三浦小太郎に突っ込む(2020年1月29日分)

[南モンゴルの風」にて、関岡英之氏の「帝国陸軍 知られざる地政学戦略」(祥伝社)から、モンゴル独立を通じたアジアの解放を夢見た軍人を紹介 | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 ウィキペディア関岡英之」によれば関岡は2019年に「虚血性心不全」で死去したそうで、三浦が関岡を取り上げた理由の一つは関岡の死去でしょう。
 関岡は「1961年生まれ(つまり享年58歳)」ですから「平均寿命80歳時代」においては早死にと言えるでしょう。
 それにしても日本こそが「日中戦争(中国侵略)」「太平洋戦争(東南アジア侵略)」でアジア侵略していたのに「日本によるアジア解放」とは三浦もいつもながら酷いデマゴーグです。

 正直、南モンゴル*1の問題はウイグルチベットほどは知られていないのが現実

 まあ楊海英・静岡大教授が『墓標なき草原:内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上・下)(2009年、岩波書店→後に2018年、岩波現代文庫)により2012年に司馬遼太郎賞を取ってからはいくらかは知られてきたと思います。
 ただし、困るのは日本における内モンゴル研究の草分けの一人であるらしい楊が司馬賞受賞後、「こいつは反中国に使える!」とスカウト(?)してきた三浦らウヨの要請に応じ

・『狂暴国家 中国の正体』(2014年、扶桑社新書
・『「中国」という神話:習近平「偉大なる中華民族」のウソ』(2019年、文春新書)
・『独裁の中国現代史:毛沢東から習近平まで』(2019年、文春新書)

といった反中国本を出す*2とともに、三浦らウヨ連中と公然と野合してることですね。その結果、楊は2018年には産経の「正論新風賞」を受賞しています。こんな賞はもらっても軽蔑されるだけなのですが。

【参考:楊の正論新風賞受賞】

正論大賞に西修氏、百地章氏 新風賞に楊海英氏 - 産経ニュース
・自由と民主主義のために闘う「正論路線」を発展させた言論活動に贈られる正論大賞に、駒沢大学名誉教授の西修*3(78)と国士舘大学特任教授の百地(ももち)章氏*4(72)が決まった。新進気鋭の言論人に贈られる正論新風賞には静岡大学教授、楊海英(よう・かいえい)氏(54)が選ばれた。3氏はともに産経新聞「正論」執筆メンバー。
・楊氏は内モンゴル出身の文化人類学者で、日本名は大野旭(あきら)。日中両国で学んで培われた深い知識と見識に裏付けられた日中関係論に加え、中国当局がタブー視する文化大革命ウイグル問題などに果敢に切り込む姿勢が評価の対象となった。

西修氏「真剣に改憲を考えて」百地章氏「残された時間少ない」 正論大賞贈呈式 - 産経ニュース
 楊氏は「日本もモンゴルも他力本願的なところがある」と、日本が一度の敗戦で必要以上に内向きになってしまっている状況を指摘。「モンゴル、ウイグルチベットの運命を考えながら学生に教え、執筆している」と、研究にかける思いを述べた。

【参考終わり】

 松室孝良*5大佐が1933年に関東軍に提出した「蒙古国建設に関する意見」から、関岡英之*6が「帝国陸軍 知られざる地政学戦略*7」(祥伝社)で伝えている部分を少し引用します。
「それは、驚嘆すべき内容だった。満州帝国の姉妹国として、内モンゴル全域を領土とし、チベット仏教*8を国教とする「蒙古国」を樹立せよ、という提案だったのだ」

 「松室大佐の主観」が「仮に内モンゴル独立を目指す善意」であったとしても*9、その蒙古国とやらはできたとしても「日本中央政府の思惑」から「満州国汪兆銘政権などと同様の日本の傀儡国家」にしかならなかったでしょう。
 そして実際にはそんなもんはできなかったわけです。
 いずれにせよ「満州国の一部」が「内モンゴル」であったがゆえに内モンゴル人は独立にせよ、自治にせよ
1)(ソ連外モンゴル英米蒋介石中国などの力を借りた上で)日本をまず打倒するか
2)日本の力を借りるか
どちらかしかありませんでした。
 2)をやったのが有名な徳王*10や、楊が『最後の馬賊:「帝国」の将軍・李守信*11』(2018年、講談社)で取り上げた徳王の部下・李ですが彼らは日本の敗戦により失脚しました。
 1)についていえば、最終的には『中国とモンゴルのはざまで:ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(2013年、岩波現代全書)で楊が取り上げた内モンゴル人の中国共産党幹部ウラーンフー(ウランフ*12)の元で「中国国内での民族自治内モンゴル自治区)」となるわけです。

 このような展望を持ちえた軍人がいたこと、ある意味、戦前のほうが、はるかに日本には「国際人」が多かったことの証明ではないでしょうか。

 吹き出しました。松室氏の「内モンゴル独立計画」が国際的かどうかはともかく、今の方が「国際人が多い」でしょう。
 当時の日本人の多くは「米国の国力」についてろくな理解などありません。だからこそ「太平洋戦争開戦」を支持した。今、米国相手に戦争しようと思う日本人はまず居ないでしょう。むしろ問題なのは「日米安保に疑問を持たない」など米国万歳の日本人が多すぎることでしょう。
 まあ「米国万歳」もある意味では「米国以外の国に目が向いてない→だから安倍の嫌韓国を容認する」と言う意味で「反国際的」ですがそれでも戦前よりはマシではないか。

 真の国際感覚というのは、国家、民族、信仰といった問題から目を背けては逆に成り立たないことも、歴史は私たちに教えてくれるように思えます。

 「はあ?」ですね。そもそも誰が「国家、民族、信仰といった問題から目を背け」ようなどと言ってるのか。
 戦前日本の国家主義国家神道への批判はそう言う話ではない。むしろ「批判=直視」ですしね。
 一方で「内モンゴル(あるいはモンゴル)の歴史」を語る際に「ボグド・ハーンがチベット仏教の活仏だったこと」など、「チベット仏教」について必ずしも語られないのは単に「モンゴル専門家を除けばそうした知識がないから」にすぎません。別に宗教から目を背けてるわけではない。

*1:内モンゴルのこと

*2:一方で著書名や出版社名を見る限りまともそうな『中国とモンゴルのはざまで:ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(2013年、岩波現代全書)、『日本陸軍とモンゴル:興安軍官学校の知られざる戦い』(2015年、中公新書)、『「知識青年」の1968年:中国の辺境と文化大革命』(2018年、岩波書店)、『最後の馬賊:「帝国」の将軍・李守信』(2018年、講談社)、『モンゴル人の中国革命』(2018年、ちくま新書)といった本も出してることを公平のために指摘しておきます。

*3:著書『日本国憲法を考える』(1999年、文春新書)、『日本国憲法はこうして生まれた』(2000年、中公文庫)、『憲法改正の論点』(2013年、文春新書)など

*4:日本会議政策委員、国家基本問題研究所理事、「21世紀の日本と憲法有識者懇談会(民間憲法臨調)事務局長、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」幹事長などを歴任したプロ右翼活動家。著書『政教分離とは何か』(1997年、成文堂)、『靖国憲法』(2003年、成文堂)、『憲法の常識 常識の憲法』(2005年、文春新書)、『憲法と日本の再生』(2009年、成文堂)、『緊急事態条項Q&A』(2016年、明成社)、『これだけは知っておきたい「憲法9条と自衛隊明記」Q&A』(2018年、明成社)など

*5:1886~1969年。騎兵第1連隊長、チチハル特務機関長、熱河特務機関長、第7師団(満州)参謀長、北平特務機関長、騎兵第4旅団長など歴任(ウィキペディア「松室孝良」参照)

*6:著書『拒否できない日本:アメリカの日本改造が進んでいる』(2004年、文春新書)、『奪われる日本』(2006年、講談社現代新書)、『中国を拒否できない日本』(2011年、ちくま新書)、『国家の存亡:「平成の開国」が日本を亡ぼす』(2011年、PHP新書) など

*7:2019年刊行

*8:ただし当時の日本はチベット仏教を「ラマ教」と呼んでいたので松室の原文も「ラマ教」と書かれている。

*9:もちろん単に「蒋介石政権や外モンゴル外モンゴルを支援するソ連に対する揺さぶり」という党利党略の可能性もありますが

*10:1902~1966年。1936年2月10日に関東軍の支持の下蒙古軍政府が成立すると徳王は総司令・総裁に就任。盧溝橋事件の後に日本は内蒙古方面へ本格的に出兵し、1937年10月28日に蒙古聯盟自治政府を成立させた。当初、雲王(ユンデン・ワンチュク、1871~1938年)が主席となり、翌年3月に雲王が病没すると、徳王が後任の主席となった。蒙古聯盟自治政府は、1939年9月1日に察南自治政府・晋北自治政府と合併し蒙古聯合自治政府(1941年8月4日に蒙古自治邦政府と改称)となり、徳王が引き続き主席を務めた。名目としては汪兆銘政権下の自治政府という位置づけだった。1949年に中国人民解放軍が北平(のちの北京)を占領すると脱出して蒋介石の中国国民政府に再度内蒙古自治を要求。1949年4月13日には蒙古自治準備委員会を結成して副委員長、8月10日には蒙古自治政府を設立して主席となった。その後モンゴル人民共和国接触を重ね、1950年にモンゴル人民共和国首相チョイバルサンは内外モンゴル統一を構想していたことからその誘いに応じ徳王はモンゴル人民共和国に亡命。当初は徳王は監視されながらもモンゴル人民共和国当局に歓迎され高待遇を受けていたがソ連と中国の反発から徳王に政治的利用価値がないと判断したモンゴル人民共和国当局によって逮捕されて中国に引き渡され、戦犯として禁固刑と思想改造を受けた。1963年の特赦で釈放された後、1966年に肝臓病で死去。著書『徳王自伝』(1994年、岩波書店)(ウィキペディア「デムチュクドンロブ」参照)

*11:1892~1970年。1936年2月、徳王(デムチュクドンロブ)が蒙古軍総司令部を創設すると、李守信もこれに参与し、副総司令兼軍務部長に就任した。同年5月、蒙古軍政府が成立すると、李は参謀部長に任命された。1937年10月、日本軍の援助により蒙古聯盟自治政府が成立すると李は蒙古軍総司令に就任。1939年9月、蒙古聯合自治政府が成立すると、李は引き続き蒙古軍総司令をつとめた。1940年1月、李は蒙古聯合自治政府代表として、南京国民政府代表の周仏海と会談し、自治権をめぐる交渉を行っている。その結果、南京国民政府を正統の中央政府と承認し、その地方政権となる一方で、蒙古聯合自治政府は(1) 高度な自治、(2) チンギス・カン紀元の年号の使用、(3) 蒙古聯合自治政府旗の使用等を許可された。1941年6月、蒙古聯合自治政府が蒙古自治邦に改められると、副主席に就任。1949年、蒋介石政府の敗色が濃厚になると、李は一時台湾へ逃亡したが、その後、徳王の勧誘に応じて内モンゴルに引き返す。同年8月に蒙古自治政府が成立すると、政務委員兼保安委員会副委員長となった。同年12月中旬にはモンゴル人民共和国首相チョイバルサンの招きに応じた徳王とともにモンゴル人民共和国に亡命した。当初は監視されながらもモンゴル人民共和国当局に歓迎され高待遇を受けていたがソ連と中国の反発から李や徳王に政治的利用価値がないと判断したモンゴル人民共和国当局によって、1950年9月、逮捕され、徳王とともに中国に引き渡され、収監され思想改造を受けた。1964年12月28日、特赦によって李は釈放され、1970年5月、病没(ウィキペディア「李守信」参照)。

*12:1906~1988年。新中国建国後、内モンゴル自治区党委員会第一書記、自治区人民委員会主席、内モンゴル軍区司令員兼政治委員、内モンゴル大学学長、内モンゴル自治区政治協商会議主席など要職を務めるが文革で一時失脚。文革後、復権し、全国人民代表大会常務副委員長、党中央統一戦線工作部部長、全国政治協商会議第一副主席、中国国家副主席など歴任(ウィキペディア『ウランフ』参照)。