三浦小太郎に突っ込む(2020年2月10日分)(注:映画『ノンちゃん雲に乗る』のネタばらしがあります)

「上海陸戦隊」上映会へのご参加ありがとうございました | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 三浦小太郎に突っ込む(2020年1月16日分) - bogus-simotukareのブログで紹介した三浦記事東京新風倶楽部 映画上映会(2月9日)のお知らせ 「上海陸戦隊」(昭和14年) | 三浦小太郎BLOG Blue Moonの続きです。

 関心を持って拡散などしてくださった皆様、誠にありがとうございました。かなり寒い気候の中、15名ほどの方が参加してくださいました。

 拡散をしたというのが事実なら不特定多数に宣伝したわけですが、それで「参加者15人」つうのは「ええ?」ですね。
 そもそも何人募集していたのか。15人しか最初から募集していなかったのか、はたまたもっと多かったのに「15人しか集まらなかった」のか。
 どっちにしろこれではもはや「上映会」と呼べる代物ではないし、「不特定多数の募集をかけること」に意味があるのかすら怪しい。
 結局の所、「三浦の知り合い(ウヨ活動仲間)に声をかけていつもの特定メンバー」という話ではないのか。

 「上海陸戦隊」を上映したかったのは、原節子という女優を少し多角的に見てほしかったという思いもあります。彼女がなくなった時、日本映画史に残る偉大な女優として讃えられたのは勿論何ら異論はなかったのですが、私の見たり読んだりした限り、彼女の作品としては、戦後の小津安二郎との作品ばかりが取り上げられる傾向があったように思います。

 三浦小太郎に突っ込む(2020年1月16日分) - bogus-simotukareのブログでも紹介しましたが

・『わが青春に悔なし』(黒澤明監督、1946年)
・『安城家の舞踏会』(吉村公三郎監督、1947年)
・『お嬢さん乾杯』(木下惠介監督、1949年)
・『青い山脈*1』、『続・青い山脈』(今井正監督、1949年)
・『晩春*2』(小津安二郎監督、1949年)
・『白痴*3』(黒澤明監督、1951年)
・『麦秋』(小津安二郎監督、1951年)
・『めし*4』(成瀬巳喜男監督、1951年)
・『東京物語』(小津安二郎監督、1953年)
・『山の音*5』(成瀬巳喜男監督、1954年)
・『ノンちゃん雲に乗る』(倉田文人監督、1955年)
・『東京暮色』(小津安二郎*6監督、1957年)
・『智恵子抄』(熊谷久虎監督、1957年)
・『秋日和』(小津安二郎監督、1960年)
・『小早川家の秋』(小津安二郎監督、1961年)
・『娘と私』(堀川弘通監督、1962年)獅子文六の妻・千鶴子(獅子文六の自伝の映画化)
・『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩監督、1962年)大石内蔵助の妻・りく(原が出演した最後の映画作品)

ということで「戦後において出演作品は小津作品ばかりではない(今井正木下恵介黒澤明成瀬巳喜男作品などにも出演)」のですが、やはり代表作というと小津なんですかね。
 それはともかく、三浦小太郎に突っ込む(2020年1月16日分) - bogus-simotukareのブログでも指摘しましたが、そりゃ戦前の作品においては彼女の出演映画は

◆『河内山宗俊』(山中貞雄監督、1936年)
◆日独合作国策映画『新しき土』(アーノルド・ファンク監督(ドイツ人、ナチス党員)、1937年)
 『新しき土』とは満州のことを指しており、ラストシーンも日本の満州進出を喧伝するものになっている(ウィキペディア『新しき土』参照)。
◆『忠臣蔵』前後編(滝沢英輔山本嘉次郎監督、1939年)
◆『上海陸戦隊』(熊谷久虎監督、1939年)
◆『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎監督、1942年)
◆『決戦の大空へ』(渡辺邦男監督、1943年)

ということで「端役が多い」あるいは「それなりに重要な役の場合でも、国策映画出演が多くつまらない(かつ太平洋戦争、日中戦争美化なので政治的にも適切でない)」から戦後は語られないでしょうよ。
 「上海陸戦隊」は三浦曰く

原節子は中国人避難民の女性を演じ、最初のうちは、日本軍が渡そうとする食糧を拒否し、受け取ろうとする避難民女性たちを「そんな敵のものを受け取っちゃいけない」と激高するかたくなな姿を演じています。
 その彼女が、次第に日本軍の優しさに目覚め、兵士の無事を祈るようになり、そっと最期の突撃を見守る

というのだから完全な日本軍美化映画です。原にとって黒歴史でしかないでしょう。
 まあ、「戦前美化右翼」三浦の場合、そうした「戦争美化国策作品の原節子」こそを宣伝したいのでしょうが。
 単に三浦が

原節子という女優を少し多角的に見てほしかったという思いもあります。彼女がなくなった時、日本映画史に残る偉大な女優として讃えられたのは勿論何ら異論はなかったのですが、私の見たり読んだりした限り、彼女の作品としては、戦後の小津安二郎との作品ばかりが取り上げられる傾向があった

というだけなら「日本軍美化の国策映画」ではなく

・『河内山宗俊』(山中貞雄*7監督、1936年)
・『忠臣蔵』前後編(滝沢英輔*8山本嘉次郎*9監督、1939年)
・『わが青春に悔なし』(黒澤明*10監督、1946年)
・『安城家の舞踏会』(吉村公三郎*11監督、1947年)
・『お嬢さん乾杯』(木下惠介*12監督、1949年)
・『青い山脈』、『続・青い山脈』(今井正*13監督、1949年)
・『白痴』(黒澤明監督、1951年)
『めし』成瀬巳喜男*14監督、1951年)
・『山の音』(成瀬巳喜男監督、1954年)
・『ノンちゃん雲に乗る』(倉田文人監督、1955年)
・『智恵子抄』(熊谷久虎監督、1957年)
・『娘と私』(堀川弘通*15監督、1962年)獅子文六の妻・千鶴子(獅子文六の自伝の映画化)
・『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩*16監督、1962年)大石内蔵助の妻・りく(原が出演した最後の映画作品)

などという「国策映画でない」「小津映画以外の作品」を取り上げればいい話です。
 なお、以前三浦小太郎に突っ込む(2020年1月16日分) - bogus-simotukareのブログでも紹介しましたが原の「戦前最大の出世作」は、日独合作国策映画『新しき土』(1937年公開)です。1937年当時の原節子(1920~2015年)はまだ17歳であり、デビューが1935年(15歳)です。それが国策映画のヒロイン(主演女優)ですから大抜擢とは言えるでしょう。

◆新しき土(ウィキペディア参照)
 1937年3月26日に原はベルリンに到着。アドルフ・ヒトラー総統はじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたという。ドイツ宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された(ちなみに日独合作映画『新しき土』の製作は、11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国政府関係者の往来をカモフラージュする目的もあったといわれる)。

という面白エピソードもあります。
 とはいえ今となっては完全に忘れ去られた映画です。こんな映画を知ってるのはよほどの映画通(原節子がヒロインとして出演、伊丹万作*17が脚本を担当)か、よほどのナチドイツマニアぐらいのもんでしょう。
 そりゃ当たり前でしょう。「日独合作で満州国正当化」なんて映画は今見て面白いわけもないし、政治的にも問題がありすぎます。

 監督の熊谷は、原節子と共に30年代のドイツやアメリカを旅し、その地での有色人種へのひどい差別を肌身で体験、帰国後は「スメラ塾」という神秘主義的な日本主義の団体に参加していきます。しかし、作家がイデオロギーや政治に走れば作品としての完成度は落ちていくことが多く、この「上海陸戦隊」が熊谷としては最後の成功作で、以後やはり原節子を出演させた「指導物語」は失敗に終わりました。
 その後は映画よりも政治運動、思想運動に身を置くようになりましたが、敗戦後は戦争協力者として批判を受け、ほとんど沈黙を守りつつ隠遁生活を送り、80年代に亡くなりました。彼は戦後の原節子の活躍をどう見ていたのか、そのことだけは書き残してほしかった気もしますが、逆に、沈黙のうちに去ることこそふさわしいと思っていたのかもしれません。

 ウィキペディア熊谷久虎」「原節子」によれば熊谷は原の「義兄(原の姉の夫)」で、どこまで本気なのか(つまり『映画業界の先輩に当たる人物の上に義兄』では馬鹿にするわけにもいかず適当に調子を合わせた可能性があると言うことですが)はともかく、原も戦中は「熊谷的なトンデモ極右発言があった」らしいです。
 なお、戦後、熊谷は映画製作をしなかった、原ともつながりがなかったかのように書く三浦ですが、ウィキペディア熊谷久虎」「原節子」によれば

◆白魚(1953年)*18
◆ノンちゃん雲に乗る(1955年)
◆あらすじ
 8歳の女の子、田代信子(ノンちゃん)は、ある春の朝、お母さんと兄ちゃんが自分に黙って出かけたので、悲しくて泣いていた。木の上からひょうたん池に映る空を覗いているうちに、誤って池に落ちてしまう。気がつくとそこは水の中の空の上。雲の上には白いひげを生やしたおじいさんがいて、熊手ですくって助けてくれた。ノンちゃんはおじいさんに、自分や家族の身の上を打ち明ける。
◆スタッフ
・監督:倉田文人*19
・製作:熊谷久虎、中田博二*20
・原作:石井桃子*21
・配給:新東宝
◆キャスト
・ノンちゃん:鰐淵晴子
・お母さん:原節子
・お父さん:藤田進*22
・おじいさん:徳川夢声*23
◆エピソード
 1953年、映画『白魚』(熊谷久虎監督)の御殿場駅での撮影中に原の眼前で実兄・会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手・伊藤哲夫と共に列車にはねられ不慮の死を遂げるという悲劇に遭った。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり引退をささやかれるようになった。しかし、1955年、『ノンちゃん雲に乗る』で復帰、引退説を払拭した。この映画で初めて母親役を演じた。
智恵子抄(1957年)
◆スタッフ
・監督:熊谷久虎
・製作:田中友幸*24
・配給:東宝
◆キャスト
高村光太郎山村聡*25
高村智恵子原節子

ということで熊谷が制作者(プロデューサー)や監督ですし、上に書いたように原も出演しています。
 「戦後、失意のウチに死んだ」と思わせたいが故に、三浦が「熊谷による映画製作」を故意に隠してる気がしますね。
 まあ、ウィキペディア熊谷久虎」「原節子」を見るだけで分かることを隠すとは「三浦も姑息な野郎だ」とは思います。
 まあ、「どういう経緯で熊谷が映画製作に関わったのか」「こうした映画製作について熊谷がどう思っていたか」「興行的に成功したり、当時の映画評論家に高い評価をされたりしたのか」など詳しいことが分からないとなんとも言えませんが、果たして、戦後、三浦が言うほど隠遁生活だったのかどうかは疑問符がつくかと思います。


【参考:ノンちゃん雲に乗る】

ノンちゃん 雲に乗る
・この『ノンちゃん雲に乗る』がぼくの子供時代のバイブルだった。
・また、絵本でない最初の書物でもあった。
 童話にしてはやたらに長い。10ポの活字で250ページにおよぶ。漢字も多かった。今はその当時の本が手元にないのでわからないのだが、それでも簡約版やリライト本を読んだのではなく、原作をそのまま読んだのだとおもう。総ルビだった。
・それがさて何歳のときのことだったかはっきりしないのだが、いま調べると、大地書房の『ノンちゃん雲に乗る』の初版本が昭和22年の1947年、第1回芸術選奨の文部大臣賞を受けたのが1951年のようだから、そのちょっとあとくらいだろう。7歳か8歳くらいのことだ。ともかくも、ぼくにとっては『ノンちゃん』こそが絵本ではなく書物といえるものを読んだ記念すべき第1弾だったのだ。
 ぼくはこれをきっかけに、アンデルセンやグリムや日本の昔話を、壺井栄の『二十四の瞳*26』や『柿の木のある家』や『母のない子と子のない母と*27』を、そして偕成社講談社の名作世界文学全集を片っ端から読むようになっていった。毎晩、読んだ。
 しかし曖昧な記憶もある。『ノンちゃん雲に乗る』はすぐに映画になった。ノンちゃんに扮したのはヴァイオリンが上手な天才少女と騒がれていた鰐渕晴子で、ぼくはこの銀幕のなかの美少女に魂を奪われるほどに恋をした。
・しばらくは寝ても醒めても鰐渕晴子だったのだ。だからひょっとするとこの映画の記憶のほうがぼくの読書体験を甘美なほうへひっぱっているのかもしれない。
石井桃子という人は、ぼくが尊敬している作家で翻訳者である。戦前から翻訳をしていて、ミルン*28の『クマのプーさん*29』、ドッジの『ハンス・ブリンカー*30』、ガーネットの『フクロ小路一番地*31』、バートンの『せいめいのれきし』や『ちいさいおうち』はみんな石井桃子の翻訳だった。新潮社にいたときは山本有三*32監修の「日本少国民文庫」の編集を担当し、岩波書店に移ってからは「岩波少年文庫」や「岩波子どもの本」を編集した。
 第55夜の「ドリトル先生」のところでも書いたように、あの翻訳を井伏鱒二にまかしたのも、出版したのも石井桃子だった。
・その石井桃子が満を持して創作童話にとりくみ、デビュー作として発表されたのが『ノンちゃん雲に乗る』である。あとで知ったことだが、かなり話題になった。
・ところで去年(2004)の「ユリイカ」1月号が『クマのプーさん』を特集し、巻頭に石井桃子のインタビューを載せていた。96歳になったというのに、美しく逞しい。アラン・ミルンの自伝の翻訳にとりくんでいる最中だという。
附記:
 石井桃子は1907年に浦和に生まれた。日本女子大の英文科の出身。20年ほど前に大阪児童文学館の開館記念に「はばたけ児童文学・石井桃子の世界から」という展示を見たのだが、その業績はまことに広い。作品・エッセイ・論文を読むには、河合隼雄*33天沢退二郎*34金井美恵子らが解説を担当した『石井桃子集』全7巻(岩波書店)がある。

ノンちゃん雲に乗る(1955)
 小学三年生のノンちゃん(鰐淵晴子)は、母(原節子)が無断で東京に行ってしまったのが悲しくて、泣き歩いていた。そんな自分を慰めようと木に登っていた所、池に落ちてしまう。そんな彼女を助けてくれたのは、雲の上に住む老人(徳川夢声)だった。
 石井桃子の原作を倉田文人監督が撮った。当時のベストセラーの映画化で、主演に「天才少女バイオリニスト」として売り出し中だった鰐淵晴子が出演するとあって、話題性には事欠かなかっただろう。鰐淵晴子は、その後本格的な女優として活躍したのを見ても分かるように、当時から非凡な容姿と演技力を見せつけている。対する徳川夢声も原作の雰囲気にあった老人の味をよく出した演技で応えている。
 当時の田舎の比較的裕福な農村の子供達の生活の様子が偲ばれる作品で、そのあたりも興味深い。

■日本映画の感想文■ノンちゃん雲に乗る
 体が弱いため東京から田舎に超してきたノンちゃん(鰐淵晴子)は、ノンちゃんに内緒で東京のおばあちゃんのところへ出かけたお母さん(原節子)とお兄ちゃんにおいてけぼりにされて号泣。空に浮かぶ雲のように東京へ飛んで行きたいなあと、木の枝にまたがって飛ぶまねをしていたノンちゃんは過って池に落ちてしまう。
 いつのまにか雲の上にいたノンちゃんは白髪のおじいさん(徳川夢声)と出会う。おじいさんは、常日頃からノンちゃんと仲の悪いデブも呼び寄せ、三人で仲良くおしゃべりをする。ノンちゃんが、デブがしょっちゅう自分をいじめること、お兄ちゃんが乱暴なこと、お父さん(藤田進)とお母さんが大好きなことを話すと、おじいさんはとても楽しそうに聞いてくれた。
 雲の上にはほかにもたくさんの「哀しい心」を持った人がいて、おじいさんはその人達を大きな「くまで」で拾い上げお話しを聞いてあげるのが仕事なのだと言う。ノンちゃんもその一人。雲の上の子供達と一緒に遊んだ後、ノンちゃんは家に帰って行った。
 気が付くとノンちゃんは布団に寝かされていた。池に落ちたノンちゃんを心配した飼い犬のエスが近所の人に知らせてくれたのだった。お母さんとお兄ちゃんとも会えたノンちゃんは元気になって学校へ行く。雲から戻って来たノンちゃんにとっては全てが新鮮で、デブもなんとなく優しくなったような気がする。ノンちゃんは世界中の人達のお話しを聞いて回っているおじいさんの事を懐かしく思い出していた。
 小さい頃の記憶というのは曖昧ですねえ。小学生の時以来、つい最近見直すまで「ノンちゃんは寝ていて夢を見た」と思い込んでまして、まさか私の知らないうちに(ボーガス注:池に落ちて?)生死の境を彷徨っていたとはねえ。
 これって臨死体験の映画なんですよね。
 雲のような場所でふわふらしていたとか、先に死んだ人達の声が聞こえるとか、白髪のおじいさんとか、よく考えると丹波哲郎の「大霊界」っぽいですね。ちょっと比較対象例に難ありますけど。
 「銀河鉄道の夜」(ボーガス注:でザネリを助けようとして死んだカムパネルラ)のようにデブなガキ大将が実はノンちゃんを助けようとして死んでたらどうしようと思いましたが、どっこいセーフでした。つまり、寂しかったのはノンちゃんだけではなく、陽気な外見とは裏腹に肥満児でハゲのこの少年にもはかり知れぬ悩みがあったということですね。たぶん、容姿に関する問題だと思いますけども。
 「寂しいのは君だけじゃないんだよ」と言う事ですね。いつもノンちゃんを厳しく指導するお兄ちゃんも、いざとなれば苛められているノンちゃんを助けてくれたりしますし、なんだかんだ色々苦労はあってもノンちゃん、美人なんだもん。おまけにヴァイオリン弾けるしバレエも踊れるし。
 この映画からいろんな事が学びとれますね、例えば「デブ(はともかく)であれ美人であれ人間誰しも悩みはある」「子供はいつでも自己中心的である」「犬の尻尾は急所だから気を付けよう」「美人でやさしくておまけに色気まであるお母さんがいたらかなりうれしい」など。
 お母さんが原節子はいいんですが、お父さんが藤田進というのはいかがなものでしょう、と思いましたが、冒頭イキナリ登場するノンちゃんの泣き方が「シクシク」という女の子らしさや「ギャーギャー」という子供らしさのまったく感じられない「ウオー!ウオー!」という男泣き状態の号泣だったので、この親子関係はとても説得力があったのでした。
 この映画、今どきの親子のみなさんにはぜひ見ていただきたい。そして「きれいな日本語」をちゃんと聞いて記憶に残しておいて欲しいですね。きれいな日本語には、相手の立場を尊重する礼儀正しさがあります。たとえ親子でも兄弟でも。そういうの勉強しようと思ったら古い日本映画を見るに限りますね。

ノンちゃん雲に乗る
 石井桃子原作の児童文学を映画化したこの作品は文部省選定作品で、情操教育の一環として各地の小学校の体育館や講堂で上映されたので、団塊世代と、その前後の世代の人にとっては懐かしく思う人も多いでしょう。
 僕自身は講堂や体育館ではなく、高校生の時にテレビ放映されたのを見たのですが、当時、すでに妖艶な美女となっていた鰐淵晴子さんが、昔はこんなに可愛らしい子供だったということにまず驚きました。、
 それと、怪獣映画やウルトラセブンの長官としておなじみだった藤田進さんが、昔はこんなに”いい顔”だったことにもビックリしました。
 時を経て、社会人になって、ビデオで再見した時に、この映画の良さをしみじみと感じました。
 この映画は子供向けではあるけれど、大人になってからでないとわからないような深い意味がこめられてるのに気づいたからです。
 それは雲の上の仙人のようなおじいちゃん(徳川夢声さん)の言葉によく表れてます。
 甘えっ子だけど、クラスの級長に選ばれたりする優等生タイプのノンちゃん。
 自分では良かれと思って本当のことを先生に言っても、ガキ大将の長吉には、それが自分への”悪口”と聞こえるってことまでノンちゃんは気づかない。
 当然、ノンちゃんと長吉は勉強が出来る”良い子”と落ちこぼれの”やんちゃ坊主”という関係で仲が悪いのです。
 ノンちゃんに対しては意地悪でイジメっ子な長吉にも、子供らしい悩みがあり、おとうさんにしかられて、落ち込んでるところを仙人のおじいさんに呼び寄せられ、ノンちゃんと雲の上で対面します。
 優等生タイプで、大人から”良い子”と見られる子供が陥りやすい人生の落とし穴を、仙人のおじいさんはノンちゃんに「シャクシジョウギはいかんよ」と、それとなく諭すのです。
 また、ノンちゃんに対して、えらそうに兄貴風を吹かせてるおにいちゃんのタケシも、いざという時はノンちゃんを助けにインデァンごっこの子供たちを追っ払ってくれる妹思いな兄であることも描かれてます。
 また、タケシは家族の中で誰よりも犬のエスと仲良しでもあり、元来は優しい性格であることがわかります。
 ノンちゃん、長吉、タケシという3人の子供はそれぞれがタイプはちがうけど、大人が描く”理想の子供”ではなく、それなりに欠点と長所を持ち合わせた普通の子供、子供らしい子供として描かれてます。
 やんちゃなおにいちゃんとして描かれてるタケシも、今の眼で見ると、あきれるほど純情で素直です。
 藤田進さん演じるおとうさんが、危険な”飛び出し”遊びをして、トラック運転手(若い頃の名古屋章さん)を困らせてるタケシを叱るシーン、とても説得力のある叱り方です。
 たぶん石井桃子さんの原作からそうだと思われるのですが、この映画は子供のためだけでなく、子供を持つおとうさん、おかあさんへ向けて作られた作品でもあります。
 大人に対して、仙人のおじいさんの言葉にある”しゃくしじょうぎ”で子供を計ってはいけないってことと、藤田進おとうさんのように、しっかりと筋道をたてて叱れば、子供は反省し、成長するんだってメッセージが託されているからです。
 この映画は変に物分りの良い子は描かずに、子供って本来は自己中心的なものだという観点で、子供の心を追ってます。
 特に、信じてたおかあさん(原節子さん)にまで裏切られたと思ったノンちゃんの悲しみは相当に胸にせまってきて、かつて自分の子供時代にも大人に約束を破られた時の悲しさがよみがえるほどです。
 いろんな思考回路で自分を納得させる術を身に付けた大人とちがい、ノンちゃんのような子供は、たとえクラスの級長でも、ただただ悲しい時は一途に悲しいのです。
 ノンちゃんの派手な泣きっぷりが身につまされます。
 ところで、この映画のポスターはノンちゃん(鰐淵晴子さん)ではなく、中心に原節子さんの笑顔が大きくコラージュされてます。
 資料によると、この作品は原節子さんの1年5ヶ月ぶりの復帰作ということで話題になったらしいです。。
 当時まだ、トップスタアだった日本映画最大のヒロイン、原節子さんの魅力とは、いったいなんだったのでしょう?
 僕は、育ちの良さを感じさせる、おおらかな雰囲気と”色気”があることだと思います。
 もちろん、”色気”って言ったって、性的な意味でなく、われわれ男性同性愛者から見ても、たぶん女性から見ても感じられるような立ち振る舞いの上品さからくる”色気”です。
 この映画では、たまたま理想のおかあさんを演じてるので、原さんが大女優なのは男性にとっての”よく出来た”理想の女性像だと勝手に解釈してました。
 しかし、その後、数々の原節子作品を見てゆくうちに、わがままだったり、博打好きだったり、家事ができないダメ主婦だったりする”できた人でない”場合のほうが、より可愛らしく、上品な朗らかさで輝いている事がわかったのです。
 原節子さんの女優としての魅力はまた別の機会に語るとして、やはり、日本映画の誇り、世界のスーパースターだと思います。
 そして、忘れてはならないのは、やはり”理想のおとうさん”を演じてる藤田進さんです。
 藤田さんこそはわれわれが求める理想に最も近い俳優と言えるでしょう。
 ただ、残念なことに、活躍した時期があまりにも昔なので、若い世代の人には魅力的だったころの藤田さんの映画を見る機会が少なすぎることです。
 当時の藤田さんは、まだ中年前期という感じで、「姿三四郎」を演じた青年期の甘さとふくよかさが少し残ってます。
 「地球防衛軍」(’57)「モスラ対ゴジラ」(’64)などの特撮ものでは(ボーガス注:防衛軍幹部という)役柄上、硬い印象だけど、本来は気さくで人懐っこい人物を得意とした人で、この「ノンちゃん」の直前も、若い女性と不倫の恋に落ちるメロドラマ「雪崩」や、姿三四郎の流れをくむ「銀座三四郎」、田崎潤さんと柔道対決する「東尋坊の鬼」などのアクションもの主演作があり、まだ人気スタアと言えた最後の時期ではなかったかと思えます。
 ノンちゃん以降から、藤田さんは脇役に廻ることが多くなり、主演作としては58年(昭和33年)の「江戸川乱歩の蜘蛛男」(なんと藤田さんが明智小五郎*35※註)が最後だったのではないかと思います(資料が少ないので推測ですが)。  
 この映画は池に落ちたノンちゃんの臨死体験をファンタジーとして描いてますが、まだ見たことない人は”ファンタジー映画”として過度の期待をしてはいけません。
 あくまで子供の目を通してみたホームドラマ、ファミリー映画として、テレビのなかった時代(映画は昭和30年だけど、原作は昭和22年)のほのぼのとした雰囲気を楽しんでください。これこそリアル「ALWAYS三丁目の夕日」です。
※註:その後の調査で、藤田さんは昭和24年の(ボーガス注:松竹映画)「一寸法師」で明智小五郎をすでに演じていた事が判明。

映画『ノンちゃん雲に乗る』~幼児期の記憶
 幼稚園児だったある日、父が「映画を観に行こう」といって、町のはずれにあった映画館に連れて行ってくれました。それまでに、公民館などで催された映画の上映会などで映画を観ることはあったんですが、映画館に入って映画を観たというのはこの時が初めてでした。
 その時観た映画のタイトルは、今でもはっきりと覚えています。『ノンちゃん雲に乗る』です。物語の詳細は覚えていませんが、なぜか女の子が池の上に張り出した木の枝の上で踊っていて、そこから落ちてしまう。そのあとは、雲の上でおじいさんとお話をしている、と云ったような大まかなことしか覚えていませんでした。
 幼時に観たこの映画がレンタルDVDにあったので、幼い時に父と観たことを思い出し、懐かしさから借りて来て観ました。
 『ノンちゃん雲に乗る』は、新東宝映画が1955年(昭和30年)に映画化し、公開しましたが、映画の解説からこの作品の原作は、1951年(昭和26年)に出版された石井桃子という人の児童文学作品だということを知りました。
 出演者は、ノンちゃんにはまだ幼少だった鰐淵晴子、お父さんが藤田進、お母さんは原節子、雲の上のおじいさんに徳川夢声などが出演しています。
 実は、ノンちゃんに扮したのは松島トモ子*36だとずっと思いこんできていたんですが、鰐淵晴子だったんですね。また、お母さん役は、戦後の小津安二郎作品に出演して「日本の聖女」と称された原節子が演じていたことにびっくりしました。
 8歳の女の子、田代信子(ノンちゃん)は、ある春の朝、お母さんとお兄ちゃんが自分に黙って東京へ出かけてしまったので、寂しくなって、気分を紛らそうと池のそばの木に登って池に映る空を覗いているうちに、誤って池に落ちてしまいます。
 暫くしてノンちゃんが気がつくと、そこは雲の上でした。雲の上にいた白いひげのおじいさんが、池に落ちたノンちゃんを熊手ですくって助けてくれたのです。ノンちゃんはおじいさんに、自分や家族のこと、いじめっ子のことなどを打ち明けます。
 この作品、観ていると幼時のことを思い出して、懐かしさがこみあげてくるんですが、今観ると、いかにも教育映画的な感じがし過ぎます。映画の冒頭には、「文部省選定、青少年映画委員会推薦」とクレジットされ、さらに「この映画を良い子の皆さんへお贈りします」と制作プロダクションからのメッセージが映し出されるあたりに、この映画の製作目的が窺われます。
 映画では、ところどころにノンちゃんの演じる歌やバイオリン、バレエなどを織り交ぜていて、子供向けのミュージカル映画のようなメルヘンな雰囲気が溢れています。空の上のファンタジックな世界は、今見ると稚拙な感じもしますが、当時の先端技術であったアニメーション合成技術を使って製作したのだそうです。
 観終って、原節子が優しいお母さんの役柄にぴったりですし、徳川夢声の雲の上のおじいさんも楽しく、とてもほほえましい映画でした。また、どぎつい場面や殺伐とした場面がなく、安心して観ることができる子供に向けて作られた良心的な作品だと思いました。
 父が、この映画を観に映画館に連れて行ってくれた意味が、今わかったような気がします。
 なお、父と一緒に映画館に行ったのは、この作品を観た時が最初で最後でした。


【参考:熊谷久虎

熊谷久虎
 36年本作『情熱の詩人啄木』で一躍日本映画界期待の新人監督として認められた。そして翌37年『蒼氓(そうぼう)』での成功は、早くも彼を一流監督の地位に昇りつめさせた。原作は第一回芥川賞受賞の石川達三*37の小説で、ブラジルへ移民する農民たちが神戸の移民収容所で乗船する一週間前の集団生活の日々を描いた群像劇で当時の日本の暗い社会事情を反映した骨太な作品である。いわゆる小市民映画とは一線を画する熊谷の重厚な作風は、それが当時の現代劇の主流ではなかったために貴重な存在だった。翌年東宝に移籍した熊谷は38年森鴎外原作の『阿部一族』を発表、封建制度下の殉死というテーマで彼の抵抗精神をモチーフにした重厚な作風は頂点を極めたかにみえた。しかし戦時体制下の思想統制は彼の作家的資質の方向性を大きく変え、直後に撮った『上海陸戦隊』(39年)や『指導物語』(41年)は極端に形骸化された国策映画であり、それまでの作品に見られた批判性や抵抗精神などは姿を消し、その変貌ぶりに多くの人は戸惑いを隠せなかった。その後熊谷は映画を離れて国粋主義思想研究団体「すめら塾」を結成し、リーダーとして政治活動に没頭していった。当時の国家の指導のもと多くの映画人が戦意昂揚・国策映画を製作し戦争協力を果たしたことは周知の事実だが、熊谷の場合その大真面目な極右的国粋主義思想への傾倒ぶりが人々の(特に映画評論家の)困惑をいっそう大きくした。後年研究者たちはその変貌の要因を「ドイツに渡りヒットラーにあってファシズムにかぶれた」ことや、「所属会社の東宝の保身第一の安全主義」や「強圧を加えた軍部の要請」といったことに見出したりしたが、いずれにせよ熊谷の評価はこの時期に大きく変化し、以後覆ることはなかった。戦後49年、義理の妹にあたる原節子も参加した芸研プロを創立、プロデューサーとしての活動を始める。そして53年には東宝に復帰して映画監督を再開した。58年にかけての5年間に5本の作品を発表するが、57年の『智恵子抄』が評価を受けた程度であった。戦後の熊谷の映画活動は、戦争中の彼の政治活動に対する贖罪とはならなかったようだ。しかしさわやかな好篇として人気を博した1954年の『ノンちゃん雲に乗る』と『柿の木のある家*38』は熊谷が第二次芸研プロでプロデュースした作品であることはあまり知られていない。

原節子伝説について
 戦時中は、義兄が「スメラ学塾」と呼ばれる国粋主義的な政治結社の中心人物として活動していたため、原節子も右翼的思想に傾倒していき、数多くの戦意高揚映画に出演した。敗戦後、彼女は日本軍に加担したこと、自分の出演映画が多くの若者を戦地へと送り出す起因となったことを後悔し、自責の念に苦しんだという。
 ちなみにこの「スメラ学塾」は、世界最古の文明を築いたシュメール人が東方へ移動し、古代日本に神武天皇をいただいて降臨したという「日本シュメール起源説」や、日本人とユダヤ人は祖先を同じくするシュメール人の末裔だという「日ユ同祖論」、またユダヤ人が世界征服を企んでいるとする「ユダヤ人謀略論」などを唱える団体である。敗戦後は、日本の無条件降伏を不服として、九州に天皇もしくは皇族のどなたかを招致し、独立国家「九州帝国」を建国、米軍と徹底抗戦するという荒唐無稽な構想を立てていた。
 原節子がこんな怪人物の義兄を信頼し、そのイデオロギーに感化(洗脳?)されていたことは非運どころか悲劇である。相当運命を狂わされたのではないだろうか。彼女がこの義兄のそばを一生離れなかったことが不思議でならない。

●原節子をめぐる三人の男①熊谷久虎篇 | 西村雄一郎のブログ
 熊谷久虎大分県中津市出身の彼は、京都の大将軍にあった日活撮影所に入社。庶民に根差したリアリズムの現代劇を監督していたが、会田光代という女優と結婚する。
 1934年、日活が多摩川に撮影所を建設したのをきっかけに、夫婦は東京に移って来る。保土ヶ谷の光代の実家に立ち寄って、光代の妹・昌江と連れ立って、江の島見物に出かけた。そこで久虎は、妹を誘ったのだ。「どう、昌江ちゃん、女優にならない?」
 昌江は翌年、「ためらふ勿れ若人よ」(35年)でデビューする。その役名が〝節子〟だった。撮影所長は彼女に芸名を与える時、ふと浮かんだ〝原〟をその上に付けた。それが、原節子が誕生した瞬間だったのだ。当時、彼女は15歳。
 久虎はその後も、ずっと原節子の後見人を務めている。日独合作の映画「新しき土」(37年)が完成した時、彼女に付き添って、世界一周旅行にも出かけた。原節子はベルリンで、振り袖姿で挨拶し、やんやの喝采を浴びた。
 この頃から、国策映画がさかんに作られる。久虎も、「上海陸戦隊」(39年)、「指導物語」(41年)を監督。原節子も、前者では日本兵に抵抗する中国娘、後者では、頑固な老機関士(丸山定夫*39)の賢い娘を演じて、協力している。
 久虎は以後、映画をぱったりと撮らなくなった。活動を国粋主義の思想団体「スメラ学塾」に移し、采配を振るった。活動資金は陸軍省と情報局から出ているといわれた。
 満州と韓国の国境警察隊の活躍を描く「望楼の決死隊」(43年)の時、原節子は監督の今井正に、久虎から託された手紙を渡した。そこには、「日本国民の目を北方にそらそうとするのはユダヤ人の陰謀だ。そんな映画は即刻中止されたし」と書いてあった。「当時、節ちゃんもユダヤ人謀略説を唱えていたのには驚いた」と今井は言う。原節子は久虎に対しては、異常なほど従順だった。それがなぜか?は謎である。
 戦後、久虎は「芸研プロ」を設立し、原節子を主役にして、「智恵子抄」(57年)他、何本か製作した。しかし観客の心をつかむ作品とはならなかった。小津安二郎監督の死後、原節子はこの姉夫婦の鎌倉の家に移り住み、同棲生活を始める。近所付き合いもせず、その家から出ようともしなかった。
 1986年、一大の英傑・熊谷久虎は82歳で死去した。彼は戦後、監督の輝きはついに見られなかった。しかし原節子を映画界に引き込み、彼女が慕った義兄として、日本映画史にその名を刻むことだろう。

原節子と熊谷久虎 | 大衆文化評論家 指田文夫公式サイト | 「さすらい日乗」
 2008年に出た白坂依志夫*40の「シナリオ別冊」の『白坂依志夫の世界』は、1960年代以降の日本映画界が、セックスとクスリ(麻薬ではなく、ハイミナール等の睡眠薬である)が蔓延していたことを暴露したとんでもない本だが、この176ページにさらにとんでもないことが書かれている。東宝のプロデューサーだった藤本真澄*41について書かれたもので、彼の告白は、
原節子に、実は惚れてたンだよ、昔だけどね。できたら結婚したいなんて若気の至で思ったンだが、その時、ホラ、熊谷久虎
知ってるだろう、姉さんの旦那さ。あの右翼野郎と出来ているってきいてね、それで、あきらめたのさ」
 まるで、羽仁進が、左幸子*42と結婚していながら、彼女が撮影で日本を離れた隙*43に、左の妹・額村喜美子とできて、結局再婚してしまった事件のようではないか。
 藤本真澄原節子に惚れていたのはいつのことかよくわからないが、互いの年齢から考えれば、戦時中くらいのことだろう。この白坂への告白は、藤本の1979年の死の前年のことで、すでにガンで余命はいくばくもないことを本人が知っていたときなので、嘘ではないだろう。
 あの天女のような原節子の美しい微笑の影には、実の姉の夫との不倫という深い苦悩があったのである。そう考えると、原節子は大根役者にように言われることもあったが、随分と演技をしていた役者だったということになる。


【参考:スメラ学塾

◆シュメール(ウィキペディア参照)
 日本で古代オリエント研究の先鞭をつけ、1916年(大正5年)にバビロン学会を起こした原田敬吾は、ハムラビ法典を研究するなかでバビロン民族の容貌や宗教、習俗、言語などに日本民族との類似点を多く見出し、過去にバビロン民族の一部が日本に移住してきたという仮説を提唱した。
 1927年(昭和2年)に大山祇神社宮司三島敦雄が原田の論を継承発展させ、日本人シュメール起源説を提唱した。
 第二次世界大戦中には、「高天原バビロニアにあった」、天皇呼称の古語「すめらみこと」は「シュメルのみこと」といった俗説が横行した。
 1940年、小島威彦*44仲小路彰と陸軍軍人高嶋辰彦*45の発案で「スメラ学塾」が開講され、その思想に感化された川添紫郎(小島威彦のいとこ、のちにイタリア料理店「キャンティ」オーナー)や建築家の坂倉準三*46らが「スメラクラブ」という文化サロンを結成した。塾頭には末次信正*47海軍大将が就いた。原節子の義兄の映画監督熊谷久虎スメラ学塾に参加し、学塾内に劇団太陽座を結成する。
 仲小路は、上代において日本を根軸とする「スメラ太平洋圏」があり、進行中の太平洋戦争を「上代スメラ太平洋圏復興への皇御軍(すめらみいくさ)」と考えていた。しかし、坂倉の義父である西村伊作*48は、「(坂倉らが関係しているスメラという団体は)人類の根本の人種であるスメル人が日本にも移り住み、それが日本の天皇のすめら命になったと言っているが、一種の誇大妄想狂だ。坂倉はこの戦争に勝ってオーストラリアを全部取ったら別荘を作って遊びに行ったり、飛行機でパリに買物に飛んで行く、というようなことを空想していた。」と書き残している。

古本夜話121 高楠順次郎『知識民族としてのスメル族』、スメラ学塾、仲小路彰『肇国』
 太平洋戦争と大東亜共栄圏の進行下において、多くの人々がその強力な磁場の中へと引き寄せられ、奇怪な言説や歴史を語り出すようになる。それは本連載で繰り返し言及してきた『大正新修大蔵経』や『世界聖典全集』の企画、編集、翻訳の中心人物である高楠順次郎*49も例外ではなかった。
 柳田国男の戦時下の「炭焼日記」(『定本柳田国男集』別巻四所収、筑摩書房)の昭和二十年一月七日のところに、「増田正雄君見まひに来る。『知識民族としてのスメル族』といふ高楠博士の本をくれる」と記されている。
 増田は宮沢正典の『ユダヤ人論考*50』(新泉社)で指摘されているように、反ユダヤ陣営の中枢である国際政経学会の代表者で、『猶太研究』を刊行していたが、次第に日ユ同祖論へと傾斜していく。宮沢が引用している『猶太研究』における増田の講演から考えると、その転回はスメル民族が日本神族の一分派で、ユダヤ教はスメルの祭式を偽造しているので、ユダヤもまた日本の末流だという奇怪な論理によっているのだろう。だがそのバックボーンが高楠順次郎であるとの言及はなく、柳田の日記によって、反ユダヤプロパガンディストにして、日ユ同祖論に移行していく増田と高楠の関係が明らかにされたことになる。
(中略)
 このスメル民族なる言葉を以前にも見た記憶があった。それは文化学院のことを調べていた時、創立者西村伊作の自伝『我に益あり』(紀元社、昭和三十五年)の中に出てきたことを思い出し、再読してみた。するとやはり次のような一節があった。

 私の(ボーガス注:娘)ユリの夫坂倉は友人たちといっしょになって「スメラ」という国体を作っていた。スメラというのは、近東に昔、スメル人種というのがあって、それは人間の発生した根本の人種であるといった。そしてそのスメル族がスメル地方に発生してから間もなく日本に来て住んだ。そして日本というのは非常にいい国であるから、そこでスメル人が発展した。だから日本の天皇はすめら命であると、彼らは言っていた。その連中の中に仲小路(なかしょうじ)という学者がいて、いろいろな信仰的な理想を理論化して説いていた。その人の説を信じてスメラの連中は一種の誇大妄想狂であった。

 そこで仲小路について調べてみると、彼は桂太郎*51内閣の農商務大臣だった仲小路簾*52の息子で、東京帝国大学で哲学を専攻した仲小路彰であり、西村の娘婿の建築家板倉準三などの「パリの日本人たち」に連なる人脈に位置し、スメラ学塾なる研究機関を設け、内外の要人を招聘し、様々な講義を展開していたという。高楠もその一人だったと思われる。
〈付記〉
 その後、仲小路に関しては、晩年の弟子である野島芳明*53の『昭和の天才 仲小路彰*54』(展転社)が出され、戦後における彼の生活が明らかにされた。

古本夜話122 小島威彦『百年目にあけた玉手箱』、戦争文化研究所、世界創造
 小島は九十歳を超えた一九九五年に『百年目にあけた玉手箱』という全七巻、二百字詰一万枚に及ぶ、明治、大正、昭和にわたる自伝を刊行している。
 発売元の創樹社は当時からの危機、何回かの買収を経て、〇二年に自己破産したために、在庫も散逸してしまったと考えられる。それらもあって、『百年目にあけた玉手箱』全七巻は古書市場でも揃いが容易に見つけられない状況にある。これは市販本というよりも私家版的な要因も強く作用しているのだろう。その評価はひとまずおくにしても、これは特異な自伝と見なしうるので、とりわけ興味深い戦前分の第一巻から第四巻だけでも、人名索引つきの文庫化を期待したい。小島は(ボーガス注:筑摩書房創設者の一人である評論家)唐木順三*55と親しかったことからすれば、ちくま文庫がふさわしいと思われる。
 小島は元農商務大臣仲小路簾の次男彰を紹介される。彼は東京帝大の哲学の先輩であり、春陽堂の編集者にして、岩波書店の『哲学辞典』の編集委員だった。仲小路は三つ年長にすぎないが、頭は半白で、カントの肖像画にも似て、小島にしてみれば、「まるで百科全書派のフランス貴族と話している」ようだった。
「彼の文学や哲学や歴史の世界の広さは尋常の範疇を越えている。僕は読書の浩瀚さなるものから醸し出されてくる不思議な世界を目のあたりにして、彼が世界をかけめぐる連想の輪舞に眩惑された」。
 これが前回言及したスメラ学塾をともに設立するに至る仲小路と小島の出会いだった。

古本夜話133 仲小路彰のささやかな肖像
 小島威彦は『百年目にあけた玉手箱』において、戦後の仲小路についてほとんど言及していない。それはおそらくスメラ学塾に集った人々も同様であり、仲小路そのものに関するタブー意識がつきまとっていたからだろう。
 それは『一九三〇年代のパリと私』を著わした丸山熊雄*56も同様で、同書に記された仲小路に関する戦後の証言は貴重であるが、それは実名ではなく、イニシャルで記されている。丸山の同書は彼が亡くなった後、残された口述テープをもとに、夫人によって私家版として鎌倉書房から刊行され、それが昭和六十一年に公刊されたものである。夫人は丸山について、「留学時代のこと、戦争中のことは、自分でもあまり語らず、ごく少数の方以外には、長年、謎のように言われておりました」と述べている。この証言から考えると、ここで語られている一九三〇年代の「パリの日本人たち」の物語は、そのメンバーたちの誰もがほとんど語ってこなかったことを意味している。そしてまた丸山の回想の出現があってこそ、小島の『百年目にあけた玉手箱』の上梓も実現したのではないだろうか。
 しかも同書において、丸山は「パリの日本人たち」には愛着をこめ、その生活を描いているが、帰国後にスメラ学塾に関係し、『戦争文学論*57』を著わし、仲小路の大東亜戦争ビジョンへと引き寄せられていった経緯と事情にはまったくふれられていないし、それらへの言及は丸山の晩年にあっても、タブーのままだったと思われる。ようやく同書において、「留学時代のこと」は語られたが、「戦争中のこと」はほぼ「謎」のままになっている。しかし丸山は少しだけ「戦争中のこと」にふれ、「黒幕、N氏のこと」という一項を残している。これは明らかに仲小路のことで、彼が小島の背後にいた人物で、自分は小島たちと別れてしまった後でも、交渉があり、ヴォルテール研究者の自分が不可解で複雑なヴォルテールの性格をそれなりにつかむことができたのはN氏の存在によることが大きいとも述べている。

*1:石坂洋次郎青い山脈』の映画化

*2:広津和郎『父と娘』の映画化

*3:ドストエフスキー『白痴』の映画化

*4:林芙美子『めし』の映画化

*5:川端康成『山の音』の映画化

*6:1903~1963年(ウィキペディア小津安二郎』参照)

*7:1909~1938年。5年間の監督生活で発表した監督作品は、ほとんどのフィルム原版が紛失、もしくは戦災で焼失したため、まとまった作品として現存するのは『丹下左膳余話 百萬両の壺』(昭和10年)、『河内山宗俊』(昭和11年)、『人情紙風船』(昭和12年)の3作品のみである。ただ、これらも残っているものは戦後の公開版であるためオリジナルの尺であるかどうかは定かではなく、『丹下左膳余話 百萬両の壺』はGHQの検閲によってチャンバラ場面が削除されたと考えられている(ウィキペディア山中貞雄』参照)

*8:1902~1965年(ウィキペディア滝沢英輔』参照)

*9:1902~1974年(ウィキペディア山本嘉次郎』参照)

*10:1910~1998年。1951年(昭和26年)、『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。1954年(昭和29年)、『七人の侍』でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。1975年(昭和50年)、『デルス・ウザーラ』でアカデミー外国語映画賞を受賞。1985年(昭和60年)11月、文化勲章を受章。1990年(平成2年)、アカデミー名誉賞を受賞。1998年(平成10年)、国民栄誉賞を受賞。著書『蝦蟇の油:自伝のようなもの』(岩波現代文庫)(ウィキペディア黒澤明』参照)。

*11:1911~2000年。1947年、『安城家の舞踏会』でキネマ旬報ベストワンを受賞。1951年に『偽れる盛装』で毎日映画コンクール監督賞を受賞。著書『京の路地裏』(2006年、岩波現代文庫)(ウィキペディア吉村公三郎』参照)。

*12:1912~1998年。1954年(昭和29年)に『二十四の瞳』でブルーリボン賞脚本賞毎日映画コンクール日本映画大賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞(ウィキペディア木下惠介』参照)。

*13:1912~1991年。1950年(昭和25年)、『また逢う日まで』でキネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。1956年(昭和31年)、八海事件裁判で弁護を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』でキネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。1957年(昭和32年)、『純愛物語』でベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞。1963年(昭和38年)、『武士道残酷物語』でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞(ウィキペディア今井正』参照)。

*14:1905~1969年。代表作として『めし』(1951年)、『浮雲』(1955年)など(ウィキペディア成瀬巳喜男』参照)。

*15:1916~2012年。監督作品として『女殺し油地獄』(1957年)、『裸の大将』(1958年)、『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960年)など。著書『評伝 黒澤明』(ちくま文庫)(ウィキペディア堀川弘通』参照)。

*16:1905~1980年。1958年に『無法松の一生』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞(ウィキペディア稲垣浩』参照)。

*17:1900~1946年。映画監督、脚本家。俳優、映画監督の伊丹十三(1933~1997年)の父。俳優の池内万作(1972年生まれ、伊丹十三の息子)の祖父。

*18:この映画は監督、脚本が熊谷と言うことと、主演が原と言うこと以外はウィキペディアを見てもよく分かりません。

*19:1905~1988年。以前、熊谷が監督を務めた『蒼茫』(1937年、石川達三原作(第1回芥川賞受賞作))の脚本を担当(ウィキペディア「藤田進」参照)。

*20:1909年生まれ。1953年、熊谷久虎と芸研プロダクションを設立し、専務となる。1956年には社長に就任し、記録映画などの製作にあたり、1977年に辞任するまで活躍した。没年不詳(ウィキペディア「中田博二」参照)。

*21:1907~2008年。1934年6月から1936年6月まで新潮社に勤務し、吉野源三郎山本有三らと「日本少国民文庫」の編集にあたった。1940年12月、吉野の紹介により、岩波書店から『クマのプーさん』を翻訳出版。1951年に光文社から刊行した『ノンちゃん雲に乗る』が第1回芸術選奨文部大臣賞を受け、ベストセラーとなり、鰐淵晴子主演で映画化される。長年の児童文学界における業績を高く評価され、1953年、菊池寛賞受賞。1993年、日本芸術院賞受賞(子どもの本の世界における長年の貢献と業績に対して)。1995年、自伝的長篇小説『幻の朱い実』上下(1994年、岩波書店)で読売文学賞受賞。著書『新編・子どもの図書館』、『児童文学の旅』(以上、岩波現代文庫)、『新しいおとな』、『家と庭と犬とねこ』、『プーと私』、『みがけば光る』(以上、河出文庫)など。訳書『クマのプーさん』、『プー横丁にたった家』、『トム・ソーヤーの冒険』(以上、岩波少年文庫)など(ウィキペディア石井桃子」参照)

*22:1912~1990年。以前、熊谷が監督を務めた『指導物語』(1941年)に出演している(ウィキペディア「藤田進」参照)。

*23:1894~1971年。ラジオやテレビの司会者、俳優、作家として活躍。著書『話術』(新潮文庫)、『夢声の動物記』(ちくま文庫)、『夢声戦中日記』(中公文庫プレミアム)など(ウィキペディア徳川夢声」参照)。

*24:1910~1997年。東宝社長、会長を歴任。プロデューサーを務めた映画としては『ゴジラ』(1954年、本多猪四郎監督)、『無法松の一生』 (1958年、稲垣浩監督)、『独立愚連隊』(1959年、岡本喜八監督)、『用心棒』(1961年、黒澤明監督)、『モスラ』(1961年、本多猪四郎監督)、『椿三十郎』(1962年、黒澤明監督)、『赤ひげ』(1965年、黒澤明監督)、『日本のいちばん長い日』(1967年、岡本喜八監督)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年、小林正樹監督)、『日本沈没』(1973年、森谷司郎監督)、『八甲田山』(1977年、森谷司郎監督)、『影武者』(1980年、黒澤明監督)など(ウィキペディア田中友幸」参照)

*25:1910~2000年。1950年には小津安二郎監督作品の『宗方姉妹』で第1回ブルーリボン賞の主演男優賞を受賞(ウィキペディア山村聡」参照)。

*26:現在は岩波文庫、角川文庫

*27:現在は小学館文庫

*28:日本では古典ミステリ『赤い館の秘密』 (創元推理文庫)の著者としても知られる。

*29:現在は岩波少年文庫、角川文庫

*30:現在は岩波少年文庫

*31:現在は岩波少年文庫

*32:著書『米百俵』、『路傍の石』(以上、新潮文庫)など

*33:1928~2007年。京都大学名誉教授。著書『カウンセリングの実際』、『心理療法序説』、『生と死の接点』、『ユング心理学入門』(以上、2009年、岩波現代文庫)、『心理療法入門』、『ユング心理学と仏教』(以上、2010年、岩波現代文庫)、『日本人の心を解く』(2013年、岩波現代全書)、『子どもと悪』、『子どもの本を読む』、『ファンタジーを読む』、『物語とふしぎ』(以上、2013年、岩波現代文庫)、『大人になることのむずかしさ』(2014年、岩波現代文庫)、『源氏物語と日本人』、『神話と日本人の心』、『神話の心理学』、『物語を生きる』(以上、2016年、岩波現代文庫)、『定本・昔話と日本人の心』、『昔話と現代』(以上、2017年、岩波現代文庫)など(ウィキペディア河合隼雄」参照)

*34:1936年生まれ。明治学院大学名誉教授。著書『宮沢賢治の彼方へ』(1993年、ちくま学芸文庫)など(ウィキペディア天沢退二郎」参照)

*35:大映映画。蜘蛛男役は岡譲司(1902~1970年)。なお、岡は大映映画『氷柱の美女』(1950年)では明智小五郎を演じている(ウィキペディア「蜘蛛男」「藤田進」「岡譲司」参照)

*36:1945年生まれ。代表作として東宝映画『サザエさん』(1956年)、『続・サザエさん』、『サザエさんの青春』、『サザエさんの婚約旅行』(以上、1957年)の「磯野ワカメ」役、NHKスヌーピーチャーリー・ブラウン』(1976年)の吹き替え(サリー・ブラウン役)など(ウィキペディア松島トモ子」参照)。

*37:著書『風にそよぐ葦(上)(下)』、『金環蝕』、『人間の壁(上)(中)(下)』(以上、岩波現代文庫)、『青春の蹉跌』(新潮文庫)、『生きている兵隊』(中公文庫)など

*38:壺井栄原作

*39:1901~1945年。広島に投下された原爆により壊滅した移動演劇「桜隊」の隊長を務め、被爆死している(ウィキペディア丸山定夫」参照)。

*40:1932~2005年、脚本家。脚本作品として映画『巨人と玩具』(1958年、増村保造監督)、『完全な遊戯』(1958年、舛田利雄監督)、『好色一代男』(1961年、増村保造監督)、『けものみち』 (1965年、須川栄三監督)、『盲獣』(1969年、増村保造監督)、『動脈列島』(1979年、増村保造監督)、『曽根崎心中』(1978年、増村保造監督)など(ウィキペディア白坂依志夫」参照)

*41:1910~1979年。元東宝副社長。プロデュースした映画として『青い山脈』(1949年、今井正監督)、『めし』(1951年、成瀬巳喜男監督)、社長シリーズ(1956年~1970年)、『隠し砦の三悪人』(1958年、黒澤明監督)、『小早川家の秋』(1961年、小津安二郎監督)、『日本のいちばん長い日』(1967年、岡本喜八監督)、『日本沈没』(1973年、森谷司郎監督)など(ウィキペディア藤本真澄」参照)

*42:1930~2001年。1963年、『にっぽん昆虫記』(今村昌平監督)で日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を受賞(ウィキペディア左幸子』参照)。

*43:ウィキペディア「羽仁進」によれば話は逆で「羽仁が海外に撮影旅行で日本を離れた際」に羽仁に同行した左の妹・額村喜美子とできたそうですが。

*44:1903~1996年。戦後、明星大学名誉教授(ウィキペディア「小島威彦」参照)

*45:1897~1978年。第16軍(ジャワ島)参謀、第3軍(満州)参謀長、第12方面軍(東京)参謀長など歴任(ウィキペディア「高嶋辰彦」参照)

*46:1901~1969年。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日本館の設計を手がけた(ウィキペディア「坂倉準三」参照)

*47:1880~1944年。軍令部次長、連合艦隊司令長官、第一次近衛内閣内務大臣など歴任(ウィキペディア「末次信正」参照)

*48:1884~1963年。文化学院創設者(ウィキペディア西村伊作」参照)

*49:1866~1945年。仏教学者、インド学者。東京外国語学校東京外国語大学の前身)校長、東洋大学学長など歴任。著書『釈尊の生涯』(ちくま学芸文庫)(ウィキペディア高楠順次郎」参照)

*50:1973年刊行

*51:1848~1913年。台湾総督、第3次伊藤、第1次大隈、第2次山県、第4次伊藤内閣陸軍大臣、首相、内大臣侍従長兼務)など歴任(ウィキペディア桂太郎」参照)

*52:1866~1924年。東京控訴院検事、行政裁判所評定官、内務省土木局長、警保局長、逓信次官、第3次桂、寺内内閣農商務大臣など歴任(ウィキペディア「仲小路簾」参照)

*53:著書『日本文化のかたち』(2002年、展転社)、『大東亜戦争後の世界:仲小路彰の「地球論」思想』(2007年、展転社)など

*54:2006年刊行

*55:1904~1980年。著書『「科学者の社会的責任」についての覚え書』、『日本人の心の歴史(上)(下)』、『無常』(以上、ちくま学芸文庫)、『良寛』(ちくま文庫)など(ウィキペディア唐木順三」参照)

*56:1907~1984年。学習院大学名誉教授(フランス文学)(ウィキペディア「丸山熊雄」参照)。

*57:1940年刊行