今日の産経ニュースほか(2019年12月4日分:死刑関係でいろいろ)(注:『12人の怒れる男』『ABC殺人事件』のネタバレがあります)

【最初に追記】
裁判員裁判の判決を、重罰(死刑)の正当化に利用しないでほしい - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)でこの拙記事がご紹介頂きました。ありがとうございます。
【追記終わり】

■今日も「桜を見る会疑惑」報道のテレ朝「モーニングショー」
 他が酷いのでどうしても高評価せざるを得ませんね。なお、TBS「あさチャン」が珍しく「麻生の行政私物化疑惑(不要不急の潜水艦搭乗疑惑)」を簡単にですが報じていました。


麻生氏と潜水艦 何のための搭乗なのか:社説:中日新聞(CHUNICHI Web)

 麻生太郎*1副総理兼財務相が今年五月、海上自衛隊の潜水艦に体験搭乗していた。査定作業上の必要があったと説明するが、現職閣僚による異例の搭乗だ。何が真の目的だったのか、疑問が残る。
 体験搭乗は麻生氏側の要望だった。実施日は部隊の休日に当たる土曜日で、財務・防衛両省の調整で決まったという。
 こうした事実は本紙*2が報道するまで公表されていなかった。現職や元職の首相・閣僚による潜水艦の体験搭乗は少なくとも過去五年間は確認できないという。なぜ麻生氏が非公表で、部隊休日に異例の搭乗をする必要があったのか。
 なぜ公表しなかったのか。職務だと言うなら、日程を公表した上で搭乗し、その成果を報道陣に語るべきだった。そうしなかったのは公表できない事情があったと勘繰られても仕方がない。
 アニメ、漫画好きの麻生氏は、潜水艦を舞台にした漫画「沈黙の艦隊」の愛読者であることを公言している。異例の搭乗が潜水艦への私的な関心を満たすためでないのなら、説明を尽くすべきだ。
 毎年春に行われてきた内閣主催の「桜を見る会」では、安倍晋三首相の事務所が後援会関係者を多数呼び、公私混同と追及されている。麻生氏による異例の搭乗の背景に、多少のことは許されるという長期政権の驕(おご)りや緩みがあるとしたら根が深い。

 麻生財務相が必要も無いのに「面白半分」「興味本位」で潜水艦に乗ったのではないかという「桜を見る会疑惑」とは別の「新たな国政私物化疑惑」が浮上しました(麻生は予算査定のために現場視察したと強弁していますが)。これについても追及が当然必要でしょう。しかしどう見ても内部告発でしょう。安倍政権の終わりが近づいている、そう思いたいところです。


教員、夏休みまとめ取りOKに…改正給特法成立 残業は月45時間以内 - 産経ニュース
 「教員の過労死が増える恐れがある」と共産が批判していた「問題の法」が残念ながら成立だそうです。
 今後は「法律の再改正」「この法の下でも過労死を予防する教員労組などの取り組み」ということになるわけです。しかしこうした重要法案をろくに報じないマスコミ、特にテレビワイドショーには怒りを禁じ得ませんね。


西東京市議、役所内で赤旗勧誘・集金 市長「現状改める必要」 - 産経ニュース
 おいおいですね。何がどう問題だというのか。ただの共産党への嫌がらせでしかない。


裁判員「永山基準、見直すべきだ」 新潟女児殺害、無期判決 - 産経ニュース
 「ならばどう見直すのか」ということですね。「人を殺せば例外なく死刑」なんてことにしない限り、殺人罪で死刑にならない人間は当然出てくるし、その場合、結局、こういう人間は文句を言うだけではないのか。そもそも無期懲役は決して軽い罪ではありません。ある程度服役しないと仮釈放の対象にならないし、「長い期間服役すれば」当然に仮釈放されるわけでもない。無期懲役で獄中死する人間はいくらでもいる。


小島被告「3人殺すと死刑なので、2人までと」 新幹線殺傷公判 - 産経ニュース
 「2人なら死刑にならない」という保証はないのですが、「殺害者数が増えれば増えるほど」死刑の可能性が高くなるのは確かです。
 話が脱線しますがそう言う意味では「ABC殺人事件(クリスティ)」なんてのは現実的にはあり得ない話です。
 殺害動機を隠すためだけに無関係の人間を連続殺人の形で殺すなんてのは事件発覚の危険性が高まるだけだし、犯人だと分かれば罪が重くなりますから。
 「名張毒葡萄酒事件」「和歌山毒カレー事件」のような形での「毒物による同時大量殺害」ならまだしも。 
 それはともかく、「殺害者数が増えれば増えるほど」死刑の可能性が高くなると言う意味では「口に出すかどうか」「意識してるかどうか」はともかく「死刑が殺害意思を減退させる効果」は場合によってはあるでしょう。
 ただし「統計上、死刑が正当化できるほどの大きな犯罪抑止効果」は認められていませんし*3、仮に「死刑が正当化できるほどの大きな犯罪抑止効果があっても」俺も含め多くの死刑廃止派は「冤罪の危険性」などから死刑には反対ですが。

 被告人質問で小島被告は「無期懲役で(刑務所に)永遠に入っていたかった。無差別殺人が一番簡単*4だと思ったから選んだ」などと犯行の動機を語った。
 検察側が「なぜ、刑務所の暮らしが外よりいいと思うのか」と質問すると、「いいところを言うと、いいところが変えられてしまうかもしれない」と、説明を拒んだ。

 まあ言ってることがまともじゃないですね。刑務所をでたり入ったりを繰り返してる人間も、それも「シャバで暮らすことに絶望して故意に刑務所入りを目指してるんじゃないか」つう人間も中にはいます。とはいえ、さすがにそう言う場合「窃盗(万引き、置き引き、無銭飲食など)」「詐欺」など微罪がほとんどで殺人なんかしない。死刑判決が出る可能性が否定できないし、「刑務所に行きたいだけ」で恨みもない人間を人として普通殺せない。
 実は「別の理由があるのか?」つう気もしますがどっちにしろ異常です。こんなことを言えば「犯行が自己中心的で改善の見込みがない」として死刑になる可能性がかえって高まりますし。


【主張】死刑判決の破棄 裁判員の意義を問い直せ - 産経ニュース
 検察は、かつての主張を撤回したのかな - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)というid:Bill_McCrearyさんの「検察への皮肉、嫌み」がもろに該当する産経のへりくつです。
 「裁判員裁判の判決」に高裁が従わないといけない義務*5はないし、それならば、id:Bill_McCrearyさんが言うように「裁判員裁判無期懲役を不服として死刑判決を求めて検察が控訴したケース」で産経は何というのか。結局「厳罰主義・産経は、死刑判決を増やしたい」だけの話でしかない。
 正直「こんなことなら裁判員制度なんか廃止した方がいいんじゃねえの?」つう気がします。
 制度導入前は小生も「十二人の怒れる男」のような「感動的話」が起こるのではないかと「願望こみで期待した」のですが「アホの日本人」ではそういうことになりそうもない。

【参考:十二人の怒れる男

12人の怒れる男たち
 『12人の怒れる男たち』は実によく書かれた本である。
 陪審員室という密室の中で、テーブルを囲んでの討論劇なので、当然、場面転換はないし動きも限定され、目を楽しませてくれる要素の少ない、しんどいドラマのように思えるのに、いざ舞台にのせてみると全く違うのに驚かされる。
 それは一つには最初には十一対一で有罪が決定的と思われた事件が、最後には十二対0で無罪になるというサスペンス風で緊密なドラマ構成にあるが、もう一つには、一人一人のキャラクターが非常にはっきりしており、討論を進めて行く中で一人一人の陪審員が否応なく裸の人間性をさらけ出してしまう点にある。
 そして審議が終わって十二人の陪審員が部屋から出ていったとき、私たちは予期しなかった大きな課題を投げ与えられてしまったことに気付く。
 それは民主主義とは何か、あなたは真に民主的であるのか、という問題である。
 この芝居は、話し合うことの重要さ、暴力によって他を支配しようとすることの誤りを痛切に感じさせてくれる。
 この芝居(最初はTVドラマ)が、マッカーシー旋風直後に書かれているのは決して偶然ではないのではなかろうか。
 マッカーシー旋風への鋭い批判と、健全な民主主義の持つ自浄作用と考えるのはうがち過ぎだろうか。

映画『十二人の怒れる男』感想&考察 シンプルな脚本と演出が最高の法廷劇を見せてくれる! ネタバレあり - 物語る亀
シドニー・ルメット*6監督が1954年に放送されたアメリカのテレビドラマを1957年にリメイクした映画作品。原作者のレジナルト・ローズが実際に体験した陪審員制度からアイディアを生み出して作られた作品。
■ブログ主(以下主)
「初めて見たのは10代の頃で、しかも学校の授業の時間だった。
 ほら、英語の勉強にもなるし、(中略)しかも陪審員や死刑制度、その他の色々な社会的な要素が交わりながらも時間も決して長くないでしょ?
 先生たちもこの映画であれば教育的意義もあるしってことで見せたんだろうけれど、当時はまだ白黒映画にそこまで馴染みがなくてさ」
「学校で観るものだから面白くないんだろうな、って思っていたのよ。そしたらこの作品にあれよあれよと引き込まれていって……もちろん、中には寝ている生徒もいたし、みんなが大絶賛というわけではないけれど、自分は娯楽作品として面白かった。
 それから何度も見返しているけれど、その度にこのシンプルな構成と面白さに戦慄することになる」
■カエルくん(以下カエル)
「まあ、監督がシドニー・ルメットというだけあってすごくうまいよね。
 この後も数々の傑作、名作を作っているけれど、デビュー作でこれだけの作品を作り上げることが驚愕だよね……
 さすがハリウッド黄金期と呼ばれるだけのことがある」
■主
「1 密室劇という限定された状況
 2 ほぼ会話のみで構成された動きの少ない物語
 3 12人と多い上に名前のない登場人物
 この3つの要素を組み合わせただけでもトンデモナイ!
 まず、密室劇だから場面の転向だったり、派手なアクションは何1つとしてできなわけだ。それでも物語として魅力的に思えるように制作されている。これは後述するけれど、演出能力の高さも見せつける結果になっている。
 そして会話劇……これは脚本と演出の力がモロに試される」
■カエル
「ほぼ登場人物がべらべら喋っているだけでも面白いものにしないといけないものね」
■主
「現代では特にそうだけれど、映画とは『映像の表現』であるわけだから、やはりエンタメとしては派手な動きやアクションが欲しくなるところを、この映画はそれを妨げられてもなお面白くなっている。
 昔の映画って展開が遅かったり、ちょっとかったるくなるシーンもある作品も多いけれど……この映画はそういう思いは抱きにくいんじゃないかな? 無駄なシーンがなく、キュッと締まった物語になっている」
■カエル
「ファン補正や白黒映画好きの意見かもしれないけれど、でも時間も96分と短いしね」
■主
「そして何よりも恐ろしいのは12人もの登場人物を出した上に、名前を出さないという英断である。明らかにこの96分という物語の中で12人の登場人物は多いけれど、それでも本作はそれらの登場人物によって観客が混乱しないように工夫が満ちている。
 その1つが『名前がない』ということなんだよ」
■カエル
「普通の映画はせめて主要登場人物くらいは名前があるものだけれど、この映画ではラスト以外では意味を持たないものになっているもんね」
■主
「ここで余計な情報=名前を入れなかったのがまず1つの英断。
 彼らには番号だけ与えられている……つまり、記号的に語られているんだよね。
 その中でも特に重要なのが主人公格の8番*7、老人の9番とライバル格の3番*8、理論派の4番*9、やる気のない7番*10だ。
 でも、それ以外の登場人物もちゃんと印象に残るように性格付けをされている」
■カエル
「例えば議長で場を仕切る1番*11、しっかりと慎重に意見を言う2番*12、スラム育ちの5番*13、すぐ迷う12番*14とかだね」
■カエル
「そしてみんなが部屋に入って、それぞれが席に着くまでにダラダラと会話をするシーンが始めるわけだけれど……」
■主
「ここでそれぞれの登場人物が会話をするけれど、特に強く印象に残るは後々ライバルとなる3番と、やる気のない7番だ。この7番がとてもいいキャラをしていて、しかも日本語吹き替え版が青野武*15という、大好きな声優の若い頃の演技なんだけれど……それは置いておくとして、この2人が8番と感情的に激しくやりあう。
 ここで彼が戦う敵に対して、より注目が集まるように脚本を書き、演出されている。ここがうまいんだよ」
■カエル
「この映画で1番の見所と言っても過言ではないシーンについて語っていこうか。
 ここもこの映画の中では静と動では、比較的動の演出になっているんじゃないかな?」
■主
「10番陪審員*16は貧困家庭やスラム出身者、有色人種に偏見を抱える人物として描かれている。その人物が自説をペラペラと話し、それに他の陪審員が嫌気がさして背をむけるという名シーンである。
■カエル
「結局、この映画では少年は無罪になったけれど、これが正解だったのか? と訊かれるとそれはわからない*17というのが答えになるのかなぁ」

映画評論 12人の怒れる男
 アメリカのシドニー・ルメット監督、レジナルド・ローズ脚本のアメリカ映画の1957年の名作『十二人の怒れる男』(以下アメリカ版)がまさかロシアでリメイクされるとは思わなかった。だって、アメリカが陪審制の国だということはよく知っているが、そもそもロシアの裁判制度がどうなっているのか私たちは全然知らないのだから。
 そりゃ映画はつくりもの、仮定の物語だから、基本的に何でもあり。したがって、法制度や裁判制度が全然異なっていても、人間ドラマとしての『12人の怒れる男』はどの国でも描くことは可能かもしれない。しかし、人治から法治への移行を目指しているものの、共産党一党独裁の中国で『12人の怒れる男』がつくられるとは到底考えられないだろう。それと同じ意味で、私は「まさかロシアで・・・?」と思ったわけだが、鑑賞後の私の感想は、ニキータ・ミハルコフ監督・脚本のロシア版『12人の怒れる男』(以下ロシア版)をアメリカ版の「リメイク」と表現するのは不適当。つまり、95分のアメリカ版に比べて2時間40分と重厚・長尺になったロシア版は、アメリカ版の陪審ドラマのエッセンスを単にロシア風にリメイクしただけではなく、新たにたくさんの重厚かつヒューマンな問題提起を!
<評議の舞台は体育館!>
 日本では2009年5月から裁判員制度が施行されるが、それは2004年5月の「裁判員法」の制定によって決まったもの。それが決まるや日本では、裁判員用法廷への改修や裁判員用の評議室を作るなど、まず形から入っていったが、(中略)しかし、何でも大切なのは形よりも中身。たとえオンボロ法廷やオンボロ評議室でも充実した法廷の審理や裁判員の評議ができることもあるが、肝心の裁判員が無能で意欲が無ければ、いくら立派な施設を作っても所詮ダメ。
 さてロシア版『12人の怒れる男』の場合、廷吏(アレクサンドル・アダバシャン) に案内されて12人の陪審員が入ったのは、何とだだっ広い学校の体育館。「こんな所で評議するの・・・?」と12人は一様に驚いたが、どうせちょっとした時間だけ。「隣の工事の音がやかましくても、体育館の電気設備が悪くても、大きな影響はないワ」と思っていたが、一人の陪審員が無罪に挙手したため、意外にもこのオンボロ体育館が評議の舞台として大きな役割を果たしていくことに・・・。
<日本版『12人の怒れる男』は?>
 陪審制度復活を求める運動の盛り上がりの中で最初に生まれた陪審モノの日本映画は、1991年に製作された『12人の優しい日本人』。「別れた夫と口論のうえ、走ってくるトラックに夫を突き飛ばして殺害したという殺人罪」成否をめぐっては、28歳の会社員である陪審員2号*18が、「いいんですか、こんなんで。もう一度集めて下さい。僕、話し合いがしたいんです」と言い始めたことによって、正当防衛が成立するか否かが大きな争点になっていく。
 当初私はアメリカ版の単なるパロディと思っていたが、何の何の。これは日本人による、日本の裁判制度での、日本人のための陪審ドラマの秀作だ。
<12人はどんな事件の評議を?>
 ロシア版の個性溢れる12人の怒れる男たちが評議するのは、アメリカ版と同じ第一級殺人事件。その殺人の状況はアメリカ版とよく似ている。しかし全然違うのは、被告人はチェチェン人の少年で、被害者はその少年の養父で元ロシア軍将校という、いかにも現在のロシア的な属性を与えていること。そのため、ロシア版では評議の合間に再三再四フラッシュバック的に生々しいチェチェンでの戦いの様子が登場する。
<有罪説は陪審員3号ともう1人?>
 アメリカ版ではリー・J・コッブが演じていた強硬な有罪派の陪審員3号を、ロシア版では陪審員3号のセルゲイ・ガルマッシュが演じている。タクシー運転手の陪審員3号は、もともと外国人を毛嫌いし、チェチェンの少年にも偏見を抱いていたから、ハナから有罪と信じ込んでいるタイプ。最終的にそんな陪審員3号が遂に無罪に転じたところで、がぜん存在感が強まるのが陪審員長。つまり、「少年は無罪で、評議終了」となりかけた中、彼は「ちょっと待った。陪審員長も一票の評決権を持っている」と述べ、あくまで有罪の立場をとったわけだ。
 そこで注目されるのが、彼が有罪だと主張する根拠だが、それはあなた自身の目で。ここらあたりが、アメリカ版と大きく異なる、ニキータ・ミハルコフ監督のオリジナリティ。そしてまた、1957年のアメリカ版から約50年後の今、ロシアでつくられた映画だということを実感させられる大きなポイント。

『12人の怒れる男』−ロシア的な、あまりにロシア的な | Long after Midnight - とうに夜半を過ぎて
 『12人の怒れる男』を見てきた。
 1957年のシドニー・ルメットの名作のリメイクである。といっても、ハリウッドがアイディア不足になって昔の作品をリメイクしたのとは訳が違う。ロシアの巨匠、ニキータ・ミハルコフ*19が手がけたと聞けばいやでも興味をそそられようというもの。そして期待にたがわぬ傑作が生まれた。
(以下ネタバレあり)
 1957年のアメリカでは父親を殺しても不思議ない野蛮人と断じられたのは黒人の少年だったが、現代ロシアでは両親を亡くしたチェチェン人の少年に置き換えられる。それ以外のプロットはほとんど変わらない。目撃者(階下の足の悪い老人と向かいのアパートに住む女性)、殺害方法(刺殺)、凶器(「非常に珍しい」ナイフ)、動機(少年は父親に虐待されていた)、殺害能力(少年はナイフの使い方に長けていた)。
 ドラマは陪審員室という密室で進行する。しかしミハルコフ版では少年が養父に引き取られるまでの経緯もフラッシュバックのようにインサートされる。独立派のゲリラに加わらず農民を続けたために焼き討ちにあい、殺された両親。市街戦の中で殺された犬。機関銃と迫撃砲の轟音の中おびえる少年に手を差し伸べたロシア軍将校。被告をスラム出身としたルメット版では、少年のバックグラウンドを説明する必要はなかった。しかしチェチェン難民の現実はこうしなければ伝わらなかっただろう。
 ルメット版と大きく違うのは、最後まで有罪を主張した人物だろう。ルメット版では息子と不仲になっていた男が被告に息子を投影し、冷静な判断を下せない。彼が息子との確執を告白し、受け入れる場面が映画のクライマックスである。だがミハルコフ版では、同じ立場の陪審員は11番目に無罪に評決する。最後まで有罪の評決に固執したのは陪審員長をつとめた初老の男だった。議事進行をするだけで意見を発言することはなかった彼は、いまや少年の無罪を確信している11人に向かって、少年が無罪なのは始めからわかっていたが、無罪放免されるより刑務所にいるほうが長生きできるだろうと言う。釈放されても身寄りもないチェチェン人の少年が生活していくのは難しいうえ、彼は真犯人を探そうとするはずだし、真犯人も彼を放ってはおかないだろうから、と。
 冤罪を晴らして気持ちよく帰ろうとしていたほかの陪審員たちは、義務を果たしたのにこのうえ何をしろというのかと憤慨するが、彼はわれわれ12人が検察とかけあって彼を保護してもらうべきだという。少年の今後まで考えていないことを後ろめたく思いつつも、すでにそれぞれの生活に気持ちが戻っている陪審員たちはそれを受け入れない。自分の意見を聞いたあとも11人全員が無罪評決にするなら自分も同意するといった約束どおり、陪審員長は無罪評決に合意し、少年に無罪判決が言い渡される。
 激しく雪が降る夜の街を家路につく「元」陪審員たち。陪審員長をつとめた男だけが少年が釈放されるのを待っている。自分ひとりで彼を保護するために。

 ロシア版はひとひねりしていますね。確かに「無罪判決が出たところ」で被告人の生活は続いていく。
 そこまで裁判官や裁判員陪審員)、検事や弁護士が責任を負う必要は無いとはいえ、注意したい点ではあります。


連合30年、やるべきこと、やらなくていいこと 梅澤昇平(尚美学園大学名誉教授) « 国基研ろんだん 国基研ろんだん « 公益財団法人 国家基本問題研究所
 連合がやるべきこと、それは「今の野党共闘をぶち壊すことだ」「野党共闘の今の方針(脱原発、九条改憲反対など)など認められるか」というのだから呆れて二の句が継げませんね。連合はいつから原発推進改憲を目的とする右翼団体になったのか。むしろそんなことは「連合がやるべきでないこと」です。
 連合がやるべきこと、それは「労働者の生活改善」であり、具体的には「過労死、セクハラやパワハラなど労働現場の問題行為の撲滅」「賃金など雇用条件のアップ」「障害者雇用や女性の社会進出の促進」「福祉予算の充実や労働法制の改善などを政府に求める」などでしょうが、そんな言葉は「お為ごかしとして最後に少しだけ過労死について触れるだけ」です(そもそもこの旧民社党職員・梅澤が役員を務める右翼団体・国基研が労働問題や生活問題をまともに論じたことなど全くないわけですが)。そして「労働者の生活改善」を実現するにおいて「反共主義」が現実的なのか。そんなわけがないでしょうに。

 過日、旧民社系「同盟」最後の書記長として連合結成に一役かった田中良一氏が逝去した。彼は、連合ができてからも「政治に足を突っ込み過ぎず、政党支持は産別自決が原点だ」と語っていた。

 「はあ?」ですね。同盟は露骨に旧民社支持なのにどこが「政治に足を突っ込み過ぎず」なのか。
 そもそも「政治に足を突っ込み過ぎず」なら「政党支持は産別自決が原点」ではなく「政党支持は個々の組合員の判断に委ねる」が適切でしょうよ。
 結局「ナショナルセンター全体での政党支持」では「旧民社系が負けそうだから」、しかし「産業別組合ごとの政党支持」、つまり「UAゼンセンでの政党支持」は「ゼンセン傘下の労組」に「ゼンセン執行部が決めたことに従え、嫌なら出て行け」と押しつけたいから、こんなこと言ってるだけでしょう。
 「連合執行部がゼンセンに政党支持を押しつけることは認めないが、ゼンセン執行部がゼンセン傘下労組に押しつけることは良い」なんてそんな無茶苦茶な理屈はない。

*1:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)を経て首相。現在、第二~四次安倍内閣副総理・財務相

*2:中日新聞東京新聞のこと

*3:そうなる理由には「ばれなきゃ何人殺しても問題ないという甘い考え」とか「死刑になってもかまわないという自暴自棄」などがあります。

*4:普通に考えて「刑務所に永遠に入る上で一番簡単」なのは「窃盗(万引き、置き引き、無銭飲食など)や詐欺」といった微罪でしょう。もちろん「長くても数年の懲役」ですがそれを何回も繰り返せばいい話ですし、殺人などよりずっと精神的ハードルも低い。

*5:たとえば極端な話、この産経理論だと「裁判員裁判の無罪判決」を高裁が逆転有罪にした場合(つまり量刑ではなく事実認定が180度変わった場合)は産経は何というのか?。「裁判員裁判軽視だ」と高裁を批判するのか?。「そもそも検察は控訴すべきでない」と検察を批判するのか?(もちろんしないのでしょうが)。一方で「有罪(裁判員裁判)→無罪(高裁)」の場合は産経は「裁判員裁判軽視だ」と高裁に因縁付けそうな気がします。

*6:1924~2011年。ルメットは、受賞には至らなかったものの、1958年の『十二人の怒れる男』、1976年の『狼たちの午後』、1977年の『ネットワーク』、1983年の『評決』と4度、アカデミー監督賞にノミネートされている(なお、ルメットが受賞を逃した、それぞれの年の監督賞受賞者は、1958年はデヴィッド・リーン(『戦場にかける橋』)、1976年はミロシュ・フォアマン(『カッコーの巣の上で』)、1977年はジョン・G・アヴィルドセン( 『ロッキー』)、1983年はリチャード・アッテンボロー(『ガンジー』))。2005年にはその生涯における業績を評価され、アカデミー名誉賞を贈られた(ウィキペディアシドニー・ルメット』参照)。

*7:ヘンリー・フォンダ

*8:リー・J・コッブ

*9:E・G・マーシャル

*10:ジャック・ウォーデン

*11:マーティン・バルサム(1965年の『裏街・太陽の天使』でアカデミー助演男優賞を受賞)

*12:ジョン・フィードラー

*13:ジャック・クラグマン

*14:ロバート・ウェッバー

*15:ウィキペディア十二人の怒れる男」に寄れば「日本テレビ放送版」。NET(現在のテレビ朝日)で放送されたときは大塚周夫が吹き替えている。

*16:エド・ベグリー(1962年の『渇いた太陽』でアカデミー助演男優賞を受賞)

*17:まあ無罪裁判で「真犯人が明らかになること」はまずないですし「アリバイの判明で犯人ではあり得ないことが確定」なんてケースばかりではないですからね。というか「真実はわからない」とした方が面白さ的に芸術的にも「より評価に値する」わけですしね。

*18:相島一之

*19:1945年生まれ。1977年の『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』はサン・セバスティアン国際映画祭でグランプリを受賞。1991年、『ウルガ』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。同作は1993年のヨーロッパ映画賞で作品賞も受賞した。1994年には『太陽に灼かれて』がカンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞。翌1995年のアカデミー賞では外国語映画賞も受賞した(ウィキペディアニキータ・ミハルコフ』参照)。