三浦小太郎に突っ込む(2019年9月16日分)

9月21日、日本ウイグル協会学習会でしゃべります | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

 9月21日、日本ウイグル協会の学習会でしゃべらせていただきます。
 ウイグルの運動は多少してきたけど専門家でもなんでもないので、多少学んできたソ連の収容所の問題や、特にソルジェニーツィン*1が何を告発し、西欧に亡命してから何を訴えたか、と言うあたりをテーマにしゃべろうと思います。

 ウイグルと関係ない「旧ソ連のこと」を「強制収容所つながり」でこじつけて話すというのだから、あきれてものも言えませんね。
 「ソルジェニーツィンの発言なんかより、ウイグル関係者の証言でも紹介したら?」と思うのは俺だけではないでしょう。
 三浦に頼む日本ウイグル協会もバカなら、引き受ける三浦もバカです。『中国を追われたウイグル人:亡命者が語る政治弾圧』(文春新書)という著書を持つM谷N子明治大学准教授のようなウイグル専門家、研究者に依頼すればいいものを。もちろん講演内容が問題ではなく「三浦のようなウヨに媚びること」が目的だからこうなるわけですが。

 これ実は私のミスでして、30人くらいの部屋を取ろうとしてかなり大きいところ取ってしまいました。この前、福島香織*2先生の学習会を開催した会議室。福島先生なんでほぼ満員となったが、私で入るわけない。しかしキャンセルは逆にお金かかるので、もう強行してしまいました。

 誰が考えてもそんな不自然なミスはないでしょう。「かなり大きいところ」がどの程度のキャパか知りませんが。
 まあありうるのは「日本ウイグル協会側が十分客を集めることができると自分たちの政治力を過信してでかいキャパの会議室をとった(しかし集客に失敗)」あるいは「日本ウイグル協会側が福島と三浦の違いを無視し、三浦でも客が集まると勘違いして(以下略)」つうところですかね。で三浦が「あんなでかいキャパの部屋をとるなんて三浦も自分を過大評価してるな。福島と三浦じゃ全然違うだろ(苦笑)」とウヨ仲間に陰口たたかれて必死に言い訳してるといったところでしょうか。

 この日は、頑張れ日本も香港支援街宣をする予定のようで、これはますます人来ないと思います

 「頑張れ日本」などというウヨ団体と客層がかぶると平然と公言するのだから全く呆れます。

 今回は私が役不足ですがしゃべらせていただきます。

 「役不足」とは「俺には主役とか準主役とかそれなりの役をくれ。こんな端役なんかふざけてる」という意味、つまり「こんな役じゃ俺には不足だ」という意味なのでこの三浦の文章は誤用ですね。この場合は「力不足」と書くのが正しい。なお、「役不足」と「力不足」の誤用はよくある誤用でググるとそういう指摘をする記事もいくつか見つかります。


拉致問題の映画を撮ろうとした監督 須藤久さんのこと | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

 映画「めぐみへの誓い」クラウドファンディングは目標額に達しました。

 まあ、ばかばかしいですね。もちろん「拉致問題のまともな映画などつくれるメンツなのか、つくってもろくに話題にならないんじゃないか(要するに三流だということ)」「そもそも本当に作る気があるのか(単に話題作りで映画作りをぶち上げてるだけで、まともな計画などないので最終的には挫折にならないか)」つう意味でも「ばかばかしい」ですが、それ以前に「小泉訪朝から16年もたってそんな映画作って意味があるのか」という意味で「ばかばかしい」ですね。
 当たり前ですがいまさら「北朝鮮は酷い」なんて映画を作っても何の意味もありません。
 問題はそういう北朝鮮非難で解決する話ではない。仮に映画を作るとしたら「どうやって拉致を解決するのか」を真摯に考える映画であり、その場合「蓮池透氏、和田春樹氏」など救う会、家族会とは異なる立場の方への取材も不可避でしょう。
 まあ三浦らウヨ連中にそんな映画を作る気はないわけですが。

 以前、拉致問題を映画にしようと頑張ってくれた人に須藤久という映画人がいました。

 なお、須藤某氏(映画監督)や彼の映画「斬殺せよ」については以下の記事を紹介しておきます。まあはっきり言ってほとんど彼についての記事はヒットしません。もはや忘れられたご仁と言っていいでしょう。酷なことを言えば「要するに才能がなかった」のでしょう。

■須藤久(1933年10月18日~2017年1月2日、ウィキペディア参照)
 映画監督、脚本家、評論家。
■解放同盟の糾弾
 1971年、映画『歴史よお前は誰のために』における「穢多」の語の多用のために部落解放同盟から糾弾される。須藤は「断じて差別映画ではない」と抵抗したが、最終的に自己批判を余儀なくされた。その反省の証として監督させられたのが狭山事件をテーマとした『狭山の黒い雨』であった。
■作品
■映像
・1967年(昭和42年):TBSドキュメンタリー・現代の主役「室原さん、あなたはなぜ?。蜂の巣城主 その後」
・1970年(昭和45年):映画「歴史よおまえは誰のために」
・1973年(昭和48年):映画「狭山の黒い雨」
・1975年(昭和50年):ドキュメンタリー「矢田教育差別事件」
・1977年(昭和52年):映画「続・狭山の黒い雨」
・1980年(昭和55年):ドキュメンタリー「部落の母の証言」
・1990年(平成2年):映画「斬殺せよ!切なきもの、それは愛」
■著書
・『須藤久評論集 破邪顕正の浪曼』(1974年、三一書房
・『現代暴力考』(1978年、仮面社)
・『須藤久評論集 輪廻への予感』(1981年、現代評論社
・『右に傾くとはどういうことか』(1984年、かのう書房)
・『鶴田浩二が哭いている:野坂昭如氏への決闘状』(1988年、二十一世紀書院)
・『任侠道 叛逆者の倫理』(1989年、二十一世紀書院)

大 愚 言 ・馬鹿がまた逝ってしまった 大愚叢林庵主 大愚東洋 - 花房東洋情報 大愚叢林
・この一月二日、四十年来交誼のあった映画監督・須藤久が享年八十歳*3で急逝した。死因は風邪を拗らせての急性肺炎だった。
・彼は処女作「歴史よお前は誰のために」や「狭山の黒い雨」など一貫して、部落差別の問題を深く掘り下げて、世に問うていた。
・彼は東映のプロデューサー・俊藤浩滋*4、俳優・鶴田浩二と義兄弟の盃を交わしていた。
 その兄弟分だった鶴田の死後、まもなく、野坂昭如が鶴田批判をする文を週刊誌に発表した。
 そのことに対して、彼は野坂に公開決闘状を突きつけた。
 馬鹿仲間の竹中労*5野村秋介*6、僕が仲裁・奔走して事なきを得た。
 また、その野村とも、映画「斬殺せよ」(平成二十八年八月六日付「大愚言」参照)の製作過程において、プロデューサーの野村と監督の須藤の関係が悪化して、僕は間に立ってとても苦労したこともあった。
 常に喧嘩ネタの尽きない始末に負えない「監督馬鹿」であったが、今となればそれもよき思い出である。

大 愚 言 「馬鹿をやらなきゃ映画は変わらない」 大愚叢林庵主 大愚東洋 - 花房東洋情報 大愚叢林
 たけしといえば、盟兄・野村秋介がプロデュースした「斬殺せよ」(監督・須藤久)に出演してくれたことがあった。
 あるテレビ番組で問題発言をして、その詫状代わりの出演ではあったが、彼が出てくれたお蔭で、今でもDVDレンタルの売上げが好調だ。
 主役は須藤監督の兄弟分であった鶴田浩二が決まっていたが、鶴田の急逝により相手役であった若山富三郎が演ることになった。
 その若山の代役がたけしであった。

『映画評論・入門!』番外編「映画評論事件史 淀川長治差別発言事件」 - 新映画をめぐる怠惰な日常
 糾弾会で「①この差別事件の分析と責任と今後の決意を表明せよ②『狭山の黒い雨』を部落問題の観点から批評せよ③これまでの一連の差別評論を明らかにし、分析せよ」との要求が出され、淀川も同意した。
 『狭山の黒い雨』(73年)とは部落解放同盟が製作した劇映画で、1963年に埼玉県狭山市で起きた女子高生への強盗強姦殺人事件、いわゆる狭山事件の映画化である。被差別部落出身の男が犯人として捕らえられ、一審では罪を認めて死刑判決となったものの、その後冤罪を主張して無期懲役が確定した。この映画が製作された当時は一審判決後の控訴期間中である。
 そして、1974年3月4日付の『解放新聞』には、同意通り、淀川による『狭山の黒い雨』批評が掲載されている。
 一方、後にこうした糾弾への批判も出てきた。『差別用語』(汐文社)では、「ここまでくると、淀川氏の知名度を計算に入れ、弱みにつけ込んだ“おどし”といわれてもしかたがない」と記され、『表現の自由と部落問題』(成沢栄寿*7編著/部落問題研究所)でも「七十年余り前、全国水平社設立前に部落差別を不合理だと見た少年の心は一顧だにされず、エセ・ヒューマニズムだと追及され、『解同』理論に立つ自己批判を迫られるとともに、『解同』制作映画を批評することを約束させられた。(略)この高名な映画評論家の個性を無視し、自分たちの理論・思想に追随・同調を求めたのである。」と批判した。
 この批評は、単行本にも収録されておらず、淀川自身この事件のことには終生、触れることはなかった。
 『狭山の黒い雨』は現在では観る機会も限られており、筆者自身も未見なので、淀川の批評を読んで、いっそう観たいと思うようになった。映画自体にも興味はあるのだが、淀川がこの作品を、映画は映画として批評を書いたのか、それとも、(ボーガス注:解放同盟の恫喝に屈服して)指示されるままに書いたのか、映画を観ない限り判断がつかないからだ。
【コメント欄】
・sanach
 淀川さん*8が本心から『狭山の黒い雨』を褒めたのか、それとも解放同盟に要求されて嫌々褒めたのか、映画を観れば果たしてわかるものでしょうか?
1)ほかにも執筆の舞台はいくらでもあるのに、よりによって『解放新聞』という解放同盟内部の機関紙(もともと発行部数が少ない上、同盟員以外はほとんど読まない)に当該批評文を発表したこと
2)当該批評文を単行本に一切収録していないこと
3)解放同盟から糾弾された体験を自伝その他で一切黙殺していること
 この三点が淀川さんの本音を物語っているのではないでしょうか。
・molmot (id:molmot)
 おっしゃっていることは、文中に引用した『差別用語』『表現の自由と部落問題』他でも指摘されていることですので、最初にも書きましたように、〈映画と批評〉の視点からこの問題を見るというのが私の意図です。とはいえ、この批評が書かれるに至る事情が特殊な事件ですので、その過程を抜きにすることは出来ないので、改めて調べて過程を記したわけです。
 その上で映画も批評も一顧だにされないことへの疑問から、埋もれていた批評を見つけてきました。
 この批評が淀川長治がかつて執筆した(ボーガス注:冤罪・八海事件をテーマとした今井正の映画)『真昼の暗黒』の評にも通じるものがあるだけに、書き流したものなのか、実際にそう思ったのかを判別するには、私の能力では実際に作品を観て判別するしかありません。

映画『狭山の黒い雨』と淀川長治
 字面だけ見れば「特殊な部落」との表現は不穏当かもしれないが、全体としてはむしろ差別を批判する趣旨の発言というべきである。これを差別発言としか受け取れない(ボーガス注:当時の解放同盟の)僻み根性の浅ましさと見苦しさ、情操の貧しさには憐憫を禁じ得ない。
 部落解放同盟大阪府連合会の副委員長(当時)の西岡智*9らは、淀川長治を糾弾会に呼び出してつるしあげ、西岡らの製作によるプロパガンダ映画『狭山の黒い雨』を批評するよう要求した。西岡らは「差別糾弾」を口実にして有名な評論家を屈服させ、自作の映画の宣伝に利用しようとしたわけだが、(中略)当時の映画雑誌を調べてみると、淀川が『狭山の黒い雨』を絶賛した痕跡はどこにも見当たらない。それどころか、淀川がこの作品を批評した形跡さえ発見できなかった*10
(中略)
 『淀川長治自伝』でも解同との一件は完全に黙殺されている。『狭山の黒い雨』なる作品そのものも、解同による強引な宣伝にもかかわらず、今日では全く評価されていないようである*11

 「三浦が持ち上げる須藤氏」の「過去の部落解放同盟との関係」は相当に問題があるように思いますがこの点を「多分、部落解放同盟が嫌いなウヨ」の三浦に聞いたら何と答えるんですかね?。「解放同盟との関係には何の問題もない」とも言えず、とはいえ、須藤批判もできず三浦はしどろもどろになるのか。
 それにしても「部落解放同盟の指示で映画を作った人間」が「右翼の野村の指示で226事件美化映画作成」ですか。須藤氏は信念も何もない「ただの映画職人」だったんですかね。それとも権力者(?)にへいこらする日和見なのか。

*1:1918~2008年。1970年のノーベル文学賞受賞者。著書『イワン・デニーソヴィチの一日』(岩波文庫新潮文庫)、『ガン病棟』、『収容所群島』(新潮文庫)など(ウィキペディアソルジェニーツィン」参照)

*2:最近、『ウイグル人に何が起きているのか:民族迫害の起源と現在』(PHP新書)という著書を出版した。

*3:原文のまま。ウィキペディア「須藤久」を信じるならば享年は84歳

*4:1916~2001年。『昭和残侠伝シリーズ(1965~1972年まで全9作、主演・高倉健)』、『極道シリーズ(1968~1974年まで全11作、主演・若山富三郎)』、『緋牡丹博徒シリーズ(1968~1972年まで全8作、主演・藤純子富司純子))』などを次々ヒットさせ、任侠映画で一時代を築いた。著書『任侠映画伝』(講談社)(ウィキペディア俊藤浩滋」参照)。

*5:著書『完本 美空ひばり』、『決定版ルポライター事始』、『断影 大杉栄』(ちくま文庫)、『聞書アラカン一代:鞍馬天狗のおじさんは』(徳間文庫→のちにちくま文庫)など

*6:1963年7月15日、河野一郎邸焼き討ち事件を起こし、懲役12年の実刑判決。出所後の1977年3月3日、経団連襲撃事件を起こし懲役6年の実刑判決を受け再び服役。

*7:部落問題研究者。「国民融合をめざす部落問題全国会議」事務局長、東京部落問題研究会事務局長、部落問題研究所理事長などを歴任。著書『表現の自由と部落問題』(編著、1993年、部落問題研究所)、『歴史と教育:部落問題の周辺』(2000年、文理閣)など

*8:著書『淀川長治の活動大写真』(朝日文庫)、『淀川長治 究極の映画ベスト100』(河出文庫)、『淀川長治映画塾』(講談社文庫)、『ぼくが天国でもみたいアメリカ映画100』(講談社プラスアルファ文庫)、『淀川長治シネマパラダイス』(集英社文庫)、『私の映画教室』(新潮文庫)、『私のチャップリン』(ちくま文庫)、『映画のおしゃべり箱』、『淀川長治自伝(上)(下)』、『私の映画遺言』(中公文庫)、『わが映画人生に悔なし』(ハルキ文庫)、『映画が教えてくれた大切なこと』(扶桑社文庫)、『私の映画の部屋』(文春文庫)、『淀川長治のシネマトーク(上)(下)』(マガジンハウス文庫)など

*9:1931~2018年。部落解放同盟大阪府連書記長、副委員長など歴任。著書『荊冠の志操:西岡智が語る部落解放運動私記』(2007年、柘植書房新社)(ウィキペディア「西岡智」参照)

*10:まあ、『映画評論・入門!』番外編「映画評論事件史 淀川長治差別発言事件」 - 新映画をめぐる怠惰な日常によれば解放新聞にしか掲載されなかったようですからね。

*11:むしろ評価されてるのは解放同盟が差別映画呼ばわりした今井正の『橋のない川』でしょう。解放同盟が今井映画を非難したのは彼が「映画公開当時、解放同盟と政治的に対立していた日本共産党」の党員だったが故の嫌がらせにすぎず今では解放同盟も「今井映画を非難したこと」はあまり口にしたくない黒歴史のようですが。