今日の産経ニュース(2020年2月29日分)

消えた歓声…プロ野球オープン戦 新型肺炎対策で - 産経ニュース
 ということで新型コロナ対応で無観客試合だそうです。今後も野球に限らず、スポーツ興業はしばらくの間は「中止」「延期」「無観客試合(テレビ放送はあり得る)」が続くようです。


【浪速風】新型肺炎 危機管理は先手を - 産経ニュース

 安倍晋三首相は全国的なイベントの自粛、小中高校などの休校を相次いで打ち出した。その直前に政府の対策本部が決めた基本方針には盛り込まれていない。
 感染の拡大を徹底的に防ぐ手立てを講じることは重要である。しかし危機管理は常に先手を取る必要がある。後出しの唐突な対策は社会を混乱させる。

 「思いつきで仕事をやるな」と珍しく安倍批判する産経です。


【産経の本】『台湾に水の奇跡を呼んだ男 鳥居信平』平野久美子著 日台つなぐ日本人技師の偉業 - 産経ニュース

 本書で描かれる鳥居の無私無欲、住民の生活や衛生、環境への深い心配りは、アフガニスタンで昨年凶弾に倒れた「ペシャワール会」の中村哲医師の姿にどこか重なるものがある。

 ウィキペディア「鳥居信平」にも書いてありますが、鳥居は「台湾製糖社員」として活動したのだから、「自分でNPO法人を作り上げて活動を始めた」中村氏とは全然違います。


【昭和天皇の87年】皇太子と1年4カ月ぶりに再会 「我が軍人は科学を忘れた…」 - 産経ニュース
 有料記事なので途中までしか読めませんが。

 終戦間もない昭和20年9月9日、栃木県の奥日光に疎開されていた皇太子(上皇さま)のもとに届いた、昭和天皇の手紙である。
 「敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである」
 「明治天皇の時には山県(有朋)*1 大山(巌)*2 山本(権兵衛)*3等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦独国の如く 軍人がバッコ(跋扈)して大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた」

 息子である皇太子(現上皇)相手に自分の非を認めるのは父親としてつらいかもしれませんがそれにしても軍最高司令官、国家元首が「俺は悪くない、軍が悪い」と東条英機陸軍大臣、首相を歴任)ら部下に責任転嫁するとはどれほど恥知らずなのか。

・あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつた
・精神に重きをおきすぎて 科学を忘れた

のは昭和天皇自身ではないのか。
 かつこの手紙は、【昭和天皇の87年】「責任はすべて私に」 マッカーサーを感動させた天皇の真情 - 産経ニュースで産経が紹介した「マッカーサーへの昭和天皇発言(皇太子への手紙と違い客観的証拠は何もない)」とやらが
1)マッカーサーの虚言であり、そんな事実はなかった、あるいは
2)実際そうした発言を昭和天皇はしたが何ら本心ではなかった
ことを証明していると言っていいでしょう。


【昭和天皇の87年】「責任はすべて私に」 マッカーサーを感動させた天皇の真情 - 産経ニュース
 有料記事なので途中までしか読めませんが。

 マッカーサーの回想によれば、昭和天皇は緊張しており、その様子から“命乞い”に来たのではないかと思ったという。
 だが、昭和天皇が口にしたのは、まるで正反対のことだった。
 「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
 マッカーサーは驚いた。そのときの心境を、のちにこう書いている。
 「私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任*4を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」

 この逸話については
1)「昭和天皇の政治利用(天皇制廃止や昭和天皇刑事訴追どころか昭和天皇退位すらしない)」という政治方針が決まった後でのマッカーサーの回想発言で、会見直後のリアルタイムの発言ではない
2)マッカーサーの個人的発言しか根拠がなく、公式の会見記録にはそんなものは何もない(例えば豊下楢彦*5昭和天皇マッカーサー会見』(2008年、岩波現代文庫)参照)
3)戦争責任をマスコミ記者に質問された際の例の昭和天皇の無責任発言「言葉の綾発言」とあまりにも内容が違いすぎる
4)そこまで反省していた人間が退位すらせず、その後も「沖縄メッセージ」など政治的言動をためらいなくやっていたのは不自然
ということから「本当か怪しい」「昭和天皇美化のための嘘」と見るのが通説です。そんなことは産経も知ってるだろうに良くもデタラメな記事が書けたもんです。昭和天皇の人間としてのクズぶりにはいつもながら呆れます。あの「クズ親」と比較すれば「息子である前天皇」は「ずっとまとも」なように思います。

【参考:言葉の綾発言】

澤藤統一郎の憲法日記 » 「あの無謀な戦争を始めて、我が国民を塗炭の苦しみに陥れ、日本の国そのものを転覆寸前まで行かしたのは一体だれですか」 ― 天皇(裕仁)の戦争責任を追及する正森成二議員の舌鋒
 天皇裕仁)が、自分の戦争責任についてどう自覚しているかについて、国民に語る機会はほぼなかった。もちろん、詫びることもない。唯一、その肉声が漏れたのは、1975年10月31日皇居「石橋の間」で行われた日本記者クラブ主催の記者会見での発言である。彼が、常に何を考えていたのかが垣間見えて、印象的であった。
 その問答の記録の全文が以下のとおりである。
◆中村康二(ザ・タイムズ):
 天皇陛下ホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
天皇
 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。
◆秋信利彦(中国放送):
 天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。
天皇
 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。 
 戦争責任を「言葉のアヤ」程度の問題と捉え、原爆投下を「戦争中のことですから、…やむを得ない」と言ってのけたのが、敗戦後も生き延びた帝王の見解。こんな人物の名において行われた戦争で、無数の人々が死に、数え切れない悲劇が生まれた。人間らしい感情を持たない鉄面皮な人、というのが彼に対する私の印象だった。
(中略)
 昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。
(中略)
 日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。直近では、1986年3月の衆院予算委員会共産党衆院議員だった故正森成二氏が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘*6首相と激しい論争が交わされた。
(中略)
 故正森成二の天皇の戦争責任追及の質疑は、天皇裕仁)在位60周年祝賀行事の是非を巡っての論争である。該当部分の全文を引用しておきたい。
◆第104回国会 予算委員会 1986年3月8日(土曜日)午前9時開議(委員長 小渕恵三*7
◆正森委員
 次の質問に移ります。天皇在位六十年と恩赦の問題については、川俣委員がきょう午前中御質問になり、総理は明確に、恩赦は行わないということを答弁されましに。私どもはそれは当然のことであると考えております。
 しかし総理は、我が党の不破議員の本会議答弁でも、あるいは松本議員に対する予算委員会の答弁でも、天皇在位六十年祝賀行事について、国民の自然の感情である、自然の感情を持たない人は不自然である、疑う方が不自然であるという旨の答弁をされております。私は、天皇の戦前二十年の地位と戦後四十年の地位というのは憲法上全く異なりますから、こういう理論的な問題を感情の問題にすりかえて事を行おうとするのは正しくないと考えております。けれども、もし国民の自然な感情と言われるなら、我々の方にも国民の自然な感情はどのようなものであったか、また現在あるかということについて申し上げなければなりません。
 あの太平洋戦争が昭和十六年の十二月八日に始まりましたとき、私は中学校三年生の学生でありました。そのときに、我々は学校で宣戦の大詔を繰り返し読むことを教師から慫慂せられ、私どもはそれを暗記しました。現在、四十数年たった今でも、その大半は暗記しております。宣戦の大詔にはこう言っております。

 天佑ヲ保有万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭二忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ラ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家の総力ヲ挙ケデ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ

 私は、四十数年たってもこの宣戦の大詔を覚えております。
 そして我々の先輩は、

  海行かば水漬くかばね
  山行かば草むすかばね
  大君の辺にこそ死なめ

と言って戦争に行き、死んでいったのであります。だれ一人、東条総理大臣のために、その辺にこそ死なめと考えた者はありません。
 これが総理、自然な感情であり、国民は皆、天皇の御命令だから戦い、天皇のために死んでいく、こう思って戦ったのではありませんか。これが自然な感情ではないですか。
◆中曽根内閣総理大臣
 立憲君主制下における天皇は、やはり内閣総理大臣あるいは国会というようなもので決めたことについては、君臨すれども統治せずという考え方に基づいて、それに従っていかれた*8のである。天皇陛下はあくまで平和主義の方であられ、戦争を回避するために全面的にも努力をされた*9と国民は知っております。しかし、それを持っていったのは、当時の主として軍部の開戦派の連中*10が持っていった、そのことを国民は知っております。また、終戦に際しましても、陛下の御英断によって終戦がもたらされた*11ということも記憶しております。そしてその後においても、全国をお回りになって傷ついた人たちを慰められた、あるいは食糧がなかったときにも、またマッカーサー元帥のところへ行って食糧を要請した、あるいは今回の戦争についてこれは自分の責任である、そういうことを言って、国民諸君についてはぜひその点を了承してほしいとおっしゃった。
 この間、朝日新聞の何とか三太郎*12という漫画がありましたね。あのときの漫画を見て、あれは国民がそういうふうに考えているからああいう漫画が出てくるので、つまり、マルコスさんがフィリピンからハワイへ行かれた*13のと対比して、日本の天皇マッカーサーに対して自分の責任である、そう言っておられたと、あれは、朝日新聞がああいう漫画を出したということは画期的なことではないかと私は見ておるのであります。
 しかし、それだけそのように国民感情があるということなのであって、その陛下の六十年の御在位をお祝いをし、かつまた、今まで最も長い御在世の天皇であられたということをお祝いするということは最も自然な感情であって、それに逆らうということは、私は不自然であると今でもかたく信じてやまない。これを聞いている全国民の皆さんも、そのとおりであるとお考えになっていらっしゃると思います。
◆正森委員
 総理はそういうように言われましたが、もちろん明治憲法下でも、総理以下国務大臣に輔弼の責任があったということはそのとおりであります。けれども、歴史の事実はそれ以上のものを示しております。総理あるいは法制局長官も御存じでありましょうが、その総理大臣を任命する人事権は、憲法上いかなる制約もなく天皇の任命によって行われたわけであります。近衛内閣の後、即時対米開戦を主張する東条*14陸相に組閣を命じたのもまた天皇ではないでしょうか。近衛氏でさえ、天皇が(ボーガス注:軍の対米戦争楽観論に引きずられて)平和的対米交渉(ボーガス注:を近衛氏がする上)で頼りにならなかったと、次のように述べております。
 これは、「敗戦日本の内側:近衛公の思い出*15」と題する時の内閣書記官長富田健治氏*16の著書であります。

 それから陛下のことだが、陛下は勿論、平和主義で、飽く迄戦争を避けたい御気持であったことは間違いないが、自分*17が総理大臣として陛下に、今日、(ボーガス注:対米)開戦の不利なることを申し上げると、それに賛成されていたのに、明日御前に出ると「昨日あんなにおまえは言っていたが、それ程心配することもないよ」と仰せられて、少し戦争の方へ寄って行かれる。又次回にはもっと戦争論の方に寄っておられる。つまり陸海の統帥部の人達の意見がはいって、(ボーガス注:統帥権独立なので)軍のことは総理大臣には解らない。自分の方が詳しいという御心持のように思われた。従って統帥について何ら権限のない総理大臣として、唯一の頼みの綱の陛下がこれではとても頑張りようがない。

(中略)
 こういう状態では自分の手の施しようもなかったのだ、こう言っています。
 あるいはここに「近衛文麿」という伝記を持ってまいりました。これは近衛文麿伝記編纂刊行会のあらわしたものであります。そこには、近衛内閣が辞表を提出したときに陛下にこのことを率直に訴えだということが、辞表の中に載っております。

 然るに最近に至り、東条陸軍大臣は、右交渉はその所望時期(概ね十月中――下旬)までには、到底成立の望みなしと判断し、乃ち本年九月六日御前会議の議を経て、勅裁を仰ぎたる「帝国国策遂行要領」中、三の「我要求を貫徹し得る目途なき」場合と認め、今や対米開戦を用意すべき時期に到達せりと為すに至れり。(中略)国連の発展を望まば、寧ろ今日こそ大いに伸びんが為に善く屈し、国民をして臥薪嘗胆、益々君国のために邁進せしむるを以て、最も時宜を得たるものなりと信じ、臣は衷情を披瀝して、東条陸軍大臣を説得すべく努力したり。
 之に対し陸軍大臣は、総理大臣の苦心と衷情とは深く諒とする所なるも、(中略)時期を失せず此の際、開戦に同意すべきことを主張して己まず、懇談四度に及びたるも、終に同意せしむるに至らず。
 是に於て臣は遂に、所信を貫徹して、輔弼の重責を完うすること能わざるに至れり。是れ偏えに臣が非才の致す所にして、洵に恐懼の至りに堪えず。仰ぎ願はくは聖慮を垂れ結い、臣が重職を解き給わんことを。臣文麿、誠惶誠忠謹みて奏す。

 こう言って辞任をしております。
 それにもかかわらず、この戦争*18を主張する(ボーガス注:近衛内閣陸軍大臣であった)東条内閣総理大臣に対して組閣の大命を下したのは、何物にも人事権を制約されない天皇ではありませんか。
 あるいはまた総理は、戦争が終わったのは天皇の御意思によって行われた、だからあの朝日新聞の漫画のようなことになるのだ、こう言われました。けれども、これもまた史実に反します。例えば(ボーガス注:外務省が編集した)「終戦史録」の重光*19文書というのがあります。その重光文書を見ますと、

 結局、時機到来を見極めて天皇の絶対の命令(鶴の一声と当時吾々はこれをいっていた。)として終戦を行うの外に途はない。

あるいは「近衛日記」の十五ページを見ますと、

 いよいよ戦争中止と決定せる場合は、陸海官民の責任の塗り合を防止するため陛下が全部御自身の御責任なることを明らかになさせらるる必要ある事。

 こういうぐあいになっております。ほかにも文献があります。
 つまり、天皇は決して開戦において平和主義者でなく、戦争終結においても、天皇が聖断を下されたというのは、一年も前から宮中あるいは外務大臣あるいは元老*20が、そういうようにしなければ軍部が反乱を起こしてまとまらないというようになっていた筋書きに基づいて行われたのであって、それのみをもって陛下が平和主義者であるというようなことは、私は断じて言えないのではないかというように言わざるを得ません。
 総理、私はあなたが、国民全体の意思であり、我々のような主張は不自然であると言われましたが、そうではありません。戦争で被災し、夫や子供を死なせた国民は、政府だけでなく、天皇についても感情を持ちました。近衛文麿が昭和二十年七月十二日、宮中で天皇に会ったときに、天皇みずからこれを認めております。(発言する者あり)
◆小渕委員長
 御静粛に願います。
◆正森委員
 例えば、七月十二日に近衛文麿氏がソ連へ和平のための使節に行くことを天皇に話し合ったとき、近衛文麿が、「(ボーガス注:戦争被害について国民が)『今や皇室をお怨み申上げる事態にさえなって居ります』と申上げたるところ、全く御同感にあらせられた。」つまり天皇も、国民が恨みに思っておる、こういうことに同感されたということが、歴史の事実として明白に載っているわけであります。
 だからこそ、戦争が終わったとき、南原繁東大総長は、天皇退位を国民感情とし、「私は天皇は退位すべきであると思う、これは私一人ではなく全国の小学教員から大学教授に至るまでの共通意見となっている」。昭和二十三年六月十三日、これは朝日新聞であります。
 あるいは昭和二十三年の五月十六日の週刊朝日では、当時の三淵最高裁判所長官週刊朝日の誌上で、「終戦当時陛下は何故に自らを責める詔勅をお出しにならなかったか、ということを非常に遺憾に思う。」こう述べ、佐々木惣一法学博士は、「まったくそうだ。」こういうように言っています。そして、三淵長官は、「公人としては自分の思慮をもって進退去就を決するわけにはいかないんだ。」「だけど、自らを責めることは妨げられない。だから、自分の不徳のいたすところ、不明のいたすところ、国民にかくの如き苦労をかけたということを、痛烈にお責めになれば、よほど違ったろうと思う」、こういうように最高裁長官が言っております。これが国民の自然な感情ではないでしょうか。
 私どもは、こういう感情を無視して、戦前の二十年と戦後の四十年を無視して天皇の在位六十年を祝う、いわんや恩赦を行うなどということはもってのほかであると思います。恩赦については、総理はこれをしないということを明言されました。私どもは、在位六十年の記念行事についても、これを中止されることを心から総理に希望したいと思います。御答弁を願います。
◆中曽根内閣総理大臣
 今のお話を聞いておりまして、共産党はそういう考え*21を持っているのかと今感じた次第でございます。大部分の国民の考えていることとはまるきり違うことを考えているということを発見いたしました。
 当時の歴史でも明らかになっておりますが、開戦前におきましては、陸軍を抑えられる者でなければこの戦争を回避することはできない、そういう木戸さん*22等の助言があって、陸軍の一番の統率力があったと言われている東条氏を首相に任命して戦争回避を最後に考えられた、そういうことが言われておる。あるいは近衛・ルーズベルト会談を行って戦争回避をしようと一番期待して、まだ行われないのかまだ行われないかと言われておったのが陛下である、そういう記録も残っております。終戦に際しましては、軍部のあのような一部の過激な連中からいかに重臣を守りつつ、そして和平に順調に持っていこうかということをお考えになって、鈴木貫太郎*23を総理大臣に任命した。鈴木貫太郎氏を任命したのは、終戦を行うために陛下がおやりになったことです。そして、あうんの呼吸であの終戦をおやりになったという厳然たる事実があります。
 そういう諸般のことを考えれば、一貫して陛下は平和主義者であって、この戦争を回避されるために最後まで努力をした。しかし、やはり当時は立憲君主制のもとにありまして、総理大臣の輔弼することについては、大体君臨すれども統治せずという原則*24でいかれた。そういうことで、しかし国が滅亡するという危機に瀕しては、御聖断を発せられた。そういうことで今日の日本があり得るんだと私は確信してやまない。そういう国民の大多数の考えを無視して、あえて異を立てるというものは、国家を転覆するという気持ちを持っておる人*25でないと出てこないのではないかとすら私は疑うのであります。そういう疑いを国民は持ってあろうということを私は申し上げたいのであります。
◆正森委員
 国家を転覆する疑いがあるなどと言いますが、あの無謀な戦争を始めて、事実上我が国民を塗炭の苦しみに陥れ、日本の国そのものを転覆寸前まで行かしたのは一体だれ*26ですか。それに対して、死刑*27も牢獄も恐れずに、断固として反対して平和を守り抜いたのは一体どの党*28ですか。それは自民党の教科書さえ、だから共産党は他の党にない権威を持っていたと書いているじゃないですか。
 私どもは、時間が参りましたので、これで終わりますが……(発言する者あり)いろいろ当事者間の発言以外に発言するのではなく、お互いに本当に日本国家の将来のためにも、天皇の在位六十年について歴史を真剣に考えてみる必要があると思います。
 私の質問を終わります。
◆中曽根内閣総理大臣
 正森君、御答弁を申し上げますが、ともかく大部分の……(発言する者あり)
◆小渕委員長
 御静粛に願います。
◆中曽根内閣総理大臣
 大部分の国民は、大多数の国民は、この二千年に近い伝統と歴史と文化を持っておる日本の国を愛惜し、そしてその一つの中心であった日本の天皇制というものを守っていきたい、それでそのためにあの終戦、あるいは終戦後みんな努力して天皇制を守ろうということで、今日日本があるわけであります。あのときに天皇制を破壊しよう、あるいは天皇制というものをこれで廃絶しようと考えたのは共産党でしょう。今でも共産党でしょう。しかし、そういうような国民はほんのわずかであって、それは絶無とは言いません。しかし大多数の、もう九九%の国民、九九%に近い国民は、やはり二千年近いこの伝統と文化を持っておる日本、及び天皇を中心に生きてきた日本のこの歴史とそれから我々の生活を守っていこうと考えておる。これは戦争に勝っても負けても、一貫して流れてきている氏族の大きな太い流れであります。私は、その流れを大事にしてきているがゆえに、今日の日本の繁栄があると思っておる。この繁栄がどこから来ているかということを考えれば、そういう国民の団結心にある。もしマルクス共産主義によって日本が支配されておったら、今日本はどうなっておるであろうか。これだけの繁栄があり得るであろうか。あるいはどこかの国の衛星国になっているのではないかとすら我々は考えざるを得ない。そのことをよくお考え願いたい、また御反省も願いたいと思うのであります*29
◆正森委員
 委員長、委員長。
◆小渕委員長
 時間でございますので、論議は尽きないと思いますが、これにて質疑を終わらしていただきたいと思います。
◆正森委員
 私が終わると言っておるその後から、私が終わると言ってから総理が五分間も答弁したじゃないか。それに対して言うのは当たり前じゃないか。そんな不公平なことがあるか。
◆小渕委員長
 質疑者は、論議は尽きないとは思いますが、時間が参りましたので、以上をもって質疑を終わっていただきたいと思います。
 これにて正森君の質疑は終了いたしました。
 これにて締めくくり総括質疑は終了いたしました。
 以上をもちまして、昭和六十一年度予算三案に対する質疑はすべて終了いたしました。
(引用終わり)
 正森成二は先輩筋の弁護士である。その論理と気迫を見習いたいと思う。

昭和天皇「拝謁記」公開/戦争責任 国民的議論を
 NHKがこのほど一部公表した田島道治*30初代宮内庁長官昭和天皇とのやりとりを記録した手記(「拝謁記」)には、侵略戦争の責任をめぐる昭和天皇の極めて矛盾した心情がつづられています。
◆「反省」表明望む
 田島氏の手記で注目されたのは、昭和天皇サンフランシスコ平和条約発効後の日本の独立を祝う式典で戦争への「反省」の気持ちを表明したいと田島氏に伝えたものの、当時の吉田茂首相の反対で削除されたとされる部分です。
 昭和天皇は生前、公には戦争への反省を表明したことは一度もありませんでした。記者会見で戦争責任を問われても、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、良くわかりませんから、そういう問題についてはお答ができかねます」(1975年10月31日)と回答を拒否していました。
 手記によれば、昭和天皇は「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(52年1月11日)などと強く希望しながら、吉田*31首相が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」などと反対し、昭和天皇が戦争への「反省」を述べた一節が削除されたとされます。
 もし昭和天皇が戦争への「反省」を当時、曲がりなりにでも表明していれば、日本の行った戦争が「自存自衛の戦争」「アジア解放の戦争」だったなどの誤った歴史認識がいまだに「靖国派」などを中心に主張されている今日の状況が大きく変わっていた可能性があります。昭和天皇の開戦責任を回避するため、吉田首相が昭和天皇の「反省」を封印した事実は重大です。
◆責任を全面転嫁
 同時に、手記は、戦争への「反省」を述べながらも、自己弁護を繰り返し、陸海軍の統帥者として侵略戦争に直接の責任を負っていたことへの自覚がまったく見られない昭和天皇の姿を示すものとなっています。
 例えば日本軍による南京虐殺事件(1937年)について昭和天皇は「ウスウス聞いてはゐ(い)た」が、「此事(このこと)を注意もしなかつた」と、日本軍の蛮行を当初から知っていながら問題を放置していたことを語っています。
 日米開戦(1941年)をめぐっても、自らが出席した「御前会議」で開戦が決定されたにもかかわらず、「平和を念じながら止められなかった」「東條内閣の時ハ既に病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」(51年12月14日)と述べているばかりか、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」(52年4月5日)と近衛文麿元首相に責任を全面転嫁しています。
 さらに、戦局が絶望的になりながら無謀な戦争を継続したことについて「私ハ実ハ無条件降伏は矢張(やは)りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたやうな時ニ其(その)時を見付けたいといふ念もあつた」(52年3月14日)と告白していますが、その結果、東京大空襲沖縄戦、広島・長崎への原爆投下など筆舌に尽くしがたい惨禍を招いたことへの反省はうかがえません。
 それどころか、終戦をもっと早くできなかったのかという疑問に対し、「事の実際としてハ下剋上(げこくじょう)でとても出来るものではなかつた」(51年12月17日)と述べて、自己の責任をあくまで否定しています。
 今回の手記の公開を機に、侵略戦争の責任がどこにあったのか、昭和天皇の役割と責任はどうだったのか、改めて国民的な検討と議論が求められます。
再軍備など求め
 手記にはさらに、昭和天皇がたびたび改憲再軍備に言及し、「吉田ニハ再軍備の事ハ憲法を改正するべきだといふ事を質問するやうにでもいはん方がいゝだらうネー」(52年2月18日)などと述べ、田島氏から「(ボーガス注:天皇国家元首から象徴になった)憲法の手前そんな事ハいへませぬ」などといさめられたことも記録されています。
 天皇の地位が戦前の「統治権の総攬(そうらん)者」から新憲法の下で「象徴」へと変わり、「国政に関する権能を有しない」ことになったことを昭和天皇が理解せず、戦前の元首意識を多分に残していたことをうかがわせる内容です。
 今回、NHKが公開したのは、田島氏の計18冊の手帳・ノートの内容の一部にすぎません。研究者や市民が触れることができるよう、内容を全面的に公開することが望まれます。(入沢隆文)

https://tetsuao.com/huroku/huroku6.htm
 藤枝静男*32がこれほど怒りをあらわにしたのを、私はほかに知らない。藤枝静男は、担当していた「東京新聞」「中日新聞文芸時評を突然次のように書き始める(昭和五十年十一月二十八日夕刊)。
 「これは文芸時評ではないが無関係ではない。
 天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。(ボーガス注:天皇という立場で言動が制限されていて)哀れ、ミジメという平生の感情より先にきた。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロの駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていてみたら何と思ったろうと想像して痛ましく感じた。三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にもせず喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい」。
 天皇、皇后は米国訪問を終えた昭和五十年十月三十一日、午後四時から約三十分、初めての公式記者会見を行った。以下その応答から二つ抜粋する。
◆記者
 天皇陛下ホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
天皇
 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます
◆記者
 陛下は(中略)都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか。おうかがいしたいと思います。
天皇
 この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています*33
 この天皇の二つの発言は、当時各方面で論議の的となった。原爆投下容認とも受け止められる発言に対して、「これは人類を破滅に導くものであり、到底容認できない」とする談話を、日本原水協は直ちに発表した。
(後略)


【産経抄】2月29日 - 産経ニュース

 首相といってもそれぞれタイプは違う。以前、阪神大震災東日本大震災の両方で対応に当たった官僚*34から、時の首相について聞いたエピソードである。
 「村山富市さん*35は『困ったら私に言え。責任はとる』と任せてくれた。一方、菅直人さん*36は『私に話を持ってくるな』と言いつつ、何かあったらお前の責任だという態度*37だった」。

 菅氏に対する誹謗中傷も甚だしいですが、それはさておき。菅氏が未だ現役の政治家(立憲民主党最高顧問、衆院議員)なのに対し、村山氏は政界引退したとは言え、菅氏を罵倒するために村山氏にたいし心にもない持ち上げをするのだから呆れます。
 なお、非常時に対応した首相といえば俺的には

ダッカ事件福田赳夫*38首相(福田発言『人命は地球よりも重い』)

がすぐに思い浮かびます。

参考

ダッカ日航機ハイジャック事件ウィキペディア参照)
 1977年9月28日に、日本赤軍が起こしたハイジャック事件。日本で服役および勾留中の9名(奥平純三*39、城崎勉*40、大道寺あや子*41、浴田由紀子*42、泉水博*43、仁平映*44植垣康博*45、知念功*46、大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。この時、犯人グループから「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付けられ、この影響を受けて、その後の日本政府の対応にアメリカへの外交的配慮があったとする見方もある。
超法規的措置
 10月1日に福田赳夫首相が「一人の生命は地球より重い」と述べて、「超法規的措置」として、身代金の支払い、収監メンバーなどの引き渡しを行うことを決めた。
 なお釈放要求された9人のうち、植垣は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村は「赤軍とはイデオロギーが異なる」と釈放および日本赤軍への参加を拒否した。
 日本政府は釈放要求リストに載っていた獄中者組合2人(泉水博、仁平映)については「思想犯ではなく刑事犯」である理由から2人の釈放拒否の方針を持って交渉した。しかし、これをハイジャック犯側が拒否したため最終的に日本政府が折れ、2人も釈放となった。
 日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは1975年のクアラルンプール事件(三木*47内閣)以来2回目となった。なお、福田一*48法相は、「超法規的措置」に対して強硬に反発。福田は後に抗議辞任した。
 釈放されたメンバーのうち、1986年に泉水博、1996年に城崎勉、1997年に浴田由紀子がそれぞれ身柄拘束されている。またダッカ事件実行犯として丸岡修と西川純が逮捕され、無期懲役判決を受けている。現在も佐々木規夫、坂東國男、奥平純三、大道寺あや子、仁平映は国際手配されている。


人民解放軍にとって武漢の意味 太田文雄(元防衛庁情報本部長) « 国基研ろんだん 国基研ろんだん « 公益財団法人 国家基本問題研究所

 遺伝子の専門家である防衛医科大学校のS*49教授によれば「自然界で突然変異するDNAは、せいぜい元のDNAの1%しか変化しないのに対し、今回の新型コロナウイルスは4%も変化している。このことからも遺伝子を人為的に操作して病原菌を作った可能性が極めて高い」と指摘している。

 明らかなデマ「新型コロナは細菌兵器かもしれない」も堂々と記事掲載するのだから、国基研のアホさには絶句します。
 今のところ、そのように疑える根拠は何一つない。だから日本政府もWHOもそんな馬鹿なことは言わない。
 大体、細菌兵器であるなら「毒性の弱さ(新型インフルと同程度の死亡率でサーズやマーズに比べたら低い。妊婦、乳幼児、高齢者、『心臓病、腎臓病、糖尿病などの持病がある人間』でなければそれほど死亡の危険性は高くない)」「潜伏期間の長さ」が不可解でしょう。
 「毒性がもっと強力で、潜伏期間ももっと短期間(つまりどんどん発症して、どんどん死亡して社会不安が高まる)」でなければ、細菌兵器としてはまるで意味がないでしょう。

 それを否定する明確な証拠を中国政府は示していない。

 どう否定しろというのか。国基研の方が「細菌兵器説の根拠を出すべき」でしょう。

*1:陸軍卿、内務卿、第1次伊藤、黒田内閣内務相、首相、第2次伊藤内閣司法相、枢密院議長、参謀総長など歴任。元老の一人。

*2:第一次伊藤、黒田、第一次山県、第一次松方内閣陸軍大臣参謀総長内大臣など歴任。元老の一人。

*3:第2次山縣、第4次伊藤、第1次桂内閣海軍大臣、首相など歴任

*4:もちろん国家元首、軍最高司令官である昭和天皇に全ての戦争責任があることは言うまでもありません。

*5:著書『安保条約の成立:吉田外交と天皇外交』(1996年、岩波新書)、『集団的自衛権とは何か』(2007年、岩波新書)、『「尖閣問題」とは何か』(2012年、岩波現代文庫)、『昭和天皇の戦後日本:〈憲法・安保体制〉にいたる道』(2015年、岩波書店)など

*6:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官を経て首相

*7:竹下内閣官房長官自民党副総裁(河野総裁時代)、橋本内閣外相を経て首相

*8:張作霖暗殺事件に対する昭和天皇の叱責での「田中義一首相辞任」が一番わかりやすいですが、天皇には勿論政治に対する主体性があったわけです。ただ受動的に動いていたわけではない。

*9:もちろん昭和天皇以下、当時の政府は対米交渉はしました。しかしそれは「米国相手に戦争したら敗戦する可能性が高いから」であって保身ではあっても、平和主義ではないし「中国から撤退し、蒋介石政権打倒を諦めない限り米国とは交渉が成り立たない(しかし撤退したくない)」「勝てる見込みがある」と考えることによって戦争に突入したわけです。

*10:「開戦派の楽観論に天皇が影響されたこと」は事実ですが、それは少なくとも「開戦派のごり押しに天皇が屈服した」と言う話ではありません。

*11:ソ連が対日参戦し、広島、長崎に原爆投下、既に独伊は降伏済みというあの時点で無条件降伏以外に選択肢があるわけないでしょう。むしろ降伏が遅すぎたくらいです。

*12:フジ三太郎のこと。

*13:政権崩壊によるマルコス・フィリピン大統領のハワイヘの亡命のこと

*14:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*15:1962年、古今書院

*16:内務省警保局長、長野県知事、第二次、第三次近衛内閣書記官長など歴任

*17:近衛首相のこと

*18:対米戦争のこと

*19:戦前、東条、小磯内閣外相だった重光葵のこと。

*20:原文のまま。「やや細かい揚げ足取り」になりますが、最後の元老「西園寺公望」は対米開戦前の1940年に死去しているのでこの「元老」とは「木戸内大臣」「近衛元首相」などのいわゆる重臣のことでしょう。

*21:昭和天皇に対する批判は保守派の南原東大総長、三淵最高裁長官、佐々木京大教授もしていたという正森氏の指摘に中曽根がまともに答えられず「共産党ガー」しか言えない辺りが実に滑稽です。

*22:木戸幸一内大臣のこと

*23:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長、首相を歴任

*24:そんな原則は大日本帝国憲法にはありません。嘘も大概にしてほしい。いわゆる「憲政の常道(戦前版・議院内閣制)」にしても単に運用でしかありません。だから犬養首相暗殺後、「政党内閣はもはや無理」と天皇や側近が判断すれば「憲政の常道」は廃棄され、斎藤実岡田啓介(以上、海軍出身)、広田弘毅(外務省出身)、林銑十郎(陸軍出身)、近衛文麿貴族院出身)、平沼騏一郎(枢密院議長、司法官僚出身)と非政党内閣になるわけです。

*25:もちろん共産党への中曽根の誹謗中傷。先日の安倍の反共暴言と同類。

*26:もちろん昭和天皇以下、当時の日本政府首脳陣

*27:治安維持法の最高刑は死刑です(ただし適用は日本においてはなかった)。治安維持法で多くの朝鮮の人が死刑 本当ですか?によれば朝鮮独立運動家に対しては死刑判決が出たことがある。

*28:勿論共産党

*29:天皇制を維持するかどうか」と「昭和天皇をどう評価するか」は別物であるし、「天皇制否定や昭和天皇批判=共産主義」でもないのに詭弁を吐く中曽根です。

*30:戦前、愛知銀行常務、昭和銀行頭取、日本産金振興会社社長、日本銀行参与など歴任

*31:戦前、天津総領事、奉天総領事、駐スウェーデン公使、外務次官、駐伊大使、駐英大使など歴任。戦後、東久邇宮、幣原内閣外相を経て首相

*32:1907~1993年。浜松市で眼科医院を営む傍ら、小説を執筆。1968年、『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、1974年、『愛国者たち』で平林たい子文学賞、1976年、『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、1979年、『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。著書『愛国者たち』、『或る年の冬 或る年の夏』、『悲しいだけ・欣求浄土』、『田紳有楽・空気頭』(以上、講談社文芸文庫)(ウィキペディア藤枝静男』参照)。

*33:内容的には大臣を引責辞任する羽目になった久間・第一次安倍内閣防衛相の「原爆投下仕方がなかった」と全く違いがありません。当然ながら被爆者などから天皇への批判が出ました。

*34:実名が出ないあたりそんな官僚が居るのかどうかすら怪しい話です。大体「阪神大震災(1995年)」と「東日本大震災(2011年)」では約16年もスパンがありますが、その両方で首相と直に応対した官僚なんて本当にいるのか?

*35:社会党国対委員長、委員長、首相を歴任

*36:社民連副代表、新党さきがけ政調会長、橋本内閣厚生相、鳩山内閣副総理・財務相を経て首相

*37:むしろそれは安倍ではないのか。

*38:大蔵省主計局長から政界入り。岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行政管理庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経済企画庁長官などを経て首相

*39:在オランダのフランス大使館を占拠し、オランダ政府に身代金を、フランス政府に赤軍派解放を要求したハーグ事件、在マレーシアのアメリカ大使館、スウェーデン大使館を占拠し、日本政府に赤軍派釈放を要求したクアラルンプール事件の実行犯

*40:ジャカルタアメリカ大使館と日本大使館にロケット弾が発射されたジャカルタ事件の実行犯

*41:東アジア反日武装戦線メンバーとして、三菱重工ビル爆破事件などに関与。三菱重工ビル爆破事件で死刑判決を受けた大道寺将司(2017年に多発性骨髄腫により獄中で病死)の妻

*42:東アジア反日武装戦線メンバーとして、三井物産ビル爆破事件などに関与。

*43:当時、強盗殺人で無期懲役

*44:当時、殺人罪で懲役10年

*45:赤軍派として「M作戦」と呼ばれる金融機関強盗に関与。1998年に出所。著書『兵士たちの連合赤軍〈改訂増補版〉』、『連合赤軍二七年目の証言 』(以上、彩流社

*46:沖縄訪問した皇太子(当時、現上皇)の足下に火焔瓶を投げつけたいわゆる「ひめゆりの塔事件」の実行犯

*47:国民協同党書記長、委員長、片山内閣逓信相、改進党幹事長(重光葵総裁時代)、鳩山内閣運輸相、自民党幹事長(石橋総裁時代)、岸内閣科学技術庁長官(経済企画庁長官兼務)、池田内閣経済企画庁長官、自民党政調会長、幹事長(池田総裁時代)、佐藤内閣通産相、外相、田中内閣副総理・環境庁長官などを経て首相

*48:池田内閣通産相、田中、三木内閣自治相・国家公安委員長福田内閣法相、衆院議長など歴任

*49:イニシャルトークの時点で怪しい話です。自信があるなら実名を出せばいい。