黒坂真に突っ込む(2020年2月23日分)

◆黒坂ツイートにコメント

黒坂真
 吉岡正史さん。(ボーガス注:憲法24条の)両性の合意、の両性とは男性と女性の事としか私には考えられません。

 で同性婚容認は憲法24条違反で改憲の必要があると強弁する黒坂*1ですが、「両性の合意」は十分「両性には同性を含む」と解釈できると俺は思いますね。
 黒坂は「両性は異性としか考えられません」「共産党など同性婚容認派は解釈改憲だ。だったら、安倍総理集団的自衛権容認も認めろ」と決めつけるだけでそう解釈するまともな根拠を何一つ出しません。
 かつ仮に「両性=異性」だとしてもそれは「同性婚憲法制定者が否定する意思だった」ということにはならない。単に「当時の憲法制定者が同性婚を想定してなかった」つうだけの話です。
 まあ百歩譲って「同性婚憲法24条違反」だとしても「両性を両者、双方など別の言葉に変え、24条だけ改正すればいい」だけの話なんですけどね。黒坂らウヨが「一緒に九条も変えよう」などと言わない限り、俺は24条改正に反対はしません。多くの護憲派はそうじゃないか。

黒坂真
 福山和人さん。歴史にもしも、ですが米軍基地、核兵器なしで米国が日本に沖縄を返還していたら、中国人民解放軍尖閣、沖縄侵攻はあり得たと考えます

 まず第一に黒坂が「沖縄に米軍基地がなかったら中国の侵攻があった」と根拠レスで放言している点に呆れますね。
 第二に「『核を持ち込まない』が本当に沖縄などで実施されてるか怪しい」という福山氏の批判に「沖縄の米軍基地に持ち込んで何が悪い。持ち込まなければ中国の沖縄侵攻ガー」と放言している点に呆れます。なんで「核を沖縄に持ち込まない」と中国の沖縄侵攻があるなんて話になるのか。歴代自民党総裁にせよ、米国政府にせよ「核を沖縄の米軍基地に持ち込んで何が悪い」なんて勿論言ってないので歴代自民党総裁や米国政府にとってこれほどありがた迷惑な放言もないでしょう。例の「米軍基地がないと沖縄侵攻ガー」のI濱Y子ですら「核の沖縄持ち込みがないと」なんて馬鹿なことは言わないんじゃないか。

黒坂真
 今の日本共産党綱領を作る際、不破氏や志位氏は構造改革論と瓜二つであることを自覚していたはずです。

 どうも「構造改革論江田三郎*2など)を共産党が過去に批判したことを関係者(江田三郎の子息である江田五月*3とか?)にわびろ」とでも言いたいようですが、いつもながら黒坂も無茶苦茶な男です。仮に「今の綱領」が「構造改革論社民連江田三郎など)」と似ているなら江田三郎は勿論暴力革命など目指してないので「共産党は暴力革命」などありえないのですが、一方で黒坂は「敵の出方論」をネタに「暴力革命ガー」で「安倍総理の発言は反共デマではない」と強弁ですから心底呆れます。論理的整合性が全くない。
 まあそれはともかく、江田三郎の活動した時代と今とでは時代背景が違うし、黒坂の場合「単に因縁が付けたいだけ」ですからね。江田三郎の関係者や支持者も「江田三郎氏に無礼なのは共産党よりも手前の方だ、黒坂!」とむしろ怒り心頭でしょう。

黒坂真リツイート
 吉岡正史さん。治安維持法には行き過ぎがあったと思いますが、当時の日本共産党ソ連から資金と武器(拳銃)を受け取り内乱を起こそうとしていたのですから、逮捕・投獄は当たり前です。当時の日本共産党員を逮捕しなければ、要人暗殺等をやった可能性有。日本共産党員のためにも投獄は必要でした。

1)そもそも治安維持法は「共産主義&国体否定を処罰する法」で「共産党弾圧に限定されておらず」、創価学会PL教団も「神社参拝拒否」などで、また朝鮮人独立運動も弾圧を食らってること
2)共産党だろうとヤクザだろうと、合法的な取り締まりがされて当然であり、小林多喜二虐殺のような無法は許されないこと
3)現実問題として共産党に内乱だの要人暗殺だのやる力はなかったこと
4)治安維持法(1925年成立)成立前及び成立後の要人暗殺(未遂含む、ウィキペディア参照)は

1921年9月28日の安田善次郎安田財閥総帥)暗殺事件
 右翼活動家・朝日平吾による犯行。朝日は犯行直後、短刀で喉をついて自殺
1921年11月4日の原敬*4首相暗殺事件
 右翼青年・中岡艮一による犯行。中岡は無期刑判決を受けたが恩赦で1934年に出獄。中岡の犯行は約1か月前の安田善次郎安田財閥総帥)暗殺事件に影響を受けたと言われる。
◆1923年の虎ノ門事件
 無政府主義者の難波大助が摂政・裕仁(後の昭和天皇)を狙撃した暗殺未遂(難波には死刑判決)。第2次山本*5内閣は、引責により総辞職。また、当日の警護責任を取り、警視総監の湯浅倉平*6と警視庁警務部長の正力松太郎(後に読売新聞社主)が懲戒免官になった。
 なお、この事件の背景には関東大震災時(1923年)の陸軍による虐殺事件である甘粕事件(大杉栄伊藤野枝を虐殺)、亀戸事件(日本共産青年同盟(共青)委員長・川合義虎、労働活動家・平沢計七らを虐殺)への難波の反発があったとされる。
◆1928年の張作霖暗殺
 関東軍の河本大作らによる犯行。田中義一*7首相は河本の懲戒処分を当初約束したものの反故にしたことから、天皇の信頼を失い、内閣総辞職
◆1930年11月の浜口雄幸*8首相狙撃事件
 右翼活動家・佐郷屋留雄による狙撃。浜口はこの傷が元で放線菌症を発症し、1931年8月に死去。検察は浜口の死について殺人罪を主張したが、裁判所は狙撃からしばらく経過した後の放線菌症による死についてまで「殺人とは認定できない」として殺人未遂罪を認定したものの1933年に佐郷屋に死刑判決。ただし1934年に恩赦で無期に減刑され、1940年に仮出所している。佐郷屋は1954年、血盟団事件の中心人物である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、後に団長となる。1959年には児玉誉士夫らが結成した右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。
◆1932年1月の桜田門事件
 朝鮮人独立活動家・李奉昌昭和天皇の乗った馬車に向かって手榴弾を投げた暗殺未遂事件(手榴弾は威力が弱く昭和天皇を負傷させるに至らなかった)。李には死刑判決。虎ノ門事件の前例から犬養首相が辞表を提出したが、昭和天皇の慰留により犬養内閣は継続。
 1962年、李は韓国政府(朴正煕軍事政権時代)から建国勲章大統領章(2等級)を追叙された。また、1992年(盧泰愚政権時代)には没後60年を記念する百ウォン切手が発行された。
◆1932年2~3月の血盟団事件
 右翼結社・血盟団により井上準之助*9前蔵相(2月9日暗殺)、団琢磨三井財閥総帥(3月5日暗殺)が暗殺された
◆1932年4月29日の上海天長節爆弾事件
 朝鮮人独立活動家・尹奉吉による爆弾テロ。白川義則*10上海派遣軍司令官を暗殺し、野村吉三郎*11第3艦隊司令長官、植田謙吉*12第9師団長、村井倉松*13駐上海総領事、重光葵*14駐上海公使を負傷させた(尹には死刑判決)。韓国政府(朴正煕軍事政権時代)は、1962年に建国勲章大韓民国章(1等級)を贈り、独立運動の義士として顕彰し、独立記念館に祀っている。
◆1932年5月の五・一五事件
 海軍青年将校により犬養毅*15首相が暗殺された。犬養の死により、斎藤内閣が成立。
◆1935年の永田鉄山軍務局長暗殺事件
 皇道派の相沢三郎・陸軍中佐による暗殺。永田は皇道派と対立する統制派の首領的存在。相沢には死刑判決。
◆1936年の二・二六事件
 いわゆる皇道派の陸軍青年将校により、斎藤実*16内大臣高橋是清*17蔵相、渡辺錠太郎*18陸軍教育総監が暗殺され、鈴木貫太郎*19侍従長が瀕死の重傷。岡田啓介*20首相は襲撃されたものの、辛くも逃げ切り命を取り留めたが内閣総辞職し、広田*21内閣が成立

『駘馬の道草』 - 学問空間
 学習院大学学長だった故・安田元久*22に『駘馬の道草*23』という著書(自伝)があるのは知っていましたが、ずいぶんのんびりした書名なので、功なり名を遂げた老学者の思い出話、秀才の自慢話かと思って読まずにいました。
 しかし、昨日、池袋のジュンク堂でたまたま手にとって少し読んでみたら、予想とはずいぶん違っていそうだったので、あわてて購入し、昨日・今日とよみふけってしまいました。
 この本には「大正末期・昭和初期の激動と前半生の自伝」という副題がついていますが、27歳で終戦を迎えるまでで終わっており、客観的には「前半生」じゃないですね。
 関東大震災時の戒厳司令官だった福田雅太郎陸軍大将の孫に生まれ、祖父が無政府主義者からピストルで撃たれたり、自宅に爆弾入りの小包を送りつけられたりする珍しい経験はしたものの、非常に恵まれた環境で育ったスポーツ万能の安田青年の生活は、フランス帰りの超エリート軍人であった父親(ボーガス注:安田銕之助)が予備役となり、ついで神兵隊事件*24の首謀者の一人として逮捕され、内乱予備罪の被告人となるに及んで一変し、親戚・知人宅に転居を繰り返し、精神的な荒廃もあって旧制高等学校受験に3度失敗。ようやく入学した静岡高等学校でバスケットボール三昧の生活を送っていたら病気で一年休学。昭和17年に東京帝国大学入学に進学したものの、翌年には入営。薩摩半島の川辺町に駐屯して米軍上陸に備えた訓練をしていて終戦を迎える、といった具合です。

などだがそのほとんどは右翼テロで共産党は関係ない(虎ノ門事件の難波や『福田雅太郎*25陸軍大将狙撃事件の実行者・和田久太郎*26』は左派ですが彼らは「大杉栄の同志=アナキスト無政府主義者)」であって共産党員ではない)
など突っ込みどころしかない黒坂の暴論です。正直、所属大学もいい加減、黒坂を懲戒処分していいと思うし、日本共産党も法的措置を執っていいのではないか。

*1:稲田や下村も同様の改憲論を唱えていたかと思いますが。

*2:1907~1977年。社会党書記長、副委員長、社民連代表など歴任

*3:社民連代表、細川内閣科学技術庁長官、参院議長、菅内閣法相など歴任

*4:立憲政友会幹事長、第4次伊藤内閣逓信相、第1次、第2次西園寺、第1次山本内閣内務相などを経て首相

*5:第2次山縣、第4次伊藤、第1次桂内閣海軍大臣、首相を歴任

*6:ただし後に湯浅は復権し、内務次官、会計検査院長宮内大臣内大臣などの要職を歴任。

*7:参謀次長、第一次山本、原内閣陸軍大臣立憲政友会総裁などを経て首相

*8:大蔵次官から政界入り。加藤高明、第1次若槻内閣蔵相、第1次若槻内閣内務相を経て首相

*9:第2次山本、濱口、第2次若槻内閣で蔵相

*10:関東軍司令官、田中内閣陸軍大臣上海派遣軍司令官などを歴任

*11:海軍省教育局長、軍令部次長、第三艦隊司令長官、阿部内閣外相、駐米大使など歴任。

*12:参謀次長、朝鮮軍司令官、関東軍司令官など歴任

*13:上海総領事、シドニー総領事など歴任。外務省退官後、八戸市

*14:東条、小磯内閣外相。戦後、戦犯として禁固7年の判決を受け公職追放もされるが後に追放が解除。政界に復帰し、改進党総裁、日本民主党副総裁、鳩山内閣外相を歴任

*15:第1次大隈内閣文相、第2次山本、加藤高明内閣逓信相などを経て首相

*16:第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任

*17:第1次山本、原、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相、首相を歴任

*18:陸軍航空本部長、台湾軍司令官、陸軍教育総監など歴任

*19:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長、首相など歴任

*20:田中、斎藤内閣海軍大臣、首相を歴任

*21:斎藤、岡田、第1次近衛内閣外相、首相を歴任。戦後、戦犯として死刑判決。後に靖国に合祀。

*22:著書『日本荘園史概説』(1957年、吉川弘文館)、『源頼朝』(1958年、弘文堂)、『地頭及び地頭領主制の研究』(1961年、山川出版社)、『北条義時』(1961年、吉川弘文館人物叢書)、『武士団』(1964年、塙書房)、『守護と地頭』(1964年、至文堂)、『源義経』(1966年、人物往来社)、『源平の争乱』(1966年、筑摩書房)、『源義家』(1966年、吉川弘文館人物叢書)、『平家の群像』(1967年、塙書房)、『平清盛』(1971年、清水書院)、『武士世界の序幕』(1973年、吉川弘文館)、『院政源平合戦』(1975年、ポプラ社)、『日本初期封建制の基礎研究』(1976年、山川出版社)、『鎌倉開府と源頼朝』(1977年、教育社)、『鎌倉執権政治』(1979年、教育社)、『鎌倉御家人』(1981年、教育社)、『武蔵の武士団』(1984年、有隣堂)、『武士世界形成の群像』(1986年、吉川弘文館)、『後白河上皇』(1986年、吉川弘文館人物叢書)など

*23:1989年、吉川弘文館

*24:1933年に発覚したクーデター未遂事件。斎藤実首相、牧野伸顕内大臣、鈴木喜三郎立憲政友会総裁、若槻禮次郎民政党総裁らを襲撃し、戒厳令を発動させることを狙っていたが実行前に摘発され未遂に終わった。武藤章ら陸軍統制派が背後にいたとも言われる。

*25:参謀次長、台湾軍司令官など歴任

*26:勿論、和田にも難波同様、甘粕事件や亀戸事件への恨み辛みがあった。なお、和田は無期刑判決(後に恩赦で懲役20年に減刑)。獄中で結核(当時は治療困難で死病と呼ばれた)を病んだことで将来を悲観し、後に自殺。