東京新風倶楽部 映画上映会(2月9日)のお知らせ 「上海陸戦隊」(昭和14年) | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
「排外主義極右」維新政党・新風のイベントなど平然と紹介できる辺り、「新風シンパ」三浦はまともではありませんがそれはさておき。
昭和12(1937)年は盧溝橋事件、通州事件(ともに7月)が起きた年でもあり、8月の上海事変、そして12月の南京陥落と激動の時代が続いていきます。
通州事件とは書いても「南京事件」「南京虐殺」とは書かず「南京陥落」としか書かない辺り、さすが「敵に厳しく自分に甘い」「つくる会理事として南京事件否定論に加担する歴史修正主義右翼」三浦だけのことはあります。
「日本の戦争は正しい。蒋介石が全て間違ってる」とする完全な国策プロパガンダ映画のようです。
今となってはこんなもんを喜んでみるなんて正気の沙汰ではありません。原節子にとっても黒歴史でしかないでしょう。
戦後は、
・『わが青春に悔なし』(黒澤明監督、1946年)
・『お嬢さん乾杯』(木下惠介監督、1949年)
・『青い山脈*2』、『続・青い山脈』(今井正監督、1949年)
・『晩春*3』(小津安二郎監督、1949年)
・『白痴*4』(黒澤明監督、1951年)
・『麦秋』(小津安二郎監督、1951年)
・『めし*5』(成瀬巳喜男監督、1951年)
・『東京物語』(小津安二郎監督、1953年)
・『山の音*6』(成瀬巳喜男監督、1954年)
・『東京暮色』(小津安二郎監督、1957年)
・『秋日和』(小津安二郎監督、1960年)
・『小早川家の秋』(小津安二郎監督、1961年)
などでスターになる原ですがこの頃(1939年)は「まだ売れてなかった」上に監督(熊谷久虎)が「義理の兄」では端役でも出演を断れる立場にないわけです。
若き日の原はこの作品『上海陸戦隊』(1939年)以外にも
◆日独合作国策映画『新しき土』(アーノルド・ファンク監督(ドイツ人、ナチス党員)、1937年)
『新しき土』とは満州のことを指しており、ラストシーンも日本の満州進出を喧伝するものになっている(ウィキペディア『新しき土』参照)。
◆『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎監督、1942年)
◆『決戦の大空へ』(渡辺邦男監督、1943年)
など戦意高揚映画、国策映画に多数出ています(ウィキペディア『原節子』参照)。別にそれをネタに原を「戦争賛美に加担した」とあげつらいたいわけではなく、「そう言う時代だった」ということですね。
当時はそう言う国策映画が多数作られた時代であり、そうした国策映画に「まだ売れてない若き日の原」が出演拒否できる時代でもなかったと言うことです。
なお、日独合作国策映画「新しき土」(1937年公開)ですが、1937年当時の原節子(1920~2015年)はまだ17歳であり、デビューが1935年(15歳)です。それが国策映画のヒロインですから大抜擢とは言えるでしょう。
◆新しき土(ウィキペディア参照)
1937年3月26日に原はベルリンに到着。アドルフ・ヒトラー総統はじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたという。ドイツ宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された(ちなみに日独合作映画『新しき土』の製作は、11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国政府関係者の往来をカモフラージュする目的もあったといわれる)。
という面白エピソードもあります。
とはいえ今となっては完全に忘れ去られた映画です。こんな映画を知ってるのはよほどの映画通(原節子がヒロインとして出演、伊丹万作*7が脚本を担当)か、よほどのナチドイツマニアぐらいのもんでしょう。
そりゃ当たり前でしょう。「日独合作で満州国正当化」なんて映画は今見て面白いわけもないし、政治的にも問題がありすぎます。