今日の産経ニュース(2019年9月17日分)(追記あり)

【正論】「地球温暖化」論議に再考を促す 日米近現代史研究家・渡辺惣樹 - 産経ニュース
 主張内容自体、温暖化CO2原因否定論という似非科学*1でひどいですが、それにしても「日米関係史」ならまだしも「日米近現代史研究家*2」なる肩書の人間に書かせる文章じゃないでしょう。


【主張】処理水と小泉氏 前環境相の決意受け継げ - 産経ニュース

「思い切って放出して希釈する他に選択肢はない」と、退任直前の原田義昭環境相(当時)が発言した。
 東京電力福島第1原子力発電所で増え続ける、有害放射性物質除去後の処理水に関する閣僚としての思いだ。批判を覚悟でよくぞ表明したと評価したい。本来は安倍晋三首相の口から聞きたかった所感である。
 漁業関係者は猛烈に反発した。風評被害の増大を懸念しての対応である。その怒りと危惧は理解できる。しかし、処理水をため続けることの大きなマイナスも存在する。
 トリチウム放射線のエネルギーが弱く、体内に摂取しても速やかに排出されるので、韓国を含め世界の原子力施設からトリチウム水は海洋放出されている*3
 小泉氏が勉強し、風評被害という因習打破に動く姿を見たい。はたして、それができるか。

 そりゃ安倍も五輪招致の演説で「汚染水はアンダーコントロール」といった手前、「海に放出」なんて恥ずかしくて言えなかったんでしょう。もちろん産経が指摘する「漁業関係者の反発」もあります。もちろん産経は「放出してオーケー」と放出支持派(安倍自民や東電)を擁護するわけですが。
 それはともかく安倍が小泉JRを環境相に据えた理由の一つ(すべてではないにせよ)はこれかもしれません。
 つまり「小泉人気」とやらで汚染水放出が国民多数に容認されれば*4御の字だし、「小泉JRってそんな人間だったのか、失望した」として小泉JRの人気が落ちてもどっちでも安倍的には歓迎できるわけです。
 小泉JRが「汚染水放出なんかできません、やれというなら更迭してくれ」といって「小泉人気アップ、安倍人気(?)ダウン」となると安倍にとって困りものですが、そうはならないという読みなんでしょう。まあ、俺も小泉JRにそんな度胸はないと見ますが、ただ安倍の場合「韓国のWTO提訴」を予想せず、「すぐに韓国は音を上げる」と思い込んでホワイト国除外をしかけたとしか思えない前科がありますからね。安倍の読みほどあてにならない「いい加減なもん」もない。


【産経抄】9月17日 - 産経ニュース

▼9年前から阪神でプレーしてきたランディ・メッセンジャー*5投手は、バッキー*6さんと連絡を取り合っていた。バッキーさんは、日本ですでに98勝を挙げているメッセンジャー投手が、自らの100勝の記録を超えるのを楽しみにしていた。ところがメッセンジャー投手は今月13日、現役引退を発表する。バッキーさんが米ルイジアナ州で82歳の生涯を終えたのは、その翌日だった。
▼バッキーさんは引退後、故郷で中学の教師を務めながら牧場を経営していた。昨年4月、サンケイスポーツの記者が自宅を訪れている。阪神にテスト入団して、夫人と子供とともに来日した頃のエピソードを昨日のことのように語っている。日本人はみんな親切だった。和式トイレを除いて困った経験はない。
▼昭和39年には29勝9敗で阪神のリーグ優勝に貢献した。外国人初の沢村賞に選ばれたのが一番の思い出である。
「できればもう一度、この目で甲子園を見てみたい」。
 涙ながらに語る場面もあった。

 「バッキーて亡くなってたんだ」というのが個人的感想です。
 阪神ファンが書いた普通のスポーツ記事ですね。いつもこうなら問題ないのですが、産経抄には時々『異常な右翼記事』が混入されます。

参考

バッキー氏は打のバースに並ぶ最強外国人/吉田義男 - プロ野球 : 日刊スポーツ(日刊スポーツ客員評論家)
・1964年(昭39)の逆転リーグ優勝は、バッキーの活躍なくしては語れません。
・その年のバッキーは、29勝(9敗)で最多勝最優秀防御率。チームが優勝したので、MVPにふさわしい活躍でした。だが、選ばれたのはシーズン55本塁打をマークした王*7(巨人)で、バッキーには気の毒でした。
・東京遠征で後楽園球場近くの清水旅館に滞在した時は、(中略)ふすまで仕切られた畳部屋に布団を敷き、浴衣姿で寝てました。ジャパニーズスタイルに不平も言わず、異国のしきたりになじもうとしていました。
 日本文化を理解しようとする姿が印象的で、それが成功につながったのでしょう。阪神歴代外国人の最強は、打のバース*8、投のバッキーでしょう。懐かしいし、寂しい。愛すべき助っ人でした。

【悼む】「ガハハハ!」笑顔、笑顔…それがバッキーさん - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)
 バッキーさんの周りには笑いがあふれていた。
 自宅を訪ね、インタビューをしたのは昨年3月終わり。自宅はきれいに整理されていたが、ある部屋だけ、物置のようになっていた。「ここは何の部屋ですか?」と聞くと、「古い写真とかがあるはずだけど、もう何がどこにあるのか分からない」と豪快に笑った。
 整理を買って出ると、出てくる、出てくる、子供のときや阪神時代の写真が。そして、どんどん昔の記憶が蘇ってきて、何度も破顔した。
 「これは吉田さん*9(義男)だ、ほら、こんなに若いだろ? ガハハハ!」
 取材2日目の夕方、いっしょに阪神時代のビデオを見ていると、近所の小学生くらいの子供たちがやってきた。
 「バッキーさん、明日はゴミの日だよ。外に出しておいてあげる」
 子どもたちを呼び寄せたバッキーさんは「ほら、ここに映っているのが俺だ。昔は、本当にプロ野球選手だったんだぞ」と自慢気に言った。
 「へぇ~、本当だ。でも、昔は痩せてたんだね!」
 「ガハハハ!」
 笑顔、笑顔、笑顔。それがバッキーさんを思い出すときに浮かぶ顔である。

池井優慶大名誉教授「とても陽気で」バッキー氏悼む - プロ野球 : 日刊スポーツ
■元助っ人選手を取材した「ハロー、スタンカ、元気かい:プロ野球外人選手列伝*10」著者の池井優*11 慶大名誉教授のコメント
 昨年のジョー・スタンカさん*12に続き、60年代を彩った名投手が相次いで亡くなりましたね。とても陽気で(中略)不慣れな旅館や文化住宅での暮らしに文句ひとつ言わず、日本に溶け込もうとした姿勢が誰からも愛されていました。謹んでご冥福をお祈りします。

*1:もちろん安倍政権ですらそんな立場ではありません。

*2:もちろん産経が持ち上げるような人間ですからその「日米関係史」にしてもまともな代物ではないですが。なんせ著書が『第二次世界大戦アメリカの敗北:米国を操ったソビエトスパイ』(2018年、文春新書)ですからね(呆)。完全な陰謀論です。

*3:東京電力「トリチウム水海洋放出問題」は何がまずいのか? その論点を整理する | ハーバービジネスオンラインを信じればトリチウム以外の放射性物質が含まれているため「トリチウム水」というのは詐欺も甚だしいようです。

*4:「そうならないと言い切れない」と思う俺は日本国民多数派の知性を全く信頼していません。

*5:1981年生まれ。2010年から阪神タイガースで投手として活躍(ウィキペディアランディ・メッセンジャー」参照)

*6:1937~2019年。阪神タイガース (1962~1968年)、近鉄バファローズ (1969年)で投手として活躍。1964年に29勝9敗、防御率1.89の好成績を挙げ、最多勝利、最優秀防御率のタイトルを獲得し、沢村賞に選ばれた。外国人選手が沢村賞を受賞するのはこれが初めて。バッキーの活躍でこの年の阪神セリーグの優勝を果たした。同年の日本シリーズでは南海ホークスと対戦、第6戦でエースのジョー・スタンカと投げ合ったが0-4で敗れた。この年のシーズン200奪三振は、2014年にランディ・メッセンジャー226奪三振を記録するまで、阪神球団所属外国人投手の最多シーズン奪三振記録であった。なお、彼の姓の発音は日本語で表記すると「バックエ」に近い。日本に来た際に、「バックエ」では化け物を連想させるなどの理由で、太平洋戦争前に名古屋軍中日ドラゴンズの前身)などで活躍したバッキー・ハリスにあやかり「バッキー」と表記することになった。バッキーのマウンド姿のフィルムは多く現存しており、小津安二郎監督の映画『秋刀魚の味』(1963年)では、笠智衆中村伸郎が飲んでいる居酒屋のテレビに阪神対大洋戦のテレビ中継画面が映り、そこでバッキーが大洋の4番打者桑田武を迎えるというシーンが登場する(ウィキペディアジーン・バッキー」参照)

*7:1940年生まれ。1959~1980年まで巨人で選手として活躍。1977年に通算本塁打世界新記録達成(756本)で国民栄誉賞を受賞。選手引退後も巨人監督(1984~1988年)、ホークス監督(1995~2008年)、日本代表監督 (2006年)を歴任。現在、福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長(ウィキペディア王貞治」参照)

*8:1954年生まれ。1983年から1988年まで阪神タイガース一塁手としてプレーし、1985年のセリーグ優勝、日本シリーズ制覇に貢献。現役引退後、2004年から2019年1月3日までオクラホマ州議会の上院議員民主党)を務めた。NPBにおけるシーズン打率の日本記録保持者(3割8分9厘)であり、外国人選手としてNPB史上最多となる2度(1985年、1986年)の三冠王(最多打率、最多本塁打数、最多打点)に輝いている(ウィキペディアランディ・バース」参照)

*9:1933年生まれ。遊撃手として阪神タイガース (1953 ~1969)で活躍し、1962年、1964年のセリーグ優勝に貢献。その後も阪神監督(1975~1977年、1985~1987年、1997~1998年)、フランス代表監督(1989~1996年)を歴任。1985年に阪神監督としてセリーグ優勝、日本シリーズ制覇を果たしている(ウィキペディア吉田義男」参照)。

*10:1986年、講談社文庫

*11:1935年生まれ。専門は日本外交史で『駐日アメリカ大使』(2001年、文春新書) 、『語られなかった戦後日本外交』(2012年、慶応義塾大学出版会)などの著書があるが、野球通として知られ、『白球太平洋を渡る:日米野球交流史』(1976年、中公新書)、『ハロー、スタンカ、元気かい:プロ野球外人選手列伝』(1986年、講談社文庫)、『野球と日本人』(1991年、丸善ライブラリー)など野球関係の著書が多数ある(ウィキペディア「池井優」参照)。

*12:1931~2018年。南海ホークス (1960~1965年)、大洋ホエールズ (1966年)で投手として活躍。1964年には26勝を挙げてシーズンMVPに輝き、阪神タイガースとの日本シリーズでは第1、6、7戦で先発し3完封し、南海の日本一に大きく貢献。日本シリーズMVPも受賞した。スタンカ以降、ホークスの外国人投手の2桁勝利は長らく達成されず、デニス・ホールトンの登場まで44年を待たねばならなかった(ウィキペディアジョー・スタンカ」参照)。