新刊紹介:「歴史評論」11月号(追記あり)

【最初に追記】
 スウェーデンの王室の決定について、日本人も日本の皇室と対比して考えてもいいかもしれない - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)で拙記事をご紹介頂きました。
 いつもありがとうございます。

 紹介した記事は、『天皇代替わりの歴史学』で非常に興味深いので、ぜひお読みになってください。

と言う過分なお褒めの言葉を頂きましたが小生の記事は「小生なりに感じたことをコメントをしている」とはいえ、

・井上亮・日経新聞編集委員(長く皇室記者を担当)
・岩井克己・朝日新聞編集委員(長く皇室記者を担当)
奥野修司氏(フリーライター
・河西秀哉・名古屋大学准教授
・君塚直隆・関東学院大学教授
・瀬畑源・成城大学一橋大学非常勤講師
原武史・放送大教授

などが発表した記事、あるいはインタビューや談話を紹介してるだけですので、「興味深い」のは残念ながら「小生ではなく」彼らの主張ですね。
 この機会に

■井上亮
・『天皇と葬儀:日本人の死生観』(2013年、新潮選書)
・『昭和天皇は何と戦っていたのか:「実録」で読む87年の生涯』(2016年、小学館
・『天皇の戦争宝庫:知られざる皇居の靖国「御府」』(2017年、ちくま新書
・『象徴天皇の旅:平成に築かれた国民との絆』(2018年、平凡社新書
奥野修司
・『皇太子誕生』(2006年、講談社文庫)
・『美智子さまご出産秘話』(2019年、朝日文庫)
・『天皇の憂鬱』(2019年、新潮新書)
■河西秀哉
・『「象徴天皇」の戦後史』(2010年、講談社選書メチエ)
・『皇居の近現代史:開かれた皇室像の誕生』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
・『明仁天皇と戦後日本』(2016年、洋泉社歴史新書y)
・『天皇制と民主主義の昭和史』(2018年、人文書院
・『近代天皇制から象徴天皇制へ』(2018年、吉田書店)
・『平成の天皇と戦後日本』(2019年、人文書院
原武史*1
・『昭和天皇』(2008年、岩波新書)
・『「神々の乱心*2」を読み解く:松本清張の「遺言」』(2009年、文春新書→後に『松本清張の「遺言」:『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く』と改題して2018年、文春文庫)
・『皇居前広場』(2014年、文春学藝ライブラリー)
・『大正天皇』(2015年、朝日文庫)
・『「昭和天皇実録」を読む』(2015年、岩波新書
・『皇后考』(2017年、講談社学術文庫
・『〈女帝〉の日本史』(2017年、NHK出版新書)
・『平成の終焉:退位と天皇・皇后』(2019年、岩波新書)
・『天皇は宗教*3とどう向き合ってきたか』(2019年、潮新書*4)など

など読むと良いのではないでしょうか(とはいいながら小生も実は上記の本を一冊も読んでないのでこれを機に読もうかと思っている)。
【追記終わり】


・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『天皇代替わりの歴史学
【前振り】
 なお、なぜこういう特集かと言えば勿論「10/22に即位式典があるから」です。10/22には即位式典に触れた産経記事*5赤旗記事*6などにコメントするかと思います。
 なお、こういうことをいうと産経などは怒るでしょうが、天皇即位式を大々的にやるのは「北朝鮮の建国式典(9/9)」「中国の建国式典(10/1)」と大して変わりません。
 つまり「愛国心助長」「政府の権威付け」のためにやるわけですが、まあ日本ウヨっては同じ性質のもんでも、中国、北朝鮮だと悪口して日本だと「万歳」ですから、心底呆れます。
 【前振り】の最後にいくつかマスコミ等の記事を紹介しておきます。

天皇の「代替わり」にともなう儀式に関する申し入れ/2018年3月22日 日本共産党中央委員会
即位巡る儀式「政教分離に違反」 キリスト教団体が会見:朝日新聞デジタル

秋篠宮さま、大嘗祭支出に疑義「宮内庁、聞く耳持たず」:朝日新聞デジタル
 秋篠宮さまが30日の53歳の誕生日を前に紀子さまと記者会見し、天皇の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と述べ、政府は公費を支出するべきではないとの考えを示した。この考えを宮内庁長官*7らに伝えたが「聞く耳を持たなかった」といい、「非常に残念なことだった」と述べた。
 大嘗祭は、新天皇が新穀を神々に供えて世の安寧や五穀豊穣などを祈る儀式。1990(平成2)年に行われた前回の大嘗祭では、国から皇室の公的活動に支出される公費「宮廷費」約22億5千万円が使われ、「政教分離に反する」という批判は当時から根強くあった。政府は今回も、儀式に宗教的性格があると認めつつ、「極めて重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」として宮廷費を支出する方針を決めた。前回を踏襲して同規模の儀式を想定しているが、人件費や資材の高騰で費用が増す可能性もある。
 これに対し、秋篠宮さまは天皇家の「私費」にあたる「内廷会計」で賄うべきだと述べた。
 秋篠宮さまは「身の丈にあった儀式」にすることが本来の姿、とも述べた。前回の代替わりでも同様の意見を述べていたといい、今回も宮内庁の山本信一郎*8長官らに「かなり言った」というが、考えてもらえなかったという。
 山本長官は直後の会見で「聞く耳を持たなかったと言われるとつらいが、そのようにお受け止めになったのであれば申し訳ない」と話した。

・過大評価をする気はありませんが「やはり強制でないことが望ましい(元天皇)」といい秋篠宮発言といい「昭和天皇と比べれば大分リベラルになった」つう気はします。例の「明治150年式典」も出席しませんでしたし、皇室には「下手に安倍の極右政治に調子を合わせると安倍政権が終わった後の反動が怖い」つう警戒もあるのでしょう。
・まあ「内廷費だって元は税金」「そもそもやるべきでない」つう批判は当然ありますが、安倍よりは秋篠宮の方がましでしょう。かつ彼の立場で「違憲の疑いがあるなら辞めればいい。時代にあわない伝統は廃止すべきだ」「内廷費だって元は税金であるし、天皇は『象徴』という公的性格を持つから内廷費でやっても問題は解消しない」とは言いづらいでしょうからね。小生も彼ら皇族に対して無茶な要求をする気はありません。

きょうの潮流 2018年12月23日(日)
 大嘗祭について秋篠宮の発言が波紋をひろげました。
 「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」。
 内廷費で行い身の丈にあった儀式にすればいいとの考えを示したうえで、「話を聞く耳を持たなかった」と宮内庁長官などに苦言を呈しました

即位日の休日は賛成だが違憲の儀式の日の休日は反対/笠井政策委員長が表明
 日本共産党笠井亮政策委員長は30日、国会内の記者会見で、来年5月1日の新天皇即位の日と「即位礼正殿の儀」が行われる10月22日を休日とする法案に日本共産党は反対したと述べ、その理由は「天皇が退位し、新天皇が即位する。その日を休日にするのは賛成だが、違憲の儀式の日を休日にすることには反対ということだ」と説明しました。
 笠井氏は、「即位の礼」として来年5月1日に「剣璽(けんじ)等承継の儀」と「即位後朝見の儀」を、10月22日に「即位礼正殿の儀」などを行って「(ボーガス注:政教分離原則に違反する疑いの強い神道色が濃厚な)これらの儀式を国事行為である国の儀式にすることに(ボーガス注:政教分離原則の観点から)反対だということだ」と説明しました。

「即位の礼」 一連の儀式参列せず/小池氏 憲法原則と両立しない
 日本共産党小池晃書記局長は9日、国会内で記者会見し、天皇の代替わりにかかわり行われる「即位の礼」の一連の儀式への態度について問われ、「『即位礼正殿の儀』および『饗宴の儀』には参列しない」と述べました。
 「とりわけ『即位礼正殿の儀』は、神によって天皇の地位が与えられたことを示す『高御座(たかみくら)』から天皇が即位を宣明し、その即位を内外の代表が祝う儀式であり、神道行事である『大嘗祭(だいじょうさい)』と一体不可分に行われるものだ。『饗宴の儀』は、こうした『即位礼正殿の儀』と一体の行事に他ならない」として、「わが党は、これらの儀式が現行憲法国民主権政教分離の原則とは両立しないことを指摘し、国事行為である国の儀式とすることに反対を表明してきた。こうした見地から『即位礼正殿の儀』および『饗宴の儀』には参列しない」と述べました。

主張/「建国記念の日」/明治以後の「伝統」から脱却を
 1989年の昭和天皇から現天皇への「代替わり」では、戦前の登極令(とうきょくれい=1909年)をほぼ踏襲した儀式が実施されました。それ自体、憲法国民主権政教分離の原則に反するものでした。
 安倍内閣は「皇室の伝統」の名で、それを踏襲しようとしています。しかし、幕末まで即位式は中国風の衣装をつけ、神仏習合的な形で行われていました。神道式に“純化”したのは、たかだか明治以後の百数十年のことです。
 今回「代替わり」儀式を5月と10月の2回行うのも、神話にもとづく「三種の神器」を受け渡す「践祚(せんそ)」の儀式と、大嘗祭(だいじょうさい)の神事と結んで日本国の統治権を継ぐ「即位」の儀式を、二つとも登極令から引き継いでいるためです。
 天皇日本国憲法に規定された憲法上の存在です。新天皇の即位にあたっても、その行事は憲法国民主権政教分離の原則に沿って行われるべきです。安倍内閣が国会でまともに議論もせず、戦前の「代替わり」儀式を踏襲しようとしているのは問題です。
 秋篠宮が昨年11月、宗教的儀式である大嘗祭について「国費で賄うことが適当か」と述べ、皇室の私費(内廷費)で行い「身の丈に合った儀式」にすべきだと語りました。(ボーガス注:皇族の政治的中立性に反しないかという問題はありますが)この発言自体は憲法の原則にかなっています。

 太字強調は俺がしました。
 なお、こうした都合の悪い発言は「秋篠宮に賛同するわけにもいかないが、皇室崇拝の建前上、非難もしづらい」ので無視する産経らウヨです。
 一方で「我々は天皇、皇族個人の人間性を問題にしているのではないのです。問題は制度なのです」「皇族の発言でも筋の通ったものは評価します」ということで秋篠宮発言を紹介する赤旗です。


共産党がご即位の儀式に欠席表明も揺れる皇室観 - 産経ニュース
 共産党の欠席理由は「即位式神道色濃厚で、政教分離原則に反する」というものなので「そうした儀式をしないとあるべき皇室といえない」つう右翼的立場に立つのならともかく、そうでないなら「皇室観」と言う話ではありません。したがって共産による「即位への祝意表明」の是非はともかく「即位への祝意表明」と今回の話は一応矛盾しません。今回の話に限れば、別に「皇室観」が揺れているわけではない。
 言うまでもありませんが「政教分離原則を守れ」は「天皇制廃止」つう話とは別問題です。 日本だと「天皇制否定だから出席しないのか」と短絡的なことを言うバカが多いのでうんざりしますが。
 まあ産経らウヨは「そうした儀式をしないとあるべき皇室といえない」つう立場なのでしょうが、それは「右翼的皇室観」ではあっても「伝統的皇室観」とすらいえないのではないか。まあどっちにしろ「皇室の伝統」「あるべき皇室」を理由に政教分離を踏みにじるのは話が逆であって「憲法政教分離の枠内」であるべき皇室を目指すべきです。


即位礼、アジアの伝統学ぶ機会 法政大教授・王敏さん :日本経済新聞
 「アジアの伝統」つうよりは「ローカライズ(現地化)した中国の伝統」「ジャパナイズ(日本化)された中国の伝統」でしょうね。で「日本化の部分=神道」でここが政教分離原則に抵触するわけです。


https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191009/k10012118511000.html

 韓国からは、ムン・ジェイン*9文在寅)大統領の参列は見送られ、イ・ナギョン*10首相となる見通しで安倍総理大臣と短時間会談することも検討されています。

 現状で出席を見送れば、事態が悪化するのでそりゃ、「文大統領でないにしろ」さすがに韓国高官が出席はするでしょう。ただ「嫌韓国」安倍首相や茂木*11外相が会談に応じるかは甚だ疑問です。


大嘗祭調度品の絹布、宮内庁へ=豊田市稲武町で出発式-愛知:時事ドットコム

 1カ月半にわたり糸を引いたという丸山紋子さん(79)は「大変光栄で名誉なこと。生涯の中で一番大きな出来事です」とほほ笑んだ。

 権力批判意識に乏しい日本のマスコミでは予想の範囲内ですが、本当にこういう祝賀ムードばかり煽る報道はやめてほしいですね。まあ、こういう祝賀報道へのカウンターとしての今回の特集でもあるわけですが。
【前振り終わり】


◆前近代の「天皇退位」をめぐる論点の整理(美川圭*12
(内容紹介)
Q&A形式で書いてみます。

「前近代の天皇退位について説明をお願いします」

「信用できる記録では最初の生前譲位は645年の皇極天皇、最後の生前譲位は1817年の光格天皇になります」
「ただし645年の皇極天皇の譲位は、乙巳の変蘇我氏粛清)に基づくイレギュラーな譲位です。そういう意味では最初の譲位は697年の持統天皇の譲位とみるべきかもしれません。持統は孫の文武天皇がまだ十五歳という若い年齢であるがために、自らが元気なウチに譲位すると共に、上皇として文武を補佐する形を選んだわけです。当初の生前譲位は若い天皇を補佐するために上皇になるという性格のものでした」
「こうした譲位の性格が大きく変わったのは平安時代白河天皇の譲位です。幼い天皇藤原氏が摂政、関白として支える体制が奈良、平安時代に確立しましたが、白河天皇藤原氏から実権を奪う目的で院政を開始したことにより、上皇天皇を補佐するのではなく、天皇とは別の権力として成立することになります」
「しかしその結果、天皇上皇の対立から保元の乱平治の乱が発生し、その中で政治の実権は平清盛源頼朝と言った武士へと移っていきます。武士が実権を握るようになったことへの反発から起こったのが後鳥羽上皇承久の乱後醍醐天皇建武新政ですがいずれも武士(前者は北条氏、後者は足利氏)に政治的に敗れ、かえって天皇は政治力を失います。その後の院政は極めて形式的なものだったと言えます。特に戦国時代は織田信長が天下統一するまでは、室町幕府の支援がなくなったため、皇室の権威が落ち、生活にも困窮する有様になります」
院政が形式的なものになると、譲位は基本的に武士(幕府)の意向に従ったものとなります。いわゆる紫衣事件への反発から後水尾天皇江戸幕府徳川将軍家)への抗議意思として強行した譲位*13は極めて例外的なものだったわけです。江戸幕府にとって、彼の譲位強行は政治的痛手でしたが、尊皇攘夷運動で幕府の屋台骨がぐらつく幕末ほどのダメージではありませんでした。なお、乙巳の変保元の乱平治の乱承久の乱建武新政紫衣事件についての詳しい説明は省略しましたが、ウィキペディアだけでもある程度の概要は分かりますので是非参照下さい。いずれにせよこうした歴史からは『天皇はずっと崇拝されてきた』という右翼の主張が事実に反することは明白でしょう」

参考

「上皇」を歴史的に振り返る 専制と形骸化、変転した院政|好書好日
 院政とは、上皇天皇選定権を握り、それをテコに朝廷の人事権も手中に収め、太政官を中心とする政治行政機構を動かす政治という。保元・平治の乱や源平争乱、平氏政権や鎌倉幕府武家権力の伸長のなか、なお国政の主導権を握り専制的な院政が続いた。しかし、承久の乱に敗れ天皇選定すら自由にならない事態に追い込まれ、それ以降、院政は形骸化しながら断続的に続き、江戸時代後期の光格天皇で幕を下ろす。


明仁天皇の象徴天皇観:その行動と思想を考える(瀬畑源*14
(内容紹介)
Q&A形式で書いてみます。

明仁天皇の象徴天皇観についてどう理解すべきでしょうか。」

「彼の本心をストレートに知ることは不可能であり、いわゆる『お言葉』から間接的に知るほかないわけですが、私なりの考えを述べてみます」
「まず彼の2016年8月8日のメッセージを見てみましょう。彼は

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば:象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(ビデオ)(平成28年8月8日) - 宮内庁
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。
天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。

と延べ退位意思を表明しました。ここからは彼の天皇観として『国事行為や象徴としての行為(いわゆる公務)』を実現できる健康状態であることが天皇としての最低条件という認識をしていることがうかがえます。」
「次に天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して(平成21年) - 宮内庁
天皇陛下ご即位二十年に際し(平成21年) - 宮内庁
を見てみましょう。
 彼は

天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して(平成21年) - 宮内庁
・私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ,これを守ってきました。

天皇陛下ご即位二十年に際し(平成21年) - 宮内庁
・平成の象徴像というものを特に考えたことはありません。

と述べています。これを素直に考えるならば、明仁天皇の言動を『開かれた皇室』『平成流』など昭和天皇とは大きく異なるものと見なし、好意的な評価をしたり、否定的な評価をしたりすることは間違っている、明仁天皇の主観としては『現実にあわない部分のみ小規模に修正している』ということになるのでしょうが、こうした発言を右翼方面からの天皇批判を避けるための明仁氏のポジショントークと見なすか、全くの本心と見なすかで評価は変わってきます。ここでは明仁氏は公式発言としては『ドラスティックな変化などした覚えはない』と表明していることだけ指摘しておきます。」
「以前ひざをつく両陛下、被災者と同じ目線 まず皇后陛下から:朝日新聞デジタル語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイルでも指摘したことですが、昭和天皇明仁氏の違いとして『膝をつく』『行幸先での会話』と言うことを挙げたいと思います。
 行幸先での会話についていえば昭和天皇をネタにしたギャグで「あ、そう」というネタがあるほど、彼は無愛想でした。そこには『失言してはならない』という縛りだけでなく『権威を保つには安易に語るべきではない』という考えがあったように思います。
 しかし

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201810/CK2018102802000115.html
 両陛下は6人の小中学生の6作品を鑑賞。陛下が絵画コンクールの小学校低学年の部で県知事賞を受けた四万十(しまんと)市立中村南小2年、大塚健士朗君(8つ)に「どういうところを描いたんですか」と尋ね、皇后さまが「良い絵が描けましたね」とたたえるなど、和やかに談笑した。

と言う記事で分かるように当たり障りのない社交辞令が多いとは言え、明仁天皇夫妻は昭和天皇よりも「会話に努め」フレンドリーな雰囲気を演出しようとしています。
 『膝をつくこと』ですが、おそらく死ぬまで「国家元首意識」が抜けなかった昭和天皇にとって「赤子の前」で膝をつくことなど論外だったでしょう。しかし明仁氏は象徴天皇制を維持するにおいては『近寄りがたい権威』よりは『親しみやすい関係』を重視しているように思います。その立場からすれば『膝をつく』ことはむしろ国民の目線にたち、信用を得ようとするための当然の行為と言えるでしょう。ただしこうした『膝をつく』行為はひざをつく両陛下、被災者と同じ目線 まず皇后陛下から:朝日新聞デジタル語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイルでも指摘しましたが、美智子皇后の影響で始まったと思われます。その意味では大企業令嬢で「庶民ではない」とは言え、皇族、華族出身ではない美智子皇后が皇室に与えた影響は彼女の個性によって『初の民間人皇后』と言う以上に大きなものがあったように思います。だからこそ後に週刊文春、宝島30といった右派メディアによる美智子皇后バッシングが起こったと言えます」
「なお、ウィキペディア小泉信三』は

小泉信三
 1949年(昭和24年)には東宮御教育常時参与に就任、皇太子明仁親王(現在の上皇)の教育掛として『ジョージ5世伝』などを講義し、新時代の帝王学を説いた。

と書いています。つまり、明仁天皇はいろいろな形で(日本皇室の参考材料として?)英国王室についての知識を得ているわけです。これは深読みのしすぎかもしれませんが、あの『退位ビデオメッセージ』のときに映画『英国王のスピーチ』で知られる『ジョージ6世(ジョージ5世の息子)のスピーチ』も明仁氏の頭の中にあったのではないか。まあジョージ6世のスピーチと明仁氏のビデオメッセージでは大分性格が違いますが」

参考
ジョージ6世英国王のスピーチ

ジョージ6世ウィキペディア参照)
 1936年1月20日にジョージ5世が死去すると、長男デイヴィッドがエドワード8世として即位。エドワード8世は未婚で、子どももいなかったため、ジョージ5世の次男アルバート(後のジョージ6世)が推定王位継承者となった。即位後一年も経たない1936年12月11日に、エドワード8世は二度の離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を選択して、王位の放棄を宣言した。以前からシンプソンとの結婚を望んでいたエドワード8世だったが、当時のボールドウィン首相からは、アメリカ人の平民で、離婚歴のある女性と結婚すれば王位にいられなくなると反対されていた。しかし、エドワードはイギリス王位よりもシンプソンとの結婚を選んだ。
 エドワード8世の退位に伴って、推定王位継承者だったアルバートがイギリス国王ジョージ6世に即位した。しかしアルバートにとっては、国王の座は望んでもいない押し付けられたものだった。即位が正式に決まった際には、ルイス・マウントバッテンに対して「私は何の準備もしてこなかった。国王になるように教育を受けていたのはデイヴィッド(エドワード8世)の方だ」と愚痴をこぼしたという。

英国王のスピーチウィキペディア参照)
 2010年のイギリス映画。吃音に悩んだイギリス王ジョージ6世コリン・ファース)と、その治療にあたった言語療法士ジェフリー・ラッシュ*15)の友情を史実を基に描いた作品。第83回アカデミー賞では主演男優賞(コリン・ファース)など4部門を受賞した。
■あらすじ
・1925年、大英帝国博覧会閉会式で、ヨーク公アルバート王子はエリザベス妃(ヘレナ・ボナム=カーター*16)に見守られ、父王ジョージ5世(マイケル・ガンボン)の代理として演説を行った。しかし、吃音症のために悲惨な結果に終わり、聴衆も落胆する。
 アルバート王子は、言語聴覚士ライオネル・ローグの吃音症治療を受け、一定の成果が見られた。しかし、兄である国王エドワード8世(ガイ・ピアース)のウォリス・シンプソン(イヴ・ベスト)との醜聞を聞いたローグに、「あなたが国王に即位すべきだ」と言われたアルバート王子は「あなたのような平民に言われる筋合いはない」と怒りローグの元から去ってしまう。
 結局エドワード8世はウォリスとの結婚を諦めきれず、結婚するが、ボールドウィン首相(アンソニー・アンドリュース)らの反対を受け、即位して1年も満たぬうちに退位し、アルバート王子が『ジョージ6世』として即位する。アルバートは国王の重責に、自分は今まで海軍士官しか務めたことがないとエリザベス妃に不安を吐露する。新国王の吃音症は依然として深刻で、王位継承評議会での宣誓は散々であった。ジョージ6世夫妻は再びローグを訪ね、謝罪して治療を再開する。
 1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻を受けて、9月3日に英国はドイツに宣戦布告、第二次大戦が始まる。同日、ジョージ6世は国民を鼓舞する演説を、緊急ラジオ放送で行うことになる。緊迫した状況の中ジョージ6世は、ローグと二人きりの放送室で完璧な演説をこなす。放送室から出てきた国王は、報道用に堂々と原稿を読む姿を撮影すると、妻エリザベス王妃、そして娘エリザベス王女(後のエリザベス2世女王)(フレイア・ウィルソン)、マーガレット王女(ラモーナ・マルケス)とともに宮殿のバルコニーに出て、待ち構える大衆に手を振る。その様子をローグは満足げに見守るのだった。

■ウォリス・シンプソン(ウィキペディア参照)
エドワード8世にはウィンザー公の称号が授けられ、ウォリスは「公爵夫人」となったが、エドワード8世、ジョージ6世の母であるメアリー王太后や、王妃となったエリザベスは、生来病弱なうえに吃音症や脚の障害を抱えるジョージ6世の体調を気遣い、彼を無理矢理王位につかせたとウォリスを憎んだ。以降、エリザベス王妃はウォリスを「あの女」、ジョージ6世も「シンプソン夫人」と呼び、決してウィンザー公夫妻を公式行事に招待することはなかった。
・ようやく公的にウォリスが「公爵夫人」として王室行事に招かれたのは、1967年のメアリー王太后生誕100年式典が初めてであった。
・1972年、夫エドワードが亡くなるとウォリスは、イギリスを去り、パリで余生を過ごした。1976年に、義妹であるエリザベス王太后が訪問するが、ウォリスは体調不良を理由に会談を直前にキャンセルしている。2人のわだかまりは最後までとけなかった。


美智子皇后バッシングなど】

平成皇室は「皇太子への憂鬱」から始まった | 文春オンライン
■河西秀哉(神戸女学院大准教授。象徴天皇制を研究)
 今では「平成流」と広く呼ばれるようになった天皇皇后の在りようは、多くの国民から支持を集めていますが、最初はあんまりうまくいっていなかったんです。美智子皇后がメディアからバッシングを受けたことで起きた「美智子皇后失声症」(1993年)を、私は大きな事件だと思っています。
 「昭和天皇の時代はよかった」と懐古する人たち、とりわけ保守的な立場の人からの批判が、明仁天皇だけでなく、女性という、より弱い立場の美智子皇后に向いた点が重要です。バッシングについて「どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。(中略)しかし、事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます」(1993年10月20日、誕生日に際して)と文書で述べたあとに美智子皇后が倒れると、世論は擁護ムードに傾きました。
 昭和の時代から、たとえばジャーナリストの児玉隆也*17 は「皇太子への憂鬱」(「現代」1973年9月号、のちに児玉『この三十年の日本人』新潮文庫、1983年に収録)の中で、「皇太子に魅力がない」という意見を紹介し、皇太子は「(ボーガス注:ミッチーブームという)“妻の持参金”で食べている。だが、その“貯金”はもうなくなりかけていることに、周辺は気づいていない」と批判しています。1989年に明仁天皇が即位した当時は、「開かれた皇室」と言って歓迎されましたが、(ボーガス注:昭和天皇に比べ地味でカリスマ性がないという)やはり批判的な意見を持っている人も(ボーガス注:昭和天皇万歳の右派を中心に)まだまだ多かったんです。
 昭和の時代、明仁皇太子(当時)が福祉施設を訪れたときの新聞記事を見ると、立ったままで少しぎこちない様子に見える写真が載っています。その一方で、ベッドに横たわっている人に顔を近づけて、話しかけているのは美智子皇太子妃(当時)なんですね。
 「雲仙・普賢岳被災者のお見舞い」(1991年)では、はじめて天皇皇后としてひざをついて、 避難所で生活する被災者に語りかけました。この時はまだ手探りであったと思いますが、その後様々な場所への「お見舞い」を経る中で、次第に現在のスタイルが確立します。私は、お二人が一緒になって公務に取り組むうちに、だんだんと明仁天皇が慣れていったのではないかと考えています。
辛酸なめ子*18(漫画家、コラムニスト。毎年、新年一般参賀で皇居を訪れている皇室ウォッチャー) 
 昨年9月、天皇皇后両陛下が私的旅行で訪れられた埼玉県の高麗(こま)神社に私も行ってきたんですよ。1週間くらい後に。
■河西
 7世紀に滅亡した朝鮮半島高句麗からの渡来人をまつる高麗神社を、天皇皇后が参拝しましたね。天皇は2001年の誕生日会見で「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言しています。
■インタビュアー
 「退位」についての天皇陛下のお言葉は相当ダイレクトでした。
■河西 
 あの「おことば」からは「疲れたから辞めたい」というよりは、「今ある公務を減らすということは、自分が考える象徴としてのあるべき姿ではないから、それならば全部譲りたい」という心理がにじみでていたと思います。ただ、それは今の政府やそれを支える層の意向とそぐわないという事情もあったのでしょう。それから「天皇のお気持ちをNHKがスクープした」という点については、どういうプロセスを経て至ったのか、今後検証されなければならないと思います。

 河西氏や瀬畑氏の言う「膝をつく」云々については

平成の天皇と皇后 昭和の残像を乗り越え :日本経済新聞編集委員 井上亮*19
・1991(平成3)年7月10日、天皇、皇后両陛下は長崎県雲仙・普賢岳噴火の被災者を見舞うため、島原市などを日帰り訪問された。
・避難所で床に膝をついて被災者に言葉をかける両陛下。同じ目線で人々に寄り添う「平成流」の始まりとして"伝説"となっている。
・ただ、当時注目されたのは「膝をついてのお声かけ」よりも、ノーネクタイでワイシャツを腕まくりした天皇陛下の姿だった。天皇はどんな場でも国民の前ではスーツの正装というイメージを覆した。
 天皇と国民の距離を一気に縮めたこの被災地訪問に対して、称賛と同時に「天皇らしくない」と昭和時代を知る宮内庁関係者から批判があったことも定説化している。

を、
 河西氏の言う「明仁氏にはカリスマ性がない」つう話については

平成の天皇と皇后 昭和の残像を乗り越え :日本経済新聞編集委員 井上亮)
 1976(昭和51)年、ある新聞に「皇太子殿下=パ・リーグ論」という記事が掲載された。実力はあるが人気の面でセ・リーグに後れを取るプロ野球パ・リーグになぞらえ、「真面目で堅実だが、将来の天皇としてはいまひとつ」という評価だった。
 昭和一けた世代の作家、半藤一利さん*20(87)は「私たちの年代の人間は、皇太子時代の天皇陛下に対して、大丈夫かな、という印象があったのは確か」と述懐する。

を紹介しておきます。まあ「1976年」というと「人気のセ、実力のパ」つう言葉があった、つうか「確か1980年代まではそういう言葉があった(そして俺は一応そういう言葉をリアルタイムで知っています)」わけですが、最近の若者は「パリーグは人気あるじゃないですか?」で「ポカーン」でしょうね。
 なお、河西氏が紹介する「事実でない報道」云々という発言が宮内庁や皇族サイドから最初に出たのはおそらく「美智子皇后失声症」(1993年)でしょうが、その後も

「週刊文春」(平成30年7月26日号)の記事について - 宮内庁
 週刊文春7月26日号の「小室さんは『夢追い人なの』~美智子さまのお嘆きと眞子さまのNY行き」と題する記事において,匿名の「知人」の話として,皇后さまが小室圭さん*21のことを「あの方は夢追い人なの。でもその夢は完成しない,不完全なもの」と語られるなど,様々に話されたとの記述があります。記事は,その背景について,8月から3年間の予定で小室さんが米国留学するとの報に「ご心配が募った」皇后さまが,小室さんの将来を憂えて知人に話したものと説明し,さらに,小説「星の王子さま」に出てくるエピソードまでを例にあげ,「知人」という人が伝える皇后さまのお言葉なるものを紹介しています。
 眞子内親王殿下をめぐる週刊誌報道については,既に本年5月25日宮内庁ホームページで,両陛下は,極力周囲の雑音から眞子さまを守り,静かな状況を保つ中で,眞子さまがご自分の考えを深められるよう首尾一貫して一切の発言を慎まれてこられたこと,また,眞子さま秋篠宮両殿下の周辺で,皇后さまの名の下に思いも寄らない様々な雑音が立てられていることに皇后さまのみならず陛下も深くお心を痛めておられることを説明しました。
 記事は,このホームページにおける説明の一部を引用しつつも,「美智子さまのお嘆きの気持ちは,余りにも痛切だ。・・・『小室さん米国留学』の一報は,皇室の雰囲気を一変させるに余りあるものだった」として,「知人」の談話を通して,その後,皇后さまのお考えが変わったと報じています。
 しかし,この問題に対する両陛下のご対応には,その後も全く変わりがありません。今も一貫して一切の発言を慎まれています。

天皇陛下に対する総理内奏に関する記事について - 宮内庁
 令和元年5月16日付けの毎日新聞朝刊は,同14日の天皇陛下への総理の「内奏」を報じる記事の中で,「関係者によると,首相は『前の天皇陛下はいつも座ったままだったが,今の陛下は部屋のドアまで送って下さって大変恐縮した*22』と話した。」と伝えています。
 総理の内奏は,天皇陛下と総理二人だけの行事であり,他に同席する者はなく,その内容も室内の様子も外からは分かりませんが,「前の天皇陛下」すなわち上皇陛下が,座ったまま総理をお見送りになることはあり得ません。上皇陛下は,行事に際し,宮内庁職員に対しても必ず席を立って挨拶をお受けになっており,外から来られた方を座ったまま出迎え,見送られた例は,相手が誰であれ一度もなかったと思います。
 閣僚の内奏については,皇室と国政との関係から,昭和時代には閣僚の内奏後に問題が起こり,閣僚*23が辞任した例もありましたが,上皇陛下はこのようなことがないよう毎回細心の注意を払われ,いわば儀式に準ずるものとして臨まれてきました。そうした背景から,宮内庁としても総理内奏を慎重に取り扱い,その様子を初めて映像公開したのも上皇陛下が80歳をお迎えになってからのことでした。なお,この映像でも,勿論,上皇陛下は席をお立ちになって総理をお迎えになっています。

などいろいろとそういう「事実に反する報道」云々というカウンターはでています(まあ毎日の記事の場合、皇室と言うより「上皇に対して無礼」との批判を恐れる安倍の働きかけかもしれませんが)。分量がやたら多いので最近の2個だけ紹介しましたが、

皇室関連報道について - 宮内庁
 最近の報道の中には,事実と異なる記事や誤った事実を前提にして書かれた記事が多々見られます。このことにより,事実でないことが事実として受け止められ,広く社会一般に誤った認識が生ずることが懸念されます。このため,あまりにも事実と異なる報道がなされたり,更にはその誤った報道を前提として議論が展開されているような場合には,必要に応じ宮内庁として,正確な事実関係を指摘することといたしました。

を見ると最近のそうした宮内庁サイドのマスコミ(サンデー毎日、女性自身(光文社)、女性セブン(小学館)、週刊朝日週刊現代講談社)、週刊新潮週刊文春、フライデー(講談社)、毎日新聞など)への抗議が全部見れます(ぱっと見た限りは週刊文春への抗議が一番多い)。まあこうした「抗議のきっかけ」は明らかに「宝島30や週刊文春による美智子妃バッシング」でしょうね。
 しかし毎日新聞記事については「違憲の疑いがある内奏など辞めればいいのに」と思いますがそうもいかないんですかね。まあ、前天皇にせよ、新天皇にせよ、拙記事「天皇による天皇の政治的利用」の紹介 - bogus-simotukareのブログで紹介した「昭和天皇の発言(例:沖縄メッセージ)」ほど無神経な政治発言を内奏時にしてはいないでしょうが。
 なお、こうした抗議は普通に考えて天皇、皇族の事前同意は得ているでしょうね。まさか同意もないのに宮内庁も勝手に抗議はしないでしょう。つまりこうした抗議からは天皇、皇族がどのようなイメージを社会に持ってほしいか(逆に持ってほしくないか)がある程度わかるわけです。「事実でないから抗議した」というだけの話ではないでしょう。
 天皇陛下に対する総理内奏に関する記事について - 宮内庁で抗議したのは「座って見送るなんて元天皇は横柄だ」というネガティブイメージを、「週刊文春」(平成30年7月26日号)の記事について - 宮内庁で抗議したのは「孫娘でも成人女性に恋人のことについてあれこれ言うのはおかしい」「実の両親ならともかく祖母があれこれ言うのはおかしい」というネガティブイメージをもたれたくなかったからでしょう。
 なお、こうした抗議は昭和天皇においてはあまりなかったように思いますね。そこには「下々の者が何を言おうと相手にしないのが君主の態度」と昭和天皇が考えていた*24のに対し、明仁天皇は「愛される天皇像」を演じなければ皇室を維持できないという考えがあるように思いますね。

宮内庁という「とんでもない役所」 皇后が声を失った真実 (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)(岩井克己*25
■インタビュアー
 思い起こされるのが、昭和から平成への代替わり間もないころに起きた皇室バッシングです。皇后さまは1993年10月20日の誕生日の朝に倒れ、声を失う事態となりました。
■岩井
「私の天皇像とは、天皇制を遂行できる天皇である。もしそれができない天皇ならば退位してもらいたい」
 93年の「諸君!」12月号に掲載された加地伸行大阪大学名誉教授の論文です。平成が本格的に船出し、東南アジアや中国を訪問した時期に、守旧派は平成の皇室に対する批判を強めました。そして、バッシングは皇后に集中していったのです。
 「皇后の役目は、ダンスでもなければ災害地見舞でもない」(加地氏)
 皇后が倒れた朝に公表された誕生日の文書回答で、皇后はこう記していた。
「どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います(中略)批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません」
 言論の自由が萎縮してはならない、と述べたのです。「皇室の務めは災害見舞いではない」「皇居の奥で祈るだけでよい」との守旧派の批判に、天皇、皇后は耳を傾けつつも決して屈しなかった。
 その後も戦争の犠牲、災害の犠牲に現地を訪れて祈りを捧げ、国内外の人々とふれあい、絆を結ぶことに全身全霊で努め続けた。
 生前退位も、こうした象徴のありようを十全な形で次世代に継いでもらいたいとの思いからでしょう。


【瀬畑氏の主張】

ひざをつく両陛下、被災者と同じ目線 まず皇后陛下から:朝日新聞デジタル
 まず、両陛下が被災者の前でひざをついて語りかける姿について。象徴天皇制を研究する河西秀哉(かわにし・ひでや)・神戸女学院大准教授(40)や瀬畑源(せばた・はじめ)・長野県短大准教授(41)、森暢平*26 (もり・ようへい)・成城大教授(53)はテレビ番組や新聞記事を皇太子夫妻時代からさかのぼって調べた。
 たとえば皇太子明仁さまが1959年10月、天皇の名代として伊勢湾台風の被災地を訪れた際は、座っている被災者に、自身は立ったままで話しかけている。一方、皇太子妃美智子さまは、結婚後間もない62年に九州を訪れた際、宮崎や鹿児島の児童施設で子どもが横たわるベッドにかがみ込んだり、ひざをついたりして子どもたちに語りかけていた。

語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル瀬畑源(長野県短大准教授)
・国内外の戦没者の慰霊に積極的に取り組み、特に、父の昭和天皇が最後まで訪問ができず*27に象徴的な空白を残していた沖縄に思いを寄せ、沖縄の人々の中に残る天皇制へのわだかまりを少しずつ解いていった。
 (ボーガス注:2月24日、「天皇陛下御在位三十年記念式典」で)天皇が詠んだ沖縄伝統の琉歌(りゅうか)に皇后が曲をつけた「歌声の響」を沖縄出身の歌手、三浦大知(だいち)が歌ったのは、その象徴的なシーンであった。天皇制から「戦争」というイメージをほぼ払拭(ふっしょく)したのは、天皇自身の努力の賜物(たまもの)であったことは疑いないだろう。
 一方で「旅」の印象も強い。安倍晋三首相の祝辞の最初に取り上げられたのも、度重なる被災地への慰問であった。天皇、皇后の姿と聞いて思い浮かぶのは、膝をついて手を取って被災者を慰問するシーンである人は多いのではないか。
 天皇は、2016年8月8日のビデオメッセージの際、次のように述べた。

 日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じてきました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后とともに行ってきたほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇は、「旅」をすることが、国民に象徴の立場を理解してもらうためだけでなく、自分自身が国民を理解し、ともにあることを自覚するための手段として非常に重要であると認識していることがわかる。
 だからこそ、高齢で体が動かなくなる前に、「旅」を続けることのできる後継者に位を譲る必要があったのだろう。
 天皇が「旅」(行幸)にこだわるのは、必ずしも今上天皇のオリジナルではない。近代以降の天皇は、どの天皇も地方への行幸を繰り返し、国民との紐帯を築くことに腐心してきた。
 これは日本に限ったことではない。世界各地の近代君主制国家において、君主が国民の前に姿を現し、国民とともにあることを示し続けることは、君主制存続のためにも必要不可欠な活動であった。
 国民の気持ちが離れて君主制が崩壊する事例は、(ボーガス注:第一次大戦後のドイツ、第二次大戦後のイタリアなど)ここ100年で枚挙にいとまがない。2000年以降でも、ネパールで君主制が崩壊している。
 国民との良好な関係を築くことは、日本の天皇制であっても、存続のために必要不可欠なことである。特に、今上天皇が意識していたのは、父、昭和天皇の姿であったように思われる。
 昭和天皇は1946年から、敗戦直後の国民の慰問と激励のため、米軍占領下の沖縄県を除く46都道府県に行幸を行った(戦後巡幸)。戦前の天皇が声をかけるのは、政治家や官僚、軍の高官などに限られていた。
 しかし、戦後巡幸において、昭和天皇は各地で工場労働者や戦没者遺族などに声をかけ、言葉を交わしていった。朴訥(ぼくとつ)とした昭和天皇の話し方は、口癖である「あっ、そう」が揶揄(やゆ)されることもあったが、一方で誠実さを示すものとして受け止められることも多かった。
 その後は、都道府県を巡回する全国植樹祭国民体育大会への行幸啓を繰り返し、全国各地へと「旅」を続けていった。この意味では、昭和天皇も「旅」をし続けた天皇といえるだろう。
 象徴天皇制の下での行幸は、国民一人一人と天皇との関係を構築し、その結びつきを強めるために不可欠のツールとして機能し続けてきたのである。
 ただ、今上天皇昭和天皇と大きく異なるのは、「行幸先」と「行幸時の対応」であろう。「被災地への慰問」は、明らかに今上天皇の特徴である。
 昭和天皇も被災地への慰問を全くしなかったわけではない。1945年3月10日の東京大空襲(3月18日)や、カスリーン台風被災地(1947年9月21日、25日)、伊豆大島三原山噴火(1987年6月22日)などが挙げられる。
 ただ、ほとんどの場合は、侍従などを差遣して見舞金を渡すことにとどまった。これは、天皇が被災地に向かえば、天皇を迎えるための準備に要員を割かれることになり、かえって被災地の負担になることが懸念されたためである。特に、戦後の昭和天皇の場合は、過激派の反天皇制闘争などの影響もあり、警備を緩めるという判断が難しいという事情もあった。
 一方、今上天皇は、皇太子時代の三原山噴火被災者の慰問の時から、膝をついて話している姿が確認できる(1986年11月29日)。雲仙普賢岳の噴火の際の慰問が、即位後初めての被災地慰問となった(1991年7月10日)。
 地元の負担を軽減するために、日帰りでの訪問や、沿道の警備負担が減ることもあり、ヘリコプターを多用することが採用された。これは、その後の被災地慰問でも基本的に引き継がれている。
 ただ、いくら負担軽減策を採っても、地元に負担が無くなるわけではない。それでもなお、慰問を行おうとするのは、直接その場に行って、被災者と心を通わせて励ますことが天皇の役割であるとの強い意志があるのだろう。
 当時は、保守派の中からは「天皇が膝をつくとは何事だ」という批判も少なからずあった。昭和天皇は国民の前に膝をつかなかった。握手もしなかった。
 昭和天皇にとって、国民は「赤子(せきし)」であるという感覚は、最後まで抜けなかったように思われる。膝をつく行為は、天皇の権威を傷つけるものだと考える人たちが一定数いたのである。
 この今上天皇の膝をつくスタイルは、美智子妃の影響だと考えられる。天皇制研究者で名古屋大の河西秀哉准教授は、1960年代の皇太子と美智子妃の写真を分析し、福祉施設などへの慰問の際に、美智子妃は腰をかがめて顔を近づけて、手を握って話そうとするのに対し、皇太子は後ろで立ったまま話していることが多い。皇太子が美智子妃の距離感を学んでいった結果、現在のスタイルになったのではないかと論じている(河西秀哉*28美智子皇后論」、吉田裕*29ほか編『平成の天皇制とは何か』岩波書店)。
 皇太子時代の被災地慰問として知られる伊勢湾台風の際、皇太子は座っている被災者に対して、立ったまま話をしている映像が残っている(1959年10月4~5日)。ただ、当時の記事を見ると、被災者に会わせずに上空からの視察にとどめようとした愛知県や三重県に対して、被災者と会う機会を作ってほしいと強く主張したのは皇太子だったという。
 被災者と直接会って声をかけるのは、昭和天皇の「戦後巡幸」を彷彿(ほうふつ)とさせる。ただ、この時はまだ、立ったままの昭和天皇スタイルだった。それが、美智子妃との出会いで大きく変わっていったのである。
 そして、今上天皇の被災地訪問の特徴として、もう一つ考えなければならないのは「継続性」である。被災地の慰問は1回行えば済むと考えておらず、その復興状況を確認するということも一環として考えている。そして、その慰問は、ただ単に被災者を励ますということだけではなく、被災者以外の人たちに、「被災地のことを忘れないように」というメッセージを込めているように思われる。
 天皇としての「旅」は2019年4月末をもって、終わりを告げることになる。その後はどうなるのだろうか。上皇として「旅」を続けるのだろうか。それとも、新天皇に全てを委ねていくのだろうか。
 皇后とともに歩んだ今上天皇のスタイルを、皇太子がどこまで引き継げるかは未知数である。ただ、今後も被災地訪問は、天皇と国民との紐帯を強化するものとして、引き継がれることになるのではないか。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201810/CK2018102802000115.html
天皇、皇后両陛下は二十八日、最後の「三大行幸啓(ぎょうこうけい)」となる、高知県での「全国豊かな海づくり大会」に出席される。
・海づくり大会は、水産資源の保護や漁業振興などを目的に一九八一年にスタート。両陛下は皇太子夫妻だった当初から八八年を除き出席し、即位後も出席を継続してきた。両陛下がそろって出席する恒例行事であることから、昭和天皇から引き継いだ国民体育大会全国植樹祭とともに「三大行幸啓」と称された。
・今年の植樹祭は六月、国体は九月に既に終えている。宮内庁幹部は「宮内庁として『三大』という特別の位置づけはしていない。両陛下は、どのお務めも一つ一つ大切にしている」と語るが、両陛下は毎年、都道府県が持ち回り開催する三行事に、決まって二人で出席し続けてきた。
・両陛下は、三大行幸啓の機会に近隣県などに足を延ばすことも多く、地方の視察と住民との交流を重ねてきた。昨年十一月の鹿児島県訪問で、全国都道府県訪問の二巡目を達成したが、これに三大行幸啓が果たした役割は大きい。
 天皇制に詳しい瀬畑源(はじめ)・長野県短大准教授(日本現代史)は「自由に地方に行けない両陛下にとり『三大行幸啓』を契機に地方を訪ね、国民と触れ合い、支持を獲得し、天皇制の安定につなげてきた面がある」と指摘する。来年四月の退位後は、新天皇、皇后となる皇太子ご夫妻に引き継がれるとみられる。瀬畑准教授は「雅子さまのご体調なども考慮すると、両陛下と同じ頻度で行幸啓をこなすのは難しい面もある。皇族も減少していく中で、公務の在り方についてオープンな議論が必要だ」と話している。
◆両陛下、児童らの作品鑑賞 高知
 天皇、皇后両陛下は27日、全国豊かな海づくり大会出席などのため、羽田発の特別機で高知県に到着された。
 香美(かみ)市の県立林業大学校を訪ね、木造建築を学ぶ学生らと交流後、高知市内のホテルへ移動。大会の一環として開かれた絵画、習字作品コンクールの優秀作品を鑑賞し、歓迎レセプションに出席した。
 両陛下は6人の小中学生の6作品を鑑賞。陛下が絵画コンクールの小学校低学年の部で県知事賞を受けた四万十(しまんと)市立中村南小2年、大塚健士朗君(8つ)に「どういうところを描いたんですか」と尋ね、皇后さまが「良い絵が描けましたね」とたたえるなど、和やかに談笑した。レセプションでは大会関係者と懇談した。

昭和天皇 拝謁記 軍の求めでも皇太子の任官許さず | 注目の発言集 | NHK政治マガジン
 昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、11歳の時に軍に任官した昭和天皇がみずからのつらい経験から、皇太子だった上皇さまの軍への任官を遅らせたことなどが記されています。専門家は「青年将校への不信感や皇太子の教育に悪影響を及ぼすおそれを感じ、できるだけ任官を遅らせて軍部や青年将校から皇太子を守りたいという考えがかなり強かったのだろう」と話しています。
 「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
 上皇さまが学習院中等科3年生だった昭和24年11月8日の拝謁では、お住まいの東宮御所の建設場所について「宮城(きゅうじょう)内又ハ近接ノ地ノ方考ヘラレヌカ。実ハ東宮御所ハ私ノ所ト近イ所ガヨイト思フ。容易ニ交通シ得ル所ナラバ別ニ宮城内トハ限ラヌガ可成(なるべく)近イ所ガヨイト思フ」と、なるべく近くに住まわせたいと話したことが記されています。
 昭和天皇はその理由として、自らが若い頃、イギリスを訪問した際、のちの国王エドワード8世から父・大正天皇とどのくらい会っているのか聞かれたエピソードをあげ、「其頃は一週一度位デアツタ故忠孝ノ国トイハレル日本トシテ返答ニ苦シンダ事ハ今ニ私ハ忘レヌ。皇太子ガ何レ(いず)外遊スルデアロウガ其時又私ト同ジ苦シイ返答ヲサセタクナイト思フカラダ」と語ったと記されています。
 さらに「拝謁記」には、上皇さまが皇太子時代に、軍人になることなく、11歳で終戦を迎えられた理由も記されていました。
 戦前、皇太子は原則として満10歳で陸海軍の少尉に任官するとされていて、昭和天皇明治天皇の死去に伴って皇太子となった11歳のときに任官しましたが、昭和天皇は軍から求められても皇太子の任官を許しませんでした。
 その理由について昭和天皇は、上皇さまの成年式と立太子礼が行われた翌月昭和27年12月18日の拝謁で、「私は十一位(くらい)で少尉となり立太子後ハ直(す)ぐ東宮武官といふものが出来た。私ハ武官程いやなものはないとしみじみ思つた。殆んど軍のスパイで私の動静ノある事ない事を伝へるだけの者でこんないやな者ハない」と任官後のつらい経験を振り返りました。
 そのうえで、「立太子礼を行へば東宮職内ニ東宮武官が出来るから私ハ立太子礼を成年後ニ延さうと終始考へてやつて来たので戦争中からずつと其積りであつたのだ」と皇太子に同じ思いをさせたくないという理由を語ったと記されています。
 象徴天皇制に詳しい成城大学の瀬畑源非常勤講師は「皇太子が軍人になることは戦意の高揚につながるし、国民みんなに戦争に協力させる旗印にもなるので、当時の東條英機*30総理大臣は戦争遂行のため皇太子を早く軍人にしたいという意向だったが、昭和天皇がそれを拒んでいた理由が結構プライベートな話だったというのは驚いた。昭和天皇は、青年将校への不信感や皇太子の教育に悪影響を及ぼすおそれを感じ、できるだけ任官を遅らせて軍部や青年将校から皇太子を守りたいという考えがかなり強かったのだろう」と話しています。


【瀬畑氏以外の主張】

平成の皇室の象徴「ひざまずき」のスタイルはいかにして生まれたのか? (2/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)放送大学教授・原武史
 (ボーガス注:明仁・美智子夫妻の)最初の本格的な地方視察は、61年の長野県行啓であった。この行啓で早くも、同時代の昭和天皇香淳皇后行幸啓との違いが明らかになる。穂高町(現・安曇野=あずみの市)の養護老人ホーム「安曇寮」を訪れたとき、美智子妃がひざまずいたのだ。
美智子さまは、タタミにヒザをおろし、室内の鈴木まさえさん(68)、中村たつさん(73)らと顔をよせるようにして『ここへきて何年になります。町へもときどきは出かけますか』などご質問。耳の遠い老人たちがぽつぽつお答えすることばに、やさしくうなずいておられた」(「信濃毎日新聞」61年3月28日)
 当時の写真を見ると、ひざまずいているのは美智子妃だけで、皇太子は立っている。昭和天皇香淳皇后福祉施設を訪れることはあったが、ひざまずくことはなかった。皇太子は「昭和」のスタイルを踏襲していたのに対して、美智子妃はこの時点で早くも「平成」を先取りしていたのだ。
 61年10月14日、皇太子夫妻は京都から富山県の高岡まで特急「白鳥」に乗った。この車内でも、美智子妃は皇太子と違う姿勢を見せる。
美智子さまは沿道〔線〕の小学生たちに一々手を振っておこたえになった。石動(いするぎ)駅を通過するころには歓迎の人波もぐんと多くなり、美智子さまはお席を左側にお移しになって、日の丸の旗を振って歓迎する小学生たちに終始笑顔でおこたえになっていた」(「北日本新聞」61年10月14日夕刊)
 昭和天皇香淳皇后行幸啓では、お召し列車が運転され、二人は御料車の席に座り、沿線住民から「奉迎」を受けることが多かった。だが美智子妃は、自分から沿線の人々に近づき、窓から手を振っている。これもまた「平成」を先取りする行為といえよう。
 60年代後半以降の行啓では、福祉施設などで皇太子が美智子妃とともにひざまずき、車内でも二人で一緒に沿線の人々に手を振るようになる。美智子妃が始めたスタイルに、皇太子も従うようになるのだ。

平成の象徴像の原点 皇太子時代、地方で若者と懇談 :日本経済新聞編集委員 井上亮)
 皇太子夫妻時代、地方訪問のたびに地元の青年男女との懇談会に臨まれた。懇談は2時間に及ぶこともあり、テーマも憲法や農家の結婚問題など様々。いまでは回顧されることがなく、知られざる事実だが、平成の象徴像の原点がここにあった。
 両陛下が初めて地方での懇談会に参加したのは、1959年の結婚から3年が過ぎた62年5月の宮崎県訪問。同月3日、農業、林業などに従事する19歳から30歳までの「働く青年」11人(男性8人、女性3人)と語り合った。
 一問一答を報じた宮崎日日新聞によると、天皇陛下は「豚肉の値下がりで、経営もなかなか苦労が多いでしょう」、皇后さまは「消費者の声を取り入れることが大事だと思いますけど、どうやって聞きますか」などと質問されている。懇談は午後7時45分から9時45分までの2時間。1時間の予定だったが、倍の時間に延びたという。同紙はこの懇談が「ご夫妻の希望で行われた」と記している。
 続いて同月7日、鹿児島県を訪問した際の懇談会(青年男女10人参加、2時間半)では、陛下の「いまどういう討議がさかんですか」という質問に、地元の学生が「核実験や憲法改正問題などです」と答えると「憲法問題におくわしい殿下は身をのり出すようにして話題は憲法問題*31に集中した」(南日本新聞)。
 翌63年9月17日には山口県で「農村青年のつどい」と題した男女23人を集めた懇談会が開かれ、陛下が「農家の労働は激しいようだが、若い人がこれからの生活改善をしていくにはどうすればよいのか」、皇后さまは「農村に女性をおヨメにやりたくないとか、行きたくないという話をききますが」「農家のヨメの労働時間はどうなっていますか」と尋ね、活発な議論になったという(防長新聞)。
 懇談は各地の農漁村や勤労青年の男女10人程度と行われることが多く、1時間の予定が30分以上オーバーするのが通例だった。とくに意識されたのが辺境で生活する人々との対話で、「辺地の教師、保健婦、保母との懇談」(68年8月、福島県)や「へき地に働く人々のつどい」(71年8月、徳島県)に臨まれた。
 地方での懇談会は70年代後半まで続けられていたが、全国メディアで報じられることがほとんどなく、各地の地方紙が詳しく掲載していた。
 69年8月の群馬県訪問では、上毛新聞が「あふれる人間味」として、心身障害児の施設で子どもたちの手や頭をなでながら声をかけたり、ほこりの舞う道でも車の窓を開け、スピードを緩めて沿道の人々に手を振る両陛下の姿を描写している。平成のスタイルはこの時期には確立していた。
 地方紙の記事を「再発見」し、近著「平成の終焉(しゅうえん)*32」で引用している原武史放送大学教授は「懇談会に男女が参加していることが重要。当時は女性の声が反映しにくい時代だったが、美智子妃が会話に加わって、それをすくい上げている。全国を回り、人々と直接やりとりをすることで、夫妻は地域の問題や多様性などを具体的に認識していったのではないか」と話している。

 原・放送大学教授や井上・日経編集委員*33が指摘するように明仁天皇が「新たな天皇像」を模索していたことは明らかなように思いますね。昭和天皇においてはこういう「対話集会」という発想自体がおそらくないでしょう。
 しかし、こういう話が忘れ去られるのだから人間の記憶もいい加減なもんです。
 そしてこういうことを書くと天皇崇拝者は「明仁陛下とあんな奴(プーチンなど)を一緒にするな!」などとほぼ確実に怒り出すでしょうが、こういう対話集会的発想は

露大統領:プーチン氏、退任後を語る 対話集会で - 毎日新聞
 ロシアのプーチン*34大統領は21日、「大統領退任後も政治活動は可能だ。座って回顧録を書くだけにはならない」と述べ、「希少生物の保護など環境保護に興味がある」と具体的に語った。露南部ソチで行われた青少年約800人との対話集会で、質問に答えた。

プーチン大統領が国民と直接対話、生活水準の向上を確約 - ロイター
・ロシアのプーチン大統領は20日、テレビを通じた毎年恒例の国民との直接対話を行い、賃金が下げ止まる兆しがあると説明し、政府プログラムにより生活水準は向上すると強調した。
・4時間を超えた直接対話では、低賃金やヘルスケアの問題など、国民に直結する様々な質問が寄せられた。
 サマラ地域に住む人からは、月給1万ルーブル(158.07ドル)でどのように家族を養えばいいのか、暮らしはいつ楽になるのか、との電話があった。プーチン氏は「実質賃金がここ数年下落しているのは事実だ。2016年に最も下げた。ただ、徐々に回復しつつある」と述べ、エネルギー相場の変動*35が賃金下落の要因だと説明した。
 政府プログラム「National Projects」により生活水準は改善するとし、このプログラムの成果が今年、来年と実感できると説明した。
 国民の生活は自身が政権の座に就く前の(ボーガス注:エリツィン*36大統領時代の)1990年代よりははるかに良くなっているとし、「1990年代のように給与が半年間も支払われないようなことは今はない」と強調した。
・支持率低迷につながった年金制度改革については、少子高齢化が進み労働力が縮小するなか、健全な財政を維持するためには不可欠だと説明した。
 政府は退職年齢を男性は60歳から65歳、女性は55歳から60歳に引き上げた。その結果、2015年に過去最高の90%近くあったプーチン氏の支持率は64%に落ち込んでいる。

など「独裁的政治家」において普通に見られる話ですね(なお、「プーチン、対話集会」などでググると他にもいろいろ記事がヒットします)。
 この件で「プーチンて民主的!」と評価したら「アホか?」「プーチンの手先か!」などと批判されるのと同様、「上から目線の昭和天皇」に比べたらましではあるにせよ「明仁夫妻って民主的!」と見るのはナイーブすぎます。
 まあ、それはともかく、プーチンも「一応、選挙で選ばれてるし、こういう集会もやるしそれなりに民主的ではある(それなりに支持者もいる)」んでしょうね。完全な独裁だったらこういう集会をやる必要はあまりないでしょう。

戦争に対する反省と人々との近さ - 河西秀哉|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
 1990年5月に盧泰愚韓国大統領が訪日した際に発した「おことば」において、過去の日韓の歴史に言及しながら「痛惜の念」という言葉を述べたが、これは天皇の強い意向であったという(『読売新聞』2017年12月30日)。昭和天皇1984年に全斗煥韓国大統領が訪日した際に「遺憾」という「おことば」を述べたが、明仁天皇はより責任を明確にした言葉を述べることを望み、それが反映されたのである。
 1992年10月には天皇皇后は初めて中国を訪問した。これは、天安門事件が起き中国政府に対する国際世論の評価が厳しい中で行われた訪中であった。この1990年代初頭、日中関係はかなり冷え込んでいた。戦時中の中国人強制連行への補償問題や慰安婦問題が取り上げられ、尖閣諸島などの領土問題も起きていた。日本国内においては、そうした動きを見せる中国に対する反発は大きかった。こうした状況もあり、保守層の中では天皇が中国を訪問し戦争責任について「謝罪」するのではないかという懸念が高まって、反対運動まで展開された。天皇は訪問の際、「両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」との「おことば」を発した。これは外務省内で原案を作成し、最終的には天皇が修正を加えたものであった。このように、「おことば」においてアジア・太平洋戦争に関する記憶を表明する天皇の姿が定着していく。
■保守派からの美智子皇后批判
 こうした平成の「開かれた皇室」は必ずしも順調に進み、今日に至ったわけではない。反発もあった。この路線を主導しているのは美智子皇后だと認識され、即位直後から、メディアの中では美智子皇后が新しい方向性を打ち出していると報道されている。美智子皇后は平成の新しい「開かれた皇室」路線の象徴と認識されていた。それゆえに、保守派の中から美智子皇后への批判が高まっていく。1993年、『宝島30』8月号に「皇室の危機」という論文が掲載され、明仁天皇美智子皇后が進める「開かれた皇室」路線に対しては批判的な態度が示された。ほぼ同時期に『週刊文春』も同様の記事を掲載、その後も美智子皇后バッシング報道のキャンペーンが展開されていく。いずれも、皇室内における美智子皇后の権力の強さを強調するもので、その振る舞いに苦言を呈する内容であった。そして昭和天皇時代の皇室を理想化し、「開かれた皇室」路線を批判する。しかし明仁天皇への批判は基本的にはない。天皇という立場上、批判できなかったからではないか。それゆえ、「開かれた皇室」路線の象徴と見られていた美智子皇后を批判し、それに歯止めをかけようとしていたのである。

 ウヨの美智子氏バッシング(明仁氏を非難できないので美智子氏を攻撃する)は日本政府の一帯一路参加などについて「安倍を攻撃できない」が故に「二階幹事長が悪い」「岸田外相(現・政調会長)が悪い」「河野外相(現・防衛相)が悪い」などというのとほとんど変わらない、くだらない話です。

(3ページ目)「新しく天皇になる方は大丈夫だろうか」という問いは繰り返されてきた | 文春オンライン奥野修司*37
 「皇室日記」(日本テレビ)の元プロデューサー・入江和子さんはこんなことを語っている。昭和26年に明仁皇太子が学友らと山形の蔵王へスキーの練習に行ったエピソードを、平成21年の「皇室日記」で放送した時のことである。
「殿下が泊まられた温泉旅館の女将に取材すると、4泊されたとおっしゃったんです。お泊りになったことは確かでしたので、大丈夫と思い放送しましたが、放送後、宮内庁の侍従の方からご連絡をいただき、『旅館に泊まったのは1泊で、あとはランプしかない質素な山の家に泊まったので訂正してほしい』と。慌てて当時の山形新聞で調べたら、やはりそうでした。旅館に何泊もされて、殿下と学友たちがすき焼きを召し上がったという女将の話から、豪勢に過ごされた印象を与えてしまったことを、大変申し訳なく思います。もちろん翌週の放送で訂正しました」
 50年前のことでも間違いは正しておきたいという、「どう見せ、どう伝えるか」への天皇のこだわりを感じさせる。
 こうしたスタイルを決断したのは、もちろん天皇ご自身である。しかし、戦前は東宮仮御所の中で育てられ、学友以外に国民と交わることがなかった皇太子には、国民からどう見られるかという視点を持つことは容易でなかったはずだ。そこには国民から「見られる」ことを意識されていた美智子皇后の影響があったに違いない。実際、美智子皇后はご結婚当初から、障害のある方などと接するときは必ず同じ目線で話されていた。それを天皇は見習うべきだと思われたのだろう。同じようにされたのはその後だったという。
 そう考えると、平成の象徴天皇像は、テレビの時代と共に、二人三脚で生み出されたものだと言えるかもしれない。

 皇室関連報道について - 宮内庁とも通じる「宮内庁のマスコミへの抗議話」です。


【中国の明仁天皇観】

外交部、明仁天皇は中日関係の発展促進に積極的な貢献--人民網日本語版--人民日報
 外交部(外務省)の耿爽報道官は29日の定例記者会見で「明仁天皇は1992年に訪中したほか、中国の党と国家の指導者と会見を重ねて、中日関係の発展促進に積極的な貢献をした」と述べた。
【記者】
 日本の明仁天皇が4月30日に退位する。明仁天皇は以前中国を訪問したほか、中国側指導者と会見を重ねた。明仁天皇の退位についてコメントは。5月1日に皇太子が即位し、新たな元号「令和」の使用が始まることについてコメントは。将来の中日関係に何を期待するか。
【耿報道官】
 明仁天皇は1992年に訪中したほか、中国の党と国家の指導者と会見を重ねて、中日関係の発展促進に積極的な貢献をした。現在、中日関係は正常な軌道に戻り、積極的な発展の勢いを示している。われわれは日本側と共に、中日間の4つの基本文書の諸原則を順守したうえで、現在の両国関係の積極的な好転の勢いを大切にし、維持し、良好な相互連動を一層強化し、敏感な問題に適切に対処し、中日関係の持続的で健全かつ安定した前向きな発展を促進したい。

ハゼ研究、上皇さまと40年交流 中国人学者「再会望む」 | 共同通信
 ハゼの分類を専門とする研究者としての顔も持つ上皇さまは、海外の学者とも親交を深めてこられた。1979年の〝出会い〟から40年にわたり文献や標本を交換するなどしてきた中国・上海海洋大の伍漢霖(ごかんりん)教授は「これまでのご指導に本当に感謝しています」と語り、再会の機会を待ち望んでいる。
 福建省の大学で中国のハゼの分類を担当していた際、海外文献の中に当時皇太子だった上皇さまの論文を見つけ、英語で手紙を書いた。
 「ハゼについて教えていただけませんか」
 数週間後、皇太子時代から陛下を支えた元侍従の目黒勝介氏が書いた返信が伍氏の元へ届いた。学術交流を行いたいとの上皇さまの意向が記されていた。「まさか返事が来るとは。恐縮しました」と振り返る。
 以降、往復書簡で資料や論文を交換。89年4月、天皇即位間もない異例の時期に赤坂御所に招かれ、初めて面会した。
 「ハゼの話をすると緊張が解けて距離が一気に縮まった」。
 上皇さまが発見したハゼの分類方法も伝授してもらった。
 天皇在位中の92年10月の上海訪問や、伍氏の日本出張時に面会を重ねた。上皇さまから日本のハゼの標本をもらったこともある。伍氏は2008年、研究成果を収めた専門書を出版した。前書きには、上皇さまの助言と指導に感謝すると記した。
 最後となった09年まで面会の回数は12回に上る。上皇さまが中国の大規模政治運動「文化大革命」(1966~76年)の質問をしたり、日本に留学していた伍氏の息子の生活を気遣ったりすることもあった。
 伍氏は上皇さまの誕生日に欠かさず手紙を送り、上皇さまからは「賀正 明仁」と筆で書かれた年賀状とともに、上皇さまや上皇后さま、天皇陛下らが写った写真が毎年届く。一家で演奏している様子などが写ったものだが、公表は禁じられているという。
 上皇さまは現在も研究を続けられている。伍氏は「とにかく健康でいてもらいたい」と話し、再びハゼについて語り合える日が来るのを心待ちにしている。

即位礼、アジアの伝統学ぶ機会 法政大教授・王敏さん :日本経済新聞
 10月22日に行われる天皇陛下の即位礼について、各方面の意見を聞く。初回は法政大学国際日本学研究所教授、王敏さん*38
■記者
 上皇ご夫妻に対して中国の人々はどのような印象を持っているでしょうか。
■王氏
 前の両陛下は1992年に歴代天皇、皇后では初めて訪中しました。中国人にとって忘れられないことです。
■記者
 平成の天皇は常々、平和と過去の戦争に対する反省をメッセージとして発していました。それは中国の若い知識層の人々にも届いていましたか。
■王氏
 届いていました。とくに天皇が毎年、新年のご感想で、歴史をかえりみて前向きに進むというような内容を述べられていましたが、これはそのまま全文翻訳され、発表の後にはネットで掲載されています。日本に関心を持つ人ならば、必ず天皇のお言葉、感想は知っています。そして高く評価しています。
■記者
 現在の天皇陛下は中国を訪問されていないので、深い印象はないでしょうね。
■王氏
 その通りです。平成の天皇の存在感が大きかった。新しい天皇接触する機会はまだありませんし、各メディアで紹介する記事も相対的に少なかったので。
■記者
 今年8月の戦没者追悼式でのお言葉は前の天皇のものがほぼ踏襲されました。戦争を含む過去の歴史に対する見方は同じだというメッセージになりましたね。
■王氏
 これについては中国でも大きく報道されました。新聞でも中国語に翻訳されて全文掲載されました。中国では各方面で高く評価されています。先の両陛下の思想、平和志向を継承されていると。即位されてからおそらく最初の重要なデビューでしたが、期待通りでした。平成の両陛下のご意志を継承されることは間違いないと信じていました。その意志を継承できる素質をお持ちの方だと思います。

 伍氏も王氏も中国政府に近い御仁のようなのでその発言は「日中友好を促進するためのポジショントーク」つう面は大きいでしょうが「明仁天皇(現・上皇)や新天皇徳仁について世間に流通してるであろう見方の一例」として一応紹介しておきます。


◆二一世紀の立憲君主制君主制の同時代史(君塚直隆*39
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。産経文化人の君塚氏なので他のメンツに比べ明らかに天皇制に対する批判意識は弱いです。
 ただし君塚氏は「国民の支持が得られなければ王室はいつなくなってもおかしくない時代になった」「その点は天皇家においても変わりない」「変化する時代への対応が大事だ」として「女帝制度」や「いわゆる『開かれた皇室』論」に好意的な点は産経文化人でも櫻井よしこ八木秀次のようなゴリゴリの極右とは違いますが。

【君塚氏の主張】

「皇室中心の文化立国へ」関東学院大学君塚直隆教授 | NEXT MEDIA "Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]
 細川氏は「女性天皇女系天皇も認めるべきではないか」と自らの考えを述べたうえで、(中略)君塚氏の考えを聞いた。君塚氏は、「避けて通れないと思う」と述べ、「時代遅れ、男女同権という問題以上に、これまで2000年にわたって続いて来た皇室を残す、さらに発展的に残すことを考えたら、その道以外にない」と主張した。根拠として、以下の点を挙げた。
・男の子を生まなければならないというプレッシャーをなくす必要がある。
・1979年スウェーデンが絶対的長子相続制(男女を問わず第一子が優先して継承)を取り、ベネルクス三国*40、北欧*41がこれに倣った。
 細川氏は、愛子さま皇位継承権を得ることになれば、「皇位継承者としての教育」や「世界の王室との関わり」が必要だと指摘。愛子さまが成年皇族になる前に、制度変更まで議論を進める必要があるのではないかとの考えを述べた。
 君塚氏によれば、(中略)今上天皇は、1953年にエリザベス女王戴冠式に出席、ヨーロッパを歴訪されて以来、オランダ・ベアトリクス前女王、ベルギー・アルベール前国王、スペイン・フアン・カルロス前国王らと親交がある。天皇陛下生前退位のご意思表明の方法は、すでに退位した彼らに倣っているという。
(この記事はラジオ日本「細川珠生のモーニングトーク」2019年4月6日放送の要約です。)

 細川氏も君塚氏も「産経文化人」ではあるのですが、櫻井よしこら国基研一派ほどの極右ではないので女帝を容認するわけです。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201905/CK2019050402000111.html
 二〇一三、一五年には米ニューヨークの国連本部であった「水と災害に関する特別会合」で基調講演。昨年三月にはブラジルでの世界水フォーラムで基調講演をするなど、その活動は国内にとどまらない。
 困難な状況にある人に寄せる思いも、国内のみにとどまらない。昨年十月に皇后さまとともに東宮御所国連難民高等弁務官事務所UNHCR)のフィリッポ・グランディ高等弁務官と面会。難民キャンプの衛生状態などについて意見交換したという。
 世界の王皇室に詳しい関東学院大学の君塚直隆教授(英国政治外交史)は「欧州では王室が社会福祉や環境、女性や子どもを取り巻く問題など、政治の手が届かないところ、道徳的な問題に取り組み、他国の王室とも連携するようなネットワークがある」と指摘。「グローバル社会における新天皇、皇后の活動については、国民も理解をより深めていくべきではないか」と提言する。

【王位継承物語】代替わりへ向けて 新たな象徴天皇像模索 関東学院大教授・君塚直隆(1/2ページ) - 産経ニュース
 天皇陛下が、昭和天皇とは異なる新たな公務として重要視した二本柱が、この自然災害の被災者訪問とともに、太平洋戦争で犠牲となった人々を国内外を問わず慰問した「慰霊の旅」であったことはよく知られている。
 皇太子殿下も、この二本柱を自らの方法で継承されていかれると同時に、「時代に即した新しい公務」についても考えておられることだろう。上記の記者会見でも、ここ10年ほどのご関心として「水」の問題に取り組んでいることに触れられて、「水」を切り口として、国民生活の安定、発展、豊かさや防災などに考えを巡らせていくこともできるのではないかと発言された。
 すでに国連が主催する「水と衛生に関する諮問委員会」では、同じくこの問題に関心をもつオランダのウィレム・アレクサンダー国王とタイアップされ、皇太子殿下は国際的に活躍もされている。昭和57年にブラジルを訪問されて以来、殿下は「お立ち寄り」も含めれば48回の外遊で延べにして97カ国も訪れている。さらに史上初めて(ボーガス注:オックスフォード大学留学という)海外での留学経験をもつ天皇にもなられる。それはまた(ボーガス注:ハーバード大学留学経験がある)新皇后になられる雅子さまも同様である。
 天皇、皇后両陛下も、皇太子時代から数え42回の外遊で延べにして113カ国も歴訪された。新しい天皇、皇后両陛下は、それ以上にさらに国際的に活躍される可能性を秘めている。
 昨年12月9日のお誕生日の記者会見で、雅子さまは「子供の虐待や子供の貧困など」に強い懸念を感じていると同時に、「地球温暖化や環境汚染」の問題にも関心を持たれていると述べられた。こうした問題は、欧州や中東などでも各国の女性王族を中心にさまざまな団体が立ち上げられ、また「女性王族ネットワーク」も生みだされているほどである。
 日本国の「象徴天皇としてのお務め」はもとより、今や地球全体で問題視されている、女性や子供の権利の擁護、地球環境問題への積極的な取り組みも、5月1日に即位される新しい天皇陛下にとっては「時代に即した新しい公務」として、おふたりで相談されながらお進めになられるのではないだろうか。
■各国での女性王族の活躍
 スウェーデンのシルビア王妃は、「世界子供基金」を1999年に立ち上げ、各国王族の支援も受けながら、児童福祉に邁進(まいしん)している。英国のアン王女(エリザベス女王の長女)も、第一次世界大戦直後に創設された「セーブ・ザ・チルドレン」の総裁を半世紀近くにわたり務めている。さらにヨルダンのラーニア王妃は、まだ男尊女卑の気風が残る中東社会のなかで、女性の権利を主張し、女性のための職業訓練学校の設立に尽力してきている。

【王位継承物語】21世紀の君主制と皇室 「継続と安定」もたらす宝(1/3ページ) - 産経ニュース
 2019年現在、国連に加盟している193カ国中、君主制をとるのはわずか28カ国*42(これに英国君主が国家元首を兼ねる英連邦王国も含めると43カ国*43)になってしまった。「君主国」がいまや少数派なのである。
 しかし、本紙でこれまで5年にわたって続けてきた連載からもおわかりいただけたように、君主制をとっている国の人々が21世紀から取り残された「時代遅れ」の人間なわけでは決してない*44。それどころか、(ボーガス注:スウェーデン王国ノルウェー王国など)市民参加、男女平等、人権擁護、地球環境の保全など、世界の最先端をいくさまざまな課題に積極的に関わってきたのがそれらの国であり、しかもこうした動きにそれぞれの国の王室が深く関わっている*45のだ。
 (ボーガス注:君主制でなかったナチドイツ、ムソリーニ・イタリアの崩壊、旧ソ連・東欧の崩壊などで分かるように)君主制であれ共和制であれ、その時々の時代の要求に慎重に耳を傾け、これにきちんと対応できない限り、国民の多くからの信頼を失い、姿を消す運命にある*46といえよう。
 君主制の極意は、国や国民に「継続性と安定性」を与えてくれる点にある。政権が次々と交代しようが、任期のない王たちは外国との関係をつなぎとめてくれる。国内に民族間や政党間の対立などが生じたとしても、それを超越した王たちは「公正中立」の立場からこれを調整*47してくれる。君主制はいまの世にも大きな役割を果たしうるのだ。
 今年5月に天皇の代替わりを迎えるこの日本も含めて、21世紀の今日の国々が「継続性と安定性」を維持しつつ、国民全体が心身ともに豊かになるような社会を実現していくためには、君主制は決して「時代遅れ」の制度ではなく、またそれゆえに安定的な王位(皇位)継承もますます必要となってくるのではないだろうか。
※ 君塚教授の連載は今回で終了します。5年間ご愛読ありがとうございました。

【書評】『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』君塚直隆著 王が民主主義を保つ逆説(1/2ページ) - 産経ニュース水島治郎*48千葉大学教授)
 本紙連載「王室外交物語」などでおなじみの君塚直隆氏は、英国はじめ各国王家の歴史に通じた、王室研究の第一人者である。氏の紹介する興味深いエピソード、時代の流れを見通す深い洞察に、魅せられた読者も多いだろう。
 その君塚氏が、代替わりを迎える日本への示唆をこめつつ、満を持して書き上げたのが本書である。個人の平等を原則とするデモクラシーと、一部の血統に特別な地位を認める君主制とは、相性が悪いと考える人は多い。もはや君主制は時代遅れと見る向きもある。
 しかし、ことは単純ではない。著者が明快に示すように、英国や北欧、オランダなど、今も君主制を堅持している欧州諸国には、経済的繁栄を謳歌(おうか)し、福祉が発達した国が多い。先進的なデモクラシーと君主制とは、相いれないどころか、十分両立する存在なのである。
 この両立を可能ならしめた国制上の仕組みが、本書のテーマ「立憲君主制」である。立憲君主制とは、議会制民主主義が定着し、君主が「君臨すれども統治せず」の原則を持つ政体を指す。現在、立憲君主制が息づいている欧州諸国では、国王や王族がデモクラシーの原理を尊重し、政治権力から一歩身を引く一方、国内訪問や国際親善など積極的に公的活動を展開し、幅広く国民の信頼を得ることに成功している。党派対立に関与せず、むしろ継続性と安定性を体現する存在として、デモクラシーのなかで確固たる地位を占めているのである。
 もちろん、外国の王室モデルを日本に直輸入できるわけではない。しかし本書が解き明かすように、昭和、平成の2代にわたる天皇は、英国の立憲君主制の理論と展開を真摯(しんし)に学び、活(い)かしてきた。今回の生前退位についても、近年の各国の事例を参考にした可能性が高い。グローバル時代の皇室の今後を真剣に考える上でも、本書は貴重な示唆を与えてくれることだろう。

・水島氏は君塚氏ほかと共著『現代世界の陛下たち:デモクラシーと王室・皇室』(2018年、ミネルヴァ書房)を出版し、「第1章 女王陛下とイギリス王室(君塚直隆)」、「第3章 オランダにおける王室の展開(水島治郎)」なので君塚氏と水島氏の王室理解はおそらくかなり近いものでしょう。
 ただしこの著書『現代世界の陛下たち』においては「第6章 デモクラシーと「国体」は両立するか?:戦後日本のデモクラシーと天皇制(原武史*49)」ということで日本での天皇制のあり方にかなり批判的な原氏も寄稿しています。
・ぶっちゃけここでの水島主張「デモクラシーと君主制とは、相いれないどころか、十分両立する存在」は俺が思うに詭弁ですね。英国、オランダ、デンマークスウェーデンノルウェーなど「ヨーロッパの王国」はあくまでも「王族が象徴化したこと」による「例外」と考えるべきでしょう。
 だからこそヨーロッパでも「フランス、イタリア、ドイツ」など「事情は違う」とはいえもはや王国でない国が多いわけです。しかも英国など「欧州の王国」でも「数の大小」はともかく共和制度主張者もいるわけです。
 欧州以外の王国だと、タイは軍事独裁で、カンボジアはフンセン独裁で、サウジは「王族の命令で殺人」です。民主主義や人権の観点ではまるで評価できない。
 つうかあの種の「欧州の王国」(ノルウェースウェーデンなど)を日本皇室の模範と産経らウヨは全く考えてないくせに「ご都合主義に持ち出すな、ふざけんな」て話です。
 「お前、ウヨとしてノルウェースウェーデン社民主義とか大嫌いだろ、何抜かしてるんだよ!」と言いたくなる。

サントリー学芸賞に君塚直隆氏 「天皇制とは何か、呼び水に」 - 産経ニュース
 歴史エッセー「王位継承物語」を本紙で連載し、著作『立憲君主制の現在』(新潮選書)を中心とした業績でサントリー学芸賞を受賞した君塚直隆・関東学院大教授(51)が10日、東京都内で開かれた同賞の贈呈式であいさつした。
 専門は英国政治外交史。英国の君主にまつわる多数の著作を刊行し、日本における英国王室研究の第一人者としても知られる。
 受賞作は、諸外国王室でも「生前退位」が相次いでいる例など国際的な君主制の潮流を参照しつつ、皇室の未来も展望する。
「学界でも来年の譲位については関心が高い。この本が、戦後の象徴天皇制とは何だったのか、そしてこれからどうあるべきかを考える呼び水になれば」

「諸外国王室でも「生前退位」が相次いでいる」

ということについては

天皇陛下「退位」意向:欧州王室、生前退位進む 中東も - 毎日新聞
 オランダ王室では、ベアトリックス前女王が2013年に75歳の誕生日を目前に退位を表明。長男のウィレム・アレクサンダー皇太子が123年ぶりに男性の国王に即位した。3代続いての国王の生前退位だった。ベルギーでも同年、アルベール2世前国王が79歳の高齢や健康上の理由から退位し、長男のフィリップ皇太子が国王に即位した。国王の生前退位は1951年に続く2度目だった。

生前退位、欧州で相次ぐ オランダやベルギー :日本経済新聞
 海外の王室では生前退位は珍しくない。
 オランダでは2013年1月、当時74歳で在位33年だったベアトリックス女王が「新世代に譲ることが国に対する責任だ」とテレビで演説し、退位を表明した。憲法にのっとり同年4月に長男のウィレム・アレクサンダー皇太子が継承した。
 ベルギーでも13年7月、当時79歳で在位20年だったアルベール2世が国王を退位した。高齢や健康などを理由として挙げ、長男のフィリップ皇太子が即位している。
 スペインではフアン・カルロス1世が「王室を再生させるため」などとして14年6月に国王を退位。長男のフェリペ6世が即位した。

アルベール2世ウィキペディア参照)
 2013年7月3日、国民向けのテレビ演説において、高齢や健康状態を理由に退位する意向を表明し、長男のフィリップに譲位した。
 退位の理由として、年齢や健康問題の他に、ベルギー王室には豪華なヨット購入や相続税逃れ疑惑が浮上し、国民の不満が高まっており、これから逃れるためという説もある。また、2013年6月にはアルベール2世の「隠し子」だと主張する女性がブリュッセルの裁判所で訴訟を起こすという騒動が発生しており、これらの批判をかわすという側面も指摘されている。

ベルギー王室に世代交代の波 新国王、難局下の即位 :日本経済新聞
 ベルギー王室には豪華なヨット購入や相続税逃れ疑惑が浮上。議会は国民の不満を背景に、王族への課税や手当削減を盛り込んだ法案を可決した。アルベール2世国王には隠し子問題もくすぶり、新国王は王室の信頼回復という大きな課題を背負っての即位となった。

フアン・カルロス1世ウィキペディア参照)
 2012年、ボツワナで、アフリカゾウのハンティング中に腰の骨を折る大怪我を負った。当時、スペインは経済的な苦境にあり(スペイン経済危機)、失業率が20%を超える状況にあり、国王といえど贅沢が許される状況になかったこと、また国王自身が世界自然保護基金名誉総裁の職にあったにもかかわらずレッドリストに掲載されている動物を対象にスポーツハンティングを行ったことについて世界的な批判を受けることとなり、名誉総裁を解任されるに至った。この事件以降、国民の支持は落ちており、スペインの新聞「エル・ムンド」の2013年の世論調査では、約45%が長男のフェリペ王太子に王位を譲るよう求めていた。中道左派系の新聞「エル・パイス」が2013年3月に行った世論調査(発表は4月)では、国王の職務遂行ぶりについて回答者の42%が「支持する」、53%が「支持しない」と答えた。
 この頃には高齢なことから健康問題も抱えており、2012年11月には人工股関節を埋め込む手術を行っている。
 2014年6月2日、マリアーノ・ラホイ*50首相(保守政党・国民党)がフアン・カルロス1世の譲位の決定を発表した。ただし、この時点でスペインには国王の譲位に関する法的規定がなく、首相は新国王の即位に向けた手続きのため、憲法などの改正案を国会に提出した。6月18日に上院・下院とも圧倒的多数で「国王の退位に関する法律」を可決し、国王も退位の文書に署名した。この法律が発効する19日未明に、自動的にファン・カルロスの退位と新国王フェリペ6世の即位が確定した。

【王位継承物語】スキャンダルからの再生 現代君主は「道徳性」不可欠 関東学院大教授・君塚直隆(1/3ページ) - 産経ニュース
 フアン・カルロスの人気が一挙に凋落(ちょうらく)したのは、2014年1月のことだった。国王の次女、クリスティーナの夫がスポーツ振興財団の資金を私的に流用していたことが発覚したのだ。王女自身も、これに連座した容疑で法廷に呼び出された。王族が法廷に立ったのは前代未聞の出来事だった。
 こうなるとマスコミは過去の問題をつつくものである。12年にはアフリカ南部のボツワナで国王が象狩りに興じていたことも判明した。「世界自然保護基金(WWF)名誉総裁」にあるまじき行為であった。14年1月の世論調査では、それまで80%以上の支持率を誇っていた王室の人気は50%以下に急落した。フアン・カルロスを支持する声41%に対し、スキャンダルとは無縁のフェリペ皇太子に期待する声は66%に達していた。
 国民の3分の2近くは国王の退位を望むようになっていた。急激に健康を悪化させてしまった76歳の老国王は、ついに冒頭のテレビ演説に臨むことになったのである。演説から2週間ほどのち、6月19日に新国王フェリペ6世の即位式マドリードで執り行われた。

スペイン国王フアン・カルロス1世、異例の退位 スキャンダル続きで決断か | ハフポスト
・カルロス1世は近年、健康上の不安を抱えていたほか、次女クリスティーナ王女の夫の公金横領疑惑など不祥事も浮上。国民の支持も低迷し、退位を余儀なくされた。
・2012年には象狩りに出かけた先のアフリカで負傷する騒ぎがあり、経済危機に苦しむ国民を顧みず旅行に出かけていたことに非難が集中。国王は「間違いだった」と異例の謝罪を表明していた。

を紹介しておきます。
 ベアトリクスの退位はともかく、アルベール2世フアン・カルロス1世の退位について言えば「(不徳の君主として?)彼らの退位を望む国民の声がかなりあった」と言う皮肉な面もあったようです。その意味では明仁氏の退位とはかなり性格が違います。
 なお、「生前退位の意思」を表明した明仁氏の考えは当人が語らない限り、分かりようがないわけですがうがった見方をすればこうした「海外の生前退位」についてブレーンから知識を得ていた可能性もあるでしょう。


◆狂乱と共犯:令和改元におけるメディア表象をめぐって(茂木謙之介*51
(内容紹介)
 タイトル「狂乱と共犯」で概ね内容の想像はつくかと思います。「5月の令和改元ブーム」「10月の式典ブーム」と言う「狂乱」報道を行うマスコミに対して「政府が狙っている天皇政治利用への『共犯』」ではないのかと批判*52しています。なお、こうしたマスコミの共犯性に対し批判的なのが「共産(日本共産党)」のわけです。
 なお、今回は前回の即位に比べ
1)前回は昭和天皇の死去によるものなので「おめでたい」といいづらい
2)昭和天皇の死去はある程度予想されていたが、もちろん今回と違っていつかはわからないので事前アナウンスも出来なかった
3)当時の竹下*53内閣は安倍ほど極右でない
ということで前回は今回ほど「祝賀ムードのアピールもなかった」といえるでしょう。
 まあ、内容的には天皇制批判派として概ね共感できるのですが、他の記事に比べ「あまり歴史学的でない感じ(むしろジャーナリスティックな感じ)」「知らない知見などはあまりなかった」気はします。

参考
「天皇制度 最悪の政治利用」/改憲派集会首相メッセージ 志位氏が批判
首相の内奏映像、宮内庁公開/野党「天皇の政治利用」と批判


◆歴史の眼「新天皇徳仁天皇像」(冨永望*54

徳仁天皇の象徴天皇観についてどう理解すべきでしょうか。」

「現時点では評価は難しいですね。昭和天皇と比べ、大きな相違があると言っていい明仁天皇と違い、今のところ明仁天皇との大きな違いを見いだすことは出来ないと思います。基本的には先代・明仁氏の路線を継承することになるのではないでしょうか。私個人が注目しているのは雅子氏のうつ病ですね。病気が全快すればともかく、そうでないなら、徳仁氏だけで公務対応するか、あるいは雅子氏と一緒に対応する代わりに公務を減らすか、何らかの対応をする必要があります。特に負担が大きいであろう外遊がどうなるのか、減らされるのかどうかをひとまず注目したいと思います」
「また『上皇夫妻や秋篠宮夫妻』と天皇夫妻の行幸などの役割分担がどうなるのか、女帝導入論と絡んで、愛子さんの扱いがどうなるのか(彼女の即位をにらんで彼女による公務の分担が増えるのか)についても注目したいですね」
参考

新天皇と雅子皇后、初の地方訪問が示す「皇室大変革の予感」(原 武史) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)
 新天皇・皇后の地方公務デビューが、6月2日に愛知県尾張旭市で開催される「第70回全国植樹祭」だ。この行事から読み解ける「令和流」の天皇像とは、いかなるものなのか? 令和の幕開けに際し、放送大学教授・原武史氏が「象徴天皇」の過去と未来について語る特別インタビュー。
・以前から抱えていたある予測に確信を得ました。つまり、新天皇は、「平成流」をそのまま引き継ぐことはしない――ということです。
・まず私が得心したのは、この地方訪問が、1泊2日の日程で行われるという事実についてです。
 「平成流」においては、式典への参加を目的とした天皇皇后の地方訪問は、社会福祉施設などへの訪問とセットであり、それは令和でも引き継がれるようです。
 ただし従来であれば、この日程なら2泊3日か3泊4日が通例でした。例えば明仁天皇の最後の植樹祭訪問としてニュースになった、昨年の第69回ふくしま植樹祭への参加は、6月9日から11日の3日間で日程が組まれていました。
・平成になって初めての植樹祭訪問も1泊2日でしたので即断は避けるべきでしょうが、今回の日程は、新天皇皇后の初めての地方訪問にして、早くも平成との違いを示しているように見えます。宮内庁はそのことを承知しているからこそ、5月の発表時に「皇后さまのご負担を考慮した」とわざわざ説明したのです。
・平成に比して、国民に接する時間はきわめて短くなっていると言えるでしょう。
 単純に考えれば、その違いは、美智子皇后と雅子皇后の体調面での違いに起因するでしょうし、もちろん、良し悪しを判断すべき性質のものでもありません。ただし、令和においては「平成流」がそのまま受け継がれるわけではないであろう、ということは確かに言えるのです。
 もうひとつ私が着目しているのは、明仁天皇徳仁天皇との「性格の違い」です。
 明仁天皇の言動は、倫理的で実直です。「平成流」の天皇像が、国民の敬意によって裏付けられていたのは、こうした性格ゆえもあるでしょう。
 ただ、ユーモアがある印象は薄い。口数の少なかった昭和天皇ですら、園遊会で柔道家山下泰裕*55に「柔道は骨が折れますか」と尋ねるようなユーモアがありましたが、明仁天皇にはそうしたエピソードがあまりありません。
 また、地方訪問で国民と対話する姿が印象に残っていますが、実はこの「天皇と国民が相対する」状況を作り上げるには、膨大な警備コストがかかっていました。「親しみやすさ」を担保するために、その裏では厳戒態勢が敷かれていたのです。
 徳仁天皇はそれに比べると、普段の言動にもユーモアが感じられます。柏原芳恵のファン、ウルトラセブンが好き。そのようなエピソードがこのひと月あまり頻繁に報道され、徳仁天皇を身近に感じた人も多いでしょう。
 象徴的なのが、徳仁天皇の「登山好き」です。テレビでも盛んに映像が流されていましたが、雅子妃や愛子内親王と連れ立って那須御用邸周辺の山に登り、すれ違う一般の登山客と気さくに挨拶を交わす。上皇になってからも、厳重な警備の上での「お忍び」が報じられている明仁上皇とは、かなりの違いがあります。
 天皇ともなれば、そんな気軽な言動は難しいのでは――と思われるかもしれません。しかし、明治以降の天皇の歴史を眺めてみれば、軽やかな「人間らしさ」を持った天皇もいたのです。大正天皇です。
 政治状況もあって在位時から「神格化」が推し進められた明治天皇に対して、大正天皇は皇太子の時から、自由な言動を繰り返しました。
 旅行好きでもあった大正天皇は、皇太子時代に沖縄県を除く全道府県大韓帝国を回り、それに伴って福島県の霊山や京都府成相山香川県屋島象頭山など、各地の山にも登っています。また兵庫県では軍事演習の合間に突然旧友の家を訪問するなど、スケジュールも気にしなかった。天皇になってからも、皇后と一緒に葉山や日光の御用邸に1ヵ月も2ヵ月も滞在し、ヨットや馬に乗る生活を続けました。
 しかしこの「大正流」は、天皇の権威を求める人々には都合が悪かった。明治天皇と同様の天皇の役割を押し付けられた大正天皇は、次第に体調を崩してゆき、最終的には引退させられました。その後「大正流」が引き継がれることはなく、昭和になると逆に天皇の神格化が図られた経緯は、ご存知のとおりです。
 もし「大正流」が引き継がれていたら、天皇像は大きく変わっていたでしょうし、もしかすると昭和の歴史も大きく違っていたかもしれません。
・私には、上皇亡きあとに本格的に現れるであろう「令和流」の天皇像が、「平成流」よりはむしろ「大正流」に近いものになるのではないかという予感があります。
 「平成流」を引き継ごうにも、雅子皇后の行幸への完全同行の難しさ(中略)もあり、必ずしも平成と同じ「象徴としての務め」が果たせるとは限らない。そうした制限の中で、新時代の「象徴天皇」を自分で作り上げるという意識が、徳仁天皇にはあるのではないかと思うのです。
・例えば神武天皇祭は、歴史上は実在しない神武天皇の命日である4月3日と定められている。歴史学者でもある徳仁天皇や、外務省のキャリア官僚だった雅子皇后が、そこに疑問を呈してゆく可能性も考えられます。
 「良妻賢母」の役割を担い続けた美智子上皇后と、キャリア官僚を経て皇太子妃となり、皇室に入ったあと「適応障害」に苦しんだ雅子皇后とでは、考え方や人生観も大きく異なるはずです。それに、女性の権利向上がこれほど叫ばれる時代に、世の女性たちや世論がこの先も黙っているでしょうか。
 この論点は、これから徳仁天皇と雅子皇后がどのような「令和流」を打ち出すか、ということとも関係してきます。
 まず想定されるのは、皇室のグローバル化です。
 まだ体調の問題があるとはいえ、元外交官という雅子皇后の経歴から言っても、海外訪問はいずれ行いたい行事の一つでしょう。明仁天皇美智子皇后は、太平洋戦争末期に米国と戦って敗れた南方の島々への「慰霊の旅」を戦略的に行ってきましたが、こうした点でも違いを出してくるかもしれません。
 例えば地方訪問に合わせて、式典や施設訪問の合間に登山の予定を入れ、そこで一般国民と交流を行えば、「平成流」との違いは明らかになります。こうした「平成流」との違いがどのようなタイミングで打ち出され、またどのような世論の反応を生むのか。
 ここでひとつ懸念されるのは、徳仁天皇が登山した場合、保守派に利用されるかもしれないことです。一見すると登山はカジュアルな趣味に見えますが、天皇が行う場合は「国見」、つまり「高い所から国土を望み見る」という古代天皇の行為になぞらえることもできるからです。歴史や素朴な信仰が絡み合って、保守派の期待を裏付けるような論説も今後出てくるかもしれません。
 もちろん、新天皇が築いてゆくであろう令和の新たな「象徴天皇」像をどう評価するかは、国民にかかっています。ただ、正しい評価をするためには、「平成流」を作り上げた明仁上皇・美智子上皇后の足跡や意図、また明治以降の天皇の歴史について今一度振り返り、考察を深める必要があります。
 どうして天皇や皇室について深く考えなければならないのか。それは、令和の時代には、皇室内部の権力構造が大きく変化することが予想されるからです。
・もし、雅子皇后が公務を十分に果たせないまま、上皇上皇后が(中略)(ボーガス注:大正天皇陵、貞明皇后陵、昭和天皇陵、香淳皇后陵がある)八王子市の武蔵陵墓地を参拝したり、私的な外出を続けたりすれば、「平成」と「令和」の区別は曖昧になります。
・こうして上皇上皇后への敬意が高まってゆくとすれば、そこには「権力の二重性」が現れることになります。
・その時に国民は冷静な議論ができるのか。識者は質の高い論説を提供できるか。学者ですら大半が天皇の政治性や権力という側面に目をつむり、語ろうとしない現状はあきらかにおかしいし、危険であると私は考えています。
 「お祝いムード」に浮かれるのではなく、歴史の境目にいる今こそ、日本人は自らの天皇観を見つめ直すべきだと思うのです。

 富永氏が指摘する「雅子氏のうつ病の問題」は原氏も指摘しています。一方、富永氏が指摘しない「柏原郁恵のファン」「趣味が登山」云々と言った指摘を原氏はしています。明仁氏以上に「親しまれる天皇像」が打ち出されるのではないかと言うことでしょう。

覚えていますか? 新天皇が大ファンだった世界的美人女優ブルック・シールズを衝撃映像で! | TABLO
 新天皇が皇太子だったころ、ファンだと公言した芸能人が少なくとも二人いる。一人は日本人の柏原芳恵で、もう一人はアメリカ人女優のブルック・シールズである。こうしたことがマスコミで報道されてきたからこそ、私もそうなのだが身近な存在として長年感じることができたのではないだろうか。
 写真週刊誌『FOCUS』(1990.11.9)には陛下がブルック・シールズに恋い焦がれていたころのことが記されている。以下、抜粋する。
「皇太子殿下がブルック・シールズのファンであることを日本国民が知ったのは殿下がオックスフォード大学マートン・カレッジでの勉学を終えられた5年前のことだった。学生寮を出られるにあたってそれまでのご自分の部屋を公開されたのだが、なんと、壁には、ベッドを見おろすように彼女の特大のポスターが張られていたのである」

https://bunshun.jp/articles/-/11760
・1983年、23歳の浩宮親王(当時)は、オックスフォード大学留学直前の記者会見で「好きな歌手は柏原芳恵さん。『春なのに』がいいですね」と発言。
・「留学中、殿下は寮の自室の洗面台に柏原のシールを貼っていたそうです。帰国後の86年10月19日には、彼女のコンサートに出向かれました」(芸能デスク)
・コンサート当日、殿下は新品種のピンクのバラ「プリンセス・サヤコ*56」を、東宮御所の庭から一輪切り取って持参。出迎えた柏原から手渡されたレコードや写真集のお返しに、直々にプレゼントされた。
「柏原が緊張するなか、カジュアルな服装でコンサート会場に赴いた殿下は、『とても楽しみにしていました。いちばん好きなのは、「春なのに」です』と改めておっしゃった」(同前)

【皇太子さま58歳】誠実で謙虚、ユーモアや気さくさも(1/2ページ) - 産経ニュース
・来年5月1日に即位される皇太子さまはどんなお人柄なのか。交流のある知人らは「誠実で謙虚」と口をそろえる一方、ユーモラスで気さくな一面もお持ちだと話す。
・皇太子さまは忙しい公務の合間に、登山やビオラ演奏、歴史研究にも熱心に取り組まれている。
 ライフワークである「水」問題の研究で交流のある元建設省河川局長の尾田栄章さん(76)は、皇太子さまが講演や食事会などでユーモアを交えて、笑いを誘われることがあると打ち明ける。
 「歯磨きの際、洗面所の水が出したままになっていたのを愛子さまに厳しく注意された、とのエピソードを披露して場を和まされたことがある」と尾田さん。講演で、映画化された人気マンガ「テルマエ・ロマエ」やヒット曲「トイレの神様」を取り上げられたこともあり「感性が若く、ご関心の幅はものすごく広い」と驚く。
 気さくなおふるまいも魅力の一つだ。
 ある学友は、ご結婚前の皇太子さまと電話で会話中、そばで子供が騒いで困っていると、皇太子さまから「ウルトラマンと話していると(子供に)言ってみたら?」と提案されたことがある。
 「皇太子さまは電話の向こうでウルトラマンになりきって、子供と話してくれました」
 昨年6月のデンマーク訪問の際には、運河沿いを散策中、市民の男性の求めに応じて、スマートフォンでの「自撮り」に応じられたこともあった。

これが「ロイヤルルート」 徳仁天皇が歩いた道で山登り! (1/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
新天皇・徳仁と山小屋 - kojitakenの日記
ということで原教授が触れた「柏原芳恵のファン」「登山」云々というエピソードをいくつか紹介しました。確かにその点は明仁氏と徳仁氏の違いではあると思います。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201905/CK2019050302000119.html?ref=rank
 夕暮れの赤坂御用地(東京都港区)の木立を、二人が呼吸を合わせて併走する。
「この先十メートルで左にカーブします」。
 天皇陛下が声をかけると、リオデジャネイロパラリンピック視覚障害者マラソン銀メダリストの道下美里さん(42)が指示に従いコース取りした。昨年六月二十六日、陛下は前年の園遊会で言葉を交わした道下さんの希望に応え、二十分間ほどガイドランナーを体験された。
 昨年八月には津市の三重県立子ども心身発達医療センターで、パラリンピック種目「ボッチャ」を体験した。選手の森祐輝さん(20)から受け取ったボールを放つが的を外れ、「難しいですね」と笑顔を見せた。
 障害者スポーツを積極的に体験する陛下。側近は「一生懸命な障害者アスリートを応援したいというお気持ちが強い。そのために何をするべきか、考え抜かれたのだと思う」と話す。
 瀬畑源(はじめ)・成城大学非常勤講師(日本現代史)は「天皇が、上皇から受け継いだ公務の大枠を変えるのは難しい。活動を変えるのではなく、新たな時代に合わせて、発展させようとしているのではないか」と話す。陛下は上皇ご夫妻が実践した「国民と共に」を、さらに前へ進めようとしている。

天皇陛下、国民目線で「皆さんとご一緒に」と敬語表現 : ニュース : 令和・新時代 : ニュース : 読売新聞オンライン
 天皇、皇后両陛下をお迎えし、2日に愛知県尾張旭市で開かれた全国植樹祭。即位後初の地方行事で、天皇陛下は国民に丁寧な敬語表現を使い、一緒に緑化活動を推進するよう呼びかけるなど国民目線のお言葉を述べられた。
 お言葉の冒頭、陛下は「皆さんとご一緒に植樹を行うことを喜ばしく思います」とあいさつされた。
 皇后さまとともに計6種類の苗木を植え、クワで丁寧に土をかけられた。皇后さまは介添えをした地元の中学生に「元気に育つといいですね」と声をかけられたという。
 その後、両陛下は岡崎市の「三河青い鳥医療療育センター」を訪れ、肢体不自由児らが切り絵や車いすダンスに取り組む様子を見学。「よくできましたね」などと笑顔で声をかけられた。
■近代天皇制に詳しい瀬畑源・成城大非常勤講師の話
天皇陛下が『皆さんとご一緒に』と国民に敬語を使われたことに驚いた。陛下はこうした丁寧な表現を皇太子時代から使われているが、天皇の言葉としては過去にはなかったのではないか。陛下は、国民の中に分け入るという考えを示されており、今回のお言葉も国民の目線に立つという意識の強さを感じさせた」


第53回大会準備号「変貌する国家と個人・地域」
 歴史科学協議会第53回大会(11/30、12/1に明治大学駿河台キャンパスで開催)での報告について、報告者から予定している報告内容の概要が説明されている。

◆問われる植民地支配認識(加藤圭木*57
(内容紹介)
 安倍政権のホワイト国除外に対して目立った批判がない(それどころか支持者も少なくない)、ワイドショーで嫌韓国発言が横行するなど、深刻化する日本社会の嫌韓国とその背景にある「日本人の韓国植民地支配認識(要するに無反省)」について論じる。
 なお、加藤氏はもっぱら日韓関係について論じるとしているが
1)安倍のホワイト国除外が北朝鮮への密輸問題を口実にしていること、ジーソミア延長停止について「文政権は親北朝鮮」云々などという誹謗が日本ウヨサイドからでていること
2)安倍政権誕生後、朝鮮学校無償化除外など、北朝鮮関係でも極めて問題のある施策が実施されてることなどから北朝鮮関係についてもある程度論じるとしている。
 加藤氏の報告からは話が脱線しますが「植民地認識のゆがみ」というのは何も朝鮮半島限定ではなく「台湾、パラオ親日」などという他の植民地認識についても同様のゆがみがあると思いますね。

参考
ヘイト記事に批判殺到/週刊ポスト特集 韓国への憎悪あおる
これでいいのか 韓国報道/嫌韓一色のワイドショー


◆国家・階級・グローバル化:プーランザスと現代西欧左派の政治観(柏崎正憲*58
(内容紹介)
 『ニコス・プーランザス 力の位相論』(2015年、吉田書店)の著者・柏崎氏が現代におけるプーランザス理論の意義を論じる。
 なお、プーランザス*59といえばプーランザス『資本主義国家の構造 1』(1978年、未来社)、『資本主義国家の構造 2』(1982年、未来社)、ボブ・ジェソップ『プーランザスを読む:マルクス主義理論と政治戦略 』(1987年、合同出版)の訳者である田口富久治氏*60が1970~1980年代のプーランザス紹介者として知られますが、彼が報告においてどう取り扱われるのか(それともそもそも扱われないのか)が気になるところです。


◆日本古代国家論の研究潮流(関根淳)
(内容紹介)
 寺沢薫*61の『弥生時代国家論』、広瀬和雄*62の『前方後円墳国家論』など日本古代国家についての最近の研究動向について論じる。


◆近世日本の国家・社会と「障害者」(高野信治*63
(内容紹介)
 近世日本社会における障害者の扱いについて論じる。


◆近現代中国における国家と個人・地域(田中比呂志*64
(内容紹介)
 近現代中国(清朝末期、中華民国中華人民共和国)における国家と「個人・地域」の関係がどう変化したのかについて論じる。


◆歴史のひろば「最近の植民地支配責任をめぐる動向について」(吉澤文寿*65
(内容紹介)
 植民地支配責任について無反省な日本社会に対して批判が加えられている。なお、吉沢氏はもっぱら日韓関係について論じていますが、安倍政権誕生後、朝鮮学校無償化除外など、北朝鮮関係でも極めて問題のある施策が実施されてることには注意が必要でしょう。
 ちなみに吉沢氏は「植民地支配問題」については「ハンセン病差別問題*66(強制隔離、強制不妊手術)」「水俣病問題」「レッドパージ」など「既に過去の問題と扱われがちだが実は、被害者の人権侵害が未だに続いている問題」「徴用工問題と同様に被害者が損害賠償や謝罪を国(日本政府)に求めてる問題」(特に外国人ではなく日本人が関わる問題)と「類似の問題」と見ることで「嫌韓国」といったゆがみから距離を置けるのではないかと指摘しています。俺も同感ですね。
 なお、吉沢氏の記事からは話が脱線しますが「植民地認識のゆがみ」というのは何も朝鮮半島限定ではなく「台湾、パラオ親日」などという他の植民地認識についても同様のゆがみがあると思いますね。


参考
【韓国植民地支配についての歴史認識
植民地支配への真摯な反省を土台にしてこそ解決の道は開かれる――日韓関係の深刻な悪化について/志位委員長が表明
いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(4)/世界の流れは被害者の人権救済
シリーズ 日韓関係を考える/植民地支配が奪ったもの/立命館大学教授 庵逧由香さん


【既に過去の問題と扱われがちだが実は、被害者の人権侵害が未だに続いている問題(特に日本人が関わる問題)】
ハンセン病問題(2019年以降の報道)
主張/ハンセン病の家族/尊厳回復へ国は責任を果たせ
やっと認めた 涙出た/ハンセン病患者家族 抱擁/国控訴断念 原告「謝罪し一括救済を」
ハンセン病 国が控訴断念/「当然の決定、謝罪と補償を」/小池書記局長
首相 反省とおわび/ハンセン病家族訴訟 政府声明で判決に反論
全員一律の補償ぜひ/ハンセン病家族訴訟原告団 議員と面談
差別解消 対策本気で/ハンセン病家族訴訟 原告ら政府と協議
参院予算委 首相、ハンセン病補償「差別根絶に全力」 - 産経ニュース

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191011/k10012123491000.html
 ハンセン病患者の家族への差別被害を認めた集団訴訟の判決を受け、超党派の国会議員の会合で、救済のための補償の範囲を判決よりも拡大するなどとした法案の骨子案が示され、今の国会での成立に向けて調整を急ぐことになりました。
 ハンセン病の元患者の家族を救済するための法案の取りまとめを目指す超党派の国会議員の作業チームの初会合が開かれ、法案の骨子案が示されました。
 骨子案では、補償の範囲を判決よりも拡大し、元患者の配偶者や親子、きょうだいだけでなく、孫や、おい、めいなども同居していたことを条件に、対象に加えるとしています。
 また、戦前の台湾や朝鮮半島に居住していた元患者の家族も対象とする方向で検討するほか、差別の解消に向けて名誉回復の対象に家族を加える法改正も目指すとしています。
 一方で、補償額は「政府と原告側で合意に至っていない」として、示していません。

https://www.chunichi.co.jp/s/article/2019101701002369.html
 ハンセン病元患者家族の補償を巡り、超党派の国会議員グループが検討している補償法案の前文は「国」「政府」を主語とし、謝罪の文言を記す方向であることが17日、関係者への取材で分かった。国の強制隔離政策で家族が被った差別被害について、国の責任をより明確にする。
 関係者によると、元患者を対象にしたハンセン病補償法は前文の主語が「われら」となっており、家族への補償法案でも前文の案は当初、「われわれは、それぞれの立場において、深くおわびする」と記していた。元患者家族訴訟の弁護団が「国の責任であるとしっかり明示すべきだ」と反発。議員グループが修正することでまとまった。

ハンセン病家族に180万~130万円 原告団が受け入れへ (写真=共同) :日本経済新聞
・国の敗訴が確定したハンセン病家族訴訟で、厚生労働省が家族1人当たり180万~130万円とする補償案を提示し、原告団が受け入れる方針を固めたことが17日、関係者の話で分かった。熊本地裁が命じた賠償額の130万~30万円(弁護士費用を除く)から上積みする。
 厚労省原告団と非公開の協議を7月から実施。原告団からは当初「人生を台無しにした政策の補償としては少額」と厚労省案に反発の声もあった。だが関係者によると、補償額の上積みを要求すれば協議が決裂する可能性があったため、受け入れを決断した。
・なお、判決は1972年以前の米国統治下の沖縄県での被害や、国がハンセン病に関する啓発活動を進めた2002年以降の被害について賠償責任を否定したが、補償案は場所や時期を問わない。


水俣病問題(2018年以降の報道)

チッソ社長「水俣病救済終了」/暴言に怒り広がる
 水俣病が公式に確認されて62年がたった1日、加害企業チッソの後藤舜吉社長は、熊本県水俣市で開かれた「犠牲者慰霊式」に参列した後、記者団に「水俣病特別措置法(特措法)の救済は終了した」とのべました。
 地元紙「熊本日日」(2日付)によると、後藤氏はチッソが患者補償で生じた多額の債務を抱えることをふまえ、「企業間競争に勝っていく上で、手かせ足かせをできるだけ早く取り除くことが必要」と強調。患者への補償義務が同社の経済活動を束縛する手かせ足かせだとする認識を示したといいます。

チッソ社長 暴言を撤回/「水俣病救済は終了」批判浴び
 水俣病加害企業のチッソは18日、後藤舜吉社長が「水俣病の救済は終わっている」などとした発言について「深く反省し、不安と不快を与えた発言を撤回する」とするコメントを同社のサイトに掲載しました。後藤社長は1日の「犠牲者慰霊式」の後、水俣病特別措置法の救済対象者の判定が終了したとの理由で「終わっている」などと発言。責任を放棄する暴言だとして、患者・被害者をはじめ厳しい批判の声が上がっていました。
 この問題をめぐっては、日本共産党市田忠義副委員長・参院議員ら党国会議員団が8日、中川雅治環境相に対し、後藤社長の発言撤回と、全被害者が救済されるまで責任を果たさせるよう要請。
 中川環境相は18日の衆院環境委員会終了後、田村氏に対し、事態を重く見て要請の趣旨をチッソに伝えてあると述べ、チッソが同日、撤回することになったと説明しました。
■田村議員の話
 謝罪と撤回は、当然のことです。この間、(中略)被害に苦しみながらも患者として認められない人たちが大勢います。引き続き、チッソが加害企業として、補償責任を貫くことを求めていきたい。

被害者線引きするな/仁比議員 政府に水俣病救済迫る/参院決算委

水俣病解決へ共闘を/新潟で患者会総会/打越参院議員あいさつ
 水俣病の早期解決を求めて「新潟水俣病阿賀野患者会」の総会が11日、新潟市で開かれ、患者や共闘会議のメンバーら80人が参加しました。(ボーガス注:七月の参院選挙で初当選した野党共闘候補(新潟選出)の)打越さく良参院議員が駆け付け、あいさつしました。
 主催者あいさつで山﨑昭正会長は、会として打越氏を推薦し、当選に全力を挙げたことを紹介。「水俣病の解決には政治の力が絶対に必要だ。他の国会議員と力を合わせ、解決のために尽力してほしい」と述べました。


レッドパージ(2017年以降の報道)
レッドパージ被害者救え/参院内閣委 仁比氏、官房長官に迫る
最高裁棄却に抗議/レッドパージ国賠訴訟原告/兵庫


◆文化の窓「敗戦の街・赤線の街に佇んで:奥村泰宏・常盤とよ子写真展「戦後横浜に生きる」」(上田誠*67
(内容紹介)
 奥村泰宏・常盤とよ子写真展「戦後横浜に生きる」の紹介。タイトルから分かるように筆者の問題関心から「赤線地帯」「混血児」を中心に論じられている。

参考

【オトナの社会科見学】「戦後横浜に生きる」写真展開催中 横浜都市発展記念館 - zakzak
 野毛山プールでの女子プロレス試合風景では、ロープ際で髪をつかまれ苦悶(くもん)の表情を見せる選手の背景に、階段状の席を埋め尽くす観客たちも捉える。娯楽に飢えていた当時の事情が浮かぶ。

 1955年時点で女子プロレスが存在したのは興味深いですが、その点については上田論文ではそれほど言及はされていません。
 なお、ウィキペディア女子プロレス」によればこの時代の代物は「がちのプロレス」というよりはストリップ劇場やキャバレーで行われるキャットファイトだったようです。

 外国船員向けの歓楽街として知られた本牧の「チャブ屋」で働いた女性、お六さんが自宅でアコーディオンを奏でる姿を常盤氏が撮った1枚も衝撃的。男性以外入れぬ部屋に足しげく通い、根負けして入室を許されたという。年輪を帯びる彼女の顔と対照的な下着からはみ出す脚線美に目をひかれる。

 「お六さん」については上田氏も触れてますが「下着からはみ出す脚線美」てあたりが夕刊フジらしい(勿論褒めてない)。


◆書評:浅井良*68ほか編『中村政則*69歴史学』(2018年、吉川弘文館)(評者:高田雅士)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

中村政則の歴史学 書評|浅井 良夫(日本経済評論社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
 本書の編集にあたった大門正克*70は『評論』第212号(2018年8月)で、「中村さんの学問には、『講座派』や『戦後歴史学』の枠におさまらない魅力があった。中村さんの作品には、読者をぐいぐいと引き込む力のあるものが少なくなかった」と書いている。
 本書の構成は5部から成る。第1部は「『中村政則歴史学』の生涯を振り返る」。冒頭に大門の報告「『中村政則歴史学』の歴史的位置」があり、それを受けて座談会が持たれている。座談会では、大門ら7人が、中村が関わってきた歴史学研究会産業革命史研究、地主制史研究などの中村の業績を振り返っている。
 第2部は「『中村政則歴史学』を歴史に位置づける」。中村の歴史学を地主制史論、近代天皇制と象徴天皇制、民衆史論、日本帝国主義史論、戦後史に分類し、森武麿*71らが中村の著述を中心に、そのあらましと中村の主張だけでなく、その背景にまで迫っている。
 森は、「中村は安保闘争の影響を強く受け、人民のために学問をしなければならないという問題意識を終生持ち続けた」と書く。天皇制について書いた安田常雄*72は、「天皇制確立の論理は、崩壊の論理を含む。確立の仕方は、のちの崩壊の仕方を決定する矛盾的契機を含みながら確立する」と中村の説を引いている。
 中村は、民衆史に当事者の聞き取り(オーラルヒストリー)を活用している。その代表作は『労働者と農民』(1976、小学館)だ。女工、坑夫、農民に対象を絞り、これらの職種が戦前の日本資本主義の特徴を示しているとし、戦前日本の労使関係の前近代的本質を明らかにしている。
 第3部は「中村政則の研究活動の場をたどる」。産業革命史研究会*73歴史学研究会自治体史編さん、欧米の歴史研究者との交流*74、韓日の歴史研究者間の人間的交流の5つが並ぶ。私には荒川章二*75自治体史編さん」が興味深かった。自治体史編さんの最も重要な課題は「それぞれの自治体は、いまどんな問題に直面しているか。過去への問いかけは、ここからスタートする。自治体の歴史を『上から、中央から』見るのではなく、その地域の中から、その地域特有の歴史的個性を明らかにする」。当然のことだが、実際の市町村史は大方そのようには編まれていない。茨城県では、聞き書きを多用した『勝田市史』は例外に属する。
 第4部は「『中村政則歴史学』を読む。中村の代表作である『日本地主制の構成と段階』、『近代日本地主制史研究』、『労働者と農民』、『昭和の恐慌』、『日本近代と民衆*76』を加瀬和俊*77らが解説する。第5部が著作目録。中村の著作への書評、紹介文献も収録されている。
 「あとがき」で浅井良夫は「近年、戦後の歴史学について論じられる際に、中村政則さんへの言及がほとんどないことを、とても不思議に感じていた」。
 70年代半ば以降の歴史学は社会史、民衆思想史に重点を置くようになり、「中村さんの仕事は『戦後歴史学』の末尾に位置づけられ、『時代遅れ』であるとして、歴史家の関心を惹きつけなくなった」と述懐している。学会の事情に疎い私には、このあたりのことがよくわからないが、明治維新戊辰戦争)から150年経った今、改めてその歴史を辿り、次世代に何を引き継ぎ、何を捨てるのかを考えるために、「中村政則歴史学」は有効だと考える。
(文中、すべて敬語を省いている)


◆書評:鄒燦『「盧溝橋事件記念日」をめぐる日本と中国』(2018年、大阪大学出版会)(評者:姫田光義*78
(内容紹介)
 アマゾンの紹介などで代替。なお、中国では盧溝橋事件は「1937年7/7」に起こったため、「七七事変」と、柳条湖事件満州事変)は「1931年9/18」に起こったため「九一八事変」と呼ばれます。

■アマゾン内容紹介
 本書は、盧溝橋事件を発端とする日中全面戦争期の日本と中国において、「七月七日」が如何に戦時国民動員に結び付けて記念されたかを比較検討し、その過程で構築された日中戦争像の差異を考察したものである。同時代の戦争認識の形成過程と、そこに生じた両国の差異がどのように戦後に継承されたかを確認し、戦時と戦後との連続面に留意した長期的な日中戦争像を提供する必要があるという問題提起をおこなう。

【中国政府と柳条湖事件記念日、盧溝橋事件記念日】

在日本中国大使館が日本の民間団体と共同で「七七事変」80周年記念集会--人民網日本語版--人民日報
・在日本中国大使館は7日午後、不戦兵士・市民の会、日中友好8・15の会、関東日中平和友好会、撫順の奇跡を受け継ぐ会、東京紫金草合唱団と共同で「七七事変」80周年記念集会を開催した。
・程大使は、挨拶の中で、「80年前の今日、日本の侵略者が盧溝橋事件を起こし、全面的な中国侵略戦争を始めた。今年は、南京大虐殺が起きてから丸80年でもある。1937年12月13日、日本の侵略軍は南京で中国の兵士や一般人に対して、残酷非道な大虐殺を行い、30万人が犠牲になった。日本の軍国主義侵略戦争を起こし、中国の国民やアジア諸国の国民に、未曽有の大災害をもたらした。日本の国民も大きな被害を受け、人類文明史上に非常に暗黒な一ページを残した。中国政府の歴史問題における立場は一貫しており明確。中国は侵略戦争を起こした軍国主義者と、多くの日本の国民を区別しており、戦争の罪を日本の国民になすりつけたことはない」と語った。
 日本の著名な歴史学者笠原十九司*79も記念の講演を行い、日本が中国を侵略した暗黒の歴史を振り返り、「安倍政権が歴史から教訓をくみ取っておらず、中日の領土問題を利用して、憲法を改正しようとしており、日本を戦争の淵に追いやっている」と批判した。

七七事変78周年 歴史を振り返って明晰な認識を_中国網_日本語
 7月7日は「七七事変」(盧溝橋事件)の78周年の記念日である。1937年7月7日、日本の侵略者は宛平城を砲撃し、国内外を震撼させた。日本軍国主義に対する中国人民の全面的な抗戦はここから始まった。1931年の「九一八事変」(満州事変)から数えれば中国の抗日戦争は14年にわたるが、その前半6年は局地的な抗戦、後半8年は全面的な抗戦と分けることができる。


追想「長野暹(すすむ)さんを悼む」(猪飼隆明*80
(内容紹介)
 2018年11月に肝臓ガンで死去された長野氏の追悼文。

■長野暹(ながの・すすむ、1931年12月20日~2018年11月3日、ウィキペディア参照)
 佐賀大学名誉教授。
■著書
『幕藩制社会の財政構造』(1980年、大原新生社)
『明治国家初期財政政策と地域社会』(1992年、九州大学出版会)
佐賀藩反射炉』(2000年、新日本新書)
八幡製鉄所史の研究』(編著、2003年、日本経済評論社
『幕藩制国家の領有制と領民』(2004年、吉川弘文館)など

参考

<追想メモリアル>長野暹さん(86歳)佐賀大学経済学部名誉教授 11月3日死去 「幕末佐賀」の第一人者|追想|佐賀新聞LiVE
 幕末期の佐賀が果たした日本近代化の役割を、丹念にひもといた。学者として研究するだけでなく、フットワーク軽く市民運動にも参加し多くの人に慕われた。
 2009年秋、珍しく酒に酔い上機嫌な姿を、NPOまちづくり研究所の三原宏樹理事長は忘れられない。東京で開かれた専門委員会で、三重津海軍所跡(佐賀市)が世界遺産の構成資産候補に加わることが決まった日のことだ。
 当初、三重津海軍所跡は世界遺産候補に挙げられていなかった。行政の動きさえも鈍い中、「近代化の要は佐賀。佐賀が外されたままでは、佐賀の先人たちの努力が報われない」。佐賀の科学技術史を読み解く作業を続けた。市民団体に請われた講座の講師も精力的に引き受けた。15年7月、三重津海軍所跡を含む全国23カ所にまたがる世界遺産明治日本の産業革命遺産」登録につながった。
 出土物をシンクロトロン光や蛍光X線で分析した研究など科学の手法も組み入れ、複眼的に歴史を見た。「理系と文系の融合が特徴」と、鍋島報效会評議員の大園隆二郎さん*81は振り返る。60代後半は理工学部の大学院に入学、学び直した。
 愛媛県出身。10代で終戦を迎え、戦争の悲惨さを身をもって体験した。九州大で助手を経て、佐賀大では経済学部教授、同学部長も務め、アジア諸国と共同研究を進める基盤を作った。最終講義では「歴史の真実を見極める目を持って」と語り、関東軍731部隊の生体実験を糾弾した森村誠一さんの「悪魔の飽食」の詩をもとにした合唱組曲を、佐賀で歌う実行委員長も務めた。
 亡くなった約20日後に開かれた明治維新150年を記念したシンポジウムで総括者を務める予定だった。車いすでの移動がやっと、という体調だったが、研究、執筆も続けていた。来年2月3日午後2時から、有志が佐賀市の県立美術館ホールで偲(しの)ぶ会を開き、長年の功績を振り返る予定だ。

*1:下に見るように近年は皇室関係の著書が多いが、皇室関係以外にも『滝山コミューン一九七四』(2010年、講談社文庫)、『震災と鉄道』(2011年、朝日新書)、『団地の空間政治学』(2012年、NHKブックス)、『レッドアローとスターハウス:もうひとつの戦後思想史【増補新版】』(2019年、新潮選書)、『「松本清張」で読む昭和史』(2019年、NHK出版新書)などの著書がある。

*2:清張の絶筆ミステリ作品の一つ。天皇制をテーマとしている。

*3:神道でない点が注目ポイントでしょう。おそらく美智子氏がカトリックであることが皇室に与えた影響などについても触れられてるのではないか。

*4:創価学会公明党潮出版社創価学会系列)は一応別団体とは言えこういう本が潮出版社から出されることは興味深いと思います。

*5:勿論批判的コメントになると思います

*6:勿論好意的コメントになると思います

*7:勿論元凶は安倍ですが、さすがに秋篠宮も公然と安倍批判はしがたいわけです。そして安倍や安倍応援団(産経)といったウヨ連中も「宮内庁長官の名前だけ出した」とはいえ「秋篠宮の野郎ふざけんな!」つう反感は覚えてるでしょう。「私たちは皇室を愛しています。秋篠宮殿下も大好きです」つう建前上そういう悪口が出来ないだけです。「米長の例の話」「天皇訪中」についても「明仁の野郎ふざけてる!」「なぜ米長さんを応援しなかった、なぜ訪中などした!」「親があんなんだから大嘗祭内廷費でやるべきだとか、秋篠宮が馬鹿なことを言うんだ」くらい思ってるでしょうが「私たちは皇室を愛しています。明仁上皇美智子様も大好きです」つう建前上そういう悪口が出来ないだけです。

*8:自治省大臣官房審議官(選挙担当)、総務省大臣官房審議官(地方行政・地方公務員制度、選挙担当)、内閣府大臣官房審議官(沖縄担当)、大臣官房長、事務次官宮内庁次長などを経て宮内庁長官

*9:盧武鉉政権大統領秘書室長、「共に民主党」代表を経て大統領

*10:全羅南道知事を経て首相

*11:小泉内閣沖縄・北方等担当相、福田内閣金融等担当相、第二次安倍内閣経産相、第三次安倍内閣経済財政担当相、自民党政調会長(谷垣総裁時代)、選対委員長(第二次安倍総裁時代)などを経て現在、外相

*12:著書『院政の研究』(1996年、臨川書店)、『院政』(2006年、中公新書)、『白河法皇』(2013年、角川ソフィア文庫)、『後白河天皇』(2015年、ミネルヴァ日本評伝選)、『後三条天皇』(2016年、山川出版社日本史リブレット人)、『公卿会議』(2018年、中公新書

*13:「退位自体が目的(明仁上皇)」「退位は抗議意思の表明(後水尾天皇)」と言う大きな違いがありますが「周囲の反対を覚悟しながら退位を強行(?)した」と言う点では明仁氏とある種の共通点があると言っていい気もします。

*14:個人サイト源清流清―瀬畑源ウェブサイト。著書『公文書をつかう:公文書管理制度と歴史研究』(2011年、青弓社)、『国家と秘密:隠される公文書』(共著、2014年、集英社新書)、『平成の天皇制とは何か』(編著、2017年、岩波書店)、『公文書問題:日本の「闇」の核心』(2018年、集英社新書)、『公文書管理と民主主義:なぜ公文書は残されなければならないのか』(2019年、岩波ブックレット)、『国家と記録:政府はなぜ公文書を隠すのか?』(2019年、集英社新書

*15:1996年に『シャイン』でピアニストのデイヴィッド・ヘルフゴットを演じ、アカデミー主演男優賞を受賞。

*16:英国王のスピーチ』では、英国アカデミー賞助演女優賞を受賞し、さらにアカデミー助演女優賞にもノミネートされた。

*17:著書『一銭五厘たちの横丁』(2000年、岩波現代文庫)、『淋しき越山会の女王他六編』(2001年、岩波現代文庫)など

*18:著書『アイドル万華鏡』、『女子の国はいつも内戦』(河出文庫)、『霊道紀行』(角川文庫)、『辛酸なめ子現代社会学』(幻冬舎文庫)、『大人のコミュニケーション術』(光文社新書)、『妙齢美容修業』(講談社文庫)、『消費セラピー』(集英社文庫)、『女子校育ち』(ちくまプリマー新書)、『癒しのチャペル』(ちくま文庫)など

*19:日経新聞で皇室担当記者を長く務め、2006年にいわゆる富田メモをスクープし、2006年度新聞協会賞を受賞。著書『天皇と葬儀:日本人の死生観』(2013年、新潮選書)、『昭和天皇は何と戦っていたのか:「実録」で読む87年の生涯』(2016年、小学館)、『天皇の戦争宝庫:知られざる皇居の靖国「御府」』(2017年、ちくま新書)、『象徴天皇の旅:平成に築かれた国民との絆』(2018年、平凡社新書

*20:著書『レイテ沖海戦』(2001年、PHP文庫)、『ノモンハンの夏』(2001年、文春文庫)、『ソ連満洲に侵攻した夏』(2002年、文春文庫)、『ルンガ沖夜戦』(2003年、PHP文庫)、『真珠湾の日』(2003年、文春文庫)、『聖断:昭和天皇鈴木貫太郎』(2006年、PHP文庫)、『日本のいちばん長い日 決定版』(2006年、文春文庫)、『それからの海舟』(2008年、ちくま文庫)、『日本国憲法の二〇〇日』(2008年、文春文庫)、『荷風さんの戦後』、『山県有朋』(2009年、ちくま文庫)、『昭和史1926-1945』、『昭和史戦後篇』(2009年、平凡社ライブラリー)、『15歳の東京大空襲』(2010年、ちくまプリマー新書)、『幕末史』(2012年、新潮文庫)、『安吾さんの太平洋戦争』(2013年、PHP文庫)、『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(2014年、文春文庫)、『「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦』(2015年、岩波ブックレット)、『戦う石橋湛山』(2019年、ちくま文庫)、『アメリカはいかに日本を占領したか:マッカーサーと日本人』(2019年、PHP文庫)、『B面昭和史 1926-1945』(2019年、平凡社ライブラリー) など

*21:どう見ても「秋篠宮夫妻(真子さんの両親)の反対(公然の秘密)」で当面結婚はない(下手すると破談)ので俺なんか別に小室君に興味ないですけどね。さすがに小室君母子を批判するマスコミ報道が事実なら、秋篠宮夫婦同様に「結婚はやめてほしい」と思いますが「結婚の可能性は当面ない」わけですから。

*22:実際どうだか知りませんが安倍だと「新天皇を褒めようと」軽い気持ちでこんなことを言ってしまい、「それは前天皇への悪口にならないか?」と周りから言われて、慌てるという醜態をさらしても何ら驚きません。それが首相で長期政権というのも情けない話です。

*23:田中内閣の増原防衛庁長官のこと

*24:そもそも皇室タブーにより「共産党など左派からの戦争責任批判」を除けばそれほど昭和天皇批判もなかったのですが。なお、昭和天皇と前天皇、新天皇の違いとしては前者への批判が「左派からの戦争責任批判」が多いのに対し、後者については(左派からの批判がないわけではないですが)、産経など右派からの「伝統無視」という批判が多いように思います。

*25:朝日新聞で皇室担当記者を長く務める。著書『天皇家の宿題』(朝日新書

*26:著書『天皇家の財布』(2003年、新潮新書

*27:そもそも昭和天皇に沖縄訪問する気があったのか自体怪しいですが。

*28:著書『「象徴天皇」の戦後史』(2010年、講談社選書メチエ)、『皇居の近現代史:開かれた皇室像の誕生』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『うたごえの戦後史』(2016年、人文書院)、『明仁天皇と戦後日本』(2016年、洋泉社歴史新書y)、『天皇制と民主主義の昭和史』(2018年、人文書院)、『近代天皇制から象徴天皇制へ』(2018年、吉田書店)、『平成の天皇と戦後日本』(2019年、人文書院

*29:著書『昭和天皇終戦史』(1992年、岩波新書)、『日本人の戦争観:戦後史のなかの変容』(1995年、岩波現代文庫)、『日本の軍隊:兵士たちの近代史』(2002年、岩波新書)、『兵士たちの戦後史』(2011年、岩波書店)、『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(2017年、中公新書)など

*30:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*31:さすがに昭和天皇のような「政治的中立性に反する発言」はなかったでしょうがどんな応答がされたのか気になるところです。

*32:2019年、岩波新書

*33:「皇室担当記者」とはいえ、日経・井上氏の記事の方が「自称・皇室万歳の産経」より勉強になる記事が多いのも皮肉な話です。

*34:エリツィン政権大統領府第一副長官、連邦保安庁長官、第一副首相、首相を経て大統領

*35:まあ、そうでしょうがそこから出てくる批判の一つは「エネルギー資源(石油や天然ガス)販売ではなく、欧米や日本、中韓のように商工業やサービス産業で稼げないのか?(経済構造の転換)」つう話ですね。その意味で言えば「文革の惨状から今の経済大国をつくった、トウ小平江沢民中国共産党指導部」は「彼らだけの力ではない(個々の中国人企業家の努力など中国共産党指導部とは関係ない部分もある)」とはいえやはり有能ですね。

*36:モスクワ市党第一書記を経てロシア大統領

*37:著書『皇太子誕生』(2006年、講談社文庫)、『美智子さまご出産秘話』(2019年、朝日文庫)、『天皇の憂鬱』(2019年、新潮新書)など

*38:著書『中国人の「超」歴史発想』(中公文庫)、『ほんとうは日本に憧れる中国人:「反日感情」の深層分析』、『中国人の愛国心』(PHP新書)など

*39:著書『イギリス二大政党制への道』(1999年、有斐閣)、『パクス・ブリタニカのイギリス外交:パーマストンと会議外交の時代』(2006年、有斐閣)、『女王陛下の影法師』(2007年、筑摩書房)、『ヴィクトリア女王』(2007年、中公新書)、『女王陛下の外交戦略:エリザベス二世と「三つのサークル」』(2008年、講談社)、『ジョージ四世の夢のあと』(2009年、中央公論新社)、『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』(2010年、光文社新書)、『ジョージ五世』(2011年、日経プレミアシリーズ)、『ベル・エポックの国際政治:エドワード七世と古典外交の時代』(2012年、中央公論新社)、『チャールズ皇太子の地球環境戦略』(2013年、勁草書房)、『女王陛下のブルーリボン:英国勲章外交史』(2014年、中公文庫)、『物語イギリスの歴史(上)(下)』(2015年、中公新書)、『立憲君主制の現在』(2018年、新潮選書)、『ヨーロッパ近代史』(2019年、ちくま新書)など

*40:ベルギー、オランダ、ルクセンブルグのこと

*41:スウェーデンノルウェーフィンランドのこと

*42:この28カ国の内訳は日本の他、アラブ首長国連邦、英国、エスワティニ(旧称スワジランド)、オマーン、オランダ、カタールカンボジアクウェートサウジアラビアサモアスウェーデン、スペイン、タイ、デンマーク、トンガ、ノルウェーバーレーンブータンブルネイ、ベルギー、マレーシア、モナコ、モロッコ、ヨルダン、リヒテンシュタインルクセンブルクレソトかと思います(ウィキペディア「現在の君主の一覧」参照)。

*43:英連邦王国15カ国の内訳はアンティグア・バーブーダ、オーストラリア、カナダ、グレナダ、ジャマイカ、セントクリストファー・ネイビス、セントビンセント・グレナディーンセントルシアソロモン諸島、ツバル、ニュージーランドバハマ、バルバドス、パプアニューギニアベリーズです(ウィキペディアイギリス連邦」参照)。まあカナダやオーストラリア、ニュージーランドは王国とは普通見なされないと思いますが。

*44:まあ「君主制の是非」はともかく、確かに「君主制は必ずしも時代遅れではない」でしょうが、少なくとも女帝に反対する産経のようなウヨは「21世紀から取り残された時代遅れの人間」だと思います。

*45:相手が産経文化人(つまり何言っても無駄)とは言え「王国だからやなくてスウェーデンノルウェーが人権先進国だからやろ、そういう人権先進国で王室が生き残るためには人権問題に王室が興味関心ある態度とらないと国民の支持が得られへんからやろ」「たとえばカンボジア王国なんてフンセン首相の独裁やないか、サウジアラビアなんか王族の命令で駐トルコ大使館で反政府派の暗殺やらかしてるやないか」「どう見ても天皇制正当化するためのウヨの詭弁やないか」と言いたくなりますね。まあ、それでも君塚氏は荒木和博だの島田洋一だのに比べればさすがにずっとまともですが。

*46:その意味では終戦直後に「昭和天皇のせいで多くの人間が死に、国が焼け野原になった」として国民の憎悪により「王制が廃止されたイタリアのように」皇室が消えてもおかしくなかった(少なくとも昭和天皇が退位してもおかしくなかった)のですが「洗脳教育の成果(悪いのは軍部で天皇じゃない)」で退位もせずに生き残ったわけです。とはいえ今の皇室一家は「戦前のような天皇支持はあり得ない」「ウヨと癒着したらかえって国民の反発を買う」と言う理解の元、ウヨ連中からは一定の距離を置いています。

*47:英国のEU離脱論やスコットランド独立運動が大変わかりやすいですがどう見ても「公正中立」の立場から「政党間、民族間の対立の調整」なんぞ英国王室はやっていません。やるべきでもないし、当人たちもやる気はないでしょうが(そもそもIRAによる王族「マウントバッテン」暗殺まで過去にはありましたし)。日本だって天皇の存在は「公正中立」の立場から「安倍とアンチ安倍の対立の調整」になぞかけらも役立っていません。やるべきでもないし、当人たちもやる気はないでしょうが。「政治対立から超越」云々として君塚氏は「ベルギー(フランス系のワロン人とオランダ系のフラマン人の対立を王室が調和してきたとされる)」をあげていますが、それは「その国の特殊事情で成立している」のであってどこの王国でも成り立つ話じゃないでしょう。スペイン王室に至っては王家が公然と「カタルーニャ独立反対、中央政府支持」を表明し、カタルーニャ側の反発を買ってる有様です。

*48:著書『ポピュリズムとは何か』(2016年、中公新書)、『現代世界の陛下たち:デモクラシーと王室・皇室』(君塚氏などとの共著、2018年、ミネルヴァ書房)、『反転する福祉国家オランダモデルの光と影』(2019年、岩波現代文庫)など

*49:天皇制関係の著書として『昭和天皇』(2008年、岩波新書)、『「神々の乱心」を読み解く:松本清張の「遺言」』(2009年、文春新書→後に『松本清張の「遺言」:『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く』と改題して2018年、文春文庫)、『皇居前広場』(2014年、文春学藝ライブラリー)、『大正天皇』(2015年、朝日文庫)、『「昭和天皇実録」を読む』(2015年、岩波新書)、『皇后考』(2017年、講談社学術文庫)、『〈女帝〉の日本史』(2017年、NHK出版新書)、『平成の終焉:退位と天皇・皇后』(2019年、岩波新書)、『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』(2019年、潮新書)など

*50:アスナール政権教育相、内務相などを経て首相。現在は社民党に政権奪還されたことを機に政界引退。

*51:著書『表象としての皇族:メディアにみる地域社会の皇室像』(2017年、吉川弘文館)、『表象天皇制論講義』(2019年、白澤社)

*52:とはいえ、さっぱり盛り上がらなかった明治150年式典同様、こうした式典での安倍の「右翼的なもくろみ」は「ほとんど成功してない(改元発表時の支持率上昇も内閣改造後のご祝儀相場と同程度に過ぎない)」と茂木氏は見ています。また「明治150年式典出席を見合わせる」など「安倍から一定の距離をとっていること」が「昭和天皇に比べたらずっとマシ」「極右・安倍に比べたらずっとマシ」と「共産支持層の一部」すら天皇明仁氏及び徳仁氏)への好意的評価を持つことになってる「安倍にとっても共産など天皇制批判派にとってもある意味、皮肉な状況」があることが茂木氏によって指摘されます。その意味では「安倍の下野」は天皇評価にも一定の影響があるかもしれません。

*53:佐藤、田中内閣官房長官、三木内閣建設相、大平、中曽根内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)などを経て首相

*54:著書『象徴天皇制の形成と定着』(2010年、思文閣出版)、『昭和天皇退位論のゆくえ』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*55:1984年、ロス五輪男子柔道無差別級金メダル獲得、国民栄誉賞受賞。現在、JOC会長、全柔連会長、東海大学副学長。

*56:1980年フランスの園芸会社メイアンによって、ミッテラン大統領夫人が来日した折に紀宮清子内親王(当時)に捧げられた。メイアンは他にも「プリンセス・ド・モナコグレース・ケリーモナコ大公レーニエ3世妃)に捧げられた)」「ロイヤルプリンセス(愛子内親王に捧げられた)」などを作り出している。

*57:著書『植民地期朝鮮の地域変容:日本の大陸進出と咸鏡北道』(2017年、吉川弘文館

*58:著書『ニコス・プーランザス 力の位相論』(2015年、吉田書店)

*59:ただし田口氏の表記は「プーランツァス」

*60:著書『先進国革命と多元的社会主義』(1978年、大月書店)、『マルクス主義国家論の新展開』(1979年、青木書店)、『多元的社会主義の政治像』(1982年、青木書店)、『戦後日本政治学史』(2001年、東京大学出版会)など

*61:著書『王権誕生』(2008年、講談社学術文庫)、『青銅器のマツリと政治社会』(2010年、吉川弘文館)、『王権と都市の形成史論』(2011年、吉川弘文館)、『弥生時代国家形成史論』(2017年、吉川弘文館)など

*62:著書『古墳時代政治構造の研究』(2007年、塙書房)、『前方後円墳の世界』(2010年、岩波新書)、『カミ観念と古代国家』(2010年、角川叢書)、『前方後円墳国家』(2017年、中公文庫)、『前方後円墳とはなにか』(2019年11月刊行予定、中公叢書)など

*63:著書『近世大名家臣団と領主制』(1997年、吉川弘文館)、『藩国と藩輔の構図』(2003年、名著出版)、『近世領主支配と地域社会』(2009年、校倉書房)、『武士の奉公 本音と建前:江戸時代の出世と処世術』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『近世政治社会への視座』(2017年、清文堂出版

*64:著書『近代中国の政治統合と地域社会』(2010年、研文出版)、『袁世凱』(2015年、山川出版社世界史リブレット人)

*65:著書『新装新版・戦後日韓関係:国交正常化交渉をめぐって』(2015年、クレイン)、『日韓会談1965』(2015年、高文研)、『歴史認識から見た戦後日韓関係:「1965年体制」の歴史学政治学的考察』(編著、2019年、社会評論社

*66:これについては本当に「安直」「ベタ」で恐縮ですが入門としては名作映画『砂の器』の視聴をお薦めしたい。

*67:著書『音楽はいかに現代社会をデザインしたか:教育と音楽の大衆社会史』(2010年、新曜社)、『「混血児」の戦後史』(2018年、青弓社

*68:著書『戦後改革と民主主義』(2000年、吉川弘文館)、『IMF8条国移行:貿易・為替自由化の政治経済史』(2015年、日本経済評論社

*69:1935~2015年。一橋大学名誉教授。著書『近代日本地主制史研究』(1979年、東京大学出版会)、『日本近代と民衆』(1984年、校倉書房)、『象徴天皇制への道:米国大使グルーとその周辺』(1989年、岩波新書)、『戦後史と象徴天皇』(1992年、岩波書店)、『歴史のこわさと面白さ』(1992年、ちくまプリマーブックス)、『昭和の恐慌』(1994年、小学館ライブラリー)、『近現代史をどう見るか:司馬史観を問う』(1997年、岩波ブックレット)、『現代史を学ぶ:戦後改革と現代日本』(1997年、吉川弘文館)、『労働者と農民』(1998年、小学館ライブラリー)、『明治維新と戦後改革』(1999年、校倉書房)、『戦後史』(2005年、岩波新書)、『昭和の記憶を掘り起こす:沖縄、満州ヒロシマナガサキの極限状況』(2008年、小学館)、『「坂の上の雲」と司馬史観』(2009年、岩波書店)など

*70:著書『明治・大正の農村』(1992年、岩波ブックレット)、『語る歴史、聞く歴史:オーラル・ヒストリーの現場から』(2017年、岩波新書)、『増補版・民衆の教育経験:戦前・戦中の子どもたち』(2019年、岩波現代文庫)、『日常世界に足場をおく歴史学』(2019年、本の泉社)など

*71:著書『戦時日本農村社会の研究』(1999年、東大出版会)、『戦間期の日本農村社会』(2005年、日本経済評論社)など

*72:著書『日本ファシズムと民衆運動』(1979年、れんが書房新社)、『出会いの思想史・渋谷定輔論:『農民哀史』の世界』(1981年、勁草書房)、『暮らしの社会思想』(1987年、勁草書房

*73:日本経済評論社 - Booksによれば『日本資本主義史論』(1980年、ミネルヴァ書房)、『明治経済史再考』(2006年、ミネルヴァ書房)などの著書がある高村直助氏が寄稿

*74:日本経済評論社 - Booksによれば『昭和天皇(上)(下)』 (講談社学術文庫) の著書があるハーバート・ビックス氏が寄稿

*75:著書『軍隊と地域』(2001年、青木書店)、『軍用地と都市・民衆』(2007年、山川出版社日本史リブレット)など

*76:『日本地主制の構成と段階』のみ共著で、他が単著

*77:著書『集団就職の時代』(1997年、青木書店)、『戦前日本の失業対策』(1998年、日本経済評論社)、『失業と救済の近代史』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*78:著書『中国革命に生きる:コミンテルン軍事顧問の運命』(1987年、中公新書)、『「三光作戦」とは何だったか:中国人の見た日本の戦争』(1995年、岩波ブックレット)、『中国革命史私論』(2000年、桜井書店)など

*79:都留文科大学名誉教授。著書『アジアの中の日本軍』(1994年、大月書店)、『日中全面戦争と海軍:パナイ号事件の真相』(1997年、青木書店)、『南京事件』(1997年、岩波新書)、『南京事件三光作戦』(1999年、大月書店)、『南京事件と日本人』(2002年、柏書房)、『南京難民区の百日:虐殺を見た外国人』(2005年、岩波現代文庫)、『南京事件論争史』(2007年、平凡社新書→増補版、2018年、平凡社ライブラリー)、『「百人斬り競争」と南京事件』(2008年、大月書店)、『日本軍の治安戦』(2010年、岩波書店)、『第一次世界大戦期の中国民族運動』(2014年、汲古書院)、『海軍の日中戦争』(2015年、平凡社)、『日中戦争全史(上)(下)』(2017年、高文研)など

*80:著書『西郷隆盛』(1992年、岩波新書)、『西南戦争』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『ハンナ・リデルと回春病院』(2005年、熊本出版文化会館)、『近代日本におけるハンセン病政策の成立と病者たち』(2016年、校倉書房)など

*81:著書『大隈重信』(2005年、西日本新聞社)、『枝吉神陽』(2015年、佐賀城本丸歴史館)