今日の朝鮮・韓国ニュース(2019年12月30日分)

単なる反韓・嫌韓本ではなく、現在の韓国を憂えて記した“憂国の書”――石破茂「反日種族主義」を語る | 文春オンライン
 正気で言ってるのかと唖然ですね。「自民党内の有力な反安倍」は現在、「唯一総裁選に立候補した」石破*1しかおらず、その石破が明らかな「反韓嫌韓本」をこのように擁護するのでは、「今の自民党では日韓関係の改善の余地なし」と見なさざるを得ませんね。まあ、「日韓関係では安倍批判しても自民党員や国民に受けない」という判断によるポピュリズム発言かもしれませんが。
 したがって仮に安倍が退陣し、「石破が首相」あるいは「ポスト安倍政権での政権幹部(外相、財務相などの重要閣僚や党三役など)」になれば、ここでの発言はトーンダウンするかもしれませんが、それにしても酷い発言です。


「みっともないことするなよ」日韓W杯で韓国に思ったこと――川淵三郎が語る「反日種族主義」 | 文春オンライン
 Jリーグを立ち上げた有能な人物ではあるのでしょうが「ガチ右翼か、安倍自民に媚びてるのか」はともかく「嫌韓国・極右放言をして恥じない」、政治的にはどうしようもない馬鹿者が川淵だと言うことがよく分かる記事です(文春が嫌韓国極右なのは今更言うまでも無い)。Jリーグにも在日の選手がいるのに川淵はどういう神経をしてるのかと呆れます。
 この点、俺的には「有能」かつ「政治的にも共感できる(ピンポン外交や南北朝鮮合同チームの結成への協力)」と言う意味で

・荻村伊智朗*2>絶対に越えられない壁>川淵三郎*3

ですね。
 荻村には「自分が努力で卓球王者になった人間なので、全く同じ努力を選手に求め、出来ないと罵倒する(しかもその求める努力が常識外れ)」という「悪癖(天才にありがちな話です)」があったようですが、それ割り引いても川淵の「嫌韓国・極右放言」よりはましじゃないか。

【参考:荻村伊智朗】
「珍右翼が巣くう会」に突っ込む・番外編(3/13分:ミスター卓球・荻村伊智朗の巻)(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ

「統一コリア」チームを実現:『ピンポン外交官』と呼ばれた男の“遺言” | nippon.com
 荻村が初めてスウェーデンを訪れたのは1959年12月、卓球ニッポンを支えるエースをスウェーデンの卓球協会が指導者として迎えたのだ。日本卓球協会は「われわれが長年かけて積み上げてきた技術を他の国に教えることはない」と反発したが、荻村は「もし、彼らが強くなっても、僕らがさらに努力して倒せばいい」と言い残して日本を離れた。
 ストックホルム郊外の小さな町で開催された最初の荻村合宿には、代表レベルの選手たち十数人が集められた。荻村は自身がそうしたように、ウォーミングアップの体操を入念に繰り返したのだが、選手たちから不満の声があがった。「俺たちは体操を習いに来たのではない」と。地元紙も「オギムラがわれわれに本当の技術を教えても、彼には一つもメリットがない」と批判的な論陣を張るなか、1人、2人と練習場から姿を消し、最後は最年少のハンス・アルセアという17歳の少年だけが残った。
 その指導力が認められたのは、半年間かけて各地の卓球クラブを回った荻村が帰国した後、たった1人で厳しい練習に耐えた童顔の少年がスウェーデン国内の大会でベテラン選手たちを破って優勝したときである。その快挙に、多くの選手から「オギの合宿に参加したい」という声があがった。
 こうした反応を受け、荻村は練習拠点にしていた東京・吉祥寺の武蔵野卓球場にスウェーデンの選手たちを招いた。1971年の世界選手権名古屋大会で母国に初の男子シングルスのタイトルをもたらしたステラン・ベンクソン*4もそのうちの1人である。荻村の熱心な指導は、後にヨルゲン・パーソンやヤン=オベ・ワルドナー*5といった卓球史に名を刻むスーパースターを同国が輩出する礎になったのである。
 彼が国の壁を越えてその技術を多くの後輩たちに伝えようとした背景には、どんな思いがあったのか。
反日感情を受け止め、紡がれた信念
 荻村が卓球と出会ったのは日本が敗戦から3度目の春を迎えた1948年4月、都立西高に入学したときである。やせぎすの少年は周囲から「荻村は卓球にとりつかれている」と揶揄(やゆ)されるほどこの競技に夢中になった。体育館で卓球部の仲間とボールを打ち合ったあと、武蔵野卓球場で日付が変わるまでラケットを振り続け、卓球を始めてわずか5年あまりで世界の頂点に立ったのだ。
だが、初めて日の丸を背負って戦った異国の地で彼が味わったのは、愛国心の高揚や歓喜ではなかった。
 反日感情の強かった英国の観客は、日本人の小さな背中に激しいブーイングを浴びせ続けた。ウオーミングアップ中に体育館の照明を落とされたこともある。街のレストランや理髪店でも入店を拒否された。優勝杯を手に帰国した荻村は、彼を支え続けた武蔵野卓球場の女性場主、上原久枝にこんな心情を語っている。
 「日本人って、僕らが思っているより、外国の人から嫌われているんだよ。どうしてなんだろう……」
 こうした若き日の葛藤が、荻村の視線を世界に向けさせ、彼の生涯を貫く信念につながったのかもしれない。小さなピンポン球によるラリーは、過去のあつれきや国境、民族の壁を越えることができる――と。
 卓球界の頂点に長く君臨する中国も、そんな荻村の影響を受けた。
「日本人が敗戦後のどん底から自信を取り戻したのは、あなたたちが活躍した卓球だった。同じような体格の日本人が成功した種目で徹底的に鍛えれば、われわれ中国人も成功できるかもしれない。だから、荻村さん、あなたの経験と力で卓球の素晴らしさをこの国の人民に伝えてほしい」
 1962年の春、荻村にそう懇願したのは、当時の周恩来首相である。すでに中国は前年の世界選手権北京大会の男子団体決勝で日本の6連覇を阻止するほどの力をつけていたが、中国の国民的英雄で3度も世界チャンピオンの座に就いた荘則棟*6は「荻村さんの技術、考え方のすべてが、私たちにとって最高の教科書だった」と述懐している。
 中国との太いパイプは、愛弟子のベンクソンが世界の頂点に立った71年の世界選手権名古屋大会で予期せぬ成果を生むことになる。
 文化大革命の影響で67年以降国際社会から孤立し、卓球の世界選手権も2大会続けて不参加だった中国に対し、荻村は名古屋大会出場を国際舞台復帰のきっかけにするよう水面下で働きかけた。当時の荻村は日本卓球協会から離れていたが、広州で開催された交易会に商社マンとして参加、かつての人脈をたどって周恩来首相と再会し、名古屋大会への参加を直訴したのだ。
 こうした努力の結果、大会に参加した中国の荘則棟と米国のグレン・コーワン選手との間に交流が生まれ、翌72年2月の歴史的なニクソン米大統領の訪中、9月の日中国交正常化につながっていったのである。
◆スポーツ側にいる人間の力量とは
 アジア人として初めて欧州発祥競技の国際競技連盟のトップに立った荻村が最も傾注したのは、朝鮮戦争で分断された二つの国をスポーツで一つにすることだった。
 「もし、終戦後のヤルタ会談で日本の分断が決まっていたら、当時、中学1年生だった私も何とか日本を一つにしようとがんばったはずです」と、荻村は当時のインタビューでその理由を語っている。
 最大のチャンスを1991年に千葉で開催される世界選手権に求めた荻村は、韓国に20回、北朝鮮にも15回足を運び、統一チーム結成を訴え続けた。両国の関係者による南北スポーツ会談が合宿地を巡って紛糾すると、すぐに日本の自治体関係者に連絡をとり、長野、長岡、千葉の3カ所で合同合宿をするプランを提示した。ITTFの理事会にも議題をあげ、他の国の承認を得たうえで統一チーム「コリア」の世界選手権参加を実現させたのだ。
 「大会前日までは最大限の優遇をします。でも、大会が始まれば、一切優遇しませんから」
 開幕の直前、荻村が南北統一チームの選手たちに伝えたのは、スポーツマンとしての矜持(きょうじ)である。そして史上初の「統一コリア」は、女子団体戦決勝で9連覇を目指した中国をくだし、世界の頂点に立ったのだ。朝鮮民族の唄「アリラン」の大合唱のなか、朝鮮半島を青く染めた統一旗がセンターポールに掲げられた光景は、“荻村流ピンポン外交”のハイライトシーンでもあった。

*1:小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣地方総裁担当相を歴任

*2:1932~1994年。現役時代は日本代表として世界卓球選手権で12個の金メダルを獲得し、日本卓球界の黄金期を代表する選手として活躍した。引退後は国際卓球連盟会長、日本卓球協会副会長等を務めて卓球の普及に尽力。没後、業績を称えて現在のITTFワールドツアーの一つ、ジャパンオープン卓球選手権大会が、荻村杯国際卓球選手権大会に改称された。また1997年には世界卓球殿堂入りを果たした(ウィキペディア『荻村伊智朗』参照)。

*3:1936年生まれ。古河電気工業サッカー部(現在のジェフユナイテッド市原・千葉の前身)で選手として活躍。引退後、古河電気工業サッカー部監督、日本代表チーム監督、Jリーグチェアマン日本サッカー協会JFA)会長、名誉会長、最高顧問、相談役などを歴任(ウィキペディア川淵三郎』参照)。

*4:1952年生まれ。1971年の世界選手権決勝戦では、スウェーデン人として初の世界チャンピオンになった。その後1973年のサラエボ大会ではダブルス、団体で優勝、1975年のカルカッタ大会、1977年のバーミンガム大会、1983年の東京大会でも団体でのメダルに貢献、スウェーデンの主力選手として活躍した。

*5:1965年生まれ。スウェーデンの卓球選手。バルセロナ五輪(1992年)男子シングルス金メダル、シドニー五輪(2000年)男子シングルス銀メダル。「卓球史上最高のプレーヤー」、「百年に一人の天才」、「キング・オブ・テーブルテニス」などと称えられている。ヨルゲン・パーソン(1966年生まれ。1991年世界卓球男子シングルス金メダル)らとともに1980年代後半から1990年代にかけてスウェーデン卓球の黄金時代を築いた。

*6:1940~2013年。世界卓球選手権のシングルスで1961年から1965年まで3連覇を果たした。文革の影響でその後2大会中国は参加できなかったが1971年の名古屋大会で国際大会に復帰、この時のアメリカ人選手との交流が米中関係改善のきっかけとなった。その後、国家体育運動委員会主任(スポーツ大臣)に就任したが四人組逮捕に伴い四人組の共犯として失脚し妻子にも去られた。4年間の投獄を経て山西省の卓球コーチとなり卓球世界選手権(1987年)で銅メダルを獲得した管建華を育て上げた。1985年に1971年に来日した際に通訳だった日本人女性佐々木敦子と再会、結婚を決意するが中国政府からなかなか許可がおりず知人だった元天津市長で中国共産党中央政治局常務委員だった李瑞環への働きかけなどにより彼と胡耀邦党総書記がトウ小平国家中央軍事委員会主席の許可を取り、1987年12月19日、2人は結婚した。その後名誉を回復し1996年に発行した自叙伝、『トウ小平批准我們結婚』(トウ小平主席が私たちの結婚を同意し、推し進めてくれた)は60万部のベストセラーとなった。2002年11月に女子世界チャンピオンになった邱鐘恵と北京荘則棟・邱鐘恵国際卓球クラブを設立したがこのとき、元アメリ国務長官キッシンジャーからも祝電を受け取った。2013年2月10日、癌のため北京市の病院で死去。