三浦小太郎に突っ込む(2019年11月14日分)

逢魔名画座上映会&忘年会のお知らせ(12月22日 四ツ谷にて) | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 「逢魔名画座」とやらが三浦が以前宣伝していたがいつの間にか宣伝しなくなった「江東映像文化振興事業団」と関係があるのか、ないのか、「江東映像文化振興事業団」が名前を変えたのが「逢魔名画座」なのか気になるところです。


天皇陛下御即位国民祭典のある風景に、やはり「私たちは同じ日本人なのだな」となぜか思いました | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

 天皇陛下御即位国民祭典、(中略)会場に入れなかったのかもしれない沢山の女性たちが、(ボーガス注:祭典で歌った)嵐の歌が映像でスクリーンに流れているのを、道路でずっと見つめているところを通りがかりました。ああ、みな同じ日本人なんだな、となんとなく思いながら東京駅を目指しました。

 「はあ?」ですね。何も日本人全てが天皇制支持ではないし、天皇制支持だからと言ってあの祭典とやらを支持してるわけでは必ずしもない。全ての日本人があの祭典に興味を持ち、会場に行ったわけではない。
 そして「嵐の歌目当てで祭典に来た若い女性」は天皇制に対しておそらくたいした思い入れはないでしょう。少なくとも三浦のような右翼的思い入れはない。それなのに三浦に「同じ日本人」なんぞと言われても若い女性は「はあ?」でしょう。まあ三浦も本当はそんなことはよく分かっていて「自分たちの右翼路線」が若い女性にも支持されていると強弁してるだけの話でしょうが。

 この祭典は成功だった

 三浦らウヨはそう強弁したいのでしょうね。ただし繰り返しますが、まず第一に全ての日本人があの祭典に興味を持っているわけではない。
 第二に「嵐の歌目当てで来た若い女性」は天皇制に対しておそらくたいした思い入れはないでしょう。少なくとも三浦のような右翼的思い入れはない。「式典に客がたくさん入ったと言う意味」ではなく「三浦らウヨの右翼的思いが成功したかどうかと言う意味」では、あの祭典は失敗でしょう。まあ三浦も本当はそんなことはよく分かっていて「自分たちの右翼路線」が若い女性にも支持されていると強弁してるだけの話でしょうが。
 ちなみに過去の式典では

天皇陛下即位30年祭典にユーミン、ゆず 北野武さんが祝辞 - 産経ニュース
明仁天皇即位30年祝賀式典】
 歌手のMISIAさんや松任谷由実さん、フォークデュオ「ゆず」が祝賀コンサート

明仁天皇即位20年祝賀式典】
天皇陛下御即位二十年をお祝いする国民祭典(ウィキペディア参照)
天皇陛下御即位二十年『奉祝曲 組曲「太陽の国」』
 EXILEが歌とダンス

だそうですが著名芸能人が客寄せパンダになって人が集まったとしても、これらも「三浦らウヨが期待する右翼的天皇崇拝」と言う意味では何ら成功してないでしょう。今はそういうことが通用する時代ではないでしょう。


11月17日、西村幸祐氏のイベントがジャズバーサムライであり、私も参加します。 | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

 西村氏はスポーツライターからスタートしたように思っている人多いかもしれないけど、「ミュージック・マガジン」にもいた人だから。

 イヤー、今の西村は世間的には「レベルの低いただのごろつき極右」でしかないですが。もちろん西村の類友である三浦も「レベルの低いただのごろつき極右」です。

 ミュージックマガジンというのもまさにそういう傾向の雑誌で、特に編集長の中村とうよう氏にその傾向があった。ただ、これは名誉のために言っておきますけど、中村氏は、政治的な偏向はあったけど音楽を聴く耳は確かで、厖大な民族音楽レコードを収集し、かつそれを自分のイデオロギーは脇において音楽として広く紹介していく公正さもあった。
 だからこそいっそう、政治的なことを言い始めると自分の言葉と音楽を聴く姿勢に分裂が生まれてしまう。中村氏が自殺したのもちょっとその辺の矛盾に耐えきれなくなったんじゃないかと思う。西村氏はたぶん中村氏の下で学んだことはきっとあると思うし、同時に、こうなってはいけない、ということも感じていたんじゃないかと思うが、まあそれは私の勝手な憶測です。音楽であれ何であれ、政治を安易に文化に結び付けていいことは何もない。
 もう、音楽を政治イデオロギーに結びつけて論じるような時代は終わった。

 三浦って本当に馬鹿でくずなんだなと言うことが実感できるアホ文です。
 まず第一に「音楽を政治的に語って悪いことは何もない」。
 たとえばわかりやすい例で言えば「ビリー・ホリデイの『奇妙な果実』」なんかは明らかに政治的ソングのわけです。
 政治的意義を持つ芸術は音楽に限らず政治的に語らざるを得ない。
 例えば「ピカソゲルニカ(ナチドイツのゲルニカ空襲批判)」「石川達三の金環蝕(池田首相の九頭竜川ダム疑惑がテーマ)」なんか政治的に語らないなんて事が出来るのかという話です。
 問題は「政治性のない芸術は無理にこじつけて政治的に語る必要はない」つう話です。まあ小生は中村とうようについて何も知らないし、興味もないのでその辺りのことは分かりませんが。
 第二に中村とうようの自殺動機について何らまともな根拠もないのに、三浦はデタラメなことを言うなつう話です。
 なお中村とうよう氏の自殺について - mmpoloの日記によれば

 老人ホームなどでさんざん周囲の世話になってから死ぬなんてのは、ご免こうむりたい。その代わり一人で死ぬのはもちろん平気だ。孤独死がしばしば問題になるが、一人で生きた老人が誰にも知られずにひっそりと死んでしまったとしたら、それこそ理想的な大往生でしょう。
 でも自分ではっきりと言えますよ。ぼくの人生は楽しかった、ってね。この歳までやれるだけのことはやり尽くしたし、もう思い残すことはありません。

が中村の遺書だそうです。これは三浦のような理解(どう見ても中村の左派性をウヨとして誹謗しようとしている)をするより「高齢化して体の自由がきかなくなってきた(あるいはいずれそうなることを恐れた)」中村が「老人ホームなどでさんざん周囲の世話になってから死ぬ」より「体の自由がきく内に自殺した方が自分にとって理想の死に方だ」と思って自殺しただけの話ではないのか。
 まあそれはともかく、歴史上自殺した著名人は中村に限らず「芥川龍之介」「有島武郎」「伊丹十三」「江藤淳」「川端康成」「太宰治」「田宮二郎」「円谷幸吉*1」「西部邁」「ヘミングウェー*2」など山ほどいるわけです。そう言う意味では小生は「人間なんてそんな弱い者だ」と思ってます。
 「俺は絶対自殺しない」とか「あの人は絶対に自殺しない」とか全然思ってない。自殺しない人間の多くは単に「自殺するほどの絶望を幸いにも経験してない」だけでしょう。

*1:1964年東京五輪男子マラソン銅メダル

*2:1954年ノーベル文学賞受賞者