「おことば」は、事前に「8月8日の午後3時から」と放送日時を指定した上で、天皇自らがビデオメッセージで11分にもわたって、政府や国会を通さずに国民にダイレクトに語りかけました。そこから急に政府が動きだし、国会が議論を始め、特例法が成立した。結果として法の上に天皇が立ち、露骨に国政を動かしたのです。
 あの「おことば」は、1946年元日に昭和天皇が「現御神」であることを否定したいわゆる「人間宣言」よりもむしろ、1945年8月15日の「終戦詔書」つまり「玉音放送」に類比できるものです。
 当時の鈴木貫太郎*4内閣は終戦に向けて政府をまとめることができず、非常手段として「ご聖断」を仰ぎ、ようやくポツダム宣言受諾に至った。玉音放送が流れるまでは、たとえこの戦争は負けると思っていても、公然と言える空気ではありませんでした。
 ところが、天皇が肉声で臣民に直接語りかけたあの放送が流れるや、絶大な効果によって、圧倒的多数が敗戦を受け入れました。その流れは、今回の退位をめぐる動きとよく似ています。

 「退位したい」という「天皇の立場に関わること(しかも少なくとも建前上の理由は『体力的にきつい』)」ということもあって「大目に見られた」という面はあるでしょうが確かに原氏の指摘の通り「憲法上の疑義がある」でしょう。もちろん「とはいえ」、これは「政治的言動」とはいえ、昭和天皇の「沖縄メッセージ(天皇の立場に全く関係ない)」などとは明らかに性格が違いますが。その当たりは前天皇昭和天皇ほど無頓着ではありません。


 こうした流れは、秋篠宮の「大嘗祭は皇室の私費で」発言にもつながっています。あの宮内庁批判は、明らかに国民を意識し政治的意図を持ったものだと言えます。皇室の政治的発言に対し、国民とメディアの受け止め方が非常に甘くなったのです。

 確かに政治的発言ではありますが、「大嘗祭違憲説」の立場(俺はそうですし、ほとんどの左派がそうでしょうが)では「いや大嘗祭はそもそもする必要がないんだ、すべきでないんだ」つう秋篠宮批判発言ならともかく、「公費(宮廷費)でやるべきではない(つまり私費(内廷費*5)でやる)」発言は批判できない(つうか批判するどころかむしろ共感する)。つい「政教分離にある程度配慮するなんて安倍よりはマシじゃん」「秋篠宮批判(そもそも大嘗祭なんかやる必要あるのか)よりまず安倍批判(大嘗祭はせめて私費でやれ)やな」と思ってしまう。
 一方、ウヨは「何が私費だ、共産党みたいなことを抜かしやがって」「秋篠宮共産党支持者か」などと思いながらも「天皇崇拝の建前上、公然と皇族批判がしづらい(ここで秋篠宮批判をしたら自分らにとって都合のいいときだけ皇室を利用するという、ウヨのご都合主義が露呈してよろしくない)」という特殊事情があるのであって、この件は「皇室タブー」の例としてあげるのはあまり適切ではないでしょう。大体、この秋篠宮発言は「安倍を恐れるマスコミ」によってほとんど取り上げられず、安倍も「秋篠宮非難はしない」ものの無視しました。
 いずれにせよ現天皇一家が「安倍や産経ほどウヨではなく」、そのことが安倍らの天皇一家への不快感を生んでいるという一事例として「秋篠宮の発言」を理解することが出来るかと思います。


原武史「米国は皇室に深く入り込んでいる」 - 石川智也|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
 まずはこの記事についての野原のアホツイートにコメント。

https://twitter.com/noharra/status/1127209868488728578
野原燐
‏「新右翼民族派の一部には、むしろ天皇は政治的権力から遠のき京都に帰って呪術の頂点、国民の守り神たる存在に回帰すべきだとの主張があります。
原武史「米国は皇室に深く入り込んでいる」 - 石川智也|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
憲法に書かないのであれば、反対はしない

 「反対しろよ」て話です。「政教分離原則を緩和する改憲*6」か「天皇が国政から完全に離れた民間人になる改憲」をしない限り、現行憲法で「呪術の頂点、国民の守り神たる存在に回帰(つまり国家神道復活)」したら「憲法政教分離原則にもろに抵触する違憲行為である」という常識がなぜか野原にはないようです。アホとしか言い様がない。こんな「お粗末な憲法認識の主」が「自称とは言え」元・地方公務員だそうです。つうかid:noharraはどんだけ国家神道に甘いのか。こういう人間が「中国、北朝鮮が人権面でどうたらこうたら」言うのだからそのデタラメさには呆れて二の句が継げません。お前、ただの反共右翼やないか、野原。


 民主主義を機能させるという本来政治が果たすべき役割を天皇上皇にしか期待できなくなっているとすれば、極めて危うい状況です。内閣や国会を介さずに現在の政治のアンチと天皇がつながるのは、(ボーガス注:現在の日本人はテロを志向してないとは言え)昭和初期の青年将校が抱いた超国家主義の理想に近い。「リベラル」が天皇にそうした権力や権威を期待するのは筋違いも甚だしい。

 全くもって正論ですね。「政治権限を持っていた戦前」ならともかく「そうでない戦後」において、天皇の権威に期待すること(それも政権与党批判的な意味で)は全く適切ではない。ただし「政権批判派」に一部そういう人間がいるとは言え、全てがそうではないですが。わかりやすい例では共産党なんかはそんな立場ではない。俺もそんな立場ではありません。


 皇位継承時に一律の恩赦を実施する意味合いは、けっきょく戦前とまったく変わっていないと思います。背景にあるのは、先ほど述べた儒教的な仁慈という考えで、恩赦はいまだに先帝の遺徳あるいは新天皇の徳を示すための装置ということです。現行憲法下でこうした慣習が続いていることに、法学者はなぜもっと(ボーガス注:批判の)声をあげないのでしょうか。

 全くもって同感です。なお、天皇即位だけに限らず慶事(過去の例:国連加盟、沖縄の日本復帰)を理由にした恩赦それ自体に俺は反対です。
 恩赦は個別恩赦だけで十分でしょう。


 のちに「天皇制国家」と呼ばれるものは、行幸や教育やメディアによって紆余曲折を経ながら徐々にできていったものです。僕は、メディアが果たした役割が非常に大きいと考えています。

 全くもって同感です。天皇崇拝意識は「教育とメディアによって作り出されたもん」であって自然に発生したもんでは全くありません。
 だからこそ原氏も指摘していますが、天皇が「東日本大震災被災地」を訪れたりするわけです。何もしなくても崇拝意識があるならそんなことはする必要がない。
 日本人には「北朝鮮国営メディアによる金正恩の地域視察報道」を「個人崇拝云々」と馬鹿にする人間が「多い気がします」が昭和天皇にせよ前天皇にせよ新天皇にせよ「彼らの地域訪問と日本メディアの礼賛報道」は何一つ北朝鮮と違いはありません。北朝鮮は小馬鹿にし、日本は容認なんてデタラメでしかない。


 僕が注目しているのはその訪問地です。上皇明仁は確かに言葉では植民地支配や戦争への反省に踏み込んでいます。でも国外で訪れた激戦地は沖縄、硫黄島サイパンパラオ、フィリピンと、1944年以降に日本が米軍と戦い負け続けた島々ばかりです。柳条湖、盧溝橋、南京*7武漢*8重慶*9パールハーバー、コタバル*10といった、1931年以降に日本軍が軍事行動を起こしたり奇襲攻撃を仕掛けたりした所には行っていないんです。日本の戦争の全体がむしろ隠蔽されていると僕は思っている。

 そういうところへは「自民党政権が行かせない」わけですが原氏も随分とセンシティブですね。小生はバカなので、言われるまではいわゆる「コロンブスの卵」でしたが。
 結局「天皇のリベラル性」とは「自民党が決めた枠の中での自由」でしかないわけです。前天皇が仮に訪中時に「南京事件の記念館」を訪問し、被害者への追悼の思いを語りたいと思っても「南京事件について日本国民に注目してほしくない」自民党政権が訪問させない。天皇のリベラルさなんてそういう意味では「無価値ではない」ものの、過剰な期待なんか出来る話では全くない。


 上皇上皇后が結婚後の1960年9月に最初に訪問した国はアメリカですが、これはアイゼンハワー*11大統領が来日できなかった代わりです。最初からアメリカとの関係が重視されている。

 とはいえ一方では「天皇訪中」もあるので全てを「対米関係」で読み解くことも一面的でしょう。


 上皇明仁は「おことば」で「国民」と「象徴」のあるべき関係を述べましたが、ここでの「国民」とは、いったい誰のことを指しているのでしょう。例えば在日韓国・朝鮮人や、天皇・皇后の行幸啓前に公園や路上から排除されるホームレスなどは、含まれているのでしょうか。
 言葉を交わさなくてもお互いに「日本人」と確認し合える存在、伊勢神宮剣璽とともに動く天皇を見るだけで、沿道で涙する人たちにしか通用しない。そういう「生き神」を社会統合の原理にしてしまえば、外国をルーツとする人たちは閉め出されてしまいます。

 所詮「強い国民にとって、天皇は重要でも、外国人や弱い国民(例:ホームレス)にとっては天皇なんか『自分らには関係ない存在』にすぎない。いつまで国民の天皇崇拝意識も続くことやら、いやそもそもそんな崇拝をいつまでも続けていいのか」つう指摘でしょうね。実にセンシティブな指摘かと思います。


・いまの天皇のシステムは、男性皇族よりも女性皇族に大きな負荷をかけて成り立っているものです。必ず男子を産むことを求められる。仮に女系が認められても、血統で存続させる以上は子を産まなければ存在意味がなくなる。そういう状況で、悠仁親王の結婚相手にすすんでなろうとする人が、どれくらい現れるでしょう。男女差別によって成り立っているものを、どんな正当的な理由で「存続させなければならない」と主張するのでしょうか。
・(ボーガス注:天皇は)東京の真ん中で自然に恵まれた広い家*12に住み、巨大な別荘が3つあり、御料牧場まであるなど、一般の人間が一生味わえない待遇を受けている存在です。人権と自由と平等という理念を思想的に突き詰めれば、世襲による君主制と民主主義は相いれないはずです。

 まあ「共産党天皇制廃止論に共感する小生」としては全く同感ですね(原氏は共産党支持者ではなくむしろリベラル保守派かと思いますが)。
 なお、巨大な3つの別荘とは

那須御用邸(栃木県那須町
葉山御用邸(神奈川県葉山町
須崎御用邸静岡県下田市、ここだけは戦後の1971年から。他の御用邸は戦前からです)

です。過去にはこれ以外にも

伊香保御用邸群馬県渋川市伊香保
 1947年に皇室財産整理のため御用邸は廃止され、1951年に文部省(当時)へ移管。跡地には「群馬大学伊香保研修所」が設置されている。
・塩原御用邸(栃木県那須塩原市
 1947年に皇室財産整理のため御用邸は廃止され、視力障害者復帰施設として利用するため厚生省へ移管された。「国立塩原視力障害センター」として2013年(平成25年)まで使用された。「国立塩原視力障害センター」廃止後の現在は「塩原温泉天皇の間記念公園」として一般公開されている。
・田母沢御用邸(栃木県日光市
 1947年に皇室財産整理のため御用邸は廃止され、一般公開開始。現在は栃木県立日光田母沢御用邸記念公園。
・沼津御用邸静岡県沼津市
 1969年(昭和44年)12月に廃止されて沼津市へ移管。現在は沼津市立沼津御用邸記念公園。

などがありました(ウィキペディア御用邸」参照)。しかしこうして見ると「伊香保」「塩原」「沼津」と過去の御用邸は結構温泉のある場所が多く、今の「葉山」「須崎」は海水浴場ということでどちらも「観光地」のわけです(もちろん別荘なんだから当然ですが)。
 御料牧場についていえば高根沢御料牧場(栃木県高根沢町)というのが今はあるようです(昔は他にも成田空港のある当たりが御料牧場でした)。


石破氏、立民支持者ら勉強会で「党派超え改憲議論を」 山尾氏も質問 - 産経ニュース
 以前、アンドリュー・バルトフェルドさんも山尾を批判していましたが、「売名目的」で考えなしに好き勝手やるのはやめてほしいですね。
 山尾の行為は「立民は安倍改憲に協力する気なのか」「山尾は石破*13派入りするつもりなのか」などという疑念を生む愚行でしかないでしょう。


韓国大統領がG20訪日で安倍首相との会談に期待 - 産経ニュース
 普通の人間はこう言うでしょう。これ以外の回答はまともな人間ならあり得ない。問題は「我が国の首相がまともでない嫌韓国極右」ということです。


9.11からスリランカテロまで──ムスリムエリートのゆがんだ使命感 | 楊海英 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 国際テロで先頭に立つのは貧困層の青年ではない。

 「極左過激派テロ」「オウム真理教テロ」「三島由紀夫の立てこもり事件」が大卒の犯行であることを知っている我々日本人からすれば「まあそういうこともあるだろうね」「昔からそういうことはあるじゃん」ですね。貧困者は往々にして「日々の生活にいっぱいいっぱい」でテロなんぞやってる余裕はないこともあるでしょう(もちろんこれは貧困者によるテロがないという話ではありません)。
 いずれにせよ「テロは野蛮な犯罪」でしかありません。貧困者なら同情の余地はあっても「エリート」では同情の余地はないでしょう。
 「合法手段では変わらないから、違法手段もOK」なんてのは、「合法手段がほとんど不可能な独裁体制でもない限り」唾棄すべき、ゆがんだエリート意識でしかありません。そして「そうした独裁体制の場合」でも「安重根の伊藤・元韓国統監暗殺」のような「高官暗殺」ならまだしも無差別テロなど論外でしょう。


萩生田氏「既存メディアのプライド傷つけた」 消費増税発言報道で見解 - 産経ニュース
 発言場所がフジテレビでないことが興味深いですね。萩生田の詭弁に協力するのはせいぜい櫻井よしこのネットテレビぐらいだと言うことでしょう。


自民大阪府連会長に渡嘉敷奈緒美氏 維新との連携目指す - 産経ニュース
大阪都構想住民投票「来秋にも」 松井維新代表、自公協力表明受け - 産経ニュース
 安倍が「国政での自民二軍」として活用したいが故に維新に曖昧な態度をとってきたことを考えれば予想の範囲内ですが全く自民党公明党もデタラメですね。
 なお、「維新支持層」は「大阪の自民、公明が維新に屈服した」と都合のいい認識をするのでしょうが、「俺の願望があることは否定しませんが」反維新側としては「曖昧な自民や公明が維新に屈したこと」はむしろ維新批判という意味ではすっきりしてプラスかもしれません。
 いずれにせよ、今度こそ、維新一味の画策する大阪都構想に完全に引導を渡してほしいところです。正直「藪医者のインチキ医療」みたいなもんでこんなもんに乗っかったら大阪は今以上に経済的に沈没するでしょう。


自民大阪、唐突な維新融和路線 「もう終わり」市議ら猛反発 - 産経ニュース
 安倍に支援を受けた大阪自民府連の一部幹部の「維新へのすりより」に「今までの活動との整合性がつかない」との反発が出てるとの話です。果たしてどうなることやら。


河野太郎外相、露側に歩み寄り促す 講演で領土交渉など言及 - 産経ニュース

 平和条約締結には両国の議会で批准が必要になる。河野氏は「(交渉結果が)100対0では、0の方の国は批准しない」と指摘し、日露双方が受け入れられる解決策が必要だと訴えた。

 吹き出しました。その理屈なら拉致問題とて同じ話で「北朝鮮が受け入れられる内容」でなければ向こうは交渉に応じはしないんですが。安倍や河野に「北朝鮮が受け入れられる内容」を提出する覚悟と能力はあるのか。


めぐみさん弟「北の時間稼ぎ、許してはならぬ」 国連拉致シンポ - 産経ニュース
 小泉訪朝から17年も経ってるのに今更「時間稼ぎ」も糞もないでしょう。

 シンポジウムには、北朝鮮で拘束され帰国直後に死亡した米大学生オットー・ワームビアさん=同(22)=の父、フレッドさんも参加。北朝鮮金正恩キム・ジョンウン朝鮮労働党委員長について「委員長ではなく、犯罪者と呼ぶべきだ」と述べ、強い言葉で批判した。

 まあワームビア君のお父さんに常識がないことはよく分かりました。俺にとって、こういう「勘違いした遺族」ほど見ていて不愉快なもんもないですね。


輿石東氏、山梨の自民知事を牽制 「25人学級の公約実現を」 - 産経ニュース
 「予算面など様々な問題があると思うのですぐに実行しろとは言わないが選挙で25人学級実現を公約した以上、4年の任期中には実施してほしい」と言うことが産経的には「牽制」だそうです。意味が分かりません。何が牽制なのか。


【編集者のおすすめ】『日韓戦争を自衛隊はどう戦うか』兵頭二十八著 - 産経ニュース
 呆れて二の句が継げませんね。呆れるのは、もちろん日本側にも韓国側にもそんなことをやる動機がないからです。文在寅大統領はもちろん安倍ですらそこまでキチガイじゃないでしょう。


【昭和天皇の87年】決起部隊は義軍にあらず 天皇自ら「暴徒鎮定に当たらん」 - 産経ニュース

 昭和天皇は敢然と身を処し、1ミリもぶれなかった。

 なんたって戦前の昭和天皇国家元首です。「海外はともかく」国内は何も恐れる物がない。
 そして昭和天皇は彼が深く信頼する重臣を暗殺したあげく「昭和天皇のことを考え君側の奸物を除いた。我々は忠義の家臣だ」と主張する青年将校に対し「暴徒をすぐに鎮圧しろ」とマジで激怒していました(下手に青年将校を攻撃して外国人*14の被害が出て国際問題になる恐れとか天皇は考えなかったのかなあ、つう疑問は正直ありますが)。
 一方川島*15陸軍大臣が恐れていたのは、「軍事力で鎮圧すること」で不測の事態が起こることです。彼は最高権力者ではない。下手に軍事攻撃をやり不測の事態を起こすことで、昭和天皇の不興をかえって買うことを恐れていた。また、不測の事態の発生で「陸軍以外の政治勢力」から陸軍や川島が攻撃されることも恐れていたわけです。もちろん「皇道派の真崎*16や荒木*17」に対して川島が優柔不断だという問題もある。

 厳密にいえば、このときの昭和天皇立憲君主の枠から逸脱していたかもしれない。

 「天皇は政府の決めたことに従うしかない。だから戦争責任はない」というデマゴギーの立場に立てばそうなるのでしょう。
 しかし戦前において天皇は最高権力者です。当時においてなんら法的、政治的な問題はないし、昭和天皇本人も周囲も問題だとは思ってないでしょう。

陸相の対応も決起側に流され

 真崎や荒木ら皇道派青年将校の行動を利用し、復権を狙っていたことに対し、優柔不断な性格の川島陸相は毅然とした対応がとれませんでした。もちろんだからこそ川島を馬鹿にして、なめてかかって青年将校が決起したという面もあるでしょう。総裁時代に安倍*18に完全になめられて、好き勝手されていた谷垣氏*19みたいなもんです。

 私は田中(ボーガス注:義一)内閣の苦い経験(※2)があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟(ま)ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回丈(だ)けは積極的に自分の考を実行させた

 これが嘘八百であることは歴史的資料から明白です。
 田中義一*20昭和天皇の叱責を理由に首相を辞任した当時の資料で「田中がやめるとは思わなかった、叱りすぎた」などと田中の辞任を意外に思い後悔していることを昭和天皇が表明しているものは何一つありません。
 昭和天皇は「張作霖暗殺についての田中の食言(張作霖暗殺者を処分すると報告したが陸軍の反発で撤回した)」に不快感を感じ、首相をやめてほしいと思ったから叱責したのであってむしろ辞任は「予想の範囲内」で「大歓迎」でした。むしろ田中が辞任しなかったらその方が「苦い思い」をしたでしょう。
 なお、「張作霖暗殺についての田中の食言」以前から昭和天皇

■水野文相優諚問題(ウィキペディア参照)
 第16回衆議院議員総選挙において田中義一内閣内務大臣の鈴木喜三郎*21は大規模な選挙干渉を行って野党立憲民政党無産政党の進出を食い止めようとしたが、これが内外からの非難を浴びて辞任に追い込まれた。
 そこで田中義一首相は、逓信大臣の望月圭介*22を鈴木の後任の内務大臣に任命し、空いた逓信大臣の地位には田中首相自身が政界入りを勧めた同郷の財界人・久原房之助*23を任命しようとした。だが、久原は今回の選挙で初当選した議員としては「新人」であることに加え、かつて1代で久原財閥を築きながら経営の失敗から久原自身の手で身売りに追い込まれた経緯があった事から政治家としての素質に対しても疑問が持たれていた。特に三土忠造*24大蔵大臣と水野錬太郎*25文部大臣はこれに強く反対した。しかし田中首相の意思は変わらず、憤慨した水野文相は1928年5月20日田中首相に対して大臣の辞表を提出した。
 ところが、3日後に行われた望月・久原の親任式直後に水野から、「昭和天皇からの優諚(慰留の発言)」を受けて辞表を撤回したとの声明が出された。これに対して野党立憲民政党貴族院は、田中首相が水野の辞表を丸く収めるために天皇の発言を政治的に利用したと非難の声を上げ、世論も激しく反発した。これに対して政府は水野文相が優諚を受けたのは辞表撤回の後であり、天皇の意向で辞表を撤回したわけではないと弁明して事態の沈静化を図ったが、非難は激しさを増すばかりであり、5月25日に水野は文部大臣を辞任した。
 しかし、貴族院での田中首相批判は高まる一方であり、遂に6月2日には貴族院で政府問責決議が採択された。

ということで以前から田中の政権運営のまずさに不満を感じていました。張作霖暗殺での食言が「天皇の不満や反発を決定的にし」田中は辞任に追い込まれるわけです。
 「田中辞任は失敗だった」という話が出てくるのは戦後になってから昭和天皇が戦争責任を逃れるために「私には権限なんかほとんどなかったんだ」と言い訳するために作成した「米国相手の弁明書である独白録」に初めて出てくる話です。
 「権限がない人間」が「首相を辞任させた」のでは説明がつかないから、事実に反するかなり無理筋の言い訳を天皇はしたわけです。
 「226終戦だけは自分の思い」云々なんてことはない。226天皇は武力鎮圧したかったが、陸軍は真崎や荒木ら皇道派の影響で説得方針であり武力鎮圧方針ではなかった)と終戦天皇重臣は降伏したかったが陸軍は徹底抗戦方針)だけは「陸軍と天皇など他の意見が違いすぎる」ため天皇が「良きに計らえ」ができず「陸軍を押さえ込むために」天皇が出張ってきただけです。
 米国との開戦決定にしても天皇は「外交で解決できないのか(さすがに天皇だって外交で解決できるならその方がいいわけです、米国相手に戦争して簡単に勝てると思うほど天皇もバカではない)」「戦争して勝てるのか」という質問をした上で「外交解決の見込みは残念ながら薄い*26。もはや戦争は不可避」「戦争しても日独伊三国同盟でなんとか引き分けに持ち込めるはず*27日露戦争のように負けは回避できる)」などという回答を得て、自ら最終決定を下したわけです。
 このあたりは井上清天皇の戦争責任』(2004年、岩波現代文庫)、山田朗昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)、『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)などの著書が詳しいかと思います。

 27日午前8時45分、昭和天皇は奉勅命令を裁可する。
 「三宅坂*28付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムべシ」
 決起部隊は原隊に帰れという、大元帥の直接命令だ。従わなければ逆賊として討伐されることを意味する。
 奉勅命令をいつ発動するかは、参謀本部の判断に任された。陸軍上層部は説得により帰順させる方針を捨てきれず、その発動を遅らせようとしたが、昭和天皇の揺るぎない姿勢に、陸軍部内からも討伐やむなしの声が強まっていく。

 真崎や荒木ら皇道派からすればできる限り青年将校をかばいたいわけです。一方川島陸軍大臣も「不測の事態」をおそれ説得による投降を目指しては居ましたが天皇の強硬姿勢により「軍事鎮圧やむなし」になります。
 しかしウィキペディア226事件」を見れば分かりますが陸軍はすぐに軍事攻撃には動きません。これ以降の話は今回の産経記事には書いておらず次回以降の話になりますが、ウィキペディア226事件」を見てみましょう。

226事件ウィキペディア参照)
 27日の正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。

 山下(当時、陸軍省軍事調査部長)は皇道派幹部です。「もう奉勅命令が出て、君らが犯罪者扱いされるのは時間の問題だから覚悟してくれ。ワシや荒木さん、真崎さんといった皇道派幹部も君らをかばいきれない」と引導を渡しにいったわけです。もちろん山下の行為は自らの保身です。山下ら皇道派幹部連中も全く卑怯な連中です。
 ではウィキペディア226事件」を引き続き見ていきましょう。

226事件ウィキペディア参照)
 これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決*29下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自決したいなら勝手にさせればよい。このような者共に勅使など論外だ」と非常な不満を示して本庄を叱責した。

 ということで「もはやかばいきれないから犯罪者としての処罰を覚悟しろ(山下)」に対し「わかりました、我々は皆自決しますが、その前に我々の側にも一理あったと認めて頂きたい。ついては自決の前に陛下の勅使をお願いします(栗原)」つう話になるわけです。
 で、川島は「丸く収まって良かった。投降するそうだから早速勅使を送ってもらおう」と本庄を通じて奏上する。
 ただし、昭和天皇は側近を暗殺した青年将校にマジギレしています。
 本庄を通じた川島の奏上に「お前ら陸軍は何を考えてるのか。ふざけてるのか。なんで勝手に軍隊を動かして統帥権を干犯したあげく朕の側近を暗殺した暴徒に勅使など送らなければならない。自決したければ勝手にやらせろ。勅使がなきゃ自決しない、投降しないつうならとっとと奉勅命令を発動して鎮圧しろ!。そこまで青年将校に下手に出る必要なんかない!」とマジギレするわけです。当然勅使なんか送れない。
 「陸軍の感覚がずれてるのか」、はたまた「昭和天皇の怒りを知りながらあえて、『多分勅使なんて無理だろうな、と思いながらやってるのか』はともかく」昭和天皇と陸軍は悲しいまでに意思疎通がとれていません。
 もちろんこうした上奏に関与した本庄*30侍従武官長、山下*31陸軍省軍事調査部長は天皇の不興を買い「皇道派シンパと見なされ*32」、その後、本庄は予備役編入、山下は陸軍中央(陸軍省軍事調査部長)から歩兵第40旅団長として、外に左遷され結局、中央には戻ってこれません。そして東条英機*33武藤章*34ら統制派が陸軍を牛耳ることになります。
 本庄はともかく山下は左遷され中央から外されたことで「マレーシア侵攻作戦の成功で司令官として国内での名声を高める」「しかしフィリピンのマニラ虐殺の責任者として絞首刑」ですから226事件で人生が大きく変わってしまいます。まさに「人間万事塞翁が馬」です。
 それはともかく、当然ながら青年将校の「自決します」は「ただし勅使を事前に送ることが条件」ですから、「勅使がぽしゃった時点」で「全員で自決する」という話はチャラになります*35。そして自決の話はチャラになりますが、結局

226事件ウィキペディア参照)
・29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。
・投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告が放送され、また「勅命下る、軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンもあげられた。

ということで青年将校は戦意を喪失し「そのほとんどは自決はしないものの」投降します。
 ただし安藤輝三大尉、野中四郎大尉は個人的に自決を決行します(野中は自決で死亡するが安藤は一命を取り留め後に死刑判決)。
 なお、野中については

226事件ウィキペディア参照)
・野中大尉は、上司である井出宣時*36大佐らに外へ連れ出され、それきり帰ってこなかった。「自殺は絶対不可で生き永らえて法廷で陳述しなければならない*37」と最も強硬に主張していた野中大尉が自殺するはずがない、あれは井出ら上官の保身による「ノモンハン事件時のような自殺強要に違いない」というのが、生き残った青年将校たちの理解である。

とのことで事実なら随分と酷い話です。安藤についていえば、鈴木貫太郎襲撃時に既に「後で自決するつもりである」旨、述べていることから、野中に対するような自決の強制はなかったと考えられています。

【参考:ノモンハン事件での自決強要】

ノモンハン事件ウィキペディア参照)
 乗機を撃墜されて捕虜となった飛行第1戦隊長の原田文男少佐は、捕虜交換で日本に帰ると、同じく捕虜となって帰国した飛行第11戦隊の大徳直行中尉と自決勧告を受けた。若い大徳は「撃墜されて人事不省で捕虜になったのだから恥じる必要はない。再起してもう一度戦いたい。」と抵抗したが、原田が説き伏せて2名とも自決している(秦郁彦明と暗のノモンハン戦史』(2014年、PHP研究所))。

「戻った捕虜 過酷な運命」 - Apeman’s diary
【参考終わり】

 石原*38は統制派ではないが、思想と行動力を危険視され、決起将校らの殺害リストに入っていた。だが、このときは気迫におされ、誰も引き金をひけなかった。

 「気迫云々」というより「統制派でも、皇道派でもない石原の立ち位置がよく分からない(党利党略的な形で石原が皇道派に協力することもあり得る)」ので殺されなかっただけでしょう。殺害リストと言っても石原の場合「殺した方がいいかも」レベルの軽い扱いでしかありません。
 実際に暗殺された斎藤*39内大臣、高橋*40蔵相、渡辺*41陸軍教育総監ほどの重要な暗殺ターゲットではない。

 石原の言動については諸説あり、事件発生の26日から討伐方針を明確にしていたとする説と、28日に態度を明確にしたとする説がある。

 前者が正しいならば、石原は最初から「青年将校を討伐することで問題を早急に解決する」という昭和天皇に近い考えだったわけです。
 一方、後者の説が正しいならば、
1)石原もまた真崎や荒木ら皇道派とは違った形で「青年将校を自分に都合のいい形で政治利用できないか」画策していた、あるいは
2)真崎や荒木ら皇道派が陸軍の実権を握るなら、出世のために皇道派に調子を合わせようと日和見していた
が「天皇の討伐方針を知り討伐派に鞍替えした」と言うことでしょう(石原自体は皇道派ではありません)。
 前者と後者ではかなり意味合いが違ってきます。この点ですが、ウィキペディア226事件」には

・27日午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉*42橋本欣五郎*43は帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。山本英輔*44内閣樹立を目指すことなどで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。
・27日夜、石原莞爾磯部浅一と村中孝次を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言ったという。

という記述があるのだから後者の方が正しそうです。少なくとも石原は「単純な鎮圧論者」ではなく政治的な画策に動いていました。


【昭和天皇の87年】討伐を主張した石原莞爾 「降参すればよし、然らざれば殲滅する」 - 産経ニュース

参謀本部石原莞爾からも町尻(量基)*45武官を通じ討伐命令を出して戴き度(た)いと云つて来た、一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく判らない、満州事件の張本人であり乍(なが)らこの時の態度は正当なものであつた」
 先の大戦後、昭和天皇二・二六事件を振り返って側近らに語った言葉だ。

 ウィキペディア226事件」に記載された

・27日午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉(陸軍皇道派。後に、二・二六事件に関与したとして、禁固3年の判決を受け免官処分)、橋本欣五郎は帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。山本英輔内閣樹立を目指すことなどで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。
・27日夜、石原莞爾磯部浅一と村中孝次を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言ったという。

という石原の振る舞いを昭和天皇は知らなかったのでしょう。皇道派の満井と密談する石原は明らかに単純な討伐派ではありません。石原のこうした言動を天皇が知っていたらここまで石原に対して好意的発言はしないでしょうね。しかし「満井との密談」など、こうした石原の謀略的態度はさすが「満州事変の関係者の一人」というべきでしょうか。

 侍従武官長の本庄繁のもとに、陸相の川島義之と軍事調査部長の山下奉文(ともゆき)が訪れた。28日午後1時ごろのことだ。
 山下が言った。
 「決起将校に自決させ、下士官以下は原隊に帰します。ついては勅使を賜わり、自決への光栄を与えてほしい。これ以外に解決の手段はありません」
 自決に勅使が立ち会うことは、決起の趣旨などの一部を天皇が認めることを意味する。本庄は「斯(かか)ルコトハ恐ラク不可能ナルベシ」と思いつつ、拝謁を求めて伝奏した。
 はたして昭和天皇は激怒した。
 その様子を、本庄は日記にこう書いている。
 「陛下ニハ、非常ナル御不満ニテ、自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使抔(など)、以テノ外ナリト仰セラレ、(中略)直チニ鎮定スベク厳達セヨト厳命ヲ蒙(こうむ)ル」

 既に小生が、ウィキペディア226事件」をもとに上で書いてる話の繰り返しです。

 事件発生以来、政府も軍部も混乱する中で、昭和天皇微塵もぶれなかった。

 何度も書きますが天皇が「ぶれない」のは彼が最高権力者、国家元首であって、怖いものは国内には何もないからです。
 国家元首でもこれが「ポルポト政権時のシアヌーク(最悪の場合ポルポト派に殺されかねない→国外亡命)」みたいなやばい立場なら話も別ですが。
 そして彼は真崎や荒木ら皇道派とは違い、青年将校には「側近を殺した許しがたい暴徒」「怒り、恨み、憎悪」といった否定的な感情しかなかった。
 「ぶれなければいけない理由」がどこにもないのだから、別に昭和天皇が立派な訳でも何でもない。
 「最高権力者の毛沢東・党主席には劉少奇国家主席周恩来首相、トウ小平副首相ですら逆らえないので毛沢東には国内に怖い物がない」のと大して変わりません。
 一方、川島陸軍大臣は最高権力者ではない。
 「下手に武力鎮圧して、不測の事態が起こったら天皇に陸軍が叱責されるかもしれない。野党や海軍など陸軍以外の政治勢力が陸軍攻撃するかもしれない。青年将校をうまく丸め込んで投降させて、武力鎮圧は避けた方がいいかもしれない」「真崎や荒木が青年将校に好意的な態度なのはどうしよう。今は俺が陸軍トップの大臣だが、荒木も元陸軍大臣だし、あいつらをあまり邪険には扱えない」とかどうしても「最高権力者でないが故」の悩みや躊躇が出てしまう(まあ、元々、川島は「横田滋氏」のような優柔不断な性格の人間として有名なのですが)。
 天皇ほど気軽(?)に「武力で叩き潰せばいい」とは川島は思えないわけです。昭和天皇なら真崎や荒木なんか所詮「ただの部下」でしかありません。「俺の考えに文句を言うようなら、荒木や真崎なんか首にすればいい、場合によっては青年将校の共犯として処罰すればいい」としか思ってない。

 一方、決起将校は自決の帰順論にいったんは傾きながら、28日午後に態度をひるがえし、決戦する姿勢をあらわにした。

 上に既に書きましたが態度を翻すのは「勅使が送られないから(青年将校のメンツを天皇が守ろうとしないから)」です。ただし「決戦の意思」はなかったでしょうね。
 なぜなら彼らの建前は「昭和天皇のために動いた」だからです。これが「昭和天皇を退位させ後釜に秩父宮を据える」なら話は別です。
 しかし「昭和天皇のために動いた」以上、天皇に叱責されたら彼らに執れる手段は理屈上「天皇の意思に従い降伏」しかない。自決しないのも何度も書くように「勅使が送られないから(送られれば自決する)」つう話なのだから、そんな人間たちが討伐命令にがちで対決して決戦しようと思うわけもない。ガチで対決するつもりなら「勅使派遣」という条件付きとはいえ「自決」なんて話が出るわけもない。
 彼らは「ストーカー並みの勝手な思い込み」だったとは言え、昭和天皇に「自決したければしろ、お前が自決しようがすまいが知ったことか、勅使など送らない」と冷たくいわれ、信じていた昭和天皇に「裏切られて(?)」絶望の淵にいました(その結果、磯部の場合、有名な『獄中日記』 磯部浅一で分かるように、「毎日朝から晩まで、陛下をお叱り申しております。天皇陛下、何というご失政でありますか」などと昭和天皇に悪口雑言しまくるようになります)。「自決する気にもなれず、討伐軍と決戦する気にもなれず、しかし、今更投降する気にもなれず」、とはいえ「もはや事態を改善させる見込みもなく」、意気消沈の結果、ただ「討伐命令が正式発動されるまで」無為に時間を過ごしていたということでしょう。 

*1:そうした世論の増加は世論調査で明白です

*2:天皇関係の著書として『昭和天皇』(2008年、岩波新書)、『「昭和天皇実録」を読む』(2015年、岩波新書)、『大正天皇』(2015年、朝日文庫)、『〈女帝〉の日本史』(2017年、NHK出版新書)、『皇后考』(2017年、講談社学術文庫)、『平成の終焉: 退位と天皇・皇后』(2019年、岩波新書)、『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』(2019年、潮新書)など

*3:こうした「天皇制の現状について批判的な文章」で「陛下」「殿下」とつけるとかえって不自然ですが、原氏が最初から最後まで「天皇陛下」「皇太子殿下」などのような陛下、殿下という敬称をつけていないことを指摘しておきます。

*4:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長、首相を歴任

*5:まあ法的扱いが宮廷費とは違うとは言え、結局税金ですが。

*6:もちろん俺はそういう改憲には反対の立場です。

*7:現在は江蘇省省都。戦前は日本軍の南京侵攻で陥落するまで中華民国の首都があった。

*8:湖北省省都

*9:南京陥落後、一時中華民国の首都があった。

*10:マレーシアの都市。太平洋戦争において日本軍がここから上陸し英軍と戦争した。

*11:陸軍参謀総長NATO軍最高司令官などを経て大統領

*12:もちろん皇居のこと

*13:小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)など歴任

*14:特に駐日大使など外交官

*15:朝鮮軍司令官、岡田内閣陸軍大臣など歴任

*16:台湾軍司令官、参謀次長、陸軍教育総監など歴任

*17:犬養、斎藤内閣陸軍大臣、第1次近衛、平沼内閣文部大臣など歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放。

*18:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相

*19:小泉内閣国家公安委員長財務相自民党政調会長(福田総裁時代)、福田内閣国交相、第二次安倍内閣法相、自民党幹事長(第二次安倍総裁時代)など歴任

*20:原、第二次山本陸軍大臣を経て首相

*21:検事総長、清浦内閣司法大臣、田中内閣内務大臣など歴任

*22:田中内閣逓信大臣、内務大臣、岡田内閣逓信大臣など歴任

*23:田中内閣逓信大臣、立憲政友会幹事長(犬養総裁時代)など歴任

*24:戦前、田中内閣文部大臣、大蔵大臣、犬養内閣逓信大臣、斎藤内閣鉄道大臣などを歴任。戦後、幣原内閣内務大臣。

*25:内務次官、寺内、加藤友三郎、清浦内閣内務大臣、田中内閣文部大臣など歴任

*26:まあ、アメリカが要望する「蒋介石政権転覆による中国全土植民地化なんか諦めろ、日中戦争はもうやめろ」を昭和天皇がのまない限り、確かに外交解決はあり得ません。

*27:さすがに開戦論の軍部も日本の独力で米国に勝てるなんて暴論は主張しません。

*28:戦前は陸軍省参謀本部の所在地であり、陸軍省参謀本部のことが俗に三宅坂と呼ばれた。戦後は長く日本社会党本部が置かれ、日本社会党を俗に「三宅坂」と呼んだ。まあ、他にもこうした例は「霞ヶ関(官庁街)」「兜町(証券街)」「桜田門警察庁)」「信濃町公明党創価学会)」「永田町(国会)」「虎ノ門文科省)」「代々木(日本共産党)」とかいろいろあります。

*29:まあ青年将校連中が全員死んでくれれば「陸軍大臣告示問題」などもうやむやにできるし、川島や真崎、荒木や山下など陸軍関係者にとっては都合のいい話です。

*30:関東軍司令官、侍従武官長、軍事保護院総裁など歴任。満州事変当時の関東軍司令官だったことから戦後、戦犯指定を受け、それを苦にして自決。

*31:陸軍省軍事調査部長、北支那方面軍参謀長、第25軍(マレーシア)司令官、第14方面軍(フィリピン)司令官など歴任。戦後、マニラ軍事裁判において死刑判決

*32:実際そうだと思いますが

*33:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*34:支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長、近衛師団長、第14方面軍(フィリピン)参謀長を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*35:小生の持ってる本『226事件』(須崎慎一、2003年、吉川弘文館)によれば勅使が来るか来ないか分からない段階でも、磯部浅一や野中四郎は『裁判にかけられるであろうからそこで法廷闘争をすべきであって今すぐ死んでも意味がない』と当初から自決には否定的だったようです。まあ野中はともかく、磯部の場合、有名な『獄中日記』 磯部浅一で分かるように、「毎日朝から晩まで、陛下をお叱り申しております。天皇陛下、何というご失政でありますか」などと昭和天皇に悪口雑言しまくるような人間ですからね(苦笑)。磯部は明らかに自分から自決するようなタマではありません。

*36:226事件当時、歩兵第3連隊長。満州国軍軍事顧問、歩兵第18旅団長、旅順要塞司令官など歴任。

*37:話が脱線しますが「自殺をアピールする相手」が「226事件昭和天皇」のように「青年将校連中は自殺したければしろ、ただし俺はそんなもん無視する」と「自殺しても知ったことか」という態度をとってる場合には自殺してもほとんどの場合「政治的アピール」としては意味がないでしょう。何が言いたいかと言えば、チベット焼身自殺なんか中国が公然と「知ったことか」という態度をとってる以上、無意味だと思うつう話です(以前から書いてることですが)。むしろ「自殺は絶対不可で生き永らえて法廷で陳述しなければならない」でしょうね(226事件軍事法廷は秘密法廷だったのでこうした思惑はうまくいきませんが)。「法廷闘争」に打って出た劉暁波なんかはそうでしょう。まあ彼は彼で国外亡命した方が良かった気もしますが。

*38:関東軍参謀として満州事変を実行。関東軍作戦課長、参謀本部戦争指導課長、参謀本部第一部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官など歴任

*39:第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任

*40:日銀総裁、第1次山本、原、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相、首相を歴任

*41:台湾軍司令官、陸軍教育総監など歴任

*42:陸軍皇道派に属し、1935年に永田鉄山軍務局長を相沢三郎中佐が斬殺した、いわゆる相沢事件では、軍法会議において陸士同期である相沢の特別弁護人をつとめた。1936年、226事件に関与したとして、禁固3年の判決を受け免官となった。その後、1942年の翼賛選挙(衆議院選挙)に無所属(非推薦)で立候補し、当選している。戦後、公職追放となった。

*43:陸軍内部に秘密結社・桜会を組織。三月事件(浜口内閣を打倒し、宇垣陸軍大臣を首相とするクーデター計画)、十月事件(第2次若槻内閣を打倒し、荒木貞夫を首相とするクーデター計画)を計画するも失敗に終わり、桜会は解散させられる。なお、戦後、陸軍大佐に過ぎなかった橋本が戦犯として起訴されたのは、連合国側が三月事件・十月事件を「侵略計画の発端」とした事が最大の要因であると推測されている。226事件の際には、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、大佐で予備役へ回される事となる。その後、日中戦争の勃発に伴い、連隊長として再び召集されたが、南京攻略戦の際の1937年12月12日に、イギリス砲艦レディバード号を砲撃し被害を与え(レディバード号事件)、さらに同日、中国空軍基地に運ぶガソリンを載せた油槽船3隻を護送中のアメリカの砲艦パナイ号(パナイ号事件)に砲撃を行った。 米英の抗議を受け国際問題となったため、橋本は責任を取って陸軍砲兵大佐で退役した。予備役中の1936年に大日本青年党(のち大日本赤誠会に改称)を組織しファシズム運動を展開、近衛文麿首相が掲げる新体制運動にも積極的に協力した。1942年の翼賛選挙で衆議院議員に当選し、翼賛政治会総務に就任した(そのため、戦後公職追放となる)。戦後、戦犯として起訴され、終身刑(後に仮釈放)。仮釈放後、1956年の第4回参議院議員通常選挙全国区に、政党の公認や資金も無い状態で周囲が止めるのも聞かずに無所属で立候補し落選している。生前の彼を知る人物の証言によれば、橋本は非常に短気、ヒステリックで常軌を逸した行動が多く、東京裁判公判中においても、ごく些細な事から激昂し、法廷控室において白鳥敏夫(元駐イタリア大使、終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀)の顔面を眼鏡が飛ぶ程殴打した事がある。

*44:海軍軍人。横須賀鎮守府司令長官や連合艦隊司令長官といった要職を歴任。政治的にはロンドン海軍軍縮条約に反対しており、いわゆる艦隊派に属していた。また、陸軍皇道派の活動に理解を示し、226事件当時、武力鎮圧に反対していたことから、岡田内閣総辞職後、一時陸軍から暫定内閣の首班候補に擬されたが、首相には広田弘毅(岡田内閣外相)が就任し、山本英輔内閣は誕生しなかった。事件後、陸軍将校の被告達や真崎甚三郎陸軍大将との関係が濃いと見られたことから危険視され予備役に編入された。

*45:侍従武官、陸軍省軍務局長、北支那方面軍参謀副長、印度支那駐屯軍司令官など歴任