今日の産経ニュースほか(2019年7月20日分)

改憲勢力「3分の2」迫る?厳しい? 参院選分析、割れたメディア(1/2ページ) - 産経ニュース
 前も触れましたが
1)一人区が接戦で判断が難しい
2)「改憲派」産経、読売などは迫ると書き、一方、「護憲派」朝日、毎日などは難しいと書き、いずれも世論誘導的な態度に出てる(もちろんどちらの態度も非常に問題です)
つうことでしょうね。最悪でも「改憲派2/3阻止」だけは実現したいところです。


自民党・安倍総裁 「不安定な政治に逆戻りするわけにはいかない」 - 産経ニュース
 民主党政権時代がそこまで酷かったとは俺は思いませんが、安倍は本気でそう思っており、それに賛同するのが安倍支持者なんですかね?
 つうか6年の長期政権で今時「不安定な政治に戻せない」もないもんです。なぜそこで自らの成果を語れないのかと言ったら「語る成果がない」と安倍も自覚してるからでしょうね。


公明・山口代表「無責任な政党、口先だけの政治家に負けられない」 - 産経ニュース
 「無責任な口先だけの党ってそれ公明党のことじゃねえのか?」「昔、護憲の党とか、クリーンな党とか言ってたくせによく安倍とつるめるな」「そんな政党はイカンザキ!ですよ」て話です。最近の若者は「イカンザキ(細川内閣郵政相、新党平和代表など歴任)」とか言っても誰のことか分からないでしょうけど。


地上イージス改めて陳謝 首相「緊張感欠いた」 - 産経ニュース
 こんな舌先三寸の無内容な謝罪で済む話では全くありませんが、さすがの安倍も「居直り続けると状況が悪くなる」と思う程度には「反省(?)」しているようです。


共産党・志位委員長「増税は無謀の極み」 - 産経ニュース
 全くもって同感です。消費税増税など10月にやれば確実に景気に悪影響を与えるでしょう。


自民党・安倍総裁「強い経済つくれば年金基盤も強く」 - 産経ニュース
 安倍らしい馬鹿げた主張です。「きちんとした年金制度」を作らなければいくら景気がよくなろうが安心の年金にはなりません。
 こういうデタラメなことを首相が言って恥じないというのだから呆れます。


【昭和天皇の87年】日中和平の一歩手前で“決裂” 背後にソ連の影も… - 産経ニュース
 下で適当にコメントした【昭和天皇の87年】近衛文麿の嘆き「兵がどこに行くのか少しもわからない…」 - 産経ニュースの続きです。
 産経の言う

【昭和天皇の87年】近衛文麿の嘆き「兵がどこに行くのか少しもわからない…」 - 産経ニュース
 この連絡会議のもとで進められたのが、駐華ドイツ大使、オスカー・トラウトマンを仲介とするトラウトマン和平工作である。ところが近衛は、この工作をめぐり大失敗を犯してしまう

の意味が今回分かるわけです。

 日中戦争の初期、ドイツは微妙な立場にいた。日本と防共協定を結ぶ一方で、中国とは経済提携を強め、軍事顧問団も送り込んでいる。

 まあそういうことです。なおウィキペディア「中独合作」を見れば分かりますがこうしたドイツの中国への接近は「1920年代からのこと」、つまり満州事変前、ナチ政権誕生前からのことです。

 広田は、「ドイツが中国に和平を促すなら歓迎する」とした上で、和平条件として(1)内蒙古自治政府を設立する(2)華北は一定の条件のもと中国に行政権を委ねる(3)上海の非武装地帯の拡大(4)排日政策の中止(5)共同防共政策の推進-などを示した。
 ドイツ本国からの指示を受け、中国側の説得にあたったのは駐華大使のトラウトマンだ。親中派のトラウトマンは、中国に一定の影響力を持っている。ところが蒋介石は11月5日、こう言って和平条件を一蹴した。
 「日本側が現状を盧溝橋事件前に戻す用意がない限り、いかなる要求も受け入れられない」
 蒋介石が強気の姿勢をみせたのは、国際連盟の主導で始まった米英仏などの九カ国条約会議(※1)に、期待していたからだろう。会議で日本の軍事行動が条約違反とされ、日本に対する経済制裁などを引き出すことができれば、情勢は一変するに違いない。
 だが、会議は実質的成果を上げることができず、11月15日に閉会してしまう。
 蒋介石は頭を抱えた。和平交渉を拒んでいるうちに上海が陥落し、南京も風前のともしびである。12月2日、蒋介石は軍幹部を招集し、日本の和平条件を示して意見をきいた。
 最高幹部の一人、白崇禧が言う。
「これだけの条件だとすれば、なんのために戦争しているのか」
 徐永昌もうなずく。
「ただこれだけの条件ならば、これに応ずべし」
 同日、蒋介石はトラウトマンに会い、こう伝えた。
「ドイツの仲介を受け入れる用意がある」
 あとは日本側の決断次第だ。しかし、ここで近衛文麿内閣が第一の失敗を犯す。12月13日に南京が陥落したことを受け、和平条件を一気に引き上げてしまうのだ。華北の特殊地域化を要求したり、賠償請求を追加したりと、中国の面子を潰すような内容である。

 当初の条件を引き上げて交渉の見込みをかえって潰すとはまるで「小泉訪朝後に、特定失踪者デマを持ち出して拉致被害者数を水増しした救う会」のような所業です。まあ救う会の場合、「交渉を潰す気」なのに対し、近衛首相や広田外相は「南京が陥落した、蒋介石も弱気になってきた。もっと有利な条件が要求できるはずだ」「蒋介石に和平を蹴れるはずがない。蹴ったら日本軍で叩き潰せばいい」と蒋介石をなめていただけであり、一応「和平する気はあった」わけですが。
 一方参謀本部の多田や石原(和平推進派)は「とにかく和平最優先」でこういう条件引き上げには批判的だったわけです。
 これでわかることは「落としどころを考えずに楽観論で無茶苦茶なことすると後で取り返しがつかなくなる」つうことですね。拉致問題での家族会なんかその典型でしょう。今安倍がやらかしてる韓国相手の嫌がらせも似たようなもんです。

 近衛内閣にも、止むに止まれぬ事情があった。8月の第二次上海事変以降、日本軍の戦死傷者は10万人を超え、戦費も巨額に達していた。12月の南京陥落で国民が戦勝気分に酔う中、賠償請求などを追加しないわけにはいかなかったのだ。

 まるで「家族会がうるさいから北朝鮮に強硬路線をせざるをえないんだ」の世界ですね。今の我々は当時の近衛内閣を全く笑えません。

 とはいえ、中国側に受け入れ不能な条件を出しても意味がない。ある時、内閣書記官長の風見章*1が関係閣僚に「この条件で和平の見込みがあるだろうか」と聞いてみた。
 米内光政海相「和平成立の公算はゼロだと思う」
 広田弘毅外相「まあ、三、四割は見込みがありはせぬか」
 杉山元陸相「四、五割は大丈夫だろう。いや五、六割は見込みがある」
 こんな調子では、本気で和平実現を考えていたのか疑われても仕方がない。
 12月23日、新たな条件を伝えられた駐日大使のディルクセンは、外相の広田に言った。
 「これらの条件を中国政府が受諾することは、あり得ないだろう」

 産経ですら「お前ら、和平する気があるのか」と突っ込む近衛内閣メンバーの態度です。南京陥落による「蒋介石の妥協(当初受け入れ拒否していた条件を受け入れる用意があるとした)」に「そんなに蒋介石が弱気ならもっと条件をあげよう。それで向こうが受け入れなくてもいい」と完全に楽観論だったわけです。
 まあそれはともかく「受け入れ不能な条件を出しても意味がない」つうのは何だって同じです。
 例えば北朝鮮拉致。「即時一括全員帰国以外認めない」とかいって相手が受け入れるのか。
 産経記事をパロれば救う会、家族会は

・ある時、家族会、救う会に「この条件(即時一括全員帰国)で日朝首脳会談の見込みがあるだろうか」と聞いてみた。
・「会談成立の公算はゼロだと思う」
・「まあ、三、四割は見込みがありはせぬか」
・「四、五割は大丈夫だろう。いや五、六割は見込みがある」
 こんな調子では、本気で拉致解決を考えていたのか疑われても仕方がない。

ではないのかと疑いたくなります。

 果して中国は、トラウトマンから新条件を示されて沈黙した。日本側は翌年1月6日を期限とし、回答を待ったが、うんともすんとも言ってこない。
 ただ、何もしなかったわけではなかった。実はこの時、中国は新条件をソ連に内通し、アドバイスを受けていたのだ。スターリンは12月31日、こう打電した。
 「盧溝橋事件以前の状態に戻すという条件でなければ応じるべきではない。仲介したドイツの意図は日本を休ませることにあり、日本は休戦してもすぐにそれを反故(ほご)にする」(※2)

 産経は「スターリンの狙いは国民党による共産党攻撃の阻止ではないか」としていますが、仮にそうだとしても、蒋介石も「いったん受け入れた条件を引き上げる」ような無茶に応じる気にはならなかったでしょう。
 そもそも「盧溝橋事件以前に戻せ」ということは「満州国は認める」ということなのだから、日本にとってとてつもなく不利益というわけでもない。

 しかし、近衛は粘らなかった。このまま蒋介石政権が和平を求めてこないなら、親日的な新政権の樹立を助長し、それと交渉して戦争を終わらせようとしたのだ。
 これが近衛の、第二の失敗である。戦争相手と交渉せずに、何を決めるというのか。しかも近衛は、新たな方針を御前会議で確定しようとする。昭和になって初の御前会議だ。それが近衛の、取り返しのつかない第三の失敗を招くのである

 「親日的な新政権の樹立」とは汪兆銘擁立工作です。汪兆銘政権と日本で和平を結ぶとともに、蒋介石政権幹部に「汪兆銘政権に参加せよ」と切り崩し工作を仕掛けて、蒋介石政権を崩壊させれば戦争は終わるというなんとも日本にとって都合のいい話です。その結果「国民政府(つまり蒋介石)を対手とせず」声明(第一次近衛声明)が出され、一方では汪兆銘擁立工作が水面下で始まる。
 「御前会議での第三の失敗」「新たな方針」とは御前会議を経て決定された第一次近衛声明のことでしょう(ただし詳しい話は次回の記事のようです)。
 しかし汪兆銘 理想と現実1汪兆銘 理想と現実2を読めば分かるように、汪兆銘工作の結果は日本にとっても汪兆銘にとっても悲惨でした。
 汪に「日本が期待したほどの政治力」がないため、蒋介石政権への打撃はたいした物ではありませんでした。蒋介石政権の重要メンバーが汪のもとにかけつけるなんて都合のいいことにならなかった。しかも日本側も「汪のメンツを守る」どころか手前勝手な要求を突きつける。かえって蒋介石に「汪兆銘売国奴、裏切り者」と宣伝されるだけに終わります。
 こうしてみると「前も書きましたが」
1)「当時の日本支配層(政財官界)が軍部に限らず、中国は簡単に倒せると蒋介石をなめていたこと(その結果、軍部が暴走しても大目に見てしまうこと)」
2)「米国の中国支援意志を軽視していたこと(どうせ、中国に対する軍事的勝利という既成事実を作れば米国も支援を諦めると考えた結果、米国との対立がどんどん深刻になる)」
ことが日中戦争を深刻化させ、太平洋戦争を招いたのだと改めて思います。
 「1)中国は簡単に倒せる」や「2)既成事実を作れば米国も蒋介石支援を諦める」と言う認識が正しければ「道徳的是非」はともかく近衛らの「トラウトマン和平工作否定」は「それなりに合理的だった」でしょう。しかし1)も2)も結果的には間違いであり、日本は泥沼の戦争に突入していきます。
 ゆう氏が

小林英夫『日中戦争』
 戦争は「持久戦」となります。しかし中国には、自らの力で勝利を勝ち取る(ボーガス注:軍事)力はありません。そこで中国は、「ソフトパワー」の発揮により反撃に転じようとします。
 初期において、中国は諸外国、特に米国の同情を獲得することに成功していました。
 このような中国側の「ソフトパワー」の発揮は、米国などからの大規模な物資支援、あるいは日本に対する石油禁輸措置などの形で、少しずつ成果を挙げていきます。そして打つ手がなくなった日本は、英米戦争という「狂気の選択」に追い込まれることになります。

と書くとおりでしょう。
 軍事力において中国を圧倒していた日本は、「戦争勝利」を確信していた。しかし中国側は「欧米の支援」で対抗した。その結果、「欧米のせいで中国に勝てない」とばかりに日本は英米戦争という「狂気の選択」に踏み込むわけです。遅くともその時点で「英米戦争」ではなく「日中戦争和平」に動くべきでした。


【昭和天皇の87年】近衛文麿の嘆き「兵がどこに行くのか少しもわからない…」 - 産経ニュース
 以下は小生が持ってる山田朗昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)を参考に書いていきます。
 なお、山田氏はその後も「昭和天皇の戦争責任問題」では

・『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店
・『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社

と言う本を出していますがそちらは未読です。

 戦争状態を終結*2するには、政府と軍部の意思疎通が欠かせない。そこで近衛が考えたのは、大本営の設置である。大本営は戦時における天皇直属の最高統帥機関だ。正式な構成員は参謀本部と軍令部の首脳のみ*3だが、かつて伊藤博文が首相の立場で列席した前例がある。近衛は、大本営を設置したうえで自ら構成員に加わろうとした。

 戦争があまりにも長期化したため、大本営の設置自体には軍部も反対はしていません。
 問題は「制度上は大本営のメンバーではない首相、蔵相、外相」をメンバーにして軍部をコントロールしようとする近衛首相の態度には軍部が難色を示したと言うことです。彼らは近衛に余計な口出しをされたくなかった。
 その結果、妥協案として「政府と大本営の意見調整組織」として大本営政府連絡会議が設置されます。
 幕末の討幕運動に従事し、「毛沢東主席、劉少奇国家主席周恩来首相、トウ小平副首相ら中国共産党革命第一世代」なみの権威を持ち、明治新政府誕生後も「首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監」など要職を歴任した伊藤は「軍出身」でなくても、大本営に参加し軍ににらみをきかすだけの実力がありました。近衛にはそれだけの力はなく彼は大本営それ自体には参加できませんでした。
 ただし、「近衛ら内閣構成員」を排除しようとした軍部の態度を批判した上での話ですが、個人的には日中戦争が継続した最大の理由は「統帥権独立による軍部の暴走」ではなく
1)「当時の日本支配層(政財官界)が軍部に限らず、中国は簡単に倒せると蒋介石をなめていたこと(その結果、軍部が暴走しても大目に見てしまうこと)」
2)「米国の中国支援意志を軽視していたこと(どうせ、中国に対する軍事的勝利という既成事実を作れば米国も支援を諦めると考えた結果、米国との対立がどんどん深刻になる)」
だと思うので仮に近衛が蔵相、外相とともに大本営メンバーになっても日本は「1945年の敗戦に向かった」とは思います。

 当時は日中双方とも宣戦布告をしておらず、本来なら大本営は設置できない。しかし昭和天皇は12年11月17日、陸海両相の奏請により従来の大本営条例を廃止し、「大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク」とする新たな大本営令を裁可した。

 なぜ日中両国は宣戦布告しなかったのか。なぜ日本は大本営規則を「事変でも設置できる」と改正したのか。産経はなぜか書いていませんがその理由は「米国による中立法の発動」です。
 当時の米国にはモンロー主義に基づき「戦争中の国に対しては米国は中立的立場をとり、軍事物資を輸出しない」と言う中立法がありました(ドイツと戦う英仏を軍事支援するために後に中立法は廃止されますが)。日本や中国が宣戦布告すると中立法が発動されます。そうなると日本も中国も米国から軍事物資が一切来なくなる。それで戦争が遂行できるのかと言う不安が日中両国にはありました。「中国だけではなく」当時の日本もそれほど米国に物資を依存していた。
 しかしその後の日本は「そんな米国相手」に戦争を仕掛けるのだから無謀な話です。
 いずれにせよ「戦争なのに中立法の発動を恐れ宣戦布告しないだけ」「大本営をいつまでも設置しないと不便」ということで大本営規則が「事変でも設置できる」と改正されます。

 この連絡会議のもとで進められたのが、駐華ドイツ大使、オスカー・トラウトマンを仲介とするトラウトマン和平工作である。ところが近衛は、この工作をめぐり大失敗を犯してしまう

 ということで今回の記事はこれでひとまず終わりです。産経の言う「近衛の大失敗」の意味がよく分かりませんが「工作にのらない」と決めたことか。
 あるいは工作打ち切り後に出されて「和平の可能性を破壊した」と非難される、いわゆる「国民政府を対手とせず」声明(第一次近衛声明)のことか(ただし、どちらも近衛の独断ではなく他の大臣もそうした意見が多かったのですが)。
 いずれにせよ、産経の言う「近衛の大失敗」の意味は次回明らかになるわけです。
 なお、当時のドイツは「満州事変の起こる前」から中国に積極的に経済進出し、武器などを売っていました。上海事変ではドイツ軍事顧問の指導で蒋介石は日本と戦ってさえいました。
 一方で日本とは日独同盟を結んでいたわけです。
 「中国という巨大市場を失いたくないが、日独同盟も続けたい」と思ったドイツは「トラウトマン和平工作」に動きますが勿論これは日本が乗り気でないことから失敗します。その結果「ソ連と戦うには日本との同盟が必要だ」と考えるヒトラーの意向によって、「中国市場を失いたくない財界や経済官庁」の意向「中国との連携」は捨てられドイツは更に日本との提携に力を入れます。
 以前も別記事で書きましたが「もしトラウトマン工作が成功していたら」「もしドイツが日本を切って中国を選んでいたら」、日本は太平洋戦争に踏み切っていなかったかもしれません。
 なお、山田本でもウィキペディア「トラウトマン和平工作」でも指摘がありますが、この工作に乗り気だったのが、多田駿*4・参謀次長*5石原莞爾*6参謀本部第一部長が支配する当時の参謀本部です。多田らは日中戦争が泥沼化すること、欧米の対日感情が悪化することを恐れていました。
 一方、近衛内閣メンバー「近衛首相」「広田*7外相」「杉山*8陸軍大臣」「米内*9海軍大臣」は「こんな不利な条件で和平するくらいなら戦争を継続する」「日本の方が軍事的に勝利してるんだ」と全員がこの工作には否定的でした。その結果、日本はこの和平工作には乗らないことを決めます。
 終戦工作に従事したこと、日独伊三国同盟や対米戦争に反対したことで平和主義イメージで語られることの多い米内はこの時はむしろ戦争を推進しました。
 そして「満州事変」によって「戦争推進イメージ」で語られることが多い石原莞爾はこの時「平和主義」ではなく「日中戦争が泥沼化したらせっかく作った満州国がぽしゃるかもしれない」と言う考えだったとは言え、むしろ終戦に動いていたわけです。いわゆる陸軍悪玉論、海軍善玉論が単純には成立しないことが分かるかと思います。
 

【産経抄】7月20日 - 産経ニュース

 集団的自衛権の行使を限定容認した安全保障関連法の成立直後の平成27年9月のことである。朝日新聞で、著名な憲法学者の長谷部恭男氏*10が同法を批判し、憲法条文を見ても白黒の判断がつきにくい場合について持論を語っていた。
▼「答えを決めるのは、(中略)『法律家共同体』のコンセンサスです」。

 (中略)と言う部分が怪しすぎます*11がそれはともかく。
 「専門的な問題については原則として専門家の意見に従うべきだ」「素人が安易に専門家を否定すべきでない」と長谷部氏は言ってるに過ぎません。
 例えばわかりやすい例で言えば「国民が温暖化CO2否定論を否定したら、政府もその方向で動くべきなのか」。そんな馬鹿な話はない。
 あるいは専門家の意見(米国には勝てない)を無視して国民挙げて「対米戦争に突き進んだ日本」は結局敗戦しました。
 もちろん「人文・社会科学と自然科学」では性格が違いますが、長谷部氏の主張はその程度の話でしかありません。
 つうか長谷部氏の主張は「天皇と国民主権~国体関連で」 小堀桂一郎・東京大学名誉教授 « 最近の活動 « 公益財団法人 国家基本問題研究所で国基研が持ち上げる「ノモス論」にある意味近い認識なんですけどね。
 かつ「決めるのは国民の多数決だ」と産経が言うなら産経は「国民の大多数」が支持する女帝導入を支持すべきでしょう。しかし産経は大原康男などを持ち出した上で「これが天皇制の専門家の意見だ」と言い出して反対するわけです。全くデタラメです。


「天皇と国民主権~国体関連で」 小堀桂一郎・東京大学名誉教授 « 最近の活動 « 公益財団法人 国家基本問題研究所

 法哲学者・尾高朝雄著『国民主権天皇制』をとりあげ、象徴天皇制国民主権とは矛盾しないという尾高理論

 ググったら『国民主権天皇制』が最近、講談社学術文庫から刊行されたようです。
 「今時、尾高説かよ」ですね。
 まあ、大学の法学部で憲法を学ぶと「尾高・宮沢論争」というのが「あったという事実」は教わります(ウィキペディアにも「尾高・宮沢論争」という項目がある)。「一応、法科卒」の俺も「あったという事実」は教わりましたし、芦部の教科書なんかにも確か簡単に書いてあります。
 ただ「尾高の主張」はあまりにも意味不明で難解なので詳しい説明なんかまず「大学の授業レベル」ではされないし、一般には「宮沢の方が支持された」で話は終わります。
 尾高理論(いわゆるノモス主権論)は『象徴天皇制国民主権とは矛盾しない』という理論ではありません(確かに尾高説なら矛盾しませんが)。そうではなく「戦前日本と戦後日本で主権のあり方は変わらなかった。主権はどちらの社会でもノモスにあったのだ」と言う代物です。
 これだと日本に限らず「フランス革命でも、ドイツ革命でも、ロシア革命でも、辛亥革命でも、あらゆる政治的変革で」「王制から共和制になろうが」主権はノモスで変わらないと言うことになりかねません(尾高がそういったと言うことではなくそう解釈しうる)。
 一方、宮沢は「主権は天皇から国民に移った」と主張しました。
 まあ、「戦後の変化を小さく見せたがる」尾高は「右寄り」なんでしょう。いずれにせよこの尾高理論だと「戦後の国民主権への変化はたいした変化じゃない」んだから「日本国憲法」について「象徴天皇制になったこと」に話を限れば何ら嘆くことではなくなりますが、それを国基研は支持するのか。まあ尾高は「右寄り」として「象徴天皇制」を認めざるを得ない(反対しても国際社会の圧力で、阻止は無理)と考えた上で「戦後の変化をできる限り小さく見せようとした」んでしょう。
 いずれにせよ、問題は「ノモスって何?」ですよねえ(尾高の独自理論のようですが)。
 これを国基研は

 変わったのは主権発動の態様、いわゆる政体であり、主権の在り方としての国体に変化はないことになる。
 ここで、尾高氏はギリシャの詩人ピンダロスの言葉「ノモス(法や掟、伝統など)」を用い、難解なノモス主権論を展開して、国民主権天皇制が矛盾しないと結論するが、より分かり易い言葉にすると、それは「天*12」になると小堀教授は易しく説き、結果的にそれが国全体を正しい道へ導くのだという。

と主張します。
 やれやれですね。「ノモスとは中国儒学で言ういわゆる天道に近い概念のことである」と言う理解が正しいとしましょう(正しいのか知りませんが)。
 そこで「政治は天道(あるべき道理)によって決めるべきだ。そういう意味では主権は「天道」にある。その意味では、天皇主権だろうが国民主権だろうがたいした問題じゃない」なんて主張に何の意味があるのか。その理屈だと「別に中国とかベトナムとかキューバとか共産党一党独裁でいいじゃん、天道(ノモス)に従ってれば」つうことにもなりかねません。
 そもそも「天道(ノモス)って何?」「誰が天道を決めるの?」ですね。かつこうした考え方は一歩間違えば「問題は天道(ノモス)に合致しているか否かだ。形式的合法性など関係ない。天道に反する政治は形式的には合法でも実質的には違法であり、否定していいのだ」「これは違法な殺人ではなく、国を守るための天誅、正義の行いなのだ。処罰されるいわれはない。むしろ褒められて当然だ」として226事件青年将校のようなテロ容認論にもなりかねません。
 もちろん「形式的な合法性」を否定するというのは「ある意味大事なこと」です。大抵の独裁体制はナチドイツにせよ、スターリンソ連にせよ何にせよ「形式的には合法」だからです。
 モリカケですら「形式的には一応合法」なわけです。司馬遷が「天道是か非か」とぼやいた宮刑だって「形式的には合法」です。
 そういう意味で「ノモス(天道)」的な問題意識は尾高や国基研の思惑に関係なく重要です。しかし、一方で安易に「ノモス」なんて放言したらただの法治主義否定にしかならない危険性も大です。
 「形式的合法性による人権侵害(実質的な違法)」を批判しながら、一方でそれが「恣意的な判断基準による法治主義の否定」にならないようにするのはそんなに楽なことではないでしょう。
 そして「ノモスに反する」的な物言いで仮に「韓国植民地支配」「治安維持法」「戦後のレッドパージ」などを批判すれば、国基研は「当時は合法だった」と言い出すのだから、まあご都合主義でしかない。
 「ノモス」なんか持ち出したら「当時は合法だった」ですむ話ではないでしょうに。つうか安倍のモリカケすら擁護するウヨ連中が天道だのノモスだの全くふざけています。

 このような尾高氏の説は、これから改憲へ向けて議論する上で、格好の教材になるとした。

 何の教材になるのかさっぱり分かりません。もしかして「ノモス(天道)に反する改憲(例:天皇制廃止)は認めない」「ノモスに反する法改正(例:女帝容認)は認めない」とかウヨ連中が叫ぶのか(女帝容認はともかく天皇制廃止は当面ありそうにないですが)。
 むしろ「ノモス(天道)に反する安倍の首相辞任」でも求めてほしいもんです。まあモリカケとかニッキョーソ野次とかノモスや天道以前の話ですが。
 まあそういう物言いをやっていいなら、そして意味があるなら俺も「アンチ右翼の護憲派」として「ノモスに反する改憲国家神道復活、集団的自衛権容認、三権分立否定、天皇主権復活など*13)は認めない」とか言いたいところですが、それ「是非以前に」政治的に意味がないでしょう。
 単に「俺はそんな行為は無法だと思うから認めない」の言い換えでしかない。

参考

司馬遷の「天道是か非か」と「歴史とは何か」 | 山内昌之 | 10MTVオピニオン
 今日は、司馬遷の発した有名な言葉「天道、是か非か」についてお話しします。
 「天道、是か非か」という言葉を聞くにつけて、私たちは、このシリーズのテーマである「歴史とは何か」という問いをどうしても考えざるを得ません。「天道は、正しいのか、正しくないのか」という悲痛な叫びは、まことに歴史と人間との関わり、そして、歴史とは何か、正義とは何か、ひいては歴史と正義との関わり方について、私たちを本当に悩ませます。また考える材料を提供してくれます。
 司馬遷はいろいろなケースを出して、秩序を守らず悪行を重ね、生涯を享楽や逸楽のままに過ごし、富貴にも恵まれた人々を、他方において、自分に厳しく行動に慎重であり、誰からも後ろ指を指されない、さらに言葉も口数も少なく、人から隠れてずる賢く脇道や近道を通って物事を達成しようとはしない人と比較しています。
 そして、司馬遷はこのように言います。
 「大義名分にかかわることでなければ憤りを発しない人間で、しかもなお禍いにあう者の数は枚挙にいとまがないほどである」(小竹文夫他訳『史記5 列伝一』)
 すなわち、数えるごとができないほど多いと言っているのです。
 こうした不幸をもって、司馬遷はまた有名な言葉を発します。
 「余、甚だ惑う(余甚惑焉)」、すなわち、自分はすこぶる絶望感に襲われるほど悩み、迷いに誘われると言って、歴史の不条理を語ろうとしているのです。
 歴史とは、なかなか一本道にはいきません。時にはさまざまな不正がある。正しい道だけではなく、脇道やそれた道から歴史を歩もうとする不正のやからもいるのです。
 私も含めてですが、およそ若い頃、少年少女の頃に、世の中にいったいなぜ不正義、不公正、不公平があるのか、自分はなぜ貧しい家に生まれ家庭環境で苦労しているのに、なぜあの遠くに見える人は豊かな家に生まれ明るい家族に恵まれて幸せなのか、と疑問に思った人は多かったと思います。
 日本のケースに少し触れてみましょう。
 『太平記』という本があります。これは、鎌倉時代の末期、建武の中興から南北朝時代に至る日本の動乱期において、特に南朝方に対して同情的とも言える立場だけではなく、北朝方についても逸話を交えて書いた書物です。
 この書物の中に、大変印象的な光景があります。それは、延文5年(1360年)の5月頃、後村上天皇を頂く南朝方の敗色が濃厚になったときのことです。君臣一同が金剛山の奥で息を潜めていたときに、ある廷臣が、将来を絶望して出家しようと思い詰めるシーンです。
 太平記の専門家でもある松尾剛次*14によれば、このようなシーンになります。
 「いったい今の世の中はどうなっているのか」と、この廷臣は疑問を呈します。威力があっても道義のない者は必ず滅ぶと言い置かれた先賢の言葉にも背いている。また百代までは王位を守ろうと誓われた神約(神による約束)も実現されない。そして、臣下*15が君(天皇)に反逆しても天罰を受けることもない。子どもが父を殺しても、神の怒ったためしがない。
 この悲歎(歎きや憤り)は、紀元前2世紀に生きた司馬遷の考えともどこか通じるところがあります。否、それどころか彼らの悲歎は、司馬遷をはじめ、中国の先人や賢人たちの金言、物事の本質を突き刺すような言葉に触発されていたのかもしれません。


【主張】京都アニメ放火 大惨事は防げなかったか - 産経ニュース
 マジレスすれば残念ながら防げなかったでしょうね。
 この男が以前から、京都アニメに無法な行動をとっていたと言うなら話は別ですが、いきなりの犯行ではどうにもなりません。

 消防法令ではガソリンの購入には専用の携行容器が必要としているが、京都アニメに放火した男は携行缶持参で購入したガソリンを現場に持ち込んだとみられる。これでは現行法で取り締まれない。購入時の身元確認も義務づけられず、業界団体に任されているのが実情だ。今後のテロ対策も含めて法整備の必要はないか。

 うーん、どんなもんでしょうか。「ガソリンテロだけは絶対に防ぐ」ということでその当たり規制を強化する必要はあるのかもしれません。

*1:1886~1961年。戦前、立憲民政党衆院議員(1930~1942年)を経て、第一次近衛内閣書記官長、第二次近衛内閣司法大臣など歴任。戦後は社会党衆院議員(1952~1961年)。著書『近衛内閣』(中公文庫)

*2:「戦争終結」ではなく、単に戦争するだけでも、戦争が長期化すれば「政府と軍部の意思疎通」は欠かせません。

*3:つまり参謀総長、参謀次長、軍令部総長、軍令部次長の4人です。場合によってはそれプラス「陸軍大臣、陸軍次官」「海軍大臣海軍次官」「侍従武官長」なども出席します。

*4:支那駐屯軍司令官、参謀次長、北支那方面軍司令官など歴任

*5:当時の参謀総長は皇族の閑院宮だったため、多田が事実上のトップ。

*6:関東軍参謀として満州事変を実行。関東軍作戦課長、 参謀本部作戦課長、参謀本部第一部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官など歴任

*7:斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相、首相など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*8:林、第一次近衛、小磯内閣陸軍大臣、陸軍教育総監参謀総長など歴任。戦後、自決。

*9:林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣、首相など歴任。

*10:著書『権力への懐疑:憲法学のメタ理論』(1991年、日本評論社)、『テレビの憲法理論』(1992年、弘文堂)、『憲法と平和を問いなおす』(2004年、ちくま新書)、『憲法とは何か』(2006年、岩波新書)、『憲法の境界』(2009年、羽鳥書店)、『憲法のimagination』(2010年、羽鳥書店)、『憲法の円環』(2013年、岩波書店)、『法とは何か:法思想史入門(増補新版)』(2015年、河出ブックス)、『安保法制から考える憲法立憲主義・民主主義』(編著、2016年、有斐閣)、『憲法の理性(増補新装版)』(2016年、東京大学出版会)、『憲法の論理』(2017年、有斐閣)、『比較不能な価値の迷路:リベラル・デモクラシーの憲法理論 (増補新装版)』(2018年、東京大学出版会)、『憲法の良識』(2018年、朝日新書) など

*11:いつの朝日新聞記事が産経がきちんと書かないのもおそらく「中略部分」を確認されたくないからでしょう。

*12:正確に言うと「天道」でしょうね。司馬遷の「天道、是か非か(この世に天道はあるのか!)」の「天道」です。天道(あるべき人の道)に従って生きてきた自負を持っていた司馬遷は「宮刑」と言う酷い目に遭い、こうした嘆きをせずにはいられませんでした。

*13:まあウヨですら三権分立否定、天皇主権復活は今時目指してないでしょうが。

*14:著書『鎌倉新仏教の誕生』(1995年、講談社現代新書)、『救済の思想:叡尊教団と鎌倉新仏教』(1996年、角川選書)、『太平記』(2001年、中公新書)、『忍性』(2004年、ミネルヴァ日本評伝選)、『知られざる親鸞』(2012年、平凡社新書)など

*15:南朝と対立した足利氏のこと