高世仁に突っ込む(2020年4/20日分)

『ロマノフの消えた金塊』を読む2 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 高世仁に突っ込む(2020年4/18日分) - bogus-simotukareのブログで取り上げた『ロマノフの消えた金塊』を読む - 高世仁の「諸悪莫作」日記の続きです。

 韓国の徹底した「検査と隔離」方式が成果を収めている。
 きょう、韓国では新たな陽性者が8人だったとの報道。これはすごい。
 日本では、2月ごろ、韓国のドライブスルーのPCR検査を冷笑し、検査を絞る日本式でいいんだと主張した「識者*1」が何人もテレビで発言していたが、「勝負あった」という感じだ。
 ドライブスルー検査はすぐにドイツなどが真似し、いまや日本でも導入する機運になっている。陽性者のうち「感染経路不明」が日本では7割にも上るのに対して、徹底した検査をやってきた韓国はわずか3%以下だという。

 全く同感ですね。結局、韓国と違いドライブスルー検査を「やる気がない」or「やる能力がない」だけの話を詭弁で居直っていただけの話でしょう。
 当然ながら「ドライブスルー検査をやる能力がない」のであれば「やりたくても、残念ながらやれません」がそれは「やる能力がないので別の手法をとる、ご容赦願いたい」と説明すべき話であって「やらない方がむしろいい」などと詭弁はいて強弁していい話ではない。

 また、コロナ感染が疑われる人は、通常の病院とは別の選別診療所(日本でいう発熱外来)で対応することを、韓国は早くも1月末に始めていた。
 軽症者を病院とは別施設(生活治療センター)に収容する方式も、いま日本が取り入れて、ホテルなどを押さえ始めている。
 先日の韓国総選挙で、文大統領の与党が圧勝したのは、このコロナ対策が国民の信頼を得たから*2だった。
 非常時に誰がリーダーか。これは大きい。

 文大統領の韓国が実にうらやましい。

 さて、上杉一紀『ロマノフの消えた金塊』。
 浦潮(うらじお*3)派遣軍第2代*4司令官の大井成元(おおい・しげもと)*5中将が、第12師団長時代、麾下の部隊がパルチザン赤軍)に包囲され全滅する事態*6が起きた。パルチザンの動きが皆目分からなかったことが原因とみた大井は、在留邦人女性の出上キクを訪ねた。
 出上キクは長くシベリア各地を歩き、中・露・朝の言葉に通じ、地元で大姉御として知られていた。いわゆる「からゆきさん」上がりだが、大井はそんなことにはお構いなく頭を下げて軍への情報提供を頼んだ。
 以来、キクは自ら馬賊を率い、荒木貞夫*7大佐(皇道派のカリスマで後に陸軍大臣になる)が支援する特務機関に連なり、伝説の「シベリアお菊」となったという。
 また、彼女と並び称された「満州お菊」という怪女もいた。
 本名を山本菊子といい、やはり天草出身の「からゆきさん」として大陸を転々とした女性だ。
 馬賊の孫花亭(張作霖の兄弟または義兄弟だったと伝えられる)が経営するブラゴヴェシチェンスクの酒場「オーロン亭」のマダムに収まった彼女は、キク同様、第12師団のために敵情を深く探ったという。
 先の二人の「お菊」の生き方を知ったうえで、いわゆる「従軍慰安婦」問題に目を向けたとき、これまでの議論とは違ったものが見えてくるのではないか。

 「高世もいつもながらアホなこと言うな(呆)」「『これまでの議論とは違ったもの』って具体的に何だよ?。そもそもお前が理解してる『これまでの議論』って何だよ、高世。まさか慰安婦は必ずしも悲惨じゃなかったと言い出さないだろうな?」「河野談話否定派の救う会右翼(荒木和博、島田洋一西岡力など)とつきあってるとそうなるのか?」ですね。
 慰安婦にそんな女傑がいるというならまず高世は名前を挙げてみろ、つう話ですね。
 かつそんな女傑が仮に慰安婦の中にいようがそんなもんは少数派でしょうし、「慰安婦の違法性、不当性」が否定されるわけでもない。
 大体、「からゆきさん」だってそんな女傑は少数派でしょうよ。
 安倍のような「河野談話を内心では否定したがってるクズ」が首相の今、日本人がしなければいけないことは「慰安婦は違法な人権侵害だった」ということに思いをいたし「安倍のような歴史修正主義の輩を厳しく批判すること」です。
 大体そんなこと言うなら横田めぐみさんだって「娘(ウンギョンさん)を産んだこと」には「これが私の娘なんだ、娘が生まれて良かった」という彼女なりの喜びがあったかもしれない。でもそれは「拉致が犯罪行為だ」と言うことを否定しないわけです。

*1:出来れば「誰なのか」、名前を高世には具体的に挙げて欲しいところです。

*2:勿論それだけが理由ではないですが、大きな理由ではあるでしょう。

*3:ウラジオストックのこと

*4:ウィキペディア浦塩派遣軍』によれば初代司令官は青島守備軍司令官、陸軍教育総監などを歴任した大谷喜久蔵(1856~1923年)

*5:1863~1951年。第12師団長(後に浦塩派遣軍司令官)としてシベリア出兵に従軍(ウィキペディア『大井成元』参照)。

*6:第12師団歩兵第72連隊第3大隊が全滅させられた「ユフタの戦い」のことか?

*7:1877~1966年。ハルピン特務機関機関員、浦塩派遣軍参謀としてシベリア出兵に従軍。犬養内閣陸軍大臣、第1次近衛、平沼内閣文相など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放(ウィキペディア荒木貞夫』参照)