三浦小太郎に突っ込む(2019年8月18日分)(追記あり)

「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展「表現の不自由展・その後」について(1)展示会の中止という重大問題 | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」について(2)政治プロパガンダから自立していない作品は作品とは言えない | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」について(3)知識人の民衆蔑視 | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
【追記】
 下に書いた「オレ流三浦批判」には「欠けていた視点」を指摘している記事

nix in desertis:「表現の不自由展 その後」について
 「表現の不自由展 その後」はあいちトリエンナーレの(国際現代美術展の)一部であり,つまりは現代アートの祭典である。したがって当然「表現の不自由展 その後」も現代アートの文脈で理解する必要がある。そもそもそのHPに行けば説明されているので読めばわかるのだが,要するに何らかの理由で展示を拒否された作品が集められ,排除された理由を説明するキャプションが付されたことで,これは「表現の自由について考える」文脈に改めて載せられた作品群ということになる。
 すなわち,この時点で個々の作品が持つ芸術性については後退していて,少なくとも前面には出てきていない。一番わかりやすい例で言えば,ここに展示された「平和の少女像」は東京都美術館での企画展で排除された経験を持つ。いかなる政治力学でその排除に至ったのか,排除は表現の自由という観点から言って適切であったのかを鑑賞者に考えさせるために展示されたのであって,少女像が持つ本来の意味ーーすなわち従軍慰安婦や戦時性暴力について鑑賞者に考えさせるという企図は副次的なもの,あるいは鑑賞者の自由の範囲でしかない。

を紹介しておきます。
 もちろん「下に俺が書いたように」、日本政府の公式見解が河野談話であり、「少女像を否定する立場=河野談話否定論」であることを考えれば、「河野談話支持の立場のはず」の安倍政権が少女像に因縁を付けることはおかしいし、「政府見解の枠内の芸術*1」について「出展すべきでない」「補助金を出すべきでない」などというのは話としておかしいわけですが。
【追記終わり】
 「つくる会理事」「チャンネル桜常連出演者」「河野談話否定論者、南京事件否定論者」という極右の三浦が例の展覧会中止について書く。
 これは読まなくても
産経社説の妄論を駁す ― 「表現の不自由展・その後」について | ちきゅう座で澤藤氏が批判する「悪いのは津田大介だ」「河村市長や菅官房長官は間違ってない」とする「産経社説並みの詭弁、暴論だ」と言うことは想像がつきます。
 間違っても「産経は間違ってる」「津田氏は悪くない」「展覧会は再開されるべきだ」という澤藤氏の立場ではない。いや実際その通りなんですが。 
 まず「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展「表現の不自由展・その後」について(1)展示会の中止という重大問題 | 三浦小太郎BLOG Blue Moonについて批判します。
 予想通り、三浦は「結局、テロを恐れて中止するぐらいなら最初からやるべきではなかった。少女像以外にも作品はあるのに、そうした作品の出展者に失礼だ。津田氏は無責任だ、腰抜けだ*2」そのあげく「話題造りのいわゆる炎上商法ではないか」とまで津田氏に悪口雑言です(三浦の駄文を引用するのは精神的に苦痛なので要約で紹介しました。正確に知りたい方は「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展「表現の不自由展・その後」について(1)展示会の中止という重大問題 | 三浦小太郎BLOG Blue Moonをご覧下さい)。
 津田氏が中止に踏み切った理由の一つは「河村や菅(あるいは菅のバックである安倍)に忖度してるのか」、愛知県警察や大村愛知県知事があまりに無気力で「テロ脅迫に対決するにおいて」頼りになりそうもないと言う問題もあるのに愛知県警察や大村愛知県知事に「なぜ被害者・津田氏を守ることが出来ない」と言う批判を三浦はしない。
 明らかにテロ脅迫を助長した「河村や菅の権力的恫喝」について三浦は批判しない(それどころか菅や河村の恫喝発言について何一つ触れないで逃げる)。
 テロの脅迫があっても「テロ脅迫者」を非難するどころか「津田氏が悪いかのようにいう河村」や、そこまで酷くない物の「テロの脅迫は許されない」という批判を何一つしない菅を三浦は批判しない。こうした三浦の態度は「テロ脅迫行為の容認」「菅や河村の恫喝行為の容認」も同然でしょう。
 この三浦の「津田氏への物言い」だと「天安門事件(武力弾圧)直前の、最終局面で、不測の事態を避けるため、天安門広場からの撤退を呼びかけたという劉暁波」&「それに応じた学生」はどうなるのか。
 「軍事弾圧を恐れてデモを中止するくらいだったら最初からデモなんかするな」つうことになるのか。
 あるいはこれが

■中国版のこういった展覧会で、「名古屋市北京市」、「河村や菅に当たる恫喝発言の政治家=北京市長や習近平権官房長官*3」、「問題となった芸術作品=文革がテーマ」「中国の自称愛国者から『国の恥をさらすな』などと今回のような放火の脅しが来た」
■ロシア版のこういった展覧会で「名古屋市=モスクワ市」、「河村や菅に当たる恫喝発言の政治家=モスクワ市長やプーチン権官房長官*4」、「問題となった芸術作品=スターリン粛清がテーマ」「ロシアの自称愛国者から『国の恥をさらすな』などと今回のような放火の脅しが来た」

でも三浦は「展覧会を中止したロシアや中国のイベントプロデューサー」に対して津田氏同様「腰抜けだ」などと悪口しかしないのか。
 政治家や自称愛国者に何一つ批判しないのか。「反中国」「反ロシア」「反共」の三浦はたぶんそうではないでしょうが。
 まあ三浦の津田氏への非難はそのレベルの暴論です。
 また三浦は「打ち切りは無責任だ」と津田氏を非難しながらあいトリ「表現の不自由展」及び《平和の碑》展示中止反対署名: 「表現の不自由展」及び《平和の碑》展示中止反対ご署名の呼びかけが「展覧会の再開」を求めているのとは違い「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展「表現の不自由展・その後」について(1)展示会の中止という重大問題 | 三浦小太郎BLOG Blue Moonにおいて展覧会再開を求めません。
 「打ち切りは無責任だ」と言う人間・三浦が「展覧会再開を求めない」。普通に考えれば不自然極まりないですが、「三浦は展覧会中止をウヨとして喜んでるくせに、打ち切りを『無責任だ』と言って非難する人間のくず」と理解すれば理解は可能です(と言うかそれ以外の理解はあり得ませんが)。
 しかしこの期に及んでも、例の野原さんは「自称・津田氏支持」だそうですが、三浦を批判しないんでしょうねえ。
 そして以前、
嘘の人権 偽の平和 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
トランプ支持のまっとうな人々 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
など、三浦に好意的な文章を書いた高世仁も「自称・津田氏支持」だそうですが、三浦を批判しないと。
 何せ嘘の人権 偽の平和 - 高世仁の「諸悪莫作」日記で高世は三浦のことを「畏友(その前に出ると畏まらざるを得ないほど、尊敬する友人)」とまで言ってます*5からねえ。
 「つくる会理事の三浦は今も畏友、つまり『尊敬する友人』なんですか?。高世さんってつくる会支持なんですか?。三浦の津田氏への悪口雑言に賛同するんですか?」と聞きたくなります。まあ三浦へのこびでしょうが、それにしても「畏友」ねえ(呆)。
 「繰り返しますが」高世や野原は、この中止事件で「三浦とは違い」河村や菅を批判していたはずなんですがねえ。よほど、三浦との間に変なしがらみがあるのか。
 しかし「香港デモを支持する」など言論の自由を擁護するかのような物言いをする男・三浦がこれです。小生の別記事コメント欄でid:Bill_McCrearyさんが三浦のことを「サイコパス人間性の重要な部分が欠落している)としか思えない」と批評してたかと記憶していますが、まさにそうとしか評価できませんね。
 最後に既にリンクを張った澤藤氏の文章も含めて「澤藤氏同様の菅、河村批判」「展覧会の再開を求める主張」などを紹介します。「菅、河村批判をしない」三浦記事と読み比べれば自ずと是非は分かるかと思います。
 まあ読み比べなくても常識人には「サイコパス人間性の重要な部分が欠落している)としか思えない」「非常識ウヨ」三浦の愚劣さ、醜悪さは明白ですが。
 申し訳ありませんが朝鮮新報記事は一部、会員登録しないと読めない記事があります。無料登録ですのでこの機会に登録頂けると幸いです。

【参考:今後も増加の可能性あり】
あいトリ「表現の不自由展」及び《平和の碑》展示中止反対署名: 「表現の不自由展」及び《平和の碑》展示中止反対ご署名の呼びかけ
 この署名運動には「名前のみ記載」「所属記載せず」「コメントもいいのが思い浮かばなかったので特に記載せず」「名前が公開されて周囲*6とトラブるのが嫌なので匿名希望」という情けない形ですが一応署名しました。署名は今日18日までですので、署名希望の方は是非署名をお願いします。
赤旗
「表現の不自由展」中止に/愛知・国際芸術祭 脅迫・圧力発言受け
見たかった 圧力おかしい/「表現の不自由展」中止の翌日
表現の自由への脅迫/テロ予告や職員個人に攻撃も/愛知 国際芸術祭 企画展中止
表現の不自由展中止に抗議/名古屋で市民ら
主張/表現の不自由展中止/芸術・文化への介入を許すな
「表現の不自由展」再開求める/実行委が愛知県知事に申し入れ
「表現の不自由」考える/「知る権利」奪われたまま
■朝鮮新報
”1日でも早く、平和の少女に会いたい”/「表現の不自由展・その後」の再開もとめ | 朝鮮新報
学生らがオンライン署名立ち上げ/「表現の不自由展・その後」の再開もとめ | 朝鮮新報
出展者たちの思い/「表現の不自由展・その後」中止を受け | 朝鮮新報
「平和の少女像」はなぜ、恐れられるのか/金富子さんに聞く | 朝鮮新報
■ちきゅう座
産経社説の妄論を駁す ― 「表現の不自由展・その後」について | ちきゅう座澤藤統一郎
「表現の不自由展・その後」の再開を ― 緊急ネット署名のお願い | ちきゅう座澤藤統一郎
「表現の不自由展・その後」の再開を求める署名活動のご報告 | ちきゅう座澤藤統一郎
「表現の不自由展・その後」の再開を求める署名呼びかけ ◆今日と明日、あと2日。5,000筆を目指しています◆ | ちきゅう座醍醐聡
「表現の不自由展・その後」の再開を求める署名呼びかけ | ちきゅう座醍醐聡
 8/26締め切りで第2次署名を行うそうです。前回(8/18締め切り)署名しそびれた方は是非署名を。前回署名した小生は「もうしなくてもいい」のか「またした方がいい」のか確認の上、「またした方がいい」なら、したいとは思います。ただ醍醐氏の記事だとその辺りがわかりにくいのがなんとも不満です。
一日も早く1万筆突破を!~「表現の不自由展・その後」の再開を求める第二次署名の呼びかけ | ちきゅう座醍醐聡
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止問題にかかわる声明 | ちきゅう座大井有
「あいちトリエンナーレ2019」における河村市長・菅官房長官の「表現の自由」侵害行為に抗議する憲法研究者声明 | ちきゅう座大井有
■月刊・創(篠田博之編集長)
【あいちトリエンナーレ】「表現の不自由展・その後」で「天皇を燃やした」と攻撃されている大浦信行さんに話を聞いた (1/2)
高世仁
「弁士中止!」ふたたび - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 ということで三浦とは立場が明らかに違う高世ですが、三浦批判しないんだろうな。


 次にあいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」について(2)政治プロパガンダから自立していない作品は作品とは言えない | 三浦小太郎BLOG Blue Moonを批判しましょう。

 私が北朝鮮や中国の独裁体制を批判する作品を作ろうとして、マルクス毛沢東金日成らの肖像画や著作を侮辱したり焼いたりする展示をしたとしましょう。これはどんなにうまくやっても反共プロパガンダになるだけで、作品としては自立したものにはならず、仮に喜んでくれる人がいたとしたら同じ政治的立場の人だけです。公共の施設に持ち込んでもボツでしょう。

 もちろんこうした作品批判をする前にすべきことは「どんな理由があろうと河村や菅の恫喝発言は許されない」「どんな理由があろうとテロの脅迫は許されない(京都アニメ事件後に『ガソリンで放火する』などと脅すのはしゃれになりません)」という意見表明です。
 しかしそうした意見表明をしない三浦が何がしたいかは明白です。「くだらない作品があるから展覧会が打ち切られても惜しくない」という薄汚い印象操作です。「前から知ってはいますが」どこまで三浦はクズなのか。
 なお、たぶん三浦の非難は「天皇の写真を焼いて云々」という作品に対する物でしょう*7
 しかしこの作品において、芸術家は、焼いた理由(正確には昭和天皇の写真と言うより「昭和天皇の写真を素材に含むコラージュ作品」ですが)は「昭和天皇への批判目的」ではないと表明しています*8
 したがって、今回の話は、三浦の言う「マルクス毛沢東金日成らの肖像画や著作を侮辱したり焼いたりする展示」とは全然違います。三浦の行為はデマによる誹謗でしかない。
 ではどんな話なのかについては【あいちトリエンナーレ】「表現の不自由展・その後」で「天皇を燃やした」と攻撃されている大浦信行さんに話を聞いた (1/2)をご覧頂ければと思います。正直、小生には、この芸術家の主張意図はよく分かりません(インタビューしている篠田氏も理解は出来ていないかもしれません)。よく分かりませんが、当人が「天皇を侮辱する意図ではない」としているのに勝手に「侮辱する意図だ」と決めつけるのは「芸術や芸術家に対する侮辱」でしょう。


 では最後にあいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」について(3)知識人の民衆蔑視 | 三浦小太郎BLOG Blue Moonを批判しましょう。まず最初に唖然とするのは三浦がドストエフスキーを振り回してることですね。
 「三浦が紹介するドストエフスキー」の主張が正しいかどうか自体議論の余地があるでしょうが、問題は「三浦が紹介するドストエフスキーの主張」はどう見ても三浦の珍論の根拠にはならないということです。三浦の行為はどうみても「ドストエフスキーに対する侮辱」でしかありません。

 東氏や津田氏が皇室に対し、どんな考えを持とうと自由です。そして、皇室を批判する言論の自由もあるでしょう。しかし、それは誤解を恐れずいえば「皇室を敬愛している民衆」を批判し否定することですから、民衆レベルでの反発は当然起きることは覚悟しなければならないでしょう。

 そもそも「放火する」などと言う脅しは「民衆レベルでの反発」などと言って正当化できる話ではありません。三浦はどれほど異常なのか。
 まさかとは思いますが三浦は「いわゆる風流夢譚事件での殺傷」も「民衆レベルでの反発」、「風流夢譚を書いた作家が悪い」と言って正当化する気なのか。
 あるいは「本島・元長崎市長狙撃事件」も「民衆レベルでの反発」と言って正当化する気なのか。
 なお、【あいちトリエンナーレ】「表現の不自由展・その後」で「天皇を燃やした」と攻撃されている大浦信行さんに話を聞いた (1/2)において作家は「天皇批判の意図はない」としています(もちろん東氏も津田氏も天皇制批判の意図があるなどとは言っていません。というかそれなりに誠実な対応をとっている津田氏と違い、東氏は卑劣にも「私が間違っておりました。全て非を認めたので許して下さい。全面降伏しない津田とは違う扱いにして下さい」と全面降伏して恫喝した側にこびへつらっているので今更三浦が東非難する必要もないのですが)。
 にもかかわらず「天皇批判だ」と三浦らウヨが勝手に決めつけるのは愚劣でしかありません。

 このような展示会をすることを、多くの知識人はよく「時代への問題提起だ」という言葉で肯定します。でもその言葉の背後にあるのは「無知な大衆はこういうショックを与えねば何もわからんのだし考えもしないのだ」という民衆蔑視の発想*9が潜んでいないでしょうか。

 詭弁としか言い様がありませんね。
 「問題提起」とは文字通り「問題提起」です。
 平たく言えば「俺はこういう考えなんだが君はどう思う?」つうのが問題提起です。
 当然ながらそれは民衆(というか観客)蔑視どころか、「観客」を「自分の意図を理解してくれる能力のある人間」として「対等な立場」と見なさない限り成り立たない立場ではないのか。
 そして芸術というのは「絵画、彫刻、写真、文学(小説、ルポルタージュ、詩歌など)、演劇、映画、音楽、舞踊(まあ他にもあるでしょうが思いつくものをあげました)」など種類を問わず、基本的に全て「問題提起(俺はこういう考えなんだが君はどう思う?)」です。問題提起する意思がないのなら社会に公開する必要がない。自分一人で作った作品を自分一人でこっそり楽しめばいい話です。
 三浦がブログ書いてるのも「本を出版した」のも三浦なりの問題提起でしょう(その右翼的な問題提起が正しいとは全く思いませんが)。
 問題提起する気がないなら、三浦は「プライベートモード」でブログ書けばいいし、書いた本も出版などせず自分一人で楽しめばいいわけです。
 小生がブログを書いてるのだってあえて言えば「問題提起(俺はこういう考えなんだが君はどう思う?)」であり、「ある種の芸術(エッセイ、コラムという文学?)」です。
 もちろん「できがいいとは全く思ってはいません」が、プライベートモードで一人で楽しむのではなく、パブリックモードで世間に広くブログ記事を公開してるつうのは「問題提起(俺はこういう考えなんだが君はどう思う?)」であり、「ある種の芸術(エッセイという文学?)」だと思っています。多くの人に読んでもらい「好意的反応がもらえれば」一芸術家(?)として大変嬉しいわけです。
 話がやや脱線しますが、つまり小生の認識ではブログやツイッターフェイスブックYouTube(小生はよく知りませんが自分で創った動画や音声がアップできる)などをやってる人間は皆「問題提起をしている芸術家」と言っていいと思っています(ブログやツイッターをプライベートモードにして一人で楽しんでる場合は「問題提起をしている芸術家」とはいえないでしょうが、パブリックモードなら明らかに問題提起であり芸術でしょう)。
 従って小生も「アマチュア三流芸術家」ではありますが「ネット版エッセイスト(?)」「ネット版コラムニスト(?)」とでも名乗っていいんじゃないかとは個人的には思っています。要するにブログ記事ってエッセイやコラムみたいなもんですから。
 あるいは視聴者参加番組、具体的には

NHK「のど自慢」(歌唱披露)
日本テレビ「欽ちゃんの全日本仮装大賞」(仮装パフォーマンス披露)
テレビ東京「開運!なんでも鑑定団*10
テレビ東京TVチャンピオン」(「TVチャンピオン」からのスピンオフ番組で、年末特番などで放送されギャル曽根などが活躍する『大食い王決定戦』を除いて、既に番組は終了していますが)
・ラジオ番組への視聴者の投稿(「是非はともかく」テレビと違い多くのラジオ番組においては視聴者の投稿紹介は今や重要な番組要素になっています。番組によっては単に投稿募集ではなく、テーマ設定した上での「短歌、俳句、川柳、大喜利の投稿募集」なんて場合もあります。その結果「常連投稿者」なんてもんも時にはあります)

なども「芸術活動」「問題提起(俺はこういう考えなんだが君はどう思う?)」と言っていいと小生は思っています。要するに自らのパフォーマンスについて世間の評価を求めてるわけですから。つまりは今や「芸術活動、問題提起のハードル」は昔より下がってるわけです。

*1:もちろん政府の意見に反する芸術でもいいわけですが。

*2:いやいや放火の脅しを受けた被害者に対して「無責任呼ばわり」て何なんですかね、この言い草。三浦が言うまでもなく、津田氏にもそういう苦悩はあったでしょう。仮に脅しに屈せず不幸にしてテロの犠牲が出たら、三浦は「強行した津田氏は無責任だ」と逆のこと言ってるでしょうしね。まさに三浦はサイコパスです。

*3:まあ正確には「日本の菅官房長官に当たる役職」ですが

*4:まあ正確には「日本の菅官房長官に当たる役職」ですが

*5:とはいえ高世も三浦を「畏友」とまで持ち上げたのは嘘の人権 偽の平和 - 高世仁の「諸悪莫作」日記だけですが

*6:残念ながら小生の周囲はあの展覧会に好意的な人間ばかりではありませんので

*7:なお、三浦が「天皇の写真」云々には触れても、「菅や河村の恫喝発言」「放火テロの脅し」の「もう一つの理由」である「少女像」について触れないのは自分の極右性を隠蔽するためでしょう。三浦が1)河野談話否定論を主張するつくる会の理事であること、2)この展覧会の重要な問題となっている「少女像」について「三浦が何一つ触れない」のはどう考えても不自然な行為であることから、かえって「三浦の薄汚い本性」が露呈されていますが。

*8:なお一般論でいえば芸術家が自分の作品を「できが悪いと思った」などの理由で後に廃棄することは珍しいことではありません。

*9:むしろ国民大多数が「女帝容認論」なのに「女帝容認など間違ってる!」と言い続ける三浦らウヨの方が「無知な大衆はわしら伝統に詳しいインテリ(?)と違って女帝の何が問題だか、何もわからんのだし考えもしないのだ。だから女帝なんて有害な代物を容認するのだ!」という民衆蔑視の発想が露呈していると思いますね(三浦らウヨの場合、民衆蔑視があからさまなので「潜んでいる」とはいえない)。

*10:「俺はこの家宝は高額商品だと思うんだけど鑑定人の皆さんはどう思う?」というのは立派な「問題提起」でしょう(芸術活動と言えるかは微妙な気がしますが)。