新刊紹介:「歴史評論」3月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『馬がささえた古代の国家・社会』
◆日本古代の馬文化(末崎真澄*1
(内容紹介)
 日本古代(紀元1~7世紀)の馬文化について、古墳からの発掘資料(埋葬された馬具など)や文献資料(日本書紀続日本紀などの馬についての記述)などから論じられているが、小生の無能のため詳細な説明は省略する。


◆ユーラシア草原地帯の騎馬遊牧と初期遊牧民文化(畠山禎)
(内容紹介)
 横浜ユーラシア文化館学芸員である筆者が行った講義『ユーラシア草原地帯の騎馬遊牧と初期遊牧民文化』を論文化したもの。
 『ユーラシア草原地帯の騎馬遊牧と初期遊牧民文化』として主に匈奴とスキタイが論じられている。

参考

『興亡の世界史 スキタイと匈奴 遊牧の文明』(林 俊雄):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部
・定住農耕社会にとって、隣接する遊牧国家は常に脅威だった。ペルシア帝国をもってしても征服できなかった部族集団スキタイ。漢帝国と対等に闘った匈奴。こうした騎馬遊牧民はいつ頃誕生し、強大な力を握ったのか。「都市」のない遊牧社会を「野蛮」とみなすのは、定住農耕社会からの決めつけにすぎない。
・人口・経済力の点では圧倒的に劣勢なはずの遊牧国家は、隣接する定住農耕社会にとっては常に大きな脅威でした。ペルシア帝国の絶頂期を現出したダレイオス一世をもってしても征服することのできなかった部族集団スキタイ。漢の皇帝たちと対等に闘う軍事力と、李陵や張騫など有能な人材を受け入れる寛容さを持ちあわせていた匈奴モンゴル高原から黒海北方まで草原を疾駆した騎馬遊牧民にとっては「ヨーロッパ」も「アジア」もありませんでした。定住農耕地帯の文化・社会・道徳とはまったく正反対の騎馬遊牧民。その自然環境、歴史的背景を踏まえ、彼らがいつ頃誕生し、強大な権力を持つようになったのかを明らかにし、ユーラシア大陸の東西に1000年のスケールで展開する騎馬遊牧民の歴史を描きます。
・「都市」のない遊牧社会は、「文明」とは無縁の存在、むしろ対極にある「野蛮」の地と思われがちですが、それは定住農耕社会からの一方的な決めつけにすぎません。発掘された草原の覇者たちの装飾品には、豪奢な黄金の工芸品や色鮮やかなフェルト製品などがあり、その意匠から、ギリシア西アジアの影響を受けながらも、独特な動物文様や空想上の合成獣グリフィンなど独自の美術様式を生み出していたことがわかります。

ユーラシア草原地帯東部における騎馬遊牧文化の成立に関する研究高濱*2


◆古代の馬の生産と地域社会(山口英男*3
(内容紹介)
 日本古代における「馬の生産」について論じられているが、小生の無能のため詳細な説明は省略する。


◆日本古代の国家儀礼と馬:八月駒牽をめぐって(柳沼千枝)
(内容紹介)
 横浜市歴史博物館学芸員である筆者が行った講義『日本古代の国家儀礼と馬』を論文化したもの。
 「八月駒牽(はちがつこまひき)」とは

◆駒牽(ウィキペディア参照)
宮中行事の1つで毎年8月に東国に置かれた勅旨牧御料牧場)から貢進された馬を内裏南殿において天皇の御前にて披露した後に、出席した公卿らに一部を下賜し、残りを馬寮・近衛府に分配する行事。八月駒牽ともいう。
 勅旨牧信濃・甲斐・武蔵・上野の4国に及んだため、牧単位で分散して行われ、『延喜式』・『政事要略』によれば、8月のうちから8日間に分けて儀式が開かれた。また、『江家次第』によれば、東宮上皇、それに摂関は不参であっても馬の下賜を受ける事が許された。ただし、摂関への下賜は天禄3年(972年)に恒例化されたものと考えられている。
 また、儀式に先立って当日の朝に近衛府将兵が貢進された馬を逢坂関で出迎える駒迎(こまむかえ)の儀式もあわせて行われていた。
 後に信濃国の一部の勅旨牧以外からの貢進は途絶えたが、奥州から予め購入あるいは現地の有力者から貢進された馬で不足分を補いながら、応仁の乱の頃まで断続的に続けられた。
 なお、これとは別に毎年5月5日の節会に先立って、騎射・競馬の儀式の際に用いられる馬を親王・公卿ら及び畿内周辺諸国から献上された馬を天皇の御前に披露する五月駒牽の儀式もあった。

という儀式であり、この「八月駒牽」について論じられているが、小生の無能のため詳細な説明は省略する。


◆古代の交通制度と馬:法規定の検討から(河野保博)
(内容紹介)
 古代中国(唐時代)の駅伝制度(馬を使った交通制度)と「古代中国の制度」を元に構築された日本古代の駅伝制度について論じられているが、小生の無能のため詳細な説明は省略する。


◆歴史のひろば『近代・薄れゆく馬の記憶:家畜としての馬はどこから来たのか』(羽毛田智幸)
(内容紹介)
 横浜市歴史博物館学芸員である筆者が行った講義『近代・薄れゆく馬の記憶』を論文化したもの。
 池田*4内閣の高度経済成長(1960年代)以前においては、日本においても「農耕馬」として馬が活用されたが、高度経済成長以降はガソリンエンジンで動く農業用機械(トラクターなど)が広く普及したため、日本人の日常生活において、馬が全く身近な存在ではなくなってしまったことが論じられている。
 現在の日本人にとって身近な馬とは「競馬馬」「乗馬スポーツ用の馬」「(食肉としては牛、豚、鶏に比べかなりマイナーだが)桜鍋、馬刺しなどの食肉としての馬」といえる。
 ちなみにローカル競馬である「ばんえい輓曳)競馬」も、もともとは「北海道開拓に使った農耕馬」を走らせたものであり、馬種は今も「サラブレッドなどではなくそうした農耕馬系の馬」が使われているわけです。

【参考:農耕馬】

ばんえい競走ウィキペディア参照)
 競走馬がそりをひきながら力や速さなどを争う競馬の競走である。
 現在、日本国内の地方競馬としては北海道帯広市が主催する「ばんえい競馬(ばんえい十勝)」のみが行われており、世界的にみても唯一となる形態の競馬である。
◆概要
 ばんえい競走では一般的な競馬で使用されているサラブレッドなどは使われず、古くから主に農耕馬として利用されてきた体重約800-1200kg前後の「ばんえい馬」が、騎手と重量物を積載した鉄製のそりを曳き、2箇所の障害(台形状の小さな山)が設置された直線200メートルのセパレートコースで力と速さ、および持久力や騎手のテクニックを競う。
 帯広市が主催する地方競馬ばんえい競馬」のほか、一部地域では「草ばんば」(後述)も行われるなど北海道が生み出した独自の馬文化として定着しており、それらを含めた「北海道の馬文化」が北海道遺産に選定されたほか、映画「雪に願うこと」(2006年)やテレビドラマ「大地のファンファーレ」(2012年、NHK札幌放送局・帯広放送局制作)など、映画やドラマの題材にも幾度か取り上げられている。2006年までばんえい競馬を開催していた岩見沢市では、岩見沢駅(3・4番ホーム)にそりを曳く「ばんばの像」が設置されている。
◆存廃についての動き
 2006年度までは帯広競馬場のほか、北見競馬場岩見沢競馬場旭川競馬場の4箇所を巡回して開催していた。
 しかし、売上の減少による累積赤字の増大から旭川市北見市岩見沢市が2006年度限りでの撤退を表明、残る帯広市も負担が大きすぎるとして単独での開催継続に難色を示したことから、ばんえい競馬の廃止が濃厚と見られていたが、ファンの嘆願や寄付の申し出に加え、2006年12月13日にはソフトバンク子会社のソフトバンク・プレイヤーズ(現・SBプレイヤーズ)が帯広市の単独開催に対する支援を申し出たことから、2007年度より帯広市が単独で開催を継続することが決定した。これに伴い、ばんえい競馬の運営実務を担ってきた一部事務組合「北海道市営競馬組合」は解散し、2007年2月1日に一部業務を受託する運営会社「オッズパークばんえい・マネジメント株式会社(OPBM)」がソフトバンク・プレイヤーズ(現・SBプレイヤーズ)の出資で設立された。
 しかし2012年度の開催業務の委託契約についてはOPBMと帯広市で協議してきたが、OPBMと折り合わず、OPBMと委託契約を更新しないことを決定した。運営は帯広市が主体となり、業務の一部は旭川北彩都場外発売所(レラ・スポット北彩都)を運営しているコンピューター・ビジネス(旭川市)に委託することで決着したが、情勢は引き続き予断を許さない。
草競馬・祭典競馬としてのばんえい競走
 北海道や東北地方の一部地域では、主に地域の祭典などで「輓馬競技(ばんばきょうぎ)」が開催されている(「輓馬大会」「馬力大会」「草ばんば」とも呼ばれる)。重量物を積載したそりを曳く競走形態は、帯広市の「ばんえい競馬」とほぼ同様である。現存する「草ばんば」としては音更町で1908年(明治41年)より開催されているものが道内最古とされている(当初は平地競走。ばんえい競走の形になったのは終戦後)。
◆歴史
 ばんえい競馬の起源は木材を運び出していた馬の力比べとされており、北海道開拓期より各地で余興や催事として行われていた。当初は2頭の馬に丸太を結びつけ、互いに引っ張りあっていたという。
 明治時代末期頃から荷物を載せたそりを曳かせる現行の競走方式が登場したとされ、確認できる最古の競走は1915年(大正4年)9月16日に函館区外で十郡畜産共進会の余興として行われた「挽馬実力競争」である。
公営競技としての歴史
 太平洋戦争後の1946年、地方競馬法施行規則第9条により、競走の種類は駈歩(平地競走)、速歩(速歩競走)、障害(障害競走)、輓曳ばんえい競走)の4種類と定められたことを受け、ばんえい競走が公式競技となった。ばんえい競走が採用された背景には、戦時中に軍馬として徴用された農用馬が戻ってこなかったため、農村部で農用馬が不足していたことに加え当時の食料不足も重なり、馬の増産が急務であったことが挙げられる。
 1947年10月16日に旭川競馬場において、地方競馬として初のばんえい競走が行われた。
◆農用(輓系)馬の生産
 農用(輓系)馬の生産は1955年以後、トラックや耕耘機などの普及に伴い飼育頭数が激減。その後、馬肉(いわゆる桜肉)の需要が堅調に推移したことにより、生産頭数は1983年(7399頭)、1994年(8097頭)に改めてピークを迎えるものの、その後再び生産頭数が大幅に減少し、2005年は2655頭まで落ち込んでいる。地域別の分布をみると、2005年度の生産頭数2655頭のうち、十勝管内で761頭(28%)、釧路管内で652頭(25%)、根室管内で300頭(11%)と、酪農の盛んな道東の太平洋側で6割半ばが生産されている。次いで網走管内184頭、上川管内139頭、檜山管内111頭、岩手県81頭、熊本県70頭などとなっている。

農耕馬 活用の場探る 県立大、本年度から実証事業 | 岩手日報 IWATE NIPPO
 県立大は本年度から2年間、農耕馬の仕事を探す実証事業に取り組む。13日は滝沢市内の畑で馬耕を実施し、放牧による草原の再生やホーストレッキングなども計画している。農業の機械化で農耕馬の数が減少する中、時代に合った新たな役割を発掘することで頭数の維持や増加を図り、馬事文化の継承につなげる。
 同日は馬耕復活プロジェクトと題し、滝沢市牧野林の畑20アールの土を起こした。馬搬振興会(遠野市)の岩間敬代表理事(41)の指示で、約750キロの農耕馬1頭がすきを引いた。
 今回の畑ではサツマイモのクイックスイートを栽培し、来年はスイカ畑で行う計画。農地を提供した駿河俊也さん(42)は、チャグチャグ馬コを支援するため馬ふん堆肥を活用したスイカ栽培に取り組んでおり「ブランド化や付加価値向上につながればいい」と期待を込めた。

農耕馬・代かき体験学習
・ふと思ったことは、現代の生活の中で馬との直接的なふれあいの場はほとんど無い(無くなった)と言うことである。馬の力を一番必要とした農作業の場でも、完全に農業機械に代わってしまった今、農作業に馬の姿を求めたところで今の日本ではあり得ないことである。
 そんなことを思っていたら、かつて勤務していた山田地区の小学校で農耕馬を使った代かき作業を間近に見た体験学習を思い出した。休耕田が多く見られる今の日本では、田んぼの有効活用の一つとして、子ども達に農業体験をさせようと言う学習の場が各所で見られる。
 農家の子どもでも、今はほとんど農作業を手伝うことはない。と言うよりも、機械化された農作業では、子どもの手が入る場はほとんど無いのが実情である。これは農作業だけでなく、漁業の場であっても同様である。親が家業に従事する姿を体験学習で再現し理解する。今の社会情勢からは、それしか家の仕事について理解する方法が無いのはさびしい限りと思うのは私だけだろうか。
・以前勤務していた小学校でも、山間の休耕田をお借りして餅米を植え、収穫時には餅をついて学区民の皆さんと楽しいイベントをしていました。実際の農作業には、PTAの皆さんの協力がないと出来ません。田おこしは耕耘機で掘ってもらい、その土をならす代かき作業は3年生以上の児童が田んぼに入り踏みつけてならし、その後は耕耘機でならしていました。
 作業の具体的な打ち合わせの時、役員のSさんから「おらえの馬使って昔の代かきを子ども達に見せるか・・」となりました。Sさんの馬は8歳の雄で、山から木を切り出し運ぶ作業をしています。熱心で世話のいいSさんは、馬の口元につける竹竿を作り、馬鍬を押す地域のお年寄りに相談し作業に出てもらうことになりました。
 1994年5月13日、学校から500mほど離れた実習田に3年生以上の児童が移動しました。今は見られない農作業の再現と言うことで、NHKや岩手日報の取材がありました。馬の作業に先立ち子ども達が田んぼに入り、こなれていない土の塊を踏みつけて砕いていきます。
(中略)
 あれから14年ほど経ちますので、この場所に居る子ども達も25歳前後の若者になっています。機会があってこの場面をご覧になったら、当時のことを懐かしく思い出していだけると思われます。この時お世話になったSさんは、私が学校を去った翌年に40代の若さで亡くなったとお聞きしました。画像を作成しながら若いSさんの姿を思い出して、あのときはお世話になり有り難うございましたと御礼すると共に、心からご冥福をお祈り致します。(合掌)

【参考:馬肉】

◆馬刺し(ウィキペディア参照)
 日本国内で馬肉を生で食べる習慣は熊本県、長野県などに存在している。馬肉食の習慣のある地域は古来から馬の名産地であり、馬の生産と直結した文化が根付いていたと考えられる。このうち熊本県産は、馬の生産頭数は少ないが、屠畜後の馬肉生産量の4割を占めており日本一の産地となっている。なお、現在の日本で流通している馬刺し用肉の多くは輸入物であり、国産はわずかである。

【食物語・会津の馬肉(上)】 『健康志向』馬刺し人気 需要を伸ばす:「食」物語~おいしい福島:福島民友新聞社 みんゆうNet
 馬肉は「桜肉」とも呼ばれ、近年は健康志向の高まりもあって需要を伸ばしている。
◆続く値上がり
 牛肉や豚肉に比べ、馬肉は脂質が少なく栄養価が高いとされ、長らく会津の食卓を彩ってきた。そんな会津の馬肉だが、供給が需要に追い付かず、熊本県に次ぐ生産量を誇りながらも、モンゴル産の輸入に踏み切る寸前までいったのがつい最近のことだ。
 国産馬の肥育と、馬肉の加工卸売りを手掛ける会津畜産(会津若松市)によると、馬肉が注目されるようになったのは、皮肉にも5年前に起きた焼き肉店での食中毒事件。生食の規制で消費者が馬肉に移り、健康志向の高まりを受けた女性ファンも増えたことで人気を伸ばしてきた。
 10年ほど前、100グラムで500~600円だった「馬刺し」の価格は上がり続け、現在は千~1200円ほど。同社の宮森大典専務(39)は「この5年間で6、7回は取引先に値上げをお願いしている」と打ち明ける。そんな中、対策として持ち上がったのが先ほどのモンゴルからの輸入。「安全が第一」と宮森専務はモンゴルの加工施設を視察して「衛生面は問題ない」との結論に達し、輸入の検討を続けている。
 熊本県の販売業者の中にはカナダから輸入している業者もあるが、カナダからでは店頭価格が倍近くになるのが難点。「価格の高騰で一番怖いのは馬肉離れ」と宮森専務。会津で馬刺しが食べられない事態になっては悲しむファンが多いはずと考える。馬肉人気で会津産が転機を迎えているのは確かなようだ。
【「東の会津」全国にPR】
 日本馬事協会(東京都)によると、馬肉の生産量は本県をはじめ熊本、福岡、青森、岐阜各県で国内の約8割を占める。全国2位の県産馬肉のほとんどが会津産で「西の熊本、東の会津」とも呼ばれる。
【低カロリーで高タンパク】
  「あいづ さくらプロジェクト」によると、馬肉は牛肉や豚肉に比べ低カロリー、高タンパクで、ビタミンEやビタミンB、グリコーゲン、鉄分などを多く含むとされる。「美容と健康に良い」などと評判を呼び、注目の食材となった。脂質がほとんどないのも特徴で、モモ、ロース、ヒレ、ハツなど部位によって焼き肉やしゃぶしゃぶ、ユッケなど、それぞれの味を楽しめる。

【食物語・会津の馬肉(下)】 力道山が与えた『衝撃』 生食と辛子みそ:「食」物語~おいしい福島:福島民友新聞社 みんゆうNet
 古くから越後街道の宿場町として栄えた会津坂下町は馬肉文化で有名だ。町内の飲食店では馬刺しのほか、馬肉の焼き肉や握りずし、ハンバーグなど、さまざまなメニューが楽しめる。馬肉のPRに向けて誕生したご当地キャラ「うまべえ君」も人気だ。
 町産業課によると、元々は明治から昭和にかけて同町塔寺地区に馬の競り場や、と畜場があったことから馬肉を食べる文化が定着し、「庶民の味」として町民に親しまれてきた。現在は町内の飲食店関係者らでつくる会津ばんげ馬(さくら)の会が中心となり、商品開発やPRを行っている。


◆書評:一戸富士雄著『国家に翻弄された戦時体制下の東北振興政策:軍需品生産基地化への変貌』(2018年、文理閣)(評者:佐藤健太郎
(内容紹介)

国家に翻弄された戦時体制下の東北振興政策
 1931年以来の東北大凶作に起因する農村社会崩壊の危機を起点として発足した国策としての東北振興政策が、戦時体制の進展とともに、なぜ、いかにして虚名化し(ボーガス注:東北の軍需品生産基地化へと)変貌を遂げていったのか。原資料を活用し、実証的に分析・論究する。

というのが一戸氏の問題意識であるが評者はそうした見方は一面的すぎると批判している。
 つまり
1)「中央政府の方針には(政治的力関係から)反対できない」という理解から「中央政府の枠組みの中での民族自治権拡大を目指したプンツォク・ワンギャル*5チベット)やウランフ*6内モンゴル)」のような立場に「当時の東北各県の政治家、官僚、財界人」は立っており、中央の政府の方針に「反対したにもかかわらず力で押し切られた」という単純な構図にはなく、「中央政府の枠内での東北の利益拡大」を目指していたのであり「中央政府に翻弄される被害者としての東北地方」という描き方は一面的すぎる
そのほかにも
2)東北の政治家、官僚、財界人は中央政府に対し一枚岩ではなく、考えの違いも見られたが、そうした点について分析が不十分
3)松岡俊三*7の「雪害救済運動」を取り上げた伊藤大介『近代日本と雪害:雪害運動にみる昭和戦前期の地域振興政策』(2013年、東北大学出版会)など関連研究への言及が不十分
としている。

【参考:一戸富士雄氏】

河北抄|3月26日 | 河北新報オンラインニュース
「一戸さん、残念だが逝かれたよ」。
 仙台市内で吉野作造を研究する永沢汪恭(ひろやす)さん(77)から知らされたのは先月。東北の近現代史を探求した一戸富士雄さん(88)の思わぬ訃報だった。
 2人が中心になって創刊した研究誌『吉野作造通信』に昨年末、90年前の第1回普通選挙と吉野を巡る論文を一戸さんが書いた。「あれが絶筆。『がんで余命1年だろう』と昨年早く、本人が研究者仲間に明かしていた」と永沢さん。
 一戸さんは青森県の農村生まれ。自ら体験した東北の凶作と戦争の歴史発掘を人生の仕事にした。「みやぎの近現代史を考える会」会長も務め、市歴史民俗資料館で講演を聴いた人は多い。
 永沢さんは半世紀前、宮城学院中高で社会科教師の同僚として出会った。大崎市出身の民本主義者、人道主義者である「吉野の実像を広く知らせたい」という思いで同志の間柄になったという。
 「俺は『しのぶ会』なんて嫌いだ」と一戸さんは語り、永沢さんは昨秋、仲間と「囲む会」を開いた。
 「県内外から教え子も集った。仕事を受け継がねば」

【参考:東北開発株式会社】

東北開発株式会社(ウィキペディア参照)
 東北地方の殖産興業を目的として1936年(昭和11年)に日本政府が設立し、50年後の1986年(昭和61年)に民営化された国策会社である。民営化してセメント会社となった後、1991年(平成3年)三菱マテリアル株式会社と合併して消滅した。
◆概要
 東北開発は、昭和初期の世界大恐慌や東北地方を襲った度重なる冷害と凶作(昭和東北大凶作)および、昭和三陸地震津波により疲弊した東北地方を救済し、経済振興を促進する目的で、1936年(昭和11年)10月、国が特別法に基づいて設立した「東北興業株式会社」を前身とする。
 1957年(昭和32年)8月、再び特別法により東北開発株式会社に改組され、事業を継続してきたが、法定存続期限の50年となった1986年(昭和61年)10月、セメント会社として民営化した後、1991年(平成3年)10月、三菱マテリアル株式会社と合併して消滅した。
 東北興業及び東北開発は、昭和の激動期にあって、東北地方の殖産興業を目的として、東北地方に豊富に存在する天然資源を活用するため、27種の直営事業を実施するとともに、民間企業の設立を促進し地域経済に定着させるため、115社に及ぶ企業へ投融資を行い、また企業誘致のための工業団地造成事業を推進するなど、広範な事業活動を通じて東北地方の産業振興に寄与してきた。
 北海道開発庁沖縄開発庁のような中央省庁ではなく、政府自らが特定地域の振興のために率先して株式会社を設立し、地域住民の参加を求めた例は、日本経済史上他に例を見ない。
◆沿革
◆前史
 1913年(大正2年)、北海道および東北地方を襲った大冷害を契機に、第1次山本内閣内務大臣の原敬岩手県出身、後に首相)の労により渋沢栄一を会頭とする東北振興会が結成され、義捐金募集や「東北拓殖会社」設立要項等をまとめるなど東北振興問題の重要性を全国に広めたが、効果のある施策は実行されずに1927年(昭和2年)に解散した。
 1929年(昭和4年)に世界大恐慌が発生する中、1930年(昭和5年)1月に浜口内閣蔵相の井上準之助が国際経済との直結をもたらす金解禁に踏み切ったため、金の国外大量流出、物価の下落(デフレーション)が発生し日本も昭和恐慌に陥った。すると、農村では生糸の対米輸出の減少に加え、豊作にデフレが拍車をかけて米価が暴落し、深刻な困窮状態に陥った。さらに1932年(昭和7年)の凶作、1933年(昭和8年)の昭和三陸地震津波、1934年(昭和9年)と1935年(昭和10年)の凶作が、立て続けに東北地方経済を襲った。農村では娘の身売りが見られるようになり、東北救済の声は大きな世論となった。
◆東北興業株式会社
 1934年(昭和9年)12月、初の総合的な東北振興の政府機関となる東北振興調査会が発足し、1935年(昭和10年)5月には内閣に東北振興事務局が設置され、東北振興の恒久対策を目指した。
 東北振興調査会は東北振興策の根幹として東北興業の設立を構想し、1936年(昭和11年)5月の帝国議会で「東北興業株式会社法」が成立し、同年10月に東北興業株式会社が設立された。資本金は東北6県が半数を引き受け、残りを民間その他より公募し、政府出資はなかった。なお、設立された1936年(昭和11年)には二・二六事件が発生し、日本が軍国主義への道を突き進み始めた年でもあった。
 東北興業の事業目的は、
・肥料工業その他電気化学工業
・水産及鉱産の資源開発事業
・水面埋立事業
・農村工業
・その他東北地方振興に関する諸事業
を経営又は之に対する投資その他の助成を為すものとす。
と定められ、これに基づき事業計画が立てられたが、1937年(昭和12年)度予算では、予算全体の50%を超える軍事費膨張のあおりを受けて大幅に予算を削減され、東北振興計画は出だしから縮小せざるを得なかった。また、会社経営の基盤とされた化学肥料工業直営計画は、会社側の企業意欲が弱かった等の原因により、投資事業に形を変え、その後の東北興業は投資・助成事業にシフトしていった。
 1937年(昭和12年)7月「盧溝橋事件」を発端に日中戦争、太平洋戦争への途をたどり始めた日本は、1938年(昭和13年)「国家総動員法」が定められ、東北興業は当初の東北振興のための事業から国防型事業に傾斜していった。そして、この国家的要請は急激な事業の拡大をもたらす結果になり、「まるで会社の見本をつくるようだ」と批判されるまでに投資関連会社が増え、1942年(昭和17年)11月時点の投資会社は46社を数え、「東北振興グループ」と総称される「東興コンツェルン」を形成していった。そのうち、資本金1千万円以上の会社は、東北振興化学、日東化学工業、朝日化学工業、東北振興アルミニウム、東北振興パルプ、日本飛行機、萱場製作所(現在のKYB)、藤田組(現在のDOWAホールディングス)の8社で、これらはいずれも、戦後、大手・中堅企業として活躍している。
 設立以来、終戦に至るまでの9年間、東北興業は総額1億6762万円という膨大な事業投資を行い、東北振興と国策遂行のために広範な事業活動を展開した。終戦時までの事業は化学工業、機械工業、鉱産業、農林水産業などで113にもあがっている。国策会社という性格のため、採算を度外視した投資も行わざるを得なく、「ボロ会社が東北興業を食いつぶした」と酷評を受けることにもなるが、工業を中心とした振興を目標にした当初の目的は、十分とは言えないまでも、果たすことができたとされる。
 戦後の東北興業は、政府からの財政援助の相当部分が絶たれ、GHQによる財閥解体の流れの中で、直営事業を木友亜炭鉱業、福島石灰窒素工場、秋田造成土地、台の原種畜牧場、物産販売事業の5種に限定し、投資事業についても終戦直後にあった79社を30社前後に減らすなど、徹底的な陣容の縮小と経営の合理化を実施したが、衰微の一途をたどり、その存立さえも危ぶまれるに至った。
 昭和20年代後半に入り、東北7県の知事および県議会議長は、東北興業の改革強化を要望し、会社は新たな根幹事業として東北地方に大量に賦存する石灰石を利用するセメント事業を強力に推進することとし、政府も1955年(昭和30年)度の予算で1億円の財政投資を決定した。
 この頃の東北は、一人当たりの実質所得が国民平均の約6割でしかなく、日本経済の発展の障害と見なされるようになっていたため、吉田*8内閣に代わって成立した鳩山*9内閣は、北海道、東北の開発について強力に推進する方針を打ち出し、1957年(昭和32年)に東北開発三法といわれる「北海道東北開発公庫*10法」「東北開発促進法」「東北開発株式会社法」を成立させた。
東北開発株式会社
 1957年(昭和32年)8月、東北興業から直営事業として福島工場と木友鉱業所を引き継ぎ、投資会社として17社を引き継いで、東北開発が発足した。
 東北地方の期待を担って新発足した会社であったが、東北7県の要望を汲み上げて作成した事業計画は、黒字第一主義を強調する政府から縮小され、地元の失望を深くした。
 1957年(昭和32年)度から5年間、会社はセメントおよびハードボードの2事業の創始、福島工場および木友鉱業所の2直営事業の整備、また土地造成事業の実施や砂鉄事業の推進、投資会社に対する投融資などを図ってきたほか、地域開発のための調査研究を行ってきた。しかし、一方では会計検査院から粉飾決算を指摘されたり、贈収賄事件で宮城県警の捜索を受けるなど、放漫経営により決算では多額の損失を計上していた。
 このような状況の中で、総理大臣通達として「会社経営改善対策(会社再建計画)について」が出され、1964年(昭和39年)度を初年度とする再建5ヶ年計画を作成し、政府の財政援助を得て会社再建に取り組んだ。この間に直営事業であった福島工場および木友鉱業所の分離民営化、砂鉄事業の終止、造成土地の売却を実施し、投資会社についてはそれぞれの会社の状況に応じて再建、民営化、清算等を行い11社にまで減らした。残されたセメント、ハードボードの2直営事業については設備増強や販路開拓により基幹事業として強化した。
 これらの結果、1968年(昭和43年)度末には累積欠損金が88億円となったが、企業体質は著しく改善され翌1969年(昭和44年)度からは黒字決算ができるようになった。
 会社再建計画が終了してからの会社経営は、基幹事業であるセメント、ハードボード事業の基礎固めをする一方、「公共性」と「採算性」の相反する要請を調和させ、東北地域の開発に資していくという方向を目指して「新規事業要綱」を定め、岩手県肉牛公社、臨海鉄道事業への出資や直営事業として内陸工業団地の開発事業に取り組むと共に、むつ小川原開発計画へ参加してきた。
 昭和50年代にはいると、東北地方への公共投資による下支えに加え、高速交通体系の整備により、東北経済は飛躍的に発展し、産業構造の高度化が加速され、自立的発展へと歩み始めた。
 一方、1967年(昭和42年)に行政管理委員会は廃止すべき特殊法人のひとつに東北開発の名前を挙げた。その時は存続させるとの結論になったものの、その後も常に行政管理委員会の審議の俎上に上がり、1979年(昭和54年)に政府は、法定の存立期限である1986年(昭和61年)度までに民営移行すると決定した。
◆民営移行
 民営移行にあたっては、企業性の高い事業については民間会社に移行し、公共性の高い事業については他の公的機関等に委譲することを原則として、
・セメント事業は民営移行後の会社が専業として継続経営
・ハードボード事業は会社から分離独立した会社に営業譲渡
・仙台北部工業団地事業は地域振興整備公団宮城県に移管
・出融資を継続していた9社の内、4社を民間企業に譲渡し、他の5社は民営移行後の会社が引き継ぐ
こととし、昭和61年10月6日民営移行した。
 セメント専業メーカーとなった会社は継続して黒字を計上していたものの、セメントメーカーとしては事業規模が小さく、会社継続に不安があったため、平成に入り、三菱鉱業セメントと合併協議を始め、平成2年12月に三菱鉱業セメントと三菱金属が合併して発足した三菱マテリアル株式会社と1991年(平成3年)10月に合併して東北開発は消滅した。
東北開発(株)の直営事業
 東北興業時代の直営事業は25事業を数えるが、1957年(昭和32年)に東北開発に改組されてからの直営事業は東北興業より引き継いだ亜炭事業と化工事業の2事業を含めて5事業を数えるのみである。
◆亜炭事業(木友鉱業所)
 1940年(昭和15年)に国産エネルギー資源の開発という国策的見地で設置して以来、山形県最上郡舟形村で亜炭鉱山を操業してきた。エネルギー資源が極度に不足した時期においては、国内有数の亜炭鉱山として燃料の確保に大きな役割を果たしてきたが、戦後のエネルギー革命の急速な進展に伴い需要が減少し、1959年(昭和34年)以降の業績は欠損に転じた。1960年(昭和40年)2月、地元山形県尾花沢市の木友鉱業に営業譲渡された。
◆化工事業(福島工場)
 1941年(昭和16年)に日本曹達から譲り受けた福島市の人造研削材製造工場を、戦後は石灰石を原料とする石灰窒素、カーバイド、アセチレンの製造工場に転換した。多大な収益を挙げた時期もあったが、昭和30年代後半に入ると石油化学工業による製品の進出が著しくなり、増設増産により競争力を維持しようと努めたものの、損益は悪化していった。
 1968年(昭和43年)度半ばに、地元企業であり、日野自動車工業の系列下で発展を続ける福島製鋼から、会社の事業拡大のため全従業員継続雇用の条件で営業譲渡の申し入れがあり、1969年(昭和44年)4月1日に譲渡された。
◆セメント事業(岩手工場・青森工場)
 1955年(昭和30年)、東北興業再建のため、石灰石の有効活用先としてセメント工場を建設することが計画され、候補地の中から岩手県東山地区を選定して建設を始め、東北開発に移行した後の1958年(昭和33年)6月に岩手セメント工場として操業を開始した。
 セメント事業は東北開発の基幹事業に成長し、1986年(昭和61年)の民営移行時には、セメント専業メーカーとして再出発したが、1991年(平成3年)10月に三菱マテリアル社と合併した。岩手・青森の両セメント工場は現在も操業を続けている。
◆ハードボード事業(会津工場)
 東北地方に大量に存する木材資源の有効活用を目的として、福島県会津若松市に木質繊維板であるハードボード(硬質繊維板)の生産工場を建設し、1961年(昭和36年)3月に操業を開始した。
 ハードボード事業は1986年(昭和61年)の東北開発の民営移行に先立ち、1984年(昭和59年)3月分離独立してカイハツボード株式会社となり、東北開発の全額出資子会社として再出発する事になった。その後、東北開発三菱マテリアルと合併したのに伴い、その子会社となり、更に2007年(平成19年)4月、全株式が大建工業に譲渡され、現在は東部大建工業(株)会津工場として操業している。
◆土地造成事業
 東北開発会社法が制定される際に「産業立地条件を整備するための必要なる施設に関する事業」が加わり、工業用地造成事業がスタートした。秋田港地区、塩釜一本松地区、酒田市高砂・大浜地区、小名浜地区等で実施し、1961年(昭和36年)のうちにほぼ一段落した。
 昭和40年代に入り、東北でも工場立地が活発になるにつれ、内陸工業団地の開発事業を要望され、第三の直営事業として積極的に取り組むこととなった。その一つに仙台北部工業団地があり、自動車工業の誘致を目指して用地買収を進めたが、第1次オイルショックにより企業の投資意欲が減退し、塩漬けにせざるを得なくなった。
 その後、民営移行の際にこの事業は地域振興整備公団に引き継がれ、買収した用地は宮城県土地開発公社に譲渡された。現在、この工業団地にトヨタ自動車東日本を始めとする自動車産業が立地している。
◆砂鉄事業(むつ製鉄)
 青森県下北地域は、太平洋戦争以前にも当該地で産出される砂鉄を精錬する事業所(日本特殊鋼管)が立地し、戦後は東北砂鉄鋼業が立地、さらに1954年(昭和29年)の通商産業省未利用鉄資源調査委員会において、青森県内で国内全体の約4割、下北地域だけで国内全体の約2割という砂鉄埋蔵量が報告されていたことから、有効活用を目指したものである。そのため、1957年(昭和32年)に東北開発が発足した際に選定された5大基幹事業の一つに砂鉄利用工業を掲げ、1958年(昭和33年)から調査活動が開始、青森県下北地区に銑鋼一貫方式による特殊鋼工場の建設を目指した。その後、1962年(昭和37年)7月には三菱グループ(三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)・三菱製鋼・三菱鋼材 ・東北砂鉄鋼業(昭和32年より三菱鉱業の傘下となる))との提携覚書が締結され、1963年(昭和38年)3月に総理大臣の認可を受けて、同年4月に資本金5億円で「むつ製鉄株式会社」が設立された。
 しかし、1961年(昭和36年)をピークに砂鉄銑の需要は減り始めており、代わって高炉銑による安価で良質の鋼が出回り始めていた。このような情勢から1964年(昭和39年)11月三菱グループが撤退を表明するに至り、1965年(昭和40年)4月むつ製鉄事業推進断念の閣議了解がなされ、むつ製鉄は解散した。

【参考:松岡俊三】

『雪調』設置までの道のり | 雪調のあゆみ | 雪の里情報館
 山形県楯岡(現村山市)出身の衆議院議員松岡俊三(1880~1955)先生は、雪国救済を語る上で欠かせない人物である。
 松岡先生は、大正末から昭和初めの雪国農村の窮状を目のあたりにして雪国救済の必要性を強く感じ、政府に対してそのための施策を強く訴え続けた。それはやがて政府を動かし、雪国に暮らす人々の生活を向上させる道を拓くことになるのである。
 訴えの趣旨は、積雪と寒冷による各種の被害や不利益は台風や洪水などと同じ自然災害であり、国として救済すべきであるというものである。この考えに対する理解を広めて、救済を求める民衆の運動に高めようと、厳冬期に身の危険をも覚悟して豪雪の各訪問地に向けて「雪中行脚」に出たのである。雪の害に関する実態調査と、啓蒙つまり雪により被る害や耕作上の不利に対する諦念から人々を解き放つことに力を注いだのである。
 その後、自らの足を駆使した調査で明らかにしたことにもとづいて、政府に対して救済の必要を実証的に訴え続けた。
 その不撓不屈の活動はついに国を動かし、東北全市町村に「特別市町村」として交付金を増額するなどの法令が昭和7年に成立し、救済が国の施策として初めて施行されることとなった。その一環で、積雪地方農村経済調査所は翌8年に、わけても、松岡先生の訴えに共鳴し熱く支持した新庄に設置されたのである。こうして、雪国の窮状を国として救済し更生させる道がようやく拓かれたのである。
 その後の雪国振興施策の進展は、終戦を経て新潟県を拠点に設立された(日本積雪連合)の請願で実現しつつ現在に続いているが、それというのも、戦前に松岡俊三先生が先駆者となって政府を動かす潮流を起こしたからであるといえる。

松岡俊三と雪害救済運動 - 新庄市
◆雪害救済運動の発端
 大正15年12月4日のことです。松岡俊三代議士は、山形県大石田町での演説会で風邪をこじらせて、肺炎となり、山形市の済生館病院に入院しました。そこで彼が見たものは 、次々と運ばれてくる乳幼児でした。寒さと栄養状態、保健衛生が悪いためであり、その根源は「雪害」だと気づいたのです。雪国の人たちが背負っているハンディキャップを支援する法令上の施策がないことが問題で、政治的に解決することが、自分の使命であると決意したのです。  
◆雪害調査
 松岡は、積雪地と雪の無いところとの比較調査を実施しました。その結果、雪国では、1年に1作しか収穫できないのに地租(固定資産税)が雪の無いところと変わらなかったり、雪のため色々な費用がかかったり、災害にあっ ても、それを補う制度が無いことがわかりました。
◆松岡の主張するところ
 地主と小作人の対立について
 両方の言い分は分かるが、そもそも雪国全体の収入が低いため、その少ないパイの分捕り合戦をしているだけである。地主も小作人も、まず、雪国全体の生活向上のため運動すべきだ。
◆新庄での講演
 松岡は、昭和3年1月、新庄の「平和館」というところで雪害の講演会をしました。当時、“雪が降るのは当たり前”とみんな考えていましたし、雪の降らないところの生活と比較することは少なかったのです。テレビも無く、雑誌などの情報も少なかったのです。しかし、新庄の若い人たちの間では、なんとか松岡を応援して、「雪害」問題を解決しようという動きがでてきました。
◆雪行脚
 昭和5年11月3日、松岡は、東北および新潟の豪雪地を中心に、遊説の旅にでました。当時は、交通網が発達していなかった時代。交通手段といえば汽車と徒歩が中心でした。豪雪地を中心に、そして、あえて積雪の多い時期を選んだのは、遊説先の人々が雪害を理解し、共感をもって運動に参加してもらえると考えたのでしょう。記録に残っているのは昭和6年3月13日までの約半年ですが、精力的に講演会・有力者への陳情・協力を重ねました。どこも盛況で、青森県など各地に松岡講演会ができましたし、色々な形で政府への請願がなされました。このようにして雪害救済運動は雪国全体に波及していきました。
◆最上郡雪害救済期成聨盟(れんめい)
 松岡の考え方に共鳴した新庄の若者たちは、松岡が調査した「雪害統計」「雪害図表」などを使って地元への運動を始めました。メンバーは五十嵐源三郎、奥山新太郎、吉田芳彦らです。彼らは最上郡革新青年同盟を組織していましたが、松岡が雪の行脚を始めて、まもなく、『最上郡雪害救済期成聯盟』を組織しました。昭和5年12月のことです。そして、翌年1月18日~20日までの3日間、新庄の善正寺において雪害問題を中心とした「山形県最上郡の常識講座」という合宿をしました。松岡とともに39名の若者が、彼と寝起きを共にして、今後の運動に備えました。その後は、このメンバーを中心にして、地元や国・県あるいは視察団への雪害運動を働きかけたりしました。しかし、なかなか、雪害ということを理解してもらうのは困難でした。
◆積雪地方農村経済調査所の開設
 彼らの運動が効をなして、雪国の人たちの生活を良くするための国の機関「積雪地方農村経済調査所」が、昭和8年9月15日、この新庄の地に開設となりました。この機関の設置には山形県内ばかりでなく、東北各県・北陸などでも誘致運動が繰り広げられましたが、一番運動が熱心な新庄に決定しました。


◆書評:中村元*11著『中国、香港、台湾におけるリベラリズムの系譜』(2018年、有志舎)(評者:吉見崇)
(内容紹介)
 中華民国建国以降の近代中国(香港、台湾を含む)で活躍したリベラリスト儲安平、銭端升、張君勱(ちょうくんばい)、張知本、殷海光、雷震、李一哲などを取り上げ論じている。
 評者によれば中村氏は

・「スターリン批判を契機とする百家争鳴百花斉放(リベラリズムの動き)」→それに対する反動としての「反右派闘争」
・「大躍進失敗とそれによる毛沢東の『事実上の国家主席引責辞任』後の劉少奇国家主席、鄧小平副首相らの改革路線(リベラリズムの動き)」→それに対する反動としての「文革
・「四人組への反発としての第一次天安門事件リベラリズムの動き)」→それに対する反動としての「四人組の鄧小平攻撃とそれによる鄧の失脚」
・「ソ連東欧崩壊後の学生運動リベラリズムの動き)」→それに対する反動としての「第二次天安門事件

という認識であり、「1949年の建国以降、中国がずっと強固な一党独裁体制であったかのような見方」には批判的である。
 また全国人民政治協商会議(政協)の政治的意義について「歴代の政協主席は毛沢東党主席、周恩来首相など中国共産党幹部(なお、現在の主席は中国共産党中央政治局常務委員の汪洋氏*12)であり、政協は中国共産党の指導性を前提にしている」ため、「過大評価は出来ない」ものの、未だ、中国において「政協が廃止されないこと」も「過去のリベラリズムの反映」として一定の評価をしている。

【参考:建国時の中国は連立政権】
 今日の産経ニュースほか(2020年2月21日分) - bogus-simotukareのブログでも触れましたが、建国当時の中国は(中国共産党が主導権を握っているとはいえ)連立政権でした。
 しかし安倍政権下において「文科省教科書検定」で「つくる会教科書」にそんな指摘がされるとは意外です。まあ「建国初期は連立政権だ」という事実が分からないと、「反右派闘争の正確な理解」は出来ないと思いますね。


【参考:『中国、香港、台湾におけるリベラリズムの系譜』書評ほか】

中国、香港、台湾におけるリベラリズムの系譜 中村元哉著 苦難つづきの歴史 列伝風に :日本経済新聞
 (ボーガス注:中華民国という)アジアで最初の共和国が生まれた中国大陸にはリベラリズムの長い水脈がある。その歩みが苦難つづきだったことは、習近平*13政権の現状をみるだけでも想像がつく。一方、大陸の政治から実質的に隔離されてきた香港や台湾でも、苦闘は終わっていない。そんな歴史を、列伝ともいえる形式でまとめている。
 登場するのは主に、中華民国が大陸を統治した時代に論客として活躍した人たち。儲安平、銭端升、張君勱(ちょうくんばい)、張知本らだ。その一部は中華人民共和国ができたあとも大陸にとどまり、迫害を受けた。一部は香港や台湾に移り、やはり苦闘を余儀なくされた。
 いささか不可解なのは、中国を代表するリベラリストである胡適を正面から取り上げていないこと。いまさら、という判断だろうか。幸い、米国の研究者ジェローム・グリーダー氏による胡適*14の評伝の邦訳が昨年末に藤原書店から出たので、そちらを参照すれば本書は一段と興味深い。
 大陸では文化大革命が終わったあとにリベラリズムが盛り返したが、足元では再び封殺されつつある。台湾では国民党の独裁が終わると自由を謳歌するようになったが、香港とともに大陸の共産党政権の圧力に直面している。中国の今と未来を考えるうえで示唆に富んだ一冊だ。

◆張君勱(1887~1969年:ウィキペディア参照)
 1906年、張は公費により日本へ留学し、早稲田大学政治経済科で学ぶ。張は立憲派の有力人士として東京で宣伝活動を続け、1909年8月には雑誌『憲政新志』を創刊した。
◆北京政府での活動
 辛亥革命勃発後、張は宝山県議会議長となる。第二革命(二次革命)では袁世凱を支持する姿勢をとったが、1915年12月に梁啓超らが袁世凱打倒を目指し、護国戦争(第三革命)を発動すると、張も帰国して護国軍に加わった。また、上海で『時事新報』総編輯となっている。
 護国戦争後、張は安徽派の段祺瑞を支持して、段が創設した国際政務評議会の書記長に任ぜられた。しかし、その後、中華民国大総統となった直隷派指導者の馮国璋から招聘を受け、張が総統府秘書に就任すると、安徽派から嫌悪され、結局政府から追われることになった。
◆欧州留学と反共反蒋
 1918年12月、張は梁啓超・丁文江らとドイツへ留学し、唯心論の哲学者ルドルフ・オイケン*15の下で学んだ。続いてフランスに向かい、アンリ・ベルクソン*16にも師事している。1922年1月、張は帰国し、上海呉淞市政籌備処副主任となる。このときに張は『国憲論』を執筆し、憲政の施行の必要性を訴えている。
 その後、中国でマルクス主義が台頭してくると、張は唯心論の立場から唯物論を批判する論稿を次々と発表した。1924年、上海国立自治学院(後の国立政治大学)院長に就任している。その後、中国国民党が北伐を成功させ、蒋介石が国政の主導権を握ったが、張は蒋が推進する一党独裁に反発し、激しく批判を加えた。そのため、1929年6月に国民党により逮捕・拘禁されてしまい、章炳麟、杜月笙の斡旋で辛うじて釈放されている。10月、ドイツに赴き、イェーナ大学で教官を務めた。
◆中国国家社会党の結成
 1931年9月に張は帰国し、燕京大学で教授を務める。1932年4月16日、張東蓀*17らと中国国家社会党を北平で秘密裏に結成し、5月には機関紙『再生』を創刊した。フィリップ・シャイデマン*18に影響を受けた張は「国家社会主義」を標榜して、「絶対的愛国主義」、「漸進的社会主義」、「修正された民主政治」などの主張を展開、階級闘争や暴力革命を否定している。1933年4月、国家社会党は第1回代表大会を開催し、張は中央総務委員会総秘書に選出された。張は反蒋介石活動を続行して、山西省の閻錫山から支援を受け、さらに福建事変(蒋介石に対する福建省地方勢力の反乱)が勃発すると、福建人民政府にも参加している。
 その後、張は広東省に移り、中山大学哲学系教授となるが、「反動的思想」とみなした学生の反発を受け、半年で辞任に追い込まれた。1935年、広東の実力者陳済棠の招聘を受け、陳が創設した学海書院で職についたが、翌年夏に陳が反蒋蜂起に失敗、失脚したために書院は閉鎖されてしまう。
◆民盟への参加
 1937年、日中戦争勃発を受けて、張は蒋介石が開催した廬山談話会、国防参議会に参加し、反蒋路線を転換した。1938年4月、国家社会党は正式に公開政党となっている。1939年9月、張は国民参政会憲政期成会委員となり、憲政施行のための準備作業にとりかかった。同年11月、黄炎培らが発起した統一建国同志会に、張は国家社会党を代表して加入している。1940年10月には、雲南省大理において陳布雷らと協力して民族文化学院を創設、張が院長となっている。
 1941年4月、皖南事変(国民党軍が中国共産党軍を攻撃した事件、軍事的には国民党が勝利したが、政治的評判をむしろ落としたとされる)の勃発を受け、国共両党から距離を置く第三勢力の立場を明確にするために、張らの統一建国同志会は中国民主政団同盟に改組され、張は常務委員に就任した。1944年9月、民主政団同盟はさらに中国民主同盟(民盟)に改組され、引き続き張は常務委員を務めた。1945年4月、張はサンフランシスコ会議に中国代表団代表の1人として派遣され、国連憲章起草にも参加した。
国共内戦と晩年
 1946年1月、張は民盟代表の1人として、政治協商会議(中国共産党政権での政協と区別するために旧政協と呼ばれる)に出席した。8月、国家社会党は民主憲政党(華僑の政党で、康有為*19支持派の流れを汲む)と合併し、中国民主社会党を結成している。その後、国共内戦の勃発に従い、張ら民主社会党は次第に反共の姿勢を強め、11月には中国青年党とともに民盟を離脱し、制憲国民大会に出席した。1947年7月、民主社会党は上海で第1回全国代表大会を開催し、張が党主席に選出された。
 国共内戦末期の1949年11月に張はマカオを経由してインドに赴いた。インドではデリー大学コルカタ大学で教鞭をとる。1951年、アメリカに赴き、1955年にスタンフォード大学中国共産党政治研究を行う。また、聯合報系の在米紙『世界日報』で論説を執筆した。その後も世界各国を歴訪し、孔孟学説や反共思想について講演等を行った。
 1969年2月23日、サンフランシスコにて死去。享年・満82歳。

◆張知本(1881~1976年:ウィキペディア参照)
 1900年に、官費で日本へ留学。日本ではまず弘文学院(宏文学院)で日本語を学び、次いで和仏法律学校(後の法政大学)で法律学を学んだ。1905年、東京で孫文孫中山)と知り合い、さらに同年に成立した中国同盟会に加入している。同年に和仏法律学校を卒業して帰国し、湖北広済中学堂堂長、武昌官立法政学堂監督などを歴任した。その一方で、密かに中国同盟会湖北支部評議長も務めている。
 1911年10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発し湖北軍政府が成立すると、張は政事部副部長に任ぜられ、まもなく司法部長に昇進した。張は司法制度整備に迅速に取り組み、12月には宋教仁を補佐して「鄂州臨時約法」を起草している。1912年、南北和議により北京政府が成立するといったんは張も北京に向かったが、袁世凱を嫌って結局湖北に戻り、江漢大学校長となった。翌年2月、国民党党員として参議院議員に当選した。しかし同年7月、第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、江漢大学は革命派根拠地として閉鎖され、さらに張も革命派として学生を唆したと追及されたため、上海へ逃れている。1914年、湖北に戻り、私立中華大学教授となっている。
◆反共右派へ
 1917年7月、孫文が広州で護法運動を開始すると、張もこれに参加するために広州に向かい、非常国会に参加した。その後、李書城*20。が湖南省で組織した護法軍総司令部において張が秘書長を務めている。1918年5月、護法軍政府の改組(大元帥制から7総裁制への改組)と共に権限を削減された孫文が上海へ去ると、張もこれに随従した。1923年、上海法政大学で教鞭をとっている。
 1924年1月、中国国民党第1回全国代表大会が広州で開催されると、張もこれに参加して中央執行委員候補に選出され、2月には大本営参議にも任ぜられている。しかし張自身は孫文が進める三大政策(連ソ・容共・農工援助)には反対しており、馮自由らの反共活動に与した。その後、国民党漢口執行部に移り、陝西・湖北・湖南の3省の党務を担当した。湖北法科大学校長にもなっている。
 1925年3月、孫文が死去すると、張は同年11月に北京で結成された国民党内・反共右派の西山会議派の一員と目されるようになる。しかし実は張自身は、西山会議派の思想傾向こそ支持していたものの、西山会議派指導者の招聘にもかかわらず北京に赴かないなど同派の活動への参加に消極的であった。しかも、国民党主流派からの事情聴取に対しても、張は自身が西山会議派の一員であることを否定している。それでも国民党主流派からは張は西山会議派の主要構成員と見なされ、結局、翌年1月の国民党第2回全国代表大会において西山会議派の幹部である林森・居正らと共に除籍処分を受けている。
蒋介石との対立
 1927年春、上海法政大学の再開に伴い、張は同大学の董事兼校長となった。蒋介石が権力を掌握し、武漢国民政府が合流した後の9月、張は政界に復帰し、湖北清党委員会主任委員に任ぜられる。この時から、胡宗鐸・陶鈞ら新広西派(新桂系)の指揮官と交流を深めていく。10月、武漢に成立した湘鄂臨時政務委員会(主任:程潜)において張は委員兼民政処長となった。さらに湖北省党務指導委員会では組織部長となり、省党部に改組されると訓練部長になっている。11月、張は新広西派(新桂系)の支持を得て湖北省政府主席に就任した。
 1928年5月、国民党武漢政治分会(主任:李宗仁)が成立すると、張は同分会委員となり、1929年初めには張が代理主席を務めている。しかし、蒋桂戦争が勃発すると、張もこれに巻き込まれる形で新広西派の一員と目されてしまった。新広西派敗北と共に張は下野に追い込まれ、再び国民党党籍剥奪処分を受けている。この事件以後、張は本格的に蒋介石への反感を抱くようになった。下野していた間、張は法学者として上海で著作に専念し、『憲法論』、『社会法律学』、『憲政要論』等の著作や翻訳を刊行した。これにより、張は王寵恵*21・董康*22・江庸*23と共に当時の四大法学者と目されている。
 張は反蒋介石活動にも積極的に参加し、1930年には反蒋の北平拡大会議に出席している。1931年2月に広州で反蒋の国民政府が組織されると、張はこれにも参加した。満州事変(九・一八事変)勃発と共に各派大同団結の動きが出ると張はそのための交渉に参画し、各派和解の後の第4回全国代表大会で中央執行委員候補に選出されている。
 1932年、張知本は国民政府民衆訓練委員会主任委員に就任したものの、まもなく蒋と民衆訓練の手法をめぐって対立、辞任した。1933年1月、孫科が立法院長になると、立法院憲法草案委員会委員長を兼ねた孫から張は副委員長に任ぜられ、中華民国憲法の起草を主導し、同年8月には憲法草案を完成させた。しかし蒋の権限を抑制しようとする張の草案は、蒋の横槍で採択に至らず、蒋の意を受けたもう1人の副委員長呉経熊の草案が1934年(民国23年)10月に採択されてしまう。これには孫や張は激しい不満を抱いた。
日中戦争以降、晩年
 1935年11月、張は国民党第5期中央委員候補に選出された。翌年、北平朝陽大学校長に招聘され、1937年3月には司法院秘書長を兼ねたが、主に前者の任務に集中した。日中戦争勃発後、張は朝陽大学を避難させ、長沙・成都重慶への移転事業を進めている。張の学院運営は自由かつ開明的であったが、そのために国民政府教育部長陳立夫からは「共産党の巣」と見なされて監視・統制の対象とされてしまう(重慶への移転はその一環であった)。1942年、張は初代行政法院院長に任ぜられ、1945年5月には国民党第6期中央監察委員に選出された。
 戦後、張は蘇浙皖敵偽産接収清査団団長に任ぜられる。1946年、制憲国民大会代表に選出され、1947年には行憲国民大会代表に再選された。また、国務会議法制審査委員会委員にもなっている。1949年1月、蒋介石が一時下野に追い込まれ、副総統李宗仁が総統代理になると、張は再び行政法院院長に起用された。
 国共内戦で国民党の敗北が決定的になると、張は台湾に逃れた。台湾では総統府国策顧問や総統府資政に任ぜられる。その後も、光復大陸設計研究委員会副主任委員や国民党中央評議委員、国民大会憲政研討委員会常務委員等を歴任した。法学者としては、中国憲法学会や中国刑法学会で理事長を務め、後に中華学術院名誉法学博士号を授与されている。
 1976年8月15日、台北市にて病没。享年96(満95歳)。

◆雷震(1897~1979年:ウィキペディア参照)
 青年期に日本に留学し、1917年に中華革命党に参加。1926年、京都帝国大学法学部を卒業。1927年に母校である浙江省立第三中学(今の湖州中学)校長に就任し、後に国民党政府法制局編審に任命され王世杰*24の部下となる。1932年には中国国民党南京党代表大会主席団主席、1934年7月には教育部総務司司長を歴任。日中戦争間は蒋介石の信任を得て国民参政会副秘書長などに任命される。1946年1月、政治協商会議秘書長に就任し、各党派の意見の調整に当たる。制憲国民大会開催前後には、中国民主同盟に参加していた青年党と民社党の制憲大会への参加協力工作に従事し、1946年11月中旬に制憲大会の代表兼副秘書長に任命される。1947年に国民大会の代表に選出、同年4月に行政院政務委員に任命されるも1948年に辞職。
◆自由中国
 1949年、上海に於いて胡適、王世杰、杭立武*25等と共に雑誌『自由中国』の創刊準備に着手し蒋介石に報告、その賛同を得る。しかし中国共産党の軍隊が長江を越えて進撃し上海に迫ったため、雑誌の創刊は実現しなかった。その後、湯恩伯と協力し上海、廈門の防衛に従事し、同時に国民党の改革事業に着手した。1949年、台湾に渡り杭立武と再び雑誌創刊を協議した。杭立武は当時教育部長であり、その協力を得て『自由中国』社が成立、11月20日には隔週刊誌として『自由中国』が台北に於いて創刊された。発行人は当時アメリカにいた胡適だが、雷が実際の責任者として経営、編集などを担当した。その後「政治改革により、アメリカの援助を獲得する政策」を打ち出した蒋介石により、自由派活動家の政府登用が行なわれ、1950年、蒋介石の国策顧問として招聘される。
 『自由中国』は初期に反共・蒋介石支持の立場で発言を行い、蒋介石と密接な関係を構築していたが、1951年6月初、刊頭で夏道平により「政府不可誘民入罪」と題する蒋介石を批判する社説が発表され問題とされた。当初は自由派を優遇した蒋介石であるが、アメリカの援助を獲得すると政府内での自由派の立場は弱まり、雷と蒋介石の関係も次第に疎遠になり、1953年には国策顧問等の職を解かれる。1954年末より『自由中国』では『教育を救え』というキャンペーンを行い、これに不満を抱いた国民党は雷の党籍を剥奪した。
 『自由中国』の言論は次第に「蒋介石支持・反共」から「民主反共」の立場に変化し、民主化と自由人権を主張し、これに反対する蒋介石への批判を強め、両者の間に緊張関係が生じた。1956年に出版された特別号では自由派活動家からの蒋介石に対する提言が特集されると、政府による言論規制が敷かれることとなった。その後も『自由中国』は政府との全面論戦を挑み、殷海光が執筆した「反攻大陸問題」で政治的タブーであった野党問題に触れ、野党の存在こそが問題を解決するためのキーワードであると主張した。雷は1958年より李万居、呉三連*26、高玉樹等78人によって「中国地方自治研究会」の設立を準備したが、行政当局からの許可が下りず計画は失敗した。
◆逮捕
 1960年、雷と彼の仲間は共同署名で蒋介石が総統三選を目指すことに反対。5月4日、野党の必要性を主張、野党が参加した選挙による政治バランスの構築を唱え、5月18日、非国民党活動家で選挙改革推進活動を行い、新党結党を主張し、公正な選挙に依る民主的な社会の実現を要求した。同日「地方選挙改進座談会」の結成が採択され、雷は座談会の召集委員に就任、李万居、高玉樹らとともに広報を担当した。その後7~8月に4回、座談会を開催し、党名も「中国民主党」と決まった。しかし政府情報機関はこの動きを監視、9月4日に雷のほか、劉子英、馬之驌、傅正が逮捕され、軍事法廷共産党スパイを隠匿し反乱を扇動した罪で懲役10年が宣告された。当時アメリカ在住であった胡適は台湾に向かい蒋介石に対し情状酌量を求めたが、この要求は受け入れられなかった。
◆晩年
 1970年9月4日、10年の服役満了により出獄。1971年12月中旬「救亡図存献議」を表し、政府に対し10大改革案を提出した。その中で政治改革、軍事改革を行い民主化を実現させ、国号も中華民国から、中華台湾民主国に変更することを要求。この建議書は翌年1月10日に総統府、行政院に提出されたが、回答を得ることはなかった。また、後に民進党に参加する許信良*27や張俊宏ら、民主活動家とも親交があった。1979年に台北にて逝去。
 2002年9月4日、台湾(中華民国)政府は雷の名誉回復を発表している。

*1:著書『図説・馬の博物誌』(編著、2001年、河出書房新社)、『ハミの発明と歴史』(2004年、神奈川新聞社

*2:金沢大学名誉教授

*3:東京大学史料編纂所教授。著書『日本古代の地域社会と行政機構』(2019年、吉川弘文館

*4:大蔵次官から政界入り。自由党政調会長(吉田総裁時代)、吉田内閣蔵相、通産相、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相などを経て首相

*5:1922~2014年。文革で一時失脚するが、全国人民代表大会常務委員、中央民族委員会副主任などの要職を歴任。彼の評伝として、阿部治平『もうひとつのチベット現代史:プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』(2006年、明石書店)がある。

*6:1906~1988年。新中国建国後、内モンゴル自治区党委員会第一書記、内モンゴル自治区人民委員会主席、内モンゴル軍区司令員兼政治委員、内モンゴル大学学長、内モンゴル自治区政治協商会議主席など要職を歴任するが、文革で「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」と批判され失脚。文革終了後、復権し、全人代常務副委員長、全国政治協商会議第一副主席、国家副主席など歴任。ウランフの評伝として楊海英 『中国とモンゴルのはざまで:ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(2013年、岩波現代全書)がある。

*7:1880~1955年。山形県出身。1920年大正9年)の第14回衆議院議員総選挙立憲政友会から出馬し、当選。第21回に至るまで7回当選を果たし、米内内閣で拓務政務次官を務めた。雪害救済運動に取り組んだ事で知られる(ウィキペディア『松岡俊三』参照)。

*8:戦前は天津総領事、奉天総領事、駐スウェーデン公使、外務次官、駐伊大使、駐英大使など歴任。戦後は東久邇宮、幣原内閣外相を経て首相

*9:戦前、田中内閣書記官長、犬養、斎藤内閣文相など歴任。戦後、日本自由党総裁、日本民主党総裁、自民党総裁、首相を歴任

*10:1999年(平成11年)10月1日に解散。日本政策投資銀行に一切の権利義務を承継した(ウィキペディア北海道東北開発公庫」参照)。

*11:津田塾大学教授。著書『対立と共存の日中関係史』(2017年、講談社)など

*12:重慶市党委員会書記、広東省党委員会書記、副首相などを経て全国人民政治協商会議主席(党中央政治局常務委員兼務)

*13:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、国家中央軍事委員会副主席、党中央軍事委員会副主席などを経て、党総書記、国家主席、国家中央軍事委員会主席、党中央軍事委員会主席

*14:1891~1962年。1917年、北京大学学長だった蔡元培に招かれて北京大学教授に就任。満州事変が起こると、1932年、『独立評論』を創刊し、日本の満州支配を非難した。1938年(民国27年)、駐米大使に、1946年には北京大学学長に就任。1949年、共産党国共内戦に勝利すると、アメリカに亡命。1957年から台湾に移り、外交部顧問、中央研究院長を歴任(ウィキペディア胡適』参照)。

*15:1846~1926年。1908年のノーベル文学賞受賞者(ウィキペディア『ルドルフ・オイケン』参照)。

*16:1859~1941年。1927年のノーベル文学賞受賞者。著書『物質と記憶』(岩波文庫講談社学術文庫ちくま学芸文庫)、『創造的進化』(岩波文庫ちくま学芸文庫)、『笑い』(岩波文庫光文社古典新訳文庫ちくま学芸文庫)、『意識に直接与えられたものについての試論』、『道徳と宗教の二つの源泉』(以上、ちくま学芸文庫)、『時間と自由』(白水Uブックス)、『思考と動き』、『精神のエネルギー』(以上、平凡社ライブラリー)(ウィキペディア『アンリ・ベルクソン』参照)。

*17:1887~1973年。新中国建国前、中国民主同盟(民盟)常務委員など歴任。国共内戦では蒋介石独裁体制を嫌い、共産党に協力。1949年の新中国建国後、中国人民政治協商会議全国委員、政務院(後の国務院)文化教育委員などを歴任するが、1952年に全ての職を辞任。さらに文化大革命開始後の1968年1月には逮捕され、1973年6月2日、獄死(ウィキペディア『張東蓀』参照)。

*18:1865~1939年。ワイマール共和国初代首相を務めた(ウィキペディア『フィリップ・シャイデマン』参照)。

*19:1858~1927年。光緒帝ブレーンとして「戊戌の変法」を実施するが保守派のクーデターで失脚した(ウィキペディア『康有為』参照)。

*20:1882~1965年。蒋介石政権幹部だったが、国共内戦では中国共産党に降伏。新中国建国後、農業大臣、全国人民代表大会常務委員、中国人民政治協商会議全国常務委員など歴任(ウィキペディア「李書城」参照)

*21:1881~1958年。中華民国外交総長、司法総長、大理院(最高裁に当たる)院長、国務院総理、常設国際司法裁判所判事など歴任。国共内戦では台湾に逃れた(ウィキペディア『王寵恵』参照)。

*22:1867~1947年。中華民国大理院(最高裁に当たる)院長、司法総長、財政総長など歴任(ウィキペディア『董康』参照)

*23:1877~1960年。中華民国司法部次長、代理司法総長、司法院大法官など歴任。新中国建国後も中国大陸にとどまり、中国人民政治協商会議全国委員、政務院法律委員会委員などを歴任(ウィキペディア『江庸』参照)

*24:1891~1981年。日中戦争時に蒋介石政権教育大臣、外相を歴任(ウィキペディア「王世杰」参照)

*25:1903~1991年。国共内戦時に蒋介石政権教育大臣。蒋介石の台湾亡命後は駐タイ大使、駐ラオス大使、駐フィリピン大使、駐ギリシャ大使など歴任(ウィキペディア「杭立武」参照)

*26:1899~1988年。初代民選台北市長(ウィキペディア「呉三連」参照)。

*27:1941年生まれ。桃園県長、民主進歩党主席など歴任