黒坂真に突っ込む(2019年8月3日分)

■黒坂ツイートにコメント

黒坂真
‏ 今の左翼は、ソ連軍の蛮行まで日本の責任にしたいようです。

 やれやれですね。

・日本が太平洋戦争という勝ち目のない無謀な戦争などしなければ
・日本がもっと早く降伏していれば
・おそらく満州北方領土ソ連軍が侵攻してくることもなかったし『中国残留日本人孤児、満州北方領土での集団自決、シベリア抑留』もなかったろう
・そういう意味では満州北方領土での集団自決などについて日本政府の責任も重大だ

というと黒坂によってこういう言いがかりが付けられるわけです
 なお「北方領土での集団自決」についてはいつも拙記事をご紹介頂いているid:Bill_McCrearyさんの記事
靖国神社へ『樺太1945年夏 氷雪の門』を見に行く(1) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
靖国神社へ『樺太1945年夏 氷雪の門』を見に行く(2) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
靖国神社へ『樺太1945年夏 氷雪の門』を見に行く(3) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
渋谷で「氷雪の門」を見て、二木てるみからサインをもらい握手をしてもらう - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
を紹介しておきます。

靖国神社へ『樺太1945年夏 氷雪の門』を見に行く(3) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
 この事件は、自殺を防ぐことは十分可能だったと思いますし、殉国美談としても、非常によろしくない話のように思えます。少なくともその場に男性が1人でもいれば自殺は防げた可能性があるし、班長が最初に自殺したのは、他の交換手たちをひどく動揺させ悲しませて自殺に追い込む一因となったことも疑いありません。
 もちろん実際に映画化するんだったら、史実では映画として劇的でないということかもしれません(中略)。しかしこれが史実だと世間の人が考えて、それで靖国神社でも殉国美談として扱われる・・・というのは、やはり良くないですよね。

というid:Bill_McCrearyさんの指摘からして、おそらくこの右翼映画にも「黒坂同様」、『日本にも問題があった』という視点は希薄で「ただただソ連非難」なのでしょうが。
 「日本が何もしてないのにソ連がいきなり攻めてきた」なんて話ではないのですがね。
 「今の左翼」ではなく昔から「左翼だけでなくまともな保守派も」、「ソ連の非を認めた上」でのことですが

・日本が太平洋戦争という勝ち目のない無謀な戦争などしなければ
・日本がもっと早く降伏していれば
・おそらく満州北方領土ソ連軍が侵攻してくることもなかったし『中国残留日本人孤児、満州北方領土での集団自決、シベリア抑留』もなかったろう
・そういう意味では満州北方領土での集団自決などについて日本政府の責任も重大だ

という当時の日本政府批判はしています。
 つうか「満州などでの集団自決」などについて「ソ連が悪い」しか言わなかったらその方が問題でしょう。
 これはもちろんソ連だけではない。
 「米国の原爆投下」について「降伏決定を遅らせた昭和天皇」の責任を問わずに「米国が悪い」と「だけ」言う気は俺にはありません。
 もちろんそれは「ソ連や米国の免罪」という話ではない。
 もちろん

2016 とくほう・特報 シリーズ 未完の戦後補償/シベリア抑留とは何だったのか/軍に裏切られ 異国に眠る
 シベリア抑留の悲劇はなぜ起こったのか。
 「ソ連の指導者スターリンによる秘密指令で引き起こされた。捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約や、日本軍隊の『家庭復帰』を明記しソ連も署名をしたポツダム宣言に違反する行為でした」
 こう話すのは、日露歴史研究センター代表の白井久也氏*1朝日新聞モスクワ支局長などを務めました。
シベリア抑留で“謎”とされてきた問題がありました。
 スターリン秘密指令の直前の命令では「日本・満州軍の軍事捕虜を、ソ連邦領土に運ぶことはしない」とあったのです(8月16日のべリア文書)。これがなぜ正反対の命令に変わったのか。
 白井氏は「日本の参謀本部が、日本の捕虜をソ連軍の経営にお使いくださいという申し出をしていた。その関東軍文書を戦後、斎藤六郎氏がソ連公文書館から発見し、当時大きく報道された」といいます。
 斎藤氏(故人)は全国捕虜抑留者協会の初代会長で、この事実を著書『シベリアの挽歌 全抑協会長の手記』(1995年、終戦史料館出版部)で明らかにしました。巻末資料で発掘した関東軍文書、ソ連対日戦文書、労働証明書関連などを掲載しました。
 その一つ、「ソ連軍に対する瀬島(龍三)*2参謀起案陳情書」では、日本の兵士が帰還するまでは「極力貴軍の経営に協力する如(ごと)く御使い願いたいと思います」と書かれています。
 「朝枝(繁春大本営)参謀報告書」は今後の処置として「在留邦人および武装解除後の軍人はソ連の庇護(ひご)下に満鮮に土着せしめて生活を営むごとくソ連側に依頼す」「土着するものは日本国籍を離るるも支障なきものとす」と書かれています。
 大本営関東軍の対ソ交渉が「捕虜50万」のシベリア移送への転換点だったのです。
 白井氏はさらに背景となった近衛文麿元首相作成のソ連に対する「和平交渉の要綱」(45年7月)をあげます。天皇制の「国体護持」を絶対条件とするかわりに、ソ連に領土の一部を引き渡すこと、「満州」の軍人・軍属を「兵力賠償の一部として労働」の提供をする内容でした。要綱の考え方が対ソ交渉の基本として終戦直後に生きていたことを関東軍文書が示しています。
 斎藤氏は著書で「終戦時、軍による居留民置き去り事件や根こそぎ動員、労務提供は過誤といって済まされる問題ではない。明らかに関東軍参謀らによる意図的な行為である。…彼ら(=抑留者)は、彼らをそこに追いやったものが何であったかも知らずに異国の丘に無言の眠りについている」と怒りを込めて糾弾しています。

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第5巻を語る(下)/対日戦終結の過程で無数の国民的悲劇が
■不破
 『終戦工作の記録』(江藤淳監修、講談社文庫)に詳しく書かれていますが、日本は世界の動きにまったく無知なまま、ソ連を仲介役にして英米と降伏交渉をしようとします。その時につくった降伏条件がひどいんですよ。
(中略)
 一つは、外地にいる日本人はできるだけ日本に帰さないとしたことです。日本は人口密度が高くて経済的に困るからというんです。これが満州問題、シベリア抑留問題を引き起こす大きな要因の一つとなりました。
 満州にいる日本軍人の扱いで謎だったのは、ソ連内部で相反する二つの指令が出ていたことです。
 8月16日に政府首脳部のベリヤ*3や軍首脳部のアントーノフ*4が共同で、日本軍捕虜はソ連領には運ばないという指令を出しています。日本軍人は武装解除して日本に帰すというポツダム宣言が頭にあったのでしょうね。ところが、8月24日に今度はスターリン*5から、シベリアに送れと指令が出ます。この8日間に何があったのかが謎でした。
 これについては、全国捕虜抑留者協会の元会長の斎藤六郎さん(故人)が徹底的に調べて『シベリアの挽歌(ばんか)』に書いています。敗戦直後の関東軍ソ連側との交渉記録をソ連で見つけたんです。
 明らかになったのは、大本営から派遣された参謀の朝枝繁春がソ連軍と面会して、「現地にいる日本人はソ連の庇護(ひご)のもと満州・朝鮮に土着させて生活させてほしい」と要請したことです。
 これは、戦争指導部がソ連に講和の仲介を頼もうとしたときに決めた、「現地土着」「賠償として労力の提供にも同意する」という方針を受けたものです。おそらくスターリンは朝枝の要請を知り、ポツダム宣言を守る必要はないと考えて指令を出し直したのでしょう。
 その後さらに、瀬島龍三という大本営の参謀が“日本の軍人を預かって貴軍隊のために働かせてほしい”という陳情書をソ連に出しているんです。これがそのコピー(写真)です。
■山口
 不破さんは、シベリア抑留はソ連と日本の戦争指導部が“合作”で引き起こした悲劇だった、それは疑問の余地のない歴史の事実だ、と指摘しています。
■不破
 在満日本人の問題でひどいのは、ソ連参戦の翌日に大本営天皇の承認を得て出した命令で、関東軍満州にいる在留日本人を防衛する任務を与えず、「後退してソ連軍を朝鮮海峡まで引き寄せろ」と命じていることです。8月9日のソ連の参戦後、脱出の手配をしたのは軍首脳部とその家族と満鉄関係者だけ。あとは全部置き去り。135万人のうち二十数万人が亡くなりました。日本政府に棄民されたんです。

と言う指摘もソ連免罪ではありません。黒坂らは「ソ連免罪だ」と強弁するのでしょうが。

*1:著書『モスクワ食べ物風土記』(1990年、恒文社)、『ドキュメントシベリア抑留:斎藤六郎の軌跡』(1995年、岩波書店)、『明治国家と日清戦争』(1997年、社会評論社)、『ゾルゲ事件の謎を解く:国際諜報団の内幕』(2008年、社会評論社)、『検証 シベリア抑留』(2010年、平凡社新書)など

*2:1911~2007年。戦後、伊藤忠商事社長、会長を歴任。1981年に第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就任。中曽根政権(1982年〜1987年)のブレーンとして政財界に強い影響力を持った。著書『幾山河:瀬島龍三回想録』(1995年、産経新聞ニュースサービス)、『大東亜戦争の実相』(2000年、PHP文庫)など

*3:1899~1953年。秘密警察NKVD(KGBの前身)長官としてスターリン粛清を実行。スターリン死後、失脚し銃殺された。

*4:1896~1962年。ソ連参謀総長ワルシャワ条約機構統合軍参謀総長など歴任

*5:1878~1953年。ソ連共産党書記長