三浦小太郎に突っ込む(2019年8月14日分)

東京新風倶楽部 映画上映会のお知らせ(9月28日) | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 「つくる会理事」「チャンネル桜常連出演者」という極右・三浦のことだから、以前、拙記事で紹介した「高畑勲氏のコメント」のような問題意識は皆無でしょう。下手したら「くもとちゅうりっぷ」美化や「政岡憲三」美化に終わらず「戦前日本の侵略美化」すらこの映画会でやりかねません。
 なお、この「東京新風倶楽部」とやらが一体何なのか、「映画上映会をやること」が目的の会なのか、他にも何かイベントをやってるのか、「倶楽部のメンバーは誰なのか」「どうすれば倶楽部メンバーになれるのか」などについて、三浦が詳しく書かないのは「東京新風倶楽部」が悪名高い極右・排外主義政党「維新政党新風」とつながりがあるから、つまり「新風の東京支部or東京後援会=東京新風倶楽部だから」でしょうか(なお、http://shimpu.sblo.jp/によれば三浦は新風の副代表)。もし「この俺の邪推が正しい」なら「ただの映画上映会」と思って行ったら「新風の支部or後援会による政治集会」というのでは詐欺行為もいいところでしょう。まともな人間なら上映会当日、「新党の支部or後援会の集会だなんて聞いてねえぞ!。帰る!」と怒って帰りかねません。
 もし「この俺の邪推が正しい」なら三浦はその辺り、この記事においてきちんと書くべきでしょう。
 まあ、「維新政党新風副代表らしい」極右・三浦の宣伝する映画会に行きたがるのは「新風にシンパシーを感じるウヨばかり」ではあるでしょうが。
【2019年9月23日追記】
 維新政党新風のサイト

大東亜戦争の最中に上映された日本アニメーションの傑作『くもとちゅうりっぷ』、『桃太郎 空の神兵』(一部)を上映します。
解説:三浦小太郎

という三浦の東京新風倶楽部 映画上映会のお知らせ(9月28日) | 三浦小太郎BLOG Blue Moonと全く同じ内容が掲載されていますのでやはり予想通り、これは「維新政党新風」関係のイベントだったわけです。
 ちなみにほかにも

http://shimpuoshirase.sblo.jp/article/185869559.html
現代日本学講座『韓国崩壊と日本の危機』
三浦小太郎 先生(評論家)
【日  時】令和元年5月11日(土) 午後2時30分~4時30分
【場  所】キャンパスプラザ京都 第一会議室

なんて維新政党新風関係のイベントに三浦はかかわっていますね。明らかに三浦は「排外主義極右」のわけです。
 ちなみにこの新風には

http://shimpuoshirase.sblo.jp/article/183093932.html
■新風倶楽部京都講演会『チベットから見た日本の危機』
 ペマ・ギャルポ 先生(拓殖大学教授)
【日  時】平成30年5月19日(土) 午後3時~5時

ということでぺマ・ギャルポも関与しています。ぺマも呆れたバカですが、こういうのをI濱女史、Mukke、阿部治平といったメンツは黙認するんでしょうね。
【追記終わり】
 こんな「排外主義極右」三浦を「三浦個人へのこびへつらい」というより、「救う会、家族会へのこびへつらい目的」でしょうが、過去に嘘の人権 偽の平和 - 高世仁の「諸悪莫作」日記で「畏友(その前にでると畏敬の念から畏まらざるを得ない友人)」とまで書いて三浦にこびへつらった高世仁は呆れたバカと言うべきでしょう。そもそも畏友なんて普通使う言葉じゃありませんし。
 とはいえ最近の高世は「安倍政権誕生後、「つくる会理事に就任する」など、ためらいなく、極右性を露呈する三浦に恐れをなしてか*1」三浦についてはほとんど触れません*2が、一方で「過去の畏友呼ばわり」も正式には撤回しないわけです。そしてこんな三浦を何一つ批判できないくせに、「アンチネトウヨを自称する野原燐」も呆れたバカというべきでしょう。


改めて素晴らしい戦時下アニメ「くもとちゅうりっぷ」 | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
ウィキペディア『くもとちゅうりっぷ』を見れば分かりますがこの「くも」とは「昆虫のクモ」です(空に浮かぶ雲ではありません)。
ウィキペディア『桃太郎 海の神兵』によれば三浦の言う「桃太郎 海の神兵」は、

海軍省より国策動画映画製作の命を受け1944年に松竹動画研究所によって製作され、戦時下の1945年4月12日に公開された長編動画(白黒、74分)。
・南方戦線のセレベス島・メナドへの日本海軍の奇襲作戦を題材に海軍陸戦隊落下傘部隊の活躍を描き、当時の日本政府の大義であった「八紘一宇」と「アジア解放」を主題にした大作である。

と言う軍国主義・国策作品であり、「かなり引用が長くなりますが」この作品について高畑勲*3

高畑 勲「戦争とアニメ映画」講演録*4
■『桃太郎・海の神兵』
 ご覧頂いた『桃太郎・海の神兵』も、アメリカに没収されたと思っていたのが松竹の倉庫で発見されて、話題になり、フィルムセンターに収められたものです。手塚治虫さんが子供の時見て感激し、アニメを志すきっかけになった、という点でも名高い作品です。これは1942年に作られた『桃太郎の海鷲』の続編で、どちらも海軍省の発注です。
 内容についてはご覧のとおりです。戦意昂揚映画のはずでしたが、出来上がったのが1945年で、東京大空襲はじめ、各地が空襲にさらされていた時期ですから、人々を励ますどころか、ろくに公開もされないまま終わってしまったのでした。
■技術水準の高さ
 内容についてはあとで触れますが、この作品の技術水準の高さに驚かれたかもしれません。しかしじつは、アニメーターはほとんどがすでに徴兵され、ごく短期間で養成した新人たちがこの作品の作画を担当したのだそうです。監督は瀬尾光世氏ですが、新人を養成したのは、影絵シーンの演出と作画を担当した政岡憲三氏です。政岡さんは、1942年、名作『くもとちゅうりっぷ』を作った方で、日本漫画映画の父、と言われています。私は一度お会いしたことがあり、心から尊敬しています。アニメーション技術の理論面でも、それを具体化する方法論でも、政岡さんはじつにしっかりしたものをすでに確立しておられました。だから即席の新人養成もできたのだと思います。『桃太郎・海の神兵』は日本初の長編漫画映画です。しかし、そこでの経験や達成された技術は、戦後のどさくさもあって、私たちにストレートに受けつがれていったわけではありませんでした。もし、戦争がなかったら、日本のアニメーション映画はどのように発展していったのか、いろんなことを考えさせられます。
■若者はどう見たか
 1984年、これがフィルムセンターではじめて上映されたとき、多くの若いアニメファンが押しかけました。そのために、上映回数を増やしたくらいでした。そしてギャグのところでは無邪気に笑って見ていました。私は、ひょっとしたら、この青年たちは何もわかっていないんじゃないか、とぞっとして、あとである雑誌*5にそういう青年たちと話し合う機会*6を作ってもらいました。やはり予想は的中しました。
 舞台がインドネシアだということも、インドネシアがオランダの植民地だったことも知らない。大東亜共栄圏の実態も知らない。まあそれは仕方がないのかもしれません。しかし動物たちが動物ではなくて、アジアのどこかの人々だということは分かったのに、日本軍のために働かせたり、日本語を教えたりするシーンも、ミュージカルで「明るく楽しく」描いているからあまり気にならなかった、自分も楽しんだ、って言うのです。インドネシアの人が見たらどう思うだろう、などということは、誰も考えませんでした。それから、平和な情景や兵隊さんのやさしい心が描かれているのを見て、「こういう時代だからこそ、自分の描きたい平和とかを書きたくて作ったんじゃないか」と思ったそうです。ある大学生は「作り手のそんな気持が伝わってきたからこそ、この映画をどういう目的で作ったとか、日本の侵略とかいうものを、自分はほとんど感じなかったのだと思う」と言いました。いろいろ話し合って事情が少し分かってからは、「心ある人がこういう映画を作らざるをえなかったとしたら、つらかったと思う」というような意見が出ました。どうも、あの戦争に、当時の人は賛成していなかったのだ、強制されて、心ならずも戦争に協力したんだ、と思い込んでいる*7らしいのです。そのときの青年たちは今ではもう40数歳になっているはずです。

と批判しています。もちろんウヨの三浦はそういうことについて何一つ触れませんが。

 当時セルは貴重なので洗っては使いまわしたらしい。

 そんな国が「そんな使い回しはしない」アメリカに戦争を挑んだというのだからまあ無謀です。

■「桃太郎の海鷲」(ウィキペディア参照)
 日本政府より国策アニメ映画製作の命を受け、1942年に藝術映画社で製作され、戦時下の1943年3月25日に公開されたアニメ映画。日本初の長編映画といわれる。
 日本海軍がハワイを奇襲した真珠湾攻撃をモデルにしており、桃太郎を隊長とする機動部隊が鬼ヶ島へ「鬼退治(空襲)」を敢行し、多大な戦果を挙げるという内容である。
 姉妹編に『桃太郎 海の神兵』(1945年)がある。
 制作前、監督の瀬尾光世は海軍将校から制作の参考のためとして(日本軍が占領地で接収した)ディズニー映画『ファンタジア』(1940年)を鑑賞する機会を持ったが、当時の日本とは比べようもない制作技術の高さに衝撃を受け「これは勝てない」と考えたという。

■ファンタジア(ウィキペディア参照)
 日本においては、米国で公開された1940年当初は日米関係が悪化していた為に一般公開が行われず、第二次世界大戦終戦からおよそ10年後の1955年になってようやく公開された。ただし、太平洋戦争の占領地である上海やマニラで「風と共に去りぬ」などと共に押収されたこの映画を見た軍関係者や映画制作関係者は「こんな映画を作る国には勝てない」と衝撃を受けたとされる。

という記載もウィキペディアにはあります。「風と共に去りぬ」云々については「風と共に去りぬ」でのこれらのレット・バトラーのセリフは、太平洋戦争当時の日本にとってもなかなか示唆に富んでいる - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)にも同様の指摘があります。

 私はこういう作品こそ、この時期にテレビが放映したらいいとおもいます。もちろん「桃太郎」も上映したらいい。

 まあ放映しないでしょうね。話は簡単で視聴率がとれそうにないからです。そもそもアニメも、プライムタイムを担えない時代になった - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が指摘するように「アニメ自体が視聴率がとれるコンテンツでは必ずしもない」のですが。
 その上、『くもとちゅうりっぷ』はともかく、『桃太郎 海の神兵』なんて「動物を使って叙情的な描き方をしている」とはいえ、そこで描かれてるのは高畑氏が批判するように日本のインドネシア支配です。無邪気に放映できる代物じゃない。

 このアニメの脚本、作画などの中心になったのは日本アニメの父というべき政岡憲三ですが、彼が戦後はビープロでいくつかの名作に関わります。まあその辺は但馬オサムさんの専門なので、興味のある方は但馬さんにご質問ください。

 ウィキペディア政岡憲三」を見るだけでもある程度の事は分かります。

政岡憲三(1898~1988年、ウィキペディア参照)
・1943年(昭和18年)、代表作となる『くもとちゅうりっぷ』を制作。この作品は日本初のフルセルアニメーションである。
・1945年(昭和20年)、『桃太郎 海の神兵』に影絵担当として関わる。
・1947年(昭和22年)、「日本動画株式会社」(現:東映アニメーション)を設立。オペレッタ形式の児童向け映画『すて猫トラちゃん』をフルアニメーションで制作。『すて猫トラちゃん』は「東宝第一回プログラム」として、他3作品と4本立てで、日劇でロードショー公開された。
・1949年(昭和24年)、トラちゃんシリーズ『トラちゃんのカンカン虫』を製作。
・1962年(昭和37年)、日本初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』の制作に関わる。
・1964年(昭和39年)、ピー・プロダクションピープロ)にアニメーター養成顧問として所属。新入社員を即戦力とする人材教育を受け持った。
・1966年(昭和41年)、ピープロの実写特撮番組『マグマ大使』、『宇宙エース』のカラー版パイロットフィルムでリアルアニメーション作画を担当。

*1:嘘の人権 偽の平和 - 高世仁の「諸悪莫作」日記を高世が書いた当時は菅内閣です。

*2:全く高世もわかりやすいほど卑怯な男です。高世の妻子や「高世の会社ジンネットの社員」も高世並みのクズなんでしょうか。

*3:著書『十二世紀のアニメーション:国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』(1999年、徳間書店)、『漫画映画(アニメーション)の志:「やぶにらみの暴君」と「王と鳥」』(2007年、岩波書店)、『映画を作りながら考えたこと:「ホルス」から「ゴーシュ」まで』(2014年、文春ジブリ文庫)、『君が戦争を欲しないならば』(2015年、岩波ブックレット)、『アニメーション、折りにふれて』(2019年、岩波現代文庫)など

*4:高畑氏のこの2004年の講演はその後、高畑氏の著書に収録されたかと思います(著書名が分かりませんが)。

*5:アニメージュ」のこと。

*6:この座談会については、高畑『映画を作りながら考えたこと』(1991年、徳間書店)に収録されています。

*7:この高畑氏の「思い込んでいる」という口ぶりからは彼が「瀬尾監督ら当時のアニメ関係者はいやいや作っていたわけではない」「多くの日本人は政府に情報統制されていたからとはいえ、あの戦争を支持していた」と認識していることが伺えます。実際そうでしょうが。