高世仁に突っ込む(2019年11月10日分)

命はそこにあるだけで意味がある - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 藤井理恵さん*1淀川キリスト教病院チャプレン)は、病院付きの牧師チャプレン(chaplain:教会・寺院に属さずに施設や組織で働く聖職者)を26年つとめてきた。藤井さんが亡くなっていく人々との関わりのなかで何を感じ、考えてきたのかが「それぞれの最終楽章」という朝日新聞の企画で連載されていた。以下に紹介するのはその最終回「命はそこにあるだけで意味がある」。
 宇宙とか大自然とか「人間を超えた何か」といった絶対的存在との関係の中で命や人生を眺めると、見方が全く変わってくると思います。牧師である私にとって、それは神様です。
 命を与えた存在が「この時代に、この家族のもとでこうした状態で生きるように」と、この世にあなたを置いて下さった。そう受けとめれば、この世に置かれたこと、「生きてここにあること」自体に意味があると気づかされます。「自分の人生に意味がない」などと自己否定しても、あなたの存在は絶対的に肯定されているのです。

 前も何度も似たようなことを書いていますが、小生は「神などいない」と思っていますし、そういう意味で「生きることそれ自体に価値などない」と思っています。
 じゃあ「生きること自体に価値などない」と思う小生は「自殺を奨励するのか」。そういう話ではないですね。
 生きることに「俺の生きがいは仕事だ」などのように価値を見いだすのは「私やあなた」といった「生きている当事者だ(神とか他の物ではない)」ということです。
 生きている当事者が「自分の生き様に価値を見いだすこと」によって生きることに価値が生じる。生きるとはそういうことであり「神」などいう「いるかいないか分からない物(たぶんいないもの)」を持ち出しても全く無意味だと俺は思っています。神なんぞ持ち出すくらいなら、「患者が私を頼るから(医師の場合)」「子どもが私を頼るから(子どもを抱えた親の場合)」といった「実在する物が私を評価してくれるから」のほうがまだマシでしょう。
 じゃあ、仮に「あなたは生きる価値、生きがいは自分で見つけるものだというが私には見つからない。どうしたらいいのか。自殺した方がいいのか」と言われたらどうするのか。まあ、小生なら「探し方が悪いんじゃないか?」「死ぬことなんかいつでも出来るのだから周囲の力も借りて探したら?」「あなたが楽しいことは何なのか、まず考えてみたら?」「生きがいがないなんて思ってるのは今、つらいこと(失業、失恋など挫折)があるからじゃないか、そのつらいことを周囲の力も借りて解決しては?」などですね。
 大体そういう「生きがいがない」と嘆く人間に向かって「生きていること自体に価値がある」なんていっても全然心に響かないでしょうね。少なくとも俺なら心に響きませんね。
 そういう意味ではまあ、ベタな落ちで恐縮ですが、メーテルリンクの「青い鳥*2」の落ちが「人生の真実だろう」と思います。結局、「幸せの青い鳥」は自分で探さないといけない。他人は探してくれない(まあ「探すことを手伝ってくれ」と頼んでも最終責任は自分です)。そしてもしかしたらその「青い鳥」は気づかないだけで「自分の身近なところにある」のかもしれない。

 障害を持って生まれた、病気になった。それで他の人が出来ることが出来ない、出来なくなった。だから劣った、かわいそうな存在だという人がいます。確かに生きてゆくのはつらいことが多く、治療の苦しみや痛みを負うのは、かわいそうと言えるかもしれません。でも決して「かわいそうな存在」ではありません。

 いやいや率直に言って「かわいそうな存在」でしょう。ならば藤井さんは「障害者に生まれてきても良かった」のか。そんなことはないでしょう。障害者差別と言われようとも小生は「健常者に生まれてきて良かった」「障害者でなくて良かった」と思います。
 とはいえ障害者が「障害なんかほしくなかった」と思ったところで現在の医学ではどうにもならないわけです。障害を抱えて生まれてきたらそういう体で生きるしかない。その上で「どう障害者が幸せに生きていくか」「周囲がどう障害者を支援していくか」と言う話であって「障害のために、生活に支障があるかわいそうな肉体である」と言う事実を否定するのははっきりいって偽善だと思います。
 ただ「かわいそうな体である」ということは当たり前ながら
1)かわいそうな存在だからどんなわがままも許されるということでもなければ
2)かわいそうな存在だから周囲が全て方針を決めるべきだということでもない
わけです。そこは勘違いしてはいけない。「甘やかし」やそれとは逆の「過剰な干渉(自主性の否定)」は論外だと言うことです。

 年を取ると聞こえなくなった、歩けなくなったと不満が出ます。それをマイナスと捉えるのは人の価値観です。

 おいおいですね。価値観ではなくて明らかにマイナスですよね。ただしそのマイナスを「補聴器」「車椅子」などでカバーできればともかく、カバーできないなら「受け入れるしかない」わけです。
 これは何だってそうです。「ガンで死ぬ」のだって誰も受け入れたくはない。しかし「逃れられない死」なら受け入れるしかないわけです。
 受け入れるしかないから「受け入れた」上で「どう幸せに生きていくか」と言う話であって、「病気が治療できる」など「受け入れなくて済む話」であるなら受け入れる必要はどこにもありません。高世といい藤井氏といい、藤井氏のアホ話を掲載した朝日新聞といい「バカか?」というのが俺の感想ですね。何度も言いますが「受け入れざるを得ないもの(例:横田めぐみ氏は死亡の可能性が高い)」はつらくても「受け入れるしかない」、そういう話でしかありません。「酒や薬物などに逃げた」り「俺が死ぬはずなんかない、誤診に違いない、などと強弁した」りしたところで「事態は変わらない」と言う意味では受け入れざるを得ない。

 「どうすれば自分の死を受けいれることができますか」とよく尋ねられます。死の受容は、人生が「与えられたものである」と了解していくときに可能になっていくのでしょう。与えられた命をもって生まれて、生きて、死んでゆく。そのプロセスの中で死を終点と捉えれば、「自分が無くなってしまう」となりますが、帰るのであれば、その先も続きます。私はそう信じ、ここに希望を見いだしています。

 死ははっきりいって「終点」だと思います。生まれ変わりなどないでしょうからね。死んだ時点で「自分という存在」は消えてなくなります。
 それでも「受け入れざるを得ないもの」はつらくても「受け入れるしかない」。その場合の受け入れ方は「私が死んでも、私が生前やった業績(学問、芸術など)は将来も残る。だから私の人生は無駄じゃなかった」「死ぬことは怖いけど残りの人生、できる限り楽しく生きていこう。今までやらなかったことに死ぬまでに是非挑戦しよう」などいろいろあるでしょう。正直、これも「人それぞれ」だと思います。
 誰にでも通用する「死の受け入れ方」なんかあるとは俺は思いません。というか「無理して死を受け入れる必要もない」のではないか。
 まあ「他人を道連れに自殺」とかあまりにも非常識で迷惑なことをされると困りますが、人間なんだから「死を受け入れられずに泣き叫ぼうと酒に溺れようともいいじゃないか」つう気が俺にはあります。
 無理して「死を受け入れよう」としなくてもいい、そんなことより死の恐怖から泣き叫んだり、酒に溺れたりして苦しむ人間をどう周囲(家族や医師など)が支えていくかだと思いますね(精神的に大変なことですが)。支えられることによって冷静さを取り戻し、「死を受け入れること」が次第に出来るという面も大きいのではないか。
 藤井氏のようなとんちんかんな「病院付きの牧師チャプレン」は、俺が患者なら「お前みたいなアホの世迷い言なんかいらんわ!」ですね。まあ、こういうと藤井氏は多分憤激するのでしょうが、それが正直な俺の感想です。


社会の分断進む香港2―ついにデモ現場で死亡事故が - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 高世仁に突っ込む(2019年11月8日分) - bogus-simotukareのブログで取り上げた社会の分断進む香港 - 高世仁の「諸悪莫作」日記の続きです。

・湾仔(ワンチャイ)の中国国営新華社通信香港支社のビルが若者らに襲われ、入り口のガラスが破壊され放火されたことだった。これは中国当局を相当刺激しただろう。
・6日には親中派の区議会議員候補者(何君尭、ホウ・クワンユウ議員57歳)が刃物を持った男に刺され、負傷した。

 そういう暴力行為は絶対に不可だと思いますね。なお「最初から殺す気はなかった(怪我させることや恐怖感を与えることが目的)」のか、「幸いにも周囲が阻止した」のかはともかく「原敬*3首相や浅沼稲次郎社会党委員長の刺殺」のような最悪の事態はなかったようです。

・いつか死者が出るのではと心配していたが、ついに一人の学生が亡くなった。私が香港滞在中にあった抗議活動での事故によるものだという。
 香港科技大学の周梓楽さん(22)は11月4日未明、デモ隊と警察が衝突する現場近くで、駐車場の3階から2階部分へ転落した。頭を強く打って病院に運ばれたが、8日朝に死亡したという。
 すでに8日から周さんが警察に殺されたとして抗議が始まっているが、まだ事実関係がはっきりせず、警官隊の規制が原因だとは決めつけられない。

 高世の文は完全に矛盾していますね。
 「まだ事実関係がはっきりせず」というのなら彼の転落死について目撃者はいないのでしょう。この時点で「近くでデモ隊と警察の衝突があったから」といって「彼の転落死は警察のデモ隊攻撃と関係がある」と決めつけるのは不適切というもんでしょう。
 例えば、いわゆる国鉄三大怪事件(下村、松川、三鷹事件)を「日本政府やGHQの公安部門の犯行(共産党潰しが目的*4)」と断定的に決めつけるようなもんです(下村国鉄総裁変死事件に至っては自殺説も有力)。

 まずは真相究明を優先し、冷静にと呼びかける現地英字紙を支持したい。
 《先鋭化する事態に、地元英字紙「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト」は社説を発表。香港を「深刻な2極化が進んでいる」とした上で、「周さんの死は、暴力や混沌とともに記憶されるべきではない。真相が究明されるまで、私たちは皆、過激な行動ではなく自制心をもって彼の死に敬意を払うべきだ」と、冷静さを保つよう呼びかけた。》
香港デモ、学生死亡で深まる対立。実弾発射、議員襲撃...過激化に地元紙「暴力より自制心を」 | ハフポスト

 まあ当然の話ですね。事故原因が分からないわけですから。かつ仮に事故原因が「警察にある」としてもそのことは暴力行為のエスカレートを正当化する物ではないと思います。

 林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は今週、習近平*5国家主席から抗議活動の取り締まり強化を指示されている。
 きょう9日は抗議活動が始まって5カ月になるが、香港の今後がますます見えなくなってきた。

 国際的批判の恐れを考えれば中国は軍投入のような超強硬手段を執れない。しかし一方でデモ隊の方も主導権を握れる展望はなく事態が硬直化していると言うことですね。
 こうなると「当初目的『条例案撤回』が達成された時点でいったん引くべきだったのではないか」という気持ちになります。引かずに「行政長官の直接選挙(そしてその前に現長官の引責辞任)」という「中国が飲むとは思えない」新目標を掲げ、デモを続行したが故に「引くに引けない状況」にデモ隊が追い込まれてるように見えます。

*1:著書『増補改訂版 たましいのケア』(共著、2009年、いのちのことば社)など

*2:邦訳は岩波少年文庫、角川文庫、講談社文庫、新潮文庫

*3:立憲政友会幹事長、第4次伊藤内閣逓信相、第1次、第2次西園寺、第1次山本内閣内務大臣などを経て首相

*4:ただし、ろくな根拠もないのに事件発生当初から、当時の吉田内閣が不当にも松川・三鷹事件について「共産党の犯行の可能性」を言い立て共産党潰しを画策したのは事実です。

*5:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席