新刊紹介:「歴史評論」2月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。まあ正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『前近代ユーラシア東半における文化的接触と摩擦』
■アジアにおける「ハムザ物語」(近藤信彰)
(内容紹介)
 ハムザとは「イスラム創始者ムハンマドの叔父」で実在の人物です。
 ただし、「ハムザ物語」は「ハムザの伝記」ではなく、「三国志演義」「忠臣蔵」などと同様に「大量にフィクションが入ってる娯楽もの」だそうです。
 三国志演義の「空城の計」「死せる孔明生ける仲達を走らす」、「忠臣蔵」の「吉良上野介のいじめ」などは事実ではないわけです。
 ペルシャ(イラン)で誕生した「ハムザ物語」がインドや東南アジアに伝播した過程が説明されていますが、無能のため詳細な説明は省略します。

参考

コトバンク『ヒカヤット・アミル・ハムザ【Hikayat Amir Hamzah】』
 マレー古典文学における英雄伝説の一つ。東南アジアへのイスラムの伝来とともにもたらされたペルシアの英雄伝説を,ペルシア語版からマレー語に翻訳したものである。主人公は預言者ムハンマドのおじハムザ・ブン・アブド・アルムッタリブで,最も人気のある英雄である。

http://www.sanriku-pub.jp/olive131.tsujimura11.html
 叙事詩『ハムザ・ナーマ』は11世紀頃のペルシアに発生し、語り部や読み物作家によりイスラーム圏に大いに流布した「アミール・ハムザの冒険」が土台となっている。これは事実と伝説と創作が入りまざった、時空を超えた奇想天外な冒険譚で、ストーリーは複雑きわまりない。

http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/epicsingerdalrymple.htm
■ウィリアム・ダルリンプル「英雄叙事詩の歌い手」からの抜粋 (宮本訳)
 インドでもっとも人気のある叙事詩といえば「マハーバーラタ」だが、もともと無数にあった叙事詩のひとつにすぎなかった。ムガール朝の時代にもっとも人気を博したのは、偉大なるイスラム教徒の叙事詩「ダスタン・イ・アミール・ハムザ」、すなわち「ハムザ物語」だった。
 預言者(ボーガス注:ムハンマド)の義父である勇敢で義侠心があふれるハムザは、(ボーガス注:ササン朝ペルシャの)ナウシェルヴァン皇帝*1の命を受けて、不規則にイラクからメッカ、タンジェ、ビザンチンを通ってスリランカへ旅をした。旅の途上、残酷な悪党であるバフタックや魔術師で魔王のズムッルド・シャーなどの敵に仕掛けられた罠をのがれながら、彼はペルシアやギリシアの美しい王妃たちと恋に落ちた。
 何世紀ものあいだ、イスラム世界のいたるところで「ハムザ物語」は語られた。その物語の人気を支えていたのは、層を成す脇道のエピソードであり、ドラゴンや巨人、呪術師などの登場するキャラクターだった。
 インドでは、ハムザの叙事詩はそれそのものが命を得たかのようだった。インドのあらゆる口承の神話や伝説を吸収しながら、前例がないほどの巨体に成長した。
 このような存在になった「ハムザ物語」は、ムガール朝インドの大きな都市の群衆が集まる場所で語られるようになった。交易市や祭りで、デリーのジャマ・マスジッドの階段で、キッサ・カワニで、ペシャワール語り部通りで、ダスタン・ゴス、すなわち職業的語り部が記憶をもとに、夜の間中物語を吟唱した。わずかな休息をはさむだけで、7時間も8時間も演じつづける者もいた。またムガール朝のエリートのあいだでは、プライベートでハムザの叙事詩を吟唱するという伝統があった。たとえば偉大なるウルドゥー語の愛の詩人ガリブは、彼自身のダスタン・パーティで物語を吟唱し、喝采を得た。
 完全な形のハムザ物語は360ものストーリーを含み、一晩中吟唱したとしても終えるまで数週間を要したという。印刷されたバージョンのなかでも最後の巻は1905年に刊行されたのだが、それは46巻以上に及び、1巻あたり平均して1000ページだったという。このウルドゥー語バージョンは、亜大陸で何年間も語られることによって叙事詩がどれだけインド亜大陸向けに再生されたかを示している。


■明末清初の激動と中国ムスリム中西竜也*2
(内容紹介)
 まあ、今「ウイグル問題」がわりと騒がれてるので、ご存じの方も多いでしょうが中国には「ムスリムイスラム教徒)」が昔からいるわけです。
 それはともかく、今では「宗教差別良くない」つうのは「世界の常識」です。特にイスラム教なんか世界宗教ですから、中国だって「イスラムなんて有害な思想を撲滅して何が悪い」なんてさすがにいわない。そんなこと言ったらイランだのパキスタンだのと言ったイスラム教国と外交関係が最悪になってしまう。
 江戸時代ならまだしも、今の日本でキリスト教弾圧なんかやったら「欧米から国交断絶されるであろう」ということと話は同じです。
 例の「強制収容所云々」についても中国は「そんなもんはない。我々は合法かつ正当なイスラム過激派テロ撲滅に励んでるだけだ。誤解だ、偏見だ、言いがかりだ」という。
 「強制収容所ムスリムに豚肉を強要してる疑いがある」なんてのにも中国は「豚肉は栄養があるんだ。食わせて何が悪い。食わない方がおかしい。食わないことが『イスラム教=邪教』の証明だ」なんてさすがに言わない。中国は「そんなイスラム教を侮辱する行為はしない。デマだ(そもそも、あそこは違法な強制収容所じゃないし)」というわけです。
 なお、そうした中国の釈明に対する批判としては

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181214/k10011746441000.html
中央大学講師のM谷N子さん*3
「トルコのウイグル人の亡命者団体でインターネットテレビをやっている『イステクラルTV』というところが、現地の警察官などと水面下で連絡を取って調べた情報によると、主要な市を含まない県レベルで全部で89万人の人たちが収容所に入っているのではないかという調査をしていました。
 ただし恐らく、数はもっと増えているのではないかと。
 つまり主要な市などを含んでいない数ですから、つまりそれはウイグル人の人口を考えると、10人に1人ぐらいは収容所に入れられているのではないかという情報があります。」
「2016年の段階で、チベットの党書記であった陳全国という人が新疆ウイグル自治区の党書記に転任になりました。
 ちょうど、その陳全国氏がチベットで党書記をやっていた時にチベット人焼身自殺が非常に大発生するんですが、少数民族への政治的な弾圧の手腕を買われて新疆の方に来たのではないかと言われておりまして、ちょうどこういう一連の強制収容が始まったのが、陳全国さんの党書記就任とかぶります。
なので、それが1つのきっかけになったと亡命者たちは見ております。」
「やはりここまでひどい人権弾圧は21世紀に入ってまだ類例を見ないものの1つだと思います。
 そして、中国共産党自体もこのようなことをやっていたら、当然、世界的にも、そして歴史的にも、自らの品位を下げることになるわけですし、やはり国際社会は中国共産党に対して、この問題を訴えかけて、一刻も早く、こういうような非人道的なことをやめさせるべきだと、私は思っております。」

の批判なんかがあります(ただし俺個人は興味も知識もないのでこういう問題を論じる気はあまりないですが。もちろんこうしたことが事実ならば中国は批判されて当然です)。「ウイグル、中国」「イスラム、中国」でググればいろいろとヒットします。
 で、別に中西論文は「今のウイグル統治を論じてるわけではない」「明朝末期清朝初期のことを論じてる」ので中国のそうした主張の是非はここでは俺は論じません。
 中西論文が言ってることは以下のようなことです。
1)今は『宗教差別は駄目だ』が常識だ。しかし明末清初はそうではなかった。
 『イスラムって中国に害をなす邪悪な思想じゃねえの?』つう偏見が普通に存在した。
 まあ日本だって江戸時代はキリスト教弾圧してますから、そのあたりは偉そうなことはいえません。
 で「江戸時代もそうですが」、「明末清初(明朝の末期、清朝の初期)」には「宗教の自由は人権として認められるべきだ」なんて言ってもそういう考えが社会に普及してないから意味がないわけです。
2)そこで当時の中国ムスリムは「イスラムは中国の伝統思想である儒学と矛盾しない、敵対しないどころか、むしろ親和的な思想なんだ」「全然有害じゃないんだ」と主張した
つう話です(ここでそうしたムスリムとして名前が挙がってるのが王岱興と劉智という人物です。なお、劉智についてはウィキペディアに簡単な紹介があります)。
 王岱興と劉智の説明では「どう親和的なのか」については、無能のため詳細な説明は省略します。

参考

http://macserver.jp/~global/1204ws06.html
(四)王岱輿
 明末清初に活躍した王岱輿は、中国最初のイスラーム哲学者といってよい。ムスリムの立場を明確にしつつ、中国の伝統思想と正面対決した初めての哲学者であり、その後の中国イスラーム哲学(と称すべき思想)の流れの基礎を築いた哲学者である。中国という環境内において中国の伝統的思索を相対化する思索をおこなっている。具体的・本格的な研究が待たれる課題である。
(八)劉智
 劉智は康煕年間の初め、南京に生まれ、雍正年間に卒している。『天方性理』『天方典礼』『天方至聖実録』の三部大作をはじめとする膨大な著作を残し、中国イスラーム最大の哲学者とされている。彼はアラブ・ペルシャイスラーム哲学の伝統を引き受けつつ、一方宋学の概念を駆使して、精緻極まりない独創的な哲学体系を樹立した。イスラーム哲学史においても中国哲学史においても、きわめて重要な哲学者である。彼の著作については最近非常に細緻な研究が進んでいる。本特定領域研究においてもその方向をさらに進め、劉智哲学の全貌を見渡すまでに至ることを期する。
(九)馬徳新
 馬徳新は乾隆年間に雲南の大理に生まれた。賽典赤・贍思丁の二十一世の子孫という。幼年からアラブ・ペルシャ語を学び、長じて陝西の経堂に遊学し、中国ムスリムとしては最高度の教育を受ける。四十代後半におよび、彼はハッジ(巡礼)をおこなうが、その旅程はただメッカに向かうのではなく、ほとんど七年間をかけて、いわば「弁当を腰に、笈を背負って」メディナエルサレム、カイロ、イスタンブールシンガポールなどを各地をめぐり、それぞれの地において学者との討論・修学、そして文献収集をおこなった。中国にもどった後、彼は著述を開始するが、その多くはアラビア語で著され、中国ムスリムの教育に大きな役割を果たした。ただ、これらの著述の分析はほとんどなされておらず、これは本研究における重要課題の一つといえる。中国語の著述もかなりある。重要なものは『大化総帰』であるが、本書についても現今では充分な研究は進められていない。

■劉智(1660年頃〜1730年頃:ウィキペディア参照)
 清代のイスラム教学者。彼は孔子孟子を「東方の聖人」、ムハンマドを「西方の聖人」とみなし、東西の聖人の教え、すなわち儒教イスラム教は、古代は同一のものであったと主張した。

https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/201306.html
中西竜也(なかにし たつや)『中華と対話するイスラーム:17〜19世紀中国ムスリムの思想的営為』(京都大学学術出版会)
 中国でのイスラム教のあり方を分析した文明論の秀逸な労作だ。一見、きわめて専門的かつ細密な事実分析をしながらも、常に大きな視野からの文明論的な問題意識を根底に据えているのが素晴らしい。
 著者の問題意識はいくつかある。ひとつは、アラビア語ペルシャ語イスラム原典の漢語への翻訳により、その内容がいかに変容したか、翻訳を原典と中国伝統思想と比べながら分析すること。例えば、アラビア語のルーフ(霊)が、朱子学の「性」「理」に訳されることで、元の具体的観念が朱子学的な普遍的観念に改変されていると指摘する。
 次に、中国イスラム教は教理面で中国伝統思想との対立をいかに回避したか、という問題も重要だ。これは政権による弾圧を避ける死活問題でもある。関連して笑話的な夫婦喧嘩論も紹介されている。イスラム法では夫が妻に「出て行け」と離縁を口走るだけで離縁が成立し、その後結婚生活を続けると姦通罪になる。しかし中国では、明確な不貞のない妻は簡単には離縁できない。離縁は妻の一族の恥だからだ。この矛盾に対してムスリム学者の馬紱新(1794−1874)は、夫婦喧嘩をしても夫は軽々に離縁を口走るな、黙って殴れ、と提案している。
 さらに、中国内地(江南、雲南)のムスリム儒教との調和に腐心したのに対して、西北部では道教と結びついたという。この問題はほとんど未研究だが、著者は西北部ではスーフィズムが強かったことをその背景として挙げている。イスラムスーフィズムが神秘的直観を重視することは知られている。この点は、理性的な儒教よりもまさに道教に近い。この立場で書かれた楊保元(1780−1873)の『綱常』は、道教的な色彩が濃厚だという。当時、西北部では、ムスリムと漢族の対立が激化した。したがって、西北部では、イスラム道教を取り込むことで、イスラムと非イスラムの境を超えようとしたのではないかと分析する。
 中国のイスラム思想家にとって、伝統思想との調和だけでなく、儒教思想などに如何に埋没しないかも重要課題だ。したがって内地や沿岸部では、一方では儒教との同一性を唱えながら、他方では、埋没しないための差異化にも腐心したという。その点、北西部でイスラム道教を大胆に取り込んだのは、辺境ゆえか、内地ほど中国文明に埋没する危険性がなかったからだろうと考察している。
 著者は、中国のムスリムは、現代中国にとっても貴重な財産だと高く評価する。それは、中国の国際的な経済、政治活動で、イスラム圏諸国との交流がますます重要となっているからだ。この面で、彼らが実際に活躍し、大きな役割をはたしている実例も紹介している。
 中国におけるイスラムの問題は、新疆ウイグル問題など、扱い方によっては尖鋭な政治問題となる。調和的な面を強調して、負の遺産の深刻な問題を避けている、との批判もあるかもしれない。しかし、このようなアカデミックな歴史研究に、現代の尖鋭な政治問題を必ずしも絡める必要はないだろう。この観点からすれば、現代中国にとっての財産云々といった問題も省略してもよかったのかもしれない。
 何れにせよ、久々に出たスケールの大きい労作であり、今後の研究の展開を注目したい。
袴田茂樹*4新潟県立大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)


■近世日本におけるイラン・インド染織品の輸入とインド洋交易(阿部克彦)
(内容紹介)
 祇園祭ペルシャ絨毯を題材に、近世日本におけるイラン・インド染織品の輸入について論じられている。
 なお、筆者によればこうしたペルシャ絨毯はオランダとの長崎出島交易によってもたらされたものだという。

参考

http://tribe-log.com/article/1895.html
 祇園祭りの縣装品にかなり古い絨毯が飾られているという事を知ったのは15年ほど前のことです。
 最初で最後かもしれない規模の絨毯展が大阪の民族学博物館で行なわれました。アルダビルカーペットやサングスコの狩猟文絨毯など、現存では世界最高レベルの絨毯が数多く並んだ、今では信じられない展示会です。この中で負けず劣らない絨毯が、祇園祭の山鉾に掛けられた縣装品としての絨毯でした。
 それらは、ムガル時代のインドやペルシア最盛期の逸品といわれるイスファハンで織られた通称ポロネーズ絨毯などで、世界でも数点しか残っていない貴重なものばかりです。長い間祇園祭の山鉾の廻りを飾って来た縣装品の数々は、世界でも貴重な背景を持つ絨毯だと言うことを初めてしるきっかけとなりました。実はそれらの絨毯の何枚かはかなりユニークなもので、ヨーロッパの絨毯研究家(美術史家)にとって「幻」と言われたムガル朝時代に織られたと思われる絨毯もあったのです。
 最近ではイスラム美術史が専門で慶応大学で教鞭をとられる、鎌田由美子氏がこのあたりを専門に研究されています。
ペルシャではなくインドのデカン地方で織られた絨毯だった?
 1986年にアメリカのメトロポリタン美術館の東洋染織研究チームがこの絨毯群の調査を行っています。17世紀〜18世紀に織られた絨毯がまとまって、素晴しい状態で存在していることはかなり珍しく、世界でも例を見ない絨毯グループといえるようです。
 それまではペルシャ産(イラン)と思われたいた絨毯が、実はインドでもかなり南の地域で織られたことが判明したわけです。京都の人達にとっては、有名な「ペルシャ絨毯」と思い込んできたのが、驚きの新事実であったかもしれませんが、実は輸出品として織られた絨毯群の新発見という新たな評価でもあったのです。
 中でも北観音山の「8角星デザインの絨毯」は17世紀のオランダの絵画に頻繁に出てくる絨毯に良く似ています。しかし研究者によれば、現在までヨーロッパ各地で実物はほとんど見つかっていませんでした。
■日本人の心づかいが支えた幻の絨毯グループ
 驚くのは、今から300年も前の絨毯文化の最盛期に織られた絨毯がほぼ完璧な状態で保存されていることです。
 祇園祭を訪れた際、無理を言って懸装品が保存してあるお蔵を見学させて頂いたのですが、絨毯を保管するために絨毯全体が折れ曲がらないような特注の桐箱が作られ、その中に、吊るしてしまうという気の使いようでした。さすが日本人の細やかさと丁寧さが感じられ、納得したことを憶えています。
このような心使いがあったからこそ、高温多湿な日本でも羊毛製の絨毯や懸装品が極めて良い状態で残されたと想像できます。
 また、日本に於ける数少ない絨毯研究者の杉村棟氏は「絨毯・シルクロードの華」のなかで、江戸期の日本が(ボーガス注:オランダの)東インド会社などを通じて西方諸国と海上貿易をしていたのではないか?という見解を述べられています。

http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kitajima3/contents.htm
ポロネーズペルシャ絨毯の名前の由来
 この“ポロネーズ”という名前の由来は、著者Essie Sakhai氏の“The Story of Carpets”の中に次のように述べられている。
 ポーランドの小説家であり、且つポーランド王子でもあったザアルトリスキー氏は1866年パリで開催された世界博覧会に17世紀の多くのペルシャ絨毯を展示した。所有者がポーランド人であるということから、一人のフランス人記者が、これらの絨毯は多分ポーランドで製作されたので、“ポロネーズ”と呼ばれたものではないかと記事の中に書きました。しかしこの後、この誤りは“ペルシャ絨毯”であると直ぐに訂正されたにも拘わらず、このポロネーズという名前は、17世紀の優れたイスファハンの絹絨毯全体に付けられるようになった*5
ポロネーズペルシャ絨毯の伝来経路
 文政元年(1818年)にどのような経路で南観音山町内会が入手したのか、誠に不思議である。
 この問題に一つのヒントを与えてくれる資料がある。
 それは平成7年4月に群馬県立歴史博物館第50周年企画展「中近東絨毯:(副題)シルクロードの華』の出版物、この本の中に次のような説明がある。
「16世紀から17世紀にかけて、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス船が相次いで来日し、さまざまな珍しい品々がもたらされた。1639年にポルトガル船の来航が禁止されると、オランダが交易権を握って、1788年にオランダ東インド会社が崩壊するまで活躍した。
 一方、1600年に設立されたイギリスの東インド会社が日本進出を図り、1613年平戸に商館を開設した。
 18世紀から19世紀中期にかけて、イギリスの勢力がインドに及ぶと、東インド会社は1858年に解散するまでインド貿易を我が物にした。こうした歴史的な背景を考えると近世日本に諸外国の珍品が船載された経緯がおぼろげながら浮かび上がってくる。
 近世初期にポルトガルとの貿易によってもたらされた毛織物は、献上品、進物品として将軍や高官の手に渡り、特に戦国の武将たちの間では人気を博した。
 また徳川家康時代に将来されたと推定される17世紀の絨毯が若干ながら現存している。徳川美術館には徳川家伝来の絨毯が10枚ほど所蔵されている。」
 これらのことから、同書ではこのような超高級絨毯は最初将軍や元首*6に献上品として日本に入り、後で下賜されたものが祇園に入ったという経緯を推定している。
 これが現在最も確かな伝承経路だと考えられる。
 イランなら国宝級のこの絨毯が祇園祭の町内会所蔵として眠っている。


南インド宮廷文学におけるムスリム表象(太田信宏)
(内容紹介)
 ヒンズー系のマイスール王国の宮廷文学『カンティーラヴァ・ナラサ・ラージャの栄光(以下、ラージャの栄光)』におけるムスリム表象が取り上げられている。
 「ラージャの栄光」ではムスリム(マイスール王国と敵対関係にあったムスリム系のデリー・スルターン朝)が「ヒンズーに敵対する脅威」と描かれているが、それは「デリー・スルタン朝とマイスール王国の対立関係に関係なく」、もちろん「そうしたムスリム認識がヒンズー側にあった」と見られるものの、「そうしたムスリムムスリム系のデリー・スルターン朝)という脅威からの守護者=マイスール王家」という形での国王支配正当化という要素が大きいとみている。
 なぜならばデリー・スルターン朝を滅ぼした「ムスリム系のムガル王朝」が成立すると、マイスール王国と敵対関係にあったデリー・スルタン朝とは違い、ムガル王朝との協調関係が成立したためか、ムガル王朝時代に作られた宮廷文学には「ラージャの栄光」のような露骨にムスリムを敵視する表現が見られなくなるからである。


■14世紀イランに伝えられたインドの歴史(小倉智史)
(内容紹介)
 イルハン王朝において作られた歴史書であるカーシャニー著『歴史精髄』、ラシードゥッディーン著『集史』のインド史の記述について触れられている。インド史の情報は「インドからの仏教僧侶の情報」と見られており、当時、イルハン王朝(イラン)とインドに密接な経済・文化交流があったことの傍証と考えられる。


日中戦争と対独賠償問題:一九三七〜三八年の南京におけるドイツ被害から(清水雅大*7
(内容紹介)
 「1937〜1938年の南京」とは「南京事件が起きた当時の南京」ですね。
 で、ジョン・ラーベ南京の真実』(2000年、講談社文庫)を読んだり、映画『ジョン・ラーベ:南京のシンドラー*8』(2009年公開。現在、DVDがでています)を見たりした方ならご存じでしょうが、当時の南京にはラーベのようなドイツ人など外国人(英米仏なども含む)がいました(別に清水論文はラーベについて詳しく触れてるわけではありませんが)。
 で南京の日本軍は中国人だけではなく「南京在住のドイツ人などの外国人」からも略奪をしていました。
 でここから「本題に入りますが」、清水論文が問題にしてるのは「ドイツ政府による賠償要求」に日本が当時どう応じたかと言うことです。
 清水論文によれば、当初の日本の態度は「そんな略奪の事実はない、ドイツ側の事実誤認だ」「仮にあったとしても戦争にはそんなもんよくあることだ」「だから一円も払わない」つう、不誠実極まりないもんでした。
 ところが一方で日本はほぼ同時期に「日独防共協定(1936年)」「日独伊三国同盟(1940年)」でドイツとの関係を深めていくわけです。一方で英米とは対立を深めていく。
 ドイツは「日本は友好国、同盟国じゃなかったのか!。何だ、その態度は!。ふざけるな!」「日本は同盟国だからドイツは大目に見てくれると思ったら大間違いだ。略奪なんか大目に見れるか!」と反発を強めていく。
 そして日本国内からも「ドイツを怒らせるとまずい。せっかく結んだ防共協定がお釈迦になったらどうするんだ。満州国建国にも英米仏と違ってドイツは好意的な国だ(ドイツの満州国正式承認は1938年ですが)」という認識が出てくるわけです。
 で結局「日独友好を重視して金はそれなりに払うことになった」。
 しかし「日本の非は正式には認めない」。
 「払う金の性格については違法行為を認めた上での賠償だとは認めない。そこは曖昧に片付ける」。
 「日韓国交正常化時の支援金」「安倍の日韓合意での10億」に近いやり方です。あれらだって「植民地支配とか慰安婦とか、日本が悪かった、これは賠償金です」つう話では「建前上はない」わけです。
 韓国は国交正常化において「日本はどう見ても正式には非を認める気がない。とにかくカネがほしい、北朝鮮に対抗するためには近代化しなきゃいけないんだ」つうことで「カネの性格が曖昧であること」については飲んだ。
 ドイツ側も「日本はどう見ても正式には非を認める気がない。一方で1936年のラインラント進駐(ベルサイユ条約違反行為)で英仏とドイツの関係は最悪*9だ。今後も我々はオーストリア併合などを計画しているから一層、英仏との関係は悪くなるだろう。そういう状況で『日本は正式に非を認めろ』と要求して、下手に日本の反発を招いたら日本が英仏と一緒に我々を非難することすらあり得る。金は出すというならそれで片をつけるか」ということで「カネの性格が曖昧であること」については飲んだという話です。
 なお、こうして「同盟国ドイツ」は「特別扱いで金を払う」ことになりましたが、米英仏などについてはそうした支払いの動きはありませんした。
 そのことが「日本は賠償金を払わないなんてふざけてる」と米英仏などの日本批判を強め、ひいては「1941年の対米開戦」へとつながっていくわけです。


■文化の窓「『沖縄のなかの世界史発掘プロジェクト』の実践紹介」(池上大祐*10
(内容紹介)
 筆者が現在勤務している琉球大学において筆者が取り組んでいるゼミ活動のテーマが以下の通り紹介されている。
1)ロベルトソン号漂着事件の美談化の歴史
2)ロバート・バウン号事件(石垣島唐人墓事件)の記憶化の歴史
3)石垣島マラリア対策:ウィラープランを中心に
4)久松五勇士の美談化の歴史

参考

https://miyakojimabunkazai.jp/bunkazaiinfo875/
■【市指定:史跡】ドイツ商船遭難之碑
 1873(明治6)年ドイツ商船ロベルトソン号が福州からオーストラリア向け出航したが、台風にあい宮国の沖合の大干瀬に座礁し難破した。宮国の人々は荒れ狂う激浪の中に、危険をおかして救助し、34日間親切ていねいに手厚くもてなし、帰国させた。ドイツ政府は宮国の人々の救助に感激し皇帝ウイルヘルムⅠ世*11は、1876(明治9)年軍艦を派遣して平良市親腰に謝恩碑を建立させた。
 この事は、1937(昭和12)年*12発行の文部省「尋常小学修身書巻4」に「博愛」という題でのせられ、全国の小学校で教材となった。1936(昭和11)年は1876(明治9)年から満60年に当るので、宮古郡教育部会では、外務省の協力で大阪市在住の下地玄信氏*13を委員長に、あらたに遭難現場に遭難記念碑を建て盛大な式典が挙行された。この碑は、近衛文麿*14の筆による“独逸商船遭難之地”という辞を刻んだもので、大阪市の石材店でつくられたものである。

https://terakoyant.exblog.jp/18675228/
■沖縄宮古島にあるベルリンの壁
 宮古島には「うえのドイツ文化村」があります。
 南国宮古島になぜドイツにちなんだ施設が!?
 1873年、ドイツの商船ロベルトソン号が、うえのドイツ文化村が建っているすぐそばのリーフに座礁し、宮古や伊良部の島民たちが、船員たちを手厚く看護して救ったという話が残っているそうです。
 ちなみにこの宮古島の美談は日中戦争のはじまった1937年に小学校の修身教科書に掲載され、美談として全国に広く知られることになったそうです。
 美談というのは、民衆に対する国家の抑圧が大きい時代に、何らかの政治的意図を政治家が民衆に隠しておきたいときに使われる常套手段のようです。
 2000年の沖縄サミットの際には、ドイツのシュレーダー首相が「うえのドイツ文化村」を訪れました。
 現在、宮古空港からうえのドイツ文化村に至る道は、シュレーダー通りと呼ばれています。
 できた当時は、もっとドイツらしい重厚な趣をもった建物だったようです。なんてったってドイツ・ライン川沿いの古城マルクスブルグ城をモデルに原寸大の建物をつくったのですから。城の内部だってかなり忠実に再現されてるんです。
 しかし、詳しい筋によると、数年前の改装で、こんなまるで〇〇ホテルみたいな外観になってしまったとのこと。城を覆っていた工事用のカバーがオープンされ、新しい城の姿が見えたときには、もうひっくり返りそうになったそうです。何なんだこの色は!と。残念無念ですね。
 そんな「うえのドイツ文化村」には、超ド級文化遺産があります。
 それは「ベルリンの壁」。
 もちろん本物です。

うえのドイツ文化村ウィキペディア参照)
 沖縄県宮古島市上野(旧上野村)にあるテーマパーク。旧上野村とドイツとの交流の歴史(後述)を背景として建設された。ドイツ文化をテーマとしている。
■概要
 ライン川を見下ろす古城マルクスブルク城を模した博愛記念館を中心に、宿泊施設、子ども向け施設(キンダーハウス)、レストランなどがある。
 2000年には沖縄における九州・沖縄サミットに出席したゲアハルト・シュレーダー・ドイツ首相(当時)も訪れるなど、日独の文化交流の拠点となった。
■施設
 博愛記念館は、2-3階にマルクスブルグ城の内部が再現されており、8階には展望室が設けられている。
 キンダーハウスでは、グリム童話に関する資料や、くるみ割り人形等のドイツのおもちゃを展示。また、ドイツ政府から寄贈された2枚のベルリンの壁を展示している。
■歴史
1873年明治6年)7月
 ドイツの商船エル・イ・ロベルトソン号が旧宮古郡下地村宮国沖で台風のため座礁した。座礁を知った宮国の住民たちは、荒波の中へ小さな船で漕ぎ出し、船長と乗組員を救助。住民による看護と生活扶助などから、船長他乗組員は約1ヶ月後にドイツに帰国した。
・1876年(明治9年
 これに感動した当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は、軍艦チクローブ号を派遣し、宮古島市漲水港(平良港)近くにドイツ皇帝碑文碑(博愛記念碑)を設置、除幕式等が行われた。
・1933年(昭和8年
 沖縄県宮古支庁は、1931年(昭和6年)の台風被害からの復興を著した「沖縄県宮古郡災害復興記念誌」を編纂、その中で過去の災害復興の象徴としてドイツ皇帝碑文碑も見直される。
・1936年 (昭和11年
 駐日ドイツ大使らを来賓とした「独逸皇帝感謝碑六十周年記念式典」が催され、近衞文麿の筆による「独逸商船遭難の地の碑」が建立。これが現在の文化村内に設置されている。
・1937年(昭和12年
 ロベルトソン号救助が災害や天変地異において協力する逸話として尋常小学修身書の「博愛」の項に掲載、翌年に盲学校初等部修身書(巻四)でも指導された。
・1987年*15(昭和62年)
 上野村(現宮古島市)がドイツ文化村の建築構想を策定。
・1996年 (平成8年)
 ドイツ文化村が完成、グランドオープン。
・2003年 (平成15年)9月
 博愛パレス館が台風14号の風雨・高波で被害を受け、上野村は修繕費用がないことを理由に同館を閉鎖した。
・2017年 (平成29年)12月13日
 宮古島市議会で、質問に答えた副市長は、博愛パレス館は老朽化が進み使用できないが、「購入を希望する企業もあるので、売却も視野にドイツ村全体の鑑定評価業務を実施している」と答弁した。

http://www.miyakomainichi.com/2017/12/104383/
宮古毎日新聞『博愛パレス館 売却視野/うえのドイツ村:14年間閉鎖状態に/市、鑑定評価基に検討へ』
 長濱政治副市長は13日、14年間にわたり閉鎖されている博愛パレス館(うえのドイツ文化村内)の売却を視野に入れて検討していることを明らかにした。現在、同館を含むドイツ村全体の不動産鑑定評価を実施しているとし「その結果に基づき、ドイツ村全体の今後の方針を検討する中で、パレス館についても検討していきたい」と述べた。開会中の宮古島市議会(嵩原弘議長)12月定例会の一般質問で、我如古三雄氏の質問に答えた。
 パレス館は中世ドイツの宮殿をイメージして、1993年に完成。鉄筋コンクリート3階建てで、150人収容の多目的ホールと会議室、29室62人が宿泊できる施設として約14億8000万円(関連施設含む)を掛け旧上野村が整備した。
 しかし、2003年9月の台風14号による風雨と高波などで甚大な被害を受けた。
 修繕には多額の費用が掛かることから、当時の上野村は財政状況などを理由に同館を閉鎖。市町村合併後は宮古島市が引き継いだが、現在まで閉鎖されたままとなっている。
 質問で我如古氏は「パレス館は、10年余りも放置されている。こういった状況では観光地としてのイメージを損ねるばかりか、当局の管理責任が不十分と言われても仕方ない」と指摘した。
 その上で、「南岸リゾート一帯は、一大リゾート地として変貌している。その中にあって、10年余りも放置された施設があるというのは地元や訪れる多くの観光客にとって大変失礼だ」と述べ、市の対応をただした。
 答弁に立った長濱副市長は、同館は開館から長い年月を経て老朽化が進んでいることから、現在使用できない状況にあるとした上で「購入を希望する企業もある。このため現在、売却も視野にドイツ村全体の鑑定評価業務を実施している」などと述べ、その結果に基づき市の方針を検討していく考えを示した。
 下地敏彦市長は「パレス館については何度か現場を見ている。かなり老朽化しており、(施設としての)機能を果たしていないという認識をしている」と答弁した。

http://www.y-mainichi.co.jp/news/10584/
八重山毎日新聞・社説『改修を前に事件の検証が必要では?』
■正しく紹介されているか
 先月初め、石垣市立図書館主催の「著書を語る会」が開かれ、元高校教諭で『石垣島唐人墓事件』*16の著者田島信洋さんが、「唐人墓の虚像と実像」と題して講演を行い、これまで伝えられてきた説にあらためてさまざまな疑問や新たな問題提起を行った。
 新川冨崎にある唐人墓は、連日大型の観光バスやタクシー、レンタカーがひっきりなしに訪れる八重山有数の観光スポットだ。それだけに唐人墓の説明文は事件を正しく伝えているのか、バスガイドやタクシーの運転手さんはどのように観光客に紹介しているのか確かに気になるところである。
 この唐人墓も老朽化が近年激しいことから石垣市では年内に改修工事を行うという。それならその改修の前に、150年以上も前にこの八重山で起きた国際的な大事件が果たして正しく伝えられているか、説明文はこれでよいのか、あらためて関係者間で徹底検証し、改めるべきは改める必要があるのではないか。ひとたび改修されるとあるいは2、30年は見直しの機会がなくなり、こうした各種の疑問が提示されている事件の真相、歴史の問題点が未来永劫歴史のかなたに放置されたままになる恐れもあるからだ。
■2度目の改修
 この唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祭られている。その概略は1852年2月、福建のアモイで集められた400人余の苦力(クーリー)たちが米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、台湾東方で病人が海中に投棄されるなど虐待されたため暴動を起こし船長ら7人を殺害した。
 船は台湾に向かう途中、たまたま石垣島崎枝沖で座礁、380人が下船した。八重山の政庁蔵元は現在の墓がある冨崎原に仮小屋を建てて収容したが、米英の兵船が3回にわたり来島、砲撃を加え武装兵を上陸させ捜索。山中に逃亡した中国人らは銃撃・逮捕され、あるいは自殺や疫病で病死者も続出した。
 これに対し琉球王府と蔵元は人道的に対応、島民も密かに食料を運び込み、さらに死者は1人ひとり石積みの墓を建立して丁重に祭り、生存者172人は関係国の交渉の結果翌年9月、琉球の護送船2隻で福州に送還して終結した。
 これらの霊を慰霊するため石垣市と台湾側とで1971年に建立したのがこの唐人墓で、現在の墓は1982年に改修され、説明文も現在の事件の概要を伝えるものに大幅に書き改められた。
■シンポジウムで検証を
 田島さんが疑問や問題点を指摘するのは、実際に英米兵に殺害されたのは3人で多くは1年7カ月余の帰国までの疫病によるものだが、これが128人全員が殺害されたかのように各種のガイドブックやインターネット上などで誤った伝え方をされ、さらに唐人は誘拐同然に集められたクーリーという説があるが、時代背景的には必ずしも奴隷的な労働者だけでなく、知識階級の人々の出稼ぎもあったこと。また漂着や座礁したのでなく石垣を台湾と間違えて上陸した形跡があること、砲撃も威嚇砲撃であったこと。
 さらに一方でこの事件を「米英の西側植民地主義者による中国人労働者略取販売に反対する中国人民の闘争史上の重要事件であり、中国と琉球の友好の歴史の証人」とする論文が出る一方で、これを真っ向から否定する論文もあり、研究者間でも「ロバートバウン号事件」などの名称はじめ事件の見方、評価は異なる点が少なくない。
 2度目となる改修は今年12月までに行われる予定だが、それだけに石垣市はその改修を絶好の機会として、それぞれ研究者を一堂に招いてシンポジウムを開くなど、田島氏の提起も含めて事件を徹底検証。その上で説明文も現在のままでよいのか、改めるべきは改めてより正しく後世に伝えていく努力をすべきだろう。
 当時は島の人々も疫病で次々死んでいったが、琉球王府は小国琉球を守るため島の人より唐人を医者に見せるなど大切に扱ったともいわれる。今は日中友好のシンボルともなっているこの国際的な悲惨な事件の背景で、島にも悲惨な歴史があったことも島の子供はじめ島の人々、観光客にきちんと伝えていく必要があるだろう。市の積極的な対応を望みたい。

■久松五勇士(ウィキペディア参照)
 日露戦争時に行われた日本海海戦に先立ち、バルチック艦隊発見の知らせを宮古島から石垣島に伝えた5人の漁師の呼び名である。
 当時の宮古島には通信施設がなかったため、島の重役・長老達の会議の結果、通信施設(八重山郵便局)のある石垣島にこの情報を知らせる使いを出す事となり、漁師5人を選抜した。5人は15時間、170キロの距離をサバニを必死に漕ぎ、石垣島東海岸に着いて、さらに30キロの山道を歩き八重山郵便局に到着した。局員は宮古島島司(島長)からの文書を漁師から受け取って電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた。
 日本本土への連絡は日本郵船の貨客船・信濃丸によるものが数時間早かったため、この情報が直接役に立つことはなかった。その後5人の行為は忘れられていたが、昭和時代に入り、この事実が発掘され教科書に掲載されると一躍評価が高まり、5人は沖縄県知事から顕彰され郷土の英雄となった。
 軍事色の強い話題だけに、戦後、教科書から姿を消すと本土では瞬く間に忘れ去られたが、宮古島石垣島では依然として郷土の英雄という評価は揺るがず、石垣島の上陸地点には「久松五勇士上陸之地」の石碑が、宮古島にはサバニを5本の柱で支えるコンクリート製のモニュメントが建てられた。
 昭和30年代に、沖縄県出身の音楽家である奥平潤により『黒潮の闘魂』という久松五勇士を称える歌が作られている。
 うずまきパンで有名な宮古島市の富士製菓製パンは、「久松五勇士」という名の菓子を販売している。
 自由社発行の「新しい歴史の教科書」には、コラムとして「久松五勇士」が取り上げられている。

http://www.uzumakipan.com/pan.htm
■富士製菓製パン
 明治三十八年五月、ロシアのバルチック艦隊宮古近海に発見。一刻も早くこの緊急事態を報告したいが、宮古には電信施設が無く、石垣島の通信局に久松の若い漁夫たちに急便を託します。
  この決死行に参加したのが「垣花善・垣花清・与那覇蒲・与那覇松・与那覇蒲」の五名。彼らは嵐の中、八〇哩の大海洋をくり船に乗って命懸けで力漕し二十七日石垣に到着。「敵艦見ゆ」と打電した大任は日本戦史上に燦然と輝いています。
  この久松五勇士の功績を讃え銘菓「久松五勇士」を創り上げました。この銘菓は弊店独特の製法により、宮古黒糖の味と香りをそのまま生かしております。皆様にご満足頂けるものと存じ、今後ともご愛顧を賜ります様お願い申し上げます。

*1:近藤論文によればササン朝ペルシャのホスロー1世のこと。

*2:京都大学人文科学研究所准教授。著書『中華と対話するイスラーム:17〜19世紀中国ムスリムの思想的営為』(2013年、京都大学学術出版会:サントリー学芸賞2013年受賞作。)

*3:著書『中国を追われたウイグル人:亡命者が語る政治弾圧』(2007年、文春新書)など

*4:著書『現代ロシアを読み解く』(2002年、ちくま新書)など

*5:阿部克彦氏によればそのため最近では「ポロネーズ絨毯」とはあまり呼ばなくなっているという。

*6:原文のまま。公家や大名のことか?

*7:著書『文化の枢軸:戦前日本の文化外交とナチ・ドイツ』(2018年、九州大学出版会)

*8:香川照之上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦王中将役:皇族のため戦犯追及は免れたがその立場上、皇族でなければ松井同様死刑になっても不思議はなかったとされる)、杉本哲太(第16師団長・中島今朝吾中将役:終戦直後、病死)、柄本明(中支那方面軍司令官・松井石根大将役:東京裁判で死刑)が出演してるそうです。

*9:英仏はドイツとの軍事衝突を恐れ進駐を事実上容認しましたが、それは別に「積極的に肯定した」わけではなく「消極的容認」にすぎません。

*10:著書『アメリカの太平洋戦略と国際信託統治:米国務省の戦後構想1942〜1947』(2013年、法律文化社

*11:1797〜1888。1861年プロイセン王に即位。ドイツ統一戦争に乗り出し、1871年普仏戦争の勝利で初代ドイツ皇帝に即位してドイツ統一を達成した。ビスマルクとはしばしば意見対立しながらも、死去するまで彼を首相として重用し続けた。

*12:池上氏は「1937年」という時代から「日独の政治的接近」を背景に「昔から日独は友好関係にあった」とアピールする政治的狙いがあったのではないかとみている。

*13:1894〜1984年。宮古島市出身。日本公認会計士協会初代副会長。

*14:貴族院議長、首相を歴任。戦後、戦犯指定を受けたことを苦にして自決。

*15:「竹下内閣のふるさと創生1億円事業」の時期であり、「いわゆるリゾート法(1987年成立)によるリゾートブーム」の時期です。

*16:2000年、同時代社