三浦小太郎に突っ込む(2019年6月27日分)

【書評】 カレル・アンチェル 悲劇に生きたマエストロ 高橋綾著 アルファベータブックス | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

 やまと新聞に書かせていただいた書評です。

 やまと新聞なんてトンデモ極右ミニコミと付き合いがあると公言して恥じないのだからいつもながら三浦もまともじゃありません。
 さすが「チャンネル桜常連出演者」「都知事選で田母神支持を公言」「現在、つくる会理事」だけのことはあります。そして「ネトウヨが大嫌い」という野原燐もよくこんな男が「事務局長、副代表などの幹部を歴任してきた守る会」の会員なんかやれるもんです。
 「ネトウヨが嫌いと言いながら、あなたが三浦と付き合うのはどういうことですか?。こうした三浦の所業はネトウヨそのものではないのですか?。あなたの考えを聞かせて下さい」と聞いたら「守る会運動以外の三浦の言動には興味ない」「あんたの質問に回答する必要があると思わない」「二度と聞くな」などと逆ギレされたのには呆れました。当初は野原が「俺はネトウヨが大嫌いだ」と堂々と公言してるので、俺はマジで「野原はもしかして三浦の本性を知らないのか?」と思って善意で指摘したのですが、無茶苦茶な逆ギレを見て野原が「実にくだらない卑劣な男」と分かったわけです。「ああ、こいつは以前から三浦のネトウヨ言動を知っていたな。知っていて知らない振りをしてとぼけてたな」「こいつにとって一番大事なのはアンチ北朝鮮、アンチ中国でそのためなら三浦のようなウヨとも平気で付き合うんだな」「俺に痛いところを突かれたから逆ギレしてるな、まともな言い訳すら出来ずに、だんまりでごまかすことも出来ずに逆ギレとは無様だ」「こんな奴が偉そうに東電批判とか中国、北朝鮮批判とか何様のつもりなんだろう」「職場を定年退職したそうだが60年以上もこんな無様な生き方をしてきたのか」と心底呆れました。
 まあMukkeもそうですけど「人格低劣かつ頭の悪い人間」が痛いところ突かれると、黙ってることが出来ずに、しかし詭弁も思いつかずに「逆ギレ」することが多いですよね。まあ、詭弁が出る場合もできの悪い「逆ギレに近い物」にしかならないことが多い。
 門司港、小倉、中津その他紀行(2014年8月~9月)(1)(ばかばかしい追記あり) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)で批判をされたMukkeのくだらない言いがかりなんかその典型です。しかもその詭弁の結果、次第に当人も「内心では自分の馬鹿さが恥ずかしくなった」のか、はてなからとんずらしちまうんだから「繰り返しますが」まあ、無様です。まあ、とんずらしただけ「とんずらしない恥知らずの野原」よりは「恥を知っていた」とは言えるでしょうが。

 チェコの名指揮者アンチェルは、ユダヤ人であったため、第二次世界大戦中はテレジン*1アウシュヴィッツ*2(ボーガス注:の強制収容所)に入れられ、両親と妻子はそこで亡くなりました。そして戦後は、チェコフィルハーモニーの指揮者として活躍しましたが、「プラハの春」でのソ連軍のチェコ侵攻により、祖国を亡命、カナダで生涯を閉じました*3

 なるほどソ連軍のために亡命したアンチェルは「反共右翼」三浦にとっては「反ソ反共のネタ」として重宝なのでしょうね。
 従って「アンチェルのように迫害された芸術家」でも

特高に虐殺された作家・小林多喜二*4
フランコ独裁に抗議し国外亡命したチェロ奏者パブロ・カザルス*5
・朴チョンヒ政権に投獄された詩人・金芝河
ピノチェト・クーデター時に軍部(クーデター派)に虐殺された歌手ビクトル・ハラ

などを「戦前日本、朴チョンヒ韓国などに甘い」三浦が取り上げることはありません。
 なお、「アンチェルを迫害したナチスドイツ」は「戦前日本の同盟国」ですがその当たりは三浦らウヨは平気で無視します。ホロコーストはともかく、「ユダヤ人の迫害」それ自体は日独防共協定、日独伊三国同盟時代から既に周知の事実であり「それでもドイツと付き合った日本」は「ユダヤ人迫害の消極的共犯者、黙認者、傍観者」なのですがね。

 ウイグルにも、チベットにも、北朝鮮にも、今収容所の中で、好きな音楽を再び演奏する日を信じて耐えている人がきっといるはずです。

 こういうときに共産圏(それも主として中国、北朝鮮)の話しか出てこないことが実に「反共右翼」三浦らしい。

参考

小林多喜二を虐殺した特高 罪に問われたの?
〈問い〉
 小林多喜二を虐殺した特高たちはどんな裁きをうけたのですか? (埼玉・一読者)
〈答え〉
 多喜二虐殺時の主犯格は警視庁特高部長・安倍源基*6、その配下で、虐殺に直接手を下したのが毛利基特高課長、中川成夫、山県為三両警部らです。
 安倍は戦後、A級戦犯容疑で拘置されますが、占領政策の転換で釈放され、その後、右翼の結集体である新日本協議会を結成、児玉誉士夫らとともにCIA協力メンバーと目されるなど戦後政治の“陰”の存在として生きのびました。
 毛利は、32年警視庁特高課が部に昇格、安倍が部長になるとその下で特高課長となり、“共産党壊滅に功あり”として勲五等旭日章をもらい、異例の出世をとげます。終戦直後に埼玉県警察部長を退職しますが、東久邇内閣から「功績顕著」として特別表彰さえうけています。
 中川成夫は、高輪警察署長、築地署長と出世し、東京滝野川区長をつとめ、戦後46年に区長をやめた後、東映取締役興行部長となり『警視庁物語』シリーズなどを全国上映。一方、北区で妻に幼稚園を経営させ、これを背景に64年には東京北区教育委員長になりました。
 岩田義道*7の虐殺にも直接手を下したといわれている山県は43年に東京府会議員となり、戦後は丸の内署長時代に知りあったビフテキ店「スエヒロ」社長から店名を借り「スエヒロ」を開業、74歳で死亡するまでその経営にあたっていました。

 日本が人権面でいかに遅れているかと言うことです。

きょうの潮流 2013年3月21日(木)
 チェリスト、指揮者、作曲家だったカザルスはナチズムやスペインのフランコ独裁政権に断固抵抗し、核実験禁止の運動にも参加しました
▼音楽はだれのためのものか。カザルスは、音楽がファシストに利用されることを拒否。音楽が富裕層だけのものになることを憂い、労働者のための音楽協会を設立しました。ことしは没後40年。日本や世界各地の演奏会で、楽器が奏でる「ピース」の音色が楽しみです。

ビクトル・ハラ(1932~1973年、ウィキペディア参照)
 虐殺実行犯である兵士3名は、民主化後の2009年になって、チリで逮捕、訴追されている。また2013年には、首謀者ペドロ・バリエントス(2013年現在アメリカ・フロリダ州在住)を含む残りの4人に対してもサンティアゴの控訴裁判所から逮捕状が発行された。
 彼が虐殺された現場であるチリ・スタジアムは、民政復帰後「ビクトル・ハラ・スタジアム」と改名された。 また、2009年12月、サンティアゴにて、ミシェル・バチェレ*8大統領(当時)の出席の下、公式の葬儀が行われた。
■参考文献
八木啓代*9『禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ死んだか』(1991年、晶文社

歌手ビクトル・ハラ虐殺/元軍人を逮捕・裁判へ/チリ、40年ぶり真相解明期待
 南米チリの首都サンティアゴの控訴裁判所はこのほど、1973年のピノチェト陸軍司令官によるクーデターとたたかった国民的人気歌手ビクトル・ハラの虐殺に関与したとして、元軍人8人に対する逮捕状を発行しました。警察は2日までに4人を逮捕。遺族らは同日会見し、裁判で虐殺の真相が40年ぶりに解明される可能性があるとして期待を表明しました。
 報道によると、まだ逮捕されていない4人のうち、虐殺の主犯とされる(ボーガス注:犯行当時、陸軍中尉だった)ペドロ・バリエントス氏は現在、米フロリダ州に住んでいます。チリのテレビ局は昨年5月放映の番組で「バリエントスは、ハラが質問に答えなかったことに激怒し、至近距離で彼を撃った」とする元軍人の証言を紹介していました。
 遺族らは会見で、バリエントス氏の逮捕は真相解明に不可欠だと強調し、米国政府に対し同氏をチリ側に引き渡すよう求めました。チリ司法当局は2日、米国にバリエントス氏の身柄引き渡しを求める方針を明らかにしました。
 ハラの妻、ジョアン・ターナー氏は同日、「元軍人らの裁判は真相解明の道を開き、犠牲者の遺族にとって希望になる」と強調。遺族の弁護士であるネルソン・カウコト氏は、事件から40年経過しても犯人を追及することについて「独裁の犯罪者は場所と時間をこえて訴追されなければならない。犯罪者が裁かれないと犠牲者は安心して眠れない」と語りました。
 ビクトル・ハラは、チリ共産党幹部としてアジェンデ人民連合政府を支え、軍事クーデター直後に軍隊に拘束されました。クーデターに反対する活動家や市民が収容されたスタジアムで虐殺され、4日後に遺体で発見されました。拷問を受けても市民を励ます歌を歌い続けて抵抗したといいます。
 2009年12月にはサンティアゴで、死後36年を経て公式の葬儀が行われ、政府の閣僚などが出席、数万人の市民が集まりました。

 まあ、CIAによってピノチェトクーデターなんぞ支援したのだから「アメリ市民運動はともかく」アメリカ政府の言う人権だの民主主義だの言うのは全くデマカセもいいところです。そして今も「記者殺害疑惑の濃厚なサウジ」をかばうことでアメリカは自らのデタラメさを世間にさらしています。


「ドリトル先生」も差別文学? | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 三浦の記事とは関係なく、ウィキペディアドリトル先生物語全集」などの記述を引用しておきます。

ドリトル先生物語全集(ウィキペディア参照)
 『ドリトル先生』の原作は1970年代に米国で現在の人権感覚において人種差別的な描写が頻発するとして批判の対象となり、絶版の時期を経て1988年から1997年にかけて問題とされた箇所の削除・修正を行ったうえで復刊された。

Lawnbowls | 解題『ドリトル先生アフリカゆき』(8)──人種差別問題
 1960年代後半から1980年代にかけて、アメリカ合衆国における『ドリトル先生』シリーズ、殊に『アフリカゆき』の扱いはそれまでと一変し「差別図書」の烙印を押され、書店や図書館から撤去される事態となりました。その背景には、1960年代を最盛期とする黒人──アフリカ系アメリカ人公民権運動の高まりがあります。この際に、過去の文学作品における黒人描写への糾弾も大々的に行われ、日本でも1980年代に姿を消したヘレン・バンナーマン(Helen Bannerman, 1862 - 1946)の『ちびくろサンボ』などは言うに及ばずかつて南北戦争、ひいては第16代大統領・リンカーンAbraham Lincoln, 1809 - 1865)の奴隷解放宣言に繋がる原動力の一つとなったハリエット・ビーチャー・ストウ(Harriet Beecher Stowe, 1811 - 1896)の『アンクル・トムの小屋』も「主人公が奴隷の境遇に対して余りにも卑屈である」などの理由で攻撃対象とされました。『アフリカゆき』に関しては、童話「眠り姫」を愛読し、その話中に登場する王子のような白い肌に憧れる黒人のバンポ王子に対し妖精・トリプシュティンカに扮したポリネシアが「父君に捕らわれている西洋の偉大なお医者様がその願いを叶えてくれるでしょう」と言って気が進まない先生に薬を調合させ顔だけを脱色すると言う筋書き、ひいてはロフティング自身の手になる挿絵の(後年、日本の漫画に対しても同じような指摘が為されることの多かった)「目を大きく、唇を分厚く」描くステレオタイプ的な黒人像が特に糾弾の対象となったのでした。
 結果、アメリカにおけるシリーズの出版元で1939年に廃業したストークスの出版物を継承していたJ・B・リッピンコットは大部分の巻を1970年までに絶版とし、公共図書館も『アフリカゆき』のみならずシリーズ全巻を開架から撤去してしまったのでした。イギリスでも若干の批判が有ったもののアメリカほど大きな社会問題には発展せず、1980年代に入ってもPuffin Booksからペーパーバック版が刊行されていました。その後、1986年がロフティングの生誕100周年に当たることを記念し、デル・パブリッシングがヒューの次男であるクリストファー・ロフティング(Christopher Clement Lofting, 1936 - )より承諾を得てYearling Booksレーベルで問題とされた箇所を削除・修正した改訂版として1988年より正式に復刊し、約20年に及ぶ「消失」の時代は終わりを告げました。具体的には、ある版では該当箇所が「ポリネシアがバンポを催眠術で操って牢獄の鍵を開けさせた」とされ、また別の版では「ライオンの勇敢さに憧れるバンポの為にドリトル先生育毛剤を調合し、髪をライオンのたてがみのように伸ばした」とされています。もっとも、米英でもこうした措置に対する批判はあり、例えばイギリスのThe Sun紙は社説で「古典作品の表現が気に入らないのであれば『読まない』と言う選択肢もあるはずだ」と長年、愛されて来た作品に第三者が安易に手を加えるべきではないと主張しています。
 日本の状況に関しては追って第2巻『航海記』や第10巻『秘密の湖』の解説でも取り上げる予定ですが、多くの日本語訳(特に、1978年の岩波第1次改版以降)では先のThe Sun紙社説と同様の見解に立ち「削除・修正よりも作品の執筆された時代背景について、正しく解説を加えるべきである」という立場を採っています。但し、ポプラ社から刊行されている2種類の版(こども世界名作童話・ポプラポケット文庫)ではどちらも改訂版を底本にしています。

Lawnbowls | 解題『ドリトル先生アフリカゆき』(9)──1920年代の人権感覚
 現在では米英でも差別的とされた箇所を削除・修正した改訂版でなく原書の表現を尊重したうえで執筆当時の時代背景について正しく解説し、読者の判断を仰ぐべきであるという意見も出て来ており、2010年には「現代の人権感覚上、不適切な表現を含んでいる」ことを明示したうえで原書の文章と挿絵を復元したオリジナル・バージョンが改訂版のペーパーバックとは別に刊行されています

 ちなみにドリトルは「ドーリットル」と訳してもいいのですが、「ドーリットル」といえばご年配の方(戦前生まれ)にとっては「ドーリットル空襲のドーリットル」ですね。
 まあ「ドリトルとドーリットル」に限らず、訳し方によってイメージは大分変わってきます。「ヘボンヘボン式ローマ字)とヘップバーン(オードリー・ヘップバーン*10)」とか。
 ちなみに「三浦と関係なく」小生的に「差別」つうか「何だかなあ」描写としては

・横溝・金田一シリーズでの同性愛描写(現在の視点では明らかに差別)
・ヘプバーン「ティファニーで朝食を」での日本人描写(白人役者が、『めがねで出っ歯』という日本人の扮装をしたあげく、ステロタイプな日本人を演じる)

がありますですね(以前も書いた気がしますが)。
 まあ昔の米国では「卑劣なジャップ・グレート東郷森達也*11『悪役レスラーは笑う』(2005年、岩波新書)参照)」とかとんでもない日本人描写がされてたのは割と有名ですが。
 なお、「風と共に去りぬ」と差別の問題については以前、拙記事
『今週の『風と共に去りぬ』について考える、のこころだ!』(小沢昭一風に) - bogus-simotukareのブログ
新刊紹介:「経済」4月号(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログで簡単に触れています。

 「アフリカ行き」を差別的だ、改変しろという圧力は日本でもあった。「ちびくろサンボ」を絶版にせよという運動をしたのと確か同じ団体。しかし、岩波書店はこれを拒否、今でも原作のまま出版し巻末に解説を付けている。岩波もこういう堂々とした姿勢を取ることもあるのだから、北朝鮮や総連にたいしても同じようにふるまってほしいものです。

 くだらねえ因縁つけてねえで岩波の「北朝鮮報道の何が問題か言ってみろ」ですね。
 なお、岩波がドリトル先生でとったという態度は「秋田書店ブラックジャックの注記(手塚マンガの黒人描写なんかも今の目で見ればステレオタイプでしょう)」など日本では一般的なもんでそんなに岩波がすごいわけでもない。
 小生が上で紹介した「ティファニーで朝食を」「横溝・金田一シリーズ」「風と共に去りぬ」なんかもそうした注記はあるでしょう。

*1:現在はチェコ

*2:現在はポーランド領(ポーランド名はオシフィエンチム

*3:ウィキペディアカレル・アンチェル」によればカナダ亡命後の1968年にトロント交響楽団の常任指揮者に就任。1973年に死去。

*4:1903~1933年。著書『蟹工船、一九二八・三・一五』、『独房・党生活者』、『防雪林・不在地主』(以上、岩波文庫)、『蟹工船・党生活者』(角川文庫、新潮文庫)、『老いた体操教師・瀧子其他 小林多喜二初期作品集』(講談社文芸文庫)、『蟹工船不在地主』、『工場細胞・安子』、『一九二八年三月十五日・東倶知安行』、『党生活者・地区の人々』(以上、新日本出版社)など

*5:1876~1973年。チェロの近代的奏法を確立し、20世紀最大のチェリストとされる。有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたバッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことが挙げられる(ウィキペディアパブロ・カザルス」参照)。

*6:戦前、警視庁特高部長、警視総監、鈴木内閣内務大臣など歴任。1956年の第4回参議院議員通常選挙自民党公認で山口選挙区から立候補したが、落選している。なお、自民党参院選山口選挙区で敗れたのは、この時と1989年(日本社会党山田健一が当選)、1998年(無所属の松岡満寿男(元々は自民党所属。松岡洋右元外相の縁戚に当たる)が当選)の3回しかない。岸信介は第1次岸内閣の国家公安委員長候補に安倍を推薦していたが、この案は強い反対に遭い挫折している(ウィキペディア「安倍源基」参照)。

*7:1898~1932年。戦前、日本共産党で中央委員、宣伝煽動部(アジプロ)部長、農民部長などを歴任(ウィキペディア「岩田義道」参照)。

*8:チリ厚生相、国防相、大統領、国連機関UNウィメン初代事務局長など歴任

*9:著書『喝采がお待ちかね:ラテン的悦楽世界へのご招待』(1998年、光文社知恵の森文庫)、『ラテンに学ぶ幸せな生き方』(2010年、講談社プラスアルファ新書)など

*10:1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得

*11:著書『A:マスコミが報道しなかったオウムの素顔』、『職業欄はエスパー』(以上、2002年、角川文庫)、『放送禁止歌』(2003年、光文社知恵の森文庫)、『クォン・デ:もう一人のラストエンペラー』(2007年、角川文庫)、『視点をずらす思考術』(2008年、講談社現代新書)、『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(2013年、角川文庫)、『いのちの食べかた』(2014年、角川文庫)、『たったひとつの「真実」なんてない:メディアは何を伝えているのか?』(2014年、ちくまプリマー新書)、『「テロに屈するな!」に屈するな』(2015年、岩波ブックレット)など