新刊紹介:「歴史評論」1月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『戦後中国史学の達成と課題』
◆戦後中国史学の達成と課題・総論(岸本美緒*1
(内容紹介)
 タイトル通り、飯尾論文など、各論について論じた論文をまとめた形で「総論」が述べられていますが、詳細については小生の無能のため、紹介は省略します。
 なお、今月号の「戦後中国史学」の対象範囲は「前近代中国(清朝末期まで)」であり「辛亥革命以降(中華民国建国以降)」については議論の対象にはなっていません。


◆中国古代国家史研究の論点と課題(飯尾秀幸*2
(内容紹介)
 西嶋定生*3の「二十等爵制論」、堀敏一*4の「国家による共同体関係収奪論」、渡辺信一郎*5の天下型国家論、太田幸男*6の共同体論など先学の研究を踏まえた上で筆者の見解が述べられているが詳細については小生の無能のため、紹介は省略します。


◆「共同体」論争の意義と課題(小嶋茂稔*7
(内容紹介)
 谷川道雄川勝義雄*8の共同体論とそれに対する重田徳*9らの批判を論じた上で「いわゆる谷川(川勝)・重田論争」への筆者の見解が述べられているが詳細については小生の無能のため、紹介は省略します。

【参考:谷川道雄について】

谷川道雄(1925~2013年:ウィキペディア参照)
 京都大学名誉教授。京都大退官後、一時、龍谷大学教授や河合文化教育研究所主任研究員も務めた。内藤湖南*10宮崎市定*11、宇都宮清吉*12の流れを汲む京都学派の一人であり、川勝義雄と共に魏晋南北朝時代の豪族・貴族を理解する上で豪族共同体論を展開。魏晋南北朝時代の豪族・貴族を封建地主勢力であるとし、この時代を中世であると主張。宋代以後を中世とする研究者との時代区分論争が展開された。
 著書『隋唐帝国形成史論』(1971年、筑摩書房)、『中国中世社会と共同体』(1976年、国書刊行会)、『世界帝国の形成:後漢・隋・唐』(1977年、講談社現代新書→後に改題し、『隋唐世界帝国の形成』(2008年、講談社学術文庫))『中国中世の探求』(1987年、日本エディタースクール出版部)、 『中国中世社会と共同体』(1989年、国書刊行会)、『戦後日本の中国史論争』(編著、1993年、河合文化教育研究所)、『中国史とは私たちにとって何か』(2003年、河合文化教育研究所)、『戦後日本から現代中国へ』(2006年、河合ブックレット)、『谷川道雄国史論集(上)(下)』(2017年、汲古書院)など。
 民俗学者谷川健一、詩人谷川雁*13は兄。

谷川健一(1921~2013年:ウィキペディア参照)
平凡社に勤務し、編集者として、『風土記日本』(1957~1960年)、『日本残酷物語』(1959 ~1961年)などを企画編集し、1963年創刊の『太陽』初代編集長を務めた。その後、平凡社を退社。1966年、初の著作である小説『最後の攘夷党:明治4年反政府事件*14記』(三一新書)で第55回直木賞候補になる。
・1978年、「地名を守る会」結成。1981年、神奈川県川崎市に<日本地名研究所>を設立、所長に就任し、町村合併などに伴う安易な地名変更に警鐘を鳴らすなどした。
・1973年、共編『日本庶民生活史料集成(全20巻)』(三一書房)で毎日出版文化賞を受賞。 1986年、共編『日本民俗文化大系(全14巻)』(小学館)で毎日出版文化賞特別賞を受賞。1991年、『南島文学発生論』(思潮社)で芸術選奨文部大臣賞受賞。2007年秋に文化功労者
・1987年から1996年まで、近畿大学教授・同大学民俗学研究所長を務める。
・1980~1988年に三一書房で『著作集』(全10巻)が、2007年から2013年(没する直前に完結)に『全集』(冨山房インターナショナル、全24巻)が刊行された。
・著書『日本の神々』、『日本の地名』、『柳田国男民俗学』(岩波新書)、『民俗の思想:常民の世界観と死生観』(岩波同時代ライブラリー)、『南島論序説』、『常世論(とこよろん):日本人の魂のゆくえ』(講談社学術文庫)、『うたと日本人』(講談社現代新書)、『甦る海上の道・日本と琉球』(文春新書)など

谷川道雄氏が京大退官後、所属した河合文化教育研究所河合塾系列の組織ですね。
・小嶋氏は「谷川雁谷川道雄の兄)」が独自の共同体論を唱えていたことから「従来議論されてないと思うし、自分も十分な議論の用意は無いが」、「谷川雁の共同体論が、谷川道雄の共同体論に影響を与えた可能性(あるいは逆に谷川道雄の共同体論が、谷川雁の共同体論に影響を与えた可能性)」を論じる必要があるのではないかとしています。

【日文研・アイハウス連携フォーラム】 谷川道雄の中国史研究から日中の未来を考える――文化交流と学術思想 | IHJ Programs
 京都学派の東洋史学者として著名な谷川道雄(1925-2013)は、内藤湖南(1866-1934)からの学統を受け継いでいます。
(中略)
 内藤は、紀元3-9世紀の中国社会を中世貴族制の時代と位置付けました。世界の中国史研究に計り知れない影響を与えた内藤の「唐宋変革論」の礎となったものです。
 この学説を深化させ、発展させた谷川は、個人の人格や道徳によって地域一円をまとめ、やがて隋唐帝国誕生の原動力をなした勢力に注目し、「豪族共同体論」を打ち出しました。これによって、秦漢帝国以降2000年に亘り、皇帝支配の一色に塗られていた従来の中国史の見方に一石を投じたのです。唯物史観を研究の指針とする中国の学界では、最初、この「豪族共同体論」は批判されましたが、徐々に受け入れられるようになりました。

◆吾が内なる中国史(李済滄)
 一九八九年の天安門事件を経験して、大学を出たばかりの私の胸中に常に去来していたのは、中国の文明にどのような未来があるのかということであった。あの事件を境に、私は素晴らしい文明を生んだ中国がなぜ、近代になって欧米、日本に大きな差をつけられたのかということを真剣に考え始めた。はっきりとしたものではないが、私はその原因が中国の「伝統文化」にあると感じた。そして、中国文明の将来を探求するために、何よりもまずこの国の過去をはっきりと認識しなければならないと、私は少しずつそのように考えるに至った。
 中国史研究といえば、日本が世界で群を抜いていることは誰しも疑義を差し挟まない事柄である。
(中略)
 一九九五年に龍谷大学大学院に入り、三~六世紀の魏晋南北朝史を専攻することに決めた。この時代が中国歴史上にいかなる位置を占め、どのような特質をもち、そして今日の中国と世界の発展にどう寄与しているのか、といった問題意識が私の研究の基本的な動機である。そこで、私はこの時代の政治支配層とされる貴族に焦点を当て、彼らが行った政治の実態とその政治の背後にあらわれた貴族の価値意識と倫理精神とのかかわりを考察してみた。
 漢帝国の瓦解は、地方社会の秩序崩壊と儒家的礼教思想の変容、この二つの劇的な変化をもたらした。このような深刻な事態を受けながら成立した魏晋南北朝諸国家は地方社会の秩序の回復と思想の再建に取りかかる。その過程で主役を演じたのが貴族であった。周知のように、地方社会における貴族の有する家柄と名望を鋭く洞察し、貴族が皇帝権力から自立性を持つ存在として、魏晋南北朝ないしその後の隋唐時代を「貴族政治」の時代と規定していたのが内藤湖南氏の中世貴族論である。戦後、この理論を継承してさらに発展させたのが川勝義雄谷川道雄両氏の豪族共同体論である。その見解は概ね次のようになっている。

 後漢末、一部の豪族の露骨な私的収奪によって、地方社会は崩壊に直面した。そこで、やはり豪族層の出身で清流派と呼ばれる貴族が、地方社会における自らの経済的基盤を否定して、自営農民との間に形成した共同体関係を維持することにつとめたのである。ここで留意したいのは、天災、戦乱、社会矛盾など混乱を極めた時代で新たに結成したこの共同体を維持、再生させてゆくのが他でもなく、貴族による道徳実践、すなわち「清」とよばれる貴族の人格と倫理精神であったことが強調されていることである。それは儒家のモラルと道家の無私の思想の結合した倫理観念である。この「清」の倫理精神は地方社会において宗族や郷党に物資を施して救済した賑恤行為、農事の指導、紛争の調停、利殖の放棄などの形であらわれる。その一方で、地方社会の民衆はこのような人格や精神に対する敬慕の念を抱くようになっていく。こうした貴族と民衆の関係は土地などの生産手段の有無に基づく収奪被収奪の関係ではなく、一種の融和と連帯によって結ばれている。また、民衆の支持を受けた貴族は地方社会の場で形成された輿論、すなわち郷論の評価を受け、やがて中央政府に仕官するようになっていく。九品官人法*15という貴族的官僚制度はこのような構造を示すものに他ならない。

 貴族を地方社会に根ざした存在として、その歴史的性格を明らかにしたこの理論のもつ意義は以下の二点である。第一に、社会の中から貴族の自立性を模索し、貴族の自立した根拠が皇帝を中核とする国家権力ではなく、共同体にあると主張したことである。第二に、共同体を成立させている物質的契機、たとえば共有地など再生産構造に関わる契機などを重視する従来の傾向と違って、貴族と民衆を結合させる紐帯として「精神性」を視野に入れたことである。
 両氏の説に示唆を受け、豪族共同体論を新たに発展させるために、私が注目したのが豪族共同体を基盤とする貴族と国家の関係である。この問題を解明する手がかりとして、私は豪族共同体と王朝権力をつなぐ接点が一体どこにあるのかということに着手し、それがおそらく国家の官僚としての貴族が行った政治にあるのではないかと考えた。つまり、根源を地方の共同体社会におき、社会の輿論に支持されていた貴族が九品官人法によって官僚となり、政治運営にあたる際、地方社会との間に結ばれている文化的、精神的統合が政治にも反映されるのではないかと思うのである。具体的に言えば、物に対する少欲・寡欲の倫理精神、民衆生活の安定に気を配り、地方社会の共同体関係や秩序を維持しようとした価値意識をもちながら、民衆の強い支持を受ける貴族が、中央や地方の官界で政治を行った場合、その政治は彼らの持つ倫理精神と何らかの形で関連したはずである。
 このような政治と精神の関係から魏晋南北朝史を検証していくと、つぎのような事実に気が付く。たとえば、漢末以来の貴族に見られる「産業を営まない」、「清倹」、「清素」などの「清」なる生活は、実は魏晋の国家を特徴付ける制度である九品官人法や戸調式に反映される魏晋貴族の自己規制的精神と密接に関わるものである。つまり、貴族による欲望抑止の精神が公私両面にわたって具現されているということである。また、貴族出身の李安世によって創設された北魏の均田制*16も、国家と農民の関係を律する法制であるものの、単なる収取関係ではなく、全ての「私」を共存させる体制であり、貴族の倫理精神を色濃く帯びるものである。さらに、西晋末から東晋末にいたるまでの貴族政治の展開過程も、やはり貴族の「清」という人格的倫理的な精神が、生活の場である家庭、地域社会だけでなく、政治の場でも「清静」の政治として顕現されたものである。それは簡潔な政治、具体的には税役の軽減、煩雑な法律、刑罰の緩和など民衆に負担をかけない政治をいう。言ってみれば、豪族共同体の形成に重大な機能を発揮した「清」という貴族の倫理精神は、魏晋南北朝諸国家の政治や制度にはっきりと反映されているのである。
 このように、魏晋南北朝という時代に生きた人々は国家と社会の両面にわたって、共同体という原理に基づいて生を営んでいた。そして、このような原理はやがて後の隋唐帝国を成立させる原動力となっていく。なぜなら、隋唐時代を特徴づける租庸調制、府兵制、均田制、科挙制などの諸制度は実は「共生」という共同体原理を忠実にあらわしたものだからである。隋唐帝国が中国史ないし世界の歴史上もっとも燦爛たる時代であったということを考えれば、その底流に貫かれていたこの原理のもつ意義は、決して等閑視できないことであろう。つまり、古代中国人は実は共同体原理によって生存しながら、自分の歴史を推進してきたのではないかと考えられる。言い換えれば、中国文明の特質は実はこの共同体原理にあるということになる。
(後略)

魏晋南北朝隋唐時代の歴史的特質 / 河合文化教育研究所
日時:2001 年12 月1 日・2 日
会場:龍谷大学 大宮学舎 清和館
 中国史を世界史的な発展の歴史としてとらえようとする場合、魏晋南北朝・隋唐時代(紀元3~9世紀)の理解の仕方が、重要なカギとなる。終戦以来、この問題は、学界の議論の焦点となって来たが、いまだ一致した結論には至っていない。この学術討論会は、この問題をもう一度掘り起こして、中国史研究の新たな展望を見出すべく、河合文化教育研究所を中心に企画したものである。
 武漢大学歴史学系には早くから中国3-9世紀研究所が設立され魏晋南北朝・隋唐史研究に多大な業績を生み出し、日本の学界とも親密な関係にあるが、本討論会は、この交流に深く関わった日中の研究者を中心に行われた。この二日間は百人を超える専門家が全国から参集して、活発な討論が展開された。ここで発表された論文(右記)は武漢大学中国伝統文化研究中心が発行する『人文論叢』に掲載されている。

谷川 道雄 / 河合文化教育研究所
 中国史史的唯物論の定式によって理解しようとする、戦後の中国史学の流れに反省と批判を加え、共同体論的観点を導入して広汎な論争を引き起こすとともに、中国史学を活性化し新しい地平を拓く。
 1994年より河合文化教育研究所主任研究員に就任。
 1996年「内藤湖南研究会」を立ち上げ、その研究成果は『内藤湖南の世界-アジア再生の思想*17』としてまとめられた。
 研究会の主宰や顧問もつとめ、若い人たちへの助言や激励を通じて次世代へ託す思いがたいへん強かった。
 亡くなられる前の数年間は、特に現代中国の農民の維権(権利擁護)運動に注目され、不法な政府の土地収用とそれに対する農民の抵抗を扱ったルポルタージュ作品『失地農民調査』(王国林著、2009年)を共同翻訳し、2010年文教研(河合文化教育研究所)より『土地を奪われゆく農民たち:中国農村における官民の闘い』という書名で出版。
 2011年「中国現代農民維権活動覚書」(『(ボーガス注:河合文化教育研究所)研究論集』第8集)を発表、2012年「共同研究:現代中国農民の維権(権利擁護)運動.中国学界の討論をめぐって」(中田和宏・田村俊郎両氏との共著『研究論集』第9集)を発表し、シンポジウム「現代中国農民運動の意義─前近代史からの考察─」を開催した。その報告は『研究論集』第10集に編まれている。
◆(2012年 夏)中国農民に夢を託す(谷川道雄
  長年やってきた魏晋南北朝・隋唐史の研究をひと先ず棚上げにして、いま現代中国の勉強に熱中している。現代中国の動きは、歴史を目のあたりに見るようにダイナミックで緊迫感がある。
 30年来の市場経済導入政策で、中国は急速な経済発展を遂げ、「世界の工場」と言われるまでに成長した。いまや経済大国、さらには軍事大国への道をまっしぐらに走っている。
 その反面、その成長がもたらした負の現象もただならぬものがある。官僚の腐敗・汚職を初めとして、国民間の所得格差の拡大、環境汚染、食品公害、思想・行動に対するきびしい統制等々数え上げればきりがない。民衆の政府・党に対する不満・憎悪は年を追って社会内部に沈殿蓄積し、頻々として反政府騒擾事件を生み出す。
(中略) 
 人口の半ばを越える農民も、貧困と地方官僚の不法な政策に苦しんでいる。私が注目するのは、その農民のなかに、法に保証された権利の侵害に抗議して、地方政府と対決して闘う集団が各地に生れていることである。彼らは維権農民(権利を守る農民)と言われているが、教育水準もさして高くない彼らが自ら法律を学習して、官と渡り合う姿は、従来の歴史には見られなかった新しい現象である。これまでの農民は官の不法を忍従するか、それが限度に達して暴動に走るか、二つの道しかなかった。しかし今や維権運動という、第三の道が開けてきたのである。それは中国農民がようやく近代的公民として成長してきたことを示すものではなかろうか。
(中略)
 もし維権運動が中核となって官僚の干渉を排除し、真に農民の手による郷村共同体*18が建設できる。
(中略) 
 これは私一個人の夢想であって、実情における農民の前途はたとえようもなくきびしい。しかし昨年広東省の鳥坎(ウーカン)村で起った事件は、中国農民のたくましい力を示してくれた。それは村の幹部が村民の共有地を勝手に企業に売り飛ばしたことに端を発し、村民たちが村にバリケードを作って政府と対峙して戦った事件である。この過程で彼らは自主的に自治組織を作り、官の干渉のない村を実現した。広東省もこれを承認せざるを得なくなったのだが、完全な村民自治の村の実現は画期的だとして、全国に多大な影響を与えたのである。

現代中国農民運動の意義──前近代史からの考察── / 河合文化教育研究所
日時:2012年7月22日 13:00~18:00
会場:龍谷大学大宮キャンパス清和館3階ホール
 現代中国はどこへ向かって行くのか。その運命を左右するのは人口の半ばを占める農民だと言っても過言ではない。改革開放政策の開始以来、政府主導の市場経済の犠牲となって来た彼らは、その利益、権利を守るためにさまざまの抵抗運動を展開していて、今や重大な政治問題にさえなっている。本研究所は数年来この問題に関心を向け、2010年王国林著『失地農民調査』(訳書名『土地を奪われゆく農民たち』)を邦訳刊行し、続いて中国学界における農民運動の研究情況を紹介してきた(『研究論集』第8集、第9集)。この実績に立って、現下の農民運動の意義を二千数百年の歴史に遡って解明する研究プロジェクトを構想し、それをシンポジウムとして具体化した。

 谷川氏が最晩年に注目していたらしい「維権運動」についてはぐぐって見つけた以下の記事を紹介しておきます。

「中国の行方(2) 社会的弱者との対話をどう図るのか」 | 視点・論点 | 解説アーカイブス | NHK 解説委員室東京大学准教授 阿古智子*19
 胡錦濤*20時代、「維権運動」(権利擁護運動)が注目を集めたのに対し、習近平*21時代にはこれらは大幅に減少し、「公共知識人」(オピニオンリーダー的な知識人)、「維権律師」(人権派弁護士)、「維権人士」(人権活動家)などの存在も薄れています。それは、習近平政権がソーシャルメディアなどを通じて、維権運動や公共事件に触発された社会の連帯や政権批判の高まりを封じ込めようとしているからです。
 維権運動につながっていくような事件や、論争を巻き起こすような出来事は「公共事件」とも呼ばれますが、党・政府はしばしば、「突発公共事件」という言葉も使っています。2003年のSARS新型肺炎への対応をきっかけに、『突発公共衛生事件応急条例』が公布されました。中国が国として突発公共事件に全面的に対処する姿勢を示し始めたのは、この頃からです。国務院は突発公共事件を、 (1)自然災害、(2)事故や災難、(3)公共衛生事件、(4)社会安全事件に区分し、社会に与える深刻度によって、一級(特に重大)、二級(重大)、三級(比較的大規模)、四級(一般)に指定しています。
 さらに習近平政権は、突発公共事件がソーシャルメディアを通じて引き起こされる過程に大きな関心を払い、インターネット世論への対応を強化しています。


◆宋代郷村社会論の再生のために(伊藤正彦*22
(内容紹介)
 森正夫、岸本美緒の「地域社会論」に発展的解消したとして、(伊藤氏の理解では)研究が下火になっている「郷村社会論」について再評価の必要性が述べられているが詳細については小生の無能のため、紹介は省略します。
 なお、「郷村社会論」の先行研究として、柳田節子*23『宋元郷村制の研究』(1986年、創文社)などが紹介されている。


◆地域社会をめぐる「視点」から「論」への展開(吉尾寛*24
(内容紹介)
 共同体論(谷川道雄川勝義雄)、郷村社会論などそれ以前の分析理論を踏まえて、それらへの批判として提唱された森正夫*25や岸本美緒の「地域社会論」について筆者の見解が述べられているが詳細については小生の無能のため、紹介は省略します。


◆私の原点「東京教育大学という大学」(君島和彦
(内容紹介)
 東京教育大学学部生時代の諸経験が、原点であるとして
1)東京教育大学大学院生時代は「家永三郎*26」「大江志乃夫*27」「津田秀夫*28」の授業に出席した
2)家永氏の授業では「木戸幸一*29日記」について学んだ
など、いろいろ述べられています。

参考

君島和彦ウィキペディア参照)
 1945年生まれ。 東京教育大学文学部史学科(日本史学専攻)卒業後、東京学芸大学教育学部教授。
 著書『教科書の思想:日本と韓国の近現代史』 (1996年、すずさわ書店)、『日韓歴史教科書の軌跡:歴史の共通認識を求めて』(2009年、すずさわ書店)

東京教育大学ウィキペディア東京教育大学」「筑波移転反対闘争」「筑波大学」参照)
・1948年
 東京高等師範学校、東京文理科大学、東京農業教育専門学校、東京体育専門学校を統合して新制東京教育大学を開学。文学部、理学部、教育学部農学部、体育学部の5学部を設置。
・1963年
 8月27日、 筑波研究学園都市建設計画が閣議了承。
 9月28日、評議会で、「適当な敷地をみつけて5学部の統合を行なうこと」を決定した。東京教育大学は、キャンパスが、文京区大塚に文学部、理学部、教育学部が、目黒区駒場農学部が、渋谷区幡ヶ谷には体育学部があり、キャンパスが分散しており、また、そのキャンパスが狭かったからである。
・1967年
 6月10日、評議会は、筑波学園都市計画に乗り、筑波への大学移転希望を文部省に表明することを決定したが、文学部評議員はこれに反対して退席した。大学としての意思決定をめぐっての、学長=移転推進派と、文学部教授会=移転慎重派の、決定的な亀裂になった。従来は、評議会での決定は全会一致で行われていたが、この決定は文学部教授会選出評議員の反対を押し切っての異例の多数決決定になった。
 学生は、6月14日に約400人が「6.10評議会決定白紙撤回」を要求して本館前集会を開き、15日まで授業放棄を続けた。さらに、6月19日には文学部学生大会が「6.10評議会決定白紙撤回」を要求して20日から3日間のストライキを決定し、ピケットストライキに突入し、以後4波まで26日間のストライキを続行した。
 他の学部でも、7月4日に理学部学生大会が、7月5日に教育学部学生大会が、7月11日に農学部学生大会が「6.10評議会決定白紙撤回」を要求してストライキに突入と、体育学部を除く全学に抗議ストライキが波及した。これらのストライキの背景には、「移転反対」よりは、移転推進派が従来の全会一致原則を破っての強行採決をしたことへの抗議があったと考えられる。こうして移転賛成派と反対派の対立が長く続くことになる。
1969年
  筑波移転反対闘争によるストライキの長期化を受け、文学部、理学部、教育学部農学部の入学試験を中止。
1973年
  文・理・体育の3学部で最後の学部学生入学(1973年10月、筑波大開学、1974年4月、筑波大第1期生入学)。移行期間には筑波大学東京教育大学は並存し、東京教育大学に入学した学部生は筑波大学に転校することなく東京教育大学の学生として卒業。
1978年
 3月31日、閉学。4月1日、校地・附属施設が完全に筑波大学に移管される(ただし渋谷区に譲渡され、渋谷区スポーツセンターなどが設置された幡ヶ谷キャンパスのように一部移管しなかったものがある)。「東京教育大学附属」は「筑波大学附属」に改称。

*1:お茶の水大学名誉教授。著書『清代中国の物価と経済変動』(1997年、研文出版)、『東アジアの「近世」』(1998年、山川出版社世界史リブレット)、『明清交替と江南社会:17世紀中国の秩序問題』(1999年、東京大学出版会)、『中国社会の歴史的展開(放送大学テキスト)』(2007年、放送大学教育振興会)、『風俗と時代観:明清史論集〈1〉』(2012年、研文出版)、『地域社会論再考:明清史論集〈2〉』(2012年、研文出版)、『中国の歴史』(2015年、ちくま学芸文庫)など

*2:専修大学教授。著書『中国史のなかの家族』(2008年、山川出版社世界史リブレット)

*3:東京大学名誉教授。著書『中国古代帝国の形成と構造:二十等爵制の研究』(1961年、東京大学出版会)、『中国古代国家と東アジア世界』(1983年、東京大学出版会)、『中国史を学ぶということ』(1995年、吉川弘文館)、『秦漢帝国』(1997年、講談社学術文庫)、『古代東アジア世界と日本』(2000年、岩波現代文庫)など

*4:明治大学名誉教授。著書『均田制の研究:中国古代国家の土地政策と土地所有制』(1975年、岩波書店)、『中国と古代東アジア世界』(1993年、岩波書店)、『中国古代史の視点:私の中国史学 1』、『律令制と東アジア世界:私の中国史学 2』(以上、1994年、汲古書院)、『中国古代の家と集落』(1996年、汲古書院)、『中国古代の身分制』(1997年、汲古書院)、『中国通史』(2000年、講談社学術文庫)、『曹操三国志の真の主人公』(2001年、刀水書房)、『唐末五代変革期の政治と経済』(2002年、汲古書院)、『漢の劉邦:ものがたり漢帝国成立史』(2004年、研文出版)、『東アジア世界の形成:中国と周辺国家』(2006年、汲古書院)、 『東アジア世界の歴史』(2008年、講談社学術文庫)など

*5:京都府立大学学長。著書『中国古代社会論』(1986年、青木書店)、『中国古代国家の思想構造』(1994年、校倉書房)、『天空の玉座:中国古代帝国の朝政と儀礼』(1996年、柏書房)、『中国古代の王権と天下秩序』(2003年、校倉書房)、『中国古代の財政と国家』(2010年、汲古書院)、『中国古代の楽制と国家:日本雅楽の源流』(2013年、文理閣)、『中華の成立:唐代まで』(2019年、岩波新書)など

*6:東京学芸大学名誉教授。著書『中国古代史と歴史認識』(2006年、名著刊行会)、『中国古代国家形成史論』(2007年、汲古書院

*7:東京学芸大学教授。著書『漢代国家統治の構造と展開:後漢国家論研究序説』(2009年、汲古書院

*8:京都大学教授。著書『六朝貴族制社会の研究』 (1982年、岩波書店)、『中国人の歴史意識』(1993年、平凡社ライブラリー)、『魏晋南北朝』(2003年、講談社学術文庫) など

*9:著書『清代社会経済史研究』(1975年、岩波書店)など

*10:1866~1934年。京都大学教授。著書『中国近世史』(岩波文庫)、『先哲の学問』(ちくま学芸文庫)、『支那論』(文春学藝ライブラリー)、『清朝史通論』(平凡社東洋文庫)など

*11:京都大学名誉教授。著書『論語の新しい読み方』(岩波現代文庫)、『史記を語る』、『中国文明論集』(以上、岩波文庫)、『九品官人法の研究』、『水滸伝:虚構のなかの史実』、『大唐帝国:中国の中世』、『中国史の名君と宰相』、『中国政治論集:王安石から毛沢東まで』、『雍正帝』(以上、中公文庫)、『科挙』、『隋の煬帝』(以上、中公文庫BIBLIO)など

*12:京都大学卒業。名古屋大学名誉教授。著書『漢代社会経済史研究』(1955年、弘文堂)、『中国古代中世史研究』(1977年、創文社

*13:本名・谷川巌(たにがわ・いわお)、1923~1995年。著書『原点が存在する:谷川雁詩文集』(講談社文芸文庫)など

*14:明治4年反政府事件」とは、明治4年1871年)、攘夷派の公卿、愛宕通旭と外山光輔が「攘夷方針を捨て開国方針を打ち出した」明治政府に不満を抱き、元長州藩士・大楽源太郎元肥藩士河上彦斎らとともに政府転覆を謀ったクーデター未遂事件。首謀者の二人(愛宕通旭、外山光輔)は明治4年12月3日(1872年1月12日)に切腹させられた。「二卿事件」「外山・愛宕事件」とも呼ばれる(ウィキペディア「二卿事件」参照)。

*15:中国魏晋南北朝時代に行われた官吏登用法。三国時代の魏の文帝が220年に始め、隋の文帝が583年に廃止し、代わって科挙が採用された。

*16:南北朝時代北魏から唐代まで行われた土地制度

*17:2001年、河合文化教育研究所

*18:谷川氏が「共同体」という概念にかなりのこだわりがあることがうかがえます(もちろん「谷川氏の魏晋南北朝研究における共同体」と「谷川氏が注目する現代中国での共同体」では性格が違いますが)。

*19:著書『貧者を喰らう国:中国格差社会からの警告(増補新版)』(2014年、新潮選書)など

*20:共産主義青年団中央書記処第一書記、貴州省党委員会書記、チベット自治区党委員会書記などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*21:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*22:熊本大学教授。著書『宋元郷村社会史論:明初里甲制体制の形成過程』(2010年、汲古書院

*23:学習院大学名誉教授。著書『宋元社会経済史研究』(1995年、創文社)、『宋代庶民の女たち』(2003年、汲古書院)など

*24:高知大学教授。著書『明末の流賊反乱と地域社会』(2001年、汲古書院)など

*25:名古屋大学名誉教授。著書『明代江南土地制度の研究』 (1988年、同朋舎出版)、『森正夫・明清史論集』全3巻(2006年、汲古書院)など

*26:1913~2002年。東京教育大学名誉教授。また、東京教育大学退官後、中央大学教授を務めた。著書『革命思想の先駆者:植木枝盛の人と思想』(1955年、岩波新書)、『中世仏教思想史研究(改訂増補版)』 (1955年、法蔵館)、『植木枝盛研究』(1960年、岩波書店)、『司法権独立の歴史的考察』(1962年、日本評論社)、『美濃部達吉の思想史的研究』(1964年、岩波書店)、『上代仏教思想史研究(新訂版)』(1966年、法蔵館)、『日本近代憲法思想史研究』(1967年、岩波書店)、『日本思想史に於ける否定の論理の発達』(1969年、新泉社)、『津田左右吉の思想史的研究』(1972年、岩波書店)、『田辺元の思想史的研究』(1974年、法政大学出版局)、『日本人の洋服観の変遷』(1976年、ドメス出版)、『猿楽能の思想史的考察』(1980年、法政大学出版局)、『正木ひろし』(1981年、三省堂選書)、『教科書裁判』(1981年、日本評論社)、『明治前期の憲法構想(増訂第2版)』(1987年、福村出版)、『「密室」検定の記録』(1993年、名著刊行会)、『古代史研究から教科書裁判まで』(1995年、名著刊行会)、『戦争責任』、『太平洋戦争』(以上、2002年、岩波現代文庫)、『一歴史学者の歩み』(2003年、岩波現代文庫)、『日本道徳思想史』(2007年、岩波全書セレクション)など

*27:1928~2009年。茨城大学名誉教授。東京教育大学教授だったが、東京教育大学閉学後は筑波大学には移らず、茨城大学教授に就任。著書『明治国家の成立:天皇制成立史研究』(1959年、ミネルヴァ書房)、『日本の産業革命』(1968年、岩波書店)、『木戸孝允』(1968年、中公新書)、『日露戦争軍事史的研究』(1976年、岩波書店)、『戒厳令』(1978年、岩波新書)、『徴兵制』(1981年、岩波新書)、『靖国神社』(1984年、岩波新書)、『日本の参謀本部』(1985年、中公新書)、『兵士たちの日露戦争』(1988年、朝日選書)、『張作霖爆殺』(1989年、中公新書)、『靖国違憲訴訟』(1991年、岩波ブックレット)、『御前会議:昭和天皇十五回の聖断』(1991年、中公新書)、『満州歴史紀行』(1995年、立風書房)、『日本植民地探訪』(1998年、新潮選書)、『徳川慶喜』、『東アジア史としての日清戦争』(以上、1998年、立風書房)、『バルチック艦隊日本海海戦までの航跡 (1999年、中公新書)、『世界史としての日露戦争』(2001年、立風書房)、『明治馬券始末』(2005年、紀伊國屋書店)など

*28:1918~1992年。東京教育大学名誉教授。また、東京教育大学退官後、関西大学教授を務めた。著書『封建経済政策の展開と市場構造』(1961年、御茶の水書房)、『封建社会解体過程研究序説』(1970年、塙書房)、『近世民衆教育運動の展開:含翠堂にみる郷学思想の本質』(1978年、御茶の水書房)、『幕末社会の研究』(1978年、柏書房)、『近世民衆運動の研究』(1979年、三省堂)など

*29:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放。