新刊紹介:「歴史評論」5月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『はじめての平安時代史』
平安時代史研究の可能性(森田喜久男*1
(内容紹介)
 森田論文以外が各論で、森田論文は各論を前提とした総論的内容です。小生の無能のため詳しい紹介は省略します。
 なお、森田氏は保立道久*2『平安王朝』(1996年、岩波新書)、『平安時代』(1999年、岩波ジュニア新書)を紹介し、「実力ある研究者による平安時代の通史を新書などのように入手しやすい形で提供することが大事ではないか」と書いています。
 つまり「平安時代についての特定のテーマ(例:摂関政治院政、将門の乱など)を研究書で出しても世間に普及しない」「まずは新書など一般読者向けのもの、それも全体像が分かる通史がいい」ということですね。


◆摂政・関白と王権(神谷正昌*3
(内容紹介)
 いわゆる摂関政治については過去は「藤原氏外戚としての権威を元に天皇から実権を奪っていった(天皇親政の否定)」と理解される傾向があったが近年では「天皇親政」と「摂関政治」は必ずしも対立するものではない、と理解されている。

参考

◆摂政(ウィキペディア参照)
 866年に藤原良房が臣下として初めて摂政となって以来、天皇外戚となった藤原氏が摂政・関白に就く例が生まれるようになった。ただし、良房が摂政に就任したときには清和天皇は既に成人した後のことである。良房が摂政に任じられた当時、太政官では応天門の変と左右両大臣の籠居で揺れており、本来名誉職であった太政大臣の任にあって天皇の後見の職務に専念していた良房が政務を指揮するために摂政の職を与えられたと考えられている(鈴木琢郎「摂関制成立史における「応天門の変」」(鈴木『日本古代の大臣制』(2018年、塙書房)収録)参照)。幼少の天皇には摂政が、成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは朱雀天皇の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。
 なお、関白は成人に達した天皇の補佐をする役割であり、天皇代行としての摂政とは性格が異なっており、摂政の職務とされた項目のうち、関白に認められた職権は官奏に関するものだけである。

◆関白(ウィキペディア参照)
 天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する摂政とは異なり、関白の場合、成人の天皇を補佐する立場であり、最終的な決裁者はあくまでも天皇である。従って、天皇と関白のどちらが主導権を取るとしても、天皇と関白が協議などを通じて合意を図りながら政務を進めることが基本となる。大抵の場合、摂政が引き続き関白となる例が多い。
◆関白の起源
 関白の初任者は、藤原基経である。ただし、その就任時期については大きく3つの説に分かれている。
陽成天皇の元慶4年11月8日(880年12月13日)
 『公卿補任』によって採用されている説で、陽成天皇の成人と同時に関白になったというものである。『公卿補任』が公卿の経歴に関する基本資料であるためにこの記述をそのまま採用する書籍は多い。ただし、当時は国家による正史(『日本三代実録』)が編纂されていたにも関わらず、当該期日に関白就任に関する記事が全く見られないのは不自然であること、天皇が成人した際に関白に転じる慣例が成立したのは60年後の朱雀天皇成人時の藤原忠平の時と考えられていることから、平安時代史の研究家の多くが『後世の人が当時の慣習を知らずに書き加えたもので、事実ではない』とする説を採っている。
光孝天皇の元慶8年6月5日(884年7月1日)
 この日に天皇から基経に対して国政委任の詔が出され、これが後の関白任命の際の詔書の原点になっていることから、竹内理三*4以来平安時代史の研究家の間で支持が多い説である。この時の詔書は『日本三代実録』に記載されているが、『公卿補任』ではこの詔書については触れられていない。
宇多天皇の仁和3年11月21日(887年12月9日)
 これは「関白」の語源である「関り白す」の言が入った国政委任の詔書で『日本紀略』に記載されている。阿衡事件のきっかけとなった詔書でもある。河内祥輔*5はそもそも後世における摂政・関白の概念をそれが確立する以前の藤原良房・基経期に遡らせて、「関白」という言葉が存在しない時期に関白の初例を求めることに問題があるとする。当時太政大臣・摂政・関白の職掌の違いが明確化されていたわけではなく、また『日本三代実録』の清和上皇の崩伝には藤原良房清和天皇23歳の時より良房が死去するまで摂政の任にあった事が記されており、この時代には成年の天皇に摂政が設置される可能性もあった。『最初の関白任命は「関白」という職名が成立したときである』という考え方については支持する研究者もいる。
 だが、どの説を採用するとしても、「関白」という言葉の語義または具体的な職掌・役割が明確に確定するのは阿衡事件に伴う議論の結果によるところが大きいこと、藤原基経が最初の関白であったという事実は変わりがない。
摂関政治の隆盛
 基経に続いて関白に任命されたのは基経の子・忠平である。忠平は朱雀天皇の摂政を即位時より務めてきたが、承平7年(937年)に天皇元服したのを機に辞表を提出した。だが、折りしも承平天慶の乱平将門藤原純友の乱)が発生したために天皇はこれを慰留して乱の鎮圧に努めさせ、乱が鎮圧した天慶4年(941年)になって漸く忠平の摂政辞表は受理されたものの、直ちに基経の先例に従って関白に任じられた。天皇の成人を機に摂政が関白に転じた確実な事例はこれが最初である。村上天皇期には関白が設置されなかったものの、冷泉天皇が即位すると再置された。しかし冷泉天皇の外祖父に当たる藤原師輔はすでに死亡しており、その兄にあたる太政大臣実頼が関白となった。実頼は外戚でなかったため権力に乏しく、「揚名(名ばかり)の関白」と嘆くほどであった。
 実頼以降は筆頭大臣が摂関となることが続いたが、986年(寛和2年)に右大臣藤原兼家が外孫・一条天皇の摂政に任じられた。
 兼家の死後は権力争いに勝利した藤原道長が朝廷の主導権を握った。道長自身は関白に就かなかったが、内覧*6および左大臣(一上)として政務を主導し、事実上の関白として「御堂関白」と呼ばれた。道長嫡流を御堂流というのはこれに由来する。1016年(長和5年)に後一条天皇が即位すると道長は摂政となったが、間もなくその子の頼通にその座を譲った。その後も道長の外孫が天皇となることが続き、頼通は50年以上にわたって関白の座を占め続け、摂関政治の最盛期を築いた。しかし頼通は子宝に恵まれず、入内した子女も皇子を産むことはなかった。
 頼通と外戚関係にない後三条天皇が即位すると、後三条の主導による政治改革が始まったことで関白の存在感は減少していった。その子の白河天皇堀河天皇に譲位して院政を開始したことや、藤原師実・師通の父子が相次いで死去し御堂流が主導権を握れなかったこともあり、摂関政治の時代は終焉を迎えた。堀河の没後に白河が鳥羽天皇を擁立すると、鳥羽の外舅にあたる藤原公実が摂政の地位を望んだ。しかし白河は御堂流直系の忠実を摂政に任じた。これ以降、外戚の有無に拘わらず、御堂流の嫡流摂家」が摂関となる慣例が成立した。

藤原道長ウィキペディア参照)
 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。
 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。
一条天皇道長
 当初、一条天皇は内覧の宣旨のみを道長に与えたが、これは伊周への配慮であると同時に、道長が当時、権大納言でしかなく、大臣の地位に無かったために関白の資格に欠けていた事情もある。だが、その後に右大臣に就任したにも関わらず、道長は依然として関白に就任せず、内覧の資格を有した右大臣(後に左大臣)の地位に留まり続けている。
 関白の職権そのものには決裁権がなく、あくまでも最高決裁権者である天皇の後見的存在であった。このため、天皇との関係次第によってその権限は左右される性質のものであった。また公式な政府の最高機関である太政官には摂政・関白は関与出来ない決まりであった(道長の息子は当時、まだ若く、大臣に就任して道長の立場を代理することはできなかった)。そこで道長は自らの孫(後一条天皇)が天皇に即位して外祖父となるまでは摂政・関白には就かず、太政官の事実上の首席である左大臣(一上)として公事の執行にあたると同時に関白に近い権限を持つ内覧を兼任することによって最高権力を行使しようとしたのである(山本信吉*7平安時代の内覧について」(山本『摂関政治史論考』(2003年、吉川弘文館)収録など)。

◆阿衡事件(ウィキペディア参照)
 平安時代前期に藤原基経宇多天皇の間で起こった政治紛争。阿衡の紛議とも呼ばれる。
 左大弁・橘広相(たちばなのひろみ)に命じて、宇多天皇は基経を関白に任じる詔勅を出した。その詔勅に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文があった。阿衡は中国の殷代の賢臣伊尹が任じられた官であり、この故事を橘広相は引用したのである。これを文章博士藤原佐世(ふじわらのすけよ)が「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げたことにより大問題となる。基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。結局、天皇詔勅を取り消して、広相を罷免した。


◆受領研究の動向と課題(佐々木恵介*8
(内容紹介)
 「受領研究の動向と課題」について論じられていますが、小生の無能のため詳しい紹介は省略します。

参考

◆受領(受領国司)(ウィキペディア参照)
 国司のうち、現地に赴任して行政実務を行う者のこと。なお、任官されながら実際に任国に赴かず官職に伴う給付だけ受ける国司を遥任(遥任国司)と言う。

10世紀以降の受領と国衙
・元々国司は長官=守、次官=介、判官=掾(じょう) 、主典=目(さかん)の4種類、平たく言えば部長、次長、課長、係長が役員会(太政官)から任命されていたものが受領の単独責任制に近くなります。つまり「部長に全権委任、予算配分も部下の任命も全部任す。そのかわり業績(約束した税収)を上げなければ首だ!」とまあ実質分社化を進めたみたいなもんです。
・「部長に全権委任、そのかわり業績を上げなければ」と言う体制は国司(受領)の収入にも大きな変化をもたらします。昔の国司はお役人。給料は決まっていました。
 勿論任国には陸奥国*9のような東北地方全体みたいな大国から、壱岐国*10対馬国*11みたい小国まであり、国司の給料も変わりますが。
 それがリストラクチャリングの結果、「その国の定められた租税の額を任期内に朝廷に納めればあとの儲けはおまえのもんだ。だから頑張って任国の生産高を上げてちゃんと定められた租税の額を朝廷に納めろ!」と。
 こうなるともうただのお役人、サラリーマンではなくなります。支店長が分社化で子会社社長になって、株主=親会社に決まった配当(高率だけど)をすれば自分の役員報酬お手盛りで良いと言うようなもの。お手盛り出来るのは経営に成功すればの話ですが。おまけに出向社長ですから4年(一部は5年)と言う任期で交代しなければなりませんが。しかしこんなうまい話はありません。
 と言っても、受領になるのはなかなか狭き門で「更級日記」の著者の父・菅原孝標菅原道真の子孫で五位の家柄でしたが、受領になれたのは45歳のとき、以後計3回だけです。
 紫式部の父、藤原為時は平安中期、一条朝の代表的なインテリで詩人としても有名です。
 996年(長徳2)にやっと淡路守に任じられましたがこのときに事件が起こります。
 「日本紀略」後編十によると996年(長徳2)正月25日の除目で淡路守に任ぜられますが、3日後の28日に藤原道長が参内して、俄に越前守の除目を受けたばかりの源国盛を停めて、藤原為時を淡路守から越前守に変更したとか。淡路*12は下国で越前*13は大国。その収入には雲泥の差があります。
 藤原道長が(中略)越前守に任じられたばかりの源国盛を呼び、越前守を辞退させて、代わりに藤原為時を越前守とする除目を行ったそうです。一方、越前守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみ、国盛はショックのあまり病気になってしまい、秋の除目で播磨守に任じられたものの病は癒えず、とうとう死んでしまったと。
 これは説話の世界の話で、細かい経緯が本当にそうだったのかどうかは判りません。しかしちょっと後の貴族達が「ショックで病になって死んでしまうほどの落胆話」に「そうだろう、そうだろう」「さもありなん」と思ったのは確かでしょう。中下級貴族にとっては受領、それも大国の受領はそれほどに待ち望み夢に描いたポストだったんですね。
 11世紀中葉の人で、『今昔物語集』巻第28巻31話「大蔵大夫藤原清廉怖猫語」に出てくる藤原清廉(きよかど)が居ます。実はこの人も、話の中に出てくる大和守藤原輔公(すけきみ)も実在の人物です。『今昔物語集』の話はこういうもの。
 清廉は前世がネズミであったのか猫を極端に怖れ、猫恐(ねこおじ)の大夫と渾名されていた。彼は山城、大和、伊賀三国に広大な土地を持っていたが納めるべき官物をまったく納めようとしない。大和守はこれを徴収しようと思うものの、清廉も五位の貴族であるので検非違使庁に突き出すこともできない。困り果てた輔公は一計を案じ、清廉を猫で脅して見事に税金を完納させるというお話。実に愉快、描写も実に生き生きしています。
 が、ここでの問題はどう面白いのかではなくて、当時の受領は、貴族社会では同じ階層のこんな海千山千を相手に苦闘していたんです。
 『今昔物語集』に書かれている藤原清廉の内心は・・・

 何を抜かすかこの貧乏国司め。屁でも放りかけてやろうかい。帰ってすぐに伊賀国東大寺の荘園の中に入り込んでしまえば、いくら国司でも手出しはできんわい。これまでの国司に対してだって、天の分、地の分と理屈をつけてうやむやにしてやったんだ。それをこの国司め、したり顔で税金を取り立てようなどとは馬鹿もいいところじゃい。大和守になっているところを見ても、お上のお覚えのほどは知れたものだ。まったく笑止の沙汰よ。誰が納めるものか。(適当に意訳)

 しかし、猫を五匹も部屋には放たれて、清廉は大粒の涙をこぼし、「仰せのままに従います。命あってのもの種、生きていてこそ・・・」云々。

『マンガ日本の古典 今昔物語』その2 | Ain't No Mountain High Enough (echi-gonさんのブログ)
 水木しげるの「マンガ日本の古典9 今昔物語」下巻本を読む。
 中央公論社より、1996年1月25日 初版発行。
 「マンガ日本の古典」は、現代を代表する豪華執筆陣23氏が描き下す画期的な全集であり、本書は水木しげるが描く「今昔物語」の下巻。
「ねずみ大夫」では、猫嫌いの男・藤原清廉役をネズミ男が演じる。烏帽子を被ったネズミ男の姿が珍しい。


◆「国風文化」と言う幻想:最近の教科書の記述から(河添房江*14
(内容紹介)
 過去において国風文化とは「遣唐使の停止後、中国の影響を脱した日本的文化」と理解されていた。
 なお、筆者に寄ればこうした「遣唐使の停止後、中国の影響を脱した日本的文化」と言う理解の始まりは藤岡作太郎*15の『日本文学史教科書』(1901年、開成館)、『国文学史講話』(1908年、東京開成館)などと思われる。筆者は藤岡のこうした主張には「日清戦争での日本勝利(1895年)」によって生じた「国家主義」が影響してるのではないかとしている。
 しかし、現在は「遣唐使(政府公式使節)停止以降も民間貿易の形で日中文化交流はあったこと」「そうした中国との文化交流がいわゆる国風文化に影響していること」が指摘されている。
 その結果、国風文化理解は「遣唐使の停止後、中国の影響を脱した日本的文化」から「中国文化を日本社会に取り込んだ文化(日本においてカレーやラーメンか国民食となったような話)」へと大きく変化している。
 そのため、西本昌弘*16は「国風文化」ではなく「天暦・寛弘文化(天暦・寛弘は当時の元号*17」という呼び方を提唱している。

参考

東京学芸大学 河添 房江 教授|【早稲田塾】大学受験予備校・人財育成
源氏物語といいますと、それまでの中国文化の影響から離れ日本固有のみやびな国風文化の中から生まれた長編文学とされてきました。しかし遣唐使の時代が終わっても東アジアからの人や物・情報の交流ルートは確立されていて、それは物語の随所にうかがわれます。ですから東アジア世界からのリアルタイムの文物の影響なしにこの物語は開花しなかったというのが私の基本的な立場なんです」

王朝文化の和と漢/唐物の文化史(河添房江) - 見もの・読みもの日記
 さて平安初期といえば、私の学生時代は「国風暗黒時代」という、あらためて思うとトンデモな名前で呼ばれていた。しかし、中心人物である嵯峨天皇は、書にも音楽にも茶にも造詣の深い、いまの呼び方ならグローバル文化人であったことが分かる。国風文化の端緒を開いた仁明天皇も然り。894年の遣唐使廃止によって唐風文化の影響が薄れ、国風文化に推移したというのは、まことしやかなウソで、8世紀の新羅商人や渤海商人、9世紀の唐商人の活躍によって、唐物の流入遣唐使時代よりも増加していたという。
 醍醐天皇による唐物御覧。『竹取物語』『うつほ物語』『源氏物語』など、王朝文学の中に描かれた唐物趣味を掘り起こす段は非常にスリリングに感じた。『枕草子』にさりげなく描かれた中宮定子の「白い衣に紅の唐綾」も、舶来ブランドファッションだったんだな。

平安貴族と舶来品(1) 河添房江 「竹取物語」と毛皮ブーム 唐物は富と権力の象徴 :日本経済新聞
 いにしえから日本人はブランド好きだった。平安時代には貴族を魅了した多くの舶来品が文学作品に登場。貴族が愛した舶来品の魅力を国文学者の河添房江氏が探る。
 時間を千年ほどさかのぼってみよう。時は、平安時代。この時期には遣唐使も途絶え、国風文化とよばれる和風の文化が栄えた。舶来品などとは無縁と思われるかもしれない。
 ところが意外にも平安の貴族も、舶来品の愛好者であった。王朝の美意識の典型のようにいわれる薫物(たきもの)も、その原料は沈香(じんこう)をはじめ、すべて海外から船で運ばれた舶載品である。
 瑠璃(るり)とよばれるガラスの壺(つぼ)、青磁もすべて舶載された。唐綾(からあや)や唐錦、唐の紙は模造品もあったが、直輸入のものがやはり高級品として一目置かれていた。それらは「唐物(からもの)」と呼ばれ、平安貴族の審美眼を満足させた。さらに唐物を所有し、贈与することが、富と権力の象徴でもあったのだ。
 平安時代の物語で、唐物はどのように描かれたのか。『竹取物語』では、かぐや姫から、火を付けても燃えない「火鼠(ひねずみ)の皮衣」を求められた阿部御主人(あべのみうし)が、海外交易でこの難題物を手に入れようとする。彼は旧知の唐商に砂金を送って探させる。いまでいえば、毛皮を入手するのに何百万円もかけて海外の商社に頼むようなものだ。期待に違(たが)わず、唐商は黄金の光を放つ美麗な毛皮を送り届けてくる。
 火鼠は想像上の生き物で、唐商は偽物を用意するが、シルクロードを経てもたらされた希少品というふれこみで、ちゃっかり代金の追加まで要求する。浮かれる阿部御主人は追加料金をものともせず、意気揚々と毛皮を持って竹取の翁(おきな)の屋敷に乗りこむ。
 ここに掲げた絵はその場面を描いている。かぐや姫の前に置かれた火鼠の皮衣はその後、本物だと証明するために火の中にくべられる。毛皮を焼かれてしまうこのエピソードは、唐物に心酔し、金に糸目をつけない平安貴族の欲望を批判しているともいえる。その根底には平安の毛皮ブームともいうべき貂皮(てんがわ)の流行もあった。
 物は主に唐の商人により博多にもたらされたが、平安前期にはもう一つ別の交易ルートがあった。朝鮮半島の北に位置する渤海国使節により、日本海を経てもたらされる舶載品である。こちらは毛皮が中心で、虎皮や豹皮(ひょうがわ)もあるが、「黒貂(ふるき)の皮衣」とよばれる貂皮が最高級品で人気があった。いまでいうロシアン・セーブルで、古今東西を問わず王侯貴族に愛された毛皮の女王である。
 貂皮に平安の貴族たちも魅せられた。理由は毛並みの美しさばかりではない。京の冬の寒さは厳しく、野外での儀式にも出かける貴族には相当こたえた。そこで、防寒の装いとして毛皮が大活躍したのだ。
 『竹取物語』より後の『源氏物語』にも貂皮が思いもかけない形で登場する。赤鼻の姫君として名高い末摘花(すえつむはな)が、雪の日の寒さしのぎに身につけていたのが「黒貂の皮衣」。父親の常陸宮の遺品で、若い姫君が着るには珍妙なうえ流行遅れで、光源氏も呆気(あっけ)にとられた。父親の時代なら、富と栄華を象徴するステイタス・シンボルだ。しかし、いまとなっては火鉢の炭にもこと欠く宮家の窮状を際だたせる、異様な装いにほかならなかったのである。

2008.4.27 源氏物語千年紀情報・・・河添房江先生のトークセッション「世界の中の源氏物語―国風文化を問い直す―」: 孔雀のいる庭
 平安時代は国風文化、『源氏物語』はその象徴・・・と高校時代に教えられたまま、ずっと疑いもなく思ってきましたが、河添先生の『光源氏が愛した王朝ブランド品*18』を拝読すると、貴族は舶来品を好んで蒐集しています。秘色青磁に代表される陶磁器だけでなく、それは日常生活の全般に及んでいることがよくわかります。遣唐使が廃止されて、純粋に日本文化だけで成り立っている平安文化・・・という誤解をしっかり認識させられました。

斎宮歴史博物館:斎宮千話一話第3話 斎宮にゃいなかった・・・かにゃ(学芸普及課 課長 榎村寛之)
 河添房江氏の『光源氏が愛した王朝ブランド品』(角川書店、2008年)は、同じく氏の『源氏物語と東アジア世界』(NHKプックス、2007年)とともに、「国風文化を代表する『源氏物語』」という評価を変えた、として長く記憶される名著でしょう。
 平安時代には遣唐使の廃絶により大陸との交流が途絶え、一種の鎖国のような状況下で日本独自の貴族文化が栄えた、というのは、これまでの歴史・国文学界の共通理解でした。ところが近年、歴史学の方からは、遣唐使が廃絶して以降、むしろ大陸との交易が盛んになっていたことが大阪大学の山内晋次氏*19に代表される研究で、歴史学の側からは次第に明らかにされてきました。そうした、平安時代の‘We are not alone(古い?)’を国文学の側から、しかも源氏物語という超大物の中で、誰にでもわかる形で明らかにしたのがこれらの本なのです。
 その中で、今回は、輸入品のお話です。
 斎宮跡の出土資料で、貴重品、といえば緑釉陶器がよく知られていますが、それより高級な貿易陶磁と称される、青磁白磁の破片もまた出土するのです。河添氏によると、斎宮女御の父親である重明親王の日記『吏部王記』の天暦5年(951)6月9日条には、宮中で「秘色」とよばれる越州青磁が使われていた記録があります。同じ時代を生きた斎宮女御なども、あるいは青磁を使っていたのかもしれません。
 さて、こうした陶磁器や衣料品の他にも、中国、当時は宋(北宋・12世紀半ばからは南宋)、から薬、経典、文房具、銅銭などさまざまなものが日本に輸入されていました(近年は、その北方の遼や金などの王朝との関係も注視されています)が、そうした輸入品の中に「異鳥珍獣」の類がありました。平安時代の記録を見ても、オウムのような鳥や、羊のようなおとなしい動物などがペットとして輸入されていたようですが、それらは内裏の他ではほとんど見られないごく限られた上流階級の独占物でした。
 そんな珍しい動物の中で、比較的飼いやすく、役にも立ったので、この時代頃から飼われはじめた、と見られているものがあります。それは、ネコです。
 ところで、タヌキというと化かす、というイメージがありますが、じつは古典の世界では、平安時代末期の『今昔物語』以後でないと、人を化かすタヌキは現れてきません。どうも中国でもそのようで、タヌキは中国でも宋代くらいから化かす動物、というイメージができてきたようです。
 では、タヌキはなぜ化かすのか、タヌキ寝入りなどといって仮死状態になることなどがその理由と説明されることが多いのですが、どうも「狸」と「猫」の文字の混乱が原因のようでもあります。ネコについても、孤独を愛する、いつも寝ている、油断がならない、などのイメージから、化け猫、猫又、ネコ娘など、怪談や不思議な話は、洋の東西や時代を問わず見ることができます。
 一方、「唐猫」というネコが文献資料にはしばしば出てきます。10世紀初頭の宇多天皇の日記は現在では断片的にしか残っていませんが、その中に、背たけが20センチほどもある黒の唐猫をペットにしていたという記述があります。こうしたブランド・ネコは、経典の輸入とともにもたらされたかとも思われます。そして文化人の高級ペットとして買われ始め、ともにネコをめぐる文化も同時に入ってきたかと思われます。そして中国ですでに定着していたであろう「ネコをめぐる不思議な話」もまたその頃に輸入され、ネコの不思議な生き物イメージと「猫」「狸」の文字の混乱によって「タヌキは化かす」、というイメージができあがったのではないか、と考えることができます。
 少なくとも、10世紀の貴族社会では、不思議な生き物は単なるネコではなく、「唐猫」だという意識が強く存在していたようです。『源氏物語』の少し後に書かれた菅原孝標女(1008?-1059以後)の著書『更級日記』には、「ある日、どこからともなく高級そうなネコがやってきて、作者と作者の姉にかわいがられるようになる。そのネコがある日、姉の枕元に立ち、自分は大納言藤原行成(972-1027、紫式部清少納言と同世代の貴族、書家として有名で、その娘も能筆家だったが、父より先に逝去している)の娘の生まれ変わりだと告げた。その後の火事でこのネコは死に、翌年には作者の姉も逝去した」という一節があります。
 女三宮や、ひいては光源氏に不幸をもたらす動物が、イヌではなくて「唐猫」というのもじつに象徴的ではあります。大和和紀氏作・漫画『あさきゆめみし』では女三宮の「唐猫」を追い立てて御簾をひきあけるきっかけを作った大きなネコを黒猫としていますが、紫式部のイメージの中にも、ネコを不吉と見るイメージがあったのかもしれません。
 ところが一方、同じネコでも、『枕草子』に見られる一条天皇藤原定子夫妻のネコは、文字通りネコかわいがりにされていました。生まれた時には左大臣 (藤原道長)、右大臣(藤原顕光)まで参加して産養(うぶやしない:誕生祝の宴)が行われ、馬命婦(紫式部の同僚で、歌人としても知られた馬内侍?)が乳母をおおせつかりました。このできごとは、一言居士の知識人で、王朝貴族の万能記録ともいえる日記『小右記』の著者、藤原実資に「奇っ怪なこと」と書かれてしまいます。さらに天皇の前に出るからと「五位」の位もらって「命婦(貴族身分の女性、の意味)のおもと」と呼ばれ、彼女を追っかけまわしたイヌの「翁丸」は犬島に島流しにされそうになったり、打っ叩かれたりとひどい目にあいます。

国風文化: 雑記帳
 河内春人*20「国風文化と唐物の世界」佐藤信*21編『古代史講義 邪馬台国から平安時代まで*22』(関連記事)は、遣唐使の廃止により唐文化の流入が途絶え、日本独自の「国風文化」が発達した、という伝統的・通俗的見解の見直しを提示しています。遣唐使の「廃止」は、近年ではすでに一般向け書籍でも取り上げられているように、廃止ではなく延期でした。また、遣唐使が途絶え、さらには唐が滅亡してからも、中華地域からの「唐物」は日本の文化に必要であり、規範にもなっていました。この前提として、商人によるアジア東部海域交易が盛んになっており、遣唐使のような「国家」間の通交が衰退しても、中華地域から文化を摂取できたことがあります。ただ、「国風文化」とはいっても、その対象はおもに貴族層に限定されていました。
 榎本渉*23遣唐使中止でも日中交流は花盛り」文藝春秋編『日本史の新常識*24』(関連記事)は、遣唐使の廃止により唐文化の流入が途絶え、日本独自の「国風文化」が発達した、という伝統的・通俗的見解の前提として、近代において国家単位での歴史把握が主流だったことが挙げられています。前近代の「日中」関係で注目されていたのは遣唐使の時代と遣明使の室町時代で、その間の時代の「日中」の交流は低調で、そのために「国風文化」が開花したと考えられてきた、というわけです。しかし、実質的な遣唐使は839年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)が最後となるものの、中華地域製陶磁器の分析からは、むしろその後に「日中」の経済的関係が飛躍的に発展し、遣明使の時代にはむしろ「日中」の経済的関係は低調だった、と推測されています。文化的にも、平安時代南北朝時代にかけて、日本は中華地域から文化的影響を受け、とくに鎌倉時代には禅宗や建築や彫刻などで「宋風」要素が顕著でした。こうした平安時代南北朝時代にかけての「日中」交流の主体は民間の海商や僧侶だったので、国家単位での歴史把握が主流だった近代においては軽視された、というわけです。


◆史実と物語のあいだ:平安時代における文芸創作の空間としての『篁物語』と『伴大納言絵巻』(仁藤智子*25
(内容紹介)
 平安時代における「史実と物語の関係性」について『篁物語(小野篁が主人公)』、『伴大納言絵巻(応天門の変が描かれている)』を題材に論じられている。
 結局の所
1)物語は史実と同一視できないが
2)『物語が史実を反映している場合もあること』、あるいは『史実を反映していない場合でも、当時の社会(あるいは後世の社会)はそうした事実認識をしていたと理解できること』から物語を「フィクションだから歴史研究において全く無価値」とは言えない
というある意味当たり前の結論が書かれてる気がしますね。まあ、こうした話は何も平安時代に限らないでしょうが。有名な例では「忠臣蔵」なんかその典型でしょう(実際には、浅野が刃傷沙汰に及んだ理由は不明だが、忠臣蔵では吉良の悪質ないじめが原因とされる)。

参考

小野篁ウィキペディア参照)
◆逸話と伝説
・篁は昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が『江談抄』、『今昔物語集』、『元亨釈書』といった平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に紹介され、これらを典拠にして後世の『本朝列仙伝』(田中玄順編、1867年刊)など多くの書籍で冥官・小野篁が紹介されている。冥府との往還には井戸を使い、その井戸は、京都東山の六道珍皇寺と京都嵯峨の福正寺(明治期に廃寺)にあったとされる。近年、六道珍皇寺旧境内から井戸が発見され、六道珍皇寺ではこの井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼称している。
嵯峨天皇が「無悪善」という落書きを読めと篁に命じたが、篁はなかなか応じようとはしない。さらに天皇が強要したところ、篁は「悪さが(嵯峨)無くば、善けん」(「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意)と読んだ。天皇は、これが読めたのは篁自身が書いたからに違いないと非難し、篁は「どんな文章でも読めます」と弁明したため、では「子子子子子子子子子子子子」を読めと言ったところ、篁は「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解き、事なきを得たという(『宇治拾遺物語』巻三「小野篁広才事」)。『江談抄』三の四十二にも類話が見えるが、こちらでは「一伏三仰不来待書暗降雨恋筒寝」を「月夜には来ぬ人待たるかき曇り雨も降らなん恋つつも寝ん」と読み解く。
・『白氏文集』が御所に秘蔵されていた頃、嵯峨天皇が戯れに白居易の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという(『江談抄』四の五)。
白居易は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみにしていたという(『江談抄』四の十八)。

◆伴大納言絵詞(ウィキペディア参照)
 応天門の変を題材にした平安時代末期の絵巻物。『伴大納言絵巻』ともいう。日本の国宝。『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『鳥獣人物戯画』と並んで四大絵巻物と称される。
◆概要
 応天門の変のおよそ300年後、後白河法皇が『年中行事絵巻』とともに常磐光長に描かせたと推定される。
 応天門の変における、大納言伴善男の陰謀を描いた作品で、
・放火され、炎上する応天門
・無実の罪で捕らえられる左大臣源信と、嘆き悲しむ女房ら
・舎人の子供の喧嘩から、真犯人が伴善男と発覚
伴善男を捕らえる検非違使の一行
という構成になっている。現在は、出光美術館が所蔵する。
◆参考文献
黒田泰三『思いっきり味わいつくす伴大納言絵巻』(2002年、小学館
・黒田日出男*26『謎解き 伴大納言絵巻』(2002年、小学館
・倉西裕子*27『古代史から解く 伴大納言絵巻の謎』(2009年、勉誠出版

第37話 燃える応天門を見ているのは誰だ
・現在開催中の展覧会『ファッションと暮らしの今昔-昔のしぐさはちょっと違う-』の目玉展示の一つは、前回もご紹介した『伴大納言絵巻』の明治時代の詳細な写本です。燃え落ちる応天門を見上げる群衆は、この絵が描かれた平安時代後期の一般的な京の市民を描いたものと考えられ、当時の市民生活を知る上でもいろいろな情報を拾うことができます。 
・実は、この火事の場面に描かれたほとんどの人々は、裸足で描かれています。
・では、この絵巻の描かれた平安時代末期の京では、庶民はほとんど裸足、貴族・官人でないとなかなか履き物も持てなかったことがわかる・・・のでしょうか。
 実はそうではないのです。今回展示している『年中行事絵巻』には、草履のような草鞋のような、履き物姿の庶民が数多く描かれています。そしてなにより、同じ『伴大納言絵巻』でも、京の街頭の場面では、道行く人の半数以上が、履き物姿で描かれているのです。
 ではなぜ応天門の門前にだけ裸足の人たちが描かれているのでしょう。私は、他の場面で描かれている庶民の履き物が、紐で足に何重にもくくりつける、つまり草鞋のような形をしていることに注目します。草鞋は履くのに時間がかかるのです。
 とすれば、応天門の前の庶民たちは、「草鞋を履く間もなく駆けつけてきた人たち」というイメージで描かれているのではないでしょうか。つまりこの場面での裸足の人々は、日常生活ではなく、場面の緊迫性を高めるために描かれたものと理解できるのです。
 そしてこの場面には、もう一つ重大な特徴があります。描かれている人が、ほぼ全員男性なのです。
・男ばかりというのは何とも解せません。火事場という特殊な光景なので、女性は入れなかったのでしょうか。
・この謎のヒントは、絵巻の詞書にありました。
 「右兵衛の舎人で、東の七条(左京七条)に住んでいた者が、夜更けに家に帰ろうとして、応天門の前を通った時、階上より伴善男、その子、雑色のときよ(史実では紀豊城、という人物)らが下りてきた。何をしているのか全くわからなかったが、三人は降りてくるとすぐに走っていってしまった。舎人が二条堀川あたりにさしかかった時、内裏の方で火事だ、という叫びが上がり、大路が大騒ぎになった」というのです。『伴大納言絵巻』と関係が深いという、『宇治拾遺物語』でも、ほぼ同様の内容になっています。
 つまり、応天門の火事は、夜中のできごととなのです。絵を見てもこれが昼間なのか夜なのかはほとんどわからないのですが、火事場にかけつける検非違使を先導する従者は、たしかに松明を持って走っています。そして応天門の変の記録を『日本三代実録貞観八年(866)閏三月十日の記事にも、「夜。応天門火」と、夜間の火事であることが明記されていました。
 このことから考えると、火事場に男性ばかりがいるのは、当時の習慣として、女性が夜中に外出することがほとんどなかったからではないか、と推測できます。つまり、夜間の朱雀大路は女性が歩いておらず、物見高く飛び出して来るのも、男の役割とされていたからではないかと思えるのです。
 『年中行事絵巻』や同時代に描かれた『扇面法華経冊子』などでは、女性の街歩きが普通に描かれています。女性は外に出ないもの、というわけではありません。しかしそこでも、ほとんどが2人、3人と連れだっている様子が描かれています。女性の一人歩きは決して普通のことではありませんでした。
 『伴大納言絵巻』の火事場の群集は、平安時代後期の平安京が、夜間に女性だけで外出できるほど安全な所ではなかったことを教えてくれているようです。
 『日本三代実録』仁和三年(887)八月十七日戊午条には、平安宮内の宴の松原を三人の女性が歩いていた所、一人が鬼らしき者に食われてしまった、という話が記録されています。この噂話は長く記憶されていたらしく、平安時代末期に編まれた『今昔物語』巻第二十七の第八話にも見ることができます。そこでは最後に「だから、女がこのように人のいない所で、知らない男にうっかり心を許すのはしてはいけないことだ。大変恐ろしいことである。」と締められています。
 平安時代の夜、女性の外歩きは、やはり危険を伴っていたようです。


平安京の都市社会史(京樂真帆子*28
(内容紹介)
 「都市社会史」と言うタイトルだが「やや、内容に偽りあり」であって、論文において、論じられているのはもっぱら「平安時代での牛車利用」の話なので「平安京の牛車」とでもした方が内容に合致しているとは思います。

【参考:『牛車で行こう!』】

『牛車で行こう!』(京樂真帆子/吉川弘文館) ― 牛車に乗って出かけよう - みつるの読書部屋
 牛車について書かれた本が『牛車で行こう!』(京楽真帆子/吉川弘文館)です。
 私達の生活からはすっかり遠い存在となった牛車ですが、1000年前くらいには実際貴族の乗り物として活躍していました。
 本書では、牛車の車種、それぞれに乗車可能な身分、乗車や降車の作法、車の図解説明、牛車に乗れる場所、徒歩じゃないといけない場所、などなど、牛車についての様々な事柄が平安時代の日記や物語を引用しながら書かれています。
 たとえば、本書を読むまでは、牛車は一人しか乗れないものだと思っていたのですが、四人乗れるそうです。
 しかも、車内での上座・下座がしっかり決まっていて、前後ならば前側が上座、左右ならば右側が上座。つまり、1前右、2前左、3後右、4後左、の順になっています。
 牛車という結構ニッチなテーマですが、一般向けに書かれていてそんなに難しくないので、平安時代に馴染みがない方でも興味さえあれば十分楽しめます。
 意外な人物が牛車と深いかかわりがあり驚いた。その人物とは寛政の改革で有名な松平定信(1758~1829)だ。定信は「輿車図考(よしゃずこう)」という研究書を書いた。いろいろな人が協力して書いた共同研究書だ。いろいろな古典から輿や牛車に関する文書を抜き出して、部品名を分類して、さらに絵巻物などからヒントを得た復元図を付けたりしている。インターネットのない時代に昔の文献を探すだけでも苦労がしのばれる。
 牛車を乗ることが出来るのは、中流以上の貴族であり、ランク付けがあった。唐車は、天皇や皇后、摂政・関白が乗るものだった。檳榔毛車は、四位以上の位を持つ大臣や大納言、中納言が乗ることを許された。その次には、糸毛車で、中宮東宮、女御が乗る車だった。最もよく乗られていたのが網代車だった。貴族が広く利用する車だった。
 ふと疑問がわいてきた。それは、外に行くときはいつも牛車に乗っていて、歩くことがなく運動不足だったのではないかということだ。と思ったら、意外なことに寺社参詣は徒歩で行ったそうだ。あえて願掛けのために行きは歩きで言ったと著者は述べている。

書評(1007)牛車で行こう! 京樂真帆子著 吉川弘文館 | モクモク羊のブログ
 牛車がテーマという珍しい本。図書館で偶然見つけて気になったので手に取ってみた。「唐車(からぐるま)はベンツ、檳榔毛車(びろうげのくるま)はクラウン、網代車(あじろぐるま)は私が乗っているアクアだ」と著者は、学生に対して牛車の車種の説明をしている。
 牛車は、平安時代が全盛期で、それ以降はだんだんすたれてしまい、中世では、公家の乗り物は牛車から輿(こし)へと変わったとある。著者も述べているように、応仁の乱(1467~1477)が公家文化の衰退する原因と説明されるが、14世紀ころから財政難ですたれてきたとある。
 最後に牛車に載った人物は、あの和宮で婚礼のため、江戸城に入る際、三両の牛車を連ねていたのが記録されているとある。

(書評)『牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化』 京樂真帆子〈著〉:朝日新聞デジタル
 牛車は、平安貴族の乗り物である。ぎっしゃと読む。
 なぜ牛だったのか。
 乗るなら馬車のほうが速いのでは?と思ってしまうが、本書によれば、牛車は乗り手が一定以上の身分であることを示すもので、それに乗っていること自体が重要だったという。急ぐときは男性ならやはり馬に乗ったようだ。

【参考:『英雄になった母親戦士』】

10月の新刊『英雄になった母親戦士』 - 有志舎の日々
 有志舎10月の新刊です。
 著者は知る人ぞ知る日本古代史・女性史の研究者、京樂真帆子先生。
 いわば古代史研究的な緻密な手法で、ベトナム戦争における「ゲリラ戦士としての母親と戦争」の問題を分析します。もはやジェンダー史研究は「戦士としての女性」の問題をきちんと扱わないといけなくなったという事を確信。
 なお、著者は実際にベトナムに滞在して、何人もの「英雄的ベトナムの母」称号をもつ女性たちにインタビューしていますので、そのオーラルヒストリーを読むだけでも面白い。
 同時に私は、全土が戦場になるとはこういう事なのか、と改めて戦争の悲惨さを噛みしめた次第です。

ダオ・チーランのブログ・パシフィック 『英雄になった母親戦士-ベトナム戦争と戦後顕彰』
 平安時代の研究で有名な京楽真帆子さんが、ベトナムに関する本を出された。ベトナム戦争にいろいろなかたちで「参加」したベトナム女性については、当時たくさんの報道がなされ、当事者たちの発言も伝えられたが、ジェンダー構造に踏み込んだ「研究」はまだ少ない。
 茨城大に勤めて故・吉沢南さん*29に出会ったことが最初のきっかけだったそうだ。伊藤哲司さん*30と同僚になったことも影響したのだろう。
 調査のためのベトナム滞在中に何度かお会いしたが、積極的な研究分野の「越境」に拍手を送りたい。またこれも本の中に書いてあるが、ファン・ハイリンさん率いるハノイ国家大学東洋学部日本学科の協力も重要な意味をもったに違いない。現地語のできない研究者が現地に強い日本人や現地の研究者の協力を受けながらハイレベルな研究をすることは、人文系ではとくに容易でないが、しかし「現地語のできる地域研究者」が研究を独占する時代はとっくに終わっている。その点で、本書はモデルケースになるのではないか。

 京楽氏(元々は日本中世史が専門)のように 

家永三郎東京教育大学名誉教授、中央大学名誉教授:元々は日本中世史が専門で専門分野関係では『上代仏教思想史研究(新訂版)』(1966年、法蔵館)などの著書がある)
・『革命思想の先駆者:植木枝盛の人と思想』(1955年、岩波新書)
・『司法権独立の歴史的考察』(1962年、日本評論社
・『美濃部達吉の思想史的研究』(1964年、岩波書店
・『津田左右吉の思想史的研究』(1972年、岩波書店
・『田辺元の思想史的研究』(1974年、法政大学出版局
・『古代史研究から教科書裁判まで』(1995年、名著刊行会)
・『太平洋戦争』(2002年、岩波現代文庫
◆保立道久(東京大学名誉教授:元々は日本中世史が専門)
・『現代語訳 老子』(2018年、ちくま新書*31
◆洞富雄(早稲田大学名誉教授:元々は日本中世史が専門で、専門分野関係では『日本母権制社会の成立』(1957年、淡路書房)、『天皇不親政の起源』(1979年、校倉書房) などの著書がある)
・『北方領土の歴史と将来』(1973年、新樹社)
・『幕末維新期の外圧と抵抗』(1977年、校倉書房
・『南京大虐殺の証明』(1986年、朝日新聞社
・『間宮林蔵』(1986年、吉川弘文館人物叢書)
・『鉄砲:伝来とその影響』(1993年、思文閣出版

と「元々の専門以外に手を出す研究者」がいないわけではないのですが、非常に珍しいかなとは思います。


◆古代・中世の転換点をどう見るか:王朝国家論と一〇世紀後半画期論(下向井龍彦*32
(内容紹介)
 従来の通説である「王朝国家論(坂本賞三*33『日本王朝国家体制論』(1972年、東京大学出版会)が初期の研究成果とされる)」と最近の有力説である「一〇世紀後半画期論(大津透*34の後期律令国家論、中込律子*35の中世的財政構造起点論、上島亨*36、佐藤泰弘*37寺内浩*38、吉川真司*39らの初期権門体制論など)」が説明された上で、筆者の立場として「王朝国家論」支持が表明されているが、小生の無能のため詳しい紹介は省略します。関連するネット上の記事を後でいくつか紹介します。

【参考:王朝国家論】

律令制とその崩壊/北道倶楽部
 9世紀頃は律令制は生きていますが口分田の世界はとうに崩壊しています。「国司律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」と菅原道真三善清行天皇に上奏したのがだいたいこの頃です(だいたいですよ)。
 そもそも律令制税制の根幹をなす班田(国勢調査)は法律通り(6年に1回)に行われなくなり、800年(延暦19)を最後に全国一斉を止めて(ボーガス注:実施時期については)国司に任されます。902年(延喜2年)醍醐天皇の代に藤原時平は班田を命じ、実質的にこれが最後の班田となりますが、この班田が実際に一斉に実施されたことを証明する史料は無く、一部の国で行われたに過ぎないと思われています。
 しかし国司が負う責任は、何十年前のものであろうが、班田(国勢調査)によって作成された「国図」に記された本田に対する賦課です。国司にとっては、在地の抵抗の強い班田を行っても、朝廷からのノルマが増えるだけ。公田が荒地に戻ってしまった分は不堪佃田(ふかんでんでん)の解(届け)を朝廷に出せばその2/3が減免される。だから班田なんて良いことなんか何も無いという訳でしょうか。不堪佃田の発生・増加は朝廷の収入減少となるので大問題。これは天皇に奏上(報告)されます。
 延喜式で有名な延喜年間(901~922)には、男が死んだら届けるが、男でも老人や女が死んでも届けない。すると口分田はもらえて租だけ課税されるが調・庸・雑徭からは逃れられると。更には女性は二重登録もあるとか。こうして戸籍上はえらい長寿で女がむちゃくちゃ多くて良く見ると、10歳以下の子供がほとんど居ないと言うことになってしまったようです。
 更に901年の太政官の記録によると、播磨国の農民の過半数六衛府(官庁)の舎人(とねり)ということになって課役を免れる(不課)ありさまと。
 菅原道真三善清行が「国司律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」と天皇の上奏したのは受領(国司)を経験し、あるいは聞いて(ボーガス注:律令体制システムが事実上崩壊して機能しなくなっているという)その実態を知っていたからです。
 この当時の農民は課役を逃れる為に、口分田を放棄して他へ行ったり、勝手に僧を名乗ったり、衛府(官庁)の舎人(とねり)を名乗ったりと、言ってみれば消極的、あるいは順法闘争的な手段に訴えただけでなく、ときとして実力行使に出ることすら。
 『類聚三代格』に載る901年(昌泰4)の官符によると、昌泰年間に播磨国衙は、百姓達が群党をなして税を取り立てる収納使が出向くと「捕以陵礫」、捕らえてぶちのめしてぐらいの意味ですかね? そうして郡司を威圧して税を納めないと訴えています。

武士の発生と成立・坂本賞三の王朝国家論 /北道倶楽部
 9世紀半ばの文徳天皇の頃は、先の「律令制とその崩壊」で述べたように、国司や戸籍上租・庸・調・雑徭の中の調・庸・雑徭を課税すべき課丁が激減を始める時期です。また残る「租」のベースとなる、登録された農地からも人が少なくなり荒廃をはじめています。決して実人口が減った訳ではないのに。国司も楽ではありません。
 戸田芳実*40『日本領主制成立史の研究*41』にはこうあります。

 豊後介であった中井王は、・・・・日田郡の「私邸」を中核として、彼の私営田が国内の諸郡に渡って散在的に分布していたのである。(p139)
 国司級官人が田家や営田を設け交替を契機としてそこに留住することを、たんに彼らの私欲や不正、あるいは土着の志向からだけ説明するのは表面的であるといわざるをえない。彼らがそのような行動をとるには、それだけの前提条件が存在している。彼らの不正を問題の根源と見るのは、律令国家の国司観の踏襲にすぎない。問題の根源は、在地諸勢力の国務対捍や抵抗によって律令制の国務遂行が困難になり、正税調庸の未進が累積していた事実にあり、その上に国司の「不正」や「留住」が発生するのであって、このような状況のもとでは、たとえ国務の実績によって官途の昇進を求める五位の徒においても、その道はしばしば塞がれざるをえないのである。(p142)

 「正税調庸の未進累積」ですが、国司の最大の任務は税を徴収して京の朝廷に送ることです。その勤務評定は、最初は国司交替の際に後任国司が行うことになっていました。つまり引継のとき、前任国司が任期中に税の未納やその他不正はないかを調査し、問題がなければ前任国司は後任国司から 解由状(げゆじょう)を受け、政府に提出することにより職務を完遂した証とします。
 いずれにせよこの時期、「解由状」を与えられない国司は欠損部分を補填しなければ勤務評定に×が付いて次の官職にもつけず、それどころか帰京までできません。なかなか厳しい実績主義ですね。年功序列が崩れた現代の企業でもここまでではありません。なんせ未達の国司には任国に留まって未納分を掻き集める義務が課せられるのですから。あくまで9世紀の話ですが。(11世紀末の源義家は、京には帰りましたがやはり未進の貢金を督促され続けています)
 戸田芳実が、「問題の根源は、在地諸勢力の国務対捍や抵抗によって律令制の国務遂行が困難になり、正税調庸の未進が累積していた事実にあり」と書いているのは菅原道真三善清行が警鐘を鳴らしたような、生産現場、あるいは課税対象での社会構造変化に中井王がうまく対処できなかった結果と言うだけではないでしょうか。律令制を無視してうまく国内を治め、そうとは知らない中央の太政官府にちゃんと税収を完納して勘解由使にも◎を貰い、ベテラン国司として名を上げた国司もいる一方で、中井王の様に制度(律令制)と現実の谷間に落ちてしまった国司も相当いるのでしょう。
 これ*42では普通国は滅びてしまいます。しかし、滅びるどころか、この頃から豪華絢爛「王朝文化」が花開き、100年ぐらい後の藤原道長(966-1028)は「この世をば,我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」と、この世はすべて自分のためにあるかのように自信満々に詠っています。変ですね~。
 「そりゃ膨大な荘園を持っていたから国の財政がどうなろうが知ったこっちゃないんだよ」って?
 昔はそう思われていたようですね。でも誤解です。このころの荘園はそんなに大きなものではありません。でっかい荘園がバカスカ出来たのは道長が死んでから更に200年ぐらいは後の話です。それにバカでかい荘園は国司(受領)にまったく税金を納めなかった訳ではありません。
 「じゃ~どうしてなのさ!」とお思いでしょうが、そこを研究した成果が王朝国家論です。
 詳しくは次の章で述べるとして、まずは変化の兆しというあたりを。
 現場の行政官(諸国に赴任する国司(受領))は型(律令制)通りにやっていたら中井王のように自分の任務は全う出来ない。京へ税を届けなければ勤務評定に×が付いてリストラされてしまうと言うので任地で現実的な政策を行い、それが最初はバッファになっていたのかもしれません。
 こうしてあまりうまく機能しなくなった律令制への規制緩和行政改革藤原時平の跡を継いだ弟忠平の頃から始まります。では兄時平は時代を逆行させようとしていた? 私はそう思いますが、ただ、木村茂*43のこの指摘だけは紹介しておきましょう。

 実はこの藤原時平が主導した延喜新政は、国司に院宮王臣家と富豪層の結託を分断しつつ律令に則った国内支配を遂行していくことを基本理念としていたが、その実際は元来より相伝し証拠文書が分明で、かつ国務を妨げる恐れのない事態については、新たな国司支配のもとで「合法性」を与えるものであった。この理念と実態(新たに再編された合法性)との使い分けこそ延喜新政の本質であった。(2004年版 『日本史講座3-中世の形成』東京大学出版会 p18)

 「延喜の荘園整理令」は、「但し元来相伝して庄家たること券契分明にして、国務に妨げ無き者はこの限りにあらず」と、既得権はちゃんと保護しています。この部分を木村茂光は「新たに再編された合法性」としています。
 つまり「国司律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」(坂本賞三 『日本の歴史6-摂関時代』 小学館1974年 p26)という事態に、国務遂行のためならば古来の法(律令)もその限りにあらず、と事実上認めた、あるいは公然と認める下地を作ったとも言えるのではないでしょうか。
そのあたりから先が前期王朝国家への転換と言うことになるようです。
 「王朝国家」という時代区分は、歴史学者によってその範囲は大きく異なりますが、思いっきりアバウトにまとめてしまうと、律令制の崩壊の始まりから、中世・封建制に至るまでのあいだぐらいの意味です。「年表」には902年(延喜2)の延喜荘園整理令の年を「前期王朝国家への転換」としておきましたが、あくまでとりあえずです。902年(延喜2)の「延喜の荘園整理令」はとても有名ですが、しかしそれはむしろ律令制の最後の抵抗とでも言うべきものであって、実効性は皆無であったと見ておいた方が良いと思います。
 「王朝国家体制」とは班田収授法による在地支配と朝廷の収入が、実態として崩壊しても、なお在地支配を続けて朝廷の収入を維持する為の体制というようなもので、律令制の根幹がもはや崩れてしまったことから始まります。律令制の堅持を唱った延喜荘園整理令を含む、所謂「延喜の治」によってもたらされたものではありません。むしろそれが律令制の最後のあがき、そこで息絶えて王朝国家体制が前面に出てきたという意味で転換点となると思います。
 「王朝国家体制」の中身は、実態としての私営田経営を、「名(みょう)」をベースとする租税徴収体系によって支配しようとした体制と、とりあえず考えておきます。それはトップダウンな法令改正により生み出されたものではなく、萌芽は9世紀から見えはじめた国司の朝廷非公認の対応であり、それがはっきりしてくる、あるいは黙認から公認にうつるのが10世紀と考えて良いのではないでしょうか。木村茂光がまとめているように、「宇多朝に基本的な骨格が成立した王朝国家は、短命だった時平政権を経過して、その弟忠平政権のときに完成期を迎える。(前掲書p23)」というようなグラデーションな理解の仕方で。 
 口分田を耕作している農民はその官物の取り立て、臨時雑役(ぞうやく)の負荷を嫌がって口分田を放棄して浪人となり、公田(口分田となる田)は荒廃します。これが「律令制の下からの崩壊」ですね。公田が荒廃し、課丁が居なくなったからといって、実人口が減少した訳ではありません。逆に増えていたでしょう。ではその公田から居なくなった農民は何処へ行ったのか。公田でなかった土地を開墾して暮らしています。国司は口分田ベースの律令制に縛られていたら、そうした変化に手も足も出ません。
 では来るべき新時代、前期王朝国家時代には、国司はどうしたのか、その公田(口分田となる田)以外の、開墾した田畠はどうなったのかということになります。歴史の流れを見ていくと、このあとも国家の瓦解など起こらず、藤原道長が我が世を謳歌し、源氏物語枕草子と王朝文化も花盛りの黄金時代が来たんですから、どんな起死回生の国政改革があったのでしょうか。
 前期王朝国家への転換と言っても、ある日法律が変わって・・・、なんてことではなくて、菅原道真が左遷される前から任を全うした良司*44(朝廷から見てです)達が、朝廷に内緒でこっそりやっていたことが段々と朝廷でも黙認され、ついには公認されたということだと思います。この公認はいつ頃から顕著になりはじめたのかというと、菅原道真を左遷した藤原時平が死に、弟の藤原忠平が政界を主導し始めたころからです。
 さて、実際にどう変わったのかというと、象徴的にはこういうことです。国司は任期中(だいたい4年)に一度、検田を行い、開墾された新しい田を把握します。そしてそれらの田畠も付近の「名(みょう)」に組み込まれてしまいます。
 するとどうなるかというと、公田(口分田)から米は取れず、耕す人が居なくなっても、国司は「名(みょう)」の単位でその公田分の官物と臨時雑役(ぞうやく)を課せられる訳ですから、公田に誰も人が居なくとも、開墾地には居る訳ですから国司は平気の平左。そっちの立場からすると実に合理的。社会の変化にきちんと対応、とこういう訳です。
 ところがその「名」を請け負った負名はたまったものではありません。せっかく公田(口分田)を放棄して、苦労して他を開墾をしたのに、国司は「だからなんだい!」とまたおっかけてきて台帳上の公田分の官物と臨時雑役(ぞうやく)を課そうとし、拡大された国司の自由裁量権によって、ガンガン取り立てようとします。こうして在地勢力と国司の利害の衝突が先鋭化してきます。
 東国では、平将門を撃って一躍有名になった藤原秀郷平将門の乱より少し前の915年(延喜15)2月の上野国反受領闘争で受領藤原厚載(あつのり)が殺された事件で追討官符を出されています。
 1003年(長保3)には平維良(余五将軍平維茂か)が下総国府を焼討ちし官物を掠奪したかどで押領使藤原惟風の追補を受け越後に逃亡。1028年(長元1)6月、平忠常安房守惟忠を焼き殺し、「平忠常の乱」が始まります。
 畿内周辺で有名なものは988年(永延2)11月8日付けの「尾張国郡司百姓等解」で知られる国司苛政上訴が頻発します。「尾張国郡司百姓等解」は尾張の在庁官人・百姓層が尾張藤原元命(もとなが)による非法・濫行横法三十一箇条を訴えたもので、この結果元命は国司を罷免されました。国司苛政上訴の代表例として高校の教科書にまで載っています。
 ただしこれは、訴訟の一方の言い分ですから本当のことは判りません。
 国司苛政と言うと、国司側の一方的収奪で、弱い農民が苦労したみたいなイメージがあるかもしれませんがとてもとても。一時期は国司苛政上訴のどころか、国人が(当時は国人とは言いませんが)京までやってきて国司の屋敷を焼き討ちにしたことまでありました。1023年12月のことです。丹波藤原資業(すけなり)の京都中御門の家が騎兵十数人に襲われ放火されたことが藤原実資の『小右記』にあります。
 10世紀の974年(天延2)から100年も経たない間に、記録に残っただけでも27件の国司苛政上訴があります。その逆の「善状提出」というのも12件あって、これは今の国司は良司だから任期が終わってもまた再任して欲しいなんてものですが、そのなかでも面白いのは最初は国司苛政上訴を出していたのに、その出した当人達が今度は善状を提出したので、最初の苛政上訴は不問にされたってのがあります。良く言えば示談、悪く言えば買収?。1019年(寛仁3)の丹波国の例です。その後は丹波国は平穏に?。とんでもない、前述の京の丹波藤原資業(すけなり)邸が焼き討ちされたのはそのほんの4年後、1023年12月のことです。
 藤原道長の時代の後期にはそうした国司と国人の対立はいよいよ先鋭化していきましたが、どうやら道長はその裏にある社会の変化に気づきながらも、気づかぬ振りをして国司苛政上訴に対しても国司の肩をもつようになります。
 ところがこの国司苛政上訴、道長の子の頼通の頃、1041年(長久2)の和泉国からのものを最後にパタッと姿を消します。
 朝廷は律令制、特に班田収授制の崩壊に直面しながらも、基本的には律令制を堅持しようとして、収入を減少させていってしまったのですが、藤原忠平の時期に明確に方針を転化し、国司に対して、現状に対応した支配方式を公認することによって、菅原道真が896年(寛平6)に宇多天皇に上奏した「国司律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」という状況を解消して、国司裁量権を大幅に認めて財政を立て直おそうとします。
 その象徴が「名(みょう)」なのですが、しかし坂本賞三はただ単にそれまで国司が裏でやっていた「名(みょう)」による国内支配を追認しただけでなく、逆にこの「名(みょう)」方式によって、国司に一定の枠付けを与えたと分析しています。そして「名支配」の本質は「別名(べつみょう)」を決して認めないことだと。
 いや、突然そう言われても、その「別名(べつみょう)」ってなに? と思われるのは当然です。がその前に説明しておかなければならないことが。
◆輸祖荘園
 「名」支配とは、あくまで国司がその国の住民に官物と臨時雑役(ぞうやく)を課そうとするものです。そもそも住民が口分田を嫌ったのはその賦課です。官物はしょうがないと諦めるにしても、一番嫌ったのは国司に課せられる臨時雑役でしょうか。だから「名」支配も嫌います。で、「名」内地の耕作も放棄しようとします。単に荒れ地を開墾しただけではまた「名」に組み込まれるだけですから、畿内では権門寺社の寄人(よりうど)になる。かつて「富豪の輩」と呼ばれた負名層は有力貴族に土地を寄進して荘園を名乗ります。と言ってもその荘園とは12世紀に見られる大規模荘園とは違って、大体は数十町、村ぐらいのものでしょうか。おまけに不輸不入の荘園ではなく、輸祖荘園。所定の官物(租庸調)は納めても、国司から課せられる臨時雑役は逃れようとしたのだと思います。ここのところが私にも判りにくくて困ったのですが、もの凄く乱暴にこう考えると当たらずとも遠からじかも。
 官物(租庸調)は国税だから朝廷に納めるもの。朝廷が納めなくとも良いと言わない限り免除されることはありません。でも臨時雑役は土地の所有者が住民に課すもの。封建制下では土地は国のもの、実際には管理を委託されている国司のもの。臨時雑役は土木とか潅漑とか、国司の国内行政の為に設定されているものなんだけど、国司の自由裁量なもんだから国司田圃の耕作に駆り出されたれたり、なんやかんやでとっても負担が大きい。そいつが嫌で嫌でたまらない。
 そこで自分の治田も貴族に勝手に寄進しちゃって「土地の所有者は国司じゃないから国司の臨時雑役なんてしらないよ!」と抵抗する。
 法的には所定の官物も臨時雑役も納めなければならないことに変わりはないのに納めない。普通は納めないと932年(承平2)の丹波国牒みたいに国衙の役人がやってきて宅やら納所の稲米を差し押さえちゃう。だからその宅やら納所を偉い貴族のものにしちゃう。すると郡司や国司ふぜいにゃ手が出せない。
 そうした背景を元に、国司苛政上訴という形でも現れた国司と負名達の対立の先鋭化に対して、朝廷が動いたのは藤原道長の後の代、藤原頼通のとき、1045年頃のことです。
◆寛徳荘園整理令
「延喜の荘園整理令」は以降の荘園立荘を禁止しましたが、効力のほどは??です。その後も何回も荘園整理令は出されましたが、その内容は延喜の荘園整理令を守りなさいと繰り返し言っているだけす。
 しかし1045年(寛徳2)の世にいう寛徳荘園整理令はちょっと違います。表面的に見ていると、それまでは延喜荘園整理令以降のものは認めない、と言っていたのにここでは前任国司以降の荘園は認めない。しかしそれ以前なら許す、という処から、こりゃ後退じゃないか! とも見られてきましたが、そうとばかりも言えないようです。国司は在地領主にこう言います。

 荘園というのは土地所有の証拠書類があり、前任国司より前から代々の国司が国免荘として官物、あるいは雑役の免除を認めてきた実績のあるものである。それ以外は荘園ではない。

 では代々の国司が国免荘としていた荘園とはどういうものであったかと言うと、その多くは元々国司が貴族や寺社に対して支払うべきであった封戸物が滞って、その精算に「この土地を渡すから直接取ってくれ、今後は不作の年があっても国司のせいじゃない」というようなもので、それを否認したら元通り封戸物を渡さなきゃなんないって代物です。
◆別名(べつみょう)と在地領主の「職」
 代々承認された国免荘以外ものは、国司の承認もなしに勝手に公卿らに寄進しておいて「ここは左大臣様の荘園じゃ。だから官物は国司に納めても、臨時雑役なんかには応じないぞ」と抵抗した荘園です。それに対して国司は「荘園とはこれこれこういうものだから此処は荘園ではない」と否定出来るようになりました。
 しかし単純に否定しただけで済めば、そもそも国司苛政上訴なんて起こりません。そこで「ここはおれっちの先祖が開拓したとこなのに」と不満ぷんぷんの私営田経営者・富豪の輩に、「タダとはいわん。荘園は認めんが、変わりに「別名(べつみょう)」という扱いにしてやろう。とムチを片手に飴をしゃぶらせます。この「別名(べつみょう)」は公領ですが雑役が軽減されます。更に「別名(べつみょう)」に引き戻された「荘園」の寄進者は、その別名というひとつの行政単位を支配する公権を付与されます。
 で、その別名とは、実際には郡、郷、保、別府という名前になりますが、それはもう律令制下の郡・郷とは全く異なり、例えば郷は郡の下の単位ではなくて、国衙に直接従属する行政単位となります。ここに至って、かつての私営田経営者層・私営田領主層は在地領主としての世襲可能な「職(しき)」を手に入れる訳です。
◆国内官物率法・公田官物率法
 と同時に、税制を変更します。ひとつには公田の基本税制で官物の比重を高くし、その分雑役を少なくします。それによって、仮に雑役が免除される荘園になったとしても、国司の歳入減はさほどでも無くなります。もうひとつは国内官物率法または公田官物率法と言って、それまで国司が恣意的に決めていた税率を国単位で一定にし、それによっても国司と在地勢力との対立を回避しようとします。
 この段階で、律令制下の課税体系であった租庸調の言葉が消え、それまではその総称であった「官物」に統一され、雑徭(ぞうよう)は軽減された雑公事(くじ)、または雑役(ぞうやく)となります。
 この2つの「飴」は私営田経営者にとってはとても美味しく、それからは国司苛政上訴も東国の争乱もおこりませんでしたとさ。めでたしめでたし、とこうなったようです。
◆王朝国家体制を簡単にまとめると
 特徴的なのは人に対する課税から土地ベース(名へ)の課税に変わっていったことです。そしてそれは中央政府が方針転換するより以前から地方では受領(国司)が「律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」と9世紀後半には初めていたことですが、それを10世紀前半頃に中央政府も追認しはじめます。その課過程は国衙の公田経営、負名、田堵と言われる富裕層(私営田経営者)が成長していく過程でもあり、それと同時に大幅な権限を委譲された国司と、それら富裕層(私営田経営者)の衝突が、近畿では国司苛政上訴、東国では先にあげた通り、藤原秀郷平将門平維良(余五将軍平維茂か)、平忠常など武士論の世界の有名人達の国司との抗争として現れます。
 この前期王朝国家体制から(後期)王朝国家体制となるのは、そろそろ源頼義が「前九年の役」を、と言う1040年代であり、名(みょう)による支配から、別名(べつみょう)による支配への転換、そして在地領主の「職」成立として現れます。これにより国司と在地勢力との対立の先鋭化は一旦沈静化します。
 「国内官物率法」によって、官物の比重は高くなったとは言うものの、国司が恣意的に決めていた税率が定率となり、富豪層が開発した別名では、「雑役軽減」、「郡司、郷司、保司と言った世襲可能な別名の職(しき)」を手に入れます。こうして富を蓄積出来る機会が増え、かつてその資産は稲、牛馬、農耕具などの動産主体であったものから「領地」という不動産に正式に拡大出来たことになります。このあたりが在地領主の誕生と言っても良いのではないでしょうか。
 その時期は学者さんのポイントの置き方によって前後しますが、ここでは坂本賞三の論にそっています。そして大規模荘園花盛りとなるのは源義家の「後三年の役」をよりずっと後、12世紀の鳥羽院政時代です。

 租庸調(国税)を逃れるために不正が横行してるというのだから酷い話です。ウヨ連中は日本史を美しく描きたがりますが、まあ、日本人だってそんなにきれい事で生きてたわけじゃない、そんなもんじゃないという話です。
 それにしても「現地民が法の抜け穴を利用して脱税しようとするのが常習化している。もはや、律令体制通りやるのは無理だからとにかく定められた租税を上に納めればいいんだ。そうしなきゃ俺が国司として無能の烙印を押されて出世できないんだ。とにかく税金さえきちんと収めれば、法律(律令)違反しようが、上も多少のことは大目に見てくれる(現地の国司)」「今更、律令体制など実施は無理だから現状を追認しよう(中央政府)」とはまさに「上に政策あれば下に対策あり(中国のことわざ)」「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕るのが良い猫だ(改革開放がマルクス主義的かどうかよりも、それで経済発展が出来るかどうかが一番大事なことだという趣旨のトウ小平の発言。元々は彼の出身である四川省のことわざと言われる)」を彷彿とさせる話です。
 「上(朝廷)に政策あれば下(現地民や国司)に対策あり(朝廷が律令体制通りに租税を徴収しようとすれば、現地民は法の抜け穴で脱税しようとし、国司律令体制に合致しない形であっても現地民から定められた税を取り立てようとする)」「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕るのが良い猫だ(律令制度通りに統治しているかではなく税金をきちんと徴収できるかどうかがいい国司だ)」ですね。
 いつの時代、どの国も人間の考えること、やることは大して変わらないわけです。

【参考:中国】

トウ小平:白猫でも黒猫でも、ねずみを捕る猫が良い猫だ--人民網日文版--2004.08.02
「白猫でも黒猫でも、ねずみを取る猫が良い猫だ」
トウ小平氏が最初に正式な場でこの重要な観点を語ったのは、1962年だ。農家による生産請負制の問題について討論が及んだとき、トウ小平*45は明確に支持する態度を表明した。トウ氏は「農業の回復について、民衆のかなり多くが耕地の割り当てを提案した。陳雲氏*46が調査を行い、道理について語ったが、良い意見だった……現在は、農業はあらゆる形式の中でも1戸単位で進めるのが良い。白猫でも黒猫でも、この過渡期においては、農業の回復に役立つ方法であればそれを使えばよい……つまるところ、すべてを一律にするのでなく、実事求是でなければならない」と語った。

中国の「上に政策あり、下に対策あり」現象をどう見るべきか 2010年11月01日 | 大和総研グループ | 範 健美
 中国には「上有政策、下有対策」という有名な言葉がある。元々は国に政策があれば、国の下にいる国民にはその政策に対応する策があるという意味だが、現在は「決定事項について人々が抜け道を考え出す」という意味でほとんど使われている。ここではいくつかの実例を挙げ、「上に政策あり、下に対策あり」の原因を探ってみる。


◆歴史のひろば『映画「主戦場」と日本軍「慰安婦」問題をめぐる「歴史戦」の現実』(山口智*47
(内容紹介)
 映画『主戦場』に対する批判。なお、小生は『主戦場』を見ておらず、山口氏のデザキ批判の是非については判断できないことをお断りしておきます。
1)「主戦場」においては、『藤岡信勝ら違法性否定派の主張』と『吉見義明氏らの反論』が紹介されるにすぎない。その意味で実はデザキ監督の功績は「マスコミが自民党日本会議を恐れて報じたがらないネタをわかりやすく取り上げた」という意味にすぎない。彼独自の新見解などが示されるわけではない。デザキ映画が注目されることは「日本メディアがまともに慰安婦報道をしてこなかった」という恥ずべき現状の反映にすぎないのではないのか。
2)デザキ氏に対しては「取材方法が詐欺的だった」云々として藤岡らによって民事訴訟が起こされている。デザキ氏の主張と藤岡らの主張とどちらが正しいかは現時点では評価できない。また仮に藤岡らの言い分が正しいとしてもそれはデザキ氏の取材方法に問題があったにすぎず、藤岡らの違法性否定論が正しい事を意味しないが、仮に藤岡らのいう様な問題があるのであれば、手放しでデザキ氏を評価できないのではないか
3)デザキ映画では「在米日本人、日系人」がまるで「皆藤岡らのお仲間のウヨであるかのように描かれている」。
 しかし「マイク・ホンダ氏」がわかりやすい例だが、「在米日本人、日系人」でも藤岡らを批判する人間は勿論いる(私、山口もその一人だ)。
4)デザキ映画ではまるで慰安婦問題が「日韓問題」であるかのように描かれているが明らかに適切ではない。最も数が多い慰安婦は韓国・朝鮮人慰安婦だが、フィリピン人、インドネシア人など韓国以外の国籍の慰安婦も存在するからだ。
5)

https://twitter.com/yamtom/status/1136052823391473664
山口智
@yamtom
 「主戦場=アメリカ」論を右派は主張してきたけれど、実際には「慰安婦」像をめぐって右派は早い時期からオーストラリアやカナダなどでも活動してきたし、「慰安婦」像足蹴事件は台湾で起きたし、アメリカだけの話ではない。日本政府による圧力もフィリピンやドイツなどでも報告されている。

なのだが、デザキ映画では米国での日本右翼の「慰安婦違法性否定」運動しか取り上げていない。
6)デザキ映画では「日本会議」「新しい歴史教科書をつくる会」など慰安婦違法性否定論を叫ぶ各種右翼団体の動きは紹介されていたものの彼ら右翼団体が「現首相・安倍晋三」と深いつながりを持つこと、その結果

「慰安婦」像をめぐる歴史戦(前篇)——主戦場・アメリカ | WEB世界山口智美)
・サンフランシスコ市は米国の大都市としては初めて「慰安婦」像を公有地に設置した自治体になった。
 日本政府はこれに反発した。像と土地の寄贈に関して、11月15日の記者会見で菅官房長官は、サンフランシスコなど米国での「慰安婦」碑や像の設置は「わが国政府の立場とは相容れない」とし、阻止の取り組みを続けていくと表明。
 安倍首相も11月21日の衆院本会議で日本政府としてリー市長に拒否権の発動を求める申し入れを行ったと発言した。
・日本政府が、GAHT(歴史の真実を求める世界連合会)がグレンデール市に対して起こした訴訟を支持する意見書を、2017年2月に米最高裁に提出したことで、官民一体で「歴史戦」を戦っている様があからさまとなった。

「慰安婦」像をめぐる歴史戦(後篇)——国際社会の連帯 | WEB世界山口智美)
 2017年に入り、日本政府および在米大使館・領事館の対応は表立ったあからさまなものになっている。
 6月には、ジョージア州ブルックヘイヴン市での少女像建設計画をめぐり、篠塚隆在アトランタ総領事が地元紙のインタビューで「性奴隷ではなく、強制されていない。アジアの国々では家族を養うためにこの仕事を選ぶ女の子がいる」などと発言し、国際問題に発展した。

と言う状況(日本政府が安倍の命令により右翼の「歴史戦」を公然と支援)にあることについては「安倍自民党や外務省の攻撃を恐れたのか」なぜか触れられていない。この結果、「日本政府(安倍政権)の支援を受けて慰安婦違法性否定の政治活動を行う」日本会議など極右団体の「危険性」が正確に描かれているとは言いがたい。

参考
「慰安婦」像をめぐる歴史戦(前篇)——主戦場・アメリカ | WEB世界
「慰安婦」像をめぐる歴史戦(前篇)——主戦場・アメリカ | WEB世界



◆歴史の眼『いま、東京空襲の体験記を受け継ぐ』(比江島大和*48
(内容紹介)
 東京大空襲・戦災資料センターが出版した体験集「あのとき子どもだった-東京大空襲21人の記録」について論じられている。

参考

大空襲21人の証言 語り部ら編集体験記 : ニュース : 東京23区 : 地域 : ニュース : 読売新聞オンライン
 「真っ赤な炎がうず高く昇って天を焦がしていた」「負われた子どもが(母親の)背中で燃えていた」。
 江東区東京大空襲・戦災資料センターは10日、焼夷弾から逃げまどった人々の証言を集めた体験記「あのとき子どもだった―東京大空襲21人の記録」を出版した。
 各地の小学校や同センターで語り部として活動する竹内静代さん(88)(調布市)が中心になって編集。70~80歳代の21人が、自分の体験や当時見た光景を寄せた。
 体験記では「配給切符」や「国防婦人会*49」など、現在ではなじみがなくなった言葉の解説も充実させた。

東京大空襲:記憶たどる 74年のきょう、21人の証言集刊行 炎に包まれ、逃げた道筋地図に /東京 - 毎日新聞
 東京大空襲から74年がたった10日、その日の体験を収めた証言集「あのとき子どもだった-東京大空襲21人の記録」が刊行される。当時、3歳から14歳だった21人の脳裏に刻まれた光景や、今だからこそ語れる言葉が詰まっている。【竹内麻子】
 1945年3月10日未明、米軍機が東京上空に来襲。台東区墨田区などの下町を中心に32万発の焼夷(しょうい)弾を落とす。街は焼き尽くされ、約10万人が死んだとされる。
 証言集を刊行するのは「東京大空襲・戦災資料センター」(江東区)。本では、逃げ惑う中で両親とはぐれた恐怖、遺体で覆われた隅田川の川面を見たショックから、しばらく言葉を発せなくなった経験が語られる。家を守れと命じた「防空法」がかせとなり、家に残った13歳の兄が命を落としたことなど、21人それぞれが体験を明かしている。その一人は、この本の完成を見ずに亡くなった。

東京大空襲74年 平和を願い惨禍語り継ぐ 体験集発行 - 産経ニュース
 約10万人が亡くなったとされる東京大空襲から10日で74年。空襲体験者が年々減少し、高齢化も進む中、惨禍の体験を次世代に語り継ごうと、当時子供だった21人が体験集を1冊の本にまとめて発行した。編集委員の一人、西尾静子さん(80)は「社会に対する遺言書」と話す。大空襲下での自らの思いを書いた本を手に、これからも平和の尊さを訴え続ける。
◆21人が寄せた文章
 体験集「あのとき子どもだった-東京大空襲21人の記録」は、東京大空襲・戦災資料センター(江東区)で当時の体験を語っている人たちを中心に、「戦争がどういうものかを考えるきっかけにしてもらいたい」との思いで21人から寄せられた文章をまとめた。
 同センターによると、東京大空襲の記録は、都が昭和28年に発行した「東京都戦災誌」があったが、戦時中の市民生活や被害状況をまとめたもので、「体験」は載っていなかった。同50年ごろには都民の体験を集めた「東京大空襲・戦災誌」が刊行。継承を考える中で、「体験者が戦後どのような人生を歩んだのかも書けるのではないか」(同センター)と、事実上の第2弾となる今回の体験集が出来上がったという。
 西尾さんは以前も体験談を寄せたが、再び執筆。6歳の誕生日当日に、死と隣り合わせで過ごした3月10日の夜。翌朝、避難していた高校の地下室から出て見た黒い死体の山-。「惨事の爪痕は、決して私の記憶から消えることはありません」と記した。
 戦後は国立感染症研究所の研究者として定年まで働いたことなども書いた。「戦後のライフワークを書かない限り、戦争の体験は完成しないとの思いだった」と振り返る。長年、感染症から命を守る仕事に携わってきた立場から、体験談は「ウイルスや細菌では無く、人為的な戦争によって尊い命を失うことほど、切なく腹立たしいことはありません」と結んでいる。
◆用語解説や地図も
 発行にあたっては、空襲を体験していない世代にも協力してもらい、用語解説などの注釈を付けた上、21人が当時どのような避難経路をたどったのかも1枚の地図にまとめた。
 同センターの比江島大和(ひえしま・ひろと)学芸員は「体験者本人が記録を残すことは、月日の経過とともに難しくなる」と発行の意義を強調。「この本をきっかけに、継承の輪が広がれば」と話している。
 体験集はA5判276ページ。同センターや、同センターホームページで購入できる*50

戦争支えた“国防婦人会” 母は…妻は… 女たちの戦争 - 特集ダイジェスト - ニュースウオッチ9 - NHK
 かっぽう着にたすきをかけて、日の丸を振る女性たち。
 戦時中、地域の男性が出征する時は、必ず見送りに参加した女性の組織「国防婦人会」です。
 女性たちは、命を落とすかもしれない夫や息子たちも笑顔で送り出しました。
 「国防婦人会」とはどんな組織だったのか。
 その詳細が、今回取材で明らかになりました。
 国防婦人会が設立されたのは、満州事変が起きた翌年の1932年。
 中国大陸へと渡る兵士に、大阪の主婦たちがお茶をふるまいもてなしたことが始まりでした。
 今回見つかった資料は、1970年代に研究者が国防婦人会の女性たちにインタビューした時の記録です。
 その1人、片桐ヨシノさん。
 活動にのめり込んだ要因に、夫の家でのしゅうとめとの窮屈な関係があったと明かしていました。
◆片桐ヨシノさん
“おしゅうとめさんには絶対頭があがりません。おしゅうとめさんにはもう私は絶対服従でございましたから。”
 片桐さんは、「お国のため」という大義名分で活動のために外に自由に出ることができたのです。
 「女性の出番が来た」と、高揚した気持ちを語っていた女性もいました。
 西松愛子さんです。
 今回、西松さんの孫が、兵庫に暮らしていることが分かりました。
 生前、西松さんは婦人会のことを語ることはほとんどなかったと言います。
◆西松愛子さんの孫 小谷純さん
「その(国防婦人会)ような活動をしてた祖母がいたのを初めて知った。」
 西松さんは、夫が経営していた繊維工場の女工200人を率いて熱心に活動していました。
◆西松愛子さん
“こんな時節ですから、お国のために女もぐずぐずしておられませんので。「日本がひっくり返ってつぶれたら大変だ」というような気持ちです。”
 社会の役に立てると軍への献金を呼びかける活動に、やりがいを感じていたといいます。
◆西松愛子さん
“たすきをかければ自由にいける。私どもはこうしてまちに出ました。”
 国防婦人会は、戦争の拡大とともに会員数を急速に伸ばしていきました。
 およそ50人ほどで始まった会は、太平洋戦争開戦前までに全国で1,000万人に膨れあがったのです。 
 女性の熱意に支えられた会。
 しかし、その裏には陸軍の思惑があったことも分かってきました。
 婦人会に財政支援をするなど、後ろ盾となった石井嘉穂元中将。
 その狙いは、戦争による食料不足に女性が不満を持たないようにする、というものでした。
◆石井嘉穂元中将
米騒動になったら困る。本当の問題は女性の思想問題、思想教育だったのです。男が兵隊に行っても、あとは女子で守れるようにしましょうと、そういう教育を始めた。”
 やがて女性たちは、「ぜいたくは敵だ」と、女性どうしで国策に従う空気を作り出していきます。
 85歳のこの女性は、小学生の時に見た異様な光景を覚えています。
◆梅本多鶴子さん
「“ほんまに切るよ”。“長い袖の着物着てきたら、これで切るよ”と。」
 国防婦人会の女性が街頭に立ち、派手な着物を着る女性を取り締まっていたのです。
◆梅本多鶴子さん
「村長さんとか偉い人と同じように、国防婦人会の人も威厳があった。反対する人は誰もいなかったと思う。」
 その後、戦死者が急増、女性たちは夫や息子の死に直面するようになっていきます。
 遺族のもとには、婦人会の女性たちが弔問に訪れ、「戦死は名誉」と称賛。
 遺族は、涙を流すこともできなくなりました。
 女工を率いた西松さん。
 1944年、息子の隆次さんが太平洋の小さな島で戦死したと知らされました。
 その悲しみを家族にさえ、語ることはありませんでした。
 「お国のため」という大義名分で社会に出た女性たち。
 しかし、その大義のもとで、女性たちは次第に本音を言えなくなっていったと専門家は指摘します。
◆戦時下の女性の生き方を研究:滋賀県立大学京樂真帆子教授
「息子は亡くなって悲しいのは人間の母、それではだめなんだと。国の母として、息子が死んで国のために死んでよかったと思わなければいけない。」
 そして、迎えた終戦
 息子を失った西松さん。
 戦後もその悲しみを語ることなく、84歳で亡くなりました。
◆西松愛子さんの孫 西松豊さん
「やはりつらい思いをしたんだろうなと思う。(祖母は)仏壇に水とご飯と必ずあげていた。」
◆桑子
「子どもを亡くしたことに、涙も流せなくなってしまう。この異様な空気を知る女性は、私たちの取材に対して、『手遅れになる前に、おかしいと思ったことはおかしいと言うことが大切だ』と語ってくださいました。その言葉、教訓として受けとめないといけない、と感じます。」

*1:淑徳大学教授。著書『日本古代の王権と山野河海』(2009年、吉川弘文館)、『古代王権と出雲』(2014年、同成社

*2:東京大学名誉教授。個人ブログ保立道久の研究雑記。著書『黄金国家:東アジアと平安日本』(2004年、青木書店)、『歴史学をみつめ直す:封建制概念の放棄』(2004年、校倉書房)、『義経の登場』(2004年、NHKブックス)、『かぐや姫と王権神話』(2010年、洋泉社歴史新書y)、『歴史のなかの大地動乱:奈良・平安の地震天皇』(2012年、岩波新書)、『物語の中世:神話・説話・民話の歴史学』(2013年、講談社学術文庫)など

*3:著書『平安宮廷の儀式と天皇』(2016年、同成社)、『清和天皇』(2020年、吉川弘文館

*4:1907~1997年。東京大学名誉教授。著書『武士の登場』(中公文庫)など

*5:北海道大学名誉教授。著書『中世の天皇観』(2003年、山川出版社日本史リブレット)、『日本中世の朝廷・幕府体制』(2007年、吉川弘文館)、『頼朝がひらいた中世:鎌倉幕府はこうして誕生した』(2013年、ちくま学芸文庫)、『古代政治史における天皇制の論理〈増訂版〉』(2014年、吉川弘文館)など

*6:天皇に奏上する文書や、天皇が裁可する文書を天皇よりも先に見ることができる役職。

*7:1932~2014年。文化庁文化財保護部主任文化財調査官、美術工芸課長、文化財監査官など歴任。奈良国立博物館名誉館長。著書『古典籍が語る書物の文化史』(2004年、八木書店)、『小野道風』(2013年、吉川弘文館人物叢書)、『貴重典籍・聖教の研究』(2013年、吉川弘文館)(ウィキペディア「山本信吉」参照)

*8:聖心女子大学教授。著書『受領と地方社会』(2004年、山川出版社日本史リブレット)、『天皇と摂政・関白』(2018年、講談社学術文庫)、『日本古代の官司と政務』(2018年、吉川弘文館

*9:現在の福島県宮城県岩手県青森県

*10:現在の長崎県壱岐

*11:現在の長崎県対馬

*12:現在の兵庫県淡路島

*13:現在の福井県

*14:東京学芸大学教授。著書『源氏物語の喩と王権』(1992年、有精堂出版)、『性と文化の源氏物語』(1998年、筑摩書房)、『源氏物語時空論』(2005年、東京大学出版会)、『源氏物語と東アジア世界』(2007年、NHKブックス)、『王朝文学と服飾・容飾』(編著、2010年、竹林舎)、『古代文学の時空』(編著、2013年、翰林書房)、『唐物の文化史:舶来品からみた日本』(2014年、岩波新書)、『光源氏が愛した王朝ブランド品』(2016年、角川選書)、『源氏物語越境論』(2018年、岩波書店)、『アクティブ・ラーニング時代の古典教育:小・中・高・大の授業づくり』(編著、2018年、東京学芸大学出版会)

*15:1870~1910年。1890年に第四高等中学校(四高、石川県金沢市)を卒業。四高での同窓生に哲学者・西田幾多郎(1870~1945年、京都大学名誉教授)、仏教学者・鈴木大拙(鈴木貞太郎、1870~1966年、大谷大学名誉教授)がおり、藤岡とあわせて「加賀の三太郎」と称される。1900年、東京帝国大学助教授に就任(ウィキペディア藤岡作太郎』参照)。

*16:関西大学教授。著書『日本古代儀礼成立史の研究』(1997年、塙書房)、『日本古代の王宮と儀礼』(2008年、塙書房)、『日本古代の年中行事書と新史料』(2012年、吉川弘文館)、『桓武天皇』(2013年、山川出版社日本史リブレット人)、『飛鳥・藤原と古代王権』(2014年、同成社)、『早良親王』(2019年、吉川弘文館人物叢書)、『空海弘仁皇帝の時代』(2020年、塙書房)など

*17:元号+文化」と言う呼び方は既に「天平文化」「元禄文化」などがあります。

*18:2016年、角川選書

*19:著書『奈良平安期の日本とアジア』(2003年、吉川弘文館)、『日宋貿易と「硫黄の道」』(2009年、山川出版社日本史リブレット)

*20:関東学院大学准教授。著書『東アジア交流史のなかの遣唐使』(2013年、汲古書院)、『日本古代君主号の研究』(2015年、八木書店)、『倭の五王:王位継承と五世紀の東アジア』(2018年、中公新書

*21:東京大学名誉教授。著書『日本古代の宮都と木簡』(1997年、吉川弘文館)、『古代の遺跡と文字資料』(1999年、名著刊行会)、『出土史料の古代史』(2002年、東京大学出版会)、『古代の地方官衙と社会』(2007年、山川出版社日本史リブレット)など

*22:2018年、ちくま新書

*23:国際日本文化研究センター准教授。著書『東アジア海域と日中交流:九~一四世紀』(2007年、吉川弘文館)、『僧侶と海商たちの東シナ海』(2010年、講談社選書メチエ

*24:2018年、文春新書

*25:国士舘大学教授。著書『平安初期の王権と官僚制』(2000年、吉川弘文館

*26:東京大学名誉教授。著書『吉備大臣入唐絵巻の謎』(2005年、小学館)、『絵画史料で歴史を読む(増補)』(2007年、ちくま学芸文庫)、『江戸図屏風の謎を解く』(2010年、角川選書)、『源頼朝の真像』(2011年、角川選書)、『国宝神護寺三像とは何か』(2012年、角川選書)、『豊国祭礼図を読む』(2013年、角川選書)、『江戸名所図屏風を読む』(2014年、角川選書)、『洛中洛外図・舟木本を読む』(2015年、角川選書)、『岩佐又兵衛松平忠直パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎』(2017年、岩波現代全書)、『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く』(2020年、角川選書)など

*27:著書『日本書紀の真実:紀年論を解く』(2003年、講談社選書メチエ)、『「記紀」はいかにして成立したか:「天」の史書と「地」の史書』(2004年、講談社選書メチエ)など

*28:茨城大学助教授、滋賀県立大学教授を経て滋賀県立大学教授。著書『平安京都市社会史の研究』(2008年、塙書房)、『英雄になった母親戦士:ベトナム戦争と戦後顕彰』(2014年、有志舎)、『牛車で行こう!:平安貴族と乗り物文化』(2017年、吉川弘文館

*29:茨城大学教授。著書『ベトナム現代史のなかの諸民族』(1982年、朝日新聞社)、『戦争拡大の構図:日本軍の「仏印進駐」』(1986年、青木書店)、『私たちの中のアジアの戦争:仏領インドシナの「日本人」』(1986年、朝日選書)、『ベトナム戦争と日本』(1988年、岩波ブックレット)、『ベトナムの日本軍:キムソン村襲撃事件』(1993年、岩波ブックレット)、『ベトナム戦争:民衆にとっての戦場』(1999年、吉川弘文館)、『同時代史としてのベトナム戦争』(2010年、有志舎)

*30:茨城大学教授。著書『ハノイの路地のエスノグラフィー: 関わりながら識る異文化の生活世界』(2001年、ナカニシヤ出版)、『ベトナム 不思議な魅力の人々:アジアの心理学者、アジアの人々と出会い語らう』(2004年、北大路書房

*31:これについては『老子』の原文・読み下し・現代語訳を公開することにしました。: 保立道久の研究雑記参照

*32:広島大学教授。著書『武士の成長と院政』(2009年、講談社学術文庫)、『物語の舞台を歩く・純友追討記』(2011年、山川出版社

*33:著書『荘園制成立と王朝国家』(1985年、塙書房)、『王朝国家国政史の研究』(1987年、吉川弘文館)、『藤原頼通の時代:摂関政治から院政へ』(1991年、平凡社選書)など

*34:東京大学教授。著書『律令国家支配構造の研究』(1993年、岩波書店)、『古代の天皇制』(1999年、岩波書店)、『日唐律令制の財政構造』(2006年、岩波書店)、『道長と宮廷社会』(2009年、講談社学術文庫)、『律令制とはなにか』(2013年、山川出版社日本史リブレット)、『律令国家と隋唐文明』(2020年、岩波新書)など

*35:著書『平安時代の税財政構造と受領』(2013年、校倉書房

*36:京都大学教授。著書『日本中世社会の形成と王権』(2010年、名古屋大学出版会)

*37:甲南大学教授。著書『日本中世の黎明』(2010年、京都大学学術出版会)

*38:愛媛大学教授。著書『受領制の研究』(2004年、塙書房)、『平安時代の地方軍制と天慶の乱』(2017年、塙書房

*39:京都大学教授。著書『律令官僚制の研究』(1998年、塙書房)、『飛鳥の都』(2011年、岩波新書)、『聖武天皇と仏都平城京』(2018年、講談社学術文庫)など

*40:1929~1991年。神戸大学名誉教授。著書『初期中世社会史の研究』(1991年、東京大学出版会)、『日本中世の民衆と領主』(1994年、校倉書房)、『中世の神仏と古道』(1995年、吉川弘文館)など

*41:1967年、岩波書店

*42:「正税調庸の未進累積(国税の未納累積)」のこと

*43:東京学芸大学名誉教授。著書『日本古代・中世畠作史の研究』(1992年、校倉書房)、『ハタケと日本人』(1996年、中公新書)、『「国風文化」の時代』(1997年、青木書店)、『日本初期中世社会の研究』(2006年、校倉書房)、『初期鎌倉政権の政治史』(2011年、同成社中世史選書)、『戦後日本中世史研究と向き合う』(2012年、青木書店)、『日本中世百姓成立史論』(2014年、吉川弘文館)、『頼朝と街道:鎌倉政権の東国支配』(2016年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『平将門の乱を読み解く』(2019年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*44:『良い国司』の意味

*45:1904~1997年。中国共産党副主席、人民解放軍総参謀長、第一副首相、中国共産党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席、中国共産党中央顧問委員会主任など歴任。中国革命第一世代の長老の一人。

*46:1905~1995年。中国共産党副主席、第一副首相、中国共産党中央規律検査委員会第一書記、中国共産党中央顧問委員会主任など歴任。中国革命第一世代の長老の一人。

*47:米国モンタナ州立大学准教授。著書『海を渡る「慰安婦」問題:右派の「歴史戦」を問う』(共著、2016年、岩波書店)、『ネット右翼とは何か』(共著、2019年、青弓社ライブラリー)

*48:東京大空襲・戦災資料センター学芸員

*49:国防婦人会については例えば戦争支えた“国防婦人会” 母は…妻は… 女たちの戦争 - 特集ダイジェスト - ニュースウオッチ9 - NHK参照

*50:つまりは書店で市販してないと言うことです。