「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年10/25分:島田洋一の巻、ほか)

天皇が統帥する自衛隊

憲法改正だけでは自衛隊は戦えない。
天皇陛下自衛隊「この難問に敢然と挑戦したのが本書である」
 小堀桂一郎氏(東京大学名誉教授)推薦。

 島田の改めて考えたい皇室と軍の絆 | NEXT MEDIA "Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]がまだましに見えるすさまじさです。
 「統帥」とは「統帥権干犯」の「統帥」ですね。つまりは素直に考えれば「天皇が統帥する自衛隊」とは「戦前のように天皇が最高司令官の自衛隊」という意味です。いくら「展転社」とはいえ、あまりにも非常識すぎて「はあ?」ですね。
 「え、なんで、統帥権者(最高司令官)が首相じゃダメなの?」「つうか、そうなると軍事権以外の行政権は誰が握るのよ?。首相?。それとも天皇?」「つうかそんなん今時誰が希望してるんだよ?」て話です。
 そういえば

(2ページ目)在特会より危険!? 安倍内閣を支配する極右団体・神社本庁の本質|LITERA/リテラ
・この時代に信じがたい主張だが、「神社新報」はこれにともない、新憲法では軍の「統帥権」を天皇に帰属させるべきだという主張もたびたび行っている。

なんて記事も以前ありましたね。


改めて考えたい皇室と軍の絆 | NEXT MEDIA "Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]島田洋一
 タイトルから予想されるとおりの非常識な内容です。

・即位礼正殿の儀にも参列した英国のチャールズ皇太子と故ダイアナ妃の間に生まれたウィリアム王子、ハリー王子は、(ボーガス注:明仁上皇や新天皇秋篠宮殿下とは違い、)いずれも自らの結婚式に軍服で臨んだ。
・ハリー王子(1984年9月生まれ)は、米国女優(ボーガス注:メーガン・マークル)との結婚ばかりが話題にされがちだが、次のような軍歴を持つ。
 2005年5月、20才でサンドハースト王立陸軍士官学校に入り、特に装甲偵察の訓練に時間を費やした後、2007年末から約2ヶ月間、アフガニスタンタリバン掃討作戦に従事している。
 王子が任務を終えて帰還後、英王室は、「ハリー王子は、同僚兵士たちと共に携わった作戦で祖国に貢献し、訓練の成果を発揮し得たことを誇りに思っている」との声明を発した。
・その後、王子は陸軍航空隊でパイロットとしての訓練も受け、2012年9月から数か月間、アパッチ・ヘリコプターに乗務する形で、再度アフガニスタンでの軍務に着いた。帰還後は、負傷兵の心身回復プログラム策定などの業務に当たり、2015年3月、10年に及ぶ軍務にひとまず区切りを付けて名誉除隊した。
 兄のウィリアム王子(1982年6月生まれ)の軍歴も引いておこう。2006年にやはりサンドハースト王立陸軍士官学校に入り、その後英空軍でパイロットとしての訓練を受けた。ウィリアム王子の場合は、主に英国周辺海域における捜索救難業務で7年半を過ごしている。その間、156回の捜索救難飛行に参加し149人の救出に貢献したという。軍パイロットとしての飛行時間は1300時間を超えた。
・ちなみに両王子の父親であるチャールズ皇太子も、ケンブリッジ大学在学中に英空軍でパイロットとしての訓練を受け、その後英海軍、空軍で約5年の軍務に就いている。
 なおエリザベス女王自身も、第二次大戦末期の王女時代に英国女子国防軍に入隊し、軍用車両の整備や運転、弾薬管理などの現場任務に当たっている。
 翻って日本の状況はどうか。戦前は、(ボーガス注:大元帥昭和天皇閑院宮載仁*1参謀総長伏見宮博恭*2軍令部総長朝香宮鳩彦*3上海派遣軍司令官、三笠宮崇仁*4大本営参謀(陸軍少佐)など*5)皇族が軍務に就くことが当たり前だった。ところが第二次大戦後、新憲法の「平和主義」の下、皇室と軍の絆は絶たれ、以来そのままとなっている。
自衛隊と「日本国の象徴」たる天皇および皇室の絆が不自然に絶たれたままでよいはずがない。
・「平和への願い」と「実力による平和の確保」は不可分である。天皇に前者の宣明のみを求め、後者との関わりを認めない状態は国として健全ではない。
皇位継承者たちが、心身の鍛錬の意味も込めて軍務に就く道を頭から塞いでしまうのはおかしい。
 イギリス王室は、王位継承者たちが文武両道にいそしむことを今も伝統としている。日本も敗戦とその後遺症がなければ、同様の道を歩み続けたはずである。皇室と自衛隊の関係を新天皇即位にまつわる諸行事の機会に考え直してみたい。

 小生のような「皇室は政治から離れ、中立的立場であるべき*6」という価値観で、軍事面でも「ハト派(平和主義者)」からすれば
1)王族が軍務につく英国の方がおかしい、そんなことは今すぐ辞めるべき
2)そのようなことのない日本こそが「軍事と皇室の関係という問題(?)」では英国よりも時代にマッチしている、日本がこの問題で「英国よりも時代にマッチしていること」を誇りに思うべき
ですが、それはさておき。
 本気で「明仁陛下や秋篠宮殿下は自衛隊の任務に就くべきだ」「明仁上皇自衛隊の任務に就かなかったのは残念だった」「彼らが結婚式で軍服(自衛隊の制服)を着なかったのは残念だった」「昭和天皇は軍最高司令官だったのに」なんて島田や「国家研などのお仲間右翼」は思ってるんですかね?。「予想の範囲外」すぎて開いた口が塞がりませんね。
 そんなことは島田のような極右以外、皇室も宮内庁も「ほとんどの皇室支持者」も「自民党支持者ですら」希望してないでしょう。
 まあ、それはともかく。島田の寝言(戦後も皇族に軍務についてほしい)は論外ですが「皇族が軍人になるかどうか」と言う点でも戦前と戦後には大きな違いがあるわけです。なお、皇室についての小生の考えについては新刊紹介:「歴史評論」11月号(追記あり) - bogus-simotukareのブログもご覧下さい。

参考

質問なるほドリ:男性皇族の役割は?=回答・平川哲也 - 毎日新聞
 1945年に太平洋戦争が終結するまでは1910年に定められた「皇族身位令(こうぞくしんいれい)」に基づき、皇族男子は原則として軍人になることが義務づけられていました。

皇族軍人伝記集成 全16巻 - ゆまに書房
【監修のことば】
中央大学教授  佐藤元*7
 皇族軍人の伝記を読むことに、どのような意義があるのだろうか。近代日本の陸海軍において、(ボーガス注:大元帥である)天皇および(ボーガス注:閑院宮載仁・参謀総長伏見宮博恭・軍令部総長など)皇族軍人が重要な役割を演じたことは、誰もが否定しないところであろう。陸海軍は天皇大元帥と仰ぎ、その天皇に最も近い皇族軍人が補翼体制にあった。それにもかかわらず、皇族と軍の関係についての研究は希薄と言わざるを得ない状況である。その理由は、皇族という特殊な地位によることから関係資料が個人のモノ、いわゆるプライバシーにかかわるとして各宮家に秘匿され、全くと言っていいほど皇族に関する情報が開示されていないことによる。
 しかし、幸いなことに多くの皇族は、非売品としながらも伝記を刊行している。歴史史料としての価値はもちろんのこと、エピソードを含めて、人間味あふれる魅力が伝わってくる。ここに『皇族軍人伝記集成』として体系的に読み取ることによって、過去への臨場感が立体的にいきいきと伝わってくる。
 昭和六年一二月に陸軍が閑院宮載仁親王参謀総長にすると、昭和七年二月海軍は伏見宮博恭王を担ぎ軍令部長に就任させ、両皇族の対峙によって参謀本部と軍令部の統合が困難となっていた。また、制度上は海軍大臣が(ボーガス注:軍令部長より)上でも、「宮様には絶対服従」で、昭和八年一月、(ボーガス注:斎藤*8内閣)海軍大臣になった大角岑生*9伏見宮に挨拶にいくと、「君、こうしたまえ」と、軍令部の制度改正を求めるメモを渡されると、大角は即座に「かしこまりました」という状況であったという。永野修身*10もまた軍令部総長になる前も、なってからも伏見宮のいいなりになっていたという。政略・戦略に皇族軍人はどのように介在していたのか、興味のわくところである。
 これまでは、国際関係における天皇と皇族の活動、いわゆる「皇室外交」については多くの研究成果がある。しかし、日本の近代戦争における天皇と皇族の役割については、それほど研究の対象とされてこなかった観がある。そこで、この『皇族軍人伝記集成』が刊行されることによって、皇族がいかに軍事に携わってきたか、その〃姿〃を知る有用な史料となりえるであろう。

山階芳麿 私の履歴書1 祖父・山階宮|山階鳥類研究所
・祖父・山階宮晃(あきら)親王*11は文化14年(1817)に伏見宮第19代邦家親王の第一王子として生まれた。
明治維新となってからも、明治天皇の信任はあつく、外国事務総督という、外務大臣に当たる役を務めた。
・祖父は我が道を行く人であった。明治になってから、皇族はことごとく軍人になったのであるが、祖父だけは辞退をしてどうしても軍人にならなかった。祖父の性格を知る明治天皇のお許しもあったのであろう、とうとう軍人にはならないただ一人の皇族として通してしまった。文官として過ごした祖父一人のために、皇族用の大礼服が制定されている。今も東京・明治神宮外苑の明治天皇記念絵画館にある憲法発布の絵の中に、明治天皇の側に軍服で居並ぶ諸皇族の中にただ一人、白ズボンの皇族用大礼服に威儀を正した白いひげの祖父の姿がある。
・外国事務総督のあと治部卿を務めて第一線を退いたが、今後はどうしても京都に住みたいと言い出した。当時、皇族はすべて東京に住むことになっていたのだが、明治天皇に強くお願いした結果、とうとう「やむを得ず」ということで許され、当時困窮の極にあった茶道の宗家たちを招いて茶会を開き、これを救いながら、晩年を京都で過ごした。これも皇族の中では唯一の例外であった。
 このように祖父は一度言い出したことはガンとして変えようとしなかった人である。振り返ってみると、私*12にもこうしたところがある。後年、明治天皇の勅命によって入った陸軍を退役して鳥の研究に専念するようになった時も、また戦後、鳥類保護のために駆け回った時も、持ち前のがんこさが頭を持ち上げたのであろうが、これも祖父という羅針盤が指図していたところなのかも知れない。
日本経済新聞 1979年4月26日)

*1:1865~1945年。参謀総長在任中(1931~1940年)は、独断で実務を切り回す皇道派の真崎甚三郎参謀次長(1932~1933年)への反感が強く、いわゆる統制派に近い立場を取った。皇道派荒木貞夫が1934年に犬養内閣陸相を辞任した際には真崎が後任候補に上がったが、林銑十郎を推して陸相に就け、真崎は教育総監に回った。さらに真崎が教育総監を更迭された際にも、渡辺錠太郎を後任教育総監にするよう強く林陸相に働きかけたとも言われた。渡辺が二・二六事件で凶弾に倒れたのは、載仁親王が皇族でありさすがに青年将校も手出しが出来なかったため、身代わりとして襲撃されたのではないか、と松本清張は推測している(ウィキペディア閑院宮載仁親王」参照)。

*2:1875~1946年。伏見宮大艦巨砲主義者であったので、彼の威光を利用した「いわゆる艦隊派の台頭(そして条約派の失脚)」を招くことに繋がったとされる。また太平洋戦争開戦時の嶋田繁太郎海相が対米避戦派から開戦派に転向したのは伏見宮の働きかけによるとされる。伏見宮は日米戦について「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という『早期決戦・早期和平』の考え(真珠湾攻撃の中心人物である山本五十六連合艦隊司令長官の考えに近い)を持っていたとされる。これらのことから、戦後は日米開戦の元凶の一人として、批判的な評価を受けることが多い。いわゆる海軍反省会でも伏見宮の戦争責任について問題提起されたが、皇族という存在の重さゆえか、議論は深まらなかった。海軍での生活や習慣が身に付いていた伏見宮には、皇族らしからぬ逸話が残っている。入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが普通であるが、伏見宮は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞ってから体を拭いていたという。下着の洗濯を自ら行うこともあり、周りの者から「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。艦内では握り飯と漬物という簡易な食事を好み、海軍省食堂での昼食時における博恭王の好物は天ぷらうどんだったという(ウィキペディア伏見宮博恭王」参照)

*3:1887~1981年。上海派遣軍司令官(南京戦の現地軍司令官)として南京事件で「捕虜の殺害命令」に関与した疑いで戦犯に指名される可能性があったが、皇族のため、「昭和天皇の戦争責任問題」に波及することを恐れた米国によって戦犯指定は受けなかった。皇族でなければ松井石根南京事件当時、中支那方面軍司令官)のように訴追され死刑判決が出たのではないかと言われている(ウィキペディア朝香宮鳩彦王」参照)。

*4:1915~2016年。大正天皇の四男。紀元節復活に反対したため「赤い宮様」と呼ばれ右翼から敵視された。オリエント史研究者でもあり『古代オリエントの生活』(河出文庫)などの著書がある(ウィキペディア三笠宮崇仁親王」参照)。

*5:こうしたいわゆる皇族軍人についてはウィキペディア「皇族軍人」参照

*6:いかなる形であれ、戦争に関与すると言うことは「反戦派がいる以上」政治的中立とは言えません。「戦争支持派が多ければいい」と言う話ではないと思います。

*7:著書『近代日本の外交と軍事』(2000年、吉川弘文館)、『昭和初期対中国政策の研究:田中内閣の対満蒙政策(増補改訂新版)』(2009年、原書房)、『外務官僚たちの太平洋戦争』(2015年、NHKブックス)、『経済制裁と戦争決断』(2017年、日本経済評論社)など

*8:1858~1936年。第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任。内大臣在任中に226事件で暗殺される。

*9:1876~1941年。犬養、斎藤、岡田内閣で海軍大臣

*10:1880~1947年。広田内閣海軍大臣軍令部総長など歴任。戦後、戦犯として裁判中に病死。後に靖国に合祀。

*11:1816~1898年。自分の葬儀を帰依していた仏教式で行うよう遺言を残していたが、皇族の葬儀は例外なく神道式で行うべきとするとする政府は拒絶(このとき田中光宮内大臣は皇族に信教の自由はないと述べたという)。しかし葬儀以外は遺志に従って構わないとし、墓は泉涌寺雲龍院に建てられた(ウィキペディア山階宮晃親王」参照)。

*12:1900~1989年。1920年大正9年)、陸軍砲兵中尉となるが、動物学研究の望みを断ち難く、軍を退役。1932年(昭和7年)、山階鳥類研究所の前身である山階家鳥類標本館を設立した。日本鳥学会会頭、日本鳥類保護連盟会長、国際鳥類保護会議副会長等を歴任(ウィキペディア山階芳麿」参照)。