新刊紹介:「歴史評論」4月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『西洋近現代史の「新しい古典」を読む』
(前振り)
 「新しい古典」だそうですが、紹介される「古典」のうち、一番古いものが今から約46年前の清水知久、高橋章、富田虎男『アメリカ史研究入門』(1974年、山川出版社)で一番新しいものが今から約34年前の遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ』(1986年、東京大学出版会)です。
 なお、話が脱線しますが、今回取り上げられてる著者の内「溪内謙(たにうち・ゆずる)」「遅塚忠躬(ちづか・ただみ)」「良知力(らち・ちから)」は予備知識がないと一寸読めないですね(「躬」なんて明らかに常用漢字じゃないでしょう)。「学会の大御所の名前など、読めて当然」と思ってるのか、歴史評論論文にはルビが振ってありませんが、振るべきじゃないか。


今井宏*1『イギリス革命の政治過程*2』:「宮廷」対「地方」論の意義と限界(岩井淳*3
(内容紹介)
 今井本の意義を
1)清教徒ピューリタン)革命と名誉革命を別物ではなく、一体として捉える視点
2)清教徒ピューリタン)革命分析の視点として「宮廷」対「地方」という視点(元々は英国の歴史家ヒュー・トレヴァ=ローパーの主張)を導入したこととする。
 一方、限界として、
1)当時の研究環境ではやむを得ない面があるが、一次資料ではなく、海外の二次資料(研究書)をもっぱら利用する形で議論が展開されてる点
2)「宮廷」対「地方」という視点は重要な視点だが、筆者(岩井氏)の考えでは、それだけでは清教徒ピューリタン)革命は分析しきれない点
を指摘している。
 筆者は「宮廷」対「地方」以外の視点として、

千年王国
・岩井『千年王国を夢みた革命』(1995年、講談社選書メチエ)、『ピューリタン革命の世界史:国際関係のなかの千年王国論』(2015年、ミネルヴァ書房
・田村秀夫*4『イギリス革命と千年王国』(編著、1990年、同文舘出版)、『千年王国論:イギリス革命思想の源流』(2002年、研究社出版)など
◆複合国家論
・岩井『ピューリタン革命と複合国家』(2010年、山川出版社世界史リブレット)、『複合国家イギリスの宗教と社会』(編著、2012年、ミネルヴァ書房)など)

を指摘している。

【参考:「宮廷」対「地方」】

清教徒革命(ウィキペディア参照)
◆ホイッグ史観、唯物史観による評価
 王政復古(1660年)からしばらくの間は「革命」というよりは「不祥事」「暴徒の反乱」「内乱、内戦」と否定的に捉える見方が強かった。しかし、自由主義経済のもと世界帝国(いわゆる大英帝国)を築いた頃のイギリスでは、清教徒革命は専制封建制に対する自由・資本主義の闘いとして描写され、近代社会の画期とされた。さらにピューリタニズムに民主主義の精神を見出し、同時代のフランスなどと比較してその先進性が主張された。
 19世紀に入ってチャーティスト運動の盛り上がりなどの社会現象もあいまってマルクス主義史観が広まると、クリストファー・ヒル*5やリチャード・ヘンリ・トーニー*6らによって清教徒革命はブルジョワ革命に分類された。ヒルやトーニーの説は大塚久雄*7によって取り入れられ、大塚史学として日本におけるイギリス史研究の本道となった。
◆ジェントリ論争と地方史研究
 この正統学説は1950年代に入ってヒュー・トレヴァ=ローパー*8によって批判され、苛烈な論戦がたたかわされた。トレヴァ=ローパーによれば、清教徒革命は宮廷の官職を独占する大ジェントリたちに対する、中小ジェントリの挑戦であり、ピューリタニズムは華美にふける大ジェントリたちへの嫌悪感にもとづく貧困なジェントリの宗教とされる。これをトレヴァ=ローパーは「コート対カントリ(宮廷対地方)」という対立概念を用いて説明した。これに対してトーニーは、ジェントリの規模ではなく土地経営のしかたを重視した。すなわち、伝統的に地代を徴収する方法にとどまったジェントリは没落し、いっぽう地代のつり上げや牧羊業への柔軟な転換などブルジョワ的経営を行ったジェントリが勃興したとするものである。
 こうした論戦は、根拠となる情報が少ないうえに議論が大局的にならざるをえず、不毛な議論となって尻すぼみになり、これをみた若い研究者らは情報が出し尽くされていない地方史研究をこころざすようになった。いずれにしてもこの時代まで、革命は社会矛盾の顕在化によって必然におこったものであるという考え方が前提にあった。
 なお、最近ではクロムウェルスコットランドアイルランド征服戦争に着目し、清教徒革命について、イングランド革命政府(クロムウェル政権)とスコットランドアイルランドの3ヶ国の戦争であるという視点からの捉え方も提唱されている。

◆ヒュー・トレヴァ=ローパー(1914~2003年:ウィキペディア参照)
◆ジェントリ論争
 イギリス近世史家として、トレヴァー=ローパーはオックスフォード大学の同僚であるローレンス・ストーン*9やクリストファー・ヒルのような、清教徒革命を史的唯物論の立場から説明する歴史学者たちを猛烈に攻撃したことで最もよく知られている。
 トレヴァー=ローパーはいわゆる「ジェントリ論争」で中心的な役割を果たし、イングランドのジェントリ階層は清教徒革命が起きる前の世紀までに経済的に勃興したのか没落していたのか、そしてそれが清教徒革命の発端となったのかをめぐり、リチャード・ヘンリ・トーニーやストーンとの論戦を展開した。トレヴァー=ローパーは官職保有者や法律家となっている大ジェントリが経済的に栄え、逆に中小ジェントリは没落して不満を蓄積していたことが清教徒革命の発端となったと主張した。ストーンやトーニー、ヒルはジェントリ階層が経済的に成長して、このことが清教徒革命の原因になったと主張していた。第3のグループ、J・H・ヘクスター*10やジェフリー・エルトン*11は、ジェントリが勃興したにせよ没落したにせよそれは革命の原因にはならなかったと主張した。
ヒトラー研究ほか
 第2次世界大戦中、トレヴァー=ローパーはイギリス情報局秘密情報部(MI6)の将校として従軍し、ドイツの諜報機関アプヴェーアから流されるメッセージを傍受する任務についた。1945年11月、トレヴァー=ローパーはMI6の上官ディック・ホワイトから、アドルフ・ヒトラーの死の状況を調べ、そのうえでソ連政府による「ヒトラーは西側世界のどこかで生きている」というプロパガンダに対する反証を成立させるように命じられた。1947年、この調査の成果として、トレヴァー=ローパーはヒトラーの最後の10日間を追った『ヒトラー最後の日』(邦訳:1975年、筑摩書房)を出版した。これはトレヴァー=ローパーの著書の中で最も有名な作品である。
 トレヴァー=ローパーの最も成功した著作の一つは、西欧において中国学の世界的権威と言われてきた中国学者サー・エドマンド・バックハウスの伝記『北京の隠者:エドマンド・バックハウスの秘められた生涯』(原書1976年→邦訳:1983年、筑摩書房)である。この伝記で、トレヴァー=ローパーはバックハウスの研究者としての学識は信用できないことを指摘した。この本の出版によってバックハウスを典拠とする記述は信用に値しないものになり、バックハウスの著作を数多く引用してきた西洋世界の中国史に関する記述は、書き直しを余儀なくされた。
◆保守党支持者としてのトレヴァー=ローパー
 1960年、トレヴァー=ローパーはオックスフォード大学学長選で古くからの友人で当時イギリス首相、保守党党首を務めていたハロルド・マクミラン*12を支援し、マクミランは学長選挙に勝利した。
 トレヴァー=ローパーは1979年に一代貴族に叙せられ、出身地にちなむデイカー・オブ・グラントン男爵位を授けられた。トレヴァー=ローパーの受爵は、マーガレット・サッチャー内閣における最初の一代貴族の創設であった(→要するにサッチャー支持者なんでしょう。学者として才能がないとは言いませんが、サッチャーによる支持者への露骨なお手盛り臭がしますね)。
◆参考文献
・岩井編著『イギリス革命論の軌跡:ヒルトレヴァ=ローパー』(2005年、蒼天社出版)

◆コート対カントリ(ウィキペディア参照)
 コート(court)は宮廷を意味し、カントリ(country)は在野・地方を意味する。「コート対カントリ」は、清教徒革命以降のイギリス議会の対立軸を説明する方法のひとつとして提唱されている。コート勢力は官僚・王室とパイプを保つことによって官職、年金などを取得し、いっぽうカントリ勢力は土地を所有するジェントリではあるが宮廷の恩恵には与れなかった。この対立概念は歴史上のいくつかの事象を説明するのに有効とされる。
◆コート対カントリによって説明されうる事象
 清教徒革命では、国王大権の恣意的な行使によって恩恵に浴する議員と疎外された議員とに分かれ、それがコート対カントリの対立を生み、カントリが政権に叛旗を翻し、国王チャールズ1世の処刑に及んだと説明できる。
 ウォルポールの平和の時代では、ウォルポール首相によって大々的に買収、官職の配分が行われ、圧倒的なコート勢力を形成した。こうした利権から自由だったカントリ側は、政治・宮廷の腐敗、「重税の元凶」となっている官職の存在をきびしく攻撃した。

【参考:千年王国論】

岩井淳『ピューリタン革命の世界史』 - THEOLOGIA ET PHILOSOPHIA
 1960年代に入りピューリタニズムを近代思想と切り離し、過渡期のイデオロギーとみなす研究が現れ始めた。なかでも重要なのは、終末論や千年王国論を分析の対象とした研究である。本書もこれらの研究のながれにあるといえよう。著者によると、千年王国論は従来考えられていたように社会の周辺にいた第五王国派やクェイカー派といったセクトによってのみ受け入れられていたわけではない。むしろ、(ボーガス注:ピューリタン)革命の担い手であった独立派が、世界の再建に取り組むにあたってよりどころにした思想とみなされるべきなのだ。すなわち革命は、キリストの再臨による世界の終焉が間近に迫っていると考えた人々によって促進され、新しい社会と政治の姿が描かれていったのである。
  また、著者が提供するもうひとつの重要な視点は、革命をイングランド一国の出来事として理解するのではなく、複合国家、そして国際関係のなかで理解していく点にある。日本でしばしばこの革命は「イギリス革命」とよばれるが、「イギリス」という名称は複合国家である。クロムウェルの革命政府は、(ボーガス注:イングランドが)アイルランドスコットランドを配下に収めた(ボーガス注:複合)国家として理解されなければならない。また、革命の担い手であったピューリタンのネットワークはオランダやニューイングランド*13に広がっており、革命時にイングランドに帰国したピューリタンの役割やニューイングランドでの千年王国論がもたらした政治的な影響などを著者は描きだしていく。
 この二つの視点をもとに、本書はフランスとスペインの間でゆれるスチュワート期の国際関係から、革命後のより一貫した「プロテスタント外交」とイングランド国益を追求する中央政府外交政策を分析していく。そのなかで、これまでピューリタン革命史においてそれほど重要視されてこなかった千年王国論という宗教思想の重要性を明らかにした本著の分析は実に鋭い。また、宗教思想の分析にとどまることなく、国際的な広がりをみせるピューリタンのネットワークというこの思想の文脈を明るみにだすのに成功しているのは特筆に値するだろう。政治史と思想史と社会史を複合的に組み合わせた本研究は、革新的な方法論のひとつのモデルとしても学ぶべきところが多いのではないだろうか。

17. ピューリタン革命に影響した「千年王国論」 - ユートピア研究
 最近の研究では、この清教徒たちの「大移住」には、「千年王国論」が大きく影響していると見られています。
 千年王国論とは、キリスト教の宗教的解釈の一説で、『聖書』の「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」をもとに、将来キリストが再臨し、地上でキリストの王国が実現されると考える教義です。
 この教義はしかし、アウグスティヌスが『神の国』において非難して以降、カトリック教会の支配的教義からは、「迷信」として排斥され、中世においては民衆や異端的な預言者に受容され、近代において登場しても、前近代的な「狂信派」の思想として捉えられがちでした。
 しかし、これが近代イギリスの扉を開いた革命に大きな影響を与えていたからには、千年王国論は単に前近代、狂信的という言葉では片付けられない歴史的役割を担っていたことになります。
 なぜなら、革命以前、多くのピューリタンが迫害から逃れてアメリカ大陸のニューイングランドへと渡り、本国から遠く離れたこの地で、祖国の腐敗を嘆き、新しい地における理想の国の実現を目指す千年王国論が確立されていきました。
 ニューイングランドは決して本国と隔絶されておらず、むしろ相互の交流は活発で、特に革命勃発後はピューリタンの帰国者が相次ぎ、ニューイングランド千年王国論が逆輸入されました。
 しかしピューリタン革命の挫折とともに千年王国論を奉じる人々はアメリカ大陸へと帰っていきましたが、千年王国論はピューリタン革命から110年後のアメリカ独立において再度姿を現し、アメリカにおいて、モルモン教や、エホバの証人などのプロテスタント教会に強い影響を及ぼし、彼らを理想郷造りに駆り立てました。

第五王国派 - 良い子の歴史博物館
 英国の清教徒革命は単なる階級闘争とは異質な革命である。
 極めて宗教色が強い。
 国王派vs議会派の内戦だが、議会派の中でも、長老派、独立派、平等派あるいは水平派などがあり、それぞれは政治的党派というより、宗派に近い。
 教科書には、ほとんど載らないが「第五王国派」と呼ばれるグループがあった。
 一時は議会の半分を占める勢力を誇り、クロムウェル政権発足の支持基盤の一つとなる。
 「第五王国」とは聖書のダニエル書の予言に基づく名称だ。
 ダニエル書には世界を牛耳る帝国の興亡の予言が書かれている。
 君臨する帝国を象徴する4つの獣が次々と登場し、続いて第五番目の王国が神の王国となると「第五王国派」は解釈した。
 ライオンで象徴される第一王国は、ダニエルが存命中に君臨した新バビロニアネブカドネザル王朝のカルデア)である。
 ネブカドネザルによって、エルサレムは滅亡し、生き残ったユダヤ人は皆、バビロンへ連れて行かれた。
 そのバビロンの都市は壮大な城壁で囲まれ、古代7不思議の一つ空中庭園があった。
 新バビロニア古代オリエントで覇者となった。
 第二王国は熊で象徴されるメディア人とペルシャ人の連合王国である。
 アケメネス朝ペルシアのキュロス大王のとき、新バビロニアを征服している。
 当初、ペルシャはメディア王国を宗主国とする小国だった。
 だが、メディア王アステュアゲスは凶悪な王で、メディア人からも嫌われていた。
 ついにメディア軍の一部が反乱を起こす。
 反乱軍はペルシア王キュロスに協力を頼み、キュロスも一緒にメディア王追放戦争に参加した。
 こうして新たなメディア王国が誕生するが、ペルシア王国と同君連合を形成する。
 やがてペルシア人の方が目立っていくので、通常、アケメネス朝ペルシアと表記し、メディアの名前は、ほとんど無視されているが、ダニエルの時代には、メディア人が主力だったので、第二王国は「メディア人とペルシア人の王国」とダニエル書で記述される。
 第三王国は豹のような獣で、大きな角を持ち、ペルシアを速いスピードで征服する。
 大きな角はマケドニアアレクサンドロス大王を意味する。
 若い野望を抱くアレクサンドロスは、あれよあれよの間にペルシア帝国旧領を全て征服し、巨大帝国が誕生した。
 だが、わずか32歳で病死してしまう。
 大きな角が折れ、角が4つになった。「第三王国」は4つのヘレニズム国家に分裂しながらも、存続する。「第三王国」は国家としては複数存続する形になるわけだ。ギリシャ語が広い地域で公用語となる。最後のヘレニズム国家であるプトレマイオス朝エジプトをローマが征服した。
 そう、明らかにローマが「第四王国」となるわけだ。
 ダニエル書では十本の角を持つ恐ろしい獣として象徴している。
 ローマも東西に分裂し、西ローマの方が早く消滅する。
 十本の角はローマ帝国から派生するヨーロッパ列強国を表すと考えるのが妥当だろう。
 「第五王国派」の人々は「第四王国」にローマカトリック法王を含めた。
 そして、カトリック教会はキリスト教を自称しているが、実際は悪魔に仕える反キリスト勢力だと断じたのだった。
 まもなく、こうした「第四王国」は、全て神の王国によって滅ぼされなければならない。
 こともあろうに、彼らは神によって“第五王国”に選ばれたのは英国であると信じたのだった。
 この信条は貧富の拡大により疲弊した農民たちに大きな夢を与えた。
 英国社会は神の王国として変革し、社会構造を改革しなければならない。
 「聖者の王国」となるべきなのだ。
 そして第五王国たる新英国が第四王国勢力を滅ぼし、地上に世界平和を築くことになる。
 「第五王国」の具体的なイメージは不明だが、民衆の多くにかなり影響を及ぼしたらしい。
 クロムウェルが政権を手中にできたのも第五王国派の支持が大きかった。
 だが、実際の政治では夢想的な「第五王国」イメージにそぐわない。
 クロムウェルは第五王国派と手を切る。
 そして第五王国派を弾圧、取り締まることとなった。
 「第五王国派」内部でも穏健派から過激派までいろいろで、統一されてはいなかった。
 まもなく幹部の多くが処刑され、歴史の舞台から「第五王国派」は消滅する。


◆遅塚忠躬*14ロベスピエールとドリヴィエ*15』:フランス革命研究の転換点(佐々木真
(内容紹介)
 ロベスピエールの政治路線の評価に際して、従来、注目されていなかったドリヴィエという人物に着目し、
1)「フランス革命」は「結果としてブルジョワ革命になった」のであり「農民の権利を主張したドリヴィエ」の様な路線が採用されれば、農民革命になりえた
2)ロベスピエールはドリヴィエの主張に一定の理解を示したが、それでも彼の路線は「ブルジョワジーの利害を重視するブルジョワ左派」であった
3)ロベスピエールが権力を掌握し得たのは「ブルジョワと農民の対立する利害」を彼なりに「調整すること」に成功したという要素が大きく、単に「いわゆる恐怖政治」のみで権力掌握したわけではない。しかし「ブルジョワと農民の利害調整」路線が行き詰まると、彼は「農民に配慮しすぎていて改革が手ぬるい」と見なすブルジョワによって打倒された
と指摘した点を遅塚本の意義としている。
 また、この著書で「ドリヴィエ」という従来、注目されていなかった人物へ着目したアプローチはその後の、遅塚『フランス革命を生きた「テロリスト」:ルカルパンティエの生涯』(2011年、NHKブックス)で「ルカルパンティエ」を取り上げたことにある意味でつながっているのではないかとしている。

参考

『ロベスピエールとドリヴィエ』|ib_pata|note
 再読して革命無罪のゴッドファーザーロベスピエールだと思うし、造反有理は田舎司祭ドリヴィエかな、と感じます。同時に革命無罪は政治的なものが先行し、造反有理は経済的な問題が契機になっているような気もしました。
 フランス革命は1791年に元貴族の革命派ミラボーが死去した後、ルイ16世一家がパリを脱出しようとして東部国境に近いヴァレンヌで逮捕され、いったんは憲法が制定され立憲君主制への移行始まったんですが、この1791体制はすぐに行き詰まります。
 簡単に整理すると内外の反革命勢力の脅威高まる→ブルジョワジーと民衆、農民の同盟を唱えたロベスピエール山岳派独裁による徹底路線をとる→旧体制一掃→民衆や農民の要求を飲もうとしたロペピエールはテルミドール(ボーガス注:のクーデター)で葬られる→資本主義の発展に適合したブルジョワ革命は完成したが軍に頼る、みたいな。
 ロベスピエールは国王派など右派を潰滅させるとともに、農民革命の要素もあったフランス革命の急進派を抑えるという役割を果たしたんですが、反革命の右派の勢力を潰滅すると、今度はやりすぎたロベスピエールが「狡兎死して走狗烹らる」ことになるわけです。
 フランス革命はこうしたジグザグなコースを取りながら、最終的には「(ボーガス注:資本家の?)独占禁止・団結*16禁止型自由主義」のブルジョワ革命を達成したんですが、テルミドール以降も左右両翼からの攻撃に対して身を守るため、ブルジョワジーは結局、ナポレオンの軍事力に依存するほかなくなります。
 『ロベスピエールとドリヴィエ』を読んで、改めて思ったのが、ロベスピエール山岳派の独裁以後、公教育、言語の統一が強力に進められた、ということ。こうした権力による民衆の世界の革命的解体は、全国的規模の市場に国民を編成するためで、それが後進資本主義国フランスにとって必要だった、と(p.264)。
 フランスやドイツはイギリスと比べて農業国の要素が強かったから、ブルジョワ革命を進めるためには、(ボーガス注:ビスマルクの鉄血政策など)より中央集権的な政策が必要で、さらに遅れたロシアや日本などでは一党独裁を含めた独裁的な体制が必要だったんだろうな、と。
(以下略)

 「近代化のために中央集権型、独裁的権力が求められる」つうのは是非はともかくとして他にも「鄧小平・中国での改革開放」「朴正熙・韓国での経済発展」など古今東西よく見られる話です。

遅塚忠躬著「フランス革命を生きた「テロリスト」」: ちょっとした話
 昨年(2010年)11月13日に亡くなられた遅塚先生の遺作が出版されたと知り、早速購入して、読ませていただきました。
 「序論」がありますが、ここでは、テロリズムの略史が簡潔に書かれておられます。
 これを読むと、本書の題名の中で、先生がわざわざ括弧付きで「テロリスト」と記述された意味が理解できます。
 括弧付きにされたのは、本書の主人公ルカルパンティエは、通常の「暗殺者、刺客」ではなく、「恐怖政治を遂行する者」との テロリストの本来の語源を体した人物であったと、おっしゃりたかったのだな、と得心されます。
 遅塚先生は、2002年頃から「フランス革命を生きた男たち:革命的テロリズムの意味を問う」と題した出版構想を描かれていたそうで、それがどの様な構想をお持ちだったのか、私には窺い知れませんが、編者の岩本裕子さんは、その出版構想の一部を構成したであろう「2つの付論」をつけて下さっています。
 付論1.ルソー、ロベスピエール、テロルとフランス革命
 付論2.ポワシ・ダングラース:フランス革命期のあるプロテスタントの生き方
 付論1.は、フランス革命200年を記念して、札幌日仏協会が1989年~1994年に毎年1回シンポジウムを開催した際の1993年に 1793年について担当された遅塚先生の講演録です。
 このシンポジウムの講演録は、(ボーガス注:1997年に)勁草書房より「フランス革命の光と闇」と題して出版されています。
 付論2.は、2000年秋に東北学院大学キリスト教文化研究所での講演録で、この講演を「研究所紀要」論文とする際に、大幅に加筆されたそうです。
 遅塚先生は、「フランス革命」(岩波ジュニア新書)において、
「(当時 貴族、ブルジョワ、大衆(都市の貧民と農民)がフランスを構成していたが)、フランス革命は、ブルジョワだけの利害に適合した社会、即ち
 資本主義の発展に適合した社会をもたらしたという意味で、その基本的性格は、ブルジョワ革命と言って良い」と、述べておられます。
(遅塚忠躬「フランス革命」93㌻)
 フランス革命の経緯を見ても、「ブルジョワが中心となって担った革命だ」と、言うことが出来るだろうと思います。
 遅塚先生の記述を要約すると、おおよそ次の通りになるのだろうと思います。
◆第1期
 1789年の革命後、ブルジョワが、自由主義貴族と共に、大衆を切り捨てて、1791年体制を確立しました。
 しかし、貴族の反乱や、外国からの戦争、更には、ルイ16世の逃亡による王家への信頼失墜などにより、大衆の力を借りなければ、フランスの存亡がはかれなくなりました。
◆第2期
 1792年8月10日の蜂起(第2の革命)により、共和制が成立し、大衆との妥協を図ろうとしたロベスピエール率いるブルジョワジャコバン派(国会内党派として山岳派)が、権力を掌握しました。
 ところが、ブルジョワと大衆の利害の対立の調整が不可能だったため、ロベスピエールは、自己の主張を貫徹するために、恐怖政治により先ず、ブルジョワ自身の利害を追究するジロンド派を、次には、山岳派の左派と右派を追放、処刑したのでしたが、支持基盤が少数となり、1794年7月のテルミドールのクーデターにより、失脚処刑されたのでした。
◆第3期
 テルミドールのクーデター後は、ブルジョワが、ブルジョワだけの総裁政府を成立させました。ブルジョワは、貴族や大衆の左右からの攻撃に対して、
あまりに弱体だったため、軍隊に頼らざるを得なくなり、最後は、1799年ナポレオンのクーデターによりフランス革命が終焉を迎えたのでした。
 本書を読むと、遅塚先生のフランス革命への思いは、1793年にあるように感じられます。
 ロベスピエールの恐怖政治は、多数の人間を処刑したとのマイナス面があるものの、その後の人類にもたらした 何よりもの貴重なプラス面は、マイナス面を補って価値があるもの と、感じておられるような気がします。
 93年のプラス面とは、 
1.93年憲法で 政治的デモクラシーの原理を樹立したこと。
  即ち、
  ① 成人男子の普通選挙
  ② 直接民主制
  ③ 更には 国民の抵抗権をみとめたことです。
2.ブルジョワ自由主義経済、資本主義の発展を拒否して、社会的デモクラシーの実現を目指したこと。
  即ち、
  ① 私的独占、団結の禁止法(買い占めや談合による価格のつり上げに刑罰を課した)
  ② あらゆる領主的諸権利の完全無償破棄(アンシャン・レジームの打倒 を 完成させた)
  ③ ロベスピエールが、生存権(生きる権利)は、所有権より優越すると主張したこと
  注) 先生の著書「ロベスピエールとドリヴィエ」は、③の経緯を記述されておられます。
 しかも、フランス革命の成果は、フランス革命の時点で、全てもたらされたのではなく、フランス革命が播いた種が、100年後の第三共和制において普通選挙が定着し、20世紀半ばの第2次大戦後、ロベスピエールが提唱した 「生存権の優位」や93年憲法に書き込まれた「公的扶助の義務」が、福祉国家の理想を示すものとして 賛同を得るようになった(遅塚忠躬「フランス革命」128㌻)
と、記述されておられるのを重ね合わすと、「だから、93年は、何物にも代え難い価値(プラス)があったのだ」と、おっしゃりたかったのでは、と感じました。
 先生の93年への思い、フランス革命への思いは、「93年のフランス人は、自らの血を流して、後の世界に大きなプラスを遺した」((遅塚忠躬「フランス革命を生きたテロリスト」223㌻)に、言い尽くされているのだろうと思います。
(以下略)


◆良知力*17『向こう岸からの世界史*18』:「歴史なき民」再考(N澤T哉*19
(内容紹介)
【前振り】
 今回、「歴史評論」4月号目次(予定)の執筆者の名前「N澤某」を見て「どっかで名前を見た覚えがある人だなあ」と思ったのですがしばらく考えて分かりました。こういうことは書かない方がいい気もしますが「名前をイニシャル記載にした上」でひとまず書いておきます。
 「ああ、俺と以前やりあったあげく、はてなブログからトンズラした、あの野郎か」と(これ以上は「武士の情け」&「トラブル防止*20」のために書きませんが、分かる人には分かると思います)。
 この名前については「あの野郎の実名だ(本当かどうか知りませんが)」と某氏にお教え頂いたことが以前ありました。「実名云々」が仮に事実だとして、はてなブログからトンズラしてどうしてるのかと思っていましたが、世間とは実に狭いもんです。まさか「小生が毎月愛読している一般向け歴史雑誌『歴史評論』掲載論文の筆者」としてお目にかかるとは思いませんでした。
 ご健在なようで幸いです(皮肉のつもり)。
 まあ、「実名云々」が仮に事実だとして、彼がやたら小生やid:Bill_McCrearyさんに対する態度がやたら居丈高なのも大変良く理解できました。
 「近代スロヴァキア国民形成思想史研究」の著者紹介に寄れば

・1971年信州に生まれる*21。1997~1999年スロヴァキア科学アカデミー歴史学研究所留学。2002~2004年早稲田大学文学部助手。2003年早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。2004~2005年日本学術振興会特別研究員(PD)。2005~2007年福井大学教育地域科学部助教授。2007年現在、福井大学教育地域科学部准教授、博士(文学)

だそうですから。そりゃ「留学経験」のある「福井大学准教授、文学博士様(2007年当時)*22」で専門図書まで刊行した御仁からすれば小生ごとき「留学経験」もない、もちろん「専門図書など刊行してない」「ド素人(頭も大して良くない平凡なサラリーマン、もちろん大して出世もしていない)」に悪口されれば「俺は大学教員なんだ!。素人が何様だ」と腹も立つのでしょう。とはいえ俺は学問的批判なんか何一つしてないので「俺やI濱先生のようなプロの学者(大学教員)を馬鹿にするな!」などマジギレされても「いや、そう言う話じゃねえだろ?」「あんたやI濱が無茶苦茶なダライ擁護するからやろうが!」つう話ですが。
 まあ、3月10日発行予定の4月号を読んだら「過去のしがらみ(つうか俺の憤慨の思い)」は捨てて、出来る限り客観的に内容紹介する予定です。まあ、「I濱やこの方」を見てると「頭の良さ*23と人格は全く関係ないこと」は大変よく分かります。

【本論】
 エンゲルスの「歴史なき民」論の影響もあって、従来、注目されてこなかった「ウィーン1848年革命」での東欧からの流民、出稼ぎ民の動き(向こう岸の世界史)に注目した点を良知本の意義とする反面、良知の使用した資料はもっぱらドイツ語資料であり、東欧語資料が少ない点を限界としている。

【参考:良知力】

一橋世界史2014 - 世界史教室
◆第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
(ボーガス注:良知力『向こう岸からの世界史』の引用ですが長いので大幅に省略します)
 これらの民族は、放置しておけばトルコ人に侵され、回教徒にされてしまうであろうから、そのくらいならドイツ人やマジャール人に吸収同化してもらえるだけありがたく思わねばならぬ、ともエンゲルスは別のところで言っている。
(良知力「48年革命における歴史なき民によせて」『向う岸からの世界史』より引用。但し、一部改変)
◆問い
 引用文の著者である良知は、1976年に書いたこの論文の中で、「歴史なき民」に対するエンゲルスの考え方を批判的に考察しながら、1848年のヨーロッパの諸事件においてこれらの民が担った役割の再評価を試みた。この文章を参考にして、エンゲルスが「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係をどのように理解しているかを説明しなさい。それを批判的に踏まえながら、下線部の人々がどのような政治的地位にあったのかについて、17世紀頃から21世紀までを視野に入れて論じなさい。(400字以内)
◆コメント
第2問
 第1問で「思いこみは捨てなくては」と書きましたが、この問題もエンゲルスの思いこみを痛烈に批判する著者(良知力(らち・ちから))の引用文からできています。
 「悪評高き一文」と指摘しているように、社会主義という世界に通じる普遍的な原理をたてたと誇っているはずの思想家が、じっさいは狭い自民族優越主義(レイシズム)に囚われている、と批判しています。
 西欧だけが先進的であり、東欧やアジアは「普遍的・人間的価値を知らぬ者、これらの民は人間であって人間でない、なお動物なのである(p.56)」という帝国主義時代の西欧人が考えていた志向と何ら変わりがありません。著者はこれを「狭隘なエゴイズム(p.18)」と呼んでます。著者はこの蔑視観を否定すべく1848年革命でのスラヴ人の役割を描いていきます。受験生に対しては、1848年のスラヴ人の動きという細かい知識はあるはずもないので、「ポーランド人をのぞく西スラヴ人」すなわち、チェコ人とスロヴァキア人の歴史を書かせることで、エンゲルスに反論せよ、という要求です。巻末の解説で阿部謹也*24が「歴史なき民こそが歴史の担い手であり、革命の主体であったという事実を掘り起こしたのである」と述べています。これを時間は「17世紀頃から21世紀までを視野に入れて」で書いてほしいと。
(以下略)

 「これらの民族は、放置しておけばトルコ人に侵され、回教徒にされてしまうであろうから、そのくらいならドイツ人やマジャール人に吸収同化してもらえるだけありがたく思わねばならぬ」ねえ。
 エンゲルスについては全く無知なので本当かどうか知りませんが、これと似たり寄ったりのことを「韓国植民地支配」で言ってるのが日本ウヨです。
 日本ウヨ曰く「当時の韓国民族は、放置しておけばロシア人に侵され、植民地にされてしまうであろうから、そのくらいなら日本人に吸収同化してもらえるだけありがたく思わねばならぬ」。まあ、「1945年より前(特に明治時代)」ならまだしも、1945年から70年以上も経って産経などのように未だにそんなことを言うのは「韓国に対する挑発行為」以外何物でもありませんね。そんなことをしながら「韓国は反日だ」。日本人の俺ですら「黙れ、ゲス」と思わずにはいられません。

nix in desertis:受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2014 その3(国立大)
1.一橋大
<種別>難問
<解答解説>
 一橋大は昨年(2013年)に超難問を出していたので,「2014年はまともな問題が来るだろう」と予想されていた。しかしである。一橋大は退かぬ!媚びぬ!省みぬ!の精神であった。2014年もやっぱり超難問であった。
 昨年はフランス革命であったが,今年は1848年革命が中心である。題材はエンゲルスと良知力(らちちから)。良知力氏は一橋大・社会学部の元教授であり,1985年に在職のまま亡くなっている。マルクス研究の泰斗であり,かつ社会主義運動と東欧の小民族との関係を論じた本も出版している。本問はその著書からの引用である。問題文でエンゲルスの「歴史なき民」論が紹介され,良知力がこれを批判的に考察したことが提示される。そして要求は三つ。
 1.エンゲルスのいう「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係の説明
 2.実際の「ポーランド人を除く西スラヴ人」の歩んだ政治的地位の変遷
 3.実際の歴史を用いた「歴史なき民」論に対する批判
 言うまでもなく過剰要求なのだが,いつもの一橋大の超難問より幾分マシなのは,2の要求は易問だからである。まさか一橋大受験生で,チェコ人・スロヴァキア人の歴史を語れない者はおるまい。実際,1の要求はさっさとあきらめて2に400字のほとんどを費やし,最後に「だからエンゲルスはまちがっていた(小並感)」と3番の要求に一応応えて締めた答案は多かったろうと思う。私が受験生でもそうする。実際,それでも6割くらいの点数はもらえるのではないか。
 ではまじめに考えてみるとしよう。
 まずエンゲルスの「歴史なき民」論であるが,聞いたことがない人も多いのではないか。私もMukkeさんのブログを読んでなければ知らんかった。
・(ボーガス注:大学入試(世界史)においてエンゲルス理論の正確な理解を受験生に求めるのは明らかに無茶なので)現実的な解答としては,「歴史なき民」とは独立国家を持ったことがない民族を指すことと,その独立運動が「歴史の歩み」に逆行するとエンゲルスが考えていた(ボーガス注:らしい)ことを指摘できれば十分であろう。
・さて,この理屈に沿うならチェコ人やスロヴァキア人は未来永劫独立できず,問題文にある通り「ドイツ人やマジャール人*25に吸収同化」されてしまうはずであった。しかし,実際の歴史はそうはならなかった
・つまりエンゲルスの予測とは外れ,チェコもスロヴァキアも見事に独立を果たしている。なお,マルクス・エンゲルスが想定するドイツの国民国家ではボヘミアも統一ドイツに入る予定であった。しかしパラツキー*26はフランクフルト国民会議に参加するのを拒否し,むしろスラヴ民族会議を開いたため,マルクス・エンゲルスの怒りを買うこととなった。これが本問と最も直接的につながる事象と言えよう。

 「太字強調」は俺がしました。まあ、エンゲルス通、あるいは良知力ファンなら「歴史なき民」は「知ってて当然」の知識ですが今時そんな人も、あまりいないですからねえ。そして良知の時代は「どんな内容でアレ」、良知のようなマルキスト*27の「エンゲルス批判」はかなり衝撃的だったでしょうが、今は幸か不幸かそう言う時代でもない。
 しかし「Mukkeさん=N澤さん」なんですかね、やはり。

良知力『向う岸からの世界史』(筑摩書房) - 丸谷 才一による対談・鼎談 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
丸谷才一*28
 良知力(らち・つとむ*29)さんは一橋大学の教授だそうです。ドイツ社会思想史の専門家で、へーゲル左派、ことに初期マルクスの研究者であります。
 この本は、第一部と第二部が哲学論ないし史論でかなりむずかしい。第三部が「ウィーン便り」になっていて、これがわりあいわかり易い。その中でも、「ガスト・アルバイターとしての社会主義」が、かなり鮮明に著者の考え方を示していて、いわばこの本全体を読む手がかりになります。
 ガスト・アルバイターというのは、外国からきた出稼ぎ労働者のことで、ユーゴ、トルコ、ギリシャなどの貧民なんですね。たとえば一人が契約して家を借りると、そこに三家族も四家族も入りこみ、ベッドを二交替か三交替で使う。彼らは西欧の「きたない仕事」を一手に引き受け、その一方、社会の混乱や犯罪の温床になっている面もかなりある。「ウィーンのオーストリア人労働者がプロレタリアなら、彼らはプロレタリア以下」といわれています。そして著者は、〈いまやガスト・アルバイターが西欧のプロレタリアートの代役を勤めているのじゃないか〉という感想をもった。
 そのあとで、良知さんはこう考えるんです。
 社会主義の土台となるプロレタリアートは、都市共同体としての市民社会から出てきたものじゃなくて、市民社会の外から、深い底のほうから「死霊」のように出てきて、西欧市民社会を脅かしたのじゃないだろうか。
 この考え方の前提として一八四八年の革命におけるスラブ系の難民たちの姿があるわけです。
 著者によれば、プロレタリアートを手工業職人や工場労働者とほぼ同一視する規定のしかたは、当時の人々のプロレタリア観と違うし、当時のいわゆるプロレタリアの実態とも違う。むしろ実態としては、プロレタリアートは「廃疾者、労働不能者、怠け者、放浪者、乞食、やくざ、売春婦、犯罪者等々」であった。
 こういう指摘は、マルクシズムが生まれ、形成される地盤を非常によく説明してくれるんです。つまり、ぼくの考えでは、西欧市民社会の抱いた恐怖感を、マルクスが天才的に利用したということになるんじゃないか。そのへんの呼吸を、良知さんは、ガスト・アルバイターの群れに接することで感じ取った。それは一種の史眼であるといっていい。
 この本の論旨はゴタゴタしていて、まとめにくいし、論理は途中で停滞したり旋回したりしていて、模索の連続という感じがします。しかし、マルクシズムという思想の成立の背景を知るためには、いわば資料集として絶好の本ではないかと思いました。
山崎正和*30
 マルクスをふくめていわゆるヘーゲル左派*31の歴史家たちは、非常に強烈な差別思想の持ち主であって、「アジア的停滞」という有名な言葉で象徴されるように、ヨーロッパでないものに対する激烈な蔑視の上に成り立っていたことを、まず著者は指摘します。その上で、ウィーン革命の原動力が、当時の概念によるプロレタリアートでもなんでもない、ただのクズであったという事実を指摘している。そのクズの中身を洗ってみれば、実は(ボーガス注:トルコ、ギリシャなど)広義のアジア人ではなかったか。したがって、ヨーロッパの正統革命家が見落としていたところに、西洋の革命の芽があって、その中身になっているのは、スラブをふくめたアジアである、ということなのだろうと思います。
 それにしても、この中で比較的学問的に書かれている第一部には、かなり問題があると思いました。文章の表面を読む限り、何を書こうとされているのか一向にわからない。
 どうも筋を追ってゆくのがたいへん苦しい。それから当時の社会民主主義者の立場からいえば、労働者以下の人たちの発生の理由として、十九世紀半ばの人口の急増を、著者はあげているわけですが、人口の急増がどうして起こったのかということは何ら触れられていない。その前に、著者は問題を提起しているわけです。つまり、工業化が興ったからプロレタリアートができたのか、工業化が未発達だったからプロレタリアートができたのか、という大事な議論をもち出しながら、人口急増の原因に少しも触れていないので、何やらキツネにつままれたような気がする。そうすると、それをめぐって、当時の革命家のあいだで意見が分かれた、といわれても、どっちが正しかったのかさっぱりわからない。
 したがって、素人が見ると、これは歴史学者の書く文章なのだろうかと、ちょっと疑わしくなりました。
木村尚三郎*32
  わたしは、日本のキリスト教徒の書く本と同じように、日本のマルクシストの書く本も好きじゃない(笑)。
 つまり、非常に型どおりの書き方をして、そこにイマジナティブ・パワーの豊かに働いた、自分なりの目で書いたものが見られないからおもしろくないんです。
 ところが、この本はそうじゃないですね。ご自身、一八四八年のウィーン革命を、「プロレタリアート革命」といっていながら、しかもそのプロレタリアートが怠け者だったり、売春婦だったり、ばくち打ちだったりするような、そういう現実をちゃんと書いている。その点、非常に正直な方ですし、資料も丹念に読んでいらっしゃる。
 その意味では、ある程度の共感をもって読めました。
 一八四八年の革命はブルジョア革命といわれているけれども、実は、革命側の人間も反革命側の人間も市民じゃなかった。革命側は、どうしようもないプロレタリアートで、おそらくスラブ人ではなかったか。反革命の側はクロアチア人であった。こういう人たちが体制側にも反体制側にも、実質的に大きな力を果たしながら、歴史の上では無視されて消えてしまっている。そのことに対する無限の恨みが、著者にはあるんですね。
 そこまでは、わたしもわかる。ところがそれから先がわかりません。
 それではなぜ、四八年のウィーンでの事実上は暴動にすぎないものをプロレタリア革命、あるいは「意識せざるプロレタリア革命」などと、著者はいうのでしょうか。
 つまり、釜ヶ崎とかニューヨークで夏起きる暴動みたいなものと、ウィーン暴動はどこが違うのか、そこには革命といわなければいけないどのような特性があるのかといった積極的な理論づけが、この本にはまったく欠如していると思うんです。
山崎正和
 この本のタイトルにある“向う岸”という言葉は、たいへん大事な用語であるらしいですね。アレクサンドル・ゲルツェン*33に『向う岸から*34』という本があるんですね。しかし、その紹介はこの文章のどこにもない。ずうっと読んでいきますと、突然、〈ゲルツェンの作品『向う岸から』をマルヴィーダが読むのは〉という形で出てくる。
 これはやはり、作文の書き方として非常にまずい。つまり、「向う岸から」という言葉をよく知っている仲間内に対して書かれた文章であるならともかく、不特定多数の読者のために出版されているんですから。
丸谷才一
 いや、ぼくは、これは仲間内のために書かれた本だと思います。この本の書き方が、よくいえば奔放、悪くいえば乱雑なのは、ごく狭いサークルのために書かれている本だからだと思う。
木村尚三郎
 これはきわめてパセティックな本で、自分自身の激情が抑えられない、自分の思いこみが前提にあって書いているから、仲間にもわからない面があるんじゃないかという気がしますね。
(以下略)

【参考:ゲルツェン】

米原万里「私の読書日記」週刊文春2001年5月24日号『過去と思索』『スターリン秘録』『「スターリン言語学」精読』(1/2) - 米原 万里による読書日記 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
 アレクサンドル・ゲルツェンの「自分史」を読み出したら止まらなくなった。面白すぎるせいでもあるが、長すぎるせいでもある。『過去と思索』全三巻(金子幸彦*35/長縄光男*36筑摩書房各九八〇〇円+税)。「ルソー*37の『告白*38』やゲーテ*39の『詩と真実*40』と並ぶ自伝文学の白眉」といっても、各巻六〇〇頁、一三一年前に没したロシア作家の文章を、活字離れが叫ばれて久しいこの国で刊行しようなんて、市場原理に照らしてみたら愚挙以外の何ものでもない。それでも翻訳者が翻訳せずにはいられない、編集者が出版せずにはいられなくなるような力を、作品自体が持っているということだ。この値段では、ただでさえ少ない潜在的読者を、さらに遠ざけてしまいそうなのが歯がゆいが。
(以下略)

アレクサンドル・ゲルツェン
 現在の日本ではロシア文学というのはあまり人気がないようで、プーシキン*41ドストエフスキー*42も今の学生は読まないようだが、私の若い頃には 多くの日本人がロシア文学を愛読した。私にもそうした時期があり、ロシア文学の主だった長編小説はほとんどを読んだものだが、私の心を最も捉えたのは、アレクサンドル・ゲルツェンの『過去と思索』という本であった。これは実は小説ではなく、ゲルツェンの自伝・回想録である。
 ナロードニキの元祖とも呼ばれるアレクサンドル・イワーノヴィッチ・ゲルツェン (1812-70) は、ナポレオンが侵入したその年にモスクワで生れた思想家・文学者であって、後にヨーロッパに亡命して長くロンドンに住み、1852年からこの回想録『過去と思索』の執筆を始めた。
(以下略)


◆木谷勤*43ドイツ第二帝政史研究*44』:国家を歴史的にとらえ直すために(割田聖史*45
(内容紹介)
 エンゲルスの「ボナパルティズム論」「上からの革命」論を本格的に用いてドイツ第二帝政を分析した点を木谷本の意義としているが、この点、「ボナパルティズム論」「上からの革命」論をどう評価するかによって評価は異なってくるとしている。


◆溪内謙*46現代社会主義の省察*47』:スターリン体制解明の見取図(中嶋毅*48
(内容紹介)
 溪内本を
1)ロシア革命は「後進国の革命」であったが故に「上からの革命」となり民主主義の点で問題があった
2)こうした問題点をどう是正していくかが「現代社会主義の問題」である
と言う理解を示したと評価した上で、ソ連崩壊後も、こうした溪内本の問題意識が無効になったとは思わないとしている。
 なぜなら「後進国革命」であるが故に民主主義の点で問題があるという話は旧共産圏、あるいは現存の共産国(中国、ベトナムなど)に限った話ではなく、「旧ソ連・東欧と単純に同一視できない」とはいえ多くのアジア、アフリカの発展途上国に共通する話だからである。いやそもそも戦前において「天皇ファシズム国家」であり、現在も「安倍の無法(モリカケ桜を見る会検事長定年延長など)」がまかりとおっている日本こそが「明治維新後の富国強兵」「池田政権の高度経済成長」などによって経済的豊かさ、近代化を達成したものの、渓内が言う「民主主義に重大な欠陥を抱える後進国革命(?)国家」ではないのか。

参考

溪内謙先生を悼む塩川伸明*49(初出『ロシア史研究』第七五号、二〇〇四年)、から一部のみ引用
・二〇〇四年二月一三日、溪内謙先生が亡くなられた(享年八〇歳)。
・最初の主著『ソビエト政治史』(勁草書房、一九六二年、新版『ソヴィエト政治史』岩波書店、一九八九年)がわが国におけるソ連史研究上画期的な作品であることについては、今更いうまでもない。
・一九六八年四月、名古屋大学から東京大学法学部に転任。
・一九七〇年八~一一月、ソ連およびイギリスに出張。それ以前にも短期訪ソの経験があるとはいえ、本格的な訪ソはこれが最初ではないかと思われる(一九七五年三~一〇月にもソ連およびイギリスに出張し、一九七八年六~七月には一連の東欧諸国、一九七八年八~一〇月には再度ソ連に出張している)。この時期には、『現代社会主義の省察』(はじめ雑誌『世界』に連載したものを岩波現代選書として一九七八年に刊行)を除けば、ほとんど啓蒙的文章や概説の類を書かず、専ら『スターリン政治体制の成立』(岩波書店)に全力を傾注した(この時期には、第一~三部が一九七〇、七二、八〇年に出た)。
・なお、『東京大学法学部研究・教育年報』第六号(一九八一年)に、教授就任一三年を区切りとする「研究結果報告書」というものが載っているが、そこでは、「教育的あるいは啓蒙的性格をもつ著書・論文」は「研究結果」には含まれないとする考えから、『現代社会主義の省察』や『岩波講座世界歴史』第二六巻、第二七巻収録の論考*50が業績の中に挙げられていない。これらの作品を「研究結果」のうちに数えないというのは、研究というものに対する厳しい姿勢を物語っている。
 一九八四年三月、東京大学を定年退官し、一九八四~八九年には千葉大学法経学部、一九八九~九〇年には帝京大学文学部に勤めた。この時期の一九八六年に、年来の大著『スターリン政治体制の成立』全四部がついに完結した。ちょうど時を同じくして、ソ連ペレストロイカが始まり、八七年秋には僚友ダニーロフがはじめて来日した。これはペレストロイカ前半期の希望に満ちた時期であり、ソ連の改革派知識人にとっても、溪内先生にとっても最良の時期だったといえるように思われる。
 その後、ソ連の状況は暗転し、一九九一年のソ連解体に至った。九〇年代から二一世紀初頭にかけて、先生にしては珍しく、エッセイ風の文章をいくつか書いているが、そこではソ連解体後の荒廃した世相への憤りともいうべきものが相当率直に吐露されている。社会主義圏崩壊直後の時期には、いわば教条的社会主義の裏返し的な「逆イデオロギーの跋扈」ともいうべき安易な風潮が一部で噴出したから、それに先生が苛立ちを感じたことは十分理解できる。これらのエッセイの中には、日頃ストレートな価値観の表出を禁欲してきた先生にしてはやや異例なものも含まれ、悲痛な印象を与える面もあるが、おそらくやむにやまれぬ思いからの発言だったのだろう。一部には、そのメッセージを短絡的に受けとり、特定の政治的立場から利用主義的に接近しようとする試みもあった。しかし、そのような時論的発言が晩年の先生のすべてだったわけではない。主著の続編を書くべく、近年新たに利用可能となった資料類の探索を八〇という歳に至るまで継続し、いくつかの準備的作品を公表した。その集大成が、病床で最後まで推敲を続けた遺著『上からの革命:スターリン主義の源流』(岩波書店、近刊予定)である。
 このように振り返ってみると、溪内先生の研究歴は、外面的には起伏の少ない学究生活の持続のようにもみえるが、実は、いくつかの大きな曲折を経ていたことが分かる。確かに現実政治に直接関与することは避けてきたが、常にそれとどのように対峙するかという問題意識が背後にあり、そしてその研究対象が現代史上の一大トピックであるだけに、スターリン批判、ペレストロイカソ連解体などに際して大きな屈折を経験せざるを得なかったのである。それをどのように受けとるかは人によって異なるだろうが、ともかくそうした現実との格闘の過程およびその産物としての一連の著作は、われわれに残された遺産としてある。


◆清水知久*51・高橋章*52・富田虎男*53アメリカ史研究入門*54』:アメリカという問題と格闘する(中野聡*55
(内容紹介)
 1974年当時(いや、今も?)においては「アメリカ=素晴らしい国」的な見方が一般に強い中、

・『アメリカ帝国』(1968年、亜紀書房)、『ベトナム戦争の時代』(1985年、有斐閣新書)、『増補・米国先住民の歴史』(1992年、明石書店)などの著書がある清水
・『アメリカ帝国主義成立史の研究』(1999年、名古屋大学出版会)の著書がある高橋
・『アメリカ・インディアンの歴史(第三版)』(1997年、雄山閣)の著書がある富田

たちの視点が米国帝国主義に批判的な左派的なスタンスであることを指摘した上で、こうした「米国帝国主義」に対する批判的スタンスは民主主義的歴史学を志す者ならば当然に保有しているべき態度ではないかと主張している。なお、本多勝一氏の『アメリカ合州国』(1981年、朝日文庫)も新聞連載は1970年代だったかと思います。

【参考:清水知久氏】

570清水知久氏逝去 (2010/05/14掲載)
 元「大泉市民の集い」の中心活動家の一人でした清水知久さん〈元日本女子大学教授、アメリ歴史学)が、今年の2月7日に逝去されていました。77歳でした。
 昨日、ご夫人から、市民の意見30の会・東京事務局あてに、ご逝去のお報せのおはがきを頂きました。
 実は、すでに半年ごろ前から、声のかすれることがあり、おそらく、喉頭がんで亡くなられたのだと思います。しかし、それを知人や運動の仲間たちにも通知されないようにと、ご本人の希望があって、ほとんどの方に通知がされておりませんでした。葬儀は、ご家族だけでなされたそうです。
 「大泉市民の集い」のメンバーの間では、清水さんを偲ぶ会の相談はされてあり、最近、ご家族の方からもご了承もあったようで、おそらく、この秋ごろにそういう集まりが準備されることになりそうです。いずれ決まり次第、本欄でお知らせいたします。
 謹んで深い哀悼の意を表明いたします。
 清水さんの著訳書は多数あり、以下の各事典などをご覧ください。ベトナム反戦運動については、清水さんの『ベトナム戦争の時代』(有斐閣新書、1985年)が非常によくまとめられた書物ですが、残念ながら絶版で、図書館でか、古書で探すことしか出来ません。 また、以下にない訳書では、J.ハリデイ/B.カミングス『朝鮮戦争:内戦と干渉』(岩波書店、1990年)があります。

◆清水知久(しみず・ともひさ:1933(昭和8)年生まれ)
 アメリカ史家。東京生まれ。東京大学卒業。アメリカに渡り、ウィスコンシン大学で学ぶ。1963年から日本女子大学で教え79年教授。アメリカ先住民の視点でアメリカ史の見直しをする。68年和田春樹らと「ベトナム戦争に反対し朝霞基地の撤去を求める大衆市民の集い」を結成し、反基地運動を展開。72年には「ハイエナ企業市民審査会」を設立し、ベトナム戦争に協力する企業を告発する運動を始めた。
【著訳書】『アメリカ帝国』(1968)、『米国軍隊は解体する』(共著著、1970)、『アメリカ・インディアン』(1971)、『ベトナム戦争の時代』(1985)
 『平和人物大事典』(監修:鶴見俊輔、2006年 日本図書センター)より

◆清水知久(しみず・ともひさ)
 アメリカ現代史家。1933(昭和8)年9月22日東京生まれ。1968年夏,清水は歴史学研究会の帰りに,1年前から朝霞基地で夫人とビラまきをしていた和田春樹*56西武池袋線に乗り合わせた。この出会いから68年7月「ベトナム戦争に反対し朝霞基地の撤去を求める大泉市民の集い」が生まれた。東大教養学科アメリカ科を出て,58年国際関係論修士課程をおえた演劇好きの青年をアメリカ現代史にかりたてたものは,従来のマルクシズムによるアメリカ理解への不満だった。60年ウィスコンシン大学でW.A.ウィリアムス*57教授に学び,日本におけるアメリカ史研究者の「新左翼」といわれる。和田らと朝霞の米軍基地に向け,ハンドマイクで呼びかけるうちに,帝国主義研究には軍隊内の人間の研究が欠落していたことに気付き,米軍解体運動の草分け的実践者となる。またソニーなど大企業のベトナム戦争協力を告発して72~75年「ハイエナ企業市民審査会」の推進者となる。著書『アメリカ・インディアン』(71年,中公新書),『米国軍隊は解体する』(古山洋三,和田春樹と編著。70年,三一新書)など。63年日本女子大学につとめ,66年より助教授。(小中陽太郎*58
 朝日新聞社編『現代人物事典』(1977年)より

◆清水知久(1933.9.22~ しみず・ともひさ)
 アメリカ史学者。東京都生まれ。1956(昭31)年東大教養学部アメリカ科卒,東大大学院国際関係論修士課程修了。専攻はアメリカ現代史。ウィスコンシン大でW.A.ウィリアムスに学び,63年より日本女子大に勤めて教授となる。60年代のベトナム反戦闘争に積極的に参加,アメリカ合衆国を建国当初より膨張主義をとる「アメリカ帝国」と規定,WASP(アングロ・サタノン系プロテスタント)中心の差別と抑圧を告発し,これを無批判に受容する日本人に抗議,『アメリカ帝国』(68年),『アメリカ・インディアン』(71年),『近代のアメリカ大陸』(84年)を著した。市民運動家としての日常実践にも力を注ぐ。著書はほかに『ベトナム戦争の時代』(85年),訳書にJ.コスター『この大地,わが大地』(77年)など。 (大江一道*59
 『朝日人物事典』(1990年)より

【参考:富田虎男氏&ラナルド・マクドナルド】

Friends of MacDonald – FriendsofMacDonald.com » Blog Archive » 富田虎男先生から受け継ぐマクドナルド~~利尻島 西谷榮治
マクドナルド上陸記念碑の建立を祝ってラナルド・マクドナルド利尻島上陸記念碑の建立に際し、私ども日本マクドナルド友の会から、心からお祝いを申し上げます。野塚岬の丘の上に立つと、はるか150年も昔、マクドナルドが草履をはき、二人のアイヌに手を引かれて、おぼつかない足どりで浜辺から上がってくる姿が眼に浮かびます。厳しい鎖国令下にある日本に潜入するため、慎重で大胆な冒険家マクドナルドが選んだ戦略は偽装漂流と、島の人びとの温情にすがることでありました。それは美事に成功し、野塚の番小屋では、タンガロと誤記された番人多治郎との暖かい友情まで生まれました。同じ平地に立って一対一で対等に向き合えば、いつの時代でも、どこででも、暖かい人間同士の交流が成立するのだ、という事をマクドナルドは身をもって示してくれたのです。10年ばかり前に、アメリカ側にフレンズ・オブ・マクドナルドが結成され、アストリアの丘の中腹にある生誕地に、マクドナルド顕彰碑が建立されました。ここ野塚の上陸記念碑とアストリアの顕彰碑は、太平洋を挟んではるかに向き合い、初めは言葉も分からない人間同士が、相互に相手を信頼し合えば、深い友情の絆で結ばれうるという事を、訪れる人びとに語り続ける事でありましょう。ひと言つけ加えたいと思います。それは、この記念碑の建立を誰にもまして悦んで下さるはずの二人の方を、最近相ついで失ってしまった事です。一人はフレンズ・オブ・マクドナルドの会長冨田正勝氏であり、もう一人は日本マクドナルド友の会の発展に尽くされた高橋正樹氏であります。お二人の御冥福を祈りたいと思います。1996年10月23日 日本マクドナルド友の会 富田虎男」
 今から20年前の1996年10月23日、利尻島野塚岬に建立されたマクドナルド顕彰碑・吉村昭*60文学碑除幕式の立教大学名誉教授富田虎男先生の祝文である。
 マクドナルドの利尻島上陸に手を引いた二人のアイヌ人、上陸してから芽生えた番人多治郎との暖かい友情。マクドナルドの生誕地米国オレゴン州アストリアの丘の中腹と日本国利尻島野塚とに太平洋を挟んで向き合う二つの記念碑。富田虎男先生の祝文を今一度読み直した私は、マクドナルドと島人たちの出会いを過去、現代において建てられた記念碑は物として使うのではなく、人は心と心、物は物語として膨らませて現代に繋げ、未来の交流を創って行く事の大切さを強く感じた。このことから、アストリアに建つ顕彰碑の上の五角形はマクドナルドが生まれたアストリア、捕鯨船から離れて上陸した焼尻島、初めて人と出会った利尻島、オランダ通詞たちに英語を教えた長崎、墓のあるトロダの五ヶ所を表していることになると思った。
 病気療養中の富田虎男先生は2016年6月11日の未明、87歳で永眠された。家族葬にて6月16日午後6時から通夜、翌17日午前11時半から告別式が埼玉県所沢市所沢市斎場で行われた。葬儀会場で富田虎男先生の遺影写真を見ながら様々に思いが蘇ってきた。
 富田虎男先生がマクドナルドに出会ったのは1969年の劇団文化座「草の根の志士たち」だったという。公演で「長崎にはアメリカのインディアンがいて、アメリカでは一番偉いのは人民、その次が大統領」という台詞から、マクドナルドの事を知った富田虎男先生は、マクドナルドに縁のある米国・日本各地を訪れ、マクドナルドの日本回想記に書かれている事柄を確認しながらマクドナルドを追い続けた。その成果を1979年に富田虎男訳訂『マクドナルド「日本回想記」:インディアンの見た幕末の日本*61』として発刊した。その後、1981年に補訂版、2012年に再訂版を出している。発刊後に得た新しい資料等を基にして書き換えてきた。再訂版には「鎖国の日本に潜入した命知らずの大胆不敵な冒険家というラナルドのイメージは消え失せ、大胆ではあるが用意周到な冒険家というイメージが私の中に浮かんできた」と書いている。
 富田虎男先生のマクドナルド研究の視点から「日米民間交流の先駆者ラナルド・マクドナルド-鯨が開いた鎖国の扉-」として、マクドナルドの調査研究とまとめを引き継ぎたい。

◆ラナルド・マクドナルド(1824~1894年:ウィキペディア参照)
 オレゴン州アストリアで、毛皮商だったスコットランド人(国籍はイギリス)のアーチボルド・マクドナルドと、当地の原住民であるアメリカインディアン・チヌーク族の部族長の娘コアルゾアの間に生まれる。
 事業をうまく進めるために、原住民の有力者と婚姻関係になることは植民地開拓時代にはしばしばみられた。母親はラナルド出産後数か月で死亡し、母方の叔母に一時預けられたが、父親が翌年再婚したため再び引き取られた。エジンバラ大学卒の父親から基礎教育を受けたのち、1834年にミッション系寄宿舎学校に入り、4年間学んだあと、父の手配で銀行員の見習いになったが肌に合わず出奔。
 子どもの頃、インディアンの親戚に自分達のルーツは日本人だと教えられ、日本にあこがれていたため、日本行きを企て、1845年、ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となる。植民地主義的な考えから、西洋人である自らを権力を持った支配層側、日本人をアメリカにおけるアメリカインディアンのような存在ととらえ、日本に行けば、自分のような多少の教育のある人間なら、それなりの地位が得られるだろうとも考えていたという。
 船が日本近海に来た1848年6月27日、単身でボートで日本に上陸を試みた。7月1日、利尻島に上陸。マクドナルド自身の記述によれば、不法入国では処刑されるが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装ったという。その後、8月に密入国の疑いで宗谷に、次いで松前に送られた。そこから10月に長崎に送られ、1849年4月にアメリカ軍艦プレブル号で本国に帰還するまでの約7ヶ月間を過ごした。
 やがてマクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問もあることを知った長崎奉行は、オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせることにした。14名の通詞たちは、森山栄之助(のちにペリー艦隊が来航した際の通訳をつとめる)、西与一郎、植村作七郎、西慶太郎(のちに出島の医師ポンペの通訳をつとめる)、小川慶次郎、塩谷種三郎、中山兵馬、猪俣伝之助、志筑辰一郎、岩瀬弥四郎、堀寿次郎、茂鷹之助、名村常之助、本木昌左衛門である。それまでは(オランダ語などを経由せず)直接的に英語を教える教師はいなかったので、彼が最初の英語母語話者による英語教師だったことになる。
◆ラナルドを題材とした書籍
吉村昭『海の祭礼』(1986年、文春文庫)
・今西祐子『ラナルド・マクドナルド:鎖国下の日本に密入国し、日本で最初の英語教師となったアメリカ人の物語』(2013年、文芸社

【参考:アメリカ合州国

アメリカは「合衆国」ではなく、やはり「合州国」が正しい: 保立道久の研究雑記
アメリカの国名「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」は普通「アメリカ合衆国」と翻訳されるが、これは誤訳に近い誤りで、正確には合州国とするのがいい。このことを始めて主張したのはジャーナリストの本多勝一であるが、それ以降、日本では相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を採用している。
・ステーツという言葉自体は国家ということであり、ステーツには、本来、「州」という意味はないから「ユナイテッド・ステーツ」を「合州」とは訳せないという意見があるかもしれない。しかし、たとえばヴァーモントは現在でも「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」といい、これをヴァーモント州と訳す。つまり「ステーツ=州」がユナイト(連合)したものを「合州国」と翻訳することは十分に筋が通るのである。
・「合衆国」という翻訳はアヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしい。「合衆」というのは、中国の古典に見える言葉で、「衆人を寄せ集める。衆人を和合させる」、つまり共和という意味であって、「アメリカ合衆国」というのは「アメリカ共和国」という意味になる。

アメリカ連邦制とユナイテッド・ステーツの翻訳: 保立道久の研究雑記
 問題は、アメリカの正式国名、「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」の翻訳が問題になる。
 この国名は素直に「アメリカ連邦」と訳すべきものであろう。世界で連邦制国家が主要な国家の姿の一つである以上、それが国家論としても正しい呼称であろう。それはドイツの正式国名、ブンデス・レプブリク・ドイチェランドBundesrepublik Deutschlandがドイツ連邦共和国と訳されるのと同じことであるはずである(ブンデス=同盟=ユナイト、レプブリク=共和制)。しかし、日本をふくむ東アジアでは「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」は伝統的に「アメリカ合衆国」と翻訳されてきた。最近では、ジャーナリストの本多勝一が提案した「アメリカ合州国」という訳語も使われているが、考えてみると、「合衆国」にせよ「合州国」にせよ、世界に存在する他の連邦国家と区別して、アメリカについてのみ、特別な国名をあたえるというのは東アジアに独特な奇妙な現象ではないだろうか。
 「アメリカ合衆国」は、最初、アヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしく、日本でも、徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という翻訳が使われた。しかし、「合衆」というのは、中国の古典に見える「衆人を和合させる」という意味の言葉で、「合衆国」とは「王のいない国=共和国」の意味で作成された言葉である。当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。それを知った中国の人が無理して古典から拾い出したのが、「合衆国=王のいない国」ということだったのである。ようするに、中国で作られた「アメリカ合衆国」という翻訳は、「United States of America」という英語を直訳したものではなかったのである。
 私たちは「合衆国」という言葉に国王のいない国というものに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きを見るべきなのである。
 なお、本多勝一が、その興味深いルポルタージュアメリカ合州国』で提案した「合州国」は「ユナイテッド」を「合」、「ステーツ」を「州」と訳し、「合衆国」と同じガッシュウコクと読ませようというのである。「ステーツ」は「国家」という意味だが、たとえばヴァーモントは「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」であり、これをヴァーモント州と訳す。だから「ユナイテッド・ステーツ」も「合州国」と訳せばいいという訳である。たしかにこれは翻訳の正確さという点では一つの前進である。そのため相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を使うようになっている。しかし、この訳語もうまい語呂合わせではあるが、「アメリカ連邦」という単純な翻訳に劣るというほかないだろう。
 むしろ問題は、これまでUnited States of Americaが素直に「アメリカ連邦」と訳されなかった理由にある。それは端的にいえば、この訳語ができた一九世紀後半は、東アジアにおいてむしろ前近代的な国家の分権性から中央集権的な国家を形成する動きが一般的であったためであろう。たとえば、この時期、一九世紀後半に独立の王朝をもつ琉球国家を強制的に「処分」編入し、アイヌ諸民族の大地(アイヌモシリ)を奪い尽くした。そこでは連邦どころか自治権も否定されたのである。もちろん、そもそも日本自体も徳川帝国までは、幕府と藩の両方ともが主権をもつ一種の連邦制の複合国家であったことはいうまでもない。しかし、それは明治維新において、「封建的」なものとして否定されるだけで、近代的な連邦制や地方自治という方向には動かなかったのである。現在の日本国がまったく連邦制的な要素をもたないのは、なかばは明治維新によって、またあるいは急いで資本主義帝国になるために大日本帝国は例外的といえるほど連邦制の色彩のない単一の国民帝国となったのである。
 前述のように、国名として連邦制を名乗らないものをふくめれば、世界では連邦制国家は普通の国家のあり方である。日本人が連邦制という言葉を忘れがちなのは、近代日本が連邦制の対極にある国家であったからであり、「琉球処分」もアイヌモシリの略奪も忘れ去られがちで、いわゆる「単一民族幻想」が一般的であったためであろう。その意味でもアメリカ連邦という国家論的にも正しい訳語に切り替えたいものである。
 連邦制論に関わって、アメリカの国号をどうするべきかという問題で、以前、合州国の方がよいと書いたのですが、それを考え直したものです。

アメリカ合州国ウィキペディア参照)
 ベトナム戦争当時、朝日新聞記者だった著者・本多勝一アメリカ合衆国を黒人、先住民(インディアン)を中心に取材したもの(後に1981年に朝日文庫から刊行)。差別や貧困などを通じて、アメリカ社会の深層をえぐりだしたルポルタージュであるとして、日本で大きな反響を引き起こした。著者は本書にて『アメリカという国家は、それぞれの人種(衆)が溶け合って一つの社会を築いているとは言い難い。人種(衆)は分離され不平等なままである。単に州が寄り集まっただけである。』として、「アメリカ合衆国」でなく「アメリカ合州国」という表記を用いた。

 まあこういうのは価値観の問題であって「合衆国」「合州国」のどちらが正しいかについて「客観的正しさ」はないとは思いますが。
 しかし、「アメリカ連邦」ねえ。確かにそういう翻訳も「あり」な気はします。


◆日本植民地研究会編『日本植民地研究の論点』(2018年、岩波書店)(評者:檜山幸夫*62
(内容紹介)
 評者(台湾植民地史研究者)によっていくつか疑問点が指摘されている。小生が理解した範囲でいくつか紹介しておく。
1)本書収録内の論文において北海道(アイヌ)や沖縄(琉球民族)は「内地植民地」と表現されている。
 一方で別の論文では「日本は近代において植民地を保有した欧米以外の唯一の国家」「日本が初めて獲得した外地植民地が台湾」とする記述がある。
 これは「台湾原住民は、中国大陸の漢民族とは民族性が異なるが、台湾は中国の内地植民地とは見なさない」ということなのか。そうであるならばその理由は何なのか。そもそも内地植民地論は日本以外の国に適用可能な概念として構築されているのか(もちろん中国に限らない)。
 たとえば、「英国にとっての北アイルランド」は本書執筆者たちにとって「内地植民地」にあたるのか。
 その点が不明確であると思われる。
→ちなみに日本ウヨが、李登輝一味(台湾)、ダライ・ラマ一味(チベット)、ラビア・カーディル一味(ウイグル東トルキスタン*63))、楊海英(内モンゴル南モンゴル*64))など「反中国分子」とつるみ「中国支配は植民地も同然」とし「チベットなどの独立論」を叫んでること(ただし多くの場合、ウヨが叫ぶのを黙認してるだけでダライなどは自治拡大論は叫んでも、さすがに独立論を叫んでいない)は有名な話です。
2)内地植民地(北海道、沖縄)について「明治になってから日本の領域と扱われた」とする記述があるが、北海道について言えば最終的には明治新政府の「千島・樺太交換条約」で決着するとは言え、そして幕末期とはいえ、江戸幕府時代から日露の領土交渉は行われている。領土交渉を行うこと自体が「日本の領域と見なしてること」ではないのか。
 沖縄はともかく北海道について言えば、「明治になってから日本の領域と扱われた」とするのは明らかな事実誤認ではないか。
 

◆書評:山田朗*65昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)(評者:永井和*66
(内容紹介)
 昭和天皇実録昭和天皇の戦争責任を矮小化する方向で一貫して編集されていることが山田氏によって指摘されている。
 たとえば、張鼓峰事件(1938年、ソ連軍との戦闘)や宜昌作戦(1940年、蒋介石・国民党軍との戦闘)について昭和天皇は当初消極的であったが、作戦が一定の成果を上げると結果オーライで容認している。
 しかし、実録では「当初の消極的姿勢」ばかりを強調して、「作戦が一定の成果を上げてから」の結果オーライ言動についてはほとんど触れておらず詐欺的な資料引用として批判している。

*1:1930~2002年。東京女子大学名誉教授。著書『クロムウェル』(1961年、誠文堂新光社)、『明治日本とイギリス革命』(1974年、研究社→1994年、ちくま学芸文庫)、『クロムウェルピューリタン革命』(1984年、清水書院)、『日本人とイギリス』(1994年、ちくま新書)など

*2:1984年、未来社

*3:静岡大学教授。著書『千年王国を夢みた革命』(1995年、講談社選書メチエ)、『イギリス革命論の軌跡:ヒルトレヴァ=ローパー』(編著、2005年、蒼天社出版)、『ピューリタン革命と複合国家』(2010年、山川出版社世界史リブレット)、『複合国家イギリスの宗教と社会』(編著、2012年、ミネルヴァ書房)、『ピューリタン革命の世界史:国際関係のなかの千年王国論』(2015年、ミネルヴァ書房)など

*4:1923~2003年。中央大学名誉教授。著書『イギリス革命思想史:ピューリタン革命期の社会思想』(1961年、創文社)、『イギリス革命とユートゥピア:ピューリタン革命期のユートゥピア思想』(1975年、創文社)、『イギリス革命と現代』(1979年、研究社選書)、『クロムウェルとイギリス革命』(編著、1999年、聖学院大学出版会)など

*5:1912~2003年。著書『イギリス革命』(1956年、創文社)、『宗教改革から産業革命へ:イギリス近代社会経済史 1530-1780年』(1970年、未來社)、『イギリス革命の思想的先駆者たち』(1972年、岩波書店)、『17世紀イギリスの宗教と政治』(1991年、法政大学出版局)、『17世紀イギリスの急進主義と文学』(1997年、法政大学出版局)、『17世紀イギリスの民衆と思想』(1998年、法政大学出版局)、『17世紀イギリスの文書と革命』(1999年、法政大学出版局)、『オリバー・クロムウェルとイギリス革命』(2003年、東北大学出版会)など

*6:1880~1962年。『宗教と資本主義の興隆』(1956~1959年、岩波文庫)、『ジェントリの勃興』(1957年、未来社)、『キリスト教と資本主義の興隆』(1963年、河出書房新社)、『急進主義の伝統』(1967年、新評論

*7:1907~1996年。東大名誉教授。マックス・ウェーバー社会学カール・マルクス唯物史観論の方法を用いて構築したいわゆる大塚史学で知られる。著書『社会科学の方法:ヴェーバーマルクス』(1966年、岩波新書)、『社会科学における人間』(1977年、岩波新書)、『国民経済:その歴史的考察』(1994年、講談社学術文庫)、『近代欧州経済史入門』(1996年、講談社学術文庫)、『共同体の基礎理論』(2000年、岩波現代文庫)、『欧州経済史』(2001年、岩波現代文庫)など

*8:1914~2003年。著書『ヒトラー最後の日』(1975年、筑摩叢書)、『宗教改革と社会変動』(1978年、未来社)、『北京の隠者:エドマンド・バックハウスの秘められた生涯』(1983年、筑摩書房)、『ハプスブルク家と芸術家たち』(1995年、朝日選書)、『ヒトラーの作戦指令書』(2000年、東洋書林)など

*9:1919~1999年。著書『イギリス革命の原因 1529-1642』(1978年、未来社)、『家族・性・結婚の社会史:1500年-1800年のイギリス』(1991年、勁草書房

*10:著書『モアの「ユートピア」』(1981年、御茶の水書房

*11:1921~1994年。エルトンは、マーガレット・サッチャーウィンストン・チャーチルの支持者であり、マルクス主義歴史家たちを激しく批判した。(ウィキペディア『ジェフリー・エルトン』参照)

*12:第2次チャーチル内閣住宅相、国防相、イーデン内閣外相、蔵相を経て首相

*13:アメリカ北東部の6州(北から南へメイン州ニューハンプシャー州バーモント州マサチューセッツ州ロードアイランド州コネチカット州)のこと

*14:1932~2010年。お茶の水女子大学名誉教授。著書『フランス革命』(1997年、岩波ジュニア新書)、『フランス革命を生きた「テロリスト」:ルカルパンティエの生涯』(2011年、NHKブックス)など

*15:1986年、東京大学出版会

*16:この場合の「団結」とは「談合」「カルテル」みたいなものでしょう。

*17:1930~1985年。一橋大学教授。著書『ドイツ社会思想史研究』(1966年、未来社)、『初期マルクス試論』(1971年、未来社)、『マルクスと批判者群像』(1971年、平凡社→2009年、平凡社ライブラリー)、『青きドナウの乱痴気』(1985年、平凡社→1993年、平凡社ライブラリー)、『1848年の社会史』(1986年、影書房)、『女が銃をとるまで:若きマルクスとその時代』(1986年、日本エディタースクール出版部)、『ヘーゲル左派と初期マルクス』(1987年、岩波書店)など

*18:1978年、未来社→1993年、ちくま学芸文庫

*19:著書『近代スロヴァキア国民形成思想史研究:「歴史なき民」の近代国民法人説』(2009年、刀水書房)

*20:強制プライベートモードなどはノーサンキューですので

*21:小生は1970年代後半生まれなので、彼とまあ「近い世代」と言っていいのでしょうかね。「俺の記憶では」彼は以前、俺よりずっと年が若いようなことをはてなブログに書いてましたが「某氏のご教示」が事実なら「(1970年代前半生まれなんだから)俺より明らかに年上だから嘘じゃん」つう話ではあります。

*22:早稲田大学文化構想学部多元文化論系・文学研究科西洋史学コース・N澤T哉研究室N澤T哉 - マイポータル - researchmapによれば2020年現在(1971年生まれなので49歳?)は母校・早稲田大学の教授様のようです。「某氏」のご教示を信じれば「N澤氏(例のトンズラされた方の正体?)」の恩師(?)・I濱先生の同僚というわけですね

*23:40歳代で早稲田大教授というのは勿論有能でしょう。

*24:1935~2006年。一橋大学名誉教授。元・一橋大学学長。著書『ハーメルンの笛吹き男』(1988年、ちくま文庫)、『ヨーロッパ中世の宇宙観』(1991年、講談社学術文庫)、『物語ドイツの歴史』(1998年、中公新書)、『中世賤民の宇宙』(2007年、ちくま学芸文庫)、『社会史とは何か』(2009年、洋泉社MC新書)、『西洋中世の罪と罰』(2012年、講談社学術文庫) など

*25:マジャル人の総人口は約1450万人で、そのうちハンガリーに約950万人(2001年)のマジャル人が居住し、マジャル語がハンガリー公用語である(そのためマジャル語はハンガリー語とも呼ばれる)。ハンガリーの他にもルーマニア144万人、スロバキア52万人、セルビア29万人、ウクライナおよびロシア17万人、オーストリア4万人、クロアチア1万6000人、チェコ1万5000人、スロベニア1万人が居住している(ウィキペディア「マジャル人」参照)。

*26:1798~1876年。チェコ独立運動

*27:良知はマルキストだろうと思います。

*28:1925~2012年。作家。著書『恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ』、『たった一人の反乱』、『日本文学史早わかり』(以上、講談社文芸文庫)、『別れの挨拶』(集英社文庫)、『完本 日本語のために』、『笹まくら』、『文学のレッスン』(以上、新潮文庫)、『後鳥羽院』(ちくま学芸文庫)、『快楽としての読書 海外篇』、『快楽としての読書 日本篇』、『快楽としてのミステリー』(以上、ちくま文庫)、『食通知つたかぶり』(中公文庫)、『女ざかり』、『思考のレッスン』、『年の残り』(以上、文春文庫)など

*29:原文のまま。丸谷の誤解であり、本当は「ちから」が正しい(ただし「西岡力・巣くう会会長」のように「力=つとむ」と読む場合もあります)。

*30:1934年生まれ。劇作家。著書『不機嫌の時代』(講談社学術文庫)、『文明としての教育』(新潮新書)、『鴎外・闘う家長』(新潮文庫)、『混沌からの表現』(ちくま学芸文庫)、『演技する精神』、『社交する人間』、『装飾とデザイン』、『柔らかい個人主義の誕生』、『歴史の真実と政治の正義』(以上、中公文庫)など

*31:ウィキペディア「青年ヘーゲル派」によれば「ダーフィト・シュトラウスフォイエルバッハ、ブルーノ・バウアー、マックス・シュティルナーなど」のこと

*32:1930~2006年。東京大学名誉教授。元・静岡文化芸術大学学長。著書『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)、『家族の時代:ヨーロッパと日本』(新潮選書) 、『風景は生きた書物:体験的ヨーロッパ論』(中公文庫)など

*33:著書『ロシヤにおける革命思想の発達について』(岩波文庫)、『過去と思索』(筑摩書房)、『向こう岸から』(平凡社ライブラリー

*34:邦訳は平凡社ライブラリー

*35:1912~1994年。一橋大学名誉教授。著書『ロシヤ小説論』(1975年、岩波書店)、『ロシアの思想と文学』(編著、1975年、恒文社)、『チェルヌィシェフスキイの生涯と思想』(1981年、社会思想社

*36:1941年生まれ。横浜国立大学名誉教授。著書『ニコライ堂の人びと:日本近代史のなかのロシア正教会』(1989年、現代企画室)、『ニコライ堂遺聞』(2007年、成文社)、『評伝ゲルツェン』(2012年、成文社)、『ゲルツェンと1848年革命の人びと』(2015年、平凡社新書

*37:著書『孤独な散歩者の夢想』、『社会契約論』、『人間不平等起源論』(以上、岩波文庫光文社古典新訳文庫)など

*38:岩波文庫新潮文庫

*39:著書『ファウスト』、『若きウェルテルの悩み』(以上、岩波文庫新潮文庫)、『色彩論』(ちくま学芸文庫)など

*40:岩波文庫

*41:1799~1837年。著書『オネーギン』(岩波文庫)、『スペードのクイーン/ベールキン物語』、『大尉の娘』(以上、岩波文庫光文社古典新訳文庫)、『ボリス・ゴドゥノフ』(岩波文庫)など

*42:1821~1881年。著書『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、『白痴』(以上、岩波文庫光文社古典新訳文庫新潮文庫)など

*43:1928~2018年。名古屋大学名誉教授。著書『帝国主義と世界の一体化』(1997年、山川出版社世界史リブレット)、『もういちど読む山川世界現代史』(2015年、山川出版社)など

*44:1977年、青木書店

*45:青山学院大学教授。著書『プロイセンの国家・国民・地域:19世紀前半のポーゼン州・ドイツ・ポーランド』(2012年、有志舎)など

*46:1923~2004年。東京大学名誉教授。著書『ソビエト政治史:権力と農民』(1962年、勁草書房)、『スターリン政治体制の成立1:農村における危機』(1970年、岩波書店)、『スターリン政治体制の成立2:転換』(1972年、岩波書店)、『スターリン政治体制の成立3:上からの革命 (1)』(1980年、岩波書店)、『スターリン政治体制の成立4:上からの革命 (2)』(1986年、岩波書店)、『現代社会主義を考える:ロシア革命から21世紀へ』(1988年、岩波新書)、『歴史の中のソ連社会主義』(1992年、岩波ブックレット)、『現代史を学ぶ』(1995年、岩波新書)、『上からの革命:スターリン主義の源流』(2004年、岩波書店)など

*47:1978年、岩波現代選書

*48:首都大学東京教授。著書『テクノクラートと革命権力:ソヴィエト技術政策史1917-1929』(1999年、岩波書店)、『スターリン超大国ソ連の独裁者』(2017年、山川出版社世界史リブレット人)など

*49:1948年生まれ。東京大学名誉教授。著書『「社会主義国家」と労働者階級:ソヴェト企業における労働者統轄 1929‐1933年』(1984年、岩波書店)、『スターリン体制下の労働者階級:ソヴェト労働者の構成と状態 1929-1933年』(1985年、東京大学出版会)、『ソヴェト社会政策史研究:ネップ・スターリン時代・ペレストロイカ』(1991年、東京大学出版会)、『ペレストロイカの終焉と社会主義の運命』(1992年、岩波ブックレット)、『終焉の中のソ連史』(1993年、朝日選書)、『社会主義とは何だったか』、『ソ連とは何だったか』(以上、1994年、勁草書房)、『現存した社会主義』(1999年、勁草書房)、『「20世紀史」を考える』(2004年、勁草書房)、『多民族国家ソ連の興亡(1)民族と言語』(2004年、岩波書店)、『多民族国家ソ連の興亡(2)国家の構築と解体』、『多民族国家ソ連の興亡(3)ロシアの連邦制と民族問題』(以上、2007年、岩波書店)、『民族とネイション:ナショナリズムという難問』(2008年、岩波新書)、『冷戦終焉20年:何が、どのようにして終わったのか』(2010年、勁草書房)、『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦:冷戦後の国際政治』(2011年、有志舎)、『ナショナリズムの受け止め方:言語・エスニシティ・ネイション』(2015年、三元社)など。個人サイト

*50:故・溪内謙教授・年譜によれば26巻(1970年)収録の論文が「ネップ期のソ連」、27巻(1971年)収録の論文が「第一次五カ年計画とソ連

*51:1933~2010年。日本女子大学名誉教授。著書『アメリカ帝国』(1968年、亜紀書房)、『米国軍隊は解体する』(古山洋三、和田春樹共編著、1970年、三一新書)、『アメリカ・インディアン』(1971年、中公新書)、『ベトナム戦争の時代』(1985年、有斐閣新書)、『増補・米国先住民の歴史』(1992年、明石書店)など

*52:1930~2012年。大阪市立大学名誉教授。著書『アメリカ帝国主義成立史の研究』(1999年、名古屋大学出版会)

*53:1928~2016年。立教大学名誉教授。著書『ジェファソン:アメリカ独立革命』(1961年、誠文堂新光社)、『アメリカ・インディアンの歴史(第三版)』(1997年、雄山閣)など

*54:1974年、山川出版社

*55:一橋大学教授。著書『フィリピン独立問題史:独立法問題をめぐる米比関係史の研究 1929‐46年』(1997年、龍溪書舎)、『歴史経験としてのアメリカ帝国:米比関係史の群像』(2007年、岩波書店)、『東南アジア占領と日本人:帝国・日本の解体』(2012年、岩波書店)など

*56:1938年生まれ。東大名誉教授。著書『歴史としての社会主義』(1992年、岩波新書)、『金日成満州抗日戦争』(1992年、平凡社)、『歴史としての野坂参三』(1996年、平凡社)、『北朝鮮:遊撃隊国家の現在』(1998年、岩波書店)、『朝鮮戦争全史』(2002年、岩波書店)、『朝鮮有事を望むのか:不審船・拉致疑惑・有事立法を考える』(2002年、彩流社)、『同時代批評(2002年9月〜2005年1月):日朝関係と拉致問題』(2005年、彩流社)、『テロルと改革:アレクサンドル二世暗殺前後』(2005年、山川出版社)、『ある戦後精神の形成:1938〜1965』(2006年、岩波書店)、『日露戦争 起源と開戦(上)(下)』(2010年、岩波書店)、『これだけは知っておきたい日本と朝鮮の一〇〇年史』(2010年、平凡社新書)、『北朝鮮現代史』(2012年、岩波新書)、『領土問題をどう解決するか』(2012年、平凡社新書)、『「平和国家」の誕生:戦後日本の原点と変容』(2015年、岩波書店)、『慰安婦問題の解決のために』(2015年、平凡社新書)、『アジア女性基金慰安婦問題:回想と検証』(2016年、明石書店)、『米朝戦争をふせぐ:平和国家日本の責任』(2017年、 青灯社)、『レーニン:二十世紀共産主義運動の父』(2017年、山川出版社世界史リブレット人)、『安倍首相は拉致問題を解決できない』(2018年、青灯社)、『ロシア革命』、『スターリン批判・1953〜56年:一人の独裁者の死が、いかに20世紀世界を揺り動かしたか』(以上、2018年、作品社)、『韓国併合110年後の真実:条約による併合という欺瞞』(2019年、岩波ブックレット)など

*57:著書『アメリカ外交の悲劇』(1986年、御茶の水書房

*58:著書『ルポ 司法試験』(1989年、日本評論社)、『外国の教科書に、日本はどう書かれているか:韓国、中国、アメリカの歴史教科書を読み比べてみたら』(1997年、ごま書房)など

*59:跡見学園女子大学名誉教授。著書『世紀末の文化史:19世紀の暮れかた』(1994年、山川出版社)など

*60:1927~2006年。歴史小説家。著書『戦艦武蔵ノート』(岩波現代文庫)、『日本医家伝』、『間宮林蔵』、『落日の宴: 勘定奉行川路聖謨』(以上、講談社文庫)、『アメリカ彦蔵』、『桜田門外ノ変』、『彰義隊』、『零式戦闘機』、『戦艦武蔵』、『大黒屋光太夫』、『長英逃亡』、『天狗争乱』、『生麦事件』、『ニコライ遭難』、『ふぉん・しいほるとの娘』、『ポーツマスの旗:外相小村寿太郎』、『陸奥爆沈』(以上、新潮文庫)、『黒船』(中公文庫)、『海軍乙事件』、『関東大震災』、『三陸海岸津波』、『幕府軍艦「回天」始末』、『彦九郎山河』、『夜明けの雷鳴:医師高松凌雲』(以上、文春文庫)、『わが心の小説家たち』(平凡社新書)など

*61:刀水書房から刊行

*62:中京大学教授。著書『帝国日本の展開と台湾』(2011年、創泉堂出版)、『歴史のなかの日本と台湾』(編著、2014年、中国書店)、『台湾植民地史の研究』(編著、2015年、ゆまに書房)など

*63:ウヨは何故か東トルキスタンと呼びたがります。

*64:ウヨは何故か南モンゴルと呼びたがります。

*65:明治大学教授。著書『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社)、『軍備拡張の近代史:日本軍の膨張と崩壊』(1997年、吉川弘文館)、『歴史修正主義の克服』(2001年、高文研)、『護憲派のための軍事入門』(2005年、花伝社)、『世界史の中の日露戦争』(2009年、吉川弘文館)、『これだけは知っておきたい日露戦争の真実:日本陸海軍の〈成功〉と〈失敗〉』(2010年、高文研)、『日本は過去とどう向き合ってきたか』(2013年、高文研)、『近代日本軍事力の研究』(2015年、校倉書房)、『兵士たちの戦場』(2015年、岩波書店)、『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)、『日本の戦争:歴史認識と戦争責任』(2017年、新日本出版社)、『日本の戦争Ⅱ:暴走の本質』(2018年、新日本出版社)、『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社)など

*66:京都橘大学教授。著書『近代日本の軍部と政治』(1993年、思文閣出版)、『青年君主昭和天皇と元老西園寺』(2003年、京都大学学術出版会)、『日中戦争から世界戦争へ』(2007年、思文閣出版)、『西園寺公望』(2018年、山川出版社日本史リブレット人)など