今日の中国ニュース(2019年11月26日分)

【正論】「大東亜共栄圏」目指す中国の夢 東京国際大学教授・村井友秀 - 産経ニュース
 タイトルだけで「はあ?」ですね。
 勿論アンチ中国の産経が中国を褒めるわけもない。

 中国は大日本帝国と同様に実力を過信し早まった。米国の太平洋支配に挑戦する「一帯一路」という第二の「大東亜共栄圏」も(ボーガス注:米国の太平洋支配に挑戦した?)大日本帝国の「大東亜共栄圏」の二の舞いになるだろう。

という文章で分かるように、ここでの「大東亜共栄圏」とは「一帯一路に対する悪口雑言」のわけですが、しかしそうなると「産経の日頃の大東亜共栄圏美化は何だったのか?」「本心では大東亜共栄圏は間違ってると思ってるのか?」と言う話になるわけです。
 まあそれはともかく一帯一路は別に「米国の太平洋支配に挑戦」しているわけではない*1でしょう。当然ながら「二の舞にはならない」。


リベラル21 少数民族にとって中国革命とは何だったか(7)
 今日の中国ニュース(2019年11月23日分) - bogus-simotukareのブログで取り上げたリベラル21 少数民族にとって中国革命とは何だったか(6)の続きです。やっと(おわり)だそうです。

 1956年2月、ソ連共産党20回大会でのフルシチョフ首相のスターリン批判は世界に大きな衝撃を与えた。とりわけハンガリーポーランドなど東欧諸国の衝撃は大きく、社会的動揺が生れた。
 5月毛沢東はこれによって自信が揺らいだのか、ひろく中共の支配に対する批判を求めた。「百花斉放百家争鳴」運動である。知識人らは、はじめ報復を恐れて批判を口にしなかったが、何回も促されてようやく意見表明に踏み切った。批判の多くは誰が考えても当を得たものであった。
 しかし毛沢東は、6月になると人民の敵=右派が一斉に立ち上がったものと受け止めて中共批判に激しく反論し、それまで中共に寄り添ってきた民主同盟や農工民主党*2を「反共反社会主義」と名指しで批判した。

 毛沢東は後にこれを「反共分子をあぶり出すための陰謀」であるかのように言い、そのように批判する中国共産党批判派もいますが、おそらくそうではないでしょう。毛はおそらく最初は「批判的意見をそれなりに取り入れるつもり」だった。しかし彼の「キャパシティが非常に狭かった」と言う話です。
 しかし、彼にとって「当初は批判意見を一部受け入れるつもりだったが、納得できない意見ばかりなので考えが変わった」「自分にとって共産党批判の内容は多くが予想の範囲外であった」ということを認めるのは「プライドに反することだった」のでしょう。そこで「こういう事態は最初から予想した上で百花斉放百家争鳴といっていた」「最初から反共分子を摘発するための陰謀だった」「この陰謀は反共分子から共産党を守るためのやむを得ないものだ」と言い出す。最初から「陰謀」だったらあまりにも陰険であり、そんなことは事実でも言うべきとは思いませんが、その辺りは「価値観の違い」でしょう。
 そういえば例のid:Mukkeも「お前らの批判は想定内だ」みたいなことを良く言っていた記憶があります。とてもそうとは思えませんでしたが。
 世の中には「考えが変わった」ということをどうしても認めたくない人種、「俺は最初から全て見通していた」「俺は最初から何一つ間違っていない」といいたがる人種がいるわけです。まあ大なり小なり俺も含めて人間はそういう所がありますが、Mukke、毛沢東レベルはやはり相当に酷いでしょう。

 彭徳懐文化大革命の初期、暴行虐待を受け獄死した。

 話の本筋ではないですが、不適切な記述であることはウィキペディア彭徳懐」を読めば分かります。
 まず第一に彼は「大腸ガンによる病院での死」で劉暁波のような獄死(刑務所での死)ではありません。まあ、ろくに医療行為もされなかった、軟禁状態で面会者もなかったというその死は「獄死に近い物がある」かもしれませんが。
 第二に文革初期(1966年)から「彼が毛沢東に国防相を更迭され失脚した、廬山会議(1959年)での毛沢東批判」への反発からか、酷い暴行を受けている彼ですが、死去自体は1974年11月であり、文革終了が1976年10月の四人組逮捕(失脚)ですから彼の死は「初期」ではなく「後期、末期」です。正直、阿部って「チベット関係以外の所はろくに文献も使わずうろ覚えで書いてるんじゃねえの?」という疑念を覚えますね。

 中共青海省委員会は58年1月2日から3月8日まで、拡大全体会議を開き、党書記孫作賓ら省政府幹部数名を、少数民族政策と宗教政策において中共中央の路線に反した反党集団として除名した。このとき、党省副書記タシ・ワンチュクも副省長の職務が剥奪された。

 さすがに公然と党中央に反対はしないでしょう。
 ここで名前が挙がってる党書記(青海省ナンバー1)孫作賓、副書記(ナンバー2)タシ・ワンチュクも「党中央の現場無視としか思えない急進的政策」と「現場の声」をなんとか「折り合いを付けよう(付けないと現地住民の反発で事態が悪化する)」と思っていたのでしょうが、それは毛沢東によって「生ぬるい」「党中央に反対するな」「現場の声に妥協するな」として否定され、乱暴な路線が始まることになる。
 阿部でなくても「そのとき、孫作賓、タシ・ワンチュクのよりマイルドな路線ならチベット問題も今ほど厄介にならなかったのではないか」と思わずにはいられないでしょう。

 中国は、古代秦帝国以来、周辺異民族を征服し漢民族に同化させてきた専制国家である。漢民族とは異なる少数民族の歴史、文化、宗教を守ろうとするものは異端とされてきた。

 こういう物言いはいかがなもんなんでしょうね。阿部に善意に理解すれば「中国国民党蒋介石時代から少数民族の権利は充分保障されてこなかった。中国共産党が下野すれば事態が変わると思うのは甘い」という警告とも思えます。
 しかし、これ下手をすると「何があろうとも中国での少数民族の地位は変わらない(悲観論)」だの「とにかく少数民族は独立するしかない(現実性に乏しい独立論)」だのいう「俺の考えでは到底支持できない方向」に行く危険性がありますからね。
 なお、基本的には大昔はどこも「同化」でしょう。
 「日本のアイヌ政策」にしても「アメリカのインディアン政策」にしてもです。「民族の多様性」なんて話が出てくるのは人間の長い歴史で言えば「ウィルソン米国大統領の民族自決主義」とかごく最近の話でしょう。

*1:そもそも東欧や南米、アフリカにも進出しているので地域的にも「大東亜共栄圏」という表現は不適切ですし。

*2:民主同盟も農工民主党も現在でも存在し、いわゆる政治協商会議の議席を占めています(毛沢東の迫害などで当初に比べればかなり自主性を失っているとは言われますが)。民主同盟や農工民主党の存在から中国の国名が「中華社会主義共和国」ではなく「中華人民共和国」である理由もわかります。当初の中国においては「共産党が最大勢力」とはいえ、その他の政治勢力もそれなりの政治力を有していたし、だからこそ政治協商会議が設置されたし、国名も「中華人民共和国」になったわけです。そう言う意味では「今の中国はともかく」建国当初の中国は「実質的な意味でも一党独裁ではない(正確にはヘゲモニー政党制)」わけです。そして「過大評価は禁物ですし、将来どうなるかは分かりませんが」政治協商会議を「正式に廃止しない」程度には今の中国も「民主的」なわけです。