守る会に突っ込む(2020年2月21日分)(追記あり)

追記あり
 情報(1963年に制作された北朝鮮取材の記録映画「チョンリマ(千里馬)」が2月24日大阪で上映される)(2月23日発表) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)でこの拙記事をご紹介頂きました。ありがとうございます。
【追記終わり】

【大阪】60年前、映画『チョンリマ』が伝えた北朝鮮~当時を知り、今を考えるために~ 2020/02/24(月・祝日)
 中身の薄い記事で映画『チョンリマ』とは何なのか、『チョンリマ』を見ることで何がしたいのか、さっぱりわかりません。
 でググって見つけた記事を紹介しておきましょう。なお、『チョンリマ』と監督の宮島については以前
「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう・パート128(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログでも小生が簡単に触れています。

北の将軍様が映画監督と女優を「拉致」してまで映画作りに励んだワケ(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
・『チョンリマ』は、監督の宮島義勇*1ら約10名の日本人撮影班が1963年春に北朝鮮に渡り、10ヵ月かけて同国各地で社会主義建設の様子を撮影した記録映画であり、史上初の日朝合作映画である。

 「ラングーン事件(1983年)後の日朝共産党関係の断絶」「拉致問題での制裁」を考えれば今の若者には意外でしょうが、何せ、1985年にはゴジラスタッフが訪朝して怪獣映画『プルガサリ』をとっています。
 ましてや1963年といえば、青瓦台襲撃事件(1968年)も拉致事件(1970年代)も起こっていません。金日成の個人崇拝が露骨になるのも「国家主席ポストの新設(1972年)」「主体思想の国家理念化(1977年)」が始まる1970年代以降です。1950年代の朝鮮戦争については「韓国の北進説」も有力でした(朝鮮戦争の開戦がどちらかについて最終的に決着がつくのはソ連崩壊後)。北朝鮮の問題点など1960年代にはあまり認識されてないわけで、一方、1960年代の韓国は朴正煕軍事独裁政権です。
 日本人、特に宮島のような左派が北朝鮮にシンパシーを感じても何ら不思議ではない時代だったわけです。
 さて

北の将軍様が映画監督と女優を「拉致」してまで映画作りに励んだワケ(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
・いうまでもなく、『チョンリマ』は典型的なプロパガンダ映画だ。北朝鮮側は本作を自国のアピールに利用しようとし、たびたびシナリオや撮影対象に口出ししてきたという(宮島の日誌より)。
・日本側のスタッフも決して中立的ではなかった。(ボーガス注:後に離党するが)宮島はこのとき日本共産党員であり、製作委員会の主要なメンバーである大村英之助*2や、ぬやま・ひろし(西沢隆二*3)らもまたそうであった。当時、日本共産党朝鮮労働党の関係は蜜月であり、そのおかげで、北朝鮮での映画撮影という異例中の異例が可能になったのである。

という指摘があるように『チョンリマ』は政治的映画であり、今の北朝鮮の問題点を考えれば、

北の将軍様が映画監督と女優を「拉致」してまで映画作りに励んだワケ(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
 日本共産党は『チョンリマ』の宣伝を熱心に行った。同党の機関誌『アカハタ』は、「「チョンリマ」が呼ぶすばらしい感動」(1964年5月14日付)、「事実を記録した映像と音声 その強烈な感動」(同年9月1日付)などと同作を絶賛。各地で展開された「チョンリマ上映運動」の様子を繰り返し報道した。
 『チョンリマ』を評価したのは日本共産党だけではなかった。『アカハタ』ほどではないにせよ、『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』などにも今日では考えられないほど好意的な映画評が掲載されている。

のように無邪気にほめたたえることは「現時点において」できる映画ではありません。
 とはいえおそらく『右翼団体・守る会』主催の上映会がやるであろう映画『チョンリマ』や宮島ら当時の左派に対する悪口雑言を今更やっても何ら建設的ではない。

北の将軍様が映画監督と女優を「拉致」してまで映画作りに励んだワケ(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
 ただし1963年の北朝鮮は、今日のそれとは大きく異なっていた。北朝鮮は数多ある社会主義国のひとつにすぎなかった。チュチェ思想はまだ体系化されておらず、個人崇拝も控えめで、当然ながら指導者の世襲など問題外だった。また韓国との経済格差もそれほどなかったという点も忘れてはならない。
 今日の立場から『チョンリマ』を批判するのは、赤子の手をひねるより簡単だ。
 だが、こうも考えてみたい。肯定的な情報があふれるなかで、珍しく美麗な映像を見せられて、それでもなお、われわれはその対象について批判的で冷静な視座を保てるだろうかと。そう考えて観たほうが、得る教訓は多いかもしれない。

という指摘がある通りです。
 「礼賛でも罵倒でもない、建設的な批判」が求められるわけですが、まあ「言うは易し、行うは難し」です。

北の将軍様が映画監督と女優を「拉致」してまで映画作りに励んだワケ(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
 監督の宮島は1966年に日本共産党を離党。日本共産党朝鮮労働党もその後路線対立で関係が悪化した。そのため、『チョンリマ』も闇に葬られて、幻の映画となってしまった。

 誰も「闇に葬ってはいない」でしょう。そもそも日本においてドキュメンタリー映画など大して人気はありません。ましてや、その後、「ラングーン事件などの問題点が表面化」すれば見たがる人も一層少ないでしょう。見る人が少なければ上映されない、それだけの話です(ググった限りではビデオ化もされてないようです)。

北の将軍様が映画監督と女優を「拉致」してまで映画作りに励んだワケ(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
 また宮島は、日中戦争・太平洋戦争下に、『燃ゆる大空*4』や『あの旗を撃て*5』などの国策映画の撮影に関わったことも念のために付記しておく。

 これは宮島に限らず、基本的にはほとんどの戦前、戦後にかけて活躍した映画人(監督、脚本家、俳優など)は「左派の今井正*6山本薩夫*7にせよ」、左派でない人間にせよ、ほとんど大なり小なり「国策映画に関与」でしょう。
 何せ、別記事でも書きましたがあの原節子も、日独合作国策映画『新しき土』に出演していますし。
 それを「戦争に加担したのに戦後、左傾化した」などと批判してもあまり意味もないでしょう。むしろ戦前の反省から「左傾化した」わけですし、わかりやすい例だと最高裁を批判した、今井映画『真昼の暗黒』、今井には解放同盟批判の意図など全くなかった*8にもかかわらず、解放同盟の非難を受けることとなった今井映画『橋のない川』などはそれなりの覚悟がないと作れない映画でしょう。

*1:1909~1998年。戦後の一時期、日本共産党書記局で活動し、レッド・パージで共産党に対する弾圧が行われた際には書記長・徳田球一メッセンジャーとして中国に渡航し、中国側の「日本共産党の指導者を迎え入れる用意がある」という伝言を日本に持ち帰ったという伝説の持ち主(その後、1960年代に共産党から離れた)。1951年、レッド・パージで解雇された今井正監督の復帰作『どっこい生きてる』で自らも撮影指揮として映画界に復帰。なかでも、小林正樹監督と組んだ『人間の條件』(1959年、1961年)、『切腹』(1962年)、『怪談』(1965年)は、国内外から高く評価された。毒舌家で知られ、卓越した技術とそれに裏打ちされた撮影理論から、監督にも遠慮なく意見をいう直言型の性格で、「宮島天皇」と呼ばれた。一方、大映京都撮影所のカメラマン・宮川一夫とともに双璧をなす存在から、「西の宮川、東の宮島」とも言われた。著書『「天皇」と呼ばれた男・撮影監督宮島義勇の昭和回顧録』(2002年、愛育社)(ウィキペディア「宮島義勇」参照)

*2:1905~1986年。映画プロデューサー。1939年、日本民芸協会(柳宗悦によって設立)と積雪地方農村経済調査所の取り組みから生まれた日本雪氷協会の監修による石本統吉監督の記録映画『雪國』をプロデュースし文部大臣賞受賞。1971年、ビデオ東京プロダクション(河野秋和代表取締役)製作の人形アニメーション『てんまのとらやん』の企画を担当。第7回モスクワ国際映画祭児童映画部門銀賞、1972年度教育映画祭最高賞を受賞(ウィキペディア『大村英之助』参照)

*3:1903~1976年。1940年代には、徳田球一書記長の女婿であったこともあって、共産党の文化問題に関しての権威とされた。レッドパージ後に徳田ら所感派が中国に渡って北京機関を組織したときには西沢もその一員となった。日中共産党の路線対立の際に、党の組織方針に従わずに1966年10月に中国派として安斎庫治らとともに除名され、福田正義ら率いる日本共産党(左派)に参加。毛沢東思想研究会を設立し、同会の機関誌『毛沢東思想研究』編集人となった。晩年は正岡子規の研究に励み、また、子規の妹律の養子である正岡忠三郎とは二高時代からの親友であった。そのため、講談社版『子規全集』の編集委員にも名を連ねている。司馬遼太郎とも交友があり、1979年から翌年にかけて月刊『中央公論』に連載された司馬の小説『ひとびとの跫音』(中公文庫)では正岡忠三郎と西沢が主人公として登場する(ウィキペディア『西沢隆二』参照)

*4:1940年東宝阿部豊監督、大日方傳主演で日中戦争での航空部隊の活躍を描いた(ウィキペディア『燃ゆる大空』参照)

*5:1944年東宝阿部豊監督、大河内傳次郎主演で『フィリピン戦緒戦での日本軍勝利』を描いた(ウィキペディア『あの旗を撃て』参照)

*6:1912~1991年。1950年、『また逢う日まで』でキネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。1956年、八海事件の裁判で弁護を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』を監督。キネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。1957年、原爆症の少女と不良少年の恋を描いた恋愛映画『純愛物語』で第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞。1963年、『武士道残酷物語』を監督。封建社会の残酷さを7つの物語で描き、第13回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞(ウィキペディア今井正』参照)。

*7:1910~1983年。『白い巨塔』(1966年、大映)、『戦争と人間(三部作)』(1970年、1971年、1973年、日活)、『華麗なる一族』(1974年、東宝)、『金環蝕』(1975年、大映)、『不毛地帯』(1976年、東宝)、『皇帝のいない八月』(1978年、松竹)、『あゝ野麦峠 新緑篇』(1982年、東宝)など、社会派として反体制的な題材を扱いながらも娯楽色豊かに仕上げる手腕をもった監督として、興行的にも常に成功していたため、共産党を嫌った大映永田雅一東宝藤本真澄など大手映画会社のプロデューサー達にも「共産党員監督」でありながら起用された。多くの大作を残していることから、「赤いセシル・B・デミル」と呼ばれた(ウィキペディア山本薩夫』参照)。

*8:原作者の住井すえが解放同盟に批判的だったが故の因縁つけだったといわれます。