新刊紹介:「歴史評論」10月号(注:「犬神家の一族」のネタばらしがあります)

・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。まあ正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『近世日本に関する在外史料研究への招待』
イエズス会日本年報の活用をめぐって(清水有子*1
(内容紹介)
 近世とは一般に「織田政権*2以降幕末まで」をさします。イエズス会資料の対象となる「近世」は「織田政権以降スペインの来航が禁止される江戸初期まで」ですね。一方、清水論文以外はもっぱら江戸時代が対象です。
 イエズス会資料なので、スペイン語ポルトガル語文献になるそうです。
 イエズス会日本年報を活用した研究成果として
・五野井隆史*3『日本キリシタン史の研究』(2002年、吉川弘文館
・高瀬弘一郎*4キリシタンの世紀:ザビエル渡日から「鎖国」まで』(1993年、岩波書店
が紹介されています。

参考

海外のキリシタン史料を読むために 高瀬弘一郎(慶應義塾大学名誉教授) | 八木書店グループ
キリシタン史は日本史でありながら、研究の史料は主として海外の教会史料に依存しなければならないという特異性がある。国内史料もあるが、それのみに拠ってキリシタン史を研究しようとすると、研究対象が著しく偏ってしまい、その全貌を見通すのは不可能だと言っても過言ではない。
・欧文の教会史料の邦訳紹介は、村上直次郎氏*5によって始められた。
・同類の史料邦訳として、松田毅一*6監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』15巻(多くの語学者による共同作業)が1987年~98年に出版されてからは、こちらが利用されることが多くなった。
・15巻の大冊ではあるが、伝存する文書全体から見れば僅かである。キリシタン史研究を前に進めるためには、オリジナル史料へのアクセスについて、真剣に考える必要がありはしないか。
フランシスコ会ドミニコ会・アウグスチノ会の三修道会の日本布教に関する文書は、全部合わせても、イエズス会文書とは比較にならない。アウグスチノ会やドミニコ会の歴史を特に調べるのなら別であるが、当然まずイエズス会の文書の利用を考えるべきであろう。
 史料はいうまでもなく、邦訳して紹介するのが最も望ましい。しかし海外の教会史料を全部、否その大部分であっても、邦訳するなどということは、現実味を帯びた話として想定することはとてもできない。それよりも、比べればまだ可能性がありそうなところに、目標のレベルを下げるべきであろう。
 ローマのイエズス会歴史研究所は、イエズス会の世界的布教史に関する数多くの優れた出版物を提供してきた。日本関係の文書についても、シュッテ神父、シュルハンマー神父、そしてルイス・デ・メディナ*7神父等の業績として、様々な書籍が出版された。しかし残念なことに、日本関係ということでは、他の地域の布教関係文書に比して、文書の翻刻が遅れているようである。シュルハンマー神父によるザビエル文書、シュッテ神父によるカタログ(名簿類)、そしてこれはイエズス会歴史研究所の出版物ではないが、ヴィッキ神父によるフロイス著『日本史』、スペイン人史家アルバレス教授によるヴァリニャーノの『日本諸事要録・同補遺』や同じくヴァリニャーノ著『弁駁書』の翻刻、これらはすべて重要な作品ばかりである。単なる文書翻刻に止まるものではなく、それぞれの史料に関する極めて高水準の研究を伴った業績である。
 キリシタン史研究にとって大変不幸なことであるが、上の諸書を作成したイエズス会内外の歴史研究者は皆死亡し、イエズス会歴史研究所から、かつてのように日本関係の研究書が出版されなくなってすでに久しい。日本布教と関わりが深いインディア関係布教文書の翻刻Documenta Indicaは、ヴィッキ神父により18巻刊行されたが、同神父の死によりそこまでで終わってしまった。文書の年代では16世紀末までである。同類の日本関係文書翻刻としてはルイス・デ・メディナ神父によって2冊出版されただけで、やはり同神父の死によって中断した。したがって日本関係はインディア関係に比して、布教文書翻刻ははるかに遅れている。
 今後日本関係のイエズス会布教文書の翻刻について、上に例を挙げた如く内容的に充実した書籍の継続的出版を期待するのは、現実的ではないといわざるを得ない。キリシタン史の研究には、オリジナルのイエズス会文書を1点でも多く読むのが必須であることを思うと、もっと実現可能な方法を考えねばならない。
 イエズス会士の歴史研究者による布教文書の翻刻というと、われわれはどうしても、たとえばヴィッキ神父のDocumenta Indicaのごとき史料集を思い浮かべる。しかし、あの膨大な量の日本関係布教文書についてそれを期待するのは、上に記したとおり現実的ではない。そうではなくて、イエズス会側は、大量の原文書をそのまま翻刻するだけに止める。原文書・写しについて校合等を行わず、注釈等も付さない。誤記脱字があってもそのまま筆写する。手稿の文書について、ただ翻刻のみ行って先に進む。
 一方研究者の側は、その御蔭で手稿の文書を読む困難を免れることが出来る。活字ならば読むのが容易かといえば、決してそのようなことはない。文書は、その書き手により様々な文章となって遺る。せめて語法的に正しい文章を望みたいが、それすらなかなか希望どおりにはいかない。初めから活字に組んで書籍を作ることを目指す場合と、手書きの書簡等を後世の者がそのまま翻刻するのとでは、同じ活字の文面でも、その難儀は大いに異なる。しかしいかに難しくても、歴史研究者として翻刻文書を解読するだけの修練は積むべきであろう。文書の所有者であるイエズス会と、それを史料として利用する歴史研究者の双方が、困難をそれぞれ分担しようという話である。あくまで校訂を経た文書に基づく正確な邦訳を期すというのでは、一体それが終わるのは何時のことか。果たしてその可能性があるのか。とするとその間のキリシタン史研究は、研究の進歩の一方でそれと並行して、群盲象を撫ずに類する弊を流すことにならないか。


■日蘭関係に関するオランダ語史料:日本商館文書をめぐって(松井洋子*8
(内容紹介)
 長崎出島にあったオランダの出先機関が日本商館です。
 日本商館文書を活用した研究成果として
・金井圓*9 『日蘭交渉史の研究』(1986年、思文閣出版)が紹介されています。


清朝档案による近世日中関係の研究へのアプローチ(彭浩*10
(内容紹介)
 清朝档案(档案は公文書の一種)を活用した研究成果として
・大庭脩*11『江戸時代における中国文化受容の研究』(1984年、同朋舎出版
・夫馬進編『中国東アジア外交交流史の研究』(2007年、京都大学学術出版会)
・松浦章*12『清代海外貿易史の研究』(2002年、朋友書店)、『江戸時代唐船による日中文化交流』(2007年、思文閣出版
・筆者・彭浩氏の著書『近世日清通商関係史』(2015年、東京大学出版会
が紹介されています。

参考

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/exchange/exchange-j.html
■中国第一歴史档案館・中国国家博物館との学術交流
 中国第一歴史档案館は明清時代の皇帝文書を保存する文書館です。史料編纂所では同館との共同研究により、日本関係档案3000 件余をデジタル画像で収集し、2010 年に『中国第一歴史档案館所蔵中日関係史料整理目録』を刊行しました。
 また、中国国家博物館が所蔵する「抗倭図巻」と史料編纂所が所蔵する「倭寇図巻」の比較研究に取り組み、同館と協定を結んで倭寇図像の共同研究を行なっています。この成果をもとに2014 年度には史料編纂所編『描かれた倭寇―「倭寇図巻」と「抗倭図巻」―』が刊行されました。


■韓国所在の近世日本関係史料について(酒井雅代)
(内容紹介)
 韓国所在の近世日本関係史料を活用した研究成果として
・池内敏*13『近世日本と朝鮮漂流民』(1998年、臨川書店)、『薩摩藩士朝鮮漂流日記:「鎖国」の向こうの日朝交渉』(2009年 、講談社選書メチエ)、『絶海の碩学:近世日朝外交史研究』(2017年、名古屋大学出版会)
・尹裕淑『近世日朝通交と倭館』(2011年、岩田書院)
・金時徳『異国征伐戦記の世界:韓半島琉球列島・蝦夷地』(2010年、笠間書院
田代和生*14倭館鎖国時代の日本人町』(2002年、文春新書)、『日朝交易と対馬藩』(2007年、創文社
・仲尾宏*15朝鮮通信使徳川幕府』(1997年、明石書店
・李元植『朝鮮通信使の研究』(1997年、思文閣出版
が紹介されています。


■ロシア史料の調査と共同研究(保谷*16
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/exchange/exchange-j.html
■ロシア国立歴史文書館・ロシア国立海軍文書館との学術交流
 両文書館と学術協力に関する覚書を締結し、2002 年度から「日露関係史料をめぐる国際研究集会」を開催するなど、両館が所蔵する帝政ロシアの日本関係史料の調査研究を続けています。2009 年度には『ロシア国立歴史文書館所蔵日本関係史料解説目録』、2010 年度には『ロシア国立海軍文書館所蔵日本関係史料目録』を共同で刊行しました。
ロシア科学アカデミー東洋古籍文献研究所との学術交流
 ロシア科学アカデミー東洋古籍文献研究所との間で共同研究プロジェクトについての覚書を締結し、同研究所が所蔵する19 世紀初頭のサハリンアイヌ交易帳簿と史料編纂所が所蔵する文化年間の北方紛争記録の画像データを交換して、共同研究を進めています

ロシア国立歴史文書館長らを招聘して「日露関係史料をめぐる国際研究集会」を開催 | 東京大学 2015年05月19日
 史料編纂所(山家浩樹所長)では日本学士院と共催による「日露関係史料をめぐる国際研究集会」を開催しました。
 第1報告は、研究代表者の保谷徹教授(史料編纂所)から、「在外日本関係史料のデジタルアーカイヴズ化プロジェクトについて」と題し、科学研究費補助金基盤研究(S)として実施中の在外日本関係史料150万コマ余(世界20か国以上70機関以上)のデジタルアーカイヴズ化を中心とするプロジェクト研究の概要が報告されました。ロシア史料のDB化と検索・閲覧方法の開発も大きな課題となります。
 第2報告では、ロシア科学アカデミー東洋古籍文献研究所ワジム・クリモフ上級研究員が、「1862年日本使節団のロシア訪問」と題し、幕末の竹内使節団のサンクトペテルブルグ訪問について、ロシア側で使節を図書館や軍港クロンシュタットへ案内した様子を紹介しました。ロシア側史料からロシアが何を使節へ見せたかったのか、そして日本の使節がそれをどう記録したのか、参加した福沢諭吉渡航記にどう書かれていたかなど、興味深いお話でした。
 第3報告は、帝政ロシア中央政府史料約750万ファイルを所蔵するロシア国立歴史文書館のセルゲイ・チェルニャフスキー館長から、「エヴゲニイ・イワノヴィチ・アレクセエフ提督-海軍司令官にして政治家」と題する報告がありました。ご報告は、同館長が前任の海軍文書館長時代に取りまとめた日本・朝鮮関係史料の解説目録にもとづき、日露戦争期の海軍提督アレクセエフのフォンド*17を分析したものでした。(ボーガス注:日露戦争敗戦によって)従来低く評価されがちなアレクセエフの実像に焦点をあて、再評価を求めるご報告でした。

ロシア国立歴史文書館長らを招聘して「日露関係史料をめぐる国際研究集会」を開催 | 東京大学2016年05月24日
 5月24日(火)、史料編纂所(山家浩樹所長)では日本学士院と共催による「日露関係史料をめぐる国際研究集会」を開催しました。同研究所では、ロシアに所在する日本関係史料の系統的な調査・研究と収集に取り組み、現地の研究機関と協力して国際研究集会や共同研究を継続しています。今回の研究集会は通算16回目、ロシアの旧都サンクトペテルブルクから3名の研究者を招聘してロシアの文書館が所蔵する史料群に基づいた報告をお願いしました。当日は3本の報告が行われ、参加者は全国からの専門研究者を含む約60名でした。
 研究集会では山家所長が挨拶に立ち、この前日、ロシア国立海軍文書館との研究交流覚書に調印し、共同研究の継続が図られることになったこと、また、ロシア国立歴史文書館の前館長アレクサンドル・ソコロフ教授(サンクトペテルブルク国立大学)が史料編纂所との長年の研究交流を評価され、春の叙勲で旭日中綬章となったことを報告し、祝意を表しました。
 次に、第1報告では、ロシア科学アカデミー東洋古籍文献研究所ワジム・クリモフ上級研究員から「1862年日本使節団が見たサンクトペテルブルクのイズレル興行施設と漕艇競技大会」と題した報告が行われ、文久遣欧使節団の異文化交流のありさまが、現地のさまざまな雑誌や新聞記事を用いて活き活きと紹介されました。
 第2報告はロシア国立海軍文書館ワレンチン・スミルノフ館長でした。館長は今回初参加で、ロシア海軍水路部海図局長もつとめた海図の専門家です。報告は「1880年ロシア海軍水路測量家たちによる日本沿岸海図の出版-海軍文書館史料より―」と題し、日本沿岸の海図がロシア海軍によって複製刊行される過程を丹念に紹介しました。
 第3報告は、ロシア国立歴史文書館セルゲイ・チェルニャフスキー館長による「1916年閑院宮載仁*18親王のロシア訪問―来露100年を記念して―」でした。ロシア革命の直前にサンクトペテルブルクを訪問した閑院宮を歓迎する様子が儀典局の史料などから復元され、さらに100年前の貴重なフィルム映像が紹介されました。

ロシア国立歴史文書館長らを招聘して「日露関係史料をめぐる国際研究集会」を開催 | 東京大学2017年05月23日
 史料編纂所(山家浩樹*19所長)では日本学士院と共催による「日露関係史料をめぐる国際研究集会」を開催しました。研究所では、ロシアに所在する日本関係史料の系統的な調査・研究と収集に取り組み、現地の研究機関と協力して国際研究集会や共同研究を継続しています。今回の研究集会でも、ロシアの旧都サンクトペテルブルクから3名の研究者を招聘してロシアの文書館が所蔵する史料群に基づいた報告をお願いしました。参加者は全国からの専門研究者を含む約60名でした。
 第1報告では、ロシア科学アカデミー東洋古籍文献研究所ワジム・クリモフ上級研究員から、「日本のキリスト教に関するV.ヤマトフ(橘耕斎)の報告書」と題し、ロシア国立古文書館(モスクワ)の所蔵史料についての報告がありました。ヤマトフこと橘耕斎は、幕末にロシアへ密航して外務省に仕え、1863年、アジア局のオステン・サケンへ日本のキリシタン禁教に関するレポートを提出しました。
 ここには、島原の乱に加え、由比正雪の乱、あるいはキリスト教同様に禁じられた(ボーガス注:日蓮宗不受不施派について記されましたが、内容は必ずしも史実に沿ったものではなかったようです。
 第2報告はロシア国立海軍文書館ワレンチン・スミルノフ館長でした。報告は「イヴァン・フョードロヴィチ・リハチョフの対馬計画(1860-1904)」と題し、1861年のポサードニク号事件の経緯を中心に、対馬に根拠地を求めたリハチョフ提督麾下のロシア海軍の動向を詳細に論じました。事件が問題化し、(ボーガス注:英国が対ロシア戦争も辞さないと表明して政治介入すると)皇帝アレクサンドル2世から対英戦争を覚悟するほどの地かと問われたリハチョフは、ノーと答えざるを得なかったといいます。海軍文書館所蔵史料のみならず、関係史料を丹念に紹介していただきました。
 第3報告は、ロシア国立歴史文書館セルゲイ・チェルニャフスキー館長による「在函館ロシア領事館―ロシア国立歴史文書館史料より―」でした。幕末期箱館に設置されたロシア領事館の関係史料が紹介され、1869年から70年にかけて、付属施設であった正教会(現在のハリストス教会)が、ニコライ神父(聖ニコライ)のもとで独立し、予算も外務省経費から宗務院経費に切り替えられていった経過などが示されました。
 ロシア史料にもとづく3報告に対し、限られた時間ながら活発な議論が行われ、意義深い研究集会となりました。最後にプロジェクト責任者の保谷徹教授から、①海外20か国・70機関以上から収集した海外史料マイクロフィルム150万コマのデジタルアーカイヴ化が進捗していること、②ロシア国立海軍文書館の日本関係史料解説目録2を年内に出版すること、③ロシア国立歴史文書館から新たに東アジア関係ロシア史料目録を受理したことなどが報告されました。
 この国際研究集会は、日本学士院から委嘱され、その支援をうけた国際学士院連合関係プロジェクト「未刊行日本関係史料調査事業」の一環として実施しています。研究集会に先立ち、ロシアから招へいした3人は、日本学士院を訪問し、塩野宏*20院長・斯波義信*21会員と懇談しました。
また、研究集会の翌日から報告者らは函館へ出張し、函館ハリストス正教会やロシア人墓地、旧ロシア領事館など、日露の歴史にかかわる場所を熱心に見学しました。最終日は松前町まで足を延ばし、ロシアと北方で接した松前藩関係の史跡を見て回っています。

ロシア国立歴史文書館長らを招聘して、2週連続「日露関係史料をめぐる国際研究集会」を開催 | 東京大学2018年05月21日、05月28日
 5月21・28日(月)の両日、日本学士院塩野宏院長)と共催による「日露関係史料をめぐる国際研究集会1・2」を2週連続で開催しました。
 史料編纂所では、ロシアに所在する日本関係史料の系統的な調査・研究と収集に取り組み、現地の研究機関と協力して国際研究集会や共同研究を継続しています。今回は2週連続の取組となり、ロシアの旧都サンクトペテルブルクから計4名の研究者を招聘してロシアの文書館が所蔵する史料群に基づいた報告などをお願いしました。
 5月21日(月)の研究集会では、3本の報告が行われ、全国から約50名の専門研究者が参加しました。まず、プロジェクトリーダーでもある史料編纂所保谷徹所長が挨拶に立ち、この国際研究集会が通算18回目となったこと、昨年冬に『ロシア国立海軍文書館所蔵日本関係史料解説目録2』が刊行されたこと、今回「ロシア国立歴史文書館所蔵史料解説目録(財務省フォンド、1201項目)」を受理したことを報告しました。
 第1報告では、ロシア科学アカデミー東洋古籍文献研究所ワジム・クリモフ上級研究員から、「日露関係のなかで成立しなかったことの歴史から―レザノフ使節がもたらし日本人が受取らなかったロシアの贈り物―」と題し、1804年に来航したロシア使節レザノフが、将軍宛に持参した贈り物、とくに「象のからくり時計」を中心に報告がありました。金メッキされ、鼻や尻尾を時報とともに動かすこの「象」時計は、英国の著名な宝石工芸職人ジェームズ・コックスの作でした。時計は、キングストン公妃からポチョムキン公爵を経て、エルミタージュ*22の蒐集品となります。クリモフ研究員は、この時計に関するさまざまな史料記事を取り上げ、将軍が受け取りを拒否し、ロシアへ持ち帰った過程を検討しました。ロシア皇帝の宝物であった「象」時計は、1817年、ペルシャの王ファテ・アリ・シャーへ贈られたといいます。贈り物の使いまわしでした。当日は、この同じ職人が作ったというエルミタージュの孔雀時計の映像が流され、会場内にどよめきを生みました。
 第2報告はロシア国立海軍文書館ワレンチン・スミルノフ館長でした。報告は「『日本の諸港に来るロシアの軍艦は皆この国が友好国だと感じる‥』(明治期の日露関係エピソードの数々)」と題し、1861年ポサドニック号事件以後のロシア太平洋分艦隊の動向を、日本を訪れた艦隊司令官との関係で描いたもの。ロシア国立海軍文書館が所蔵する太平洋艦隊のフォンドから、関係史料を丹念に紹介していただきました。
 第3報告は、ロシア国立歴史文書館セルゲイ・チェルニャフスキー館長による「天皇睦仁に関する情報(ロシア国立歴史文書館所蔵文書より)」でした。同館が所蔵するロシア財務省文書のフォンドに、外務省から写しで回された駐日外交官の報告書などが含まれ、明治天皇の死亡情報などを伝えていました。
 5月28日に開催された2週目の研究会(通算19回目)にも、札幌・大阪を含む各地の専門研究者50名以上が参加しました。当日は、研究代表者の保谷徹(所長)から、開会の挨拶ののち、「在外日本関係史料の調査事業とロシアにおける日本コレクション」と題し、史料編纂所における海外史料調査の歴史について報告をおこないました。とくに、サハリンアイヌとの交易帳簿を筆頭に、武器・武具や日用品、大砲、縄張り図などの図面類、そして松前藩の史料など、ロシア調査で次々と「発見」された日露間の北方紛争招来品について紹介し、こうしたコレクションの形成史について研究がまとまることへの期待を述べました。次に、東洋古籍文献研究所ワシーリー・シェプキン上級研究員から、「長崎に限らない―近世日本古典籍がロシアに渡った経緯について―」と題した報告がおこなわれました。報告では、大黒屋光太夫やシュトゥッツェルのコレクションを皮切りに、古籍文献研究所(旧東洋学研究所、その前身はピョートル大帝が設立したアジア博物館)が所蔵する古典籍コレクションについて、ロシア側に残る史料や目録を紹介しつつその形成過程を詳細に論じてみせました。その結果、近世日本コレクションの多くが、北方での紛争(フヴォストフ事件)を通じ、露米会社を介し、あるいは海軍局の収集活動によってサンクトペテルブルクへもたらされたものであることが明らかになりました。コメントにたった北海道大学谷本晃久*23教授から、この形成過程を図式化した詳細な見取り図が画像で紹介され、会場内を沸かせています。また、同じくコメントにたったワジム・クリモフ上級研究員から、1850年代以降のコレクションもまた、旧都サンクトペテルブルクの各機関に分散して所蔵されているものがあることが指摘されました。活発な議論があり、充実した研究会となりました。

東大研究チーム:アイヌ宛て最古の古文書 ロシアで発見 - 毎日新聞
 江戸時代後期の1778(安永7)年に当時の松前藩から北海道東部のアイヌ民族の有力者に宛てた文書の原本が、ロシアのサンクトペテルブルクに残されていた。東京大史料編纂所などの研究チームの調査で見つかった。240年前に松前藩からアイヌ民族に手渡された最古のオリジナル文書とみられ、アイヌ民族とロシアとの接点を示すものとしても注目される。

松前藩最古のアイヌ宛文書 ロシアの図書館で発見 - 産経ニュース
 江戸時代の1778(安永7)年に、当時の松前藩が北海道東部のアイヌ民族の有力者に宛てた文書がロシア・サンクトペテルブルク国立図書館に保存されているのを東京大史料編纂所などの研究チームが発見した。松前藩アイヌに送った文書としては最古の原本とみられ、松前藩アイヌ政策を知る上で貴重な史料となる。
 文書は松前藩の「蝦夷地奉行」が「ノッカマップ」(現在の北海道根室市)のアイヌ有力者ションコに宛てたもの。内容は(1)けんか・口論の禁止(2)アイヌと和人が交易で使う小屋の火の元の用心(3)和人の漂流船への救助、対応の規定(4)和人の漂流民を和人が滞在する場所まで送り届ける指示-の4項目から成り、これらを守らなかった場合は処罰するとしている。
 共同研究者の北海道博物館(札幌市)の東俊佑学芸主査によると、文書は2016年10月に図書館で日本関連の史料を閲覧中に偶然、発見した。


■近世後期日本知識人の日朝関係認識(松本智也)
(内容紹介)
 近世後期日本知識人としては儒学者の古賀精里*24、古賀どう庵、佐藤一斎*25、林述斎*26、松崎こう堂*27などが取り上げられている。
 筆者は佐藤ら儒学者には「日本は朝鮮よりも文化的に上である」という朝鮮差別意識があったとしている。
 ただし一方でその朝鮮差別意識は「明治以降日本の差別意識」とは大きな違いがあったとする。
 明治以降日本における「朝鮮への差別意識」は「日本は西洋列強を模範に近代化しているが、朝鮮はそうではない」とするものであったのに対し、近世後期儒学者において模範とされたのは「西洋列強の科学技術」ではなく「儒学」であった。儒学理解において「日本の方が儒学をより深く認識している」という価値観による「差別意識」であったのであり、それは少なくとも明治以降のように「武力による朝鮮侵略」を必然的にもたらす性格のものではなかった。


■歴史の眼「まちの歴史にリンチを刻む:アメリカにおける人種暴力の記憶化」(坂下史子)
(内容紹介)
 主として「米国で最も有名な黒人リンチ殺人」「『いつまでも南部白人の無法を黙認していいのか!』と公民権運動を促進することになった」といわれるエメット・ティル事件を中心にアメリカにおける「人種暴力(主として南部での黒人へのリンチ)の記憶化」が論じられています(小生も無知なのでエメット・ティルという名前は今回初めて知りましたが)。
 また
黒人リンチで4000人犠牲、米南部の「蛮行」 新調査で明らかに 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
人種差別によるリンチ殺人を犯罪と規定、米上院で歴史的法案可決 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
古くて新しいツアー 米公民権運動の跡を巡る:朝日新聞GLOBE+*28
などといった最近の動向にも触れています。
 もちろん、こうした「暴力の記憶化」がスムーズにいかないのは米国でも「日本などほかの国と同じ」です。昔に比べればましになったとはいえいまだ南部を中心に米国は白人至上主義、有色人種差別主義の極右(典型的には悪名高いKKK(クークラックスクラン))がいるわけです。そういうのがトランプを支持するわけです。そしてそういう米国極右連中は日本ウヨが「関東大震災での朝鮮人虐殺、南京事件など」をできる限り矮小化するように「黒人へのリンチ行為の矮小化」に今も励んでるわけです。
 そういう意味では「アメリカの人種暴力」は完全に過去になったわけではありません。
 まあ、「人種暴力では必ずしもない」とはいえ

・日本:
 関東大震災での朝鮮人虐殺、南京事件など
・韓国:
 光州事件
・ドイツ:
 ナチホロコースト

などあり、これらも決して「記憶化がスムーズに進んでるわけではない」ので何もこうした問題は米国限定ではありません。

参考

■エメット・ルイス・ティル (1941年7月25日~1955年8月28日、ウィキペディア参照)
 14歳の時、イリノイ州シカゴの実家からミシシッピ州デルタ地区の親類を尋ねていた折、食品雑貨店店主ロイ・ブライアントの妻キャロライン・ブライアント(21歳)に口笛を吹いたと、ロイと兄弟J. W. ミランから因縁をつけられた。二人は、後日ティルの大叔父の家からティルを無理やり連れ出し、納屋に連れ込んでリンチを加えた。その後銃で頭を打ち抜き、死体をタラハシー川に捨てた。ティルの死体は3日後に川から発見され、引き上げられた。
 この事件の裁判は大いに報道の注目を集める事となった。判決において、被告ロイ・ブライアントとミランは、ティルの誘拐と殺人について無罪となったが、数ヵ月後に、雑誌インタビューに応じ、ティルの殺害を認めた。この事件は、アフリカ系アメリカ人公民権運動を大きく前進させるきっかけとなった、重要な出来事の1つとして数えられている。奇しくも、ティルの8回忌に当たる1963年8月28日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアキング牧師*29。1964年のノーベル平和賞受賞者)はワシントン大行進に於いて、歴史に残る「I Have a Dream」のスピーチを行っている。
 2004年、アメリカ司法省は、ミシシッピー州の裁判におけるロイとミランの無罪判決に対し多くの問題点を認め、正式に再審の決定を下した。再捜査に伴い、ティルの遺体は掘り出され、改めて検死が行われた。その後遺体は、遺体発掘時の慣例に従い、新しい棺に納められ、再度埋葬された。ティルの古い棺はしばらく納屋に放置されていたが、2009年8月にスミソニアン協会に寄贈された。
■メディアなどの影響
 エメット・ティルは、メディア文化と文芸学術文化において、アメリカ人の意識に浸透し始めた。
 ミシシッピー州出身で、しばしば人種問題を扱っている作家ウィリアム・フォークナー*30(1949年のノーベル文学賞受賞者)は、ティルに関してエッセイを発表している。
 ボブ・ディラン(2016年のノーベル文学賞受賞者)は、1962年に「ザ・デス・オブ・エメット・ティル」をレコーディングしている。
 ティルは、今もなお、人々の注目を集めている。1976年、ティルを記念する銅像の除幕式がコロラド州デンバーで行われ(像は、その後コロラド州プエブロに移された)、ティルとマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが共に歩く姿を見る事が出来る。
 ティルの名は、公民権運動に命を捧げた40人の内の一人に加えられ(殉教者とみなされ)、1989年に完成した、アラバマ州モンゴメリー公民権運動記念碑にその名前が刻まれている。1991年には、シカゴ市内71番通りが7マイル (11 km)に渡り、「エメット・ティル通り」と命名された。
 かつてティルが在籍したシカゴの「ジェームズ・マッコッシュ小学校」は、2005年に「エメット・ルイス・ティル数理アカデミー」と名前が変更された。また、「エメット・ティル記念ハイウェー」が、ミシシッピーのグリーンウッドとタトワイラーの間に開通した。
 2007年、タラハシー郡は、ティルの家族に対し、公式な謝罪を行い、次の様に宣言した。
「我々タラハシー郡の住民は、エメット・ティルの裁判が、大変な誤審であった事を認めます。我々は、正しく正義を追求する事が出来なかった事について、申し訳なく思います。」

 小学校の名前が「エメット・ルイス・ティル数理アカデミー」ですか。「人名のついた小学校」といえば日本でも「安倍晋三記念小学校(森友学園の当初予定)」つうのがありましたね。全然レベルが違うので日本人として恥ずかしいですが。しかし米国人って「人名を記念につける」のがすごく好きな国民のような気がします。

米司法省、1955年の黒人少年殺害事件の捜査を再開 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
 米国で1955年に起きた黒人少年、エメット・ティル(Emmett Till)さん殺害事件について、米司法省が捜査を再開したことが明らかになった。アフリカ系米国人のティルさんが殺害された事件は、公民権運動が勢いづくきっかけとなった。
 当時14歳だったティルさんは1955年8月、シカゴの自宅から南部ミシシッピ州の親類の家を訪ねていた時に誘拐され、3日後に川で損傷の激しい遺体となって発見された。
 ティルさんの母親は、息子の身に起きたことを世界に知らしめるため、ひつぎを開けたままにして息子の遺体を公開するよう主張したことで知られている。
 ティルさんは殺害される数日前、ある店の中で白人女性のキャロライン・ブライアント(Carolyn Bryant)さんをつかみ、性的な発言をしたとされている。
 このキャロラインさんの夫のロイ(Roy Bryant)さんと、ロイさんの片親違いの兄弟のJ・W・ミラン(J.W. Milam)さんが、ティルさん殺害容疑で逮捕されたが、この2人の白人男性に陪審員は無罪評決を下した。
 しかし、2人は後に雑誌のインタビューの中で、ティルさん殺害を認めた。ロイさんは1994年に、ミランさんは1981年に死去した。
 司法省は3月に議会に提出した報告書の中で、「新たな情報の発見に基づき」ティルさん殺害事件の捜査を再開すると述べていた。2007年に打ち切られたティルさん殺害事件の新情報の内容については言及されていない。
 現在は、キャロライン・ドナム(Carolyn Donham)さんという氏名になっているキャロラインさんは、昨年出版されたティモシー・B・タイソン(Timothy B. Tyson)氏の著書「The Blood of Emmett Till(エメット・ティルの血)」の中で、店内で起きた事件についてうそをついたと告白している。

The Death Of Emmett Till もしくはエメット·ティルのバラッド 1955年8月28日 (1962. Bob Dylan) - 華氏65度の冬

’Twas down in Mississippi no so long ago,
When a young boy from Chicago town stepped through a Southern door.
This boy's dreadful tragedy I can still remember well,
The color of his skin was black and his name was Emmett Till.
 ミシシッピ州の方で起こったこと。
 それほど前のことじゃない。
 シカゴの街から来た男の子が南部のドアをくぐった。
 この子に起こった恐ろしい悲劇をぼくは今でもよく覚えている。
 その子の肌は黒くてその子の名前はエメット・ティルと言った。
Some men they dragged him to a barn and there they beat him up.
They said they had a reason, but I can't remember what.
They tortured him and did some evil things too evil to repeat.
There was screaming sounds inside the barn, there was laughing sounds out on the street.
 何人かの男たちがその子を納屋の中に引きずり込んでそこでその子を袋叩きにした。
 それには理由があるとそいつらは言っていたがぼくはそれを覚えていない。
 そいつらはその子をいたぶって邪悪すぎて口にできないぐらい邪悪なことをした。
 納屋の中では叫び声が響き街の通りでは笑い声が響いていた。
Then they rolled his body down a gulf amidst a bloody red rain
And they threw him in the waters wide to cease his screaming pain.
The reason that they killed him there, and I'm sure it ain't no lie,
Was just for the fun of killin' him and to watch him slowly die.
 血のように赤い雨の中
 そいつらはその子のからだを入り江の土手から転げ落とした。
 そして水の中に投げ込んだ。
 痛みに苦しむその子の声を消してしまうため。
 そいつらがそこでその子を殺した理由はこれは決してうそじゃない
 ただ面白がって殺したんだ。
 そしてその子がゆっくり死んでゆくのを眺めるためだったんだ。
And then to stop the United States of yelling for a trial,※
Two brothers they confessed that they had killed poor Emmett Till.
But on the jury there were men who helped the brothers commit this awful crime,
And so this trial was a mockery, but nobody seemed to mind.
 裁判を開けと叫ぶ声でアメリカ合州国は凍りついてしまった。※
※ この部分のみ翻訳に自信がなく、「想像訳」になっています。文法的に正確なところを指摘してくださる方がいらっしゃれば、よろしくお願いします。
 ふたりのきょうだいがかわいそうなエメット・ティルを殺したことを自白した。
 けれども法廷にはその恐ろしい犯罪を起こしたきょうだいのことをかばう人間たちがいて裁判は茶番劇になった。
 それなのに誰もそのことを気にしていないようだった。
I saw the morning papers but I could not bear to see
The smiling brothers walkin' down the courthouse stairs.
For the jury found them innocent and the brothers they went free,
While Emmett's body floats the foam of a Jim Crow southern sea.
 あの朝ぼくは新聞を見たのだけどとても見続けていられなかった。
 笑顔のきょうだいが裁判所の階段から降りてくるところだった。
 法廷はかれらを無罪にしてきょうだいは自由になったのだ。
 エメット・テイルのからだはジム・クロウ法の南部の海の上に泡を浮かせていつづけていたけれど。
If you can't speak out against this kind of thing, a crime that's so unjust,
Your eyes are filled with dead men's dirt, your mind is filled with dust.
Your arms and legs they must be in shackles and chains, and your blood it must refuse to flow,
For you let this human race fall down so God-awful low!
 こんなことを見てこんなに不正義な犯罪を見て許せないという声をあげられないというのならそいつの目は死んで腐ったその汚らしさで埋めつくされてるってことだしそいつの心の中はゴミでいっぱいになってるってことだ。
 そんなやつの手足は鎖で縛られてそんなやつの血は流れるのをやめてしまえばいいんだ。
 こんなふざけた法律のために全人類がおとしめられているのを黙って見ていられるようなやつは!
This song is just a reminder to remind your fellow man
That this kind of thing still lives today in that ghost-robed Ku Klux Klan.
But if all of us folks that thinks alike, if we gave all we could give,
We could make this great land of ours a greater place to live.
 この歌はみんなに忘れないでいてもらうための歌だ。
 こんなことが今でもクー・クラックス・クランのかぶった幽霊みたいなローブの下で生き残ってるんだということを。
 でももしみんなが同じように思ってくれるならぼくらが自分にできることを全部やりとげたならぼくらのこの素晴らしい場所を生きるに値するもっと素晴らしい場所に変えてゆくことだってできるはずだろう。

 ディランが20歳の時にミネソタからニューヨークにやって来て、注目を集め、最初にレコーディングすることになったいくつかの曲のなかのひとつだと言われている曲。長らく公式には発売されていなかった。後の時代の韜晦だらけの表現とは無縁な、ディラン自身の初期衝動と言うべき「青臭い怒り」が歌詞の中に充満しており、私はそれを、嫌いではない。
 当時14歳だったシカゴ出身の黒人少年、エメット・ティル君を殺した罪に問われた二人の男が、ミシシッピ州の裁判所で無罪判決を受けたというニュースが新聞に躍ったのは、1955年9月24日の朝のことだった。ディランの生まれた年を改めて確かめてみると、1941年。このとき彼氏は、殺された少年と同じ14歳だったことになる。その日のことをディランは7年間忘れずにいて、人生で最初のレコーディングの時には、その時のことを歌った歌を歌った。このことは、記憶されていいことだと思う。
 北部の大都会シカゴで生まれたティル少年は、1955年8月、夏休みを利用して母方の親戚が暮らすミシシッピ州に旅行する計画を立てた。母親のメイミーさんは心配し、南部の田舎とシカゴとでは習慣が全く違うから、白人の前では必ず行儀よく振る舞わなければならないと強く言って聞かせたのだという。けれどもティル少年は「そんなにひどいわけないよ」と笑って、迎えに来てくれた従兄弟と一緒に、初めての南部へと旅立っていった。「実際にはもっとひどいから」という母親からの忠告は、耳に入っていなかったようだった。
 南部の従兄弟や友人たちは、シカゴでは黒人は白人の目を恐れたりしないし、自分には白人のガールフレンドもいるというティル少年の自慢話を聞かされて、驚いたと同時に、見下されたと思って多少はムッとしたのだろう。おまえの言うことが本当なら、地元で一軒しかない食料品店のレジにいる白人女性にデートを申し込んでみせろと、からかい半分にけしかけた。誰も、まさか本当に行くとは思っていなかった。ところが、差別の恐ろしさを知らないティル少年は、普通にその店に入って行ってしまった。
 従兄弟や友人たちは、大変なことになったと思いながら、窓越しに固唾を飲んで見守っていた。中でどういうやり取りが交わされたのかは、他に客がいなかったので、今でも本人たち以外には誰も分からない。けれどもティル少年がレジの女性の身体に触ろうとしたのを見て、従兄弟の一人は大慌てで店に飛び込み、ティル少年を引きずり出した。クルマで逃げようとした時、レジの女性は店の外に飛び出して、停めてあったクルマから拳銃を取り出した。その女性に向かって、ティル少年は走り去るクルマの中から「口笛を吹き鳴らした」と言われている。
 ティル少年がやってしまったことは、当時の南部の黒人たちが最も「やってはならないこと」とされていたことだった。逆のパターン、すなわち白人男性が黒人女性と性的関係を持つことはいくらでもあったにも関わらず、黒人男性が白人女性を性的な関心の対象とすることは、最大の「タブー」とされていた。白人女性に少しでも興味を示した黒人男性は、誰でも命の保証がなかったし、南部の黒人男性は誤解から身を守るため、たとえ話しかけられたとしても絶対に白人女性の顔は見ないということが「常識」になっていた。それは実は母親のエイミーさんが最も注意深くティル少年に警告していたことでもあったのだが、だからこそ彼氏はわざとそれに逆らって、どうなるか試してみたいと思ったのかもしれない。南部の差別主義を彼は知らなかったし、「同じ人間」のあいだでそんなことが起こるなんて、信じることもできなかったのだ。
 4日後、8月28日の午前2時、ティル少年が身を寄せている親戚の家を、拳銃と懐中電灯を持った二人の白人男性が訪れ、「シカゴから来た小僧を出せ」と迫った。家の主人だったモーゼス・ライト老人は、何が起こってしまったかを悟り、金で何とか解決してくれるように懇願したが、二人は聞く耳を持たず、逆らうことはできなかった。ティル少年を起こすと、彼は落ち着いた様子で二人について行ったと言う。去り際、男たちのひとりは「明日になって俺たちのことを知ってるなんて言おうもんなら、次の誕生日はないと思え」とモーゼス老人を脅迫し、トラックの荷台にティル少年を乗せ、ライトを消したまま走り去った。
 ティル少年がどんなにひどい目に遭わされたとしても、まさか殺されることはないだろうと、この時はモーゼス老人も、思っていたのだという。そして後から明らかになったことではあるが、二人の白人の側も「殺す気まではなかった」のだという。それにも関わらずティル少年が命を落とすことになったのは、白人の前で脅しや暴力に屈せずに、「毅然とした態度」を取り続けたからだった。生まれて初めて経験させられた不当な人種差別を絶対に許せないという「人間としての誇り」が、結果的には、彼の命を奪うことになったのだった。
 有刺鉄線で首に重りをくくりつけられた少年の遺体が、近くの川で釣り人によって発見されたのは、三日後のことだった。遺体は激しく損傷していた。頭蓋骨は一部陥没し、片方の眼球が抉り取られており、さらに頭に銃創があった。全身に殴打の痕があり、性器が切断されていて、発見された時にはそれが口の中に押し込まれていたという話もある。遺体の発見から間もなく、ティル少年が声をかけた女性の夫であるロイ・ブライアントと、その異母兄弟のJ.D.マイラムが「誘拐罪」で告発された。
 地方当局はすぐにも遺体をミシシッピで埋葬し、証拠を消してしまおうとしたが、母親のエイミーさんはそれを許さなかった。遺体を何としてもシカゴに戻すよう要求し、それを実現させた。そして埋葬がおこなわれるまでの4日間にわたり、「自分の息子が何をされたかを世界に見てほしい」というエイミーさんの願いにもとづき、遺体を納めた棺桶からは蓋が外され、市内のロバーツ教会で参列者に公開された。ティル少年の前に列を作り、その姿を自分の目で確かめた人々は、のべ10万人にのぼったという。このことは全米に衝撃を与えた。エイミーさんのような行動をとった黒人のリンチ被害者家族は、知られている限りそれまでに誰もいなかったからだった。
 ティル少年の葬儀と同じ日、大陪審は二人の白人を殺人罪で起訴し、報道の目はミシシッピ州サムナーの小さな裁判所に集中した。そして法廷の傍聴席にさえ人種差別が貫かれている南部の実態を、初めて全米が目の当たりにすることになった。ティル少年を家に泊めていたモーゼス・ライト老人は、絶えず命を狙われることになり潜伏を余儀なくされていたが、この法廷に堂々と出廷し、少年を連れて行ったのはこの二人だと被告の白人を指さした。それはアメリカの裁判史上、黒人が白人の有罪を指摘した最初の事例であり、見ていた人々に「電気ショックを受けたような衝撃」を与えたという。ライト老人はこの後、自分の畑で実をつけかけていた綿花も土地もすべてを捨てて、ただちに北部に逃れた。そうしなければ確実に殺されることになるのを、知っていたからだった。
 ティル少年から直接声をかけられたキャロリン・ブライアントは、店に入ってきた北部なまりの「男」が自分の身体に触れ、卑猥な言葉で自分をデートに誘った*31と証言した。それは南部の陪審員たちに対しては、それだけでティル少年が何をされても当然だという印象を与える証言だったと言われている。裁判はわずか5日で終わり、被告には無罪が宣告され、二人の白人は家族と抱き合い、英雄気取りでカメラの前でポーズを作った。14歳だったディランが見たのは、この写真だったのだろうか。
 裁判が終わり、アメリカの法制度にもとづき、同一の犯罪で二重に訴追されるおそれが無くなった後、二人の白人は四千ドルで独占インタビューに応じ、その中でティル少年の殺害を公然と認め、かつそのことを「誇って」みせた。1956年1月の「ルック」誌に掲載されたその記事によるならば、下手人の一人であるマイラムが殺害を決意したのは、ティル少年がどんな脅しにも屈せずに以下のような言葉を叫んだからだったという。

"I'm not afraid of you. I'm as good as you are. I've 'had' white women. My grandmother was a white woman."
 俺はお前らなんか怖くないぞ。俺はお前らと何も変わらないぞ。俺には白人の彼女だって何人もいたんだぞ。俺のばあちゃんは白人だったぞ。

 アフリカ系の人々はこの事件のことを決して忘れなかったし、決して許さなかった。ティル少年の母親のエイミーさんは、自分の息子に起こったことを人々に訴え続ける語り部として残りの人生を送った。1992年のこと、彼女は下手人の一人であるロイ・ブライアントが取材を受けている現場に居合わせた。エイミーさんがそこにいることを知らないブライアントは、自分の人生は「エメット・ティルのせいでめちゃめちゃにされた」と主張し、反省の色もなく、以下のように語ったのだという。

 "Emmett Till is dead. I don't know why he can't just stay dead."
 「エメット・ティルは死んだんだ。なぜ死んだままでいてくれないのか俺には分からない」。

 私はティル少年の最後の瞬間の戦いが、差別主義者たちに以後40年にわたって「悪夢」を見せ続けることになったことを、偉大なことだと思う。それにも関わらずかれらは、「反省しないまま」死んだのだ。ならばさらに歴史の続く限り、人々から永遠に許されることのない罪人として記憶され続けねばならないのは、当然のことだと思う。
 エメット・ティル少年の殺された1955年は、「公民権運動が始まった年」になったと言われている。無残に破壊されたティル少年の遺体と顔を合わせた人々は、誰もが「自分の中の何かが変わったこと」を感じずにはいられなかったと言う。同年12月1日、アラバマ州モンゴメリーでバスに乗っていた黒人女性のローザ・パークスさんが、白人のために席を移動することを強要されてもそれに従わなかった時、頭に浮かんだのはティル少年のことであり、それを思うと「引けない気持ちになった」のだとのことである。バス・ボイコットという最初の「大衆運動」が南部で巻き起こったのは、彼女の逮捕に対する抗議をきっかけとしてのことだった。
 ティル少年のお母さんが「世界中の人に見てほしい」と願ったその遺体の写真は、現在もネットの上で、さまざまな形で公開されている。ショッキングな写真だが、彼のことを取りあげた記事をここまで綴ってきた以上、我々も彼の最期の姿と対面することが必要だと思うし、その姿と向き合うことを通して、差別のない未来への決意を新たにしてゆかねばならないと思う。ページの一番下の部分にその写真を貼りつけて、今回の記事の結びに代えたい。

 太字強調は俺がしました。正直「犬神家の一族」の「ゴムマスクで顔を常時隠していたニセ犬神佐清(青沼静馬)*32」を連想するくらい、顔がリンチでゆがんでいます。当時の南部のリンチのひどさを知るためにも「見てほしい」とは思いますが、あまりにもひどいので見ることを積極的にはお勧めしません。
 「リンチの残虐性」、そして「南部の黒人差別の反人道性」をアピールしたかったとはいえ遺族もよくこの写真の公開に踏み切ったもんです。
 白黒写真なので何とか俺も見られましたが、これがカラーだとちょっときついですね。

公民権運動 エメット・ティル(Emmett Till)④ : アメリカで暮らす:黒人、音楽、カルチャー
 (ボーガス注:ティルの母親)メイミーはその後、再審を求めるため、何千人もの署名を持参してワシントンDCを訪れた。しかし、当時の大統領、アイゼンハワー*33(President. Eisenhower)とFBI長官のジョン・エドガー・フーヴァ―*34(John Edgar Hoover)はその要請を認めなかった。アイゼンハワーはメイミーに対して、返答すらしなかったそうだ。
 エメット・ティルの死から100日後、アラバマ州モンゴメリーで、ローザ・パークス*35Rosa Parks)がバスの運転手の命令に背き、白人に席を譲ることを拒んだ。彼女はこのときのことを、「エメット・ティルのことを考えると、席を立つことができなかった」と語っている。
 エメット・ティルの死(ボーガス注:および理不尽な無罪判決)は、人々がタグを組んで理不尽な社会に立ち向かうきっかけ、公民権運動の幕開けとなったのだ。

 まあティル少年が「14歳で殺された」という点が「彼がリンチ被害者の中で大きく取り上げられる理由」なのでしょう。
 阪神教育闘争での「金太一少年(享年16歳)」に似ているといえるでしょう。
 あるいは15歳で拉致された横田めぐみ氏ばかりが拉致被害者としてマスコミで騒がれるのと、あるいは「千葉のベトナム人少女殺害事件(享年9歳)がテレビで騒がれた」のと、ある意味似ているでしょうか。

古くて新しいツアー 米公民権運動の跡を巡る:朝日新聞GLOBE+
 アラバマ州モンゴメリーに行き、ローザ・パークス博物館を大勢の学生たちと一緒に見学した。
 「公民権運動の父」と呼ばれるキングが暗殺されたのは1968年4月4日だった。あれから、ちょうど50年。いま米国では、公民権運動の跡を訪ねるツアーが盛んに行われている。それを確かめるべく、私もモンゴメリーでツアー参加を試みた。
 2018年1月、「U.S.Civil Rights Trail」(米国公民権トレイル)というキャンペーンが始まった。
 1950年代から60年代にかけて起きた公民権運動の足跡を訪ねる、という企画で、ノースカロライナ州グリーンズボロのF.W.ウールワース(訳注=60年2月、小売り百貨店F.W.ウールワースにある軽食堂で、白人だけに認められていた席に黒人大学生がsit―in=座り込み=と呼ばれる非暴力の抗議活動を始めた)からリトルロック・セントラル高校(アーカンソー州)における人種差別廃止運動の中心になったデージー・ベイツの家まで、14州110カ所が公民権トレイルの対象になっている。
 この公民権トレイルの監督責任者であるアラバマ州観光局長リー・センテルによると、2018年中に500万人のツアー客を見込んでいる。ツアー客が落とす金は725万ドルにのぼるだろう、とセンテルは言った。
 公民権トレイルもさることながら、人種問題や差別を巡る事件が頻発している今日、国内各地にある歴史博物館などで、「公民権」をテーマにした企画や興行やツアーなどさまざまな催しが行われている。
 「いまアメリカで何が起きているか。(ボーガス注:白人極右が支持するトランプの大統領当選によって)当時(1950年代~60年代)とよく似た状況になっている」。
 バーミングハム公民権協会のテイラーは言った。
 「反差別の行動に出ている人たちは、歴史のなかにその原点を探ろうとしているのです」
 公民権運動の足跡を訪ねるツアーや催しをいくつか紹介すると――。
 テネシー州ナッシュビル*36ノースカロライナ州グリーンズボロのF.W.ウールワースで黒人大学生が座り込みを決行した直後、ナッシュビルウールワース・オン・フィフスの軽食堂でも、同じ座り込みの抗議活動が始まった。下院議員のジョン・ルイス民主党ジョージア州選出)も座り込み活動で逮捕された学生の一人だった。ナッシュビルの店は最近、新装開店した。店内には座り込み抗議行動の写真も飾られていて、当時の店内の様子も分かるようになっている。
 ウールワース・オン・フィフスではライブミュージックも催されている。また月に一度、「ザ・ビッグ・アイデア」というステージ・パフォーマンスを上演している。俳優のバリー・スコットを中心に、客も参加して公民権運動の闘士たちの生涯を振り返る。6月はローザ・パークス(訳注=アラバマ州モンゴメリーアフリカ系アメリカ人女性。1955年、公営バスの運転手が白人に席を譲るよう命じたが、拒んで逮捕された。これを機にバスのボイコット運動が広がる。冒頭の博物館は彼女の名を冠している)を取り上げる。
 ルイジアナ州ニューオーリンズでは、プレス通りが新たに延長され、その部分にホーマー・プレッシーの名前をつけた。プレッシーは1890年代に白人専用列車に乗車し、鉄道車両での人種分離を定めた州法に違反したとして逮捕、投獄された。プレッシーは連邦最高裁まで闘ったが、最高裁は州裁判所で出された「separate but equal」(分離すれど平等)の裁定(いわゆる「プレッシー対ファーガソン裁判」)を支持した。旅行会社「Tours by Judy」による「ニューオーリンズ公民権運動ツアー」は、フレンチクオーターにあった奴隷オークションの場所からプレッシーの墓、そこからアフリカ系アメリカ人活動家が平等な扱いを求めて座り込み運動を展開した軽食堂や商店などがあったカナル通りを、当時の状況などを説明しながら巡る。

 太字強調は俺がしました。坂下論文も指摘していますが「リンチの記憶化」には一方ではこうした「観光的思惑」も多少はあります。「ダークツーリズムや聖地巡礼*37の一種」とでもいえるでしょうか。
 いわゆるダークツーリズムには「他人の悲劇で金儲けか」的な気持ちもないではないですが、もちろん忘れ去られるよりはましだとは思います。

悲劇の現場に学ぶ「ダークツーリズム」って何だ|トラベル|NIKKEI STYLE
 日本で「ダークツーリズム」という言葉が一般に知られるようになったのは、2013年11月。2013年版の「ユーキャン新語・流行語大賞」で候補50語のリストに加わったことがきっかけだ。アカデミックな研究は欧州で1990年代から始まっていたようだが、日本では2013年に「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」(東浩紀津田大介ら著、ゲンロン刊)が出版されて関心を集めた。1986年に大規模な原子力発電所事故を起こした地に足を踏み入れたルポルタージュだ。
 関心の広がりを受けて、その後も「手引書」の出版が相次いだ。2015年に出た「DARK tourism JAPAN 産業遺産の光と影」(東邦出版刊)はタイトルにある通り、国内の鉱山や工場跡を取り上げている。選ばれた場所は、公害問題の原点ともいわれる足尾銅山や、(ボーガス注:朝鮮人徴用工問題で知られる)石炭産業で栄えた軍艦島三井三池炭鉱などだ。
 足尾銅山は有名観光地の日光(栃木県)にあり、紅葉狩りや温泉と組み合わせて訪ねやすい。トロッコに乗って坑道に入り、往時の採掘の様子を疑似体験できる。世界文化遺産に登録された端島炭坑長崎市、通称軍艦島)では上陸もできる観光ツアーが組まれている。炭鉱跡以外に日本最古の鉄筋コンクリート造りの7階建てアパートといった建築も見どころ。実写版映画「進撃の巨人」では軍艦島がロケ地となっている。
 一方、「世界ダークツーリズム」(洋泉社編集部編、同社刊)は視野をグローバルに広げた。表紙にアウシュビッツ強制収容所の外観をおいたのをはじめ、9.11米同時テロに見舞われたニューヨークの「グラウンド・ゼロ」、民族紛争の続いたサラエボなどを紹介。旧世界貿易センタービルの倒壊から今年でちょうど15年。周辺では大規模な再開発が進む半面、同ビルの2棟があった場所は、ぽっかりと穴が開いたようなプールに滝が流れ落ちる追悼施設になっている。犠牲者の遺品や写真などを展示してあるメモリアルミュージアムもある。
 36カ所をまとめた「人類の悲しみと対峙する ダークツーリズム入門ガイド」(いろは出版編、同社刊)はかつて自動車の街として繁栄した米国デトロイト市、映画「キリング・フィールド」で描かれたカンボジアなどを取り上げた。「ダーク」という言葉に引きずられて、戦争や災害のイメージを抱きがちだが、デトロイト軍艦島のように産業の盛衰に翻弄された場所*38も近年のツーリズム対象となっている。日本からのリゾート客が多いサイパン島でも追い詰められた日本人が身を投げた「バンザイクリフ」が紹介されていて、観光地のすぐ足元に悲しい歴史が横たわっていることに気づく。
 一般的にダークツーリズムの主要な目的地と位置づけられているのは、自然災害や戦争、大事故、差別などにまつわる場所だ。具体的にはこれまでに名前を挙げた場所に加え、ベルリンの壁アンネ・フランクの家(アムステルダム)などが含まれる。伊勢志摩サミットの際、広島市を訪れたオバマ米大統領は、歴史的なスピーチの場となった広島平和記念公園への国際的な関心を一段と高めた。

世界で注目「ダークツーリズム」 取り入れ方を知り、いつもとちょっとちがう旅に:朝日新聞GLOBE+
 戦争や災害といった人びとの悲しみの記憶を巡る旅「ダークツーリズム」が世界で注目されています。歴史の「影」に触れることでどんな風に世界のとらえ方が変わるのでしょうか?また、旅の中にどう取り入れていけばいいのでしょう。昨年、(ボーガス注:「ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅」(幻冬舎新書)、「ダークツーリズム拡張―近代の再構築」(美術出版社)という)ダークツーリズムの書籍2冊を著した観光学者の井出明・金沢大准教授に話を聞きました。
■井出
『ダークツーリズムは1990年代にイギリスで提唱され始めました。ダークツーリズムスポットとして有名なのは、ポーランドにあるナチス・ドイツの「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」です。多くの人が訪れるようになり、ここ2001年からの15年間でで入場者数が約3.5倍にも増えています。』
『不都合な歴史はときに隠されることもあります。たとえば、長崎に落とされた原爆では、日本に強制連行されていた中国人受刑者も亡くなりましたが、当初は公園内に記述がほとんどありませんでした。広島も、原爆の被害に遭った地でもあり、軍都として繁栄していた場所でもあります。そういった歴史の両面性を受け入れなければ、また戦争といった悲劇を繰り返してしまう可能性があります。』
『(ボーガス注:阪神大震災東日本大震災など)被災地でも、震災の遺構を残すかどうかが議論になっています。復興に向けた「明るく元気な被災地」というストーリーに対しては、遺構の存在は邪魔になるかもしれませんし、遺構を見て悲しい気持ちになる人もいるかもしれません。ただ、「人類の教訓として残さないと」という意見も少なからずあります。』
リトルトーキョーには「全米日系人博物館」があり、アメリカの日系人社会の全体像が分かります。1941年の真珠湾攻撃で、日系人は財産を取り上げられ収容所に入れられることになりました。その収容所の小屋が移設・展示されており、当時の暮らしのつらさが垣間見えます。
 また、アメリカに忠誠心を示すためあえて激戦地に赴いた「442連隊」が戦争を通じて受け入れられていったことが分かります。その一方で、「命がけで戦争に行かないと、アメリカのメンバーだと認めない」という多数派の圧力も感じ取れるわけで、日系人を通して、アメリカにおける移民やマイノリティの存在について深く考えさせられます。』
■記者
『おすすめのダークツーリズムスポットはありますか?』
■井出
『オーストラリアといえば、コアラやカンガルーのイメージかもしれませんが、「囚人国家」としての成り立ちについては非常に興味深いです。もとをたどるとオーストラリアは、産業革命期のロンドンでの「犯罪者」を送り込んだ流刑地でした。オーストラリアはその歴史に正面から向き合おうとしています。世界遺産となった「オーストラリアの囚人遺跡群」がその一例です。先住民アボリジニへの迫害の記憶も残そうとしています。』
『また、「国境」という概念を考える意味では、アイルランドがおすすめです。過去に植民地支配を受けたり、北アイルランドを巡って血が流されたりしました。拠点都市には、「イギリスからどんなひどいことをされたか」を残す像が建っています。』

黒人リンチで4000人犠牲、米南部の「蛮行」 新調査で明らかに 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
 米国の人種差別に基づく暴力の歴史に関する新たな調査で、米南部では1877年から1950年までの間に4000人近い黒人が私刑(リンチ)によって殺されていたことが明らかになった。73年間にわたり1週間に平均1人以上が殺されていた計算になる。
 調査を行ったアラバマ(Alabama)州の人権団体「公正な裁きのイニシアチブ(Equal Justice Initiative)」は、現代の人種差別や刑事司法における問題は、米国の暴力の過去に根差すものだと指摘している。
 同団体が数年かけて行った調査の結果、1877~1950年に南部12州で私刑によって殺害された人数が、従来の調査結果よりも700人多い3959人であることが分かった。うち大半は1880~1940年の間に発生していた。
■「ピクニックしながらリンチを観賞」
 またスティーブンソン氏によれば、私刑のうち20%は、驚くことに、選挙で選ばれた役人を含む数百人、または数千人の白人が見守る「公開行事」だった。「観衆」はピクニックをし、レモネードやウイスキーを飲みながら、犠牲者が拷問され、体の一部を切断されるのを眺め、遺体の各部が「手土産」として配られることもあったという。
 例えば1904年にはミシシッピ(Mississippi)州*39ダッズビル(Doddsville)で、黒人男性ルーサー・ホルバート(Luther Holbert)が、白人の地主を殺害したとして、妻とされる黒人女性と一緒に数百人の前でリンチされた。2人は木に縛り付けられて指を切断され、暴漢たちはその指を配った。ホルバートは耳も切り落とされ、頭蓋骨が砕けるまで殴打された。さらに暴漢たちは大きなコルク栓抜きで2人の体に穴を開け、肉の塊を取り出したという。
■現在も黒人に偏る死刑判決
 米国では現在も、逮捕、有罪、投獄、死刑の対象となるのは黒人に偏っている。米人口に黒人が占める割合は13%でしかないにもかかわらず、1976年以降、米国で刑が執行された死刑囚の34%が黒人で、現在収監されている死刑囚も42%近くが黒人だ。
 スティーブンソン氏は過去のリンチと、現在の米国の刑事司法制度の問題、そして警官の手で殺されている人の中で圧倒的に黒人が多いこととの関連性を指摘。「リンチが死刑になり、投獄になっている。悪者扱い、犯罪者扱いが有色人種に偏っているのだ」と語る。

 太字強調は俺がしました。まあローマ時代は「ライオンと剣闘士(奴隷)の殺し合い」なんぞ見て喜んでたわけですから、ある意味「理解できる話」です(もちろん「肯定する」ではない)。
 「同じ人間」だと思わなければそういうことができるという話です。

「人を呪わば穴二つ」の歴史認識問題日本政策研究センター代表 伊藤哲夫*40
 最近、新聞などで報道されたことでもあるので、ご存じの方も多いと思うが、米国の話である。米国の人種差別に基づく暴力の歴史に関する新たな調査で、米南部では1877年から1950年までの間に、4000人近い黒人がリンチにより殺されていたことが明らかになった、というものだ(AFP、2月12日)。
(中略)
 おぞましさに、引用するだけでも気分が悪くなるが、しかしここであえてこんな記事を紹介したのは、こうしたおぞましい過去をもつアメリカ人が、一体どんな顔でわが国の慰安婦問題に対し、「性奴隷」だの、「女性の人権の侵害」だの、といった一方的な批判をすることができるのか*41、と逆に問うてみたいからだ。

 「日本ウヨって本当にバカなんだな」とあきれますね。むしろ「日本の慰安婦は批判しますが、過去の米国の黒人リンチ殺人は批判しません」のほうがよほどおかしいでしょうよ。どっちも批判するというのがまともな人間です。
 そしてこのウヨの物言いをまねするなら

 アイヌ同化というおぞましい過去を持つ日本ウヨが一体どんな顔で中国の少数民族チベットウイグル)支配を人権侵害だの差別だのといった一方的な批判をすることができるのか、と逆に問うてみたい

ところです(もちろんウヨのでたらめを非難してるだけであって中国擁護ではありません)。
 それはともかく、こういうあほな理解ができるのも「人権擁護のためなら自国の過去の悪(今回は過去の米国の黒人リンチ殺人)も暴く」という認識がどうしても「南京事件否定論河野談話否定論など自国の悪の否定に励む」日本ウヨにはできないからでしょう。
 むしろ「こうした自国の悪の直視」こそが「米国民主主義の強さ」であるわけです。まあ、米国も「地上の楽園」ではないので「トランプが大統領で無茶苦茶やってる」とかいろいろ問題点はありますし、そう言う点はもちろん俺も批判します。しかし一方ではこうした「優れた点」もあるわけです。

人種差別によるリンチ殺人を犯罪と規定、米上院で歴史的法案可決 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
 米上院は19日、人種差別に基づくリンチ殺人を犯罪として連邦法で禁じる法案を、史上初めて可決した。これまで約100年間にわたって法制化が試みられてきたが、上院では一度も可決に至っていなかった。
 今年に入ってアフリカ系米国人の上院議員3人(民主党2人、共和党1人)が提出した法案は、発声投票*42により全会一致で可決された。
 (ボーガス注:法案提出者の一人であるアフリカ系米国人で民主党所属の)コリー・ブッカー(Cory Booker)上院議員は、「上院にとって非常に意味深い瞬間」だったとコメント。「米国史における過ちを認め、残虐に殺された被害者らを追悼し、上院が1世紀にわたり200回も試みた末に正しいことを成し遂げた歴史的な日を後世の人々に残す」機会だと語った。
 可決された「Justice for Victims of Lynching Act of 2018(2018年リンチ被害者のための司法手続法)」は、リンチ(私刑)による殺人を南北戦争(American Civil War)後に起きた「人種差別の究極的な表現」だと非難。1882~1968年に米国では少なくとも4742人がリンチで殺され、そのほとんどは黒人だったと指摘している。
 こうしたリンチ殺人では、加害者の95%が国家や地元当局の処罰を免れていた。
 下院では1920~40年に3回、リンチ殺人を犯罪とする法案が可決されていたが、上院では*43歴代7人の大統領による働き掛けにもかかわらず可決に至らず、2005年に上院はこれまでの対応を謝罪する声明を出している。今回の法案は下院に送られるが、年内に審議入りするかは不明。

 「ヘイトクライム」についての重要な法案なのでしょうが「人種差別に基づくリンチ殺人を犯罪として連邦法で禁じる法案を、史上初めて可決」というのは「???(リンチも殺人もそもそも犯罪では?)」ですね。
 「人種差別に基づくリンチ殺人(ヘイトクライム)」を「一般の殺人とは違う枠組み」で処罰(当然、厳罰化?)しようとしたことが「画期的」なんですかね。
 しかし「下院では1920~40年に3回、リンチ殺人を犯罪とする法案が可決されていたが上院では今回の可決が初」てのがすごいですね。
 「何という黒人側の執念か」とも思うし、そうした黒人運動側の動きを徹底的につぶしてきた「白人ウヨ側の執念もすごい」わけです。
 「執念対執念のぶつかりあい」つう感がありますね。
 なお、人種差別によるリンチ殺人を犯罪と規定、米上院で歴史的法案可決 写真1枚 国際ニュース:AFPBB Newsに名前が出てくるコリー・ブッカー上院議員ですが

米民主党のブッカー上院議員、大統領選への立候補を表明:朝日新聞デジタル
 米民主党ニュージャージー州選出のコリー・ブッカー上院議員(49)が1日、2020年の大統領選に立候補することを表明した。先日、立候補表明した(ボーガス注:米国初の黒人女性大統領を目指す)カマラ・ハリス*44上院議員に続き、2人目の黒人候補者となる。

民主のブッカー氏が出馬表明 米大統領選 最左派、黒人2人目めざす - 産経ニュース
 米民主党のコリー・ブッカー上院議員(49)=東部ニュージャージー州選出=は1日、2020年の大統領選に出馬すると表明した。下馬評では有力候補の一人とされ、オバマ前大統領に続く2人目の黒人米大統領を目指す。
 民主党からの出馬表明はブッカー氏で9人目。同党上院議員としては4人目で、今後も20人以上が同党の大統領候補指名争いに名乗りを上げると目されている。
 同州ニューアーク市長を経て13年から上院議員を務めている。「庶民の味方」を標榜(ひょうぼう)し、女性の権利拡大や同性婚支持を唱えるなど党内でも最左派リベラルの一人に位置づけられる一方、金融界から多額の献金を受け取っているとされ、同党支持層に広く受け入れられるかが課題となっている。

ということでそこそこ有名な議員のようですね。人種差別によるリンチ殺人を犯罪と規定、米上院で歴史的法案可決 写真1枚 国際ニュース:AFPBB Newsが報じる「黒人リンチ処罰法案の上院への提案&可決」も「大統領選予備選挙出馬前に黒人支持層のブッカー支持を強める」という「スケベ心」は当然あるでしょうが、「法案提出&可決」それ自体は悪いことではないでしょう。
 彼が「第二のオバマ」「第二のサンダース」として「予備選で勝利し民主党大統領候補(オバマ*45)」「勝利できないまでも善戦(サンダース)」するかどうか、それとも現時点での「本命バイデン元副大統領」「対抗サンダース上院議員」などの壁を結局打破できないで終わるのか、今後注目したい。まあ、こればかりは最後の最後まで結果が分からないかと思います。

■奇妙な果実(ウィキペディア参照)
 ビリー・ホリデイ(1915~1959年)のレパートリーとして有名な、アメリカの黒人差別を告発する歌である。
■歌詞
 題名や歌詞の「奇妙な果実」とは、リンチにあって虐殺され、木に吊りさげられた黒人の死体のことである。歌詞は「南部の木には、変わった実がなる」と歌い出し、木に吊るされた黒人の死体が腐敗して崩れていく情景を描写する。
 「奇妙な果実」は、ニューヨーク市ブロンクス地区のユダヤ人教師エイベル・ミーアポルによって作詞・作曲された。1930年8月、彼は新聞で二人の黒人が吊るされて死んでいる場面の写真を見て衝撃を受け、これを題材として一編の詩「苦い果実(Bitter Fruit)」を書き、「ルイス・アレン」のペンネームで共産党系の機関紙などに発表した。ミーアポルはアメリ共産党党員であり、フランク・シナトラのヒット曲を生みだすなど作詞・作曲家ルイス・アレンとして活躍する一方で、ソ連のスパイで死刑になったローゼンバーグ夫妻の遺児を養子として引き取るなど、社会活動も行った。
ビリー・ホリデイとの邂逅
 黒人の虐殺が日常茶飯事であったこの当時、それを告発する歌を黒人女性が唄うのはあまりにも危険なことであったが、ビリーは1939年からこの歌をレパートリーに加え、ステージの最後には必ずこの曲を唄うようにさえなる。

 小生は「美味しんぼ」で紹介されてたから知ってる程度の知識しかないですが、そういえば日本でも有名なビリー・ホリデイ「奇妙な果実」は黒人へのリンチ殺人がテーマでしたね。

「美味しんぼ」 | fukao.info
 「美声の源」(3巻7話)でソウルフードの話が出てきます。ここで山岡がオペラ嫌いのジャズファンだったと明かされるわけです。
 ジャズ歌手サディー・フェイガンがビリー・ホリデイの名曲「奇妙な果実」を歌っています。サディー・フェイガンは架空のジャズ歌手ですが、この名前、実はビリー・ホリデイの母親の名前です。本当の発音は「セイディー」という感じですが"Sadie"とつづります。ビリー・ホリデイは芸名で本名はエリノラ・フェイガンといい、その母がセイディー・フェイガンなわけです。もちろんセイディーはジャズ歌手ではありません。

知られざるブラックカルチャー★Chicago Insiders 「SOUL FOOD 夜話」VOL.4 by Yoko Umeda
 「ソウルフード」について書かれた本はこれまで機会あるごとに、本棚にコレクトしてきました。当然のことながら日本語の出版物は少ないのです。上原善広*46著「被差別の食卓*47 (新潮新書)」ぐらい。英語のものは積みあげたら、2メートルぐらいはあります。
 意外なところでは「美味しんぼ」の3巻7話「美声の源」でも紹介されています。サディ・フェイガンという架空のソウルシンガー(実はこの名前はビリー・ホリディの母親と同じです)がビリー・ホリディの「奇妙な果実」を熱唱し、楽屋に山岡士郎たちを招いて贓物と豆の煮込みを御馳走するのです。
 おそらくこの料理は「チトリンズ」と呼ばれるソウルフード版のモツ煮込みなのでしょう。内臓といっても、正確には小腸のことで、スパイスを利かせて長時間煮込んであります。
 豚はモツだけではなく、耳や内臓やテールなど、ありとあらゆる部分を食します。「マウンテン・オイスター」というのは豚の睾丸料理です。奴隷たちの主人だったら、捨ててしまう部分ばかりです。
 映画で有名になったマーガレット・ミッチェルの大河小説「風と共に去りぬ」でも、南部の奴隷たちが好んだ料理がたびたび登場します。主人公のスカーレット・オハラが育った家では、黒人のコックが料理した南部料理をスカーレットたちも食べていました。
 けれども、この小説では一度もそうした料理を「ソウルフード」と呼んではいません。
 世間一般で「ソウルフード」という言葉が使われだしたのは、1960年代のこと。雑誌「Soulbook」が発刊され、ジャズでは「ソウル・ブラザース」や「ソウル・ステーション」といった曲がヒットして、拳をふりあげて挨拶する「ソウル・シェイク」がはやったり、それまでの「ブラック」ではなく、「ソウル」という表現がブラック・ナショナリズムの代名詞として使われるようになったのです。
 アラバマ出身で、ニューヨークで名シェフになったボブ・フェリーズは著作「ソウルフード」で、次のように語っています。
ソウルフードについて聞かれると、こう答えることにしているのです。
「私は40年以上も“ソウル”を料理してきました。ただ故郷ではそう呼ばなかっただけのことです。私たちはただ本当に美味しい料理、あるいは南部料理と呼んでいました」』
 たしかに黒人奴隷たちが雇われていたのは南部の大農園でしたから、「ソウルフード」と「南部料理」とは切っても切り離せない関係にあるといえるでしょう。
 とはいえ、(ボーガス注:南部料理でも)ケイジャン料理ともなればルーツはアフリカではなく、フランスなのですから一口に「ソウルフード」といっていいものなのかどうか。

「被差別の食卓」がとてもいい - mmpoloの日記
 上原善広「被差別の食卓」(新潮新書)がとても良かった。冒頭、幼い頃「あぶらかす」が好きだったと書き始めている。母の料理だった。そんなあぶらかすが一般的な食材でないと知ったのが中学生の頃だった。それは被差別部落の食材だった。著者は1973年、大阪市南部にある更池(さらいけ)という被差別部落に生まれたと書いている。そこでは現在でも自分たちの地区のことを「むら」と呼んでいる。中上健次の「路地」と同じだ。
 上原は「しかし」と書く、「成長するにしたがって、わたしはそのような環境に育ったことを、徐々に誇りに思うようになったのであった」。本書は全編がこの姿勢で書かれている。みごとなものだ。そして上原は、世界各地の被差別の地区を訪ね、その地区の料理を味わうという「取材」を開始する。
 本書に紹介されているのは、アメリカ南部の黒人ハーレム、ブラジルの黒人奴隷の末裔がひっそり住む地区、ブルガリアイラクのロマ(ジプシー)たち、ネパールの不可触民サルキ、そして日本の被差別部落
 ハーレムではチトリングス(豚のもつ煮)を注文して黒人の店員に「え、あんたがチトリングス食べるの?」と驚かれる。黒人独自の料理を「ソウルフード」と呼ぶ。ソウルフードには、フライドチキン、ポークチョップ、BBQポーク、キャットフィッシュ(なまず)、ハムホック(豚足)、チトリングス、クロウフィッシュ(ザリガニ)などがある。
 ことにフライドチキンは最も代表的なソウルフードだという。なぜかとの質問にアメリカ南部で知り合った黒人女性が教えてくれた。

 ほら、鶏の手羽先ってあるでしょ。フライドチキンが奴隷料理だったというのは、あの手羽先をディープ・フライしていたからなのよ。白人農場主の捨てた鶏の手羽先や足の先っぽ、首なんかを、黒人奴隷たちはディープ・フライにしたの。長い時間油で揚げると、骨まで柔らかくなって、そんな捨てるようなところでも、骨ごとおいしく食べられるようになる。焼くほど手間はかからないし、揚げた方が満腹感あるしね。

 本場でおいしいフライドチキンを食べ慣れて日本に帰ってきて食べたFF店のフライドチキンが、あまりにまずいので驚いたとある。
 ロマ固有の食べ物ではハリネズミがある。ブルガリアではハリネズミ料理をつくってもらった。その調理方法が具体的に書かれている。ハリネズミのさばき方が面白い。肉はスッポンのような味で、野生動物特有の臭みがあって、あまり食がすすまない。
 イラクのロマは悲惨な状態で仕事はない。サダム・フセインはロマなど少数民族を手厚く保護していて住宅も与えていたが、米英によってフセインが失脚した後追い出されてしまった。現在は乞食と売春をしている。
 ネパールにもインドと同じくカースト制度がある。その最下層の不可触民を訪ねる。そのサルキの部落へ行った。

 その不可触民は「サルキ」という。かつてのエタ・皮多(かわた)と同様、死牛馬の処理と皮革加工を生業としている不可触民だ。

 サルキは普通のインド人やネパール人などヒンドゥー教徒が食べない牛肉を食べる。そのことについて、

 牛を食べることをタブーとするため、不可触民がその役割を担わされることになった。牛をタブーとすることで、それに関わる人々を穢れていると"見せしめ"にすることで、一般民衆に牛肉食を忌避させる思想を広めさせる。(中略)
 特に牛の解体や皮革加工は、殺生を諫める教えを信じる庶民には、視覚的にも直接うったえる力をもっている。庶民に"浄・穢"の思想を身につけさせるには、かっこうの見世物になったと考えられている。だから牛の解体をするサルキは非常に穢れているとして、不可触民の間では最底辺におかれている。

 さて、最後に大阪の被差別部落の食べ物が紹介される。冒頭で紹介されたあぶらかすというのは、

 あぶらかすて何や言われたら、そうやな、牛の腸を炒り揚げたものということになるわな。屠場から持ってきた新鮮な腸を、牛脂で丁寧にカリカリになるまで揚げる。単純いうたら単純やね。

 「あとがき」で上原はこう書く。

 被差別部落を書きたいと思ったもともとの動機は、それが独りでできる解放運動だと思ったからだった。現在はさらに広義なヒューマンインタレストから社会を見ているのだが、被差別部落を見るときや書くときは今でも、そんなことがなんとなく念頭にある。
 閉鎖的でネガティブなイメージをもたれることの多い被差別部落の問題を、自由で世界的な視点から描けば、広がりを得て面白い読み物となり、多くの人たちに知ってもらえるのではないか。本書にはそんな思いもあった。

 上原のこの意図は完全に成功している。むかし台湾の映画ホー・シャオシェン監督の「悲情城市」を見て、それまで全く興味のなかった台湾がいっぺんに好きになったことを思い出した。知ることが理解に繋がり理解が好感に変わっていくのではないか。上原の優れた仕事に敬意を表したい。

*1:著書『近世日本とルソン:「鎖国」形成史再考』(2012年、東京堂出版

*2:いつから織田政権なのかといえば一般には「1568年に足利義昭を幕府将軍につけ、義昭の後見人という建前で事実上の天下人になったときから」でしょうね。「義昭を担いだ信長に『事実上の天下人』の地位を奪われた三好三人衆とは違い」これ以降、本能寺の変で死ぬまで、「事実上の天下人」という地位を信長は保持し続けるわけです。

*3:著書『キリシタン信仰史の研究』(2017年、吉川弘文館)など

*4:著書『新訂増補 キリシタン時代対外関係の研究』(2017年、八木書店)など

*5:1868~1966年。東京外国語学校(現:東京外国語大学)校長、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)校長、上智大学学長などを歴任(ウィキペディア「村上直次郎」参照)

*6:1921~1997年。 京都外国語大学名誉教授。著書『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)、『南蛮史料の発見』(中公新書)など(ウィキペディア松田毅一」参照)。

*7:著書『イエズス会士とキリシタン布教』(2003年、岩田書院

*8:著書『ケンペルとシーボルト:「鎖国」日本を語った異国人たち』(2010年、山川出版社日本史リブレット人)

*9:著書『近世日本とオランダ』(1995年、放送大学教育振興会)など

*10:著書『近世日清通商関係史』(2015年、東京大学出版会

*11:著書『漂着船物語:江戸時代の日中交流』(2001年、岩波新書)など

*12:著書『中国の海商と海賊』(2003年、山川出版社世界史リブレット)など

*13:著書『竹島問題とは何か』(2012年、名古屋大学出版会)、『竹島:もうひとつの日韓関係史』(2016年、中公新書)など

*14:著書『書き替えられた国書:徳川・朝鮮外交の舞台裏』(1983年、中公新書)など

*15:著書『朝鮮通信使』(2007年、岩波新書) など

*16:東京大学史料編纂所教授。著書『戊辰戦争』(2007年、吉川弘文館)、『幕末日本と対外戦争の危機:下関戦争の舞台裏』(2010年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*17:前後の文脈から「フォンド=公文書」の意味だろうと想像はできますが説明くらいはしてほしいところです。

*18:1931~1940年まで参謀総長

*19:著書『足利尊氏足利直義』(2018年、山川出版社日本史リブレット人)

*20:東京大学名誉教授(行政法学)。著書『行政組織法の諸問題』(2001年、有斐閣)、『法治主義の諸相』、『行政法概念の諸相』(2011年、有斐閣)など

*21:大阪大学名誉教授(中国史)。著書『華僑』(1995年、岩波新書)、『宋代江南経済史の研究』(2001年、汲古書院)など

*22:「エルミタージュ」は、もともとは「離宮」という意味だが現在は美術館となっている。

*23:著書『近藤重蔵と近藤富蔵』(2014年、山川出版社日本史リブレット)など

*24:古賀どう庵の父

*25:林述斎の弟子。述斎死後、昌平黌の儒官(総長)を務めた(ウィキペディア佐藤一斎」参照)。

*26:文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にかかわった。また、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政異学の禁)。述斎は、朱子学を基礎としつつも清朝考証学にも関心を示し、『寛政重修諸家譜』、『徳川実紀』、『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した(ウィキペディア「林述斎」参照)。

*27:1811年(文化8年)には朝鮮通信使対馬来聘に侍読として随行している(ウィキペディア「松崎こう堂」参照)。

*28:「古くて新しいツアー」つう表現で思い出しましたが、以前は「近くて遠い国(韓国)」なんて表現がありましたね。

*29:暗殺現場となったモーテルは国立公民権博物館となっている。アメリカではキングの栄誉を称え、レーガン政権下の1986年よりキングの誕生日(1月15日)に近い毎年1月第3月曜日をキング牧師記念日として祝日としている。またアメリカ国内の多くの大都市に「マーチン・ルーサー・キング通り」が作られた。なお、彼の死後、ジョン・エドガー・フーヴァー率いるFBIからの執拗な脅迫を受けていたことが分かっている。FBIが盗聴・録音したキングの妻以外との女性関係を示す内容の録音テープとともに送られた脅迫状は、キングを「完全な詐欺師」「邪悪で異常な野獣」「おまえに残された道は一つだけだ。分かっているだろう」などと罵り、不倫関係について暴露すると脅しが書かれており、キングが自ら表舞台から姿を消すか、自殺に追い込むことを狙ったものとみられる(ウィキペディアマーティン・ルーサー・キング・ジュニア」参照)。

*30:著書『死の床に横たわりて』、『響きと怒り』(講談社文芸文庫)、『アブサロム、アブサロム!』(講談社文芸文庫集英社文庫)、『八月の光』(光文社古典新訳文庫新潮文庫)など

*31:ただし米司法省、1955年の黒人少年殺害事件の捜査を再開 写真2枚 国際ニュース:AFPBB Newsによれば後に虚偽発言だと認めたそうですが。

*32:犯人が誰か書いてないとはいえこれはやはりネタばらしなんでしょうね。あの「顔の見分けのつかない人物」が「本物の佐清なのか?」「偽物なら誰なのか?」「偽物だとしたら本物の佐清はどこにいるのか?。戦争でもはや死んだのか?。生きているならなぜ姿を現さないのか?」というのはあの小説において重要な謎ですから。

*33:ヨーロッパ戦域連合国軍最高司令官、陸軍参謀総長NATO軍最高司令官などを経て大統領

*34:1895~1972年。ルーズベルトトルーマンアイゼンハワーケネディ、ジョンソン、ニクソンと6人の大統領の下で、1935年の就任後、1972年に死去するまでの37年間、FBI長官を務めた。歴代大統領が彼を更迭できなかったのはFBI長官ポストに固執した彼が「更迭したら政権に打撃をもたらすスキャンダルを暴露する」と脅していたからだという風説がある怪物。なお、現在ではFBI長官ポストには10年の任期制限がある(ウィキペディア「ジョン・エドガー・フーヴァ―」参照)。

*35:1999年、アメリ連邦議会はローザに議会金メダルを贈った。またアラバマ州モンゴメリーにはローザ博物館も設立された。ブッシュ子大統領は、バス起立拒否50周年記念日にあたる2005年12月1日、公民権運動記念としてローザの彫像を連邦議会議事堂内の国民彫像ホールに設置する法律に署名し、2013年2月27日、ホールに彫像が設置された(ウィキペディアローザ・パークス」参照)

*36:テネシー州の州都

*37:日本で「聖地巡礼」というと「フジテレビ『北の国から』の北海道富良野市」「アニメ『らき☆すた』での埼玉県鷲宮神社」など、「アニメやテレビドラマ関係での観光旅行の俗称」であることが多いですが。

*38:まあ軍艦島の場合「衰退して廃墟(デトロイトの場合)」という意味だけでなく「朝鮮人徴用工」という意味での「ダークさ」もありますが。

*39:エメット・ティル殺害もミシシッピ州ですしミシシッピはそういうリンチ殺人が多かったようですね。

*40:日本政策研究センター代表、日本会議常任理事、日本李登輝友の会常務理事というプロ右翼活動家。「日本政策研究センター」 改憲ビラで本音/9条に自衛隊明記で「普通の安全保障」などによれば安倍晋三のブレーンの一人とされる。著書『「憲法神話」の呪縛を超えて』(2004年、日本政策研究センター)、『憲法はかくして作られた』(2007年、日本政策研究センター)、『教育勅語の真実』(2011年、致知出版社)、『明治憲法の真実』(2013年、致知出版社)など(ウィキペディア伊藤哲夫」参照)

*41:ここで伊藤が「慰安婦は何ら悪くない」と書いてないこと、「アメリカだって黒歴史(今回は黒人リンチ殺人)があるじゃないか!」と書いていることに注意しましょう。要するに内心では慰安婦の違法性、反社会性を認めてるのでしょう。こういうのを「語るに落ちる」と言います。

*42:「この法案にご異議ありませんか(議長ないし法案提出者)」→「異議なし(全員一斉に唱和)」つうことでしょうか。

*43:素直に読めば「1920~40年」が「歴代7人の大統領」にもかかるのでしょうが、この時期の大統領はウィルソン(1913~1921年)、ハーディング(1921~1923年)、クーリッジ(1923~1929年)、フーバー(1929~1933年)、フランクリン・ルーズベルト(1933~1945年)の5人で7人ではありません。「この5人」プラス「ウィルソンより前の二人(セオドア・ルーズベルト(1901~1909年)、タフト(1909~1913年))」あるいは「ルーズベルトより後の二人(トルーマン(1945~1953年)、アイゼンハワー(1953~1961年))」を含むんでしょうか?

*44:カリフォルニア州司法長官を経て上院議員カリフォルニア州選出)。2019年8月に行われたキニピアック大学の支持率調査によれば、ジョー・バイデンオバマ政権副大統領(32%)、エリザベス・ウォーレン上院議員マサチューセッツ州選出)(19%)、バーニー・サンダース上院議員バーモント州選出)(15%)に次ぐ4位(7%)と好位置を得ている(ウィキペディア「カーマラ・ハリス」参照)。

*45:オバマの場合は大統領にも当選しましたが

*46:著書『聖路加病院訪問看護科:11人のナースたち』(2007年、新潮新書)、『異形の日本人』(2010年、新潮新書)、『私家版 差別語辞典』(2011年、新潮選書)、『路地の教室:部落差別を考える』(2014年、ちくまプリマー新書)、『被差別のグルメ』(2015年、新潮新書)、『今日もあの子が机にいない:同和教育と解放教育』(2018年、河出文庫)、『幻の韓国被差別民「白丁」を探して』(2019年、河出文庫)など

*47:2005年刊行