今日の産経ニュース(2019年5月19日分)

【新聞に喝!】朝日の本音は「天皇制否定」か 作家・ジャーナリスト・門田隆将(1/2ページ) - 産経ニュース
 朝日のどこをどう理解すれば天皇制否定になるのか。馬鹿馬鹿しくて話になりません。
 さすが、女帝容認論を「天皇制廃止を企むサヨの陰謀」呼ばわりする方々の脳みそは小生にはおよそ理解が出来ませんね。
 なお、もちろん天皇制否定論を唱えようと、違法行為でも何でもなく、「天皇、皇室を微辱するような無礼な言葉遣いでない限り」、そのこと自体は何ら道徳的に問題はありません。産経のような天皇制支持者にとっては「天皇制廃止論は正しくない」つうだけの話です。むしろ世界的には廃止の経緯は千差万別ですが、「フランス」「ドイツ」「イタリア」など、王室を廃止した国の方が多いわけです。


【聞きたい。】大西比呂志さん 『伊沢多喜男 知られざる官僚政治家』(1/2ページ) - 産経ニュース
 伊沢多喜男*1といえば小生的には星新一『人民は弱し 官吏は強し』(新潮文庫)での敵役ですね。この小説では伊沢は「主人公である星製薬社長・星一星新一の父)を追い詰める警察官僚の親玉」として登場します。つまりは「立派な主人公・星を、権力を私物化して不当にもいじめる極悪人=伊沢(星新一にとっての「親の敵」?)」という扱いです。
 そして伊沢の親分が「加藤高明*2」で、加藤と政治的に対立しているのが後藤新平*3、後藤の支持者が星一で、「後藤の資金源を破壊するために加藤や伊沢が星製薬を締め上げる」という設定です。
 大西著書において、星新一の小説が取り上げられてるのか気になるところです。


「日本国紀」批判作家の実売部数を異例“暴露” 幻冬舎社長、批判受け謝罪 - 産経ニュース
 誰がどう考えても下劣な嫌がらせ以外何物でもない*4し、こうした態度は幻冬舎から本を出してる作家に対して「誰のおかげで本が出せてるんだ!」と上から目線で恫喝してるのも同然ですからね。批判をあびるのも、謝罪に追い込まれるのも当然の話です。
 さすが、「アベマテレビで安倍の提灯番組の司会を務める男」は人間性が狂ってると言うべきでしょうか。


【昭和天皇の87年】決起将校15人を処刑 痴となるほどに国を愛せよ - 産経ニュース

 暴力革命を容認し、目指すは武装クーデターによる国家改造である。
 その発想は、むしろ共産主義勢力に近い。

 小生の持ってる本『二・二六事件』(須崎慎一)も指摘していますが、こうした産経の認識は事実認識として間違ってると言っていいでしょう。
 まず第一に、荒木貞夫*5が犬養*6内閣陸軍大臣、真崎甚三郎*7が参謀次長と軍上層部にいるときは青年将校たちはテロなど全く考えていません。彼らも「合法手段でやった方がメリットがある」と思えばテロなんかしません。まあ人間なんてそんな「良く言えば合理主義」「悪く言えば保身」の生き物です。危ないことをする必要がないのに、危ないことをする人間は普通いない。
 青年将校が暴走するのは荒木や真崎が失脚し、永田鉄山ら統制派が陸軍の実権を握り、青年将校が弾圧されるようになってからのことです。
 第二に何で「テロイコール共産主義」「クーデターイコール共産主義」なのか。
 それならばクーデターを実行したピノチェトや朴チョンヒも共産主義なのか。
 あるいは「陸軍非主流(傍流)・皇道派226事件」はともかく「陸軍主流・統制派」の三月事件や十月事件は産経的にどう理解されるのか。

■三月事件(ウィキペディア参照)
橋本欣五郎の手記では、橋本が宇垣一成*8・浜口*9内閣陸相を首班とする軍事政権樹立のためのクーデターの実行を決意して、参謀本部第2部長・建川美次*10少将を通じて参謀次長・二宮治重*11中将、陸軍次官・杉山元*12少将、軍務局長・小磯國昭*13少将ら宇垣に近い将官の賛同を得、計画実行のために作戦課長・山脇正隆*14大佐、新聞班長・根本博*15中佐、鈴木貞一*16中佐、重藤千秋*17大佐ら佐官クラスの将校を交えて協議を重ねた、とされている。
・この計画は決して綿密とはいえないものであった。永田鉄山軍事課長や岡村寧次*18補任課長らが時期尚早論を唱えて反対。また橋本欣五郎大川周明らの証言によると、計画の最終段階に至って宇垣がクーデターに反対(非合法的手段によらずに首相に就任する見通しが立ったためとの説がある)、小磯國昭も計画を中止するよう動いたという。
■十月事件*19ウィキペディア参照)
 1931年9月18日深夜、柳条湖事件が発生、これを端緒として満州事変が勃発した。当時の若槻礼次郎*20首相、幣原喜重郎*21外相により、不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定された。しかし、陸軍強硬派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が中心となり、大川周明北一輝らの一派と共にクーデターを計画した。
 具体的な計画は、首相官邸・警視庁・陸軍省参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を殺害ないし捕縛。その後、荒木貞夫陸軍中将を首相に、大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇*22少佐を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、というものであった。
 この計画は10月16日には陸軍省参謀本部の中枢部へ漏れ、翌17日早朝に橋本欣五郎、長勇、田中弥*23、小原重孝*24、和知鷹二*25、根本博といった中心人物が憲兵隊により一斉に検挙される。大内力『ファシズムへの道』(1967年、中央公論社)は、この計画ははじめから実行に移す予定はなく、それをネタに政界や陸軍の中央部を脅迫することで政局の転換を図ることが目的であったと推測している。

という三月事件や十月事件が「共産主義に近い」というなら「当時の陸軍は統制派も共産主義者皇道派共産主義者。陸軍は共産主義者の集まりだった」「東条英機ら統制派を隠れ共産党呼ばわりした近衛上奏文は正しかった」という「何だかなあ」な話になります。産経が「都合の悪いことに共産主義のレッテルを貼りたいこと」はよくわかりますがはっきり言って馬鹿げています。
 それはともかく「皇道派と統制派」「既遂と未遂」の違いがあるとは言え「実行されなかった226事件=三月事件、十月事件」のわけです。外部には漏れなかったとは言え三月事件、十月事件の存在は軍内部では公然の秘密であり、これらの事件で橋本欣五郎らがまともに処分されなかったことは青年将校226事件を明らかに助長します。

 陸軍上層部は、急進派の多い第1師団を満州に派遣して遠ざけようとしたが、逆効果だったといえる。

 そういう説があることは事実ですが、俺の認識では「単なる人事異動に過ぎなかった」のか「そうした思惑があった」のかは結局不明だったかと思います。

 決起将校のうち、牧野伸顕*26内大臣を襲撃した河野寿と、リーダー格のひとりだった野中四郎は自決したが、村中らは軍法会議で決起の趣旨を明らかにする道を選んだ。その理由を磯部は、「当局者の『死ね、死んでしまへ』といつた残酷な態度に反感を抱き、自決を思ひとどまつた」と書き残している。

 自決を決意した青年将校が希望した「天皇の勅使」が蹴られたことに磯部は「当局者(昭和天皇)の『死ね、死んでしまへ』といつた残酷な態度に反感を抱き、自決を思ひとどまつた」わけです。昭和天皇からすればもちろん青年将校の暗殺行為は「憎悪の対象」でしかなかった。
 しかし「天皇に喜んでもらえる」と思い込んでいた磯部は「死にたければ勝手に死ね」「勅使など送らない」という「当局者」昭和天皇の「残酷な態度」にかえって「手前、ふざけるな!」「お前のために奸物を殺してやったんじゃねえか!、なんでそれがわからない!」「自決なんか出来るか!」と怒りを覚え「自決を思いとどまった」わけです。
 そして磯部をリーダーとする青年将校たちもリーダー・磯部に引きずられて自決の決意を放棄します。
 勅使が送られていれば磯部の気持ちも自決の方向に変わったかもしれませんが、「青年将校に憎悪や怒りといった負の感情しかない昭和天皇」が勅使を容認することはあり得ませんでした。
 まあ磯部の昭和天皇評価「青年将校に対し、残酷で冷酷な許しがたい人間」「青年将校の思いを少しも理解しようともしない愚かな人間」はともかく、「昭和天皇が自分勝手で残酷で、愚劣な人間であること」は「沖縄を捨て石にしたこと(沖縄県民に対する『死ね、死んでしまへ』といつた残酷な態度)」「戦後も退位せず、その上、沖縄メッセージで分かるように主権者気取りだったこと」で明白だと思います。平たく言えば「昭和天皇=人間のクズ」ですね。
 もちろん「やっていいとは言いませんが」、オランダ訪問時に昭和天皇の車列めがけて、「天皇に恨みを持つと思われる人間(オランダの退役軍人?)」から魔法瓶が投げつけられたのも「自業自得で当然」でしょう。むしろ「長年に亘る洗脳(教育)の成果」とはいえ、戦後、日本において昭和天皇の在位を国民が容認したことの方が俺には理解困難ですね。
 なぜ磯部のような

「当局者(昭和天皇)の『死ね、死んでしまへ』といつた残酷な態度に反感を抱き

という反感を日本人の多くは天皇に対して持てなかったのか。なぜ「何が一億総特攻、総玉砕だ、昭和天皇はふざけんな」などと当時持てなかったのか。
 磯部が昭和天皇に対し「磯部にとってのあるべき天皇像から乖離した不徳の君主」として獄中から

『獄中日記』 磯部浅一
 天皇陛下 何というご失政でありますか、何というザマです、皇祖皇宗におあやまりなされませ。

などと批判を始めたことはある意味「興味深い」気がします。

 北一輝西田税二・二六事件に関与

 青年将校は北や西田に相談なく決起しました*27し、青年将校全てが北や西田の支持者でもない。
 こうした産経の認識は明らかに間違いです。小生の持ってる本『二・二六事件』(須崎慎一)も指摘していますが、北や西田の処罰は「軍幹部である真崎や荒木の問題を隠蔽し、事件の全てを『愚かな青年将校が西田や北という民間人に踊らされたもので陸軍は関係ない』とするための陸軍の政治的隠蔽工作」といっていいでしょう。とはいえ「真崎や荒木を処罰はしなかった」ものの、これを機に皇道派は完全に失脚し、東条英機*28武藤章*29ら統制派が陸軍の実権を握りますが。

参考

書評須崎慎一著『二・二六事件』古屋哲夫*30
 著者は、青年将校たちは、永田らの幕僚たちを最初から敵視していたわけではないとして、一九三四年十月幕僚派の主張に基づくパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍省新聞班)が発表されると、その支持普及運動を起こそうとしている点に注目する。しかし永田らはこの運動に不快感を示し、意見具申に行った村中達の動きを「余計ナオ世話デアル」と一蹴したという(九五頁)。軍部の政策の立案実行は、中央部幕僚の職務だと考える立場から云えば、兵の教育に専念している筈の隊付将校が軍中央の政策に関与しようとする事は、軍の秩序の紊乱だということになろう。

 ということで繰り返しますが「統制派と皇道派の対立の過大評価は禁物」というのが、須崎氏の認識の訳です。


公明が大阪都構想「賛成」へ 府本部方針、きょうにも維新と会談 - 産経ニュース
 予想の範囲内ですが公明党らしいデタラメぶりです。政治家としての信念がなさ過ぎる。

*1:和歌山県知事、愛媛県知事新潟県知事、警視総監、台湾総督、東京市長などを歴任

*2:第4次伊藤、第1次西園寺、第3次桂、第2次大隈内閣外相、首相などを歴任

*3:台湾総督府民政長官、満鉄総裁、第2次、第3次桂内閣逓信大臣、寺内内閣内務大臣、外務大臣、第2次山本内閣内務大臣、東京市長東京放送局(のちのNHK)総裁など歴任

*4:【追記】なお、一部では「部数が少なすぎる、そんな部数で商業出版社・幻冬舎が出版するとは思えない」として作家をおとしめるための見城のデマと見なす方も居るようです。

*5:犬養内閣陸軍大臣、第1次近衛、平沼内閣文相など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放。

*6:第1次大隈内閣文相、第二次山本内閣、加藤高明内閣逓信相を経て首相

*7:台湾軍司令官、参謀次長、陸軍教育総監を歴任

*8:清浦、加藤高明、第一次若槻、浜口内閣陸軍大臣朝鮮総督、第1次近衛内閣外相(拓務大臣兼務)など歴任

*9:加藤高明、第1次若槻内閣蔵相、第1次若槻内閣内務相などを経て首相

*10:参謀本部第二部長、第一部長、駐ソ大使など歴任

*11:参謀次長、満州拓殖公社総裁、小磯内閣文相を歴任

*12:林、第一次近衛内閣陸軍大臣参謀総長、陸軍教育総監を歴任。戦後自決。

*13:陸軍省軍務局長、陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督、首相を歴任。戦後終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀。

*14:駐蒙軍司令官、ボルネオ守備軍司令官など歴任

*15:支那方面軍参謀長、北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官など歴任

*16:企画院総裁、大日本産業報国会会長を歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*17:台湾守備隊司令官、満州労工協会理事長など歴任

*18:上海派遣軍参謀副長、関東軍参謀副長、北支那方面軍司令官など歴任

*19:なお、『二・二六事件』(須崎慎一)も指摘していますが「統制派と皇道派の対立の過大評価」は禁物でしょう。なぜなら十月事件で「荒木首相擁立」を策した中心メンバーは明らかに統制派であり、一方、荒木は皇道派だからです。

*20:第3次桂、第2次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相を経て首相

*21:加藤高明、第1次若槻、第2次若槻、浜口内閣で外相

*22:上海派遣軍参謀、第32軍(沖縄)参謀長など歴任。

*23:橋本欣五郎が結成した桜会のメンバーとなり、橋本の腹心の一人として、1931年の三月事件・十月事件の謀議に加わる。1936年の226事件では統制派でありながら青年将校に有利な方向での解決を画策して動き、226事件鎮圧後には自決している。

*24:近衛師団参謀、第25師団(満州)参謀長など歴任

*25:台湾軍参謀長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任

*26:第1次西園寺内閣文相、第2次西園寺内閣農商務相、第1次山本内閣外相、宮内大臣内大臣を歴任

*27:従って西田や北の行為は主犯ではなく、せいぜい従犯でしかなく死刑判決は明らかにでっちあげです。北や西田レベルで死刑なら、真崎甚三郎だって死刑でしょう。

*28:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*29:支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長、近衛師団長、第14方面軍(フィリピン)参謀長を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*30:1931~2006年。京都大学名誉教授。著書『日露戦争』(1966年、中公新書)、『日中戦争』(1985年、岩波新書)など