新刊紹介:「歴史評論」2月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『国家論ふたたび:戦争と国家』
◆国家論をひらく:軍事・戦争、国際関係を組み込んだ関係論へ(小林啓治*1
(内容紹介)
 「軍事・戦争、国際関係を組み込んだ国家論」として、チャールズ・ティリー、マイケル・マン*2アンソニー・ギデンズ*3、フレッド・ハリディ*4の国家論に触れた上で、筆者の見解が述べられていますが小生の無能のため詳細の紹介は省略します。


北魏国家における戦争(岡田和一郎)
(内容紹介)
 北魏において戦争による領土拡大がされた理由を「北魏指導層(鮮卑)が遊牧民だったが、遊牧国家を脱し、農耕を基盤とし、きちんとした官僚制度に基づく国家運営を目指したから」と論じている。
 1)農耕に基盤を置くためには「農耕に適した土地」とともに「農業技術を有する漢民族」を支配下に置く必要があった
 2)きちんとした官僚制度に基づく国家運営を行うには「そうしたノウハウを有する漢民族」を支配下に置く必要があった
ということである。
 なお、当初、「征服した漢民族」は「新民」と呼ばれ、鮮卑とは異なる統治を受けていたが、「鮮卑の漢化」「行政の簡略化」を目指す第6代皇帝の孝文帝により「三長制(そうした民族別統治をしない統治法)」が導入され民族別統治制度は廃止された。

参考

北魏ウィキペディア参照)
 第6代皇帝の孝文帝の時代、儒教的礼制を採用し、均田制を施行し、三長制を確立した。孝文帝の漢化政策鮮卑の服装や言語の使用禁止、漢族風一字姓の採用など、いずれも鮮卑漢人の融合政策だったが、鮮卑人の反発を呼び起こし、のちの六鎮の乱の伏線となった。


◆中世前期「将軍」少考(大島佳代)
(内容紹介)
 鎌倉幕府・将軍職に求められる能力について「吾妻鏡」など、同時代資料を基に論じられている。
 源平合戦時代は「平氏奥州藤原氏」を軍事的に打倒することが鎌倉幕府将軍に求められていたため、「幕府将軍(征夷大将軍)に求められる能力」はもっぱら「軍事的才覚」とされ「儒教的人徳や行政能力」は後ろに退いた。
 しかし、平氏奥州藤原氏鎌倉幕府(初代将軍・源頼朝)により打倒されると、逆に「儒教的人徳や行政能力*5」が「幕府将軍に求められる能力」となり、軍事的才覚は後ろに退くようになる。
 三代将軍・源実朝暗殺以降、いわゆる「摂家将軍」、「宮将軍」が登場したのもそうした価値観の変化も背景にあると見られる。
 「軍事的才覚の必要性」が下がったが故に「摂家将軍」、「宮将軍」が正当化されたとみられる(もちろん『家柄の低さから将軍になれない(源氏、平氏の家柄でないと将軍になれない)』と見なされていた北条氏が、お飾りの将軍を付けた上で執権として実権を握りたいという現実的利益も「摂家将軍」、「宮将軍」にはあったが。徳川家康が『源氏の子孫』と家系捏造したのもそれが理由と考えられている)。


◆イタリア同盟における戦争と諸国家システム:一五世紀イタリア半島の政治空間(佐藤公美*6
(内容紹介)
 「ローディの和」によって誕生したイタリア同盟について論じられている。
 イタリア同盟成立後もフェッラーラ戦争(1482~1484年)など五大国が戦火を交える事態はあったが、
1)イタリア同盟自体は破棄されなかったこと
2)戦争について(たとえ詭弁であろうとも)イタリア同盟に反しない行為として正当化がされたこと
に注意が必要だとされている。
 たとえるなら「国連憲章に反する疑いのある軍事行動」が現在、シリアなどでされても米国やロシアなどが公然と「国連憲章違反で何が悪い」と居直らないのと同じような状況が出現していたといえる。
 また、「五大国間の戦争」は原則として否定されたが「五大国内部の紛争」については何の定めもないため、「五大国内部の反対勢力を支援すること(現在の例で例えると、たとえば米国がシリア内部の反体制勢力を支援すること)」には特に制約は無かった事にも注意が必要である。
 そのため「キリスト教権威を利用してローマ教皇国が実際にナポリ王国の反対派を支援する」と言うことも起こっている。

参考

◆ローディの和(ウィキペディア参照)
 15世紀イタリアの五大国が1454年にローディにおいて結んだ和平協定。イタリアの諸都市国家間の戦争に終止符を打った。
 イタリアはそれまでルネサンスの時代を迎えていたが、一方でイタリアの覇権を巡って戦乱の絶えない時代でもあった。しかし1453年、東ローマ帝国が大国として著しい台頭をしたオスマン帝国に滅ぼされると(東ローマの首都コンスタンティノープル*7の陥落)、イタリア諸都市国家はにわかに危機感を強めることとなった。翌1454年イタリアで当時五大国と知られていた国々(フィレンツェ共和国*8ミラノ公国ヴェネツィア共和国ローマ教皇国、ナポリ王国)がローディに集結し協定が結ばれた。
 この和平協定によってイタリアは、諸都市国家間の戦乱の時代に終わりを告げ、その後40年間に及ぶ「イタリアの平和」をもたらすことになった。またルネサンス(盛期ルネサンス)も最盛期を迎えることになる。


◆書評:稲田雅洋*9著『総選挙はこのようにして始まった*10』(評者・久野洋)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

総選挙はこのようにして始まった 稲田雅洋著 「地主議会」との定説に異論 :日本経済新聞
 1890年(明治23年)にあった帝国議会の初の衆院選は、高額納税者を対象にした制限選挙であり、誕生したのは「地主議会」だった。この定説に異論を唱える本が現れた。
 著者は長年、自由民権運動を研究してきた社会学者。立候補するには直接国税を15円以上納税していなくてはならないという高いハードルにおよそ届かない中江兆民*11尾崎行雄*12ら民権活動家がどうやって当選し得たのかという疑問に突き当たり、日本初の選挙の実態を徹底的に調べ上げた。
 当選者の6人にひとりは納税額18円未満であり、民権運動の同志に支えられていた。定説が生まれたのは、ロシア革命を下敷きにしたコミンテルン32年テーゼに学界が戦後も影響されていたため、と指摘する。
 有権者の比率が1%しかなかったのは事実だが、そもそも未成年を含む全人口と比べる必要はなく、1925年に普通選挙になってからも比率は2割未満だったので、1%が著しく小さかったわけではない、などの分析も興味深い。

有志舎9月新刊は、稲田雅洋さん著『総選挙はこのようにして始まった-第一回衆議院議員選挙の真実-』(本体3400円+税)。 - 有志舎の日々
 この本は、1890年(明治23年)の第一回衆議院議員総選挙の実態を克明に描いた本です(「第一回総選挙クロニクル」と言ってよいかも)。
まず驚くのは、第一回の総選挙というものは現在のものとは随分違っていたということです。
 何よりも驚くのは、直接国税15円以上を収めていないと候補者にもなれない制限選挙制だったのですが、貧乏な候補者には支持者たちがこぞって自分たちが持っている僅かな土地の名義を候補者名に変えて(財産の権利を放棄して)、被選挙人資格を候補者に得させていたということ。
 中江兆民河野広中*13といった自由民権の闘士たちは、弁はたっても貧乏だったり、運動で長く獄中にあったりしたので、支持者たちが勝手連的に自分たちの財産を兆民たちに譲って、「我らの代表」として国会に送り出していたのです。
 つまり、人々が「国政を任せたい」と思う人を自力で国会議員にするのが当たり前だったということです。
 代議制というものの原点がここにはあるのではないでしょうか? ここを読んだとき、私は感動で涙してしまいました。
 しかも、兆民の場合は支持者も裕福ではなく、被差別部落の人々もいて「我ら部落民のために」という思いで僅かな財産・土地を集めて兆民の名義に書き換え、それで彼を当選させたのです。
 だから、兆民が第一議会で「土佐派の裏切り」にあったとき、国会を「無血虫の陳列場」と罵倒した怒りの意味も分かりました。

*1:京都府立大学教授。著書『国際秩序の形成と近代日本』(2002年、吉川弘文館)、『総力戦とデモクラシー』(2007年、吉川弘文館)、『総力戦体制の正体』(2016年、柏書房)など

*2:著書『ソーシャルパワー(1)』(2002年、NTT出版)、『ソーシャルパワー(2)』(2005年、NTT出版

*3:著書『国民国家と暴力』(1999年、而立書房)など

*4:著書『国際関係論再考』(1997年、ミネルヴァ書房

*5:もちろんそこには鎌倉幕府の設置により、幕府を運営するための儒教的人徳や行政能力が求められたという側面があります。

*6:甲南大学教授。著書『中世イタリアの地域と国家:紛争と平和の政治社会史』(2012年、京都大学学術出版会)

*7:現在のイスタンブル

*8:後にフィレンツェ公国トスカーナ大公国を経てサルデーニャ王国に吸収された

*9:東京外国語大学名誉教授。著書『日本近代社会成立期の民衆運動:困民党研究序説』(1990年、筑摩書房)、『自由民権の文化史』(2000年、筑摩書房)、『自由民権運動の系譜』(2009年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*10:2018年、有志舎

*11:著書『一年有半・続一年有半』、『三酔人経綸問答』(以上、岩波文庫)など

*12:第1次大隈内閣文相、第2次大隈内閣司法相など歴任

*13:第2次大隈内閣で農商務大臣